ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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カテゴリ:日本人が知らない21世紀の満洲( 77 )


2015年 05月 01日

高所恐怖症にはキツイ岩山の尾根伝い登山道(中国遼寧省鳳凰山)

自分は山登りというものが好きではありません。人に誘われ、高尾山に登るのすら気乗りしないほどです。だから、仕事で半ば強制的な環境にでも置かれないかぎり、今回のように中国の岩山登りをするなんて思いもつかないものです。

中国遼寧省丹東市の北方に鳳凰山という景勝地があります。中国でよく見かける花崗岩でできた連山で、標高は930mほどですから、全国的な知名度はありません。中国の片田舎にある行楽地のひとつです。

その山にぼくを連れていこうとしたのは、丹東の旅行会社の閻宇飛さんです。彼はぼくが丹東を訪ねると、それが自分の使命とばかりに、あちこちを案内してくれます。まったくありがたい話なのですが、彼は事前に行先をあまり詳しく説明してくれないのです。「まあ行ってみればわかりますから…」という感じで、自分の運転する車に乗せてくれます。北朝鮮国境に位置する丹東という土地柄、実に面白い場所ばかりなので、毎回おまかせで彼の車に乗り込むのです。

ですから、昨年7月下旬、丹東を訪ねたとき、どこに連れていかれるのか、ぼくはよくわかっていませんでした。前日ぼくと同行者のHさんは、瀋陽に滞在していたのですが、閻さんからは「高速バスに乗って鳳凰城というまちまで来てください」とのみ伝えられていたのです。

鉄道駅のそばでバスを降りると、閻さんは今度大学生になるという息子さんを連れて待っていました。鉄道駅の反対側に、ところどころ岩肌を露出した山並みが見えました。どうやらそれが鳳凰山のようです。
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彼の運転する車に乗り換え、山門に向かいました。近頃の中国の行楽地にはどこでもたいてい立派な門ができています。
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門の脇に登山案内図があります。「まさか、これを今日登るのか……」。
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「さあ、行きましょう」。閻さんは入山料を払い、門の中に入るよう手招きしました。パッとみた感じは、さほど大きな山ではないようですが、山門付近から見渡せるのは全体の一部です。戸惑いつつも、歩くほかありません。

ロープウェイ乗り場までは有料のカーゴに乗っていきます。これが結構距離があるんです。10分近く走るので、歩くと45分くらいはかかるそうです。
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さて、登山道の入口に簡単な地図がありました。見ると、細かく距離が記されています。全周7.5kmとあります。

「エー、これ歩くんですか」。ついにぼくは声を上げました。こんなにお世話になっているのに、いい気なものです。

「大丈夫。登りはロープウェイに乗りますから。それで歩く距離は半分に短縮されます。せいぜい3kmほどですよ」。閻さんはにこにこしながらそう答えます。
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ロープウェイで将軍峰という鳳凰連山の西側にある2番目に高い頂まで登りました。山のふもとでは天気が良かったのに、山頂付近は霧に覆われています。

鳳凰山は花崗岩の岩肌が露出した、いかにも中国的なコンセプトの山でした。中国名山と称される黄山もそうですが、岩山と霧に覆われた世界は、まるで仙人でも住んでいそうです。

さっそく登山道を歩くことになったのですが、この写真をよく見てください。登山道は岩山の尾根に沿って伸びています。さらに目を凝らすと、「ノミの徒渡り」と言うんでしょうか。尾根の背に手すりが付けられただけの道も見えます。これ、大丈夫なの? そこから落ちたら、だって……下までまっさかさまじゃないですか。
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実際、この手の急な岩の階段をアップダウンして進まなければなりませんでした。
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同行者のHさんはぼくより年長ですが、スイスイ登っていきます。この階段だって、ちょっと怖いでしょう。
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これが尾根の背のひとつです。ここは比較的平らで幅もそこそこあるのでそれほどでもないですが、実際にはもっとヤバい場所がありました。そこでは、とても撮影する余裕はありませんでした。耳元にヒューヒュー風が吹いてきて、立ち上がることもできず、尾根伝いに這いつくばって進まなければならなかったのです。足がガクガク震えてきて「勘弁してくれー」と心の中で叫び続けていました。
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お察しのとおり、ぼくは高所が苦手な体質です。助かったのは、眼下が霧でよく見えなかったことです。絶景が底まで見渡せでもしようものなら、気を失ってしまっていたかもしれません。

ところが、閻さんはこんなことを言います。「ぼくが初めてこの山を登ったのは大学生のころで、当時は手すりも何もなく、岩の上を素手でよじ登ったものですよ」。

「おいおいマジかよ。そんなの落ちたらまずいじゃないですか!」。中国的なアバウトさに思わず声を荒立ててしまいました。

彼は笑っています。

山頂に近づいてきました。「天下絶(景)」と書かれています。
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こんなふざけた登山道もありました。「瑠璃桟道」と書かれています。つまり、ガラスの板でできた道で、足元が透けて真下が見渡せるというのです。なんですか、それ。怖すぎるじゃないですか。しかも、現在修理中って。もしやガラスの板が割れたとでもいうのでしょうか……。
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これもちょっとすごくないですか。登山道の先は霧でまったく見えません。まるで天国への階段? このまま進んでいっていいのか、ためらいを禁じえません。
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そうこうしているうちに、登山道は下りになっていました。どこが山頂だったのか。ついぞ記憶にありません。高揚感もありませんでした。あとはなだらかな下りが続くだけだと聞いて、心底ホッとしました。これでやっと恐怖から解放されるのだ。こんな身の縮む思いはこりごりだ。とにかく、さっさと下山したいという気持ちでいっぱいでした。まったく面白味のないやつで、すいません。

ところが、閉山時刻が近づいていて、ロープウェイ乗り場から山門までのカーゴが見つかりません。これはヤバい。もうこれ以上歩きたくない。そんな殺生な…。思わずそんな江戸言葉が口をついて出てしまいます。幸い、売店の従業員たちの下山用の車が残っていて、救われました。このときほどうれしかった瞬間はありません。
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下山すると、山門のそばに温泉がありました。ふだんなら、温泉に浸かっていきたいと思うたちですが、その日は早く宿に帰りたくて、早々に鳳凰山を後にしました。
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教訓。高所恐怖症には中国の登山はキツイ。特に岩山の尾根伝いはヤバい。

