ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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カテゴリ:北東アジア未来形:満洲の今( 74 )


2015年 01月 19日

大連賓館(旧大連ヤマトホテル)にいまも残る秘密の部屋

2014年に創業100周年を迎えた大連賓館(旧大連ヤマトホテル)が、数年前から館内に同館の歴史を紹介する展示室を開業しています。
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普段は宿泊客にも見せない秘密の部屋も見せてくれるということで、昨年7月訪ねてみました。日本統治時代、大連ヤマトホテルは国内外の賓客、政治家や外交官、経済界の重鎮などをもてなす帝国ホテル的な位置付けでしたから、当時の建築技術や国力の粋をつくした壮麗な世界でした。
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まもなく100周年を迎える大連ヤマトホテルの現在
http://inbound.exblog.jp/20581894/

展示室を参観したい場合は、フロントの右手に貼られた掲示板にあるとおり、専属ガイドを呼んでもらうことになります。宿泊客でなければ、1名50元です。
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展示室は2階にあります。残念ながら、展示室内の撮影はNGでした。開業から今日に至る歴史を写真と遺品を並べて解説しています。

これは展示室に入る前の解説文です。もったいぶってあるわりには、ささやかな展示室です。以前、日本を代表する箱根富士屋ホテルの資料室を見せていただいたことがあるのですが、比較しては気の毒でしょう。
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展示室を見終わると、ヤマトホテルや満鉄にゆかりのある遺品(当時ホテルで使われていたコーヒーカップやワイングラスなど)を販売するショップに案内されます。よくある中国の骨董土産店です。以前は大連市内にこの手の品を集めた骨董ショップがいくつかありましたが、最近姿を見かけなくなったと思っていました。最近は満鉄グッズを喜んで購入するような日本客も減り、このような場所にまとめられているようです。
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こうした満鉄の社名の入った木版は年代がわかりませんが、どう価値を付けていいか難しいものです。
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これはヤマトホテルで使われていたコーヒーカップでしょうか。以前ぼくは満鉄の食堂車で使っていたというワイングラスを購入したことがあります。ただし、これらが本物なのかどうか、いろいろ言う人もいます。
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2階から大食堂が見下ろせます。
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最後に見せてくれるのが貴賓室です。普段は宿泊客にも見せないというのは、この場所です。黄金色に塗られた柱が醸し出す雰囲気は、ラストエンペラーの偽皇宮のようにも見えますが(たぶん当時とはかなりイメージが違うのでは、と想像します)、こういう仰々しい舞台を必要としていたホテルであったことをあらためて知ることができます。
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それにしても、ガイド料50元はちょっと高いですね。実は、同じような館内ガイドは、瀋陽の遼寧賓館(旧奉天ヤマトホテル)でもやっていたようです。また改装によって当時の趣はすっかりなくなってしまった長春の春誼賓館(旧新京ヤマトホテル)ではこのようなことはやっていませんが、ハルビンの龍門大廈(旧ハルビンヤマトホテル)では、同館の100年の歴史を解説した立派なパンフレットを用意しています。今度そのパンフレットをもとにハルビンヤマトホテルの歴史(おそらくこの4館のうち、いちばん数奇な歴史をたどった)をひもといてみようと思っています。

現存するヤマトホテルのすべて
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by sanyo-kansatu | 2015-01-19 08:48 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 17日

大連満鉄旧跡陳列館では満鉄総裁室を公開しています

日露戦争後、日本が満洲(現・中国東北地方)で運営した半官半民の国策会社「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」の設立は1906年11月26日。翌07年東京から大連に本社を移転しましたが、その100周年という節目にあたる2007年9月、旧満鉄本社屋(現・瀋陽鉄道局大連鉄道事務所)内にいまも残る旧満鉄総裁室と会議室の復元と開放が実施され、「大連満鉄旧跡陳列館」として見学可能になりました。
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満鉄の初代総裁は台湾の民政長官として殖産興業による経済政策が評価されたことで起用された後藤新平です。後藤が使った総裁室は建物の2階にあり、46㎡ほどの広さ。当時の机やイス、歴代総裁の写真パネルなどがぽつんと置かれているきりですが、関係者によると、写真資料をもとに元どおりに配置したそうです。歴代の総裁の顔写真も展示されています。
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大連の古い絵はがきの中にあった総裁室の写真です。当時こういう場所を公開したとは思えないのですが、日本の国旗が背後に見えるので、いつ撮られたものか不明です。
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隣の展示ホールは天井の高い164㎡もの空間で、満鉄史を紹介する写真パネルや当時使われた「満鉄」ロゴ入りの食器や徽章、マンホールなどが置かれています。
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もともとこの本社屋は日露戦争直前のロシア統治時代に学校として建てられた建物を満鉄が修築し、1908年に完成させたものです。展示室は学校の礼拝堂だったもので、満鉄時代は会議室として使われていたようです。

