ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2013年 03月 04日

ウラジオストクの旧日本人街(モルグン・ゾーヤ先生講演会)

2012年4月13日、経堂にある日本ウラジオストク協会でウラジオストクの極東連邦大学で日本語を教えていらっしゃるモルグン・ゾーヤ先生のお話を聞く会がありました。6月に取材でウラジオストクに行くことを計画していたので、現地の最新事情やこの都市の日本との歴史的な関係について知るいい機会となりました。以下、モルグン先生のお話を収録した一部を紹介します。


ウラジオストクは1860年代にできた街です。当時は小さな村でしたが、ロシア海軍が港湾施設を造り、1875年に市制がしかれました。

最初にウラジオストクに来た日本人は1860年代に長崎から来た人たちです。大工(土木請負業者)やからゆきさんが多かったです。当時、ウラジオストクには建築が足りなかったし、ロシア女性も少なかったからです。からゆきさんと一緒に洋品店や理髪師も来ました。

1876年、日本貿易事務館が開設されました。そのとき日本の領事はロシアの軍艦に乗って来ました。1880年代に入ると、日本人の数は増え、約400名と記録に残っています。

1890年代に入ると、都市のインフラが飛躍的に発展します(91年にシベリア鉄道の沿海州地域が着工、93年に完成。モスクワとつながる)。街には日用品や装飾品などの商店が増えましたが、ウラジオストクは物不足のため、日本から多くの商店経営者が渡ってきました。日露戦争前の1903年には、3000人以上の日本人がいました。

※日本との航路は、幕末から長崎、函館などにロシア船の入港があったが、明治政府になってから長崎港を拠点として、極東ロシア、中国、朝鮮への航路が整備された。しかし定期航路が開かれたのは比較的遅い。ロシア義勇隊艦隊が1877年にオデッサから長崎経由でウラジオストクへの定期航路を開設したが、便数が少なく、神戸~ウラジオストク間は1899年(日本郵船)、ウラジオストクへの最短距離である敦賀からは1902年(大家汽船)に開通した。(『ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの』東洋書店 堀江満智著 より)

日露戦争開戦後、日本人の多くは帰国します。貿易事務館も閉鎖されました。しかし、1906年には多くの日本人が戻ってきました。その一部は中国のハルビンへ行きました。当時、ウラジオストクには杉浦商店や徳永商店などに加え、銭湯や写真館ができ、日本人が経営していました。09年頃には日本人経営の精米工場やミネラルウォーター工場などもありました。

1914年、第一次世界大戦が始まりましたが、日露は友好関係にあり、この時期も日本人が増えました。17年にロシア革命が起こり、18年に日本のシベリア出兵が始まると、日本の軍人相手に商売する日本人も増え、5000人を超えるほどになりました。

1922年、シベリア出兵が終わり、多くの日本人が帰国しました。

1930年代に入ると、満州事変が起こり、以後、ウラジオストクは軍事基地にすることがモスクワ政府により決定されました。外国人は、日本人に限らず、中国人、朝鮮人も退去を命じられました。日本総領事館も1936年5月16日閉鎖。最後にウラジオストクを離れた日本人は1937年に出国しました。

その後、日本人がウラジオストクに姿を見せたのは、1945年から53年頃まで、シベリア抑留者の労働キャンプが2つ置かれた時期です。彼らはスタジアムやビル建築、道路の改修工事の現場で働かされました。それから1992年までウラジオストクは対外的に閉じられた都市で、外国人は来ることができませんでした。

1992年に対外開放されて、93年に日本総領事館がナホトカからウラジオストクに移転し、開設されました。現在は、三菱商事や住友商事、三井物産などの商社やNHKの支局など、在留日本人の数は80名くらいです。まだ少ないですね。

