ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2014年 03月 13日

今日同様、戦前期も中国の反日プロパガンダへの対応が課題だった

戦前期の日本の外客誘致において克服すべき課題は山のようにありました。何より外国人を快く受け入れ、もてなすためのインフラは、ハード、ソフトともに十分に整備されていませんでした。それに加えて、当時のインバウンド推進論者にとって大きな懸念となっていたのが、「米國及び支那に於ける排日の気勢」でした。

その懸念は、早くも第一次世界大戦が終了する1910年代後半には強く意識されていました。ツーリスト40号(1919年11月)の「時事雑感」の中で生野圑六はこう書き出しています。

「米國及び支那に於ける排日の気勢は数年来毫も緩和されぬやうであるが、外人新聞などの報道に由ると是等排日運動の主唱者は大部分嘗て我が國に留学若しくは来遊した人達であるとの事である。勿論是には種々理由もあることであらうが、要するに何れも我が國滞在中あまり温かならざる待遇を受け、充分我が國情を諒解するに至らなかった人達であることだけは容易に想像せられる。由来日支親善、日米親厚なる語は久しき以前より已に幾回となく繰返されているのであるが、其の聲の徒らに大なるのみで其実績は一向挙らぬやうに感ぜられる」。

あらためて日中関係の難しさと根の深さを感じざるを得ません。気になるのは、当時の「排日の気勢」が中国だけでなく、アメリカにも起きていたことでしょう。当時のアメリカにはアジア系移民を排斥するムードがあり、それが1924年のいわゆる「排日移民法」の制定につながっていきます。こうしたアメリカの姿勢は当時の日本人に大きな衝撃を与えたといわれます。

同時代人であった生野は、米中両国において「排日の気勢」が生まれた背景として外客誘致を進める立場から2つの理由を挙げています。

ひとつは「我が國に於ける来遊米国人や支那人に対する待遇依然として発達せず」という外客に対する受入態勢の問題。2点目が「我が國には目下列強が盛んに利用しつつあるが如き有力なる対外的プロパガンダの機関を有せざる結果事毎に誤解猜疑を招く事多く、今回の講和会議等に於いても相手国に我が國情を充分判って居らぬところ」だというのです。

特に後者の例として、「英国の小学教科書に日本の貴婦人として煙管片手に立膝したる婦人が麗々しく掲げられ、米国の小学教科書にも日本人の代表として徳川時代の最も下劣なるものを挙げている」と指摘し、「蓋し外人の我が國情に通ぜざるは我々の想像以上」と書いています。さらに1919年3月、日本併合下の朝鮮半島で起きた三一運動時におけるアメリカの「現時の十字磔」という虚偽報道についてこう書いています。

「これは当時我が國新聞紙にも傳へられたる如く今夏朝鮮に暴動の起こりたる折、米國の一宗教雑誌が韓国政府時代の軍隊が同國罪人を死刑に處ひつつある寫眞を掲げて之を『現時の十字磔』と題し日本軍隊が朝鮮の耶蘇教徒を死刑に處する圖なりと説明したのである。勿論邦人には一見して直ちに其日本兵にあらざるを識別し得るのであるが、不幸にして我が國の事情に疎き米人には其虚偽の事実なるを解し得ぬのである。爾後『日本軍隊の朝鮮人虐殺』として同写真は同國のあらゆる新聞雑誌に掲載せられ、しかも斯くの如き虚偽の事実が米国に於て排日気勢を煽る原因となりつつあるのである」。

なんだか近年のもろもろの騒動に似た話のようにも思えてきますね。

そして彼はこう主張します。

「実際、國と國との関係は畢竟するに國民と國民との関係に外ならぬ故、國家相互の親善を計らんと欲せば先づ其根本に遡って彼我國民の完全なる諒解を得る方法を講ずることが最も肝要にして又最も捷徑なるは謂ふまでもない」「玆に於て我が國情宣傳機関の必要が愈々痛切に感ぜられるのである」。

これらの記述を読んでいると、戦前期において反日プロパガンダへの対応がいかに大きな課題だったかわかってきます。それゆえ、海外の反日キャンペーンに国として対応する宣伝機関が必要だと生野は考えたのでした。

「然乍ら一方対日誤解より生ずる國家的損失の點より考ふれば之(生野のいう國情宣傳機関)に要する費用の如きは眞に微々たるものであるまいか。余は若し出来得るならば適当なる対外プロパガンダの機関の設立を見ざる限り各方面よりの後援と物質的援助を得て我がツーリストビューローの機関をして今後益々是等の方面にも活動せしめたいと思ふ。就中刻下の急務たる日米、日支の親善促進に就ては最善を盡して其の実現を期したい」。

