2011年 12月 26日

北京郊外村のシュールな異界(中国インディペンデント映画祭2011 その2)

12月4日は、徐童監督の『占い師(算命)』(2010年)を観ました。前回(『冬に生まれて(二冬)』は農村が舞台でしたが、今回は北京近郊の移民労働者の住む街(郊外村)で撮られたドキュメンタリー作品です。

Youku『占い師(算命)』

足に障害のある50代の貧しい占い師と知的障害者の妻が主人公。登場人物は自分の身の上を占ってもらうため彼を訪ねてくる売春婦や元炭鉱夫たち。社会の底辺を生きるキャラクターが勢揃いです。
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フィクションではないため、そんなに観客に都合よくドラマが展開するはずもなく、それぞれの登場人物ごとに章を分け、監督はカメラを執拗に回していく構成です。最初はかなりトウのたった30代の売春婦の話です。彼女は占い師から男運の悪さを指摘されながら、カメラの前で若い頃の思い出を語り、今日の落ちぶれた姿を嘆き、ときにあられもなく泣きじゃくるのですが、ある日しつこい男客を店の前で殴り倒し、警察に拘留されてしまいます。その後、売春取締りで店をつぶされるという災難続きで、ついに行方知れずとなってしまいます。

次の章では、占い師は妻の故郷に夫婦ふたりで里帰りします。実家では彼女の兄弟たちに歓待されるものの、知的障害を負った彼女が人生の大半を過ごした場所が家畜小屋だったことを観客は知らされます。家族は彼女を決して家屋には住まわせなかったというのです。食事も残飯同然でした。

占い師はそれを承知で嫁にもらうことに決めたそうです。カメラがかつて彼女が寝起きしていた小屋を映すと、一頭のヤギがぬっと現われ、憎らしげにこちらをにらんでいました。

最後の章で、ふたりは縁日に占いの店を出します。粗末な机をひとつ置いただけの露店の占い師の隣には、妻がイスに腰掛け、物乞いをしています。障害者であることが記された肩掛けをした彼女は、日がな夫とともに客が来るのを待っています。普段は哀れな老婆にしか見えない彼女が童女のようにふりまく純真な笑顔に、観客は思わず見とれてしまいます。結局、冷やかし客がほとんどで、たいした売上がないまま看板をたたみ、ふたりが引き上げていくシーンで映像は終わります。

障害を負った男が知的障害のある女を妻にするという設定は、映画『歌舞伎町の案内人』で知られる上海出身の張加貝監督が2007年に撮った『さくらんぼ 母ときた道(桜桃)』でも採用されていたように、中国ではわりと普通の感覚のようです。障害者同士の婚姻は、自分に見合った相手を伴侶とするもんだという、人としての常識の範疇に属するという理解でしょうか。この国では「人としてみな等しく」といった障害者福祉の観念が大半の国民に及んでいない以上、無理もない話かもしれませんが、逆にいえば、身障者であっても結婚を諦めることはないという意味で、ポジティブな生き方ができるともいえるでしょう。

それにしても、北京中心部からそれほど離れていない場所に、こんなシュールとでも呼ぶほかない生活が普通にあることに、あらためて中国のリアルを思い知らされます。

中国では社会福祉に頼ることはできないという現実だけでなく、公安による無慈悲な処遇(中国では占いは非合法。ゆえにガサ入れも入る)も受け入れなければならない。一般に中国政府や中国を研究する人たちは、はっきり言いたがらないように見えますが、郊外村はアジアの大都市ならたいていどこにでもあるスラムと呼んでいい場所だと思います。

前回観た中国の農村と比べると、大都市周辺に広がる郊外村の生活は、高層ビル街が身近な場所に見えているぶん、いっそうみじめさを感じてしまいます。しかし、それはぼくが日本人だからそう感じるのであって、中国の人たちからすれば、特別なことではないのかもしれません。いまの中国、高層ビル街ではなく、郊外村で生きる人たちのほうが多数派であることも事実でしょう。

何より『占い師(算命)』を観ながら驚くのは、撮影者と被写体の近さです。これは戦前期、南満洲鉄道株式会社によって建設され、新中国後、共産党に引き継がれた瀋陽の重工業地帯の労働者たちの日常を撮り続け、中国社会主義の終末の光景を記録した記念碑的作品『鉄西区』(2003年 王兵監督)と同様、中国のドキュメンタリーの手法上の大きな特徴といえそうです。

なぜこの人たちは他者に撮られることをここまで許したのか? 

それが可能であったのは、第一に彼らが底辺の人間だったからといえるのでしょうが、たとえ境遇は恵まれていなくても、彼らは自分が取るに足りない人間というようにはどうやら思っていない。どこまで当人が言語化できているかはともかく、自らが誇り高き中華民族の老百姓の代表なんだという自負があるように見えます。そこがとても中国人らしい。それは自分の人生すら壮大な歴史の一部なのだと納得することで自らの境遇を受け入れていく諦念と裏腹の自己認識とでもいえばいいのか。

このドキュメンタリー作品の題材は、あまりに地味で、どうしようもなく救いようのない中国の現実をさらしていますが、その映像につきあうことで初めて見えてくることがあります。いまの日本人にとってはおよそ遠い世界の出来事だけに、今日の中国がなぜかくあるのか、その秘密が開陳されているようにも思います。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-26 17:52 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)


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