以下、用意した写真をお見せしましょう。

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この建物はいま、沿海州地方の内務省です。アレウツカヤ通りにあります。シベリア出兵のときは、日本軍司令部でした。この絵には日本の国旗が見えますし、日本軍人が歩いています。その後、ニッツアというホテルになりました。1945年から47年頃にかけて、日本人シベリア抑留者の手で現在の姿に再建されました
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この絵は古い雑誌から見つけました。誰が画いたものか不明ですが、とても面白いですね。1920年頃の絵で、スヴェトランスカヤ通りかもしれません。イギリスやアメリカの軍人、日本の軍人もいます。日本の娘さんもいて、からゆきさんかもしれません。中国人が野菜を売っています(説明をしておられるのがモルグン・ゾーヤ先生)。
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この絵は1918年4月4日、シベリア出兵で、日本軍の兵士がウラジオストクに上陸しました。空には飛行機も飛んでいます。日本の子供たちは国旗を持って歓迎しました。
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当時の在住日本人たちの写真です。みんな洋装です。この中に堀江商店の堀江直造さんもいます。当時女性は和装でした。
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これは1923年のアレウツカヤ通りです。北に向かって撮られた写真です。角の建物は妹尾商店ですが、いまはこの建物はありません。バスのターミナルになっています。通りの左側の裏手にはミリオンカと呼ばれた中国人街がありました。お坊さんが歩く姿も見えます。
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この写真はウラジオストク在住のある日本人の家族です。奥さんとふたりの娘が写っていますが、そのひとりは1996年にウラジオストクに来ました。当時78歳でしたが、私が街を案内すると、彼女はそこに何があったのか、よく覚えていました。
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アレウツカヤ通りにあった日本の貿易会社です。現在はこの建物はありません
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1917年に日刊紙の「浦潮日報」を創刊した和泉良之助。東京外語ロシア語科出身。
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これは意味深い写真です。私と一緒に写っているのはどなたかわかりますか? 戸泉米子さんといいます。1921年にウラジオストクに来て、その後極東総合大学教育学部ロシア語科を卒業しました。とてもきれいなロシア語を話す方です。革命後、情勢が変わり、彼女はロシア人とのつきあいを絶つように迫られました。その後、ウラジオストクの本願寺の住職の戸泉憲龍氏の奥さんになられました。1936年に本願寺は閉鎖され、ご主人は逮捕されましたが、37年に戸泉さんは帰国しました。戸泉さんはのちに『リラの花と戦争』という本を書きました。3年前、福井県で逝去されたのですが、私が病床を訪ねたとき、彼女は私に「日本とウラジオストクをつなぐ仕事を引き継いでくださいね」と言いました。この写真は、浦潮本願寺跡の前で撮りました。
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ウラジオストクの講道館で柔道を学ぶロシア人たち
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ウラジオストクにある日本の陸軍病院の診察券


モルグン・ゾーヤ先生は、ウラジオストクの日本語の母とでもいうべき方で、この地の日本語人材の大半は先生から日本語を学んだ人たちであることをあとで知りました。ぼくがウラジオストクを訪ねた際、現地で街を案内してくれた若いロシア人の皆さんはみんなモルグン先生の教え子だったからです。

講演会が終わったあと、6月にウラジオストク渡航の計画をしていることを伝えたところ、モルグン先生は喜んで再会を約束してくださいました。ところが、ぼくがウラジオストクを訪ねる同じ時期、先生は韓国の病院で足の手術を受けることになり、残念ながら現地でお目にかかることはできませんでした。

先生はそのことをたいそう気にしてくださり、その件でわざわざお電話くださいました。そして、自分の代わりに先生の息子さんを紹介してくださり、彼のボートで金角湾をクルーズすることができました。その模様は「地球の歩き方 中国東北編」のグラビアで紹介しています。本当にお世話になりました。
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by sanyo-kansatu | 2013-03-04 08:34 | 日本に一番近いヨーロッパ 極東 | Comments(2)
Commented by やまちゃん at 2015-04-16 17:31 x
リンク張り替えておいてください。よろしくお願いします。
http://jpvlad.com
ゾーヤ教授の一月来日時の様子も写真あげてあります。
Commented by sanyo-kansatu at 2015-04-17 06:53
ご連絡ありがとうございました。新しいHP拝見しました。ゾーヤモルグン先生は今年1月に来日されていたのですね。もしそれを知っていたらごあいさつにうかがえたのに、残念でした。今後はチェックするようにします。リンクは張り替えておきました。


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