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カテゴリ:日本人が知らない21世紀の満洲( 77 )


2017年 10月 03日

中国一の スキーリゾートは吉林にある(松花湖国際スキー場&松花湖プリンスホテル)

北京冬季オリンピックの開催が2022年に決まり、いま中国ではウィンタースポーツが盛り上がり始めている。北京周辺を中心に続々新施設が誕生しているが、やはり雪質など自然環境に恵まれた東北地方のスキーリゾートの評価は群を抜いている。2015 年1月、吉林省吉林市の郊外に開業した松花湖国際スキー場は中国一のレベルを誇っている。白銀のゲレンデに舞う中国人スキーヤーたちの初々しい姿を追った。
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↑松花湖スキーリゾートの展望台『森之舞台』から眺めるゲレンデと氷結する松花湖の絶景

北京冬季五輪の開催決定で
活気づく中国のスキー市場


春節も近い今年2月初旬、吉林市郊外にある松花湖国際スキー場を訪ねると、京劇のような派手な装束をまとった男女が朝から雪の上を踊り舞っていた。

日本のスキー場ではお目にかかれない不思議な光景もあるが、ゲレンデに目を転じると、中国各地から訪れたスキーヤーたちが白銀の世界を心ゆくまで楽しんでいる。

若者のグループや小さな子連れのファミリー客も多い。スノーボーダーもかなりいる。ただ全体をみると、日本に比べ、初心者が多いこともわかる。圧倒的に密集しているのは、リゾートの目の前の傾斜のゆるいゲレンデだからだ。おそらく日本の1970年代前半のスキー場がこんな感じだっただろう。でも、スキーウェアは真新しいブランドもの。中国では、それなりの階層にいる人たちだと思われる。

中国でレジャーとしてのスキーが始まったのは2000年代以降。特にこの数年、スキー市場は活気づいている。背景には、2022年の北京冬季オリンピック開催の決定がある。中国政府は、この年までに中国でのウィンタースポーツ(スキー、スノーボード、スケート等)の愛好者、関連活動(イベント等)参加者、業界関係者などを含む人数を3億人にすると言い出している。これまでのようにエリート育成でメダルを量産するのではなく、スポーツ人口の裾野を広げることの重要性に気づいているからだろう。

「中国スキー産業白書(中国滑雪产业白皮书)」によると、昨シーズンにゲレンデへ足を運んだ国内客は延べ約1500万人(前年比20%増)に達し、全国で646のスキー施設(前年比13・7%増)があるという。愛好者は200万人といわれる。人口規模からいえば、まだ特別な人たちのレジャーであることには違いないけれど、オリンピック会場となる河北省張家口市周辺を中心に莫大な投資が行われ、続々と新しいスキーリゾートが開発されている。なかでも2003年に開業した万龍スキー場や、マレーシア資本で12年開業の崇礼密苑雲頂楽園スキー場、さらにはスイスやイタリアなどの海外資本も呼び込む巨大プロジェクトとなった15年開業の崇礼太舞スキー場は有名だ。

もっとも、スキーの本場は寒冷な気候や雪質など自然環境に恵まれた東北地方である。投資額は北京にはかなわなくても、白書が伝える国内上位施設のランキングでトップなのが松花湖国際スキー場だ。以下、2位長白山スキーリゾート(吉林省)、3位万龍スキー場、4位崇礼密苑雲頂楽園スキー、5位崇礼太舞スキー場、6位ハルビン亜布力スキー場(黒龍江省)と東北勢が上位を占める。いま中国一のスキーリゾートは吉林にあるのだ。
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↑リゾート内に現れた春節の舞い。いかにも中国らしい演出だ
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↑リゾート周辺には高い山がないため、はるかかなたの雪景色が見える
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↑子供連れのファミリーが多く、ゲレンデはおしゃべり声でにぎやかだ 
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↑スキーセンターではスキー用具の貸し出しやリフトチケットなどを販売。日帰りでスキーだけ楽しむ地元の人も多い 
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↑カラフルなスキーウェアに身を包むスキーヤーたち 
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↑4人に1人はスノーボーダー 
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↑子供向けのスキースクールもある。パンダのかわいいビブスを着けてボーゲンで傾斜を滑る 
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↑山頂レストラン『吉林ワン』のテラスからは吉林市内や松花江などが見渡せる 
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↑リフト1日券は5000円。日本と変わらない 
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↑日が沈むとかなり冷え込むが、夕食後のナイトスキーも楽しめる

11月には早くもオープン
松花湖国際スキー場


2015年1月、吉林市から東南約15㎞の山間に、松花湖プリンスホテルと松花湖国際スキー場が開業した。世界大会でも使用される競技用の本格的なコースのほか、ビギナーでも山頂から滑走できる多彩なコースなど28本を完備。レンタルスキーやスクールの予約ができるスキーセンター、おしゃれな山頂レストラン『吉林ワン』、高速ゴンドラや電熱シート装備のリフトなど、世界の最新設備が導入されている。

リゾートの周辺には、中国ディベロッパー最大手の万科グループが開発するショッピングモールや別荘エリアの並ぶ「吉林省松花湖国際リゾート」が広がっている。「プリンス」の名を冠した施設が中国に誕生するのは初めてだが、それには理由があった。日本のスキーリゾートの運営ノウハウを取り入れたい万科の意向で、開発コンサルティングからサービス全般までプリンスグループが担当することになったからだ。

集客は好調で、利用者の95%以上は中国人。地元東北三省や北京、上海、広州からが大半を占める。残りはロシア人と11月のプレシーズンにトレーニングを行う日本の若手選手たちだ。寒冷な気候ゆえ、営業期間が11月中旬から(3月中旬まで)と日本より早く始まるため、約1カ月この地で合宿を行った後、日本各地の大会や海外に転戦していくのだ。

人気の理由は雪質だ。シーズン中はマイナス20度から30度に下がるため、北海道旭川の水準に相当するパウダースノーとなる。

施設も日本と変わらぬラグジュアリータイプで、ホテルの正面玄関を入ると、ロビーからコースが見上げられるという設計上の演出が施されている。レストランは日本料理や中華料理、ブュッフェ式のオールディダイニング、バーもある。インドアプールやSPA、フィットネスクラブも完備。滞在中は快適そのものだ。

テラスカフェのある山頂レストラン『吉林ワン』は、リフトのそばにあり、眺めが最高だ。当初はカフェのみの営業だったため、利用は少なかったそうだが、中国式の手延べ拉麺を導入したとたん、人気上々となった。パフォーマンス効果もあるし、何よりスキーで冷えた身体を熱々の拉麺が温めてくれるからだ。