満鉄の金庫室も参観可能です。
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満鉄本社は終戦後、大連市の鉄道局事務所として使われてきました。これが「大連満鉄旧跡陳列館」の入口で、この重厚な建物の西翼の一部を改装したものです。
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玄関を入ると、当時を思い起こさせる華麗なロビーがあります。
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展示は2階で、この看板が掲げられています。
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ちなみにこれは現在も残してある満鉄ロゴ入りマンホールです。
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もともと満鉄の旧総裁室や関連資料は非公開とされていました。陳列館の復元と開放に向けて尽力したのは、日本人客の受入を行っている地元の旅行会社です。これまで日本から多くの人が訪れています。その中には、村山元総理の名もあるそうです。

さて、中国側が復元した満鉄本社と関連陳列物を見る価値がどこまであるのか疑問に思う方もいるかもしれません。ぼくはこの種の施設を参観する際、歴史の実証性ではなく、彼らがどのように歴史を描いているのか。そこに注目することにしています。

満鉄の歴史的存在からみれば驚くほど、いやはっきり言って話にならないほどささやかな展示品についてはひとまずおいて、彼らのこしらえた展示パネルをざっと見てみることにしましょう。題して「満鉄歴史画像展」です。
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全体は4部構成になっています。第1部は「満鉄の創立と任務」です。展示では、日清戦争、その後の三国干渉によるロシアの租借化、日露戦争を経て満鉄設立に至る歴史をおさらいします。
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第2部は「満鉄の経営と拡張」です。満鉄による鉄路と港湾の構築、ホテルや医療機関、公園や温泉など日本人のためのレジャー施設の開発、満鉄調査部の設立と各種研究機関や図書館、新聞の発行などを解説しています。ここだけ見ていると、大連と満鉄沿線が名実ともに近代空間へと変貌していくさまがよくわかります。
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もっとも、「教育機関の発展と中国人に対する奴隷化教育の推進」といったパネルも差し込まれています。
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第3部は「満鉄の略奪と搾取」です。ここでは東北地方の大豆や木材などの資源を搾取し、中国人労働者を酷使する満鉄が描かれます。
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第4部は「満鉄の衰退と末日」です。そこでは中国人による抗日闘争によって日本が敗戦し、大連が開放されるさまが描かれます。
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すべてのパネルを紹介したわけではありませんが、満鉄の歴史を概ね公平に解説した展示パネルではないかと思いました。他の中国の都市の歴史展示で見られるように日本を悪の権化としてのみ描くのでなく、大連の近代の発展が満鉄によって推進していったことはそれなりにわかるように解説されているからです。彼らの立場に立てば、満鉄は「略奪と搾取」をしたのであって、主人公は中国であったと自らの近代史を語るのは当然のことでしょう。

この展示で面白いのは、満鉄の各路線の当時の駅舎や各種機関車などの写真もあることです。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-17 16:22 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 17日

ショック!? 大連「旧ロシア人街」の再開発が一気に進んでいた

大連駅の北東側にある旧ロシア人街(俄罗斯风情街)は、19世紀末期、大連に港湾施設を建設し、都市開発を進めたロシア人たちが最初につくったエリアです。いわば大連発祥の地です。
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これは日本統治時代の絵はがきで、鉄道をまたぐ旧日本橋(現・勝利橋)の北側の一帯には、ロシア風の街並みが広がっていました。

現在では、このエリアのメイン通りにあたる団結街を「俄罗斯风情街」と命名し、再開発されています。歴史的建築物を保護することを目的に、2000年代初めに大連市政府によって着手されたものですが、正直なところ、土産物屋とエコノミーホテルの並ぶチープなロシア風テーマパークと化してしまっています。

