ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2017年 09月 14日

サハリン北緯50度線、日ソまぼろしの国境標石跡を訪ねる

もう70年以上前のことですが、サハリンの南半分は日本の国土でした。
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当時、サハリンの北緯50度線に沿って日本とソ連(当時)の陸路の国境があったのです。

※同じ1905年にロシアから租借地として移行した中国の関東州(大連)にも清国との陸路国境と税関がその後できています。

今年6月、北緯50度線に位置するかつての国境標石の跡を訪ねました。

サハリン東海岸の中央部に位置するポロナイスクのホテルで車をチャーターし、北に向かって所要1時間半。道路は舗装されていて悪くはありません。ドライバーは、これまで何度か日本人を乗せたことがあるという地元出身のニコライさんです。英語を少し話します。もちろん、車は右ハンドル。
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一見強面ですが、とてもフレンドリーで、家族でタイ旅行に行った写真を見せてくれ、とても快適なドライブでした。
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「樺太・千島戦没者慰霊碑」の案内板が見えたので、脇道を入っていきます。
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森の中に白い慰霊碑がありました。
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その近くにソ連兵の慰霊碑もあります。
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幹線道路に戻り、北に向かうと、今度は日本の要塞跡がいくつもありました。
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これは要塞の中です。
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ロシア語の解説もあります。
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これは別の要塞、あるいは司令部の跡です。
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第2次大戦終戦前夜に侵攻してきたソ連軍と日本軍の戦闘の記録を解説するプレートも置かれています。
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さらに北に進むと、道路の左手に「50」と書かれた碑(冒頭の写真)が立っていました。日本統治時代に建てた国境標石跡は、そこから100mほど白樺並木に入った場所にあります。

これがそうです。標石は取り除かれたものの、台座は地中奥深くまで埋められていたため、台座だけが残っているのです。
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樺太が日本領だった時代、かつて存在したこの国境標石を見物に来る観光客がけっこういたといいます。まさにボーダーツーリズムです。1924年(大正14年)8月に樺太旅行に出かけた北原白秋は『フレップトリップ』という陽気な紀行書を書いていますが、彼の場合は西海岸を船で進み、当時安別と呼ばれたのがソ連との国境の町で、そこを訪ねています。

また1934年(昭和9年)6月、林芙美子も樺太に渡り、「樺太への旅」という紀行文を書いています。彼女は当時の日本領の最北の地に近い敷香(ポロナイスク)まで来て、国境見物を見にいくか、敷香の近くにある先住民の暮らす集落を訪ねるか迷っていましたが、結局、先住民に会いに行くことに決め、国境には足を運びませんでした。

この国境線に沿っていくつかの国境標石が立っていたようで、白樺並木も数メートルほどの道が東西に向かってできています。

台座は年月とともに苔むしていますが、このまま残してほしいものです。
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車のチャーター代は言い値で7500RB(約1万5000円)でした。初夏のこの時期、林の中は蚊が多いので、虫除けスプレー必携です。

ところで、撮影中、佐藤憲一さんのカメラのGPSをみると、北緯49度59分57秒と表示されました。北緯50度のちょっぴり手前だったようです。
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by sanyo-kansatu | 2017-09-14 13:06 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)


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