2011年 11月 17日

中国人のアニメ受容をどう考えるか(国際マンガサミット北京大会2011報告 その7)

ここで少し視点を変えたいと思います。これまで見てきた中国の若い世代の日本のマンガやアニメの受容の意味を我々はどう考えたらいいのでしょうか。

1990年代に始まった中国の国営テレビにおける日本アニメの放映は、ディズニーランドもおしゃれなショッピングモールもない当時の中国において、また勉強漬けの日々の中で、ほとんど唯一の娯楽であり息抜きだったことは、多くの「80后」世代の人たちが語るところです。

なぜ日本の学園アニメでは、中高生がろくに勉強もしないで部活やサークル活動、アルバイトに明け暮れ、恋愛やおしゃれに夢中になっているのか、ウソみたいな、うらやましいような夢見事の物語として受けとめられていたようです。あるエリート大学出身の「80后」の青年が、自分は中高生や大学時代に日本人みたいに“青春”できなかったことが残念だったけど、20代後半になってやっと“青春”できるようになった、と話してくれたことがあります。ここでいう“青春”とは、おそらく日本のアニメに描かれるような恋愛や趣味に打ち込むことを指していると思われます。そんなことに引け目を感じていたのかと、ぼくはなんと返答すればいいのか戸惑いましたが、「いま“青春”できてるんだったら、それでいいじゃない」と答えたことを思い出します。

そんな彼らが成長していく過程で、90年代半ばに大量の海賊版のマンガやビデオが中国全土に流通し、大学に入る2000年前後にはインターネットも普及したことで、最初は台湾経由で、そして徐々に直接日本のマンガやアニメをリアルタイムに視聴していく環境ができ上がります。彼らはこうして子供の頃から日本のアニメ文化を受容する素地を身につけていたのでした。

2000年代に入ると、日中のアニメ受容のタイムラグはほとんどなくなっていました。中国以外の東アジアの国・地域ではさらにその状況が先んじて進行しており、都市部の若者の消費生活と文化面でのある種の共通性が全域にわたって見られるようになっていました。

こうした東アジアの若者の共通性が何を意味するのかについて検討するシンポジウム「新世紀東アジア諸都市のサブカルチャーと若者-ライトノベル、マンガ、村上春樹」が東日本大震災直後の2011年3月16日、17日、早稲田大学で開かれています。
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日本と同様中国でもライトノベル(軽小説)は人気

シンポジウムの主催者である千野拓政早稲田大学文学部教授は、基調講演の中で次のように語っています。

「東アジア都市部に住む若者の消費生活と文化生活における共通点が増加している。たとえば、今回のシンポジウムで扱う文学やマンガ、アニメ、ゲームなどサブカルチャーへの関心や同人活動の流行。村上春樹の『1Q84』の東アジア全域でのベストセラー化。純文学からライトノベル(中国では“青春小説”“校園小説”という)に広げると、谷川流の『涼宮ハルヒ』シリーズの新作は日本、韓国、台湾で同時発売(中国でも2011年正規版が発売)されている。

これは何を意味するのか。私の分析によると、東アジアの若者が文学テクストを読むスタイルが変わりつつある。作品の思想よりキャラクターを鑑賞する読み方。キャラクターを享受し、コスプレや二次創作を通じて仲間と交流し、自分の居場所を見つけること。背景には、若者の社会に対する虚無や閉塞感が影を落としているのではないか」。

上記はあくまで講演の超簡約であり、千野先生の論述はもっと精緻で具体的なものです。東アジアの社会において近年、若者の置かれた状況の共通性とは何かをめぐって議論を展開しています。

シンポジウムでは、中国(北京、上海)、香港、台湾、シンガポールなど、東アジアの中華圏の若手研究者らが集まり、日本のサブカルチャー受容の実態を報告しています(詳しくは後日時間をみつけて整理したいと思います)。

