ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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カテゴリ:北東アジア未来形:満洲の今( 74 )


2016年 12月 23日

ハルビンの「中華バロック」文化街が面白い

近年中国東北地方では、外国人租界のあった上海や青島、天津などで十数年前に起きていた1920年代を復古するレトロブームの東北版ともいうべき「百年老街」が各地に生まれています。その多くは、かつての旧市街の一画を再開発した観光地区や当時の町並みを再現したテーマパークです。

中国東北のレトロブーム「百年老街」と丹東のテーマパーク「安東老街」
http://inbound.exblog.jp/26446671/

黒龍江省の省都ハルビンの老道外中華バロック歴史文化区も「百年老街」のひとつ。20世紀初頭、ロシアが建設した東清鉄道は満州里から東南に向かって延び、松花江を渡って市内に入り、ハルビン駅に至るのですが、当時、その鉄路(現在の濱州線)の西側はロシア人を中心にした外国人居留地となり、東側の「道外」と呼ばれた地区に中国人が住んでいました。

その後、この「道外」地区に西洋のバロック建築と中国の伝統的な様式が奇妙に融合した「中華バロック」と呼ばれる折衷建築群が生まれました。その特徴は以下のとおり。

「外観は、一見すると西洋古典系建築と、とくにバロック建築に似ていながら、その細部をよく見ると本来の西洋建築とは大きく異なる。また、建物の内部は伝統的な中国の都市建築、すなわち、一階を店舗として、二階から上を住宅にしたり、あるいは、一階の店舗の部分の中央を二階までの吹き抜けとして、建物の奥に住居部分を加えている。また、通路を通って奥に行けば中庭が広がり、それを取り囲んで長屋のような住宅が建てられていることもある。いずれにしても、道路に面した一階部分は商店や飲食店であることがほとんどである」(『「満洲」都市物語 ハルビン・大連・瀋陽・長春』(西澤泰彦著 河出書房新社 1996年))
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こうした構造上の特徴もそうですが、たとえば、最も代表的とされる元同義慶百貨店(現・順化医院)の場合、過剰な装飾性を特色とする西洋バロック建築に似せて、中国の植物などをモチーフとした彫刻を建築の表面に飾り立てていることでしょう。西洋建築では、古代ギリシャ以降、モチーフとして装飾によく使われたのは、聖なる植物とされた地中海産のアカンサスの葉ですが、ここではまったくの別物です。
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日本で最初にハルビンの「中華バロック」建築を紹介した建築学者の西澤泰彦さんの前述の著書には、建物の正面の柱頭部分の装飾について「西洋建築本来のアカンサスの葉を載せたコリント式の柱頭からはほど遠く、よく見れば白菜に似ている」と書かれていますが、本当にそうですね。
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こちらは、順化医院の通りをはさんだ向かい側の建物です。現在は金を扱う金行です。この建物の壁面の装飾も面白いです。
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これが外観は西洋建築でありながら、近づいてよく見ると、東洋的な印象を与える理由でしょう。当時の中国の職人が見様見真似で西洋建築らしく見えるように急ごしらえした事情もあると思われますが、結果的に、世にも不思議な風合いを持つ世界が現出しているのです。

これは20世紀初頭の道外の写真です。
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その特色ある建築群は長い間放置され、老朽化していました。それでも、2000年代半ば頃から少しずつ補修作業が始まりました。それが老道外中華バロック歴史文化区として全面的に再開発され、多くの飲食店が老舗の看板を掲げ、観光スポットとなってきたのは、2010年代になってからです。
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このポスターは、北京の代表的な老街である后海の名を挙げて、ハルビンの老道外も悪くないだろうと訴えています。
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地区には、創業から100年近い歴史をもつ肉まん屋の「張包舗」のような飲食店もあります。
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また東北地方の古い演芸「二人転」などの劇場もあります。
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二人転
http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_7&wr_id=31

レンガ造りの老建築のレトロな感覚を活かしたゲストハウスやカフェもでき、国内各地から若い旅行者が訪れるようになっています。
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ところで、東北地方で「百年老街」という場合、南京条約(1842年)や北京条約(1860年)で開港された上海などの沿海都市のケースとは違い、ロシアの南進が顕著となった清朝末期の19世紀半ば頃より、山東省などから満洲へ移民労働者が大挙して渡り、各地に華人街ができたという経緯から、そう呼ばれています。あくまで主人公は当時もいまも、外国人ではなく、華人というわけです。

ハルビン老道外中華バロック歴史文化区
http://laodaowai-baroque.com/
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by sanyo-kansatu | 2016-12-23 10:41 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2016年 12月 21日

蘇る「音楽の都」ハルビン

1920年代、上海や天津に出現した外国人租界では、世界各地から訪れたエミグラントたちが仮初の西欧文化を謳歌していた。同じ時期、遠く離れた中国東北部の新開地だった黒龍江省のハルビンにも、ロシア人やユダヤ人が押し寄せ、可憐な文化の華を咲かせていた。ハルビンは「極東のパリ」と呼ばれたが、上海との違いがあるとすれば、ロシア革命を逃れてきたユダヤ人音楽家が多く留まっていたことだ。この数奇なめぐり合わせは、今日のハルビンが自らのアイデンティティを「音楽の都」とする理由になっている。
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↑2015年12月に完成したハルビンオペラハウスの大ホール。1600人収容可能なホールの内壁は硬質で弾力性に富む黒龍江産のヤチダモの木で仕上げられている。音響効果も抜群
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↑雪原が風によって削られたかのように波打つ外観のデザインは、北京の建築事務所、MADアーキテクツが設計した

ハルビンがエミグラントのあふれる「音楽の都」だった頃

「八月十五日の昼ごろ、ベートーヴェンの『運命』か何か練習していたら、特務機関から正午の放送を聞くようにという電話がありまして、ラジオを持ってこさしてかけたら、一番最初『君が代』で、「立てーッ!」つってロシア人を立たしたら、陛下のお言葉で旗色がよくないんですな」

このどこかとぼけた述懐は、戦前戦後にかけて活躍した名指揮者による回想集『朝比奈隆 わが回想』(中央公論社 1985年)の一節である。昭和19年5月、彼は満洲に渡り、当時の首都新京(現在の吉林省長春)とハルビンで交響楽団を編成し、指揮を務めていた。日露中の混成楽団と一緒に、ハルビンで日本の終戦勅語を聞いたのである。

