2013年 11月 24日

ビエンチャンのチャイナタウンは2001年頃と比べてどう変わった?

ビエンチャンはレンタル自転車を借りて走り回るのにちょうどいい大きさの都市です。

1980年代であれば、北京や上海でも、ぼくはレンタル自転車であちこち訪ねまわっていたことを思い出します。いまはとても無理ですね。車の量が多すぎますし、都市化は郊外まで飛躍的に拡がり、都市交通機関が発達してしまいましたから。何より大気汚染がひどすぎて、サイクリングなんてやってる場合じゃないかもしれません(北京の胡同などでは外国人ツーリストがサイクリングしている姿をたまに見るけど、身体に悪そうです)。
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さて、ビエンチャンを自転車で散策すると、市内中心部でこそ仏領時代のコロニアル建築が残っていて目に楽しいのですが、ちょっと郊外に出ると、中国語の看板がよく目につきます。

東南アジアの各都市と同様、ビエンチャンにもチャイナタウンがあるのでしょうか。

それを知るうえで、筑波大学の山下清海教授の以下の調査報告が参考になります。山下教授は世界のチャイナタウンの研究者で、『池袋チャイナタウン』(洋泉社)という著書もあります。

ラオスの華人社会とチャイナタウン―ビエンチャンを中心に(山下清海教授 2006年)
http://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~yamakiyo/Laos-Chinese.pdf

その論文によると、ビエンチャンには2つの異なるチャイナタウンがあるようです。世界各地のチャイナタウンはどこでも「都市中心部に古くから存続してきたチャイナタウン(オールドチャイナタウン)と,それとは別に近年になって新しく形成されたチャイナタウン(ニューチャイナタウン)との2つのタイプ」に分けられるそうです。

前者(オールドチャイナタウン)が、チャオアヌ通り周辺です。通り沿いは、東南アジアのチャイナタウン特有の景観であるショップハウスが連なり、ビエンチャンの華人社会の最高組織であるとされる中華理事会や広東酒家などの広東料理店があります。
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チャオアヌ通りからメコン河沿いをファーグム通りに沿って東に進むと、福徳正神をまつる福徳祠があります。
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後者(ニューチャイナタウン)は市街地西部のノンドゥアン地区にあります。

「中国新移民が増加する中で,上述のオールドチャイナタウンとは別に,ニューチャイナタウンが形成された).ビエンチャンのニューチャイナタウンは,市街地西部のノンドゥアン(Nongduang)地区にあり,タラート・レーン(Talat Laeng,英語ではEvening Market)と呼ばれる.タラート・チーンの近くには,中国製のオートバイ,機械,金物,工具,部品などを販売する華人経営の金属関係の店舗が集中しており,華人は「塔拉亮(タラート)五金市場」と呼んでいる」(山下論文)
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実際、タラート・レーンを訪ねると、機械や工具などの店が並んでいました。

ビエンチャン市内には、中国の投資による建築物もいくつかあります。たとえば、国立博物館の真向かいに建てられた国立文化会館がそうだそうです。
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山下論文によると、もともとラオスは華人人口がそれほど多い国ではなかったようです。しかし、フランスからの独立後、1950年代後半になると、ラオスの商業の8割を華人に握られることになります。これは驚くべき数字といえます。当然ラオス政府は外国人の就業について制限を設けましたが、それでも華人は、ラオスに帰化するなどして経済活動をつづけました。

それが大きく変わるのが、1975年の社会主義革命の前後です。以下、その後の今日に至る経緯です。山下論文からの抜粋です。

「1975年の社会主義化の後,ラオス政府は,華人排斥の政策をとり,華人社会に大きな打撃を与えた.1976年には,華人の商店,工場を閉鎖した.1978年には,華人の財産の没収を開始し,華人団体の活動を停止させ,ビエンチャンの寮都公学を除くラオス国内すべての華文学校を休校させ,さらに社会主義化後,国内唯一の中国語新聞であった「老華日報」を停刊させた(《華僑華人百科全書・歴史巻》編輯委員会編,2002,pp.234-238)」

「1978年後半から,ラオスと中国の関係は冷却へ向かい,1980年,両国は外交関係を断絶した.しかし,1980年代後半,ラオスと友好的な関係にあるベトナムと,中国との関係が好転したのに伴い,ラオスと中国の関係も改善の方向に向かっていった.1988年,両国は国交を回復」

「1986 年,「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策に基づく市場原理の導入などを柱とする経済開放・刷新路線が提唱され,市場経済化による経済成長が国家課題として掲げられた(天川・山田編,2005).新経済政策の実施後,華人企業は復興した.タイの華人資本や香港・台湾などの企業のラオスへの投資が増加した.また,社会主義後,海外に逃れていた華人の中には,ラオスへ帰国して,新たに創業する者もみられるようになった.中国の雲南省とラオスを結ぶ険しい山道の整備が行われ,メコン川を通行する船の往来も活発化した.これにより,改革開放政策が軌道に乗った中国から新来の華人(中国新移民)も増え,特に国境を接する雲南省出身者が急増し,1990年代半ばには,それまでの潮州人に代わり,雲南人がラオス最大の方言集団になった(《華僑華人百科全書・経済巻》編輯委員会編,2000,pp.243-244)」

ところで、山下教授の調査は2001年3月に行われたものです。それからすでに12年以上も月日が経っています。当時と比べてどう変わっているのでしょうか。

チャオアヌ通り周辺には、おしゃれなホテルやゲストハウスが並び、チャイナタウンの風情はほとんど失われているように思います。またタラート・レーンもさびれた印象です。
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こうしてみると、かつてオールドチャイナタウンのあった市中心部は、外国人ツーリスト向けの宿泊施設やレストラン、ショップに変わり、華人の経済圏は郊外に広がっているように見えます。

もっとも、これらのツーリスト向け施設のオーナーは、たいていの場合、東南アジア各地から来た在外華人ではないかと思われます。中国本土の華人に比べ、彼らはセンスがいいですし、英語も話すでしょうから、外国人相手のビジネスは秀でているのです。

ともあれ、華人に経済を握られてしまう構図は、1950年代後半に似てきたのかもしれません。

では、いったいこの10数年でビエンチャンに移民してきた中国本土からのニュ―華人たちはどうなったのでしょうか。

実は、山下論文にひとりの遼寧省出身の中華料理店経営者の話が出てきます。

「ビエンチャン市内では,中国新移民が開業した中国料理店や商店が各所でみられる.市内では珍しい餃子専門店を経営する華人(58歳)から聞き取り調査を行った(写真13).彼は中国東北地方の遼寧省瀋陽近くの出身で,ラオスに来て1年ほどしかたっていないため,ラオス語はなかなか覚えられないという.妻は北京出身.経営状態はまずまずである.ビエンチャンに来たきっかけは,先にラオスに来た彼の弟が,中国とラオスの関係が好転したので,これから中国料理店の経営は有望であると勧められたからである.ビエンチャン在留の餃子好きの日本人に人気があり,経営状態はよいという.日本語,英語,中国語のメニューを備えている.他の華人商店と同様に,店内の奥の床には,「土地爺」(土地神,土地公)をまつっていた」
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その彼の経営する遼寧餃子店がメコン河沿いのファーグム通りにありました。当時の写真に比べ、そこそこ立派な店構えになっていました。

中国本土で起きたこの10数年のめちゃくちゃ大きな変化に比べると、ラオスに移住してきたこの華人の境遇の変化は、実にラオスらしいというべきか、ずいぶんささやかなものだったといえるかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2013-11-24 16:57 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(1)
Commented by 履歴書 at 2014-06-28 11:11 x
とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!


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