必ず訪れたいのは、中国の有名建築家・王硕氏が設計した展望台『森之舞台』だろう。山頂近くに忽然と姿を見せる巨大な三角形の建造物だが、中に入ると、美しいゲレンデと氷結する松花湖が見渡せる。

今後、日本を訪れる中国人スキーヤーは、こうした最新リゾートを体験済みであることを知っておかなければならないだろう。
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↑『森之舞台』の中に入ると、左右に広がる絵画のような展望を楽しめる
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↑松花湖プリンスホテルの玄関から見上げると、スキーコースが見渡せる
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↑『吉林ワン』の手延べラーメンは大人気 
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↑最高級グレードの寝室 

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↑バスルームの外は雪景色 
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↑本場の中華料理が味わえる 
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↑ブュッフェ式のダイニングは朝晩とメニューが変わる 
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↑王硕氏が設計した『森之舞台』は「中国最高冷建築」として高い評価を受けている 
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↑日本人選手がサインしたTシャツの展示 
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↑夜になると、幻想的に浮かび上がるホテルの外観

松花湖プリンスホテル(松花湖西武王子大饭店)
吉林省吉林市豊満区青山大街888号
http://www.princehotels.co.jp/syoukako

※『中國紀行CKRM Vol.09 (主婦の友ヒットシリーズ) 』(2017年10月18日発売)に掲載された記事を転載しています。
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by sanyo-kansatu | 2017-10-03 17:00 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2017年 07月 31日

聖なる高原リゾート、長白山に登る

長白山(朝鮮名:白頭山)は吉林省東南部に位置する標高2744mの名峰だ。清朝を興した満洲族や朝鮮民族の聖地とされるこの霊山には「天池」と呼ばれる美しいカルデラ湖がある。原生林に覆われた山麓は、野趣あふれる温泉や高山植物の宝庫として知られ、国内外から多くの登山客が訪れている。日本からのアクセスも悪くない。北京経由、同日着で山麓まで行ける。(2008年5月、12年7月、14年7月取材)
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↑コバルトブルーに輝く天池に映る白雲。山の天気は変わりやすく、このようなクリアな湖面を見せてくれるのは珍しい

1年の大半は氷に閉ざされた北緯42度の神話の山

5月中旬、長白山の山頂付近はまだ雪を被っていた。北坡の山門を抜け、林道を進むと「長白瀑布」と呼ばれる大きな滝が見えてきた。滝の周囲は氷雪にびっしり覆われていた。

天池に登るのはこれで2度目だった。誰でも安全に登れるように滝つぼの脇にコンクリート製の見栄えのよくないトンネルの登山道ができていたが、以前は滝つぼを間近に見ながら水しぶきで濡れた岩場をおそるおそるよじ登ったものだ。

階段を上りつめると視界が開け、天池から零れる雪解け水がまさに落下する滝口が目の前に見えた。手に触れるとしびれるほど冷たい。これが松花江の源流である。そこから厚い雪の壁の間にできた通り道をしばらく歩くと、ついに天池が目の前に現れた。

それは吹雪舞う北緯42度の極寒の光景だった。天池は一面厚い氷で閉ざされていた。時おり陽光が差し込む瞬間はあったが、頭上を覆う黒雲の変化は早かった。
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↑静寂に包まれた天池では、時おり氷結した湖面を滑るヒューという風の音が聞こえる。対岸は北朝鮮領だ。

1年の大半は氷結する天池だが、7月に入ると、風景は一変する。氷はウソのように消え、湖面は空の色を映して神々しいまでの紺碧に染まる。

天池にはこんな伝説がある。天女の三姉妹がこの湖で水浴びをしていたところ、神の使いのカカサギが赤い実を運んできた。その実を食べた三女は身ごもり、男子を産む。その彼こそ清朝を興した満洲族の始祖だという。朝鮮民族にもこの山麓を民族のルーツと結びつけた伝説がある。いずれも両民族の建国神話として伝わっているが、その舞台がかぶっているのは、いかにも大陸らしい話といえる。長白山系は中朝両国にまたがり裾野を広げているからだ。天池の半分は北朝鮮領でもあるのだ。

長白山は休火山で、歴史上何度も噴火している。特に大きかったのが約1000年前で、吹き飛ばされた岩石や灰は日本にまで届いたという記録も残っている。

このときの噴火の凄まじさを幻視した画家がいる。遼寧省出身の高斉環画伯だ。

彼の代表作『爆発』は、爆裂する長白山から大量の黒煙とマグマが噴き出す光景を描いたものだ。この作品が描かれたのは、改革解放後の1985年で、中国の長い政治動乱が収束し、しばらくたった頃のことである。彼が作品に込めたのは時代への怒りだったのか。

画伯の本来の作風は、大学時代にロシア美術を通じて学んだ油絵や水彩画、フランス印象派の手法を中国の水墨画に融合させた彩墨画を通じて表現される優美な世界にある。今日の中国ではもう出会うことの難しい、人と自然の暮らしが溶け合う夢心地のような原風景を多数描いてきた。その意味では、彼の作品の中でも特異な系列にあたる。

旅する画伯が描いた36年前の江南水郷の原風景
http://inbound.exblog.jp/24977546/
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↑天地から滝に落ちる雪溶け水。ここから松花江の支流に向かい、黒龍江(アムール河)に合流した後、オホーツク海に至る。
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↑外輪山のひとつ、北坡の天文峰展望台から望む氷結する天池。5月でも厚い防寒ジャケットがないと凍えてしまう。
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↑高斉環画伯は1935年遼寧省遼陽生まれ。幼少より高名な水墨画家から手ほどきを受けた彼は、瀋陽の魯迅美術学院卒業後、黒龍江省ハルビンの美術出版社に画家兼編集者として着任。東北三省をはじめ全国を旅しながら絵筆を執った。画歴60年間の集大成となる『高斉環画集』が2015年7月、東京で刊行された。

夏は高原植物の咲き乱れる山岳リゾートに変貌

神話の山にも時代の波が押し寄せている。長白山が今日のように大きく変貌するきっかけとなったのは、2008年夏の長白山空港の開港である。

長白山の観光開発は1980 年代後半から始まり、特に92年の中韓国交樹立以降、多くの韓国人が訪れるようになった。その後、2000年代中頃になると、豊かになった中国の国内レジャー客も大挙して現れるようになった。

登山シーズンは6月中旬から9月中旬の3ヵ月間。この時期、山麓のなだらかな草原に群生した高原植物が一斉に花を開く。北緯42度は北海道の駒ケ岳の緯度にあたるため、オダマキやオヤマエンドウ、キバナシャクナゲ、ツガザクラ、ヒナゲシなどが見られる。

