2013年 07月 10日
坪谷水哉(つぼやすいさい 1862-1949)という明治、大正、昭和前期にわたって活躍した編集者がいます。当時の大手出版社である博文館で編集主幹を務めた人で、日本初の総合雑誌「太陽」の創刊時の編集長でした。 1934(昭和9)年9月下旬、坪谷水哉は京城発4泊5日の北鮮方面への鉄道旅行に出かけています。ここでいう「北鮮(ほくせん)」とは現在の北朝鮮ではなく、日本に併合された朝鮮半島の満州国と国境を接する北東部の辺域(現在の咸鏡北道)を意味しています。 彼の紀行文は、1935(昭和10)年2月に発行された某雑誌に「北鮮の旅」として掲載されています(この資料を入手したのはずいぶん前のことで、誌名を記録し忘れていました。機会をみつけて調べたいと思います)。 昨年夏、ぼくは北朝鮮の羅先貿易特区を訪ねました。中国吉林省延辺朝鮮族自治州の豆満江(中国では図們江)沿いも何度か訪ねていますが、国境を隔てながらも坪谷が約80年前に訪ねた地域と重なります。当時そこはどんな状況だったのか。とても興味深いです。 ざっと坪谷の4泊5日の行程を書き出してみます。坪谷が鉄道を降りて歩いた場所だけでなく、行程上出てくる鉄道の通過駅も入れてみました。 1日 1934年9月20日 17:25 京城(ソウル)駅発急行乗車。朝鮮総督府線を北上 日暮れ 鐵原駅(金剛山鉄道分岐点) 以後、元山駅、咸興駅、新北青駅 2日 9月21日 城津駅、朱乙駅(以後、普通列車になる)、羅南駅 8:51 輸城駅着(総督府線の終点)。満鉄「北鮮線」に乗り換え会寧へ (「約四時間を費やし」と本文にあるが?)会寧駅着(満洲国側対岸は三合鎮) 以後、豆満江沿いを列車は走る 11:49 上三峰駅(対岸は開山屯)着。「咸北線」に乗り換え。 以後、高陽駅(現在の南陽。対岸は図們)、穏城駅、訓戒駅、四会駅 17:15 雄基駅着(大和旅館に宿泊) 3日 9月22日 8:00 朝一番の乗合自動車で清津へ(約四時間半)。富居という駐車場で休憩 12:30 清津着(再びバスで郊外の朱乙温泉へ向かい、温泉旅館泊) 4日 9月23日 正午 バスで清津に戻り、雞林館泊。清津市内散策 20:15 清津駅発急行乗車 5日 9月24日 正午過ぎ 京城駅着 今回登場する場所に関する坪谷の記述を抜き書きしてみます。 ●輸城から会寧に向かう車窓の描写(輸城は総統府線の終点かつターミナル駅。清津へは別線で9km) 「輸城以西の鉄路の両側は、連山近く迫って、人煙稀疎なる山峡を、紆余曲折して走るに、眼に入る風物はすべて原始的で、車窓はるかに白頭連山の支脈が灰色をした雲の漂ふ間に隠見するのみだ」 ※朝鮮側から白頭山(長白山)がどのように見えるのか、見てみたいものです。 ●会寧(対岸は三合鎮)について 「(会寧は)豆満江の右岸なる国境の一都会で、対岸の間島から、以前は屡しば匪賊に襲われた土地で、国防の最前線ゆえ、今は歩兵一連隊、工兵一大隊、その他の兵営も多く、人口も今は二萬五千余で其内に内地人が四千余人居る相だ」 ※写真は現在の会寧。中国側から撮影したものです。当時日本人が4000人もいたことが書かれています。 ※現在の姿については「過去のにぎわいを忘れたふたつの国境―開山屯と三合鎮【中朝国境シリーズ その9】」http://inbound.exblog.jp/20466441/ ●会寧から上三峰に至る豆満江沿い(中朝国境)の描写 「対岸に満洲を眺めつつ走るに、此邊の豆満江は、水色青く、流れ急に、時々筏を流し下すが、渡津場の外には船の上下は見えぬ。