こんなことでは、中国の老荘思想に親しむ資格は自分にはなさそうです。

さて。最後に、鳳凰山について少し解説しておきましょう。全国区の名山ではありませんから、現在の日本ではほぼ知られていませんが、手元にあるジャパンツーリストビューローが刊行した『満洲』(昭和18年)には、こう書かれています。

「鳳凰山 驛の南に聳えている九百三十米許りの山で、五龍山(鳳凰山の南にある五龍背温泉で有名な山)と共に安奉線中の二大名山に數へられている山である。一帯の奇巌怪石は悉く花崗岩から成り、山中、巨巌、寺院多く、寺觀めぐりをする者も多い」。

「安奉線中の二大名山」と言われてもピンとこないと思いますが、戦前期の満洲においては、日露戦争時に建設が着手された安東(現在の丹東)と奉天(瀋陽)を結ぶ鉄道である安奉線沿線の二大景勝地というわけです。

文献を調べていてちょっと面白かったのは、『満洲グラフ』第59号(昭和14年6月号)に「鳳凰城の娘々祭 山の安奉線に見る土俗風景」というグラビア記事で、この山のふもとで行われた祭りの光景が紹介されていたことです。

「アカシヤの芳香と共にパッと開いた初夏の感触。にゃんにゃん祭は陰暦四月の中旬を期して滿洲の各地で行はれる。それは滿人たちの土俗神に對する信仰心の端的な現はれと云ふ以外に、何か滿洲の山野に華やかな大地の蘇りにも似たものをまき散らす馥郁たる年中行事である。

遠くから数日泊まりがけでおし寄せる善男善女の群でごったがえす大石橋迷鎖山の娘々祭はさておいて、山間の僻地にささやかに繰りひろげられる娘々祭にも亦、云ひ知れぬ興趣がある。鍬と鋤とを生命に、その土にこびりついている田舎の農民たちにとって、娘々廟會の訪れはこよなく楽しい縁日だ。

滿洲の名山として千山・關山と並び稱される安奉線鳳凰山をバックに、ここにも愉しい集ひがある。娘々は縁結びの神であり、児授けの神であり、病を治し家を富ましむる萬能の神であると信じられているだけに、集まる人は老幼男女、凡ゆる層を包含しているのであるが、中に目立つのは晴着を装った姑娘たちである。土の家に居て、ささやかな家の事にいそしみながら、指折り數へて待ったのであらうこの廟會―彼女等の鄙びた瞳は希望に輝き、その心は初夏の青空高く舞ひ上がっているのである。

集まる人々を相手に、路傍にひろげられた店―どこから来たのか、飴屋あり、饅頭屋あり、玩具屋あり、果物屋あり、さては街頭卜師にほぐろとりの店まで並ぶ。これが又子供たちの嬉しい對照となるばかりではない。日ごろ恵まれぬ田舎ぐらしに土臭くなった大人たちにとっても、大きい魅力となるのだから面白い。そして廟會につきものの芝居も小屋を仕立てて賑やかにどらと太鼓をかきならしてくれる。

春は馬車に乗って! と誰かが云った。滿洲の大地は娘々祭の訪れと共にハッと四つに開放される。明ければさんさんの陽光に若葉の森がゆらいでいる」。

ちょっと長い引用になってしまいましたが、1930年代当時、この土地には民俗色豊かな祭り(「娘々祭」:中国語の発音で、にゃんにゃん祭りといいます)が繰り広げられていたことがわかります。これも新中国になって消えたもののひとつでしょう。

本当はこういうのが見たかったです。
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by sanyo-kansatu | 2015-05-01 10:14 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 04月 29日

日本人の知らない餃子の話―大連のイカスミ餃子は見た目よりずっと美味しい

旅に出ると、なるべくその土地でしか味わえない珍しいものをちょっと無理してでも食べに行こう、ついでに写真も撮ってしまおう。そういう食へのアプローチが仕事柄、すっかり身についてしまっているのですが、皿数を並べた豪勢な食卓よりも、その土地の人たちの日常食を口にすることのほうが好みです。

日常食という意味では、中国の華北および東北地方の代表は餃子でしょう。一方、戦後に中国帰りの人たちが全国各地で普及し、味も日本化したことで、もうすっかり日本人にとって日常食になっているのも餃子です。

日本の餃子は焼き餃子が主流ですが、本場中国東北地方では水餃子が一般的であることはわりと知られていると思います。最近開店した華人経営の中華料理店は、経営者に東北出身者が多いことから、水餃子がメインですが、日本人の口に合わせて焼き餃子を出すところも多いです。

ではその違いは何か。ひとくちでいうと、皮の厚みです。日本の焼き餃子は、皮の薄さがポイント。中の具を包んで、肉汁がこぼれ出さないようにするのが皮のメインの役割で、食感はそれほど求められない。要は、ご飯と一緒に食べられるような餃子なのです。

一方、中国の餃子は少し厚みのあるもちもちした皮が特徴です。そして、餃子はご飯とは一緒に食べません。それ自体が主食という位置づけだからです。たいていの中国人は「このぷるぷるした皮がおいしいでしょう」と言います。

そもそも位置づけが違うため、両国の餃子は皮の厚みが異なり、その結果、主流は焼き餃子か水餃子かに分かれているのだと思われます(南に行くと、上海あたりだと焼き小龍包などが主流になってきますが、ここはあくまで華北と東北の話なので)。

昨年、大連に展開していた「餃子の王将」チェーンが撤退したことが報じられました。ぼくも何度か店舗を見たことがありますが(さすがにわざわざ中国に行って入る気にはなれなかった)、苦戦している様がうかがえたので、さもありなんと思ったものです。

餃子の王将、中国から撤退 「日本の味受け入れられず」(2014.11.1)
http://www.asahi.com/articles/ASGB05WQZGB0PLFA00D.html

報じられなかった「餃子の王将、中国撤退」本当の理由
http://hbol.jp/13707

「餃子の王将」、なぜ本場中国で失敗したのか
http://toyokeizai.net/articles/-/52547

はたしてこれらのネットの記事がいうように、味が受け入れられなかったといえるのでしょうか。ひとことにしてしまえばそうなるのかもしれませんが、より実情に即していうと、一部記事でも解説されているように、味やサービスがどうこうというより、件の位置づけの違いを大連市民の皆さんに伝えること(あるいは、納得させること)ができなかったためではないかと思われます。というのも、たいていの中国人にこの件について話を聞くと、「餃子と一緒にご飯を食べるというスタイルが受けつけられなかった」と答えるケースが大半です。味そのものではなく、イメージあるいは固定観念の違いからくる違和感をぬぐえなかったということでしょう。