このエピソードは何を物語るのか。日本が昭和のある時期、中国東北部に勢力圏を置いていたという歴史もそうだが、それ以上に、ハルビンという都市のユニークな成り立ちがわかる。ハルビンは1896 年の露清同盟条約終結後、ロシアが東清鉄道を敷設するために拠点として開発した町だった。松花江沿いの小さな漁村は、瞬く間に西欧的な近代都市へと姿を変えた。

ハルビンにやって来たのはロシア人だけではなかった。1917年のロシア革命以降、多くのユダヤ人が亡命先として逃れてきたのだ。同じ時期の上海がそうであったように、ハルビンは1920年代に入ると、欧州各地から来たエミグラントであふれた。かつてハルビンが「極東のパリ」と呼ばれたゆえんである。

そのなかには、モスクワやサンクトペテルブルグで活動していた音楽家や演奏家の姿もあった。チェロ奏者である劉欣欣の著作『ハルビン西洋音楽史』(人民音楽出版社 2002年)によると、当時のハルビンには多くの観客を収容できる劇場や音楽ホール、映画館などの文化施設が建てられ、室内楽や交響楽、オペラが盛んに上演されていたという。特に市民が待ち望んだのが、海外から訪れた著名な音楽家らの公演だった。音楽教育も盛んで、東清鉄道が運営するハルビン音楽専門学校やユダヤ人バイオリニストが開校したグラズノフ音楽学校など、市内には4つの音楽学校があった。ハルビンはまさに北満の曠野に忽然と現れた「音楽の都」だった。

ハルビンの音楽家たちは当時の日本にも影響を与えている。20年代半ばには、ハルビンのオペラ歌劇団や交響楽団が日本各地を巡演しており、当時の日本人にとって初めての本格的な西欧音楽体験となった。

そんなハルビンの音楽文化は、中国建国後もソ連の影響を受けながら細々と受け継がれていたが、60年代の文革の始まりとともに終焉を迎えたかにみえたのである。
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↑黒龍江省博物館に行くと、1920~30年代のハルビンの音楽事情を物語るユダヤ人音楽家や劇場の写真などが展示されている
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↑ハルビンの音楽文化は当初、ロシア帝国による鉄道敷設とともに生まれたが、革命以降の音楽家たちの来訪が大きく貢献した
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↑1925年にユダヤ人学校に隣接して開校したグラズノフ音楽学校は36年に閉校。2014年に同じ名の音楽芸術学校として78年ぶりに蘇った
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↑巨大なシェル状の野外音楽堂では、夏になると交響楽団の演奏が行われた。老朽化したこの音楽堂は1980年代に撤去されてしまう
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↑グラズノフ音楽学校の隣にあった旧ユダヤ教会は、現在「老会堂音楽庁」という名の音楽ホールになっている。ユダヤの礼拝堂がコンサート会場として使われているのだ
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半世紀かけて音楽祭を続けたハルビンのサウンドスケープ

2016年夏、ハルビンの中央大街で開催された第4回「老街音楽祭」を訪ねた。

夕暮れ時を迎え、松花江の川風が頬を撫でる頃、かつてロシア語でキタイスカヤ(中国街)と呼ばれていた石畳の通りは、短い夏を惜しむハルビン市民や中国各地から訪れた旅客であふれかえっていた。

路上コンサートがあちこちで開かれていた。その舞台は、20世紀初頭に建てられたアールヌーボーやバロックなど、西欧のあらゆる建築様式が集積することから「建築博物館」と呼ばれている美しい通りと公園である。海外から多くの演奏家が訪れ、最もハルビンが輝いていた時代のサウンドスケープが蘇ったかのようだ。

13年夏に始まった「老街音楽祭」は、西欧列強のロシアを出自とするハルビンにとって“先祖返り”ともいうべき出来事だろう。厳冬期にはマイナス30度以下にまで冷え込み、氷雪祭りで知られる中国最北部に位置するこの町で、5月中旬から10月初旬まで、つまり夏の間中、音楽祭が開かれていることに、その本気度がうかがえる。

『ハルビン西洋音楽史』によると、ハルビンで最初の夏の音楽祭が開かれたのは1961年であるが、66年を最後に中断された。中国は長い政治動乱期に入り、開催どころではなくなった。

80年代の半ば、ハルビンを初めて訪れた私は、聖ソフィア大聖堂の大鐘が引きずり下ろされ、地べたに置かれたまま、物置として使われていたのを見た。文革時代には、ハルビンの象徴だったニコライ大聖堂が破壊され、跡形もなく消え去ったことも知った。音楽祭は79年に再開されたもの、その頃のハルビンには、音楽を楽しむ十分なゆとりなどなかったのだろう。

21世紀に入ると、ハルビンはかつての輝きを取り戻すように、徐々に変貌し始めた。煤けていた老建造物が磨かれ、現代的な装いをまとい出す。そうこうするうちに、ビジネスマンや留学生としてロシア人たちも舞い戻り、ロシア料理店も多数開店した。ハルビンの人たちは、たとえその頃自らが主人公ではなかったことを知っていても、確かに存在していた「音楽の都」に近未来の自画像を見ようとしているようだ。

考えてみれば、ハルビンは100年の歴史を有するに過ぎない都市だが、いまでは過去を知らない若いハルビンっ子たちが街を闊歩し、豊かさを謳歌している。聖ソフィア大聖堂の優美な姿は彼らの誇りだろうし、松花江沿いに生まれたハルビンオペラハウスは新しいシンボルといえる。これからハルビンがどんな音楽文化を奏でるか心待ちにしたい。
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↑松花江のほとりにあるロシア料理店「カチューシャ」は、ヤクーツク出身のロシア人女性とハルビン出身の男性とのカップルが経営している。カツレツやロールキャベツなど、ロシア料理の定番メニューを味わえる。ウェイターはロシア人の留学生で、イルクーツク出身のワーリャさん
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↑中央大街にあるモデルンホテルのテラスは、音楽祭のライブスポットのひとつ。毎晩18時半からさまざまな楽器の演奏がある。その日は珍しく中国琵琶の演奏が見られた。1906年開業の同ホテルはユダヤ人経営だった
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↑ハルビンの若いカップルが見つめるのは、1907年に創建されたロシア教会の聖ソフィア大聖堂。ネギ坊主形のドームはハルビンを象徴するアイコンだ

