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ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2014年 03月 10日

なぜ多くの外客が戦前期に雲仙温泉を訪れたのか?

「100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか」で書いたように、当時の外客滞在数のトップ10の中に雲仙温泉(長崎県)がランクインしています。

これは当時日本に外国人が入国する港の3位が長崎だったことと関係があります。結論から先にいうと、中国大陸と日本をつなぐ長崎・上海航路で訪日した上海租界在住の欧米人(なかでもロシア人の比率が高かったようです)が避暑のため、長崎に渡り、雲仙温泉に滞在していたからです。
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いまではちょっと想像つかない話ですが、100年前の雲仙温泉には多くの欧米客が滞在していた記録が残っています。

ジャパンツーリストビューロー幹事の生野團六は「吾国の外客誘致を目的とする施設に就いて 附温泉公園経営」(ツーリスト8号(1914年8月))の中で、雲仙は「我國の外客誘致上見逃すべからざる重要な地點」として、当時の様子を解説しています。

まず雲仙温泉の来歴、ならびに現況についてこう説明しています。

「往時は古湯のみで浴客の如きも附近の下級人民に限られ何等の設備なかりしが、一度外人の発見するところとなりて以来、漸次開拓せられ歳々来遊外客の多きを加ふると共に浴場の設備改善せられ『ホテル』は増設せられ今日は小なりと雖も其数、十を以て算するに至った、今日の新湯は恰も外国山間の避暑地たるの観がある、而して此地には大小総数三十余のケーザー(クルーザー)があり、温泉は共同浴場の外に各ホテル共に『プライベート・バス』に之を引用して居る。附近には妙見、普賢、國見、雲仙等の諸山あり、海抜四千数百尺にして登山の樂あり。其他牧場、小湖水、小川、瀧谷等、散策に適するものが甚多い。当地夏時の最高温度は八月に於いて二十九度に過ぎず。以て其清涼なるを知るべく、言ふまでもなく当地の『シーズン』夏時六月末より九月に至る期間なれど春季の『マザレア』秋季の紅葉の稱すべきものもあり」。
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当時の雲仙温泉と小浜に滞在する外客数の推移は以下のとおりです。

1908(明治41)年 1374人
1909(明治42)年 1394人
1910(明治43)年 1522人
1911(明治44)年 1995人

長崎県は雲仙周辺を「温泉を以て天下の一大樂園」とするべく、明治44年から6年間の継続事業として12万坪を「温泉公園」として開発しました。雲仙岳の麓にあり、外客が海水浴を楽しんでいた小浜から雲仙までの道路の改築、公園内の整備などに着手しました。当時すでに以下のような施設があったようです。

・娯楽場…138坪の平屋建築で、夜会音楽会や活動写真の上映を行う。教会堂として利用されるうえ、周辺にローラースケートを楽しめる運動場もある。
・テニスコート…娯楽場の北に2面のテニスコートと休憩所あり。
・ゴルフヤード…5万千餘坪のゴルフ場。9ホールまで。バーなどを備えた休憩所あり。
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生野は雲仙温泉に新しくできた外客向け施設を紹介したうえで、当時の外客についてこう述べています。

「温泉繁栄の主因は固より其地形の然らしむるものなるに相違なきも其他にも理由がなければならぬ。即温泉の地たるマニラ、香港、上海、青島、浦鹽(ウラジオストク)等欧米各国の東洋殖民地より海上交通の便容易なると、ホテル料金の低廉なる等とが即夫である」。

つまり、当時の雲仙温泉は東アジアの欧米植民地在住の外国人が海を渡って訪れていたのです。

生野はようやく整備が進みつつある雲仙の外客向け施設と宿泊客の状況について、こんな鋭い意見を述べています。

「上記各殖民地より来遊する現在の外客の多数は所詮番頭、中流人士。宣教師の如き家族を引伴れて来遊滞在するもの多数を占めて居る。一度料金の他の内地のホテルの如くならんには数年ならずして其跡を絶つに到ることは必定である」。

これはどういうことでしょうか。当時雲仙のホテル料金は「アメリカンプランとしての料金が二圓半乃至五圓」と日本国内の他の温泉地に比べ安めに設定されていて、客層は中流階級の欧米客が多数を占めていたというのです。ですから、もし料金を他の温泉地並みに上げると、外客は訪れなくなるだろう、というのです。

つまり、生野は、欧米からの長期航路で横浜や神戸を訪れる外国人と、東アジアの欧米植民地在住の外国人を区別し、彼らの雲仙訪問はホテルや船運賃が低廉であるために実現できた「中流人士」のカジュアルな避暑旅行にすぎないこと。それゆえホテル料金を上げるべきではないと言っているのです。
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さらに、生野は「然らば現在のホテルには改良の必要なしと言ふか否大に然らず、改善を要するもの一二にして足らぬ。然れども予は其改善にも多額の投資を要するものを希望するものではない。即ち自分は建造物を立派にせよとは言はぬ。器具を立派にせよと注文せぬ。室内にカーペットを敷けとは言はぬ。美味なる皿数を多くせよとは言はぬ」といいます。

つまり、ホテルのハード面を改善するには投資が必要なので、そのためにホテル料金を上げては元も子もない。「換言すれば比較的に投資若くは営業費の多くを増やさずして改善し得べきことに全力を盡さんこと」を関係者に希望するというのです。当時雲仙が外客を取り込めている地勢的かつ外客の特性をふまえたうえで、その比較優位性を忘れて投資を進めたところで、良い結果は得られない。むしろ、金をかけずにできることをすべきだと提言しているのです。

当時の日本人がいかに現実に根差した状況判断をしていたか。感心してしまいます。

とはいえ、生野はこの論説の最後で「積極的施設を希望することに於ては、恐らく人後に落ちぬ積である」と述べ、以下のような展望を語っています。

「富士山、箱根、伊豆半島を連關して、一大ナショナルパークを現出せしめ、京都を中心として、琵琶湖奈良其他の名勝を綴付して、一大樂園となし、又瀬戸内海を利用して、小豆島宮島別府高松等を配して、世界的遊覧設備をなすこととし、之が為には、登山鉄道の建設、自動車道路の開設、遊覧汽船の配備、其他各種の施設並に附帯事業の経営を開始するが如きは、自分の最希望するところである。然れども凡そ事物には順序があり、計畫には資本を要する」。

100年後の今日、少なくとも生野が展望した状況は実現しているように思えます。しかし、当時の生野のように、厳しく自国の姿と海外の状況を比較相対化し、戦略的に将来の展望を語るということが、今日の我々にはたしてできているのか、大いに疑問です。先人のことばを通して、いまの自分たちには何が足りないのか、学ばなければならないことはたくさんあるなあと感じ入る次第です。
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現在の雲仙観光ホテル(1935年開業)

by sanyo-kansatu | 2014-03-10 11:34 | 歴史から学ぶインバウンド


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