たとえば、カリフォルニアロール自体はおいしそうだけど、日本の寿司屋で出されたら、あまり口にしたくない気になる、納得できない感じがすると我々が思うようなことに近いのではないか。実際、ぼくの地元の私鉄沿線のまちには、3軒の華人経営の中華料理店があるのですが、2軒が黒龍江省出身、1軒は大連出身の店です。前者の2軒では水餃子と焼き餃子を出すのですが、大連の店では本場中国の味にこだわり、水餃子しか出しません。当然というべきか、いつもにぎわっているのは黒龍江省の店です。住宅街に出店し、大半は日本人客が占めるのですから、当たり前のことでしょう。

(実をいうと、この撤退話、そうした文化習慣的なコンテクスト上の違和といったことだけではなくて、昨年の同チェーン社長の射殺事件とからめて事件の真相を探るレポートが出版され、いろいろ詮索されてもいるようです。ここでは触れません)。

それはさておき、大連にはさまざまなタイプの餃子屋さんがあります。まだまだ我々日本人の知らない餃子の世界があるのです。

昨年7月、大連市内の魚介専門餃子店の「船歌魚水餃」というレストランに行ったとき、そのことにあらためて気づかされました。その店の餃子のメインの具は肉ではなく、海鮮素材なのです(一応肉の餃子も出しますが)。

これがその店で注文した餃子2種です。
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黄色いのが、黄魚という黄海でとれた魚の具の入ったもの。日本でいうイシモチだそうで、外見は本当に黄色をしています。上海あたりでもよく食べられている魚です。
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そして真っ黒なのがイカスミ餃子です。接写するとなかなかグロテスクですね。
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でも、中身を開いてみると、イカと豚肉を合わせた具が入っています。皮が黒いのはイカの墨が皮に練り込まれているからです。見た目のインパクトはなかなかですが、意外にさっぱりとして美味です。中国餃子特有の厚みのある皮の歯ごたえも口の中で具となじんでいい感じです。イカスミスパゲティのように口の中が真っ黒になるというようなこともありません。
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他にも、アワビとかサザエなどの貝類を入れた餃子もあります。これら海鮮餃子は肉入り餃子に比べると、肉汁パワーがないぶん、かえって上品な味わいともいえます。でも、餃子には肉汁パワーがほしいと思う人も多そうなので、意見は分かれるかもしれません。これも食のイメージや固定観念がもたらすものでしょう。

そもそも餃子の中に何を入れようが自由なのです。文革期など、中国が貧しかった時代に肉の代用として安い魚介が使われたという面もあるようですが、まあ地元料理とはそういうものでしょう。海に近い大連という土地だからこそで、内陸の瀋陽や長春ではほとんどこの手の店はないでしょうし、あってもたぶんあまり人気はなさそうです。

お店の中では、こうやっておばさんたちがイカの墨を皮に練り込んで、具を包んでいます。
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店内では魚を選んで、一品料理として調理してくれます。手前左の「大黄花」と書かれているのが黄魚でしょう。
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貝類もいろいろあります。
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日本の演歌みたいな店名の「船歌魚水餃」は大連市内に2軒あり、ぼくが行った店は、人民広場に近い唐山街26号にあります。
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by sanyo-kansatu | 2015-04-29 10:34 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 04月 26日

中国瀋陽の回民街(イスラム通り)に行くと、和んでしまう

中国遼寧省の省都・瀋陽を訪ねると、必ず足を運ぶのが回民街(イスラム通り)です。
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場所は瀋陽北駅から南に2㎞ほどの市中心部の一角で、大通りに面した入口に白地にブルーの屋根のついた門が建っています。門には「清真美食街(イスラムグルメ通り)」と書かれています。
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その脇には、中国風モスク、いわゆる清真寺院が建っています。中華とイスラムを折衷したような様式の清真寺院は、中国各地で見られます。
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門の中を一歩入ると、500mくらいの通りに清真レストランや屋台がぎっしり並んでいます。
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回民街の通り沿いには団地が建っていて、多くのムスリム系住民が暮らしています。

これらの写真を撮ったのは、2009年夏のことです。撮影は佐藤憲一さんです。

通りには羊肉串の屋台がたくさんあります。どの店も通りにテーブルとイスをだし、客を待っています。串を焼くのは回族やウイグル族たちですが、なかには青い瞳の青年も交じっています。
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この街で食べられるのは、羊肉と小麦をベースとした素朴な味わいです。小麦の生地に羊肉を包んだ「回頭餅」や羊のモツ煮込みスープ「羊雑湯」、東北風に発酵させた白菜を牛肉で煮込んだ「酸菜牛湯」、蘭州名物「牛肉麺」などは、見た目に比べて淡白な味わいで、食べやすいです。回族料理の麺は、一般の中華料理の麺に比べ強いコシがあるのでぼくは大好きです。
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メニューは漢字とアラビア文字併記です。
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瀋陽に来ると、どうしてもこの地区に足を運びたくなるのは理由があります。ここだけは、昔ながらの中国ののどかな雰囲気が味わえるからです。和んでしまうのです。
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上半身裸に坊主頭という風体は東北の漢族の男たちのトレードマークともいえますが、屋台で串焼きに食らいつくこの男の子の幸せそうなこと。
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もっとも、この街にはエキゾチックな顔立ちの子どもたちも大勢います。
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このおじさんの顔つきも、もともとシルクロードの住人であったことがよくわかります。

そして、何より目を引くのは、首をはねられた羊を丸ごと一匹解体するシーンです。
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カメラを向けると、若い新疆ウイグル地区出身の若者がほこらしげに羊を抱えて見せてくれました。
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夕闇が近づいてくると、回民街はいっそう味わい深い雰囲気を醸し出してきます。
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先ほど解体されていた丸ごと一匹の羊も半分くらいは、串焼き用に切り取られています。
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通りにはネオンが灯り、漢族の若いカップルも散歩しています(それにしても、東北の男性は若くても上半身裸なんですね)。
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夜になると、羊肉串を焼く白い煙がもうもうと立ち昇っていく様子が見られます。
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肉の焼け具合もいい感じです。
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麺屋を覗くと、小麦粉を練って手で伸ばしている男たちもいました。
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そして、この髭じいさん。この界隈のウイグル族の年長者のようです。
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最後にみなさんで記念撮影。これが瀋陽の回民街の世界です。
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……とここまでは、よくありがちな地元とのふれあいを楽しむ旅ネタですが、ちょっとした続きがあります。

