2014年 03月 12日
戦前期の日本は、外客誘致に着手せんと動き出したばかりの黎明期から、国際環境の激流に呑み込まれてしまいます。その後も、時局の悪化に翻弄され続けました。 なかでも日中対立は、今日にも増して深刻な障害となりました。当時の論客のひとり、生野圑六はツーリスト誌上において日支親善の楔子(くさび)とすべきとして「支那人誘致の新計畫」(中国人に対する訪日旅行誘致)を主張します。 どんなことを言っているのでしょうか。ツーリスト26号(1917年7月)で生野が書いた論考「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」を見ていくことにしましょう。 冒頭で彼はこう書きます。 「我がツーリストビューローは、日支関係の現状に鑑み其将来に想倒し、日支親善の最捷徑は支那国民をして眞に我が國情を了解せしむるにある可きを認め、其一方法として多数支那人の来遊を促す可く、差当り北京並上海の二箇所に新たに案内所を設置し、尚青島にも支部及案内所を設くる事に決定したる」。 「日支親善」(日中友好)の最も早道は、中国人の訪日旅行を促進し、日本の国情を理解させることだ、というのです。そのために企図されたのが、ジャパンツーリストビューローの北京や上海、青島の事務所の開設でした。 当時の日中関係の悪化の理由について、彼は「支那側の誤解其他之に関連せる各種の事情等も確かに其原因の一部たりしならんも我が國の支那に対する不謹慎の言論並渡来支那人に対する不親切なる待遇等の如きも亦其一因たり」と述べ、中国側の日本に対する「誤解」とともに、日本側の中国に対する「不謹慎の言論」や「不親切なる待遇」があったといいます。 これが書かれた大正前期、日本を訪れる中国人は約6000人、外客全体の約3割でした。最も多かったのは、日露戦争当時の年間7000~8000人で、それ以後減少し、とりわけ1917(大正6)年は「革命、内乱等の事情に由り」約3000人とかなり少なくなっていました。 一方、日本在住の中国人は約1万2000人で、今日と同じく当時も在住外国人中最大を占めました。内訳は、3割が商人、2割が留学生。ところが、残りの半数は「他の在留外人に比し比較的賤業に従事し居るもの多きを以て或は邦人の蔑視を買ふに至るの傾向あり」と書いています。 生野は、在日中国人に対する「邦人の蔑視を買ふに至る傾向」が日中関係に影響しているとして、次のように述べています。 「是が為め彼等は往々我邦人の眞意を誤解し将来支那の中堅たる可き留学生間に於いて我が國の態度に疑義を挿み之が批難をなすものあり。是等は些々たる問題なるが如しと雖動がては或は日貨排斥、非買行動等となりて現はれ延ては排日思想の動機ともなることなきにしもあらざるを以て我が國民は先づ斯る小事に就きても細心の注意を拂ふ事肝要なり」。 こうした一方、当時すでに日中間の交通機関の発達が進んでいました。1913(大正2)年に開始した「日支連絡運輸」以降、両国の直通乗車券が発売され、東京・北京間の移動はわずか5日間に短縮されていました。1915(大正5)年には4カ月間利用できる「日支周遊券」が発売され、「彼地にありては奉天、北京、漢口。上海等又我が國にありては長崎、下関、神戸、大阪、京都、東京等の主要各都市を相互自由に視察し得べきものなれば両國旅行者間に極めて便宜のものたるを疑はず」といいます。 生野は「日支親善」(日中友好)がお互いにとっていかに大切か、次のように「唱道」します。 「更に又経済上の見地よりするに於いては吾人は一層痛切に日支親善の必要を唱道せざる可らざるものあり即ち支那は現在ひとり東洋の市場たるのみならず世界の市場として認められ、其天然資源の豊富なる事世界無比と称せられる。従って今日已に米國の如き支那に対し大規模の投資をなさんことを希望しつつある所なるが我が國は地理的に最優越せる地位にあるを以て各種の利便を有し支那との貿易額の如きも次第に觀る如く累年著しき発展を示しつつあり」「(第一次世界大戦の)戦後に於ける列強の激烈なる商戦は必ずや先づ東洋殊に支那の市場に於て行はる可く、列強が各其主力を此處に傾注せる曉に於て我が國は果たして之に堪え且克く之に抗するの力ありや」。 「之を要するに、支那と我が國とは東亞の保全興隆の為め凡ての関係に於て相提携し協力す可き必然的運命を有するものにして又将来互に了解し信倚し敬重して進まざる可らざるの立場にあり」。 生野の主張自体はまっとうなものだったと思います。しかし、彼はこの時期、日中間に起きていた深刻な事態について、どこまで理解したうえでこれを書いていたのか、疑問を感じざるを得ないのも確かです。 当時の日中関係史について簡単に触れてみましょう。この論考が書かれる2年前、第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣は袁世凱政権に対華21ヶ条要求を出しました。さらに、大戦後、1919年1月のパリ講和会議において「日本がドイツから奪った山東省の権益」が国際的に承認されると、同年5月4日、北京の学生たちの行ったデモ行進が五四運動となっていきます。 確かに、生野も同論考で日支親善を「唱道」しながら、「然るに日支親善は朝野に唱道せられて已に年久しきも未だ確実に其成績を見るに至らず」と嘆いているのです。 この時期の生野の提言は「日支两国民間に繙れる空気を一新し、彼の眠れる友情を覚醒し以て日支親善の楔子(くさび)たらん事を期す」ため、悪化する当時の日中関係を中国人の訪日誘致によって相互理解を深め、改善しようということでした。 この提言は、今日においても通じる話といえるでしょう。 もっとも、「日支親善」(日中友好)とインバウンドがいかに難しい関係にあるかについては、ここ数年の日中関係の悪化で私たちも痛感したばかりです。 いま言えることは、生野の真摯な提言を支持しつつも、当時の日中間に起きていた深刻な事態に対して、彼はなぜ理解不足だったのか、あらためて考えてみることだと思います。同じことは、今日においても言えるはずだからです。
by sanyo-kansatu
| 2014-03-12 16:52
| 歴史から学ぶインバウンド
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