2015年 01月 01日

渤海国の遺跡を隠したいのは誰だ?

前回、黒龍江省にある上京龍泉府遺址を訪ねた話を書きましたが、渤海国の遺跡は他にもまだあります。

奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)
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当時の渤海国の地方制度は、唐にならって高句麗の5部を受け継ぐ五京と15府62州に分けて統治しました。五京には上京龍泉府(黒龍江省寧安市)、中京顕徳府(吉林省和龍市)、東京龍原府(吉林省琿春市)、西京鴨緑府(吉林省臨江市)、南京南海府(北朝鮮)がありましたが、実際に都となったのは上京、中京、東京だけです。

今年7月、西古城(中京顕徳府)と八連城(東京龍原府)を訪ねました。
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西古城は吉林省延辺朝鮮族自治州の延吉から長白山に向かう和龍市の道路沿いにありました。

ところが、ここでは遺址の周辺はフェンスに囲まれて中に入ることはできません。
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仕方なく遠目から望遠レンズでフェンスの中を写しましたが、宮殿の柱を置く石台が並んでいるのが見えました。
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なぜ見学できないのか。

前回も書きましたが、渤海の遺址内の石碑にはすべて「中国の地方政権」という記述が見られ、これが渤海を朝鮮民族の王朝とみる韓国との間で歴史論争を生んでいるからです。地元の知人によると、昨年も韓国メディア関係者がここに来て、遺址内を撮影しようとしたところ、公安によって拘束される事件が起こりました。その際、カメラが壊されたとかで、騒ぎになったそうです。

延辺朝鮮族自治州には1992年の中韓の国交回復以降、多くの韓国人が観光や投資を目的にやって来るようになり、こういうことが年中起こるため、中国当局は韓国人だけでなく、中国国民も含めて何人も遺址内には入れないことにしたようです。

今回ぼくが訪ねたときも、フェンスに近づくことはご法度で、なるべく足早に立ち去ってほしいと言われました。公安に見つかると、面倒だからです。
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それでも、遺址の隣に事務所のような建物があり、チケット売り場までありました。しかし、そこには誰も常駐していませんでした。
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ここで発掘された重要な文物のほとんどは延辺に残らず、吉林省の省都である長春の博物館に持っていかれてしまったに違いないことは以前書いたとおりですが、ではこの建物は何のために建てられたのか。

延辺朝鮮族自治州60周年にできた延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係
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道路沿いにも遺跡のありかを伝える大きな標識が立っており、もともと遺跡として公開し、観光客を呼び込むつもりだったことがうかがえるのです。
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さて、後日出かけた吉林省琿春市にある八連城は、広大なトウモロコシ畑の中にありました。

西古城と同様、遺跡はフェンスで囲まれていました。
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そのときすでに夕暮れが近づいていて、途方に暮れてフェンスの外に立ち尽くしていた我々のもとにひとりの男性が近づいてきました。公安というより地元の農家のおじさんという感じの人です。
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そこで、八連城の遺跡を見に来た旨を素直に伝えると、彼は地元政府に依頼された遺跡の管理人だったらしく、わざわざ外国から来た客人ということで、フェンスの鍵を開けて中に入れてくれたのです(韓国人ではなく、日本人だったから許可されたのかもしれません)。ただし、写真は撮ってはいけないと言われました。

八連城の遺址内も、上京龍泉府と同様に、宮殿の柱を置く石台が並んでおり、解説のパネルなどもすでに設置されていました。つまり、地元としては公開する気は満々のようなのです。

実は、ここにも遺跡の事務所とチケット売り場の建物があり、閉鎖されていました。渤海の博物館も造る計画があるものの、7年前から事業が延期されているとのこと。早く政府の推進許可が下りてほしいと管理人は話していました。
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そもそも琿春市は「渤海の里」というキャッチフレーズで地元の観光PRをするつもりだったようです。高速道路で琿春に近づくと、「渤海」を喚起するパネルがいくつも並んでいました。
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渤海国の遺跡の公開をめぐって、地元と政府の間では思惑の相違があるようです。遺跡を隠したいのは、明らかに政府の側です。理由はすでに述べましたが、とても信じられないことです。あまりに子供じみているからです。

それにしても、彼らはなぜ古代史と現代史の切り分けができないのでしょうか。いろんな理屈を言いつのるのかもしれませんが、政治に根差した自らの歴史認識に固執することは紛争の種を蒔き広げることにしかならないのに。この論争ばかりは不毛というほかありません。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 22:23 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)


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