カメラマン氏が撮った写真をメールで送るから、メルアド教えてと尋ねたところ、ひとりの青年がこう言うのです。

「ぼくたちウイグル族は今、ネットを政府から監視されていて、海外からメールが届くと面倒なことになる。プリントして送ってほしい」。

実は、この写真を撮ったのは、2009年7月に起きたウイグル騒乱から1か月後のことでした。彼らが中央政府から監視の対象とされているとは聞いていたものの、新疆ウイグル地区からこんなに離れた瀋陽ですらそうなのか、とちょっと驚いたものです。

中国では、わざわざ政治向きの話を詮索する気はなくても、こういう場面によく出くわすものです。

それから約9か月後の朝日新聞(2010年5月15日)に次のような小さな記事が載りました。

「中国新疆ウイグル地区自治区政府は14日、昨年7月の約200人が死亡したウイグル騒乱以降、同自治区内で規制していたインターネット接続を全面的に回復させたと発表した」。

都内でこの回民街出身の回族と出会うことになったのは、それから5年後のことでした。
 ↓
東京ムスリム飯店は中国瀋陽出身の回族のお店でした
http://inbound.exblog.jp/24406306/
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by sanyo-kansatu | 2015-04-26 15:35 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 01月 19日

大連賓館(旧大連ヤマトホテル)にいまも残る秘密の部屋

2014年に創業100周年を迎えた大連賓館(旧大連ヤマトホテル)が、数年前から館内に同館の歴史を紹介する展示室を開業しています。
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普段は宿泊客にも見せない秘密の部屋も見せてくれるということで、昨年7月訪ねてみました。日本統治時代、大連ヤマトホテルは国内外の賓客、政治家や外交官、経済界の重鎮などをもてなす帝国ホテル的な位置付けでしたから、当時の建築技術や国力の粋をつくした壮麗な世界でした。
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まもなく100周年を迎える大連ヤマトホテルの現在
http://inbound.exblog.jp/20581894/

展示室を参観したい場合は、フロントの右手に貼られた掲示板にあるとおり、専属ガイドを呼んでもらうことになります。宿泊客でなければ、1名50元です。
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展示室は2階にあります。残念ながら、展示室内の撮影はNGでした。開業から今日に至る歴史を写真と遺品を並べて解説しています。

これは展示室に入る前の解説文です。もったいぶってあるわりには、ささやかな展示室です。以前、日本を代表する箱根富士屋ホテルの資料室を見せていただいたことがあるのですが、比較しては気の毒でしょう。
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展示室を見終わると、ヤマトホテルや満鉄にゆかりのある遺品(当時ホテルで使われていたコーヒーカップやワイングラスなど)を販売するショップに案内されます。よくある中国の骨董土産店です。以前は大連市内にこの手の品を集めた骨董ショップがいくつかありましたが、最近姿を見かけなくなったと思っていました。最近は満鉄グッズを喜んで購入するような日本客も減り、このような場所にまとめられているようです。
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こうした満鉄の社名の入った木版は年代がわかりませんが、どう価値を付けていいか難しいものです。
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これはヤマトホテルで使われていたコーヒーカップでしょうか。以前ぼくは満鉄の食堂車で使っていたというワイングラスを購入したことがあります。ただし、これらが本物なのかどうか、いろいろ言う人もいます。
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2階から大食堂が見下ろせます。
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最後に見せてくれるのが貴賓室です。普段は宿泊客にも見せないというのは、この場所です。黄金色に塗られた柱が醸し出す雰囲気は、ラストエンペラーの偽皇宮のようにも見えますが(たぶん当時とはかなりイメージが違うのでは、と想像します)、こういう仰々しい舞台を必要としていたホテルであったことをあらためて知ることができます。
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それにしても、ガイド料50元はちょっと高いですね。実は、同じような館内ガイドは、瀋陽の遼寧賓館(旧奉天ヤマトホテル)でもやっていたようです。また改装によって当時の趣はすっかりなくなってしまった長春の春誼賓館(旧新京ヤマトホテル)ではこのようなことはやっていませんが、ハルビンの龍門大廈(旧ハルビンヤマトホテル)では、同館の100年の歴史を解説した立派なパンフレットを用意しています。今度そのパンフレットをもとにハルビンヤマトホテルの歴史(おそらくこの4館のうち、いちばん数奇な歴史をたどった)をひもといてみようと思っています。

現存するヤマトホテルのすべて
http://inbound.exblog.jp/23923802/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-19 08:48 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 01月 17日

大連満鉄旧跡陳列館では満鉄総裁室を公開しています

日露戦争後、日本が満洲(現・中国東北地方)で運営した半官半民の国策会社「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」の設立は1906年11月26日。翌07年東京から大連に本社を移転しましたが、その100周年という節目にあたる2007年9月、旧満鉄本社屋(現・瀋陽鉄道局大連鉄道事務所)内にいまも残る旧満鉄総裁室と会議室の復元と開放が実施され、「大連満鉄旧跡陳列館」として見学可能になりました。
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満鉄の初代総裁は台湾の民政長官として殖産興業による経済政策が評価されたことで起用された後藤新平です。後藤が使った総裁室は建物の2階にあり、46㎡ほどの広さ。当時の机やイス、歴代総裁の写真パネルなどがぽつんと置かれているきりですが、関係者によると、写真資料をもとに元どおりに配置したそうです。歴代の総裁の顔写真も展示されています。
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大連の古い絵はがきの中にあった総裁室の写真です。当時こういう場所を公開したとは思えないのですが、日本の国旗が背後に見えるので、いつ撮られたものか不明です。
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隣の展示ホールは天井の高い164㎡もの空間で、満鉄史を紹介する写真パネルや当時使われた「満鉄」ロゴ入りの食器や徽章、マンホールなどが置かれています。
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もともとこの本社屋は日露戦争直前のロシア統治時代に学校として建てられた建物を満鉄が修築し、1908年に完成させたものです。展示室は学校の礼拝堂だったもので、満鉄時代は会議室として使われていたようです。