ざっと主な歴史的建築物の現在の姿を見ていきましょう。
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旧ロシア人街の入口に建つこの象徴的な建築物は、1900年に東清鉄道汽船会社の社屋として建てられたもので、日本時代は「日本橋図書館」でした。現在は「大連芸術展示館」という美術館です。
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実は、この建物自体は新中国建国後、いったん取り壊されており、のちに復元されたものだそうです。話が少し込み入ってしまいますが、大連と姉妹都市の北九州市の門司港にこの建物のレプリカがあり、ぼくも以前、訪ねたことがあります。なぜこんなところに? と奇妙な印象が残っているのですが、なんでも現在の大連のこの建物は、門司港のレプリカを参考に復元されたのだとか。

これが「俄罗斯风情街」です。確かにかつてこの通りには壮麗なロシア建築が並んでいましたが、新中国建設後は老朽化が進み、2000年代に派手なペイントを塗りたくられ、雑にお色直しして現在に至っています。
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数年前から、中国を代表するエコノミーホテルチェーンの錦江之星などいくつかのホテルとしても使われています。1泊200元程度の価格帯なので、若い国内の旅行者が利用しているようです。知り合いのトラベルライターが昨年9月、錦江之星に宿泊したそうで、部屋の写真を見せてもらいましたが、内装はきれいにリノベーションされ、快適な印象でした。
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谷川一巳さんの「tabinori」大連の旅(2014年9月)
http://tabinori.net/kankokaigai/dlc.html
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土産物屋にはマトリョーシカなどロシアがらみの商品が並べられていますが、まるでパッとしません。
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通りのいちばん奥まった場所に、唯一お色直しされておらず、老朽化にまかせるまま、それゆえに独特の存在感のある建築物が建っています。
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この幽霊屋敷のような建物の来歴を語ると話がずいぶん長くなります。最初、東清鉄道事務所として建てられ、1902年には初代の大連市役所、日本統治時代の07年に満鉄本社、翌08年に2代目ヤマトホテル、その後、満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と名称を変更しながら博物館として使われ、新中国時代は97年まで大連市自然博物館でした。その後、一時期オフィスやホテルにも使われたようでしたが、結局、この歴史的な建築遺構をうまく使いこなすオーナーが現れなかったせいか、廃墟同然の姿で現存しています。
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この建物の周辺だけ、時間が停まっているように見えます。100年前からずっとここに建ち、このまちの変遷を眺めてきたのです。かつての大連はこのような洋館が並ぶ、さぞ美しいまちだったことでしょう。

さて、ここまでが旧ロシア人街の表の顔ですが、もっと面白いのが、この通りの左右両脇に広がる界隈の路地裏歩きです。勝利橋を背にして右手に広がるのが上海路界隈、また左手に広がるのが光輝巷や煙台街界隈。前者はもともと東清鉄道汽船会社のオフィスや社宅など、後者はロシア人の暮らした住居が多数残っていました。

もっとも、最近まではそれら老朽化した住居に地方から出稼ぎに来た「外地人」労働者とその家族が住んでいました。

まず上海路界隈から。これは、最も早い時期の日本統治時代に使われた建物だそうです。
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このあたりには、木造のロシア風住居が相当傷みながらもいくつか残っています。
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長屋風の共同住宅もあります。このあたりはロシア時代のものか、日本時代のものかわかりません。
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この界隈には海鮮市場や小吃の屋台なども見られます。
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一方、光輝巷や煙台街界隈には、2012年くらいまでロシア風の住宅街がなんとか残っていました。
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100年前は瀟洒な洋館だったと思われる住居が廃屋に限りなく近い状態で残っていたのです。
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もちろん、いまは地方からの労働者の住み着く世界です。
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この状況から在りし日の情景を思い浮かべるにはかなりの想像力を要するかもしれません。しかし、高層ビルの建ち並ぶ現代的な大連市中心部のある一角に残る光景としては、非常に興味深い界隈でした。これらの写真の多くは、2010年夏に撮ったものです。
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ところが、昨年7月この界隈を歩いてみたところ、大きな変化が見られました。特に光輝巷や煙台街界隈です。さきほど見たロシア風住宅街はほぼ消えうせていたのです。