撮影/佐藤憲一(2014、16年7月)

※ハルビンの音楽祭に関する現地報道です。

中央大街开启“迷人哈夏”序幕第四届老街音乐汇彰显“国际范儿”(2016-05-17)
http://www.harbin.gov.cn/info/news/index/detail/431374.htm

ハルビン夏の音楽祭(公式サイト)
http://www.harbinsummermusicconcert.cn/
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by sanyo-kansatu | 2016-12-21 08:04 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2016年 12月 13日

高速鉄道で大連から2時間! 日帰り可能になった中朝国境の町、丹東

2015年12月17日、中国遼寧省の大連から中朝国境最大の町、丹東までを結ぶ「丹大快鉄(丹大高速鉄道)」が開通しました。おかげで、これまでバスや車で4時間近くかかっていた両都市間の移動が約2時間に短縮され、日帰りが可能になりました。

今年7月下旬、丹東・大連間を乗車しました。以前は起伏のないトウモロコシ畑の中の高速道路の1本道をバスで延々4時間走り続けるしかなかったのですが、いまや快適な旅と時短が実現されたので、大連を訪ねる人は、ぜひ丹東まで足を延ばしてほしいです。丹東はとても面白い町だからです。特に北朝鮮情勢に関心のある人には、たまらない町でしょう。

これが丹東駅です。この駅は、瀋陽への高速鉄道「瀋丹高鉄」(2015年9月1日開通)の発着駅でもあります。
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高速鉄道の予約はネットででき、駅構内の自動発券所で受け取れます。ただし、中国の身分証名書を持つ国内客のみ利用可能です。外国人のパスポートを読み取るしくみがないため、我々は中国オンライン旅行大手のCTripで予約はできますが、チケットの受け取りは窓口に並ばなければなりません。
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さらに、丹東駅は鴨緑江をまたいだ対岸の北朝鮮・平壌行きの国際列車の中国側国境駅でもあります。
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国際列車95次★丹東~平壌
発 丹東10:00(毎日)
着 平壌17:45

列車編成
1号車  硬臥車 丹東~平壌 ①  
2号車  硬臥車    〃 
3号車  硬臥車 北京~平壌 ②  
4号車  軟臥車    〃 
http://gb-travel.jugem.jp/?eid=9

丹東駅は20世紀初頭に朝鮮鉄道から接続させるべく、鴨緑江に橋を架け、建設した駅です。その歴史については、駅ターミナルにパネルが並べられ、解説されています。

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)
http://inbound.exblog.jp/20541074/

今回、乗車したのは、18時42分丹東発大連行きでした。瀋陽から丹東を経て大連まで走る便です。
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改札を抜け、ホームに至る通路に2015年10月中旬に丹東で開かれた中朝(貿易)博覧会の電光ポスターがいまだに残っていました。中朝関係の変調で、今年の開催は見送られています。
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これが乗車した「和諧号」で、車両には「CRH380BG」や「CRH5型」などがあるようです。丹東・大連間のチケット代は、2等が108.5元、1等が173.5 元です。2016年12月現在、1日14本走っています。
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両都市間には、13の駅がありますが、1日数回しか停車しない駅もあります。中国の大手検索サイト「百度」をみると、すべての駅の写真が載っていました。

丹大高速铁路
http://baike.baidu.com/view/3898992.htm

ところで、この高速鉄道の正式名は「丹大快鉄(丹大高速鉄道)」で、その理由は最高時速200kmだからです。250km以上を出すのが「高鉄」というわけです。ところが、中国のネット上では、「百度」もそうですが、そのへんはあいまいなようで、一般用語として定着している「高鉄」と表記される場合が多いようです。

20時42分、大連北駅に到着しました。あっという間の列車旅でした。
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今回初めて大連北駅を利用しました。中国の新しい鉄道駅はどこでもそうですが、やたらと巨大です。
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市内へは地下鉄もつながっているのですが、バスも出ています。
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今年5月に続き、10月末大連の地下鉄の2本目が開通しました
http://inbound.exblog.jp/25064248/

これ以外にも、中国東北地方にはすでに6本の高速鉄道が開通しています。おかげで、いまの満洲では都市間移動が飛躍的に便利になっています。
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「地球の歩き方 大連、瀋陽、ハルビン」(2017-18年版)p40より
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by sanyo-kansatu | 2016-12-13 11:52 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2016年 12月 11日

中国東北のレトロブーム「百年老街」と丹東のテーマパーク「安東老街」

中国東北地方ではここ数年、外国人租界のあった上海や青島、天津などで十数年前に起きていた1920年代を復古するレトロブームの東北版ともいうべき、テーマパーク「百年老街」が各地にオープンしています。

ただし、東北の場合は、南京条約(1842年)や北京条約(1860年)で開港された沿海都市のケースとは違い、ロシアの南進が顕著となった清朝末期の19世紀後半、山東省などから満洲へ移民労働者が大挙して渡り、各地に華人街ができていったという経緯から、「百年老街」と呼ばれているのです。実は、上海レトロブームでも「百年老街」というコピーが街を踊っていました。その便乗なんですね。
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2015年に遼寧省丹東市の駅の西にオープンした「安東老街」もそのひとつです。再開発されたレンガ造りのビルの中に100年前の古い町並みを再現したテーマパークで、同じような施設がハルビン(「老道外中華バロック歴史文化区」と「関東古巷」)にもあります。
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ビルに埋め込まれた中華門をくぐると、中華民国時代の町並みが続き、数多くのレトロなローカルフードの店や茶館などの飲食店が並んでいます。