満鉄の金庫室も参観可能です。
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満鉄本社は終戦後、大連市の鉄道局事務所として使われてきました。これが「大連満鉄旧跡陳列館」の入口で、この重厚な建物の西翼の一部を改装したものです。
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玄関を入ると、当時を思い起こさせる華麗なロビーがあります。
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展示は2階で、この看板が掲げられています。
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ちなみにこれは現在も残してある満鉄ロゴ入りマンホールです。
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もともと満鉄の旧総裁室や関連資料は非公開とされていました。陳列館の復元と開放に向けて尽力したのは、日本人客の受入を行っている地元の旅行会社です。これまで日本から多くの人が訪れています。その中には、村山元総理の名もあるそうです。

さて、中国側が復元した満鉄本社と関連陳列物を見る価値がどこまであるのか疑問に思う方もいるかもしれません。ぼくはこの種の施設を参観する際、歴史の実証性ではなく、彼らがどのように歴史を描いているのか。そこに注目することにしています。

満鉄の歴史的存在からみれば驚くほど、いやはっきり言って話にならないほどささやかな展示品についてはひとまずおいて、彼らのこしらえた展示パネルをざっと見てみることにしましょう。題して「満鉄歴史画像展」です。
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全体は4部構成になっています。第1部は「満鉄の創立と任務」です。展示では、日清戦争、その後の三国干渉によるロシアの租借化、日露戦争を経て満鉄設立に至る歴史をおさらいします。
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第2部は「満鉄の経営と拡張」です。満鉄による鉄路と港湾の構築、ホテルや医療機関、公園や温泉など日本人のためのレジャー施設の開発、満鉄調査部の設立と各種研究機関や図書館、新聞の発行などを解説しています。ここだけ見ていると、大連と満鉄沿線が名実ともに近代空間へと変貌していくさまがよくわかります。
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もっとも、「教育機関の発展と中国人に対する奴隷化教育の推進」といったパネルも差し込まれています。
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第3部は「満鉄の略奪と搾取」です。ここでは東北地方の大豆や木材などの資源を搾取し、中国人労働者を酷使する満鉄が描かれます。
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第4部は「満鉄の衰退と末日」です。そこでは中国人による抗日闘争によって日本が敗戦し、大連が開放されるさまが描かれます。
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すべてのパネルを紹介したわけではありませんが、満鉄の歴史を概ね公平に解説した展示パネルではないかと思いました。他の中国の都市の歴史展示で見られるように日本を悪の権化としてのみ描くのでなく、大連の近代の発展が満鉄によって推進していったことはそれなりにわかるように解説されているからです。彼らの立場に立てば、満鉄は「略奪と搾取」をしたのであって、主人公は中国であったと自らの近代史を語るのは当然のことでしょう。

この展示で面白いのは、満鉄の各路線の当時の駅舎や各種機関車などの写真もあることです。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-17 16:22 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 01月 17日

ショック!? 大連「旧ロシア人街」の再開発が一気に進んでいた

大連駅の北東側にある旧ロシア人街(俄罗斯风情街)は、19世紀末期、大連に港湾施設を建設し、都市開発を進めたロシア人たちが最初につくったエリアです。いわば大連発祥の地です。
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これは日本統治時代の絵はがきで、鉄道をまたぐ旧日本橋(現・勝利橋)の北側の一帯には、ロシア風の街並みが広がっていました。

現在では、このエリアのメイン通りにあたる団結街を「俄罗斯风情街」と命名し、再開発されています。歴史的建築物を保護することを目的に、2000年代初めに大連市政府によって着手されたものですが、正直なところ、土産物屋とエコノミーホテルの並ぶチープなロシア風テーマパークと化してしまっています。

ざっと主な歴史的建築物の現在の姿を見ていきましょう。
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旧ロシア人街の入口に建つこの象徴的な建築物は、1900年に東清鉄道汽船会社の社屋として建てられたもので、日本時代は「日本橋図書館」でした。現在は「大連芸術展示館」という美術館です。
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実は、この建物自体は新中国建国後、いったん取り壊されており、のちに復元されたものだそうです。話が少し込み入ってしまいますが、大連と姉妹都市の北九州市の門司港にこの建物のレプリカがあり、ぼくも以前、訪ねたことがあります。なぜこんなところに? と奇妙な印象が残っているのですが、なんでも現在の大連のこの建物は、門司港のレプリカを参考に復元されたのだとか。

これが「俄罗斯风情街」です。確かにかつてこの通りには壮麗なロシア建築が並んでいましたが、新中国建設後は老朽化が進み、2000年代に派手なペイントを塗りたくられ、雑にお色直しして現在に至っています。
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数年前から、中国を代表するエコノミーホテルチェーンの錦江之星などいくつかのホテルとしても使われています。1泊200元程度の価格帯なので、若い国内の旅行者が利用しているようです。知り合いのトラベルライターが昨年9月、錦江之星に宿泊したそうで、部屋の写真を見せてもらいましたが、内装はきれいにリノベーションされ、快適な印象でした。
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谷川一巳さんの「tabinori」大連の旅(2014年9月)
http://tabinori.net/kankokaigai/dlc.html
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土産物屋にはマトリョーシカなどロシアがらみの商品が並べられていますが、まるでパッとしません。
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通りのいちばん奥まった場所に、唯一お色直しされておらず、老朽化にまかせるまま、それゆえに独特の存在感のある建築物が建っています。
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この幽霊屋敷のような建物の来歴を語ると話がずいぶん長くなります。最初、東清鉄道事務所として建てられ、1902年には初代の大連市役所、日本統治時代の07年に満鉄本社、翌08年に2代目ヤマトホテル、その後、満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と名称を変更しながら博物館として使われ、新中国時代は97年まで大連市自然博物館でした。その後、一時期オフィスやホテルにも使われたようでしたが、結局、この歴史的な建築遺構をうまく使いこなすオーナーが現れなかったせいか、廃墟同然の姿で現存しています。
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この建物の周辺だけ、時間が停まっているように見えます。100年前からずっとここに建ち、このまちの変遷を眺めてきたのです。かつての大連はこのような洋館が並ぶ、さぞ美しいまちだったことでしょう。

