2013年 02月 28日

中国の大気汚染は政府頼みでは解決しないと思う

先日、北京の知人に「そちらの大気汚染、報道で見ると大変そうだけど、大丈夫?」と聞いたら、「大丈夫でしょ」とそっけなく答えます。原発事故による放射能汚染を心配して「東京は大丈夫?」と尋ねられたとき、私たちもそう答えるしかなかったように、彼らもそう答えるしかないのでしょう。

前回(「いくらお金があっても水と空気は買えない。さあ、どうする?」)、中国の大気汚染に関するニュースを時系列的に眺めてみましたが、汚染の「程度」をめぐる中国当局と海外メディアや米国大使館との論戦の中、国内からもついに告発が始まることで帰趨を決していくというプロセスは、10年前のSARSの頃にも起きた、いつか見た光景だったことがわかります。

ただし、一過性のSARSと違い、今回の大気汚染は中国の経済活動とリンクして起きていることです。こうした経済成長と国民の健康被害のバランスをめぐる葛藤は、新興国が必ず通過しなければならない道であり、おそらく同じようなことはかつての日本でも起きていたはずです。

中国の場合、気になるのは、この問題を主体的に解決しようとする存在が誰なのか、はっきり見えないことです。そんなの政府が何とかするさ、と多くの中国の人たちは考えるのかもしれませんが、本当にそうでしょうか?

今回ばかりは、政府頼みでは問題は解決しないのではないか、とぼくは思います。リーマンショックからの立ち直りの早さでその優位性をアピールした国家権威主義体制も、逆効果に働くのではという懸念があります。全国各地で起きている個別の公害問題について、それぞれの地元に住んでいる人間が自分たちの問題として話し合ったり、企業に対してルールづくりを起案したりという、自発的な住民「運動」を行使できないようなことでは、解決は難しいのではないでしょうか。

だからといって、中国には「民主化」が必要なのだ、などといきなり言い出すつもりはありません。そもそも中国という国にとって「民主化」とは何を指すのか? どこにも明確な定義はないし、大半の中国の人たちはこの件について思考停止させられています。

たとえば、南方周末が主張しようとした「憲政」(党よりも憲法が上位にある法治国家)を目指すべきだというのはそのとおりでしょうが、今回の一連の騒動をみてもわかるように、そもそも為政者の側にその気はまったくなさそうです。もちろん、党も一枚岩ではなく、さまざまな考えを持つ勢力があることは確かですが、大半の中国の人たちも、この先大きな社会変革が起こることで望まない結果になるよりは現状のままでいいと考えているだろうことは、彼らと普通につきあっていると感じることです。

中国では、社会を安定的に維持するための原理原則が我々とは異なるようです。たとえば、この国では国民各層に与えられた(あるいは勝ち取った)「権限」が、結果的に社会の安定維持の装置のように機能しています。各人が手にした「権限」は、相当に深刻な問題でもない限り、他人が口出しできないと考えられているようです。

本来は「権限」というものをいかに公平に運用し、広く公の利益のために使えるかが社会運営のキモなのだと我々は考えますが、この国の人たちは、トップのエリート官僚から末端のそれこそ公衆トイレ清掃人に至るまで、自分の「権限」を駆使して自らの利益をいかに確保するか。それを当然の権利として各々勝手に生き延びることまでは許容されてきたという面がありそうです。それなのに、自己を犠牲にして公のために運用しようだなんてまともなことを言い出したら自分は生きていけないと、エリートはともかく、末端に近い人たちほど息巻いてしまうのではないか。自分たちの生存のためにはそもそも「民主的」なルールづくりという原理自体がそぐわない。彼らは本音のところでは、そう考えているように見えます。

でも、それで本当にきれいな空気と水は取り戻せるのでしょうか?

