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2015年 01月 16日

鴨緑江断橋の展示に見られる中国の歴史認識がわかりやすい

中朝国境最大のまち・丹東(遼寧省)には、朝鮮戦争時代に米軍によって落とされた鴨緑江断橋があります。
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断橋の隣には、中朝友誼橋(写真・左)が架かっています。そちらは朝鮮と結ぶ鉄道と車両の両用の橋です。

断橋の遊歩道を歩くと、橋の断たれた先が展望スペースになっていて、朝鮮に向かって橋脚だけが残る光景が見られます。対岸の北朝鮮の風景も眺めることができます。
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この橋は1909年に日本が朝鮮領内の京義線を中国につなげるため、「鴨緑江橋梁」として建設したものです。当時鴨緑江を航行する船舶のために橋の中央部が旋回できるよう設計されていました。そのための駆動軸がいまも残されています。
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断橋の歩道の両サイドには、数十枚にわたる写真パネルが展示されており、そこにはこの橋の100年の歴史が記されています。日本がからむこの地域に関する中国の歴史認識を考えるうえで、とてもわかりやすい素材だと思ったので、以下主なパネルを紹介します。

まず全体像を理解するために。これが現在の断橋と中朝友誼橋の全貌です。
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1908年8月、日本は朝鮮側の橋の基礎工事を始めています。展示によると、09年4月日本は腐敗した清朝政府に圧力をかけ、5月には橋の建設を強行したとあります。
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船舶の航行時は、橋の中央部が90度旋回したことが解説されています。一度の使用時には20分要したそうです。
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開通は1911年10月。線路の両脇に歩道があり、当時の人たちは歩いて渡ることができたようです。
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1943年4月、「日本侵略者」はもうひとつの橋(第二橋梁・現「中朝友誼橋」)を建設します。45年8月15日、日本は第二次世界大戦に無条件降伏し、以後この橋は中朝両国が共有することになります。
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ところが、50年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、鴨緑江沿岸にも危機が迫るとあります。
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毛沢東は「抗美援朝、保家衛国」(米国に対抗し朝鮮を支援することで、国家を防衛する)政策を決定し、朝鮮半島への派兵を開始します。
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同年10月19日、中国人民志願軍は安東(丹東)、河口、輯安(集安)の3カ所から朝鮮領内に入ります。
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同年11月8日午前9時、B29が鴨緑江大橋を爆撃し、一部の橋桁が落ちます。
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さらに同月14日、米軍は再び来襲し、朝鮮側の橋桁は完全に落ちてしまいます。
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53年7月27日、朝鮮戦争の停戦協定が結ばれます。「こうして2年9か月の抗美援朝戦争に勝利した」とあります。
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58年、中国人民志願軍が凱旋帰国するとあります。停戦から5年間も朝鮮領内にいたとは。何をしていたのでしょう。
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停戦直後の鴨緑江断橋の両岸を撮ったもののようです。この当時は、当然のことながら、戦火のため丹東も対岸の新義州も疲弊していたことがわかります。
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断橋の改修が始まったのは、朝鮮戦争停戦から約40年後の93年6月です。
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94年6月28日、断橋の改修工事は完了し、旅游区として正式に対外開放されます。
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さて、このパネル展示には、1910年の開通後から終戦末期の42年までの約30年間の歴史は省かれてしまっています。そして、朝鮮戦争における米軍の爆撃や人民志願軍の「抗美援朝」政策に基づく出兵がメインストーリーとして語られます。さらにいえば、人民志願軍の帰国から90年代までの30数年間についても、触れられていません。

中国側がつくった展示ですから仕方がないことでしょうが、この地域の過去100年に関する中国人の歴史認識を形作るうえで、彼らが史実を採用する基準がどこにあるかを理解するには、とてもわかりやすいパネルだと思います。

それは言うまでもなく、抗日&朝鮮戦争を「勝利」に導いた共産党政権の正統性(ことの成否はともかく)に関わる基準です。ここでその歴史認識の是非を問うことに意味はありません。むしろ、何を採りあげ、何を採りあげないのか。その判断の基準を知っておくことで、彼らと仮に歴史について話す機会があるとき、議論を深めるうえで参考になるだろうということです。そういう意味では、鴨緑江断橋は今日の中国の歴史認識を考えるうえで、きわめてシンボリックなスポットのひとつといえそうです。

ちょっと面白いと思ったのは、以前丹東駅のターミナル構内に展示されていたこの駅の100年の変遷を物語る十数枚の写真との比較です。1910年から45年までの30年間の駅舎とその周辺の様子も知ることができます。そこには駅のプラットフォームに着物姿の日本人が写っている写真も含まれ、興味深いです。丹東駅では中国の歴史認識に関わる事件が起きてはいなかったため、こういう見せ方ができたのでしょう。

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)
http://inbound.exblog.jp/20541074/

断橋のたもとには、いまでもトーチカが残っています。
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最近、断橋の前にへし折れた鉄骨をアート仕立てにした展示と石碑が置かれました。断橋が戦跡であることをさらに強調するための作品のように見えます。
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下流域についに新しい大橋(正式名は「中朝鴨緑江公路大橋」)が完成したものの、朝鮮側の事情ですぐには開通に至らないなど、中朝関係が以前と比べずいぶん様変わりするなか、「抗美援朝」を強調する戦跡というこのスポットの意味づけは、今後どうなっていくのでしょうか。

中朝新国境橋が完成しても開通できない理由
http://inbound.exblog.jp/23944673/

丹東の抗美援朝紀念館とあやうい愛国主義「歴史」教育について
http://inbound.exblog.jp/20441774/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-16 12:16 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)


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