さて、ここまでが旧ロシア人街の表の顔ですが、もっと面白いのが、この通りの左右両脇に広がる界隈の路地裏歩きです。勝利橋を背にして右手に広がるのが上海路界隈、また左手に広がるのが光輝巷や煙台街界隈。前者はもともと東清鉄道汽船会社のオフィスや社宅など、後者はロシア人の暮らした住居が多数残っていました。

もっとも、最近まではそれら老朽化した住居に地方から出稼ぎに来た「外地人」労働者とその家族が住んでいました。

まず上海路界隈から。これは、最も早い時期の日本統治時代に使われた建物だそうです。
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このあたりには、木造のロシア風住居が相当傷みながらもいくつか残っています。
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長屋風の共同住宅もあります。このあたりはロシア時代のものか、日本時代のものかわかりません。
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この界隈には海鮮市場や小吃の屋台なども見られます。
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一方、光輝巷や煙台街界隈には、2012年くらいまでロシア風の住宅街がなんとか残っていました。
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100年前は瀟洒な洋館だったと思われる住居が廃屋に限りなく近い状態で残っていたのです。
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もちろん、いまは地方からの労働者の住み着く世界です。
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この状況から在りし日の情景を思い浮かべるにはかなりの想像力を要するかもしれません。しかし、高層ビルの建ち並ぶ現代的な大連市中心部のある一角に残る光景としては、非常に興味深い界隈でした。これらの写真の多くは、2010年夏に撮ったものです。
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ところが、昨年7月この界隈を歩いてみたところ、大きな変化が見られました。特に光輝巷や煙台街界隈です。さきほど見たロシア風住宅街はほぼ消えうせていたのです。

代わりにそこにあったのは、住宅展示場のような門構えのあるホテルでした。旧ロシア人街の再開発がついに進んでしまっていたのか! 少々大げさですが、ぼくその場に立ち尽くし、呆然としてしまいました。
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ホテルの名前は「鉄道1896花園酒店」といいます。館内に足を運んでみましたが、外観は確かに洋風ですが、なんの変哲もない中国式ホテルでした。
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鉄道1896花園酒店
大連市西崗区光輝巷36号

ホテルの隣には、おそらくハルビンにある有名ロシア料理店の支店と思われるレストランが建っていました。
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これでは「俄罗斯风情街」となんら変わりません。残念なことですが、いまの大連ではこのようなやり方しか採用できないことを責められるものではありません。なにしろ前述した旧満州資源館のような歴史的な建築物もどう扱っていいかわからず、ずっと放置されているのですから。無名の個人が住んでいた住居群を保存して残すことは難しいでしょう。そもそも今日の大連の多くの人たちにとって、移民労働者の暮らす貧困地区にすぎない一角は、なるべく早く再開発してほしいというのが本音だったかもしれません。

※ただし、旧ロシア人街には、大連育ちの若い世代が始めたこんな創作カフェもあります。これが新しい満洲の姿ともいえます。

大連の若い世代(80后)は日本時代の住居が懐かしいという
http://inbound.exblog.jp/23760526/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-17 11:27 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 01月 16日

かつて“小崗子”と呼ばれた労働者居住区を上空から眺める(大連)

昨年7月、大連の知り合いのオフィスを訪ねたとき、オフィスの高層階の窓から、大連駅の西に広がる古い街並みが残る一画が見渡せました。林立する高層ビル群が押し寄せるように間近に迫るなか、この一帯だけ、ぽっかりと空が広がっているような不思議な眺めです。
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ここはかつて“小崗子”と呼ばれた場所で、ロシアと日本の統治時代の頃より、主に山東省から大連に流入してくる労働者たちの暮らす地域でした。現在は一般に「東関街」と呼ばれています。このあたりには遊郭などもあったようです。
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頭上から見ると、それぞれの住居はかなり老朽化していることがうかがえます。
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居住区をよく見ると、通りに並ぶ住居の内側に中庭のような空間が見られます。これが古き良き中国人の住まい方を意味する「大雑院」でしょうか。複数の家族が住む共同住宅の内側に設えられたコミュニティ空間のことです。日本でいえば、長屋住まいの世界に近いと思います。
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昨日、中国の瀋陽から訪ねてきた友人に「大雑院」の話をしたところ、「必ずしも大雑院の中では、みんなが仲良く暮らしていたわけではないでしょう。喧嘩もあったと思うし、そんなきれいごとばかりの世界ではなかったと思いますよ」と笑いながら答えていました。彼は40代前半の男性なので、子供のころ、自分も大雑院の世界で暮らしていたようです。まあそれはそうでしょうね。

さらに望遠の倍率を上げると、屋根が崩壊していたり、一部再開発が始まっていたりすることも見えてきました。
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2012年に大連を訪ねたとき、東関街を歩いたことがあります。以下は、そのとき撮影したものです。
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いまも残る住居建築には、レンガの壁と独特のシンプルな装飾なども見られます。
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オンドルの煙突が並ぶ光景は、いかにも東北らしいです。
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倒壊しそうな危うい住居も残っています。
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洗濯物が干されていることを見る限り、まだ多くの住人がいることがわかります。100年前もそうでしたが、いまでも地方から大連に出稼ぎにきた労働者たち、いわゆる「外地人」の居住地になっています。これは市内の他の日本統治時代の古い住居が彼らの住処になっているのと同様です。
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旧満鉄病院(大連中山医院)の周辺に広がるかつての日本人居住区の南山や、老虎灘に向かう通り沿いの高台にある文化台の日本住居もいまではかなり取り壊しが進んでいますが、大連市内の中心部に位置する東関街の再開発が遅れているのは、「外地人」居住区であることと関係あるのでしょうか。今度大連の知人に尋ねてみようと思います。

東関街の最近の様子については、ネット上で何人かの方が写真を公開しています。

東北の旧市街地をめぐる旅 ③大連
http://www.shukousha.com/column/tada/3663/

このコラムを書かれた多田麻美さんとは一度北京でお会いしたことがあります。

冬八九大連(2)消えゆく老街
http://4travel.jp/travelogue/10650186

これは4Travel.jpに投稿されていたもので、写真がとても豊富です。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-16 11:47 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 01月 13日

仁川空港の「高句麗」展示~韓国側も歴史論争で中国に対抗!?