ぼくが訪ねたのは今年7月下旬で、特にイベントらしきものはやっていなかったのですが、中国版検索サイトの「百度」によると、こう解説されています。

「民俗文化演艺是安东老街项目着力打造的经营特色,人力车、花轿、唱喜牌子、卖烟卷、磨剪子戗菜刀、老警察巡街等民俗行为展示全天不间断;每天11:30-12:30及18:30-20:30期间,阿庆嫂迎宾、朝鲜背夹子、三弦大鼓书、京剧、父女小曲、朝鲜族歌舞等组合在街道的固定地点进行表演;这样就在安东老街的街道上形成了固定与流动,点、线、面结合的全新表演形式,受到了来丹东旅游的游客及丹东市民的一致好评」。

つまり、館内で京劇の舞台や朝鮮族の舞踊、当時の路上芸人の見世物など、にぎやかな歌舞音曲の世界が繰り広げられるというわけです。ただし、常時というわけではなく、春節などの中国の祝日や夏と秋の行楽シーズンに行われ、その時期になると、1万人以上の人でにぎわうそうです。

「百度」には、その様子を収めた写真が掲載されていたので、一部を転載します。
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ところで、丹東に清朝が政府を置いたのは1876年のことです。当時は安東と呼ばれていました。館内には、100年の歴史を解説するパネルが展示されています。

これは清朝末期(1906年)の安東の区画地図で日本人が描いたものです。実のところ、日露戦争に勝利(1905年)した後、日本の勢力がこの地に入り込み始めたことから、この地域は発展していくことになります。当時はまだ鉄道や橋はありません。
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これはちょっと面白い写真です。当時、満洲を牛耳っていた張作霖と戦前の大倉財閥の設立者である大倉喜八郎のツーショット、1913年に撮られたものです。
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当時、安東は長白山系から伐採され、鴨緑江を下ってきた木材の集積地となっていました。張作霖と日本の関係は、この頃まではWinWinだったようです。
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鴨緑江に浮かべられた大量の木材を撮った当時の写真です。
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これが初期の安東の町並みです。
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これは辛亥革命(1911年)後の中華民国期の最も安東が栄えた頃の町並みです。「安東老街」はこの時代を再現したものだと思われます。
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これは張作霖の息子、張学良が1930年に書いた雑誌の題字です。
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その頃の鴨緑江の様子を撮ったものです。
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満洲事変(1931年)後、安東は完全に日本の勢力圏に置かれます。心なしか町並みが、日本の昭和の地方都市のような整然とした雰囲気に見えます。
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満洲国建国後は、多くの日本人がこの地を訪れ、「安東遊覧案内図」なる観光マップもつくられます。
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さて、館内に点在するように置かれていたパネルはだいたいこんなところですが、丹東に再現された「百年老街」の歴史的経緯が比較的まっすぐに伝えられていて、興味深いです。

というのは、同じ丹東にある鴨緑江断橋にも、この100年の歴史を解説するパネルが置かれているのですが、そちらは中国共産党史観そのもので、あまりに対照的だからです。朝鮮戦争時に米軍の爆撃で落とされたというこの橋の来歴からすれば、そうなるのは無理もない気がしますが、「百年老街」に一部ぼんやりと垣間見られる「歴史認識」は、この地域に住む中国の一般の人たちからみると、全国共通の判で押したような共産党史観だけでは語れない、地域固有の歴史があることを感じさせます。

鴨緑江断橋の展示に見られる中国の歴史認識がわかりやすい
http://inbound.exblog.jp/24016035/
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by sanyo-kansatu | 2016-12-11 11:40 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 11月 06日

今年5月に続き、10月末大連の地下鉄の2本目が開通しました

今年5月、大連の初めての地下鉄2号線が一部開通しましたが、10月30日には2本目となる1号線が暫定開業したそうです。これで空港と高速鉄道に乗るための大連北駅、そして市内が地下鉄でつながるようになりました。
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大連の地下鉄開通で市内のホテルに楽々直行できるようになりました
http://inbound.exblog.jp/24550588/

空港から市内まで地下鉄でアクセスできるようになるとすごく便利だし、都会になったなあという気がします。今度はそのまま高速鉄道の駅まで行けるようになりました。

大連の金橋国際旅行社の宮崎さんから以下のメールが届いています。

「10月30日大連地下鉄1号線が暫定開業しました。

昨日西安路~大連北站間を乗車しました。所要時間約30分、4元。地下鉄大連北站C出口=高鉄大連北駅地下ですのでエスカレーターで上に行けば切符売場、待合室があります」。
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大連地下鉄HP
http://www.dlsubway.com.cn/
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http://gb-travel.jugem.jp/?eid=95

さらに、今冬から中国東北地方を縦断する高速鉄道(哈大高鉄)は冬期減速運転を止め通年と同じ300キロ運転になるそうです。大連から瀋陽や長春、ハルビンへの所要時間は冬でも以前に比べ大幅短縮されることになります。
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http://gb-travel.jugem.jp/?eid=94

ちなみに満洲国時代の1934年(昭和9年)11月1日から運転を開始した特急「あじあ」の最高速度130km/h。大連-新京(長春)間701kmを所要8時間30分、表定速度82.5kmで走ったといいます。いまではその約3倍のスピードというわけです。

満洲は新しく生まれ変わりつつあります。
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by sanyo-kansatu | 2015-11-06 16:34 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 09月 04日

延吉の夜がちょっと平壌に似ていた話

延吉は本ブログでもよく登場する中国吉林省延辺朝鮮族自治州の中心都市です。2012年9月に創立60周年を迎え、市内はずいぶんお化粧直しされました。

ぼくが初めて延吉を訪ねたのは1990年のことで、当時は鄙びた中国の辺境のまちでした。まちにはハングルがあふれ、農村を訪ねると、民家の屋根には真っ赤な唐辛子が干してあり、ここは朝鮮の人たちが暮らす世界だと実感しました。

それから20数年、何度かこの地に足を運びましたが、特にこの5、6年の変化は大きいものがあり、だんだんまちがあか抜けてきたように思います。

こんなハングルと漢字が入り乱れるネオンがこのまちの特徴です。
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昨年7月、延吉を訪ねたとき、市の中心部を流れる布尔哈通沿いを散策しました。川沿いの建物や橋には色とりどりのライトが点され、ちょっと幻想的な光景でした。夏の夜の空気が透明に澄んで、いかにも涼しげです(実際はけっこう暑いのですが)。
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でも、この光景はどことなく平壌に似ている気がしないではありません。平壌のまち自体にはこんなにネオンはないのですが、もしかの国で電力が豊富に使えたら、こんな風にイルミネーションするのではないか、と思ってしまうのです。