代わりにそこにあったのは、住宅展示場のような門構えのあるホテルでした。旧ロシア人街の再開発がついに進んでしまっていたのか! 少々大げさですが、ぼくその場に立ち尽くし、呆然としてしまいました。
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ホテルの名前は「鉄道1896花園酒店」といいます。館内に足を運んでみましたが、外観は確かに洋風ですが、なんの変哲もない中国式ホテルでした。
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鉄道1896花園酒店
大連市西崗区光輝巷36号

ホテルの隣には、おそらくハルビンにある有名ロシア料理店の支店と思われるレストランが建っていました。
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これでは「俄罗斯风情街」となんら変わりません。残念なことですが、いまの大連ではこのようなやり方しか採用できないことを責められるものではありません。なにしろ前述した旧満州資源館のような歴史的な建築物もどう扱っていいかわからず、ずっと放置されているのですから。無名の個人が住んでいた住居群を保存して残すことは難しいでしょう。そもそも今日の大連の多くの人たちにとって、移民労働者の暮らす貧困地区にすぎない一角は、なるべく早く再開発してほしいというのが本音だったかもしれません。

※ただし、旧ロシア人街には、大連育ちの若い世代が始めたこんな創作カフェもあります。これが新しい満洲の姿ともいえます。

大連の若い世代(80后)は日本時代の住居が懐かしいという
http://inbound.exblog.jp/23760526/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-17 11:27 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 16日

かつて“小崗子”と呼ばれた労働者居住区を上空から眺める(大連)

昨年7月、大連の知り合いのオフィスを訪ねたとき、オフィスの高層階の窓から、大連駅の西に広がる古い街並みが残る一画が見渡せました。林立する高層ビル群が押し寄せるように間近に迫るなか、この一帯だけ、ぽっかりと空が広がっているような不思議な眺めです。
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ここはかつて“小崗子”と呼ばれた場所で、ロシアと日本の統治時代の頃より、主に山東省から大連に流入してくる労働者たちの暮らす地域でした。現在は一般に「東関街」と呼ばれています。このあたりには遊郭などもあったようです。
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頭上から見ると、それぞれの住居はかなり老朽化していることがうかがえます。
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居住区をよく見ると、通りに並ぶ住居の内側に中庭のような空間が見られます。これが古き良き中国人の住まい方を意味する「大雑院」でしょうか。複数の家族が住む共同住宅の内側に設えられたコミュニティ空間のことです。日本でいえば、長屋住まいの世界に近いと思います。
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昨日、中国の瀋陽から訪ねてきた友人に「大雑院」の話をしたところ、「必ずしも大雑院の中では、みんなが仲良く暮らしていたわけではないでしょう。喧嘩もあったと思うし、そんなきれいごとばかりの世界ではなかったと思いますよ」と笑いながら答えていました。彼は40代前半の男性なので、子供のころ、自分も大雑院の世界で暮らしていたようです。まあそれはそうでしょうね。

さらに望遠の倍率を上げると、屋根が崩壊していたり、一部再開発が始まっていたりすることも見えてきました。
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2012年に大連を訪ねたとき、東関街を歩いたことがあります。以下は、そのとき撮影したものです。
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いまも残る住居建築には、レンガの壁と独特のシンプルな装飾なども見られます。
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オンドルの煙突が並ぶ光景は、いかにも東北らしいです。
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倒壊しそうな危うい住居も残っています。
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洗濯物が干されていることを見る限り、まだ多くの住人がいることがわかります。100年前もそうでしたが、いまでも地方から大連に出稼ぎにきた労働者たち、いわゆる「外地人」の居住地になっています。これは市内の他の日本統治時代の古い住居が彼らの住処になっているのと同様です。
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旧満鉄病院(大連中山医院)の周辺に広がるかつての日本人居住区の南山や、老虎灘に向かう通り沿いの高台にある文化台の日本住居もいまではかなり取り壊しが進んでいますが、大連市内の中心部に位置する東関街の再開発が遅れているのは、「外地人」居住区であることと関係あるのでしょうか。今度大連の知人に尋ねてみようと思います。

東関街の最近の様子については、ネット上で何人かの方が写真を公開しています。

東北の旧市街地をめぐる旅 ③大連
http://www.shukousha.com/column/tada/3663/

このコラムを書かれた多田麻美さんとは一度北京でお会いしたことがあります。

冬八九大連(2)消えゆく老街
http://4travel.jp/travelogue/10650186

これは4Travel.jpに投稿されていたもので、写真がとても豊富です。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-16 11:47 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 13日

仁川空港の「高句麗」展示~韓国側も歴史論争で中国に対抗!?