中国東北三省を訪ねると、中国側の強引な歴史認識の押しつけにほとほと嫌気がさしますが、仁川空港でトランジットしているとき、韓国側も負けてないなあと感じさせる展示を見かけました。

これは中国吉林省の集安にある高句麗遺跡のひとつですが、しっかりと「大韓民国 王朝」と書かれています。
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こちらは百済の金の王冠に並べて高句麗の王冠を展示し、やはり「大韓民国 文化遺産」と簡体字で表示しています。明らかに中国人に読ませるための表記でしょう。

古代国家である高句麗を継承しているのは大韓民国であるとの歴史認識を伝えようとしているという意味では、中国が古代国家である渤海や高句麗を「地方政権」だなどと言い張るのに比べれば穏当な気はしますが、どちらも似たモノ同士という気がしないでもありません。
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中国の長白山の長白瀑布の写真も展示されていました。大韓航空は仁川・延吉線を運航している関係から、訪問先の風光明媚な写真を展示していると理解すればいいわけですが、この山を朝鮮民族の聖山とする歴史認識はかなり一般化されているようですから、なにか言いたげな印象は残ります。
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仁川・延吉線は朝9時半発なので、羽田からうまく乗り継ごうとしたら、前日泊で朝6時半発の便に乗ります。午前11時(中国時間)過ぎには延吉に着き、午後も使えるので、悪くありません。
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乗客の大半は延辺朝鮮族の人たちのようで、お土産をいっぱい手にしています。
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ただし、北朝鮮上空を飛べないため、黄海をずいぶん迂回しなければならず、距離の割にはフライト時間が3時間近くかかります。上空から長白山が撮れないかと、大韓航空の客室乗務員の女の子に何時ごろ長白山の近くを飛ぶか確認をしながら狙っていたのですが、雲がかかって撮ることはできませんでした。
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※中国側の韓国との歴史論争のあれこれについては以下参照。

ドラマ『太王四神記』の舞台-集安(中国吉林省)は世界遺産のまち
http://inbound.exblog.jp/20428863/

長白山(白頭山)が中韓対立の舞台となっている理由(「東北工程」とは何か)
http://inbound.exblog.jp/20593858/

渤海国の遺跡を隠したいのは誰だ?
http://inbound.exblog.jp/23955813/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-13 11:52 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 01月 01日

渤海国の遺跡を隠したいのは誰だ?

前回、黒龍江省にある上京龍泉府遺址を訪ねた話を書きましたが、渤海国の遺跡は他にもまだあります。

奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)
http://inbound.exblog.jp/23955554/

当時の渤海国の地方制度は、唐にならって高句麗の5部を受け継ぐ五京と15府62州に分けて統治しました。五京には上京龍泉府(黒龍江省寧安市)、中京顕徳府(吉林省和龍市)、東京龍原府(吉林省琿春市)、西京鴨緑府(吉林省臨江市)、南京南海府(北朝鮮)がありましたが、実際に都となったのは上京、中京、東京だけです。

今年7月、西古城(中京顕徳府)と八連城(東京龍原府)を訪ねました。
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西古城は吉林省延辺朝鮮族自治州の延吉から長白山に向かう和龍市の道路沿いにありました。

ところが、ここでは遺址の周辺はフェンスに囲まれて中に入ることはできません。
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仕方なく遠目から望遠レンズでフェンスの中を写しましたが、宮殿の柱を置く石台が並んでいるのが見えました。
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なぜ見学できないのか。

前回も書きましたが、渤海の遺址内の石碑にはすべて「中国の地方政権」という記述が見られ、これが渤海を朝鮮民族の王朝とみる韓国との間で歴史論争を生んでいるからです。地元の知人によると、昨年も韓国メディア関係者がここに来て、遺址内を撮影しようとしたところ、公安によって拘束される事件が起こりました。その際、カメラが壊されたとかで、騒ぎになったそうです。

延辺朝鮮族自治州には1992年の中韓の国交回復以降、多くの韓国人が観光や投資を目的にやって来るようになり、こういうことが年中起こるため、中国当局は韓国人だけでなく、中国国民も含めて何人も遺址内には入れないことにしたようです。

今回ぼくが訪ねたときも、フェンスに近づくことはご法度で、なるべく足早に立ち去ってほしいと言われました。公安に見つかると、面倒だからです。
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それでも、遺址の隣に事務所のような建物があり、チケット売り場までありました。しかし、そこには誰も常駐していませんでした。
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ここで発掘された重要な文物のほとんどは延辺に残らず、吉林省の省都である長春の博物館に持っていかれてしまったに違いないことは以前書いたとおりですが、ではこの建物は何のために建てられたのか。

延辺朝鮮族自治州60周年にできた延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係
http://inbound.exblog.jp/23940038/

道路沿いにも遺跡のありかを伝える大きな標識が立っており、もともと遺跡として公開し、観光客を呼び込むつもりだったことがうかがえるのです。
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さて、後日出かけた吉林省琿春市にある八連城は、広大なトウモロコシ畑の中にありました。

西古城と同様、遺跡はフェンスで囲まれていました。
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そのときすでに夕暮れが近づいていて、途方に暮れてフェンスの外に立ち尽くしていた我々のもとにひとりの男性が近づいてきました。公安というより地元の農家のおじさんという感じの人です。
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そこで、八連城の遺跡を見に来た旨を素直に伝えると、彼は地元政府に依頼された遺跡の管理人だったらしく、わざわざ外国から来た客人ということで、フェンスの鍵を開けて中に入れてくれたのです(韓国人ではなく、日本人だったから許可されたのかもしれません)。ただし、写真は撮ってはいけないと言われました。

八連城の遺址内も、上京龍泉府と同様に、宮殿の柱を置く石台が並んでおり、解説のパネルなどもすでに設置されていました。つまり、地元としては公開する気は満々のようなのです。

実は、ここにも遺跡の事務所とチケット売り場の建物があり、閉鎖されていました。渤海の博物館も造る計画があるものの、7年前から事業が延期されているとのこと。早く政府の推進許可が下りてほしいと管理人は話していました。
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そもそも琿春市は「渤海の里」というキャッチフレーズで地元の観光PRをするつもりだったようです。高速道路で琿春に近づくと、「渤海」を喚起するパネルがいくつも並んでいました。
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渤海国の遺跡の公開をめぐって、地元と政府の間では思惑の相違があるようです。遺跡を隠したいのは、明らかに政府の側です。理由はすでに述べましたが、とても信じられないことです。あまりに子供じみているからです。

