2013年 02月 17日

中国の成長の代価を負わされた存在をめぐって(中国インディペンデント映画祭2011 その7)

2011年12月9日、武蔵野美術大学で開かれた徐童監督の『収穫(麦収)』の上映会の続き、質疑応答の時間です。

作品の上映後、徐童監督と映画祭の主催者である中山大樹さん、そしてひとりの中国女性がステージに登壇しました。

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左から徐童監督、中山大樹さん

最初に司会の女性から、監督がこの作品を撮るきっかけについての質問がありました。徐童監督は自分の経歴にも簡単に触れながら、主人公ホンミャオとの出会いとこの作品を撮るに至った経緯について、以下のように話しました。

「私は1987年に北京の大学を卒業し、その後、スチールカメラマンとしてテレビ局や雑誌社などで仕事をしていました。2000年頃から、中国の現代アートが世界的に注目されるようになり、私もアートの世界で評価されるようになりたいと考えていました。ところが、中国の現代アートはその後バブル状況に陥り、誰もが欧米で売れるような、たとえば毛沢東がらみの作品ばかりになった。そんな中国の現実から乖離した作品があふれるようになったので、私は大いに不満でした。

2007年、私はそんな思いを表現するため、小説を書きました。社会の下層の人々の生活や苦悩を書きたいと思ったのです。しかし、小説では十分書ききれなかったというか、書き足りないと感じました。そこで、ドキュメンタリーを撮ろうと考えました。ちょうどそんな頃、ホンミャオと偶然街で出会ったのです」

ホンミャオの「職場」は北京市の南はずれ、朝陽区高西店にある風俗床屋です。現在の北京市は、中心部をぐるりと取り囲むように、地下鉄沿線上に新興住宅地として開発された高層マンション群と、老朽化したまま放置されるスラムが混在して広がっています。こうして増殖していく都市空間の内部には、都市戸籍を持たない「外地人」が暮らすスラム=“都市の辺境”がエアポケットのようにまだらに存在しています。

2000年代に入り、猛烈な不動産投資ブームによる高層ビルの建設ラッシュで北京の相貌が大きく変わっていくなか、徐童監督は時代の変化と社会の矛盾に戸惑いを覚えながら、引き込まれるように“都市の辺境”に足をふみ入れることになったのではないかと想像します。徐童監督は1965年生まれ。ぼくとは同世代で、1980年代から今日に至る北京の変化を眺めてきたところもあり、彼の気持ちはわかる気がするのです。

ぼくは外国人ですから、北京では階層縦断的にさまざまな人たちとそれなりに交流できる特権を手にしています。ある日は外資系高層ホテルのハイソなバーに出入りするような小資(プチブル)たちとも会いますし、またある日は「農民工生活区」の住人たちとも一緒に食事をするというようなこともあります(中国は階層が断絶している社会ですから、両者の交流はまずありえないといっていいと思う。徐童監督のような奇特な人物を除くと)。

ぼくから見れば、プチブルの連中は、たいていの場合、中身は薄っぺらなくせに強欲で自尊心が肥大化していると感じることが多くてうんざりです。残念な人たちに見えます(文化人、読書人はまた別の話です)。それに比べれば、「農民工生活区」の人たちからのほうが学べることはずっと多い。彼らは、自分たちの生きる社会の矛盾や痛みについて、否が応でも思い知らされている人たちだからです。

徐童監督の作品はすべてそうですが、これら両者の深い階層断絶の裂け目から放擲され、置き去りにされた社会的弱者とされる人たちの人生に向き合おうとしているのだと思います。一見取るに足りないと思われがちな彼らの人生の深淵に目を開かせてくれたのが、都市と農村を往復する農民工のひとりであるホンミャオの存在だったのでしょう。だから、彼はこんなことを言うのです。

「初めて彼女に会ったとき、このような境遇にありながら、当時20歳の彼女に、なぜこんなに力があるのだろうか、と思いました」。

そう語る徐童監督は北京市民のひとりであり、ホンミャオとはもとより別世界の住人です。しかし、いまの中国で「外地人」に対して、彼のような視線を向けることのできる都市民はまだ少数派のように思います。