中国東北三省を訪ねると、中国側の強引な歴史認識の押しつけにほとほと嫌気がさしますが、仁川空港でトランジットしているとき、韓国側も負けてないなあと感じさせる展示を見かけました。

これは中国吉林省の集安にある高句麗遺跡のひとつですが、しっかりと「大韓民国 王朝」と書かれています。
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こちらは百済の金の王冠に並べて高句麗の王冠を展示し、やはり「大韓民国 文化遺産」と簡体字で表示しています。明らかに中国人に読ませるための表記でしょう。

古代国家である高句麗を継承しているのは大韓民国であるとの歴史認識を伝えようとしているという意味では、中国が古代国家である渤海や高句麗を「地方政権」だなどと言い張るのに比べれば穏当な気はしますが、どちらも似たモノ同士という気がしないでもありません。
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中国の長白山の長白瀑布の写真も展示されていました。大韓航空は仁川・延吉線を運航している関係から、訪問先の風光明媚な写真を展示していると理解すればいいわけですが、この山を朝鮮民族の聖山とする歴史認識はかなり一般化されているようですから、なにか言いたげな印象は残ります。
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仁川・延吉線は朝9時半発なので、羽田からうまく乗り継ごうとしたら、前日泊で朝6時半発の便に乗ります。午前11時(中国時間)過ぎには延吉に着き、午後も使えるので、悪くありません。
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乗客の大半は延辺朝鮮族の人たちのようで、お土産をいっぱい手にしています。
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ただし、北朝鮮上空を飛べないため、黄海をずいぶん迂回しなければならず、距離の割にはフライト時間が3時間近くかかります。上空から長白山が撮れないかと、大韓航空の客室乗務員の女の子に何時ごろ長白山の近くを飛ぶか確認をしながら狙っていたのですが、雲がかかって撮ることはできませんでした。
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※中国側の韓国との歴史論争のあれこれについては以下参照。

ドラマ『太王四神記』の舞台-集安(中国吉林省)は世界遺産のまち
http://inbound.exblog.jp/20428863/

長白山(白頭山)が中韓対立の舞台となっている理由(「東北工程」とは何か)
http://inbound.exblog.jp/20593858/

渤海国の遺跡を隠したいのは誰だ?
http://inbound.exblog.jp/23955813/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-13 11:52 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 01日

渤海国の遺跡を隠したいのは誰だ?

前回、黒龍江省にある上京龍泉府遺址を訪ねた話を書きましたが、渤海国の遺跡は他にもまだあります。

奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)
http://inbound.exblog.jp/23955554/

当時の渤海国の地方制度は、唐にならって高句麗の5部を受け継ぐ五京と15府62州に分けて統治しました。五京には上京龍泉府(黒龍江省寧安市)、中京顕徳府(吉林省和龍市)、東京龍原府(吉林省琿春市)、西京鴨緑府(吉林省臨江市)、南京南海府(北朝鮮)がありましたが、実際に都となったのは上京、中京、東京だけです。

今年7月、西古城(中京顕徳府)と八連城(東京龍原府)を訪ねました。
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西古城は吉林省延辺朝鮮族自治州の延吉から長白山に向かう和龍市の道路沿いにありました。

ところが、ここでは遺址の周辺はフェンスに囲まれて中に入ることはできません。
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仕方なく遠目から望遠レンズでフェンスの中を写しましたが、宮殿の柱を置く石台が並んでいるのが見えました。
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なぜ見学できないのか。

前回も書きましたが、渤海の遺址内の石碑にはすべて「中国の地方政権」という記述が見られ、これが渤海を朝鮮民族の王朝とみる韓国との間で歴史論争を生んでいるからです。地元の知人によると、昨年も韓国メディア関係者がここに来て、遺址内を撮影しようとしたところ、公安によって拘束される事件が起こりました。その際、カメラが壊されたとかで、騒ぎになったそうです。

