ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2013年 06月 09日

自分の故郷が永遠に失われたという感覚【昭和のフォルム 大連◆校舎③】

1980年代半ばから90年代にかけて、大連をはじめ中国東北三省への“望郷”ツアーが数多く催行されました。ツアー客の大半は、日本統治時代に現地に住んでいた満洲に縁のある人たちでした。
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ぼくもその頃、現地で何度かツアー客を見かけたことがあります。世代的には、大正から昭和初期にかけて生まれた年代が中心です。当時同じ職場だった人たちとその家族のグループが多かったですが、意外にいたのが、同じ小学校の同窓生のグループでした。

これまで大連に現存する旧制中学や高等女学校の校舎を紹介してきましたが、今回は小学校編です。以下、開校時期の早い順に挙げていきます。

まず、沙河口小学校(1911年9月開校、日本時代は霞町)です。現在は大連市47中学です。沙河口には満鉄の工場があったため、そこで働く満鉄の社員や労働者の子弟が多く通っていたと思われます。教室の窓枠が大きく、現代にも通じるいかにも小学校の校舎らしいデザインです。
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伏見台小学校(1918開校、日本時代は博文町)は元大連第一中学校の隣にあります。大連市の中心に位置する名門校だったことは、現在中国でエリートに特化した教育を実践している大連市実験小学として使われていることからもうかがえます。当時の写真も残っています。
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春日小学校(1920年開校、日本時代は西公園町)の校舎は、屋根の上の小さな塔が特徴的です。現在、大連市24中学です。当時の写真にもふたつの塔が見えます。
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聖徳小学校(1927年4月開校、日本時代は聖徳町)は現在東北路小学です。玄関正面に蔦が覆い、歴史を感じさせる校舎です。
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日出小学校(1937年開校、日本時代は日出町)は現在、大連の海軍学校(当時は大連実業学校)の敷地内にあります。1930年代後半に建てられただけあって、かなり現代風の校舎です。
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先週水曜日、奉天会という満洲国時代の奉天(現在の瀋陽)に縁のある皆さんの連絡組織で事務局を務めている澤田武彦さんのお話を聞く機会がありました。昭和6年生まれの澤田さんは、当時の奉天の鉄西区という工業地帯にあった鉄西小学校出身でした。

澤田さんは1980年代後半から90年代半ばにかけて、3回瀋陽を訪ねています。その旅行は鉄西小学校の同窓生の皆さんと一緒だったそうです。

奉天会のホームページにこう書かれています。

「終戦後半世紀を経て、未だ尚奉天会が続いていて、且つ益々盛大になっている理由は何であろうか。

まず第一に、奉天は我々にとって忘れられない故郷であるということである。しかも二度と戻ってこない故郷である。壮年・青年時代を過ごし、そこで働き、学び色々な人生経験をした奉天。或いはもっと若い年代では、幼年期・小学校・中学校・女学校の思いでの日々を過ごした奉天。二度と戻らない故郷である故に、奉天に対する思いは強いのである。

第二には、世代交代が順次行われてきたことである。奉天時代に壮年期にあった方々が次第に老境に入り、或いは故人となって、会員数が減少傾向になった時、各中学校・女学校の同窓会のメンバーが大挙して奉天会に加入して来たこと。更に時を経て最近では、各小学校の同窓会のメンバーがまとまって加入してきた。又、親の意志を継いで、奉天在住時代は幼年期にあった人達で奉天会に参加してきた人達もいる。

第三に、奉天会に加入していない元奉天在住者が、日本全国にかなり存在するということである。平成10年に奉天会が「瀋陽友好親善訪問団」を結成して瀋陽市を訪問する企画を立案し、広く一般紙の朝日・読売・毎日新聞に広告を出したところ東北や九州を始め、日本各地から多数の参加者が出たのである。訪問団に参加した人々は全員奉天会に加入したが、このように奉天会の会員に成り得る潜在会員が全国各地に多数存在する」。

