2015年 01月 03日

「典型的な露西亜式」綏芬河の歴史的街並みを歩く

戦前期のグラビア誌「満洲グラフ」は、1935年当時の綏芬河について以下のように記述しています。

「人口約一万、大部分は露人と滿人で、鮮人がこれに次ぎ、日本人も六百人位住んでいる。町は山の斜面に建てられ、その中央には全市をしろしめすかのようにロシア正教寺院の尖塔が聳え、如何にも典型的な露西亜式の『山の町』を成している」(「満洲グラフ」1935(昭和10)年5月号)

昨年7月、綏芬河を訪ねました。80年前に「典型的な露西亜式の『山の町』」といわれた歴史的な街並みを歩いてみました。

まず綏芬河駅から。1898年に開業した東清鉄道の駅です。
b0235153_1181312.jpg

これが乗車口です。この駅にはロシア側の国境のまち、グロデコヴォ行きの列車が1日2本出ています。
b0235153_1182644.jpg

駅舎内です。
b0235153_1184119.jpg

鉄道をまたぐ橋の上から、ロシアからの木材を満載した貨物列車が見えます。
b0235153_119287.jpg

これは東清鉄道の技術者のための宿舎で、現在は「鉄路大白楼」(1903年竣工)と呼ばれています。満鉄職員の宿舎だったこともあります。現在は市が来賓を接待する場として使われているようですが、観覧はできません。
b0235153_1193291.jpg

b0235153_11103234.jpg

その隣にも当時の鉄道関係と思われる建物があります。駅の周辺にはこうした建物がいくつか残っています。
b0235153_11105430.jpg

駅からまっすぐ坂を上った先に東方正教会(1913年)が建っています。
b0235153_11111351.jpg

b0235153_11112817.jpg

いまでも礼拝は行われているようですが、ロシア正教ではなさそうです。内装は当時の面影はありません。
b0235153_11114170.jpg

これは当時のロシアとソ連の領事館(1910年)です。新中国になると接収され、共産党の機関や郵便局などに使われました。
b0235153_1112164.jpg

b0235153_11123717.jpg

現在は文化施設として再利用される予定のようです。
b0235153_11125129.jpg

この大きな建物はロシア人学校です。日本時代は軍の施設だったようですが、現在は幼稚園のようでした。子供たちの歌声やピアノの音色が聞こえました。
b0235153_11132749.jpg

b0235153_11134916.jpg

これは1916年に建てられたホテルでしたが、24年に共産党の幹部がここで会合をしたことから「綏芬河革命紀念地」と書かれています。現在は針灸と按摩の病院のようです。
b0235153_11142073.jpg

b0235153_11143525.jpg

b0235153_11145899.jpg

これは旧日本領事館です。建物自体はロシア人商人が1914年に建てたもので、22年に日本政府が購入して領事館にしました。文化革命時には排外的な暴徒によって美しい装飾が破壊されるなど被害があったものの、92年に修復されました。
b0235153_11152061.jpg

b0235153_11154216.jpg

3階と4階の間に施された人の顔の装飾が珍しいことから、「人頭楼」と呼ばれています。もっともこれを見る限り、ずいぶん雑な修復ぶりですね。現在は、語学教室など、いくつかのオフィスが入居する雑居ビルとなっています。
b0235153_111617.jpg

まちの中心に位置する広場は「旗鎮広場」と呼ばれています。
b0235153_11162646.jpg

b0235153_11164946.jpg

頭上から広場を眺めると、ヨーロッパのような街並みに見えます。この辺境の地でもマンション建設が進んでいることがわかります。
b0235153_1117448.jpg

このまちでは、通りやバス停の表示にはロシア語が併記されています。
b0235153_11171762.jpg

b0235153_11173634.jpg

b0235153_11175575.jpg

[PR]

by sanyo-kansatu | 2015-01-03 11:17 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)


<< 綏芬河にはロシア人ツーリストが...      朝9時半、綏芬河駅にロシア人が... >>