そのためにできることとして、本来外客誘致のための広報機関であるジャパンツーリストビューローを日本の対外宣伝のために活用すべきである、というのが彼の発想でした。

生野の当時の認識は、今日においても通じるものだと思わざるを得ません。なぜなら、残念なことに、当時と同様、今日においても近隣諸国からの「反日キャンペーン」は後を絶たないからです。

生野は「来遊米国人や支那人」に対する受入態勢の改善についても、次のように述べています。

「又かの支那に於ける排日運動の如きも、其一因は世に傳へられる如く或は某國の煽動政策に由るかも知れぬが、我が國民自身亦自ら考慮し反省せねばならぬ點も尠くない。先日余は支那の一有力者より所謂『中日親善』に関する意見を聞いたが、同氏は『支那人が日本にありて最も不満足に感じていることは支那人を頭から軽蔑することである。それは日本人の無意識な行為かも知れぬが我々から見て非常に傲慢に感ぜられる。殊に留学生に対する差別的待遇に至っては一層反感を煽るものがある。例へば下宿屋にありても女中は不親切で主人は冷酷である。貸家を求めても支那人と見ると高値をふく、道を歩いては子供にまで馬鹿にされる、まるで只苦しめられる為に来たやうなものである。是等の問題は勿論今は些細なことかも知れぬが支那人は決して其軽蔑せられた事を忘れぬ國民である。将来に於ける影響は決して単純なものではないと思ふ』云々と語ったが、是等は大いに反省すべきことである」。

こうなってくると、受入態勢以前の心がまえの問題といえます。ただ当時、本当にそこまで中国人蔑視の風潮が日本社会に広まっていたかについては一概にいえない気もします。なぜなら中国文明に対する憧れや親しみは、当時の日本人の意識の中にも普通にあったと思うからです。ありうるのは、当時も在留外国人中最大数を占めた中国人の内訳は、3割が商人、2割が留学生。そして残りの半数は「他の在留外人に比し比較的賤業に従事し居るもの多きを以て或は邦人の蔑視を買ふに至るの傾向あり」(ツーリスト26号(1917年7月)で生野が書いた論考「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」)という背景があったのではないかと思われます。

ところが、当時もいまも、ビジネスマンや留学生などの高い階層に属する中国人というのはどうも「残りの半数」の存在抜きで自らの民族的優秀さを外国人に認めさせたいという気持ちが強いようです。その姿は反面、とても身勝手に映るものです。

要は日本側の国民レベルの無意識の応対も、受け取る側の認識によって印象は大きく変わるということではないでしょうか。というのも、日中関係が最も良好といわれた1990年代前半ですら、日本にいた一部の中国人留学生の中に同じようなこと(要は日本に対する不満です)を主張した人たちがいたことを思い出すからです。彼らは改革開放後に出国した「新華僑」と呼ばれた人たちで、ぼくと同世代でした。彼らは自ら抱えるエリート意識と日本での自分の境遇の落差を受け入れがたく感じているようでした。自分たちはもっと日本社会で評価されていいはずだ、という思いを募らせていたのです。ぼくには彼らがそれに足るものを持っていたかどうかわかりませんでしたから、中国人というのは難儀な人たちだなあと感じました。彼らは、その後アメリカに渡っていきました。そう、このタイプ、結局アメリカに向かうケースが多いんです(どうやら戦前もそうだったようです。生野は日本留学中に不満をため込んだ華人たちがアメリカに渡って「排日の気勢」を焚きつけていると指摘していますが、こういうことは現在も起きていないとはいえません)。

そのとき彼らの話を聞きながら思ったのは、20世紀初頭の「半植民地化」状態にあった中国と、生まれつき肥大化した彼らの民族的な自意識とのギャップから、その耐えがたい苛立ちの矛先が日本に向かいやすいという心理は、現代においても形を変えて起こりうるのだなという発見でした。それはとても残念で理不尽なことに思いましたけれど、いまこうして顕在化してきたわけです。

ツーリスト誌を読んでいると、100年前と今日の相似的な状況がいろいろ見えてきて、気が滅入りそうになります。しかし、かつて「排日の気勢」への対応をおろそかにしたことが、その後の時局の悪化につながったという歴史は知っておくべきだと思います。

日本を政敵とみなして声を荒げて非難する彼らの「紅衛兵」スタイルに真っ向から挑むのではなく、観光の語源とされる「観国之光,利用賓于王(国の光を観る。用て王に賓たるに利し)」に即して「国の光を観せる」ことでたおやかに対応していくことは、いまの時代にこそ求められているひとつのやり方だと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-13 16:23 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)


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