延吉の市街地はいまや西側に大きく広がっていて、政府も新区に移動するそうです。この先、朝鮮の民族色はだんだん薄まっていくのかもしれません。

延辺朝鮮族自治州60周年にできた延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係
http://inbound.exblog.jp/23940038/
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by sanyo-kansatu | 2015-09-04 17:38 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 06月 04日

大連の地下鉄開通で市内のホテルに楽々直行できるようになりました

先日、大連の旅行会社の方から以下のメールが届きました。

「大連地下鉄は5月22日より、試運営をすることになります。運行区域は会議中心駅、港湾広場駅、中山広場駅、友好広場駅、空港駅など、17の駅です。  

車両の配置は20本ですが、そのうち運営用の車両が11本、予備保障用の車両が9本です。運行距離が24.5キロ、時速30.7キロです。始発駅から終点駅までの所要時間は47分間で、10分毎に1本が発車し、一日205本が運行します。

空港駅の始発時刻が06:25~21:35で、会議中心駅の始発時刻が06:30~21:30です。始発駅から終点駅までの料金が6元ですが、最低料金が2元です」(2015年5月21日 大連東北国際旅行社 李威日本部長)。

同じく大連の金橋国際旅行社の宮崎さんからも以下のメールと写真が届いています。
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「地下鉄はすでに数回利用しました。新しく綺麗な車両にエアコンが効き、渋滞も関係ないので快適です。地下鉄のホームページはまだ開設されていません。
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弊社のブログに地下鉄を紹介しましたので、乗車方法は参考にしてください」とのこと。

大連地下鉄乗車ガイド
http://gb-travel.jugem.jp/?eid=74

空港から市内へのアクセス方法
http://gb-travel.jugem.jp/?eid=75    

大連金橋国際旅行社
http://www.gbt-dlcjp.com

同社のブログを拝見したところ、運転区間や時刻、運賃は以下のとおりです。

■運転区間 
会議中心⇔机場 全17駅 営業距離24.5km 全区間所要時間47分
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会议中心站、港湾广场站、中山广场站、友好广场站、青泥洼桥站、一二九街站、人民广场站、联合路站、西安路站、交通大学站、辽师站、马栏广场站、湾家站、红旗西路站、虹锦路站、虹港路站、机场站

■運転時刻
会議中心駅発 始発6:25 ~(約10分間隔)~ 終電21:35
机場駅発   始発6:30 ~(約10分間隔)~ 終電21:30

■運賃
0~6km=2元、6km超~12km=3元、12km超~18km=4元、18km超~26km=5元

注目すべきは、大連の空港から市内に地下鉄で直通できるようになったことです。もともと大連周水子国際空港は市中心部へタクシーで約20分とそれほどアクセスが悪いわけではなかったのですが、宮崎さんのブログによると、4元で中山広場まで行けます。以下は、空港からの地下鉄の乗り方です。

大連空港の地下鉄駅「机場」は、国内線ターミナルと国際線ターミナルの間のちょうど中間にあります。  
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■運転時刻 机場駅発 始発6:30~(約10分間隔)~終電21:30
  
■運賃 2元 马栏广场、湾家、红旗西路、虹锦路、虹港路
   3元 人民广场、联合路、西安路、交通大学、辽师
   4元 港湾广场、中山广场、友好广场、青泥洼桥、一二九街
   5元 会议中心

大連の足といえば往年の路面電車が有名ですが、ついに地下鉄も走り出しました。現在、東北三省で地下鉄が走っているのは、瀋陽とハルビン、大連の3都市になります。すでに1990年代から「北方の香港」と呼ばれた大連には高層ビルなどが建ち始めましたが、地下鉄開通によって本格的な現代都市らしくなったといえるでしょう。

今度大連に行くときは、空港から楽々アクセスでホテルに直行できそうです。
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これは将来の路線計画図です。

【追記】(2015.11.6)
今年5月に続き、10月末大連の地下鉄の2本目が開通しました
http://inbound.exblog.jp/25064248/
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by sanyo-kansatu | 2015-06-04 09:22 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(1)
2015年 05月 01日

高所恐怖症にはキツイ岩山の尾根伝い登山道(中国遼寧省鳳凰山)

自分は山登りというものが好きではありません。人に誘われ、高尾山に登るのすら気乗りしないほどです。だから、仕事で半ば強制的な環境にでも置かれないかぎり、今回のように中国の岩山登りをするなんて思いもつかないものです。

中国遼寧省丹東市の北方に鳳凰山という景勝地があります。中国でよく見かける花崗岩でできた連山で、標高は930mほどですから、全国的な知名度はありません。中国の片田舎にある行楽地のひとつです。

その山にぼくを連れていこうとしたのは、丹東の旅行会社の閻宇飛さんです。彼はぼくが丹東を訪ねると、それが自分の使命とばかりに、あちこちを案内してくれます。まったくありがたい話なのですが、彼は事前に行先をあまり詳しく説明してくれないのです。「まあ行ってみればわかりますから…」という感じで、自分の運転する車に乗せてくれます。北朝鮮国境に位置する丹東という土地柄、実に面白い場所ばかりなので、毎回おまかせで彼の車に乗り込むのです。

ですから、昨年7月下旬、丹東を訪ねたとき、どこに連れていかれるのか、ぼくはよくわかっていませんでした。前日ぼくと同行者のHさんは、瀋陽に滞在していたのですが、閻さんからは「高速バスに乗って鳳凰城というまちまで来てください」とのみ伝えられていたのです。

鉄道駅のそばでバスを降りると、閻さんは今度大学生になるという息子さんを連れて待っていました。鉄道駅の反対側に、ところどころ岩肌を露出した山並みが見えました。どうやらそれが鳳凰山のようです。
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彼の運転する車に乗り換え、山門に向かいました。近頃の中国の行楽地にはどこでもたいてい立派な門ができています。
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門の脇に登山案内図があります。「まさか、これを今日登るのか……」。
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「さあ、行きましょう」。閻さんは入山料を払い、門の中に入るよう手招きしました。パッとみた感じは、さほど大きな山ではないようですが、山門付近から見渡せるのは全体の一部です。戸惑いつつも、歩くほかありません。