延辺朝鮮族自治州には1992年の中韓の国交回復以降、多くの韓国人が観光や投資を目的にやって来るようになり、こういうことが年中起こるため、中国当局は韓国人だけでなく、中国国民も含めて何人も遺址内には入れないことにしたようです。

今回ぼくが訪ねたときも、フェンスに近づくことはご法度で、なるべく足早に立ち去ってほしいと言われました。公安に見つかると、面倒だからです。
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それでも、遺址の隣に事務所のような建物があり、チケット売り場までありました。しかし、そこには誰も常駐していませんでした。
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ここで発掘された重要な文物のほとんどは延辺に残らず、吉林省の省都である長春の博物館に持っていかれてしまったに違いないことは以前書いたとおりですが、ではこの建物は何のために建てられたのか。

延辺朝鮮族自治州60周年にできた延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係
http://inbound.exblog.jp/23940038/

道路沿いにも遺跡のありかを伝える大きな標識が立っており、もともと遺跡として公開し、観光客を呼び込むつもりだったことがうかがえるのです。
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さて、後日出かけた吉林省琿春市にある八連城は、広大なトウモロコシ畑の中にありました。

西古城と同様、遺跡はフェンスで囲まれていました。
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そのときすでに夕暮れが近づいていて、途方に暮れてフェンスの外に立ち尽くしていた我々のもとにひとりの男性が近づいてきました。公安というより地元の農家のおじさんという感じの人です。
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そこで、八連城の遺跡を見に来た旨を素直に伝えると、彼は地元政府に依頼された遺跡の管理人だったらしく、わざわざ外国から来た客人ということで、フェンスの鍵を開けて中に入れてくれたのです(韓国人ではなく、日本人だったから許可されたのかもしれません)。ただし、写真は撮ってはいけないと言われました。

八連城の遺址内も、上京龍泉府と同様に、宮殿の柱を置く石台が並んでおり、解説のパネルなどもすでに設置されていました。つまり、地元としては公開する気は満々のようなのです。

実は、ここにも遺跡の事務所とチケット売り場の建物があり、閉鎖されていました。渤海の博物館も造る計画があるものの、7年前から事業が延期されているとのこと。早く政府の推進許可が下りてほしいと管理人は話していました。
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そもそも琿春市は「渤海の里」というキャッチフレーズで地元の観光PRをするつもりだったようです。高速道路で琿春に近づくと、「渤海」を喚起するパネルがいくつも並んでいました。
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渤海国の遺跡の公開をめぐって、地元と政府の間では思惑の相違があるようです。遺跡を隠したいのは、明らかに政府の側です。理由はすでに述べましたが、とても信じられないことです。あまりに子供じみているからです。

それにしても、彼らはなぜ古代史と現代史の切り分けができないのでしょうか。いろんな理屈を言いつのるのかもしれませんが、政治に根差した自らの歴史認識に固執することは紛争の種を蒔き広げることにしかならないのに。この論争ばかりは不毛というほかありません。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 22:23 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 01日

奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)

「東京城は今から約千二百年前、日本では奈良朝の聖武天皇の御宇にあたる頃、東滿に勢力を振った高句麗人によって興された渤海國の王宮である」(「満洲グラフ」1941(昭和16)年10月号「東京城址を訪ふ」)

渤海国(698年~926年)は、現在の中国東北地方から極東ロシアや北朝鮮の一部にまたがる版図を広げ、「海東の盛国」と呼ばれた国でした。668年に高句麗を滅ぼした唐は、同国の敗れた遺臣や兵を営州(現在の朝陽)に移送しましたが、王族の流れをくむ大祚栄が契丹軍の反乱に乗じて立ち上がり、遺民を引きつれて東牟山麓(吉林省敦化市)で辰国を興します。第3代金欽茂が762年に唐皇帝から「渤海国王」の称号を授けられますが、その後、遼の太祖・耶律阿保機によって926年に滅亡するまで続いた王朝です。

