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2015年 01月 01日

奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)

「東京城は今から約千二百年前、日本では奈良朝の聖武天皇の御宇にあたる頃、東滿に勢力を振った高句麗人によって興された渤海國の王宮である」(「満洲グラフ」1941(昭和16)年10月号「東京城址を訪ふ」)

渤海国(698年~926年)は、現在の中国東北地方から極東ロシアや北朝鮮の一部にまたがる版図を広げ、「海東の盛国」と呼ばれた国でした。668年に高句麗を滅ぼした唐は、同国の敗れた遺臣や兵を営州(現在の朝陽)に移送しましたが、王族の流れをくむ大祚栄が契丹軍の反乱に乗じて立ち上がり、遺民を引きつれて東牟山麓(吉林省敦化市)で辰国を興します。第3代金欽茂が762年に唐皇帝から「渤海国王」の称号を授けられますが、その後、遼の太祖・耶律阿保機によって926年に滅亡するまで続いた王朝です。

現在その都城跡がいくつか残っています。そのうち、諸般の事情があって外国人を含め誰でも訪問できる唯一の遺址が、黒龍江省寧安市渤海鎮にある「上京龍泉府遺址」です。
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上京龍泉府は渤海国の三代大欽茂王が755年頃中京顕徳府(現在の吉林省和龍市)から遷って都とした場所で、当時は南北約3.4km、東西約4.9kmの規模をもつ王城でした。一時東京龍原府(現在の吉林省琿春市)に遷都しましたが、794年に再び戻り、以後926年に契丹に滅ぼされるまで長く渤海の都でした。
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現在は宮殿の柱を置いたと思われる石台が点在するだけで、遺址内に見られる城壁は再現されたものです。昭和16年に現地を訪ねた「満洲グラフ」の筆者は「そこは見渡すばかり緑一色の麦畑であった」と記しています。
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遺址から400mほど渤海鎮側に戻ったところに渤海上京龍泉府遺址博物館があり、渤海国に関する歴史展示を見ることができます。
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都城は唐の長安を手本に造られ、外城、内城、宮城の3部分から構成されており、外城の長さは周囲約17.5kmにも及びます。1930年代に日本の研究者が発掘調査を行った結果、宮殿は東西幅200m、南北300mほどの広さで、日本の平安時代の寝殿造を彷彿させるものだったようです。

当時の宮城を再現したジオラマもあります。
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この地を訪ねた人がもうひとつ必ず足を運ぶのは、渤海時代の唯一の建造物が残る興隆寺です。
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渤海上京龍泉府遺址から2kmほど離れた場所にある寺院で、1662年(清の康熙元年)に渤海国の寺院跡地に創建したものです。現存するのは、馬殿、関帝殿、天王殿、大雄宝殿、三聖殿などですが、有名なのは唯一渤海国時代の建造物で、いちばん奥の三聖殿の内部にある大石仏と、その前に置かれた高さ6mの石灯籠です。
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満洲国が建国された1930年代、日本から多くの研究者がこの地を訪れ、発掘活動を行いました。その背景について「満洲グラフ」は次のように述べています。

「渤海において特筆すべきは二百年の長きに亘って続いた日本との國交である。文献によれば日本から渤海に来た使節回数は十七回、渤海から日本へ渡ったものは三十五回の多きに上っている。ところで渤海は使節派遣の船をいったい何處から出したのであろうか。それに就いては、恐らく今の図們江の河口から北に寄ったソ連領にあたる附近又は清津から少し南へ下った附近から船出したのではないかと言われている。その船は日本海を渡って敦賀あるいは南は大宰府に着いたと傳えられているが、その時々によって、日本の種々な地點に上陸したものと考えられている」

実際、奈良時代に使われていた和銅開珍もここで発掘されています。1200年前にこの地を訪れた日本人がいたことを思うと、歴史のロマンを感じさせます。

ただ一方で、この時期語られる日本と渤海の交流の歴史の強調は、満洲国建国を正当化しようとする当時の日本人の歴史認識と大いに歩調を合わせているように思えてなりません。

こういうことはいつの時代もあることだと思いますが、実は、現在もそれによく似た歴史認識の意図的な誘導が起きているようです。
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上京龍泉府遺址を解説する石碑のすべてに「渤海国は唐(中国)の『地方政権』である」と記されていることです。
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当然、これが渤海を朝鮮民族の王朝とみる韓国との間で歴史論争を生む原因となるわけです。

こうしたこともあってか、前述した渤海上京龍泉府遺址博物館内の展示をみても、当地で発掘された文物の写真があるのみで、大半は黒龍江省の省都のハルビンにある博物館に移されているようでした。
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また一部の展示の撤去も見られます。どういうことなのか、気になります。
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後日、ハルビンの黒龍江省博物館を訪ねてみました。
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黒龍江省の古代史のエリアの一部に「経営東北―海東盛国」というコーナーがあります。ここで語られているのは、唐による東北支配(渤海はあくまで地方政権という位置付け)という歴史認識の既成事実化でした。
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金の菩薩像、騎馬銅人、三足の鉄鍋など、これらはすべて上京龍泉府遺址の周辺で発掘された文物です。
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そもそも1200年前の時代の王朝の位置付けについて「地方政権」という現代的な概念を持ち出すことの意味をどう理解すればいいのか、大いに疑問です。中国が国内の少数民族統治を正当化するためのロジックに使いたいという事情はあるのだとしても、自国の周辺地域で起きた何もかもを「中国史」に編入しなければ気が済まないのは無理があるし、彼ら自身それをどう頭で納得して理解しているのか、広く他者にもわかることばで説明してほしいものです。

渤海上京龍泉府遺址へは、牡丹江駅前の光華バスターミナルから「東京城」行きバスで終点下車。そこから「渤海」行きバスに乗換、「遗址」下車、所要1時間30分。タクシーなら所要1時間が目安です。
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遺址の入口の門は、高速道路の東京城インターチェンジを降りてすぐの場所にあります。
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当時の城壁跡はいまでも盛り土になっていて、その上は植林されているのですぐわかります。現在の住所も「渤海鎮」となっています。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 21:12 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)


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