長白山には北坡(北坂)、西坡(西坂)、南坡(南坂)の3つの外輪山から天池を望める登山コースがある。このうち最初に開発されたのは、長白山の北側に位置する北坡山門コースだ。山門からは長白瀑布に向かう道と、途中から中国側最高峰の天文峰に登る道に分かれている。原生林を散策する林道もあり、ショートトレッキングに最適だ。

長白山空港から最も近いのは西坡山門コース。近年本格的な開発が進められ、登山を楽しんだ後にくつろげる温泉付きの国際的な山岳リゾートホテルが続々と誕生している。朝1時起きで展望スポットまでの長い階段を上ると、天池越しにサンライズウォッチングできるのは西坡だけだ。

最近開発されたのが南坡山門コース。山門から頂上に向かう登山道に見られる高原植物の豊富さは随一。鴨緑江の源流となる長さ10kmの大峡谷の絶景もある。コースによってそれぞれ異なる景観や体験が楽しめる。

中国の名山といえば、黄山(安徽省)や廬山(江西省)、泰山(山東省)が有名だ。隆々しく変化に富む奇抜で神秘的な景観はいかにも中国人好みで、道教の世界観と縁が深い。一方、長白山は北方民族の霊山であり、なだらかに裾野の広がる富士山のような美しいシルエットが特徴。原生林やカルデラ湖、火山活動の跡を残す渓谷や溶岩痕、野趣あふれる温泉、高原植物の咲き乱れる光景など、どれを取っても中国では珍しい。

最近では冬季シーズンのスキーリゾート化も進められている。本格的なリゾートとなるにはまだ時間がかかりそうだが、1年中を通して観光客が訪れる山岳リゾートに生まれ変わろうとしている。一方、世界遺産登録を目指す地元吉林省では、野放図な開発は抑制しようとする動きも見られる。登山客の増加が環境悪化をもたらす懸念から、3年前から前述の長白瀑布の脇の登山道は閉鎖され、天池への観光客の立ち入りは禁止されている。
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↑長白山空港の開港以降、北京や上海、長春などから直行便が運航。空港から西坡山門まで車で15分という距離にある。
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↑天池の水は落差68mの長白瀑布から落ちていく。雪解けの頃には、水しぶきが登山路まで飛んでくるほど。
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↑北坡の天文峰展望台は天池を望むのに最もポピュラーなスポット。夏は展望台からあふれんばかりの登山客が訪れる。
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↑北坡の原生林の林道を歩くと、エメラルド色の水をたたえる緑淵潭をはじめ、美しい湖沼がいくつもある。
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↑西坡から南坡にかけた長白山中腹はフラワーハイキングのメッカ。キンポウゲの咲くのどかな草原が広がっている。

※『中國紀行CKRM Vol.08 (主婦の友ヒットシリーズ) 』(2017年7月18日発売)に掲載された記事を転載しています。
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by sanyo-kansatu | 2017-07-31 13:20 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2017年 03月 22日

内蒙古の大草原でパオのお宅訪問

内蒙古自治区の東北部に位置するフルンボイル平原には、なだらかな丘陵と草原がどこまでも広がり、馬や羊が群れなしている。ただし、この絶景が見られるのも、1年のうちわずか3ヵ月間ほど。この時期、中露国境に近い草原とその起点になる町は多くの観光客でにぎわう。
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↑モンゴル族のスー・チンさん一家をパオの前で記念撮影。11歳になる男の子は、わざわざ民族服に着替えてくれた。
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↑パオの中は思ったより広い。5歳になる末娘はひとみしりで、突然の訪問客に身をガチガチに固め、うつむいてばかり。最後には泣き出してしまった。ごめんね。

お邪魔してわかったパオの暮らしはシンプルで快適

内蒙古の草原を訪ねるのが決まったときから、ある計画を胸に秘めていた。モンゴル族の暮らすパオ(中国語。モンゴル語はゲル)を訪ねててみたいと思っていたのだ。

中露国境の町、満洲里から北に向かって草原の一本道を走っていたときのことだった。道路からはるかに離れた地平線沿いにいくつものパオが点在していたが、路端から数百メートルほどのそれほど遠くない場所にひとつのパオを見つけたのだ。「よし、あのパオを訪ねてみよう」。車を停め、同行してくれたフルンボイル市ハイラル区に住むモンゴル族のガイドの海鴎さんと一緒にパオのある場所まで歩いていくことにした。

いわゆるアポなし訪問だったが、そんな大胆なことができたのも旅空の下にいたからだろう。近くで見るパオは意外に小さく、少し離れた場所に何百頭という羊の群れがいた。

最初はためらいを見せていたパオの住人も「わざわざ日本から来たのだから」と温かく迎え入れてくれた。その日の気温は40度近かったが、パオの中がこんなに涼しくて過ごしやすいとは知らなかった。草原を渡る風が突き抜けるとき、熱を遮断する構造なのだ。お邪魔してわかったのは、彼らの住まいは限りなくシンプルで快適ということだった。
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↑パオの中の調理用具はコンパクトで、まるでキャンピングカーのような暮らしがうかがえる。自家製ソーラー発電機も使っている。

パオの主人はスー・チンさんという女性で、親戚の親子と一緒に過ごしていた。ちょうど彼らは食事の最中で、手扒肉の骨肉を口に運んでいた。彼女はモンゴルのミルク茶「ツァイ」をふるまってくれた。ちょっとぬるくてしょっぱかった。
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↑手扒肉はモンゴル族の日常食で、太い骨付き羊肉を塩で茹でた料理。レストランではタレを付けて食べる。 新鮮な肉は臭くない。
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↑羊の放牧は、空が朝焼けに染まる早朝4時半から日が昇るまでの3時間ほど。男の子も父親の仕事を手伝い、羊を追うのが日課。 
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↑3ヵ月間とはいえ、草原の暮らしには水が欠かせない。お隣のパオははるかかなただ。手前にあるのはゆで肉などを調理する鍋。

草原の暮らしについて話を聞いた。この時期、灼熱の日差しにさらされるフルンボイル平原は、9月になると雪が降り始めるそうだ。1年の大半は雪に覆われ、厳冬期にはマイナス40度以下になるという。ちょっと信じられない話だった。

内蒙古の草原を訪れ、意外に思ったことが他にもいくつかあった。近代的な工場があちこちに建てられていたし、丘陵の尾根には風力発電の巨大プロペラが延々と並んでいた。かつて遊牧民だった彼らの暮らしが大きく変わってしまったのも当然だろう。