ロープウェイ乗り場までは有料のカーゴに乗っていきます。これが結構距離があるんです。10分近く走るので、歩くと45分くらいはかかるそうです。
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さて、登山道の入口に簡単な地図がありました。見ると、細かく距離が記されています。全周7.5kmとあります。

「エー、これ歩くんですか」。ついにぼくは声を上げました。こんなにお世話になっているのに、いい気なものです。

「大丈夫。登りはロープウェイに乗りますから。それで歩く距離は半分に短縮されます。せいぜい3kmほどですよ」。閻さんはにこにこしながらそう答えます。
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ロープウェイで将軍峰という鳳凰連山の西側にある2番目に高い頂まで登りました。山のふもとでは天気が良かったのに、山頂付近は霧に覆われています。

鳳凰山は花崗岩の岩肌が露出した、いかにも中国的なコンセプトの山でした。中国名山と称される黄山もそうですが、岩山と霧に覆われた世界は、まるで仙人でも住んでいそうです。

さっそく登山道を歩くことになったのですが、この写真をよく見てください。登山道は岩山の尾根に沿って伸びています。さらに目を凝らすと、「ノミの徒渡り」と言うんでしょうか。尾根の背に手すりが付けられただけの道も見えます。これ、大丈夫なの? そこから落ちたら、だって……下までまっさかさまじゃないですか。
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実際、この手の急な岩の階段をアップダウンして進まなければなりませんでした。
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同行者のHさんはぼくより年長ですが、スイスイ登っていきます。この階段だって、ちょっと怖いでしょう。
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これが尾根の背のひとつです。ここは比較的平らで幅もそこそこあるのでそれほどでもないですが、実際にはもっとヤバい場所がありました。そこでは、とても撮影する余裕はありませんでした。耳元にヒューヒュー風が吹いてきて、立ち上がることもできず、尾根伝いに這いつくばって進まなければならなかったのです。足がガクガク震えてきて「勘弁してくれー」と心の中で叫び続けていました。
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お察しのとおり、ぼくは高所が苦手な体質です。助かったのは、眼下が霧でよく見えなかったことです。絶景が底まで見渡せでもしようものなら、気を失ってしまっていたかもしれません。

ところが、閻さんはこんなことを言います。「ぼくが初めてこの山を登ったのは大学生のころで、当時は手すりも何もなく、岩の上を素手でよじ登ったものですよ」。

「おいおいマジかよ。そんなの落ちたらまずいじゃないですか!」。中国的なアバウトさに思わず声を荒立ててしまいました。

彼は笑っています。

山頂に近づいてきました。「天下絶(景)」と書かれています。
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こんなふざけた登山道もありました。「瑠璃桟道」と書かれています。つまり、ガラスの板でできた道で、足元が透けて真下が見渡せるというのです。なんですか、それ。怖すぎるじゃないですか。しかも、現在修理中って。もしやガラスの板が割れたとでもいうのでしょうか……。
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これもちょっとすごくないですか。登山道の先は霧でまったく見えません。まるで天国への階段? このまま進んでいっていいのか、ためらいを禁じえません。
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そうこうしているうちに、登山道は下りになっていました。どこが山頂だったのか。ついぞ記憶にありません。高揚感もありませんでした。あとはなだらかな下りが続くだけだと聞いて、心底ホッとしました。これでやっと恐怖から解放されるのだ。こんな身の縮む思いはこりごりだ。とにかく、さっさと下山したいという気持ちでいっぱいでした。まったく面白味のないやつで、すいません。

ところが、閉山時刻が近づいていて、ロープウェイ乗り場から山門までのカーゴが見つかりません。これはヤバい。もうこれ以上歩きたくない。そんな殺生な…。思わずそんな江戸言葉が口をついて出てしまいます。幸い、売店の従業員たちの下山用の車が残っていて、救われました。このときほどうれしかった瞬間はありません。
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下山すると、山門のそばに温泉がありました。ふだんなら、温泉に浸かっていきたいと思うたちですが、その日は早く宿に帰りたくて、早々に鳳凰山を後にしました。
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教訓。高所恐怖症には中国の登山はキツイ。特に岩山の尾根伝いはヤバい。

こんなことでは、中国の老荘思想に親しむ資格は自分にはなさそうです。

さて。最後に、鳳凰山について少し解説しておきましょう。全国区の名山ではありませんから、現在の日本ではほぼ知られていませんが、手元にあるジャパンツーリストビューローが刊行した『満洲』(昭和18年)には、こう書かれています。

「鳳凰山 驛の南に聳えている九百三十米許りの山で、五龍山(鳳凰山の南にある五龍背温泉で有名な山)と共に安奉線中の二大名山に數へられている山である。一帯の奇巌怪石は悉く花崗岩から成り、山中、巨巌、寺院多く、寺觀めぐりをする者も多い」。

「安奉線中の二大名山」と言われてもピンとこないと思いますが、戦前期の満洲においては、日露戦争時に建設が着手された安東(現在の丹東)と奉天(瀋陽)を結ぶ鉄道である安奉線沿線の二大景勝地というわけです。

文献を調べていてちょっと面白かったのは、『満洲グラフ』第59号(昭和14年6月号)に「鳳凰城の娘々祭 山の安奉線に見る土俗風景」というグラビア記事で、この山のふもとで行われた祭りの光景が紹介されていたことです。

「アカシヤの芳香と共にパッと開いた初夏の感触。にゃんにゃん祭は陰暦四月の中旬を期して滿洲の各地で行はれる。それは滿人たちの土俗神に對する信仰心の端的な現はれと云ふ以外に、何か滿洲の山野に華やかな大地の蘇りにも似たものをまき散らす馥郁たる年中行事である。

遠くから数日泊まりがけでおし寄せる善男善女の群でごったがえす大石橋迷鎖山の娘々祭はさておいて、山間の僻地にささやかに繰りひろげられる娘々祭にも亦、云ひ知れぬ興趣がある。鍬と鋤とを生命に、その土にこびりついている田舎の農民たちにとって、娘々廟會の訪れはこよなく楽しい縁日だ。