奉天会(日本瀋陽会) http://homepage3.nifty.com/jiangkou/Kiyoshi/shenyang/seiritu.html

澤田さんによると、これが書かれたのは2000年代の前半だそうで、現在は関係者もかなり高齢化しており、年1回の懇親会が主な活動だそうです。

これを読んであらためて考えるのは、奉天会の皆さんにとって「(奉天は)二度と戻ってこない故郷」であるという認識についてです。自分の故郷が永遠に失われたという感覚とはどのようなものなのか。

ぼくにはその感覚はよくわかりません。ただ想像するに、いまではその地を実際に訪ねてみることはできても、もうそこは自分の国ではない。そこにあるのに、自分のものとはいえないという宙ぶらりんな感じ。一般に故郷とは自分が少年時代を過ごした場所として認識されることが多いと思います。その場所を無邪気に語ることがためらわれるような長い時間の経過と空虚感。せめてそれを埋めるには、同じ時代に同じ場所で過ごした同窓生の存在が大切に思えてくるのではないでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-09 21:39 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(2)
Commented by 竜田 晴彦 at 2015-02-10 11:06 x
私の大連の思い出は大連港からの電車道のポプラ並木で遊んだ楽しい思い出と、終戦後に家に侵入したロシア兵にピストルを突きつけられた事や裏の空き地で遊んでいた時に日本兵を追って来たロシア兵に機関銃(マンドリン)を突きつけられた経験です。後は引き上げ船に乗る時のリュックサックの重さでしょうか。でも楽しい思い出は沢山あります。私は終戦後の一年生になり大連市朝日小学校に入学しました。その一年後には引き上げ船で日本に帰ったのですが、先生もいなくなり一年生は十二月までで終了。その間、学芸会で女の子に混じってただ一人、遊戯をしたした事やノートも教科書も無く、おば達が年上の子の使った物を集めてくれたのを思いだします。引き上げ後は福岡県の遠賀郡柏原村にて小学二年生になりましたが、代用教員で、内地ではひらがなから教えるのですが、大連ではカタカナからなのに、カタカナが判るのに、どうしてヒラガナが辞めないのか、などと苛められたのを覚えています。その後、父が板付基地の通訳の採用試験を受け、履歴に大連在住時、奥地からの同胞の惨状に堪り兼ね、引き上げ促進委員会なるものを立上げ、同胞の引き上げを援助し、毎日、炊き出しをしたり、困窮者から先に帰れるように計らっていましたが、父としては悪い事とは思っていずに履歴に書いた処、進駐軍では委員会が共産党の組織と曲解し、父はスパイ容疑で何処に行っても監視がつく始末になり、お陰で私はあっちに行き、こっちに行きで、小学校も五つも転校し、其の度に転校生で苛められました。中学になり、小学校時代にだだをこね、六年生まで、遠くの小学校に通っていたので、正規の学区に強制的に変えられ、隣がその中学なのに、又転校生同様、見知らぬ中に放り出されました。幸いに友も出来、楽しい中学生活を過ごし、今でも中学時代の友が居ます。戦後の動乱期ですが、今は日本も独立?私の様な事が無い様にと思っています。
Commented by sanyo-kansatu at 2015-02-21 13:54
長いコメントをいただいていたのに、しばらく上海出張に出かけていたので、ブログにアクセスできず、お返事もできずに失礼しました。竜田さんはおそらく私の母の世代の方ですね。母も満洲からの引揚者でしたが、小学校になる前の齢で、何も覚えていないと言っていました。満洲の話を私に聞かせてくれたのは、母を連れて帰国した祖母でした。1年間の北朝鮮における難民生活など、苦渋に満ちた日々を過ごしていたようですが、孫にはあんまり厳しい話もしたくなかったのでしょう。藤原ていの「流れる星は生きている」で綴られている経験に近いものだったようです。私は祖母の話を聞きながら、大きくなったら一度満洲に行ってみたいと思うようになりました。それが実現したのが大学のころで、当時中国は改革開放を始めたばかりでした。以後の見聞を気ままにブログに綴らせてもらっています。当時とはずいぶん情勢が違いますが、歴史的なつながりを感じる場面も多く、いろいろなことを学ばせてもらいました。


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