モンゴル族の多くはずいぶん前から都市で定住生活を送るようになっている。それでも、1年のうち、雪が溶け、草原が狐色に染まる5月末から8月中旬までの間、スー・チンさんのようにパオ暮らしをする人たちがいる。パオは彼らにとって夏を心地よく過ごすための居場所なのだ。「町で暮らすよりパオのほうがずっといい。自由だから」と彼女は話す。

スー・チンさんは「日本人も私たちと同じ顔をしているのね」と笑った。お隣に暮らす最も身近な外国人であるロシア人に比べればずっと自分たちに近いと感じるのだろう。

国境の町、満洲里のホテルでロシア人ダンサーは舞う


スポットライトがステージに照らされると、にぎやかな音楽とともにロシア人ダンサーが一斉に現れた。華やかな衣装に身を包んだ彼女たちは、ロシア歌謡に合わせて舞い、ブロードウェイ風に踊り、サーカスの曲芸のようなパフォーマンスまで見せた。それは、話に聞く1930年代のハルビンのナイトシーンを思い起こさせる光景だった。
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↑観客は中国の国内客。ダンサーはロシア人。国境の町では、両国の経済力の差が「観る」「観られる」関係を決める。

内蒙古自治区フルンボイル平原の西端にある満洲里。龍港酒店という名のホテルで開かれるディナーショーは、ロシアとモンゴルにはさまれた国境の町の夏の風物詩である。ステージに登場するのは、ロシア娘たちだけではない。地元のモンゴル族の人気歌手による歌謡ショーや馬頭琴などのエキゾチックな演奏もある。

ホテルの宴会場では、この地が短い夏を迎える3カ月間、1日2回のショーが行われている。1年の大半を雪に閉ざされるこの町に、国内外の観光客が訪れるのはその時期しかない。ショーの花形であるロシア娘たちは、お隣の国から来た出稼ぎダンサーだ。

ロシア語で「満洲(Маньчжурия)」 を意味するのがこの町の名の由来である。1901年にロシアが東清鉄道の駅を開業したのが始まりで、以来モスクワと極東ロシアのウラジオストクを最短で結ぶ鉄路の要衝となった。戦後、シベリア鉄道の中露国境駅のある最果ての地として、ヨーロッパに向かう日本人旅行者が車窓から眺めた時期もあった。ここ数年前まではロシアから運ばれた木材の集積地として投資が盛んに行われ、バブル景気に沸いていたが、それも中国とロシアの経済減速によって過去のものとなったと地元の人は話している。それでも、市内には一時期の名残のように、高層ビルがいくつか建っている。
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↑満洲里駅にはロシアからの木材が積まれた車両が並んでいる。かつての好況はもはやないが、駅裏には高層ビル群が見える。
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↑短い夏の間、市内は派手なネオンで彩られる。道を歩く大半は中国の国内客だが、ロシア人の姿も見られる。
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↑内蒙古の草原のもうひとつの意外な光景は、白黒斑の乳牛が多く草を食んでいること。草原の産業化が進んでいる。

いまでは草原観光の起点として、中国国内の都市部の人たちが多く訪れるようになっている。高層ビルの林立する過密都市に住む彼らが、地平線のかなたまでなだらかな丘陵や草原の続く内蒙古の風景に憧れてしまうのも無理はない。草原の一本道をレンタカーでドライブすることは、国内レジャーの一大ブームとなっているのだ。
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↑シベリア鉄道の中露国境は、数年前までは観光地として外国人も訪れることができたが、2016年夏には入境禁止になっていた。

この町には、もうひとつの顔もある。中露国境観光(ボーダーツーリズム)の発地としてである。陸路の国境に囲まれた中国の人たちは、お隣の国への気軽な旅を楽しんでいる。

満洲里発の日帰りロシア観光では、朝6時にバスで国境ゲートを抜け、お隣の町ザバイカリスクへ。そこから約140km離れたクラスノ・カメンスク(红石市)を訪ね、ロシア情緒とグルメを楽しむという。日本人がこのツアーに参加しようと思ったら、入国地を記載したロシア観光ビザを事前に取得する必要がある。いつの日か参加してみたいものだ。

撮影/佐藤憲一(2016年7月)

中国の最果ての地、満州里からロシアへの日帰りボーダーツーリズム
http://inbound.exblog.jp/26545706/

※『中國紀行CKRM Vol.07 (主婦の友ヒットシリーズ) 』(2017年4月18日発売)に掲載された記事を転載しています。
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by sanyo-kansatu | 2017-03-22 15:15 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2016年 12月 23日

ハルビンの「中華バロック」文化街が面白い

近年中国東北地方では、外国人租界のあった上海や青島、天津などで十数年前に起きていた1920年代を復古するレトロブームの東北版ともいうべき「百年老街」が各地に生まれています。その多くは、かつての旧市街の一画を再開発した観光地区や当時の町並みを再現したテーマパークです。

中国東北のレトロブーム「百年老街」と丹東のテーマパーク「安東老街」
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黒龍江省の省都ハルビンの老道外中華バロック歴史文化区も「百年老街」のひとつ。20世紀初頭、ロシアが建設した東清鉄道は満州里から東南に向かって延び、松花江を渡って市内に入り、ハルビン駅に至るのですが、当時、その鉄路(現在の濱州線)の西側はロシア人を中心にした外国人居留地となり、東側の「道外」と呼ばれた地区に中国人が住んでいました。

その後、この「道外」地区に西洋のバロック建築と中国の伝統的な様式が奇妙に融合した「中華バロック」と呼ばれる折衷建築群が生まれました。その特徴は以下のとおり。

「外観は、一見すると西洋古典系建築と、とくにバロック建築に似ていながら、その細部をよく見ると本来の西洋建築とは大きく異なる。また、建物の内部は伝統的な中国の都市建築、すなわち、一階を店舗として、二階から上を住宅にしたり、あるいは、一階の店舗の部分の中央を二階までの吹き抜けとして、建物の奥に住居部分を加えている。また、通路を通って奥に行けば中庭が広がり、それを取り囲んで長屋のような住宅が建てられていることもある。いずれにしても、道路に面した一階部分は商店や飲食店であることがほとんどである」(『「満洲」都市物語 ハルビン・大連・瀋陽・長春』(西澤泰彦著 河出書房新社 1996年))
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こうした構造上の特徴もそうですが、たとえば、最も代表的とされる元同義慶百貨店(現・順化医院)の場合、過剰な装飾性を特色とする西洋バロック建築に似せて、中国の植物などをモチーフとした彫刻を建築の表面に飾り立てていることでしょう。西洋建築では、古代ギリシャ以降、モチーフとして装飾によく使われたのは、聖なる植物とされた地中海産のアカンサスの葉ですが、ここではまったくの別物です。
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日本で最初にハルビンの「中華バロック」建築を紹介した建築学者の西澤泰彦さんの前述の著書には、建物の正面の柱頭部分の装飾について「西洋建築本来のアカンサスの葉を載せたコリント式の柱頭からはほど遠く、よく見れば白菜に似ている」と書かれていますが、本当にそうですね。
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こちらは、順化医院の通りをはさんだ向かい側の建物です。現在は金を扱う金行です。この建物の壁面の装飾も面白いです。
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これが外観は西洋建築でありながら、近づいてよく見ると、東洋的な印象を与える理由でしょう。当時の中国の職人が見様見真似で西洋建築らしく見えるように急ごしらえした事情もあると思われますが、結果的に、世にも不思議な風合いを持つ世界が現出しているのです。