金生、高嶺鎮、鶴浦、新田、間坪などといふ諸駅を過ぐる間、何所までも流れに添ひ、朝鮮川には護岸工事も備はり、開修せられたる路傍に、アカシヤも茂って居るのは我が併合以来の功績らしい」 ※この鉄路は、中国側から図們江越しに眺めたことがあります。東ベルリンの地下鉄車両が転用されて走っているのを見ました。 ●上三峰駅(対岸は開山屯)について 「此所は北満への連絡地点で、豆満江を鉄橋で渡り、新京に通じて居る」 ※写真は現在の上三峰の鉄橋を中国側から撮影したものです。 ●高陽駅(現在の南陽。対岸は図們)について 「高陽は現今雄基から満洲の新京へ直通する主要駅で、鉄橋を越えれば対岸は間島の図們駅だ。聞けば図們から百九十キロの敦化までは従来狭軌の敦図線があったのを、新たに広軌に改めて吉林まで延長し、一方には豆満江に架橋して、北鮮鉄道の高陽と連絡せしめたので、此新京図們間の線を京図線と称し、延長五百二十八キロだ。されば高陽駅は今工事中で、純満洲風の壮大なる建築を頻りに急いで居る」 ※写真は現在の南陽の鉄橋で、中国側から撮影したものです。当時は国際ターミナル駅だったことを思うと、さびれてしまったなあと思わずにはいられません。 ※現在の姿については「高速で素通りされ、さびれゆく図們【中朝国境シリーズ その10】」http://inbound.exblog.jp/20498623/ ●高陽から雄基までの描写 「豆満江も此邊まで下ると間島の諸流を併せて次第に大きくなり、洋々として緩く流れ、船も時々上下して、流石に朝鮮五大河の一と首肯せらる。高陽から二三駅を過ぎ穏城駅から、今まで東に流れた豆満江は急角度に東へ方向を転じ、其れにしたがって鉄道線路も東へ屈曲し、やがて訓戒といふが、かなりの巨駅で、サイダー、牛乳、キャラメルなどと呼んで売って居る。私が隣の某氏に、対岸に露西亜領はまだ見えませんかと尋ねると、まだです。モウ二時間も経つと、四会といふ駅から見えますとて、更に十ばかり駅を過ぎて、四会駅で、向こふに見える山が露西亜ですと教えて呉れた。此邊の豆満江は河幅一里もあるべく、其間に島があったり、岸には湖水があったりして、鉄道も江岸を漸く離れた」 ※写真は現在の穏城大橋を中国側から撮影したものです。断橋となって途中で折れています。朝鮮側に当時の鉄道らしき鉄路が見えますが、現在ほとんど運行されていないようです。 ※現在の姿については「図們江、野ざらしにされた断橋の風景【中朝国境シリーズ その8】」http://inbound.exblog.jp/20457456/ ●雄基(現在の先峰)について 「今は咸北線の終端なる雄基湾は、鮮満連絡の咽喉で、最近に非常なる躍進を続け、日露戦役当時は僅かに十数戸の漁村だった相だが既に五千戸二萬五千人に激増し、三方に山を負うて一方は海に臨み、港の東に龍水湖が、近く海と連なりて、市街は尚も日々に広がりつつある。当初北満洲の貨客呑口を、何所に定めんかと決せざるとき、北鮮の三港といふ城津、清津、雄基の間で盛んに競争したのが、やがて城津は落伍して、最近まで清津と雄基の競争となったが、結局は雄基より南へ四里の羅津と定まり、今は雄基から羅津まで頻りに鉄道工事を急ぎ、来年八月には竣工の予定」 ※写真は現在の雄基線の鉄路。北朝鮮領内の雄基と羅津の間で撮ったものです。この状況では鉄道は運行は難しいと思われます。 ●羅津について 「東北西の三方に山をめぐらし、開けたる南方に大草、小艸の二島が防波堤の如くに横たはり、湾内広く、陸上に市街となすべき平地も多い。成程将来北満の咽喉と決定せられたのも道理である。