それにしても、彼らはなぜ古代史と現代史の切り分けができないのでしょうか。いろんな理屈を言いつのるのかもしれませんが、政治に根差した自らの歴史認識に固執することは紛争の種を蒔き広げることにしかならないのに。この論争ばかりは不毛というほかありません。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 22:23 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2015年 01月 01日

奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)

「東京城は今から約千二百年前、日本では奈良朝の聖武天皇の御宇にあたる頃、東滿に勢力を振った高句麗人によって興された渤海國の王宮である」(「満洲グラフ」1941(昭和16)年10月号「東京城址を訪ふ」)

渤海国(698年~926年)は、現在の中国東北地方から極東ロシアや北朝鮮の一部にまたがる版図を広げ、「海東の盛国」と呼ばれた国でした。668年に高句麗を滅ぼした唐は、同国の敗れた遺臣や兵を営州(現在の朝陽)に移送しましたが、王族の流れをくむ大祚栄が契丹軍の反乱に乗じて立ち上がり、遺民を引きつれて東牟山麓(吉林省敦化市)で辰国を興します。第3代金欽茂が762年に唐皇帝から「渤海国王」の称号を授けられますが、その後、遼の太祖・耶律阿保機によって926年に滅亡するまで続いた王朝です。

現在その都城跡がいくつか残っています。そのうち、諸般の事情があって外国人を含め誰でも訪問できる唯一の遺址が、黒龍江省寧安市渤海鎮にある「上京龍泉府遺址」です。
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上京龍泉府は渤海国の三代大欽茂王が755年頃中京顕徳府(現在の吉林省和龍市)から遷って都とした場所で、当時は南北約3.4km、東西約4.9kmの規模をもつ王城でした。一時東京龍原府(現在の吉林省琿春市)に遷都しましたが、794年に再び戻り、以後926年に契丹に滅ぼされるまで長く渤海の都でした。
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現在は宮殿の柱を置いたと思われる石台が点在するだけで、遺址内に見られる城壁は再現されたものです。昭和16年に現地を訪ねた「満洲グラフ」の筆者は「そこは見渡すばかり緑一色の麦畑であった」と記しています。
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遺址から400mほど渤海鎮側に戻ったところに渤海上京龍泉府遺址博物館があり、渤海国に関する歴史展示を見ることができます。
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都城は唐の長安を手本に造られ、外城、内城、宮城の3部分から構成されており、外城の長さは周囲約17.5kmにも及びます。1930年代に日本の研究者が発掘調査を行った結果、宮殿は東西幅200m、南北300mほどの広さで、日本の平安時代の寝殿造を彷彿させるものだったようです。

当時の宮城を再現したジオラマもあります。
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この地を訪ねた人がもうひとつ必ず足を運ぶのは、渤海時代の唯一の建造物が残る興隆寺です。
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渤海上京龍泉府遺址から2kmほど離れた場所にある寺院で、1662年(清の康熙元年)に渤海国の寺院跡地に創建したものです。現存するのは、馬殿、関帝殿、天王殿、大雄宝殿、三聖殿などですが、有名なのは唯一渤海国時代の建造物で、いちばん奥の三聖殿の内部にある大石仏と、その前に置かれた高さ6mの石灯籠です。
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満洲国が建国された1930年代、日本から多くの研究者がこの地を訪れ、発掘活動を行いました。その背景について「満洲グラフ」は次のように述べています。

「渤海において特筆すべきは二百年の長きに亘って続いた日本との國交である。文献によれば日本から渤海に来た使節回数は十七回、渤海から日本へ渡ったものは三十五回の多きに上っている。ところで渤海は使節派遣の船をいったい何處から出したのであろうか。それに就いては、恐らく今の図們江の河口から北に寄ったソ連領にあたる附近又は清津から少し南へ下った附近から船出したのではないかと言われている。その船は日本海を渡って敦賀あるいは南は大宰府に着いたと傳えられているが、その時々によって、日本の種々な地點に上陸したものと考えられている」

実際、奈良時代に使われていた和銅開珍もここで発掘されています。1200年前にこの地を訪れた日本人がいたことを思うと、歴史のロマンを感じさせます。

ただ一方で、この時期語られる日本と渤海の交流の歴史の強調は、満洲国建国を正当化しようとする当時の日本人の歴史認識と大いに歩調を合わせているように思えてなりません。

こういうことはいつの時代もあることだと思いますが、実は、現在もそれによく似た歴史認識の意図的な誘導が起きているようです。
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上京龍泉府遺址を解説する石碑のすべてに「渤海国は唐(中国)の『地方政権』である」と記されていることです。
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当然、これが渤海を朝鮮民族の王朝とみる韓国との間で歴史論争を生む原因となるわけです。

こうしたこともあってか、前述した渤海上京龍泉府遺址博物館内の展示をみても、当地で発掘された文物の写真があるのみで、大半は黒龍江省の省都のハルビンにある博物館に移されているようでした。
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また一部の展示の撤去も見られます。どういうことなのか、気になります。
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後日、ハルビンの黒龍江省博物館を訪ねてみました。
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黒龍江省の古代史のエリアの一部に「経営東北―海東盛国」というコーナーがあります。ここで語られているのは、唐による東北支配(渤海はあくまで地方政権という位置付け)という歴史認識の既成事実化でした。
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金の菩薩像、騎馬銅人、三足の鉄鍋など、これらはすべて上京龍泉府遺址の周辺で発掘された文物です。
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そもそも1200年前の時代の王朝の位置付けについて「地方政権」という現代的な概念を持ち出すことの意味をどう理解すればいいのか、大いに疑問です。中国が国内の少数民族統治を正当化するためのロジックに使いたいという事情はあるのだとしても、自国の周辺地域で起きた何もかもを「中国史」に編入しなければ気が済まないのは無理があるし、彼ら自身それをどう頭で納得して理解しているのか、広く他者にもわかることばで説明してほしいものです。

渤海上京龍泉府遺址へは、牡丹江駅前の光華バスターミナルから「東京城」行きバスで終点下車。そこから「渤海」行きバスに乗換、「遗址」下車、所要1時間30分。タクシーなら所要1時間が目安です。
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遺址の入口の門は、高速道路の東京城インターチェンジを降りてすぐの場所にあります。
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当時の城壁跡はいまでも盛り土になっていて、その上は植林されているのですぐわかります。現在の住所も「渤海鎮」となっています。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 21:12 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)