これは20世紀初頭の道外の写真です。
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その特色ある建築群は長い間放置され、老朽化していました。それでも、2000年代半ば頃から少しずつ補修作業が始まりました。それが老道外中華バロック歴史文化区として全面的に再開発され、多くの飲食店が老舗の看板を掲げ、観光スポットとなってきたのは、2010年代になってからです。
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このポスターは、北京の代表的な老街である后海の名を挙げて、ハルビンの老道外も悪くないだろうと訴えています。
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地区には、創業から100年近い歴史をもつ肉まん屋の「張包舗」のような飲食店もあります。
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また東北地方の古い演芸「二人転」などの劇場もあります。
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二人転
http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_7&wr_id=31

レンガ造りの老建築のレトロな感覚を活かしたゲストハウスやカフェもでき、国内各地から若い旅行者が訪れるようになっています。
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ところで、東北地方で「百年老街」という場合、南京条約(1842年)や北京条約(1860年)で開港された上海などの沿海都市のケースとは違い、ロシアの南進が顕著となった清朝末期の19世紀半ば頃より、山東省などから満洲へ移民労働者が大挙して渡り、各地に華人街ができたという経緯から、そう呼ばれています。あくまで主人公は当時もいまも、外国人ではなく、華人というわけです。

ハルビン老道外中華バロック歴史文化区
http://laodaowai-baroque.com/
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by sanyo-kansatu | 2016-12-23 10:41 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2016年 12月 21日

蘇る「音楽の都」ハルビン

1920年代、上海や天津に出現した外国人租界では、世界各地から訪れたエミグラントたちが仮初の西欧文化を謳歌していた。同じ時期、遠く離れた中国東北部の新開地だった黒龍江省のハルビンにも、ロシア人やユダヤ人が押し寄せ、可憐な文化の華を咲かせていた。ハルビンは「極東のパリ」と呼ばれたが、上海との違いがあるとすれば、ロシア革命を逃れてきたユダヤ人音楽家が多く留まっていたことだ。この数奇なめぐり合わせは、今日のハルビンが自らのアイデンティティを「音楽の都」とする理由になっている。
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↑2015年12月に完成したハルビンオペラハウスの大ホール。1600人収容可能なホールの内壁は硬質で弾力性に富む黒龍江産のヤチダモの木で仕上げられている。音響効果も抜群
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↑雪原が風によって削られたかのように波打つ外観のデザインは、北京の建築事務所、MADアーキテクツが設計した

ハルビンがエミグラントのあふれる「音楽の都」だった頃

「八月十五日の昼ごろ、ベートーヴェンの『運命』か何か練習していたら、特務機関から正午の放送を聞くようにという電話がありまして、ラジオを持ってこさしてかけたら、一番最初『君が代』で、「立てーッ!」つってロシア人を立たしたら、陛下のお言葉で旗色がよくないんですな」

このどこかとぼけた述懐は、戦前戦後にかけて活躍した名指揮者による回想集『朝比奈隆 わが回想』(中央公論社 1985年)の一節である。昭和19年5月、彼は満洲に渡り、当時の首都新京(現在の吉林省長春)とハルビンで交響楽団を編成し、指揮を務めていた。日露中の混成楽団と一緒に、ハルビンで日本の終戦勅語を聞いたのである。

このエピソードは何を物語るのか。日本が昭和のある時期、中国東北部に勢力圏を置いていたという歴史もそうだが、それ以上に、ハルビンという都市のユニークな成り立ちがわかる。ハルビンは1896 年の露清同盟条約終結後、ロシアが東清鉄道を敷設するために拠点として開発した町だった。松花江沿いの小さな漁村は、瞬く間に西欧的な近代都市へと姿を変えた。

ハルビンにやって来たのはロシア人だけではなかった。1917年のロシア革命以降、多くのユダヤ人が亡命先として逃れてきたのだ。同じ時期の上海がそうであったように、ハルビンは1920年代に入ると、欧州各地から来たエミグラントであふれた。かつてハルビンが「極東のパリ」と呼ばれたゆえんである。

そのなかには、モスクワやサンクトペテルブルグで活動していた音楽家や演奏家の姿もあった。チェロ奏者である劉欣欣の著作『ハルビン西洋音楽史』(人民音楽出版社 2002年)によると、当時のハルビンには多くの観客を収容できる劇場や音楽ホール、映画館などの文化施設が建てられ、室内楽や交響楽、オペラが盛んに上演されていたという。特に市民が待ち望んだのが、海外から訪れた著名な音楽家らの公演だった。音楽教育も盛んで、東清鉄道が運営するハルビン音楽専門学校やユダヤ人バイオリニストが開校したグラズノフ音楽学校など、市内には4つの音楽学校があった。ハルビンはまさに北満の曠野に忽然と現れた「音楽の都」だった。

ハルビンの音楽家たちは当時の日本にも影響を与えている。20年代半ばには、ハルビンのオペラ歌劇団や交響楽団が日本各地を巡演しており、当時の日本人にとって初めての本格的な西欧音楽体験となった。

そんなハルビンの音楽文化は、中国建国後もソ連の影響を受けながら細々と受け継がれていたが、60年代の文革の始まりとともに終焉を迎えたかにみえたのである。
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↑黒龍江省博物館に行くと、1920~30年代のハルビンの音楽事情を物語るユダヤ人音楽家や劇場の写真などが展示されている
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↑ハルビンの音楽文化は当初、ロシア帝国による鉄道敷設とともに生まれたが、革命以降の音楽家たちの来訪が大きく貢献した
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↑1925年にユダヤ人学校に隣接して開校したグラズノフ音楽学校は36年に閉校。2014年に同じ名の音楽芸術学校として78年ぶりに蘇った
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↑巨大なシェル状の野外音楽堂では、夏になると交響楽団の演奏が行われた。老朽化したこの音楽堂は1980年代に撤去されてしまう
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↑グラズノフ音楽学校の隣にあった旧ユダヤ教会は、現在「老会堂音楽庁」という名の音楽ホールになっている。ユダヤの礼拝堂がコンサート会場として使われているのだ
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半世紀かけて音楽祭を続けたハルビンのサウンドスケープ