滿洲の名山として千山・關山と並び稱される安奉線鳳凰山をバックに、ここにも愉しい集ひがある。娘々は縁結びの神であり、児授けの神であり、病を治し家を富ましむる萬能の神であると信じられているだけに、集まる人は老幼男女、凡ゆる層を包含しているのであるが、中に目立つのは晴着を装った姑娘たちである。土の家に居て、ささやかな家の事にいそしみながら、指折り數へて待ったのであらうこの廟會―彼女等の鄙びた瞳は希望に輝き、その心は初夏の青空高く舞ひ上がっているのである。

集まる人々を相手に、路傍にひろげられた店―どこから来たのか、飴屋あり、饅頭屋あり、玩具屋あり、果物屋あり、さては街頭卜師にほぐろとりの店まで並ぶ。これが又子供たちの嬉しい對照となるばかりではない。日ごろ恵まれぬ田舎ぐらしに土臭くなった大人たちにとっても、大きい魅力となるのだから面白い。そして廟會につきものの芝居も小屋を仕立てて賑やかにどらと太鼓をかきならしてくれる。

春は馬車に乗って! と誰かが云った。滿洲の大地は娘々祭の訪れと共にハッと四つに開放される。明ければさんさんの陽光に若葉の森がゆらいでいる」。

ちょっと長い引用になってしまいましたが、1930年代当時、この土地には民俗色豊かな祭り(「娘々祭」:中国語の発音で、にゃんにゃん祭りといいます)が繰り広げられていたことがわかります。これも新中国になって消えたもののひとつでしょう。

本当はこういうのが見たかったです。
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by sanyo-kansatu | 2015-05-01 10:14 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 04月 29日

日本人の知らない餃子の話―大連のイカスミ餃子は見た目よりずっと美味しい

旅に出ると、なるべくその土地でしか味わえない珍しいものをちょっと無理してでも食べに行こう、ついでに写真も撮ってしまおう。そういう食へのアプローチが仕事柄、すっかり身についてしまっているのですが、皿数を並べた豪勢な食卓よりも、その土地の人たちの日常食を口にすることのほうが好みです。

日常食という意味では、中国の華北および東北地方の代表は餃子でしょう。一方、戦後に中国帰りの人たちが全国各地で普及し、味も日本化したことで、もうすっかり日本人にとって日常食になっているのも餃子です。

日本の餃子は焼き餃子が主流ですが、本場中国東北地方では水餃子が一般的であることはわりと知られていると思います。最近開店した華人経営の中華料理店は、経営者に東北出身者が多いことから、水餃子がメインですが、日本人の口に合わせて焼き餃子を出すところも多いです。

ではその違いは何か。ひとくちでいうと、皮の厚みです。日本の焼き餃子は、皮の薄さがポイント。中の具を包んで、肉汁がこぼれ出さないようにするのが皮のメインの役割で、食感はそれほど求められない。要は、ご飯と一緒に食べられるような餃子なのです。

一方、中国の餃子は少し厚みのあるもちもちした皮が特徴です。そして、餃子はご飯とは一緒に食べません。それ自体が主食という位置づけだからです。たいていの中国人は「このぷるぷるした皮がおいしいでしょう」と言います。

そもそも位置づけが違うため、両国の餃子は皮の厚みが異なり、その結果、主流は焼き餃子か水餃子かに分かれているのだと思われます(南に行くと、上海あたりだと焼き小龍包などが主流になってきますが、ここはあくまで華北と東北の話なので)。

昨年、大連に展開していた「餃子の王将」チェーンが撤退したことが報じられました。ぼくも何度か店舗を見たことがありますが(さすがにわざわざ中国に行って入る気にはなれなかった)、苦戦している様がうかがえたので、さもありなんと思ったものです。

餃子の王将、中国から撤退 「日本の味受け入れられず」(2014.11.1)
http://www.asahi.com/articles/ASGB05WQZGB0PLFA00D.html

報じられなかった「餃子の王将、中国撤退」本当の理由
http://hbol.jp/13707

「餃子の王将」、なぜ本場中国で失敗したのか
http://toyokeizai.net/articles/-/52547

はたしてこれらのネットの記事がいうように、味が受け入れられなかったといえるのでしょうか。ひとことにしてしまえばそうなるのかもしれませんが、より実情に即していうと、一部記事でも解説されているように、味やサービスがどうこうというより、件の位置づけの違いを大連市民の皆さんに伝えること(あるいは、納得させること)ができなかったためではないかと思われます。というのも、たいていの中国人にこの件について話を聞くと、「餃子と一緒にご飯を食べるというスタイルが受けつけられなかった」と答えるケースが大半です。味そのものではなく、イメージあるいは固定観念の違いからくる違和感をぬぐえなかったということでしょう。

たとえば、カリフォルニアロール自体はおいしそうだけど、日本の寿司屋で出されたら、あまり口にしたくない気になる、納得できない感じがすると我々が思うようなことに近いのではないか。実際、ぼくの地元の私鉄沿線のまちには、3軒の華人経営の中華料理店があるのですが、2軒が黒龍江省出身、1軒は大連出身の店です。前者の2軒では水餃子と焼き餃子を出すのですが、大連の店では本場中国の味にこだわり、水餃子しか出しません。当然というべきか、いつもにぎわっているのは黒龍江省の店です。住宅街に出店し、大半は日本人客が占めるのですから、当たり前のことでしょう。

(実をいうと、この撤退話、そうした文化習慣的なコンテクスト上の違和といったことだけではなくて、昨年の同チェーン社長の射殺事件とからめて事件の真相を探るレポートが出版され、いろいろ詮索されてもいるようです。ここでは触れません)。

それはさておき、大連にはさまざまなタイプの餃子屋さんがあります。まだまだ我々日本人の知らない餃子の世界があるのです。

昨年7月、大連市内の魚介専門餃子店の「船歌魚水餃」というレストランに行ったとき、そのことにあらためて気づかされました。その店の餃子のメインの具は肉ではなく、海鮮素材なのです(一応肉の餃子も出しますが)。