監督はこんなことも言います。

「私自身、フリーランサーでもあり、“都市をさまよう人間(盲流)”のひとりです。そういう意味では、ホンミャオと自分は境遇が似ていると思いました」

ここでいう“都市をさまよう人間(盲流)”とは、今回の映画祭の関連イベントでも上映された中国初のドキュメンタリー作品とされる『流浪北京 最後の夢想家たち』(1991)の世界につながる自己認識だと思われます。北京でアート表現に携わる人間の多くは、天安門事件当時の若い北京のアーチストたちの精神状況を描いたこの作品の登場人物と同様に、自らを“都市をさまよう人間(盲流)”とみなしているところがあるのでしょう。その意味で、少々カッコよすぎるとは思いますが、彼は自分の不安定な境遇を彼女と重ねているわけです。これもまあ理解はできます。

そして、この作品を撮るに至った理由について彼はこう説明します。

「中国における下層社会の住人は、この30年間の経済発展の代価を負わされている存在です。映像を通して代価を払わされている人たちの姿を記録することは重要な仕事だと考えています」

徐童監督に限らず、中国のドキュメンタリー作家たちが共通して語るこうした「公式見解」は、ちょっと優等生すぎて、「記録」するだけで本当に事足りるのか? 体制に日和見しているのではないか、と思わないではありません。下層の人たちの世界をいちばんよく知る彼らがそんな悠然とした態度であれば、社会は変わりようがないではないか、と思うからです。

しかし、そんな邪推も、彼らが作品化している舞台である北京周辺の郊外村やスラムを訪ねたり、「外地人」とつきあう機会が増えたりしていくうちに、ぼくにも少しずつ納得できるようになりました。それ以上のことを軽々と口にできるほど、中国は悠長な社会ではないからです。特権階層に限らず、この国の多くの知識階層も、中国はとても不安定な社会であることを自覚しているため、自分たちにはコントロール不能の社会変動につながりかねない「民主化」など、そんなに気安く口にすることはありません。そうした主張をする人たちもいるのは確かですが、それこそ「夢想家」と呼ばれかねないのではないでしょうか。

さて、『収穫(麦収)』という作品の最も驚嘆すべきところは、なぜこのような映像を撮ることが可能だったのか、でしょう。徐童監督はこんな風に説明します。

「ドキュメンタリーは真実そのものではない。つくられたものと考えるべきです。ただし、同時に現場にいて感じたことは真実といえる。私にとってカメラは決して冷たい機械ではありません。交流の道具なのです。私はホンミャオとその周辺にいる人たちすべてに対して、監督ではなく、友人のひとりとして付き合いました。そうした信頼関係があってこそ、撮影が可能となるのです」

当然のことですが、風俗嬢たちの日常を収めた長回しの映像の背後には常に徐童監督がいて、ビデオカメラを回し続けていたわけです。それが可能になる「信頼関係」というものは、日本のような国ではちょっと想像できないことで、もしかしたら中国においてもあと10年もすれば社会が成熟化して不可能になってしまうかもしれない、撮る側と撮られる側の間にある微妙で率直な関係性を唯一の成立条件としているように思えます。

こうした関係性による映像の成立条件に対する疑義が呈されたのが、香港「収穫(麦収)」事件です。2009年、この作品は日本をはじめ国内外のドキュメンタリー映画祭に出品されましたが、香港の映画祭会場において、性産業従事者のプライバシーを著しく侵害した作品として上映停止を求める運動が起こり、上映会場のスクリーンの前に横断幕が掲げられたといいます。

ここで問題となっているのは、このような映像が撮られたことではなく、上映することに対してで、同じ中華圏の香港やその後の台湾でも強い批判が起きたのです。日本をはじめ中華圏以外の国では所詮外国の話ということからか、作品の世界をどこかフィクションのように受け流すことができるのかもしれませんが、同じ中華圏で「民主化」を経た地域に暮らす人たちにとって、ホンミャオ個人の人権問題として物議を醸すことになったというのは興味深い話です。