2016年夏、ハルビンの中央大街で開催された第4回「老街音楽祭」を訪ねた。

夕暮れ時を迎え、松花江の川風が頬を撫でる頃、かつてロシア語でキタイスカヤ(中国街)と呼ばれていた石畳の通りは、短い夏を惜しむハルビン市民や中国各地から訪れた旅客であふれかえっていた。

路上コンサートがあちこちで開かれていた。その舞台は、20世紀初頭に建てられたアールヌーボーやバロックなど、西欧のあらゆる建築様式が集積することから「建築博物館」と呼ばれている美しい通りと公園である。海外から多くの演奏家が訪れ、最もハルビンが輝いていた時代のサウンドスケープが蘇ったかのようだ。

13年夏に始まった「老街音楽祭」は、西欧列強のロシアを出自とするハルビンにとって“先祖返り”ともいうべき出来事だろう。厳冬期にはマイナス30度以下にまで冷え込み、氷雪祭りで知られる中国最北部に位置するこの町で、5月中旬から10月初旬まで、つまり夏の間中、音楽祭が開かれていることに、その本気度がうかがえる。

『ハルビン西洋音楽史』によると、ハルビンで最初の夏の音楽祭が開かれたのは1961年であるが、66年を最後に中断された。中国は長い政治動乱期に入り、開催どころではなくなった。

80年代の半ば、ハルビンを初めて訪れた私は、聖ソフィア大聖堂の大鐘が引きずり下ろされ、地べたに置かれたまま、物置として使われていたのを見た。文革時代には、ハルビンの象徴だったニコライ大聖堂が破壊され、跡形もなく消え去ったことも知った。音楽祭は79年に再開されたもの、その頃のハルビンには、音楽を楽しむ十分なゆとりなどなかったのだろう。

21世紀に入ると、ハルビンはかつての輝きを取り戻すように、徐々に変貌し始めた。煤けていた老建造物が磨かれ、現代的な装いをまとい出す。そうこうするうちに、ビジネスマンや留学生としてロシア人たちも舞い戻り、ロシア料理店も多数開店した。ハルビンの人たちは、たとえその頃自らが主人公ではなかったことを知っていても、確かに存在していた「音楽の都」に近未来の自画像を見ようとしているようだ。

考えてみれば、ハルビンは100年の歴史を有するに過ぎない都市だが、いまでは過去を知らない若いハルビンっ子たちが街を闊歩し、豊かさを謳歌している。聖ソフィア大聖堂の優美な姿は彼らの誇りだろうし、松花江沿いに生まれたハルビンオペラハウスは新しいシンボルといえる。これからハルビンがどんな音楽文化を奏でるか心待ちにしたい。
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↑松花江のほとりにあるロシア料理店「カチューシャ」は、ヤクーツク出身のロシア人女性とハルビン出身の男性とのカップルが経営している。カツレツやロールキャベツなど、ロシア料理の定番メニューを味わえる。ウェイターはロシア人の留学生で、イルクーツク出身のワーリャさん
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↑中央大街にあるモデルンホテルのテラスは、音楽祭のライブスポットのひとつ。毎晩18時半からさまざまな楽器の演奏がある。その日は珍しく中国琵琶の演奏が見られた。1906年開業の同ホテルはユダヤ人経営だった
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↑ハルビンの若いカップルが見つめるのは、1907年に創建されたロシア教会の聖ソフィア大聖堂。ネギ坊主形のドームはハルビンを象徴するアイコンだ

撮影/佐藤憲一(2014、16年7月)

※ハルビンの音楽祭に関する現地報道です。

中央大街开启“迷人哈夏”序幕第四届老街音乐汇彰显“国际范儿”(2016-05-17)
http://www.harbin.gov.cn/info/news/index/detail/431374.htm

ハルビン夏の音楽祭(公式サイト)
http://www.harbinsummermusicconcert.cn/

※『中國紀行CKRM Vol.06 (主婦の友ヒットシリーズ) 』(2017年1月1日発売)に掲載された記事を転載しています。
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by sanyo-kansatu | 2016-12-21 08:04 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2016年 12月 13日

高速鉄道で大連から2時間! 日帰り可能になった中朝国境の町、丹東

2015年12月17日、中国遼寧省の大連から中朝国境最大の町、丹東までを結ぶ「丹大快鉄(丹大高速鉄道)」が開通しました。おかげで、これまでバスや車で4時間近くかかっていた両都市間の移動が約2時間に短縮され、日帰りが可能になりました。

今年7月下旬、丹東・大連間を乗車しました。以前は起伏のないトウモロコシ畑の中の高速道路の1本道をバスで延々4時間走り続けるしかなかったのですが、いまや快適な旅と時短が実現されたので、大連を訪ねる人は、ぜひ丹東まで足を延ばしてほしいです。丹東はとても面白い町だからです。特に北朝鮮情勢に関心のある人には、たまらない町でしょう。

これが丹東駅です。この駅は、瀋陽への高速鉄道「瀋丹高鉄」(2015年9月1日開通)の発着駅でもあります。
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高速鉄道の予約はネットででき、駅構内の自動発券所で受け取れます。ただし、中国の身分証名書を持つ国内客のみ利用可能です。外国人のパスポートを読み取るしくみがないため、我々は中国オンライン旅行大手のCTripで予約はできますが、チケットの受け取りは窓口に並ばなければなりません。
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さらに、丹東駅は鴨緑江をまたいだ対岸の北朝鮮・平壌行きの国際列車の中国側国境駅でもあります。
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国際列車95次★丹東~平壌
発 丹東10:00(毎日)
着 平壌17:45

列車編成
1号車  硬臥車 丹東~平壌 ①  
2号車  硬臥車    〃 
3号車  硬臥車 北京~平壌 ②  
4号車  軟臥車    〃 
http://gb-travel.jugem.jp/?eid=9

丹東駅は20世紀初頭に朝鮮鉄道から接続させるべく、鴨緑江に橋を架け、建設した駅です。その歴史については、駅ターミナルにパネルが並べられ、解説されています。

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)
http://inbound.exblog.jp/20541074/

今回、乗車したのは、18時42分丹東発大連行きでした。瀋陽から丹東を経て大連まで走る便です。
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改札を抜け、ホームに至る通路に2015年10月中旬に丹東で開かれた中朝(貿易)博覧会の電光ポスターがいまだに残っていました。中朝関係の変調で、今年の開催は見送られています。
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これが乗車した「和諧号」で、車両には「CRH380BG」や「CRH5型」などがあるようです。丹東・大連間のチケット代は、2等が108.5元、1等が173.5 元です。2016年12月現在、1日14本走っています。
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両都市間には、13の駅がありますが、1日数回しか停車しない駅もあります。中国の大手検索サイト「百度」をみると、すべての駅の写真が載っていました。