そのためには、せめて比較的生活に恵まれ始めた都市住民がこの問題にどう向き合うかが問われていると思います。

ぼくはよく中国の留学生と話をする機会があるのですが、先日もこんな話をしました。

「ぼくは1970年代に小学生だった世代だけど、当時の社会科の教科書には、静岡県の田子の浦のヘドロの写真であるとか、日本が公害問題に直面していることが書かれていました。それは子供心にちょっとショックな写真だったので、いまでもよく覚えています。結果的に、ぼくが大人になる頃には問題はかなり解決されてきたのですが、子供のころに刷り込まれた環境危機意識によって、たとえば日々のゴミの分別などでも、当たり前のこととして身についています。では、いま中国の小学生が学ぶ教科書には公害問題について書かれているでしょうか? もし政府がそれを未だに隠したいと考えているのだとしたら、それは国民にとって何を意味すると思いますか?」

たいていの場合、この話をすると留学生は黙り込んでしまいます。なにもぼくは彼ら彼女らをいじめたくてこんなことを言っているのではありません。最近の中国の留学生は、こうした基本的な日本と中国の社会の成り立ちに関わる違いについて驚くほど鈍感です。たいていが都市部の出身なので、中国社会の格差の構造や農村の問題などについても無頓着です。彼らは社会不安につながりかねない問題を自分ごととして考える契機を最初から奪われているように見えます。こうしたことも中国の公害問題にとっては足かせになりそうです。

それはパトリ(郷土愛)の問題にも関係があります。地元を大切に想う気持ちというものを、中国の人たちはどう考えているのか、という問題です。

そりゃあ中国の人たちだって郷土愛くらいはあるでしょう。春節になると、あれだけの民族大移動が起きるのですから。ただし、それは郷土に対する想いというより、血縁のある親や親族との関係性が大事だからでしょう。彼らは基本的に地縁より血縁を重視する人たちだと思います。

そのこと自体によしあしはないのですが、これが公害問題となると、都合悪く働く可能性は考えられます。

確かに、最近では中国でも工場排気物などに対するデモが頻発していますが、それは自分たちの深刻な健康被害に直接関わってくるからで、やむにやまれず行動に出るのは当然のことです。ただしその結果、工場が別の場所に移転したとしても、国土を広く覆う「有毒」大気の問題は解決しないでしょう。「自分たちのため」にだけ行動するのでは十分ではなく、「誰かのため」にという意識がなければ期待した結果を生まないのです。その際の「誰かのため」が、もし血縁や友人の範囲にしか及ばないのであれば意味がない。自分の住む地域の人たちのためにという認識がないと状況は変わらないということです。要は、危機意識を誰とどのように共有するのか。ことは、広い意味での公の意識やそれぞれの地域における階層を越えた共生の問題をどう考えるかという段階に入っているのだと思います。

なぜなら、繰り返しますが、いくらお金があっても水と空気は買えないし、人の住めない土地になったら元も子もない、からです。

今後中国政府はこの問題をどう解決を図るのでしょうか。いま実施されているのは、強制的に一部の工場を閉鎖したり、自動車の走行規制をしたりといった上からの対策のようですが、実際のところ、もっと本質的な意味での国民の協力なくして、解決は難しいはずです。

国民の協力を得るためには、これまで政府が地域分裂や独立につながる懸念があるとして許してこなかった住民の自発参加型のグループづくりや活動の自由を広げるべきでしょう。またそこにはグループのリーダーにふさわしい人材、たとえば中国の環境NPOなどで地道に活動してきた人たちに「権限」を与えることが必要ではないでしょうか。

中国の大気汚染はいまや国民運動でも起こさない限り、解決は難しいと思います。しかし、それはナショナリズムに煽られた「動員」によるものではなく、郷土愛に基づく「運動」として進めないと実質的な効果は生まれないと思います。

その進め方は、日本や欧米のいうような「民主的」なプロセスでなくても構わない。自分たちが不得手なやり方ではなく、やりやすいやり方でいい。なにしろ公害問題の解決という目的は誰にもわかりやすく、目標も明確なのですから。

そんなことがいまの中国でできるのか。留学生など、若い中国の人たちにはまじめに考えてほしいものだと思います。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-28 16:01 | のんしゃらん中国論 | Comments(0)


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