要するに、「このような映像を撮られてしまった彼女の今後の人生にどんな悪い影響を与えることになるのか、監督は自覚しているのか。その場合、どう責任を取るのか」という主張です。これはこれでもっともな意見です。たいていの国では、こうした「人権意識」が常識としてあるゆえに、このような映像を撮ることがはばかられてしまうからです。

その件について徐童監督はこう語っています。

「私の作品を批判する社会運動家の人たちにも良心があることは私も理解しています。ただ登場人物の顔にモザイクをかけたからといって身元が割れないということでもありません。むしろ彼女らが風俗嬢ということで、決して社会の表に出ることのない存在として隠されるより、堂々と顔を出して生きるべきではないかと思うのです」

こうした「事件」を経て、『収穫(麦収)』はさすがに中国国内では上映しないこと。海外での上映は構わないけれど、すべて監督の了承を得たうえでなければならないという取り決めになったそうです。実際、この作品は中国のなんでもありの動画サイトでも観ることはできなくなっています。

おそらく徐童監督自身、撮影当時はもとより、上映にあたって「人権意識」が問われるようなことなど想定していなかったでしょう。香港の社会運動家が言うように、ホンミャオの将来への影響や責任など、考えてもみなかったに違いありません。そんなことまで自覚していたら、決して撮り続けることはできなくなったと思いますし、逆にそういう「人権意識」の持ち主が回すカメラであれば、ホンミャオの側も撮られることを拒絶したのではないか。そんな気がします。

風俗嬢とカメラマン、両者の間に取り交わされたある種の無頓着さからくる了解事項、そこにはお互いを対等に尊重する姿勢と関係性の相互承認があって、初めて『収穫(麦収)』の成立条件として機能したのだと思われますし、2000年代に入ってなお中国が「人権意識」の抜け落ちたような社会であることも、この奇跡的ともいえる記録映画の誕生に寄与することになったといえなくもありません。結果的に、オリンピック開催に象徴される中国の表向きの華やかさとは対極の世界を描いているようで、やはりこの作品にはどこか救いがあることも、2000年代という時代に撮られた作品らしい気がします。

こうした「事件」の複雑な経緯に触れたあと、徐童監督はこんなことを言っています。

「私とホンミャオはカメラを通してお互いの属する別世界を知ることになりました。このことが私たちにとっていちばん重要なことでした」

ちょっときれいごとすぎるもの言いに聞こえるかもしれませんが、徐童監督のホンミャオに対する終始一貫した態度によって、私たち観客も農民工という「別世界」を知ることになったのは確かです。この作品を通じて、都市で暮らす農民工たちが中国の成長の代価をいかに負わされているかという実相について、多くの知見を得ることができたのと同時に、彼らのしたたかさや強さを知ることができたのも、大きな収穫といえるでしょう。

ところで、この作品が撮られた3年後、ホンミャオは故郷で結婚し、娘が生まれたそうです。徐童監督は結婚式には顔を出さなかったそうですが、1000元の紅包(中国の祝い事の際、包むお金のこと)を彼女に送ったとのこと。中国人というのは、自分が出した金については、はっきり額を明かさないと気が済まないようですね(笑)。

最後に、この質疑応答中に起きたちょっとしたサプライズについて触れておきます。最初に監督と中山さんとひとりの中国女性が登壇したと書きましたが、この女性、なんと今回の映画祭の出品作『占い師(算命)』の登場人物のひとり、唐小雁さんだったのです。

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唐小雁さん

実は、『収穫(麦収)』の上映中、彼女はたまたまぼくの隣の席に座っていたのですが、独特の存在感のある女性でもありますし、そもそもどこかで見たことのある人だなとずっと気になっていたのです。それはそうでしょう。数日前にぼくは『占い師(算命)』を観ていたからです。撮影当時の彼女は、幸の薄そうな、これまた風俗嬢で、泣いたりわめいたり、警察につかまったりと(もちろんドキュメンタリーですから、事実です)、波乱万丈な人生を垣間見せてくれた当人です。その彼女が日本に来ているということにびっくりしました。このドキュメンタリー作品に出演したことで、彼女の人生は大きく変わったそうです。

半年後、北京で監督と唐小雁さんに再会することになるのですが、また後日報告します。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-17 16:52 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)


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