最近に決定したといふ此地の都市計画によれば、第一期設備として、土地六十萬坪に、人口五六萬を収容し、満鉄埠頭も直ちに着手し、羅津停車場敷地地均し工事と憲兵隊兵営は、請負入札が大倉組に落札したが、停車場建築工事は、何人の手に帰するか未定といふ。但し其等の工事請負や、土地の売買や、利権の探索に、多数の人が入り込み、定住人口二萬の外に、旅客の数は分らぬが、一日に家屋が何十戸づつ建つとか言うて、市街は混雑を極めて居る」 ※写真は現在の羅津駅と羅津港。坪谷が訪ねたころにはまだ駅も港もできていませんでした。しかし、羅津の開発のため多くの日本人がこの地にいたことがわかります。 ※現在の姿については「羅先(北朝鮮)はかつての「日満最短ルート」の玄関口」http://inbound.exblog.jp/19752579/ ●雄基から清津に向かう道路事情 「道路は東側に日本海を眺めつつ丘陵起伏の間を走るに、仲々よく改修せられて居る」 ●清津について 「さて清津を見物する方法はと聞くと、高抹山に上って、清津神社の背後から、港と市街を一と目眺めなさいと教へられ、其の高抹山に上る。成程清津市街は巴の如き高抹山の半島に依り湾内に擁せられ、北端の高抹山と南端の天馬山との間に、夕実の如くに連なる市街で、近年約一千萬円の巨費を投じた防波堤が、湾の左右より出て、岸壁には、四五千トンの船が数隻繋がる相で、折しもそこへ上がってきた高等普通学校、内地ならば中学校の生徒を呼んで説明を聞くと、天馬山腹が無線電信局、その隣りが僕等の学校で、其のしたの茶色の洋館が近頃出来た国際ホテル、今防波堤の外へ出て行く汽船は大阪商船会社の船(中略)。(人口は)昭和七年に二萬五千が今年は四萬人に上ったといふ」 ※ぼくは清津にまで行くことはできませんでしたが、当時多くの日本人が住んでいたことがわかります。ここで書かれている高抹山からの日本海と清津市街地の眺めは素晴らしいものだったようです。 ここに描かれる世界が1930年代半ばの“躍進著しい”北鮮でした。現在の姿と比べると、この80年間の停滞ぶりは何だったのだろうか。なぜそうなってしまったのか。そう思わざるをえません。 当時、坪谷がこの地域を視察した理由について、冒頭ではこう書かれています。 「『朝鮮と支那の境の鴨緑江』と所謂鴨緑江ぶしで歌ふ鴨緑江は何人も知るが、反対の国境なる、満洲の間島や、露西亜とも境を接する、豆満江及其沿岸を走る北鮮鉄道は余り知られて居ない。然るに今は北満洲から朝鮮の北方に通じて、鉄道線は頭を日本海の岸に出し、其所に第二の大連港を建設せんとして、着々工事を進めて居り、現に北鮮の雄基からも清津からも、新京まで直通列車が往来して居る。私は最近に其の北鮮の鉄道全線を巡った故、いかに略ぼ之を紹介しようと思ふ」 日本と大陸をつなぐルートとして大連や安東(現在は丹東)のことは知られていたものの、日本海ルートは当時もまだマイナーだったことがわかります。その開発が着手されていよいよこれからというときに敗戦を迎えてしまったわけです。 その年、坪谷は72歳でした。戦前を代表する総合雑誌「太陽」の編集長を経て、その後海外をずいぶん訪ね歩いた坪谷は「世界漫遊案内」(1919)など、明治人らしく海外雄飛を説く多数の著書もあるベテラン編集者ですが、老いてもなお意気軒昂だったようですね。
by sanyo-kansatu
| 2013-07-10 18:16
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