丹大高速铁路
http://baike.baidu.com/view/3898992.htm

ところで、この高速鉄道の正式名は「丹大快鉄(丹大高速鉄道)」で、その理由は最高時速200kmだからです。250km以上を出すのが「高鉄」というわけです。ところが、中国のネット上では、「百度」もそうですが、そのへんはあいまいなようで、一般用語として定着している「高鉄」と表記される場合が多いようです。

20時42分、大連北駅に到着しました。あっという間の列車旅でした。
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今回初めて大連北駅を利用しました。中国の新しい鉄道駅はどこでもそうですが、やたらと巨大です。
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市内へは地下鉄もつながっているのですが、バスも出ています。
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今年5月に続き、10月末大連の地下鉄の2本目が開通しました
http://inbound.exblog.jp/25064248/

これ以外にも、中国東北地方にはすでに6本の高速鉄道が開通しています。おかげで、いまの満洲では都市間移動が飛躍的に便利になっています。
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「地球の歩き方 大連、瀋陽、ハルビン」(2017-18年版)p40より
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by sanyo-kansatu | 2016-12-13 11:52 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2016年 12月 11日

中国東北のレトロブーム「百年老街」と丹東のテーマパーク「安東老街」

中国東北地方ではここ数年、外国人租界のあった上海や青島、天津などで十数年前に起きていた1920年代を復古するレトロブームの東北版ともいうべき、テーマパーク「百年老街」が各地にオープンしています。

ただし、東北の場合は、南京条約(1842年)や北京条約(1860年)で開港された沿海都市のケースとは違い、ロシアの南進が顕著となった清朝末期の19世紀後半、山東省などから満洲へ移民労働者が大挙して渡り、各地に華人街ができていったという経緯から、「百年老街」と呼ばれているのです。実は、上海レトロブームでも「百年老街」というコピーが街を踊っていました。その便乗なんですね。
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2015年に遼寧省丹東市の駅の西にオープンした「安東老街」もそのひとつです。再開発されたレンガ造りのビルの中に100年前の古い町並みを再現したテーマパークで、同じような施設がハルビン(「老道外中華バロック歴史文化区」と「関東古巷」)にもあります。
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ビルに埋め込まれた中華門をくぐると、中華民国時代の町並みが続き、数多くのレトロなローカルフードの店や茶館などの飲食店が並んでいます。

ぼくが訪ねたのは今年7月下旬で、特にイベントらしきものはやっていなかったのですが、中国版検索サイトの「百度」によると、こう解説されています。

「民俗文化演艺是安东老街项目着力打造的经营特色,人力车、花轿、唱喜牌子、卖烟卷、磨剪子戗菜刀、老警察巡街等民俗行为展示全天不间断;每天11:30-12:30及18:30-20:30期间,阿庆嫂迎宾、朝鲜背夹子、三弦大鼓书、京剧、父女小曲、朝鲜族歌舞等组合在街道的固定地点进行表演;这样就在安东老街的街道上形成了固定与流动,点、线、面结合的全新表演形式,受到了来丹东旅游的游客及丹东市民的一致好评」。

つまり、館内で京劇の舞台や朝鮮族の舞踊、当時の路上芸人の見世物など、にぎやかな歌舞音曲の世界が繰り広げられるというわけです。ただし、常時というわけではなく、春節などの中国の祝日や夏と秋の行楽シーズンに行われ、その時期になると、1万人以上の人でにぎわうそうです。

「百度」には、その様子を収めた写真が掲載されていたので、一部を転載します。
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ところで、丹東に清朝が政府を置いたのは1876年のことです。当時は安東と呼ばれていました。館内には、100年の歴史を解説するパネルが展示されています。

これは清朝末期(1906年)の安東の区画地図で日本人が描いたものです。実のところ、日露戦争に勝利(1905年)した後、日本の勢力がこの地に入り込み始めたことから、この地域は発展していくことになります。当時はまだ鉄道や橋はありません。
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これはちょっと面白い写真です。当時、満洲を牛耳っていた張作霖と戦前の大倉財閥の設立者である大倉喜八郎のツーショット、1913年に撮られたものです。
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当時、安東は長白山系から伐採され、鴨緑江を下ってきた木材の集積地となっていました。張作霖と日本の関係は、この頃まではWinWinだったようです。
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鴨緑江に浮かべられた大量の木材を撮った当時の写真です。
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これが初期の安東の町並みです。
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これは辛亥革命(1911年)後の中華民国期の最も安東が栄えた頃の町並みです。「安東老街」はこの時代を再現したものだと思われます。
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これは張作霖の息子、張学良が1930年に書いた雑誌の題字です。
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その頃の鴨緑江の様子を撮ったものです。
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満洲事変(1931年)後、安東は完全に日本の勢力圏に置かれます。心なしか町並みが、日本の昭和の地方都市のような整然とした雰囲気に見えます。
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満洲国建国後は、多くの日本人がこの地を訪れ、「安東遊覧案内図」なる観光マップもつくられます。
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さて、館内に点在するように置かれていたパネルはだいたいこんなところですが、丹東に再現された「百年老街」の歴史的経緯が比較的まっすぐに伝えられていて、興味深いです。

というのは、同じ丹東にある鴨緑江断橋にも、この100年の歴史を解説するパネルが置かれているのですが、そちらは中国共産党史観そのもので、あまりに対照的だからです。朝鮮戦争時に米軍の爆撃で落とされたというこの橋の来歴からすれば、そうなるのは無理もない気がしますが、「百年老街」に一部ぼんやりと垣間見られる「歴史認識」は、この地域に住む中国の一般の人たちからみると、全国共通の判で押したような共産党史観だけでは語れない、地域固有の歴史があることを感じさせます。

鴨緑江断橋の展示に見られる中国の歴史認識がわかりやすい
http://inbound.exblog.jp/24016035/
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by sanyo-kansatu | 2016-12-11 11:40 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 11月 06日

今年5月に続き、10月末大連の地下鉄の2本目が開通しました

今年5月、大連の初めての地下鉄2号線が一部開通しましたが、10月30日には2本目となる1号線が暫定開業したそうです。これで空港と高速鉄道に乗るための大連北駅、そして市内が地下鉄でつながるようになりました。
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大連の地下鉄開通で市内のホテルに楽々直行できるようになりました
http://inbound.exblog.jp/24550588/