それらの報告を聞いていてぼくが思ったのは、東アジアに住む彼らが日本のサブカルチャーを愛好し、大きな影響を受けていることは確かだとしても、一方でどこまで彼らが文化の共通性を認識しているのか、検討の余地があるのではないかということでした。上海から来た報告者は、いかにも日本風のグラフィックデザインで装丁された中国のカルチャー誌に日本紀行を寄稿するような若い人気女性エッセイストでしたが、話の中に何度も「文化侵略」ということばが出てくるのです。つまり、彼女の中に日本のサブカルチャー受容一辺倒の現状を抗う心理があるように思います。

うまく言いにくいのですが、共通性に着目しようとする立場は、先行モデルはまず日本にあり、それが東アジアに伝播しているという、現段階では否定しにくい現状をひとまず肯定しなければならない面があります。しかし、東アジアの若い世代はそのような雁行発展スタイルとして必ずしも認識していないのではないか、とぼくは思うわけです。彼らは「文化は高いところから低いところに流れる」式の発想を受け入れ難いものとしてとらえる人たちだと思うからです。もともとぼくは東アジアの文化の共通性より多様性のほうが面白いと思うし、むしろ日本から見た彼らの異質性が気になります。

話を中国のアニメファンの若者に戻すと、先ほどの日本人と同じように“青春”できなかったと引け目に感じる青年のようなナイーブさを持つ反面、以前このカテゴリで書いたように、彼らが学んだ「愛国主義教育」の効果てきめんというべきか、ある局面(いわゆる歴史認識や領土問題など)においては、断固たる強面という二面性を併せ持つのも「80后」の特徴です。

アニメフェアに一緒に行った劉楊さんも、普段は礼儀正しく愛嬌のあるお嬢さんですが、尖閣諸島沖漁船衝突事件直後の頃は、ぼくが中国と台湾を区別して語る言葉じりに噛みついてきたりします。「台湾は中国の一部ですから、区別してはいけません」と彼女は言うのです。「う~ん、でもね、ぼくは台湾にも友達がいるけど、彼らの前で台湾は中国の一部だなんて言ったら怒られちゃうよ。少なくとも、台湾の人たちはそう思っていないことを、中国の人たちもちゃんと理解してあげないとね」と、やんわり説明すると、怪訝な表情をしながら、黙り込むのです。

当時、中国では確か人民日報紙上に日本の海上保安庁の船舶が中国の漁船に体当たりしたという架空のイラストを掲載し、国内外に向けたプロパガンダに邁進していた頃でしたから、つい彼女も日本人であるぼくにモノ申したくなったのでしょう。彼女は「何の力もない漁船の船長を国家権力が苛めるなんてひどすぎる」なんてことを言ってました。

ところで、かつてこうした政治的な話題は日中間では極力荒立てないことにしようというコンセンサスが機能していた時期があったと思います。1989年の天安門事件後、国際社会で孤立する中国との関係改善を最初に進めたのが日本であり、おそらくこの頃(90年前後)の数年間がいちばん中国の対日感情もバランスが取れていたのではないでしょうか。

そのことと直接関係があったかどうかわかりませんが、大量の日本アニメの中国での放映が始まるのがこの時期です。当時、学校帰りの中国の子供たちが共働きの両親の帰宅を待ちながら、テレビの前に座る夕方の時間帯に放映できるような番組が自国になかったことが理由だったのでしょうが、日本の子供向けアニメにはハリウッド製アニメのような政治的なメッセージは含まれていないから問題ないだろう、というのが中国当局の認識だったと思われます。

中国現代アートの祭典のひとつ、第1回上海ビエンナーレ(2000年)の開催に協力した日本のアート関係者によると、1997年にそのプレイベントとして中国で初めて開かれた公式の現代アート展で最初に招聘されたのは日本のアーティストの作品だったといいます。一般に欧米の現代アートにはさまざまな政治的なメッセージが含まれることが多いですが、日本の文化芸術は政治性が希薄だから、と中国関係者が話していたそうです。