現在その都城跡がいくつか残っています。そのうち、諸般の事情があって外国人を含め誰でも訪問できる唯一の遺址が、黒龍江省寧安市渤海鎮にある「上京龍泉府遺址」です。
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上京龍泉府は渤海国の三代大欽茂王が755年頃中京顕徳府(現在の吉林省和龍市)から遷って都とした場所で、当時は南北約3.4km、東西約4.9kmの規模をもつ王城でした。一時東京龍原府(現在の吉林省琿春市)に遷都しましたが、794年に再び戻り、以後926年に契丹に滅ぼされるまで長く渤海の都でした。
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現在は宮殿の柱を置いたと思われる石台が点在するだけで、遺址内に見られる城壁は再現されたものです。昭和16年に現地を訪ねた「満洲グラフ」の筆者は「そこは見渡すばかり緑一色の麦畑であった」と記しています。
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遺址から400mほど渤海鎮側に戻ったところに渤海上京龍泉府遺址博物館があり、渤海国に関する歴史展示を見ることができます。
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都城は唐の長安を手本に造られ、外城、内城、宮城の3部分から構成されており、外城の長さは周囲約17.5kmにも及びます。1930年代に日本の研究者が発掘調査を行った結果、宮殿は東西幅200m、南北300mほどの広さで、日本の平安時代の寝殿造を彷彿させるものだったようです。

当時の宮城を再現したジオラマもあります。
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この地を訪ねた人がもうひとつ必ず足を運ぶのは、渤海時代の唯一の建造物が残る興隆寺です。
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渤海上京龍泉府遺址から2kmほど離れた場所にある寺院で、1662年(清の康熙元年)に渤海国の寺院跡地に創建したものです。現存するのは、馬殿、関帝殿、天王殿、大雄宝殿、三聖殿などですが、有名なのは唯一渤海国時代の建造物で、いちばん奥の三聖殿の内部にある大石仏と、その前に置かれた高さ6mの石灯籠です。
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満洲国が建国された1930年代、日本から多くの研究者がこの地を訪れ、発掘活動を行いました。その背景について「満洲グラフ」は次のように述べています。

「渤海において特筆すべきは二百年の長きに亘って続いた日本との國交である。文献によれば日本から渤海に来た使節回数は十七回、渤海から日本へ渡ったものは三十五回の多きに上っている。ところで渤海は使節派遣の船をいったい何處から出したのであろうか。それに就いては、恐らく今の図們江の河口から北に寄ったソ連領にあたる附近又は清津から少し南へ下った附近から船出したのではないかと言われている。その船は日本海を渡って敦賀あるいは南は大宰府に着いたと傳えられているが、その時々によって、日本の種々な地點に上陸したものと考えられている」

実際、奈良時代に使われていた和銅開珍もここで発掘されています。1200年前にこの地を訪れた日本人がいたことを思うと、歴史のロマンを感じさせます。

ただ一方で、この時期語られる日本と渤海の交流の歴史の強調は、満洲国建国を正当化しようとする当時の日本人の歴史認識と大いに歩調を合わせているように思えてなりません。

こういうことはいつの時代もあることだと思いますが、実は、現在もそれによく似た歴史認識の意図的な誘導が起きているようです。
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上京龍泉府遺址を解説する石碑のすべてに「渤海国は唐(中国)の『地方政権』である」と記されていることです。
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当然、これが渤海を朝鮮民族の王朝とみる韓国との間で歴史論争を生む原因となるわけです。

こうしたこともあってか、前述した渤海上京龍泉府遺址博物館内の展示をみても、当地で発掘された文物の写真があるのみで、大半は黒龍江省の省都のハルビンにある博物館に移されているようでした。
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また一部の展示の撤去も見られます。どういうことなのか、気になります。
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後日、ハルビンの黒龍江省博物館を訪ねてみました。
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黒龍江省の古代史のエリアの一部に「経営東北―海東盛国」というコーナーがあります。ここで語られているのは、唐による東北支配(渤海はあくまで地方政権という位置付け)という歴史認識の既成事実化でした。
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金の菩薩像、騎馬銅人、三足の鉄鍋など、これらはすべて上京龍泉府遺址の周辺で発掘された文物です。
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そもそも1200年前の時代の王朝の位置付けについて「地方政権」という現代的な概念を持ち出すことの意味をどう理解すればいいのか、大いに疑問です。中国が国内の少数民族統治を正当化するためのロジックに使いたいという事情はあるのだとしても、自国の周辺地域で起きた何もかもを「中国史」に編入しなければ気が済まないのは無理があるし、彼ら自身それをどう頭で納得して理解しているのか、広く他者にもわかることばで説明してほしいものです。