これがその店で注文した餃子2種です。
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黄色いのが、黄魚という黄海でとれた魚の具の入ったもの。日本でいうイシモチだそうで、外見は本当に黄色をしています。上海あたりでもよく食べられている魚です。
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そして真っ黒なのがイカスミ餃子です。接写するとなかなかグロテスクですね。
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でも、中身を開いてみると、イカと豚肉を合わせた具が入っています。皮が黒いのはイカの墨が皮に練り込まれているからです。見た目のインパクトはなかなかですが、意外にさっぱりとして美味です。中国餃子特有の厚みのある皮の歯ごたえも口の中で具となじんでいい感じです。イカスミスパゲティのように口の中が真っ黒になるというようなこともありません。
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他にも、アワビとかサザエなどの貝類を入れた餃子もあります。これら海鮮餃子は肉入り餃子に比べると、肉汁パワーがないぶん、かえって上品な味わいともいえます。でも、餃子には肉汁パワーがほしいと思う人も多そうなので、意見は分かれるかもしれません。これも食のイメージや固定観念がもたらすものでしょう。

そもそも餃子の中に何を入れようが自由なのです。文革期など、中国が貧しかった時代に肉の代用として安い魚介が使われたという面もあるようですが、まあ地元料理とはそういうものでしょう。海に近い大連という土地だからこそで、内陸の瀋陽や長春ではほとんどこの手の店はないでしょうし、あってもたぶんあまり人気はなさそうです。

お店の中では、こうやっておばさんたちがイカの墨を皮に練り込んで、具を包んでいます。
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店内では魚を選んで、一品料理として調理してくれます。手前左の「大黄花」と書かれているのが黄魚でしょう。
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貝類もいろいろあります。
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日本の演歌みたいな店名の「船歌魚水餃」は大連市内に2軒あり、ぼくが行った店は、人民広場に近い唐山街26号にあります。
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by sanyo-kansatu | 2015-04-29 10:34 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 04月 26日

中国瀋陽の回民街(イスラム通り)に行くと、和んでしまう

中国遼寧省の省都・瀋陽を訪ねると、必ず足を運ぶのが回民街(イスラム通り)です。
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場所は瀋陽北駅から南に2㎞ほどの市中心部の一角で、大通りに面した入口に白地にブルーの屋根のついた門が建っています。門には「清真美食街(イスラムグルメ通り)」と書かれています。
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その脇には、中国風モスク、いわゆる清真寺院が建っています。中華とイスラムを折衷したような様式の清真寺院は、中国各地で見られます。
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門の中を一歩入ると、500mくらいの通りに清真レストランや屋台がぎっしり並んでいます。
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回民街の通り沿いには団地が建っていて、多くのムスリム系住民が暮らしています。

これらの写真を撮ったのは、2009年夏のことです。撮影は佐藤憲一さんです。

通りには羊肉串の屋台がたくさんあります。どの店も通りにテーブルとイスをだし、客を待っています。串を焼くのは回族やウイグル族たちですが、なかには青い瞳の青年も交じっています。
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この街で食べられるのは、羊肉と小麦をベースとした素朴な味わいです。小麦の生地に羊肉を包んだ「回頭餅」や羊のモツ煮込みスープ「羊雑湯」、東北風に発酵させた白菜を牛肉で煮込んだ「酸菜牛湯」、蘭州名物「牛肉麺」などは、見た目に比べて淡白な味わいで、食べやすいです。回族料理の麺は、一般の中華料理の麺に比べ強いコシがあるのでぼくは大好きです。
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メニューは漢字とアラビア文字併記です。
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瀋陽に来ると、どうしてもこの地区に足を運びたくなるのは理由があります。ここだけは、昔ながらの中国ののどかな雰囲気が味わえるからです。和んでしまうのです。
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上半身裸に坊主頭という風体は東北の漢族の男たちのトレードマークともいえますが、屋台で串焼きに食らいつくこの男の子の幸せそうなこと。
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もっとも、この街にはエキゾチックな顔立ちの子どもたちも大勢います。
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このおじさんの顔つきも、もともとシルクロードの住人であったことがよくわかります。

そして、何より目を引くのは、首をはねられた羊を丸ごと一匹解体するシーンです。
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カメラを向けると、若い新疆ウイグル地区出身の若者がほこらしげに羊を抱えて見せてくれました。
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夕闇が近づいてくると、回民街はいっそう味わい深い雰囲気を醸し出してきます。
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先ほど解体されていた丸ごと一匹の羊も半分くらいは、串焼き用に切り取られています。
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通りにはネオンが灯り、漢族の若いカップルも散歩しています(それにしても、東北の男性は若くても上半身裸なんですね)。
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夜になると、羊肉串を焼く白い煙がもうもうと立ち昇っていく様子が見られます。
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肉の焼け具合もいい感じです。
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麺屋を覗くと、小麦粉を練って手で伸ばしている男たちもいました。
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そして、この髭じいさん。この界隈のウイグル族の年長者のようです。
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最後にみなさんで記念撮影。これが瀋陽の回民街の世界です。
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……とここまでは、よくありがちな地元とのふれあいを楽しむ旅ネタですが、ちょっとした続きがあります。

カメラマン氏が撮った写真をメールで送るから、メルアド教えてと尋ねたところ、ひとりの青年がこう言うのです。

「ぼくたちウイグル族は今、ネットを政府から監視されていて、海外からメールが届くと面倒なことになる。プリントして送ってほしい」。

実は、この写真を撮ったのは、2009年7月に起きたウイグル騒乱から1か月後のことでした。彼らが中央政府から監視の対象とされているとは聞いていたものの、新疆ウイグル地区からこんなに離れた瀋陽ですらそうなのか、とちょっと驚いたものです。

中国では、わざわざ政治向きの話を詮索する気はなくても、こういう場面によく出くわすものです。

それから約9か月後の朝日新聞(2010年5月15日)に次のような小さな記事が載りました。

「中国新疆ウイグル地区自治区政府は14日、昨年7月の約200人が死亡したウイグル騒乱以降、同自治区内で規制していたインターネット接続を全面的に回復させたと発表した」。

都内でこの回民街出身の回族と出会うことになったのは、それから5年後のことでした。
 ↓
東京ムスリム飯店は中国瀋陽出身の回族のお店でした
http://inbound.exblog.jp/24406306/
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by sanyo-kansatu | 2015-04-26 15:35 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)