ところが、それから10年後、大量に放映された日本アニメの自国の子供たちに対する浸透力に中国政府は驚き、慌てることになります。このあたりの事情については、遠藤誉筑波大学名誉教授の書いた『中国動漫新人類』(2007年 日経BP社)にあらかた書かれています。

中国における日本アニメの流入は、日本の娯楽文化には政治的な内容はないという当局の誤算から始まったといえると思います。というのも、何を隠そう(なんてもったいぶるのもなんですが)、日本のアニメには「戦後民主主義」的な思想が色濃く反映されているからです。「戦後民主主義」だなんて何をいまさら、と思うかもしれませんが、日本人にとっては空気のようなものだからそう感じるだけで、中国の国情からすれば、統治にとって有害な思想がずいぶん含まれていると(あえて誰も口にしないとしても)ある時期から気づく当局関係者がいてもおかしくないとぼくは思います。

端的な例をあげると、たとえば日本のアニメでは、小さくて弱い人間でも努力してみんなと力をあわせれば大きくて強い相手でも倒すことができる、というテーマが基本にあるじゃないですか。のびたくんという存在ですらそんなところがある。でも、こういうストーリーというのは中国のアニメではまずないそうですよ。そう指摘してくれたのは、前述のエリート青年です。彼は言います。「中国では強いものが強い、どう強いかが大事。そこが日本のアニメと違うところです」。

ところで、統治する側に立てば、弱い人間でも団結すれば強い相手に立ち向えるのだという想像力を民衆にむやみに喚起させたくないという事情がこの国にはあるのではないか。そういったら、発想の飛躍だと思いますか。日本人の感覚からすれば冗談かと思うかもしれませんが、それが中国という国でもあると思います。
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日本のどこかで見たようなキャラクターや「萌え」作品のあふれる自国のマンガ市場を苦々しく思う愛国的な当局者もいるはずです

もっとも、実際には、そんな思想的な警戒感というより、小泉政権との確執や教科書問題、靖国問題など、次々に繰り出される日中間の係争が引き起こす対日関係の悪化もあり、2004年以降、中国では一部を除き日本アニメのテレビ放映はほぼシャットアウトされます(といっても、ネット視聴によってそれも無意味化しているわけですが、2000年代以降に生まれた小学生くらいまでの児童への影響はかなり防ぐことができるかもしれません)。

中国政府が、唐突に自国の産業としてアニメ振興を打ち出したのも、その浸透力を自らの手中に取り戻したいからと考えたとしても不思議ではありません。これほど若者の心をつかむことのできる宣伝ツールは自国で運営管理したいと考えるのは、彼らの論理からすれば当然です。もっとストレートに別の言葉で言えば、彼らは中国の新しい世代をこれ以上“日本化”させたくないと考えているのです。
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こうしてみると、日本のアニメは中国政府からみれば鬼っ子みたいな存在といえるかもしれません。であればなおのこと、中国当局が日本のマンガやアニメの著作権をわざわざ守ってやろうという気がないのも無理はないかもしれません。

実は今回、マンガサミットの日本関係者から以下のコメントをもらっています。
「日本のアニメを通じて中国の若者に日本人の心を知ってもらえたらうれしい。学校教育では日本のおそろしさ、負の部分を強調しているので、文化交流がなければ中国の若者は日本を敵視続けるだろう」。

これは、近年の日本人の対中国観を概ね代表するものだと思います。確かに、日本側からいまの中国を見ている限り、そう主張したくなるのは当然だとぼくも思います。

しかし、日本のコンテンツ関係者は中国市場を考える際、自らの鬼っ子性(あくまで彼らにとってのという意味です)を自覚する必要があるように思います。その自覚がないと、彼らを理解できないでしょうし、ついには彼らだけが悪者に見えてしまうからです。
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by sanyo-kansatu | 2011-11-17 21:01 | アニメと「80后」の微妙な関係 | Comments(0)


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