空港から市内まで地下鉄でアクセスできるようになるとすごく便利だし、都会になったなあという気がします。今度はそのまま高速鉄道の駅まで行けるようになりました。

大連の金橋国際旅行社の宮崎さんから以下のメールが届いています。

「10月30日大連地下鉄1号線が暫定開業しました。

昨日西安路~大連北站間を乗車しました。所要時間約30分、4元。地下鉄大連北站C出口=高鉄大連北駅地下ですのでエスカレーターで上に行けば切符売場、待合室があります」。
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大連地下鉄HP
http://www.dlsubway.com.cn/
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http://gb-travel.jugem.jp/?eid=95

さらに、今冬から中国東北地方を縦断する高速鉄道(哈大高鉄)は冬期減速運転を止め通年と同じ300キロ運転になるそうです。大連から瀋陽や長春、ハルビンへの所要時間は冬でも以前に比べ大幅短縮されることになります。
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http://gb-travel.jugem.jp/?eid=94

ちなみに満洲国時代の1934年(昭和9年)11月1日から運転を開始した特急「あじあ」の最高速度130km/h。大連-新京(長春)間701kmを所要8時間30分、表定速度82.5kmで走ったといいます。いまではその約3倍のスピードというわけです。

満洲は新しく生まれ変わりつつあります。
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by sanyo-kansatu | 2015-11-06 16:34 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 09月 04日

延吉の夜がちょっと平壌に似ていた話

延吉は本ブログでもよく登場する中国吉林省延辺朝鮮族自治州の中心都市です。2012年9月に創立60周年を迎え、市内はずいぶんお化粧直しされました。

ぼくが初めて延吉を訪ねたのは1990年のことで、当時は鄙びた中国の辺境のまちでした。まちにはハングルがあふれ、農村を訪ねると、民家の屋根には真っ赤な唐辛子が干してあり、ここは朝鮮の人たちが暮らす世界だと実感しました。

それから20数年、何度かこの地に足を運びましたが、特にこの5、6年の変化は大きいものがあり、だんだんまちがあか抜けてきたように思います。

こんなハングルと漢字が入り乱れるネオンがこのまちの特徴です。
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昨年7月、延吉を訪ねたとき、市の中心部を流れる布尔哈通沿いを散策しました。川沿いの建物や橋には色とりどりのライトが点され、ちょっと幻想的な光景でした。夏の夜の空気が透明に澄んで、いかにも涼しげです(実際はけっこう暑いのですが)。
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でも、この光景はどことなく平壌に似ている気がしないではありません。平壌のまち自体にはこんなにネオンはないのですが、もしかの国で電力が豊富に使えたら、こんな風にイルミネーションするのではないか、と思ってしまうのです。

延吉の市街地はいまや西側に大きく広がっていて、政府も新区に移動するそうです。この先、朝鮮の民族色はだんだん薄まっていくのかもしれません。

延辺朝鮮族自治州60周年にできた延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係
http://inbound.exblog.jp/23940038/
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by sanyo-kansatu | 2015-09-04 17:38 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 06月 04日

大連の地下鉄開通で市内のホテルに楽々直行できるようになりました

先日、大連の旅行会社の方から以下のメールが届きました。

「大連地下鉄は5月22日より、試運営をすることになります。運行区域は会議中心駅、港湾広場駅、中山広場駅、友好広場駅、空港駅など、17の駅です。  

車両の配置は20本ですが、そのうち運営用の車両が11本、予備保障用の車両が9本です。運行距離が24.5キロ、時速30.7キロです。始発駅から終点駅までの所要時間は47分間で、10分毎に1本が発車し、一日205本が運行します。

空港駅の始発時刻が06:25~21:35で、会議中心駅の始発時刻が06:30~21:30です。始発駅から終点駅までの料金が6元ですが、最低料金が2元です」(2015年5月21日 大連東北国際旅行社 李威日本部長)。

同じく大連の金橋国際旅行社の宮崎さんからも以下のメールと写真が届いています。
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「地下鉄はすでに数回利用しました。新しく綺麗な車両にエアコンが効き、渋滞も関係ないので快適です。地下鉄のホームページはまだ開設されていません。
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弊社のブログに地下鉄を紹介しましたので、乗車方法は参考にしてください」とのこと。

大連地下鉄乗車ガイド
http://gb-travel.jugem.jp/?eid=74

空港から市内へのアクセス方法
http://gb-travel.jugem.jp/?eid=75    

大連金橋国際旅行社
http://www.gbt-dlcjp.com

同社のブログを拝見したところ、運転区間や時刻、運賃は以下のとおりです。

■運転区間 
会議中心⇔机場 全17駅 営業距離24.5km 全区間所要時間47分
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会议中心站、港湾广场站、中山广场站、友好广场站、青泥洼桥站、一二九街站、人民广场站、联合路站、西安路站、交通大学站、辽师站、马栏广场站、湾家站、红旗西路站、虹锦路站、虹港路站、机场站

■運転時刻
会議中心駅発 始発6:25 ~(約10分間隔)~ 終電21:35
机場駅発   始発6:30 ~(約10分間隔)~ 終電21:30

■運賃
0~6km=2元、6km超~12km=3元、12km超~18km=4元、18km超~26km=5元

注目すべきは、大連の空港から市内に地下鉄で直通できるようになったことです。もともと大連周水子国際空港は市中心部へタクシーで約20分とそれほどアクセスが悪いわけではなかったのですが、宮崎さんのブログによると、4元で中山広場まで行けます。以下は、空港からの地下鉄の乗り方です。

大連空港の地下鉄駅「机場」は、国内線ターミナルと国際線ターミナルの間のちょうど中間にあります。  
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■運転時刻 机場駅発 始発6:30~(約10分間隔)~終電21:30
  
■運賃 2元 马栏广场、湾家、红旗西路、虹锦路、虹港路
   3元 人民广场、联合路、西安路、交通大学、辽师
   4元 港湾广场、中山广场、友好广场、青泥洼桥、一二九街
   5元 会议中心

大連の足といえば往年の路面電車が有名ですが、ついに地下鉄も走り出しました。現在、東北三省で地下鉄が走っているのは、瀋陽とハルビン、大連の3都市になります。すでに1990年代から「北方の香港」と呼ばれた大連には高層ビルなどが建ち始めましたが、地下鉄開通によって本格的な現代都市らしくなったといえるでしょう。

今度大連に行くときは、空港から楽々アクセスでホテルに直行できそうです。
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これは将来の路線計画図です。

【追記】(2015.11.6)
今年5月に続き、10月末大連の地下鉄の2本目が開通しました
http://inbound.exblog.jp/25064248/
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by sanyo-kansatu | 2015-06-04 09:22 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(1)