渤海上京龍泉府遺址へは、牡丹江駅前の光華バスターミナルから「東京城」行きバスで終点下車。そこから「渤海」行きバスに乗換、「遗址」下車、所要1時間30分。タクシーなら所要1時間が目安です。
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遺址の入口の門は、高速道路の東京城インターチェンジを降りてすぐの場所にあります。
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当時の城壁跡はいまでも盛り土になっていて、その上は植林されているのですぐわかります。現在の住所も「渤海鎮」となっています。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 21:12 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 01日

明治の文豪も訪ねた満洲三大温泉はいま

日露戦争後、関東州と南満州鉄道附属地を手に入れた日本は、満鉄主導で現在の東北地方の開発を進めましたが、いかにも日本らしいと思うのが、各地に温泉を開発し、行楽地にしたことです。

なかでも有名だったのが、湯崗子温泉(鞍山)、熊岳城温泉(営口)、五龍背温泉(丹東)でした。当時は「満州三大温泉」と呼ばれていました。

これら満州の温泉を世に広めるのに一躍買ったのが、明治の文豪たちです。

最初の話題提供者は、『満韓ところどころ』を書いた夏目漱石。彼が訪ねたのは日露戦争後わずか 4年目( 1909(明治 42)年)で、満鉄沿線は開発途上でした。それでも、漱石は熊岳城温泉と湯崗子温泉を訪ねており、兵士の療養小屋に毛の生えた程度の温泉宿の様子を「すこぶる殺風景」と評しています。

時代は移って大正期に入ると、紀行作家として有名な田山花袋のベストセラー『温泉めぐり』や『満鮮の行楽』などの読み物の中に、満洲三大温泉の滞在記があります。花袋が訪ねた 1920年代になると、それぞれ洋風の温泉ホテルができていました。

「私達はビイルを飲んだり、湯に浸かったりして、そこに午後二時までいた」(熊岳城温泉)

「温泉場としては、内地では、とてもこれだけのものは何処にも求めることが出来なかった。日本風の室ではあったけれども、副室がついていて、半ばベランダのように椅子だの卓だのが並べてあるのも心地が好かった」「今までに嘗て見たことのない、箱根、塩原、伊香保、何処に行ったって、こうした設備の整ったところはないと思われる立派な浴槽」(湯崗子温泉)。

この時期、すでに満洲にモダンな温泉地ができていたことがわかります。

昭和に入ると、与謝野寛・晶子夫妻が湯崗子温泉を訪ね、こう書いています。

「鉄道の本線に沿って便利なために、在満の邦人が絶えず南北から来て浴遊し、ことに夏期には露西亜人や支那人の滞浴客もあって賑ふそうである」(『満蒙遊記』)。

夫妻が訪れたのは 1928(昭和 3)年。湯崗子温泉は日本国内の多くの温泉地より一足先に国際的なリゾートになっていたのです。

では、当時これほど栄えていた満洲三大温泉は現在、どうなっているのでしょうか。明治の文豪たちが訪ねた名温泉はいま……。

2010年5月、ぼくはこれらの温泉地を訪ねました。

まず湯崗子温泉。そこは温泉療養のための国際医療センターとなっていて、ロシア人が多く訪れていました。

その一角に龍宮城のような建物があり、そこはかつてラストエンペラー溥儀が滞在した温泉ホテル「対翠閣」を大幅改修したものでした。館内には、溥儀のために造られた豪華浴室「龍池」が残っていました。この浴室は対になっていて、皇后専用の浴室「鳳凰」も併設。料金を払えば誰でも個室風呂として利用できます。
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これが絢爛豪華な溥儀の個室風呂「龍池」です。
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対翠閣(現龍宮温泉)の前で記念撮影する溥儀夫妻(1932年3月8日)
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次に熊岳城温泉。戦前期に大連や満鉄沿線の人々が大衆的な行楽地としてレジャーを楽しんでいた熊岳城には有名な温泉ホテルがありました。

これが戦前期の温泉ホテルの絵はがきです。
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ところが、訪ねるのが1年遅かったのです。地元の人の話によると、09年頃に解体され、いまや高級温泉リゾートとして再開発されていました。
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リゾート内には日本式の露天風呂がいくつも造られていました。
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五龍背温泉も、大型の湯治療養施設がいくつもできていました。

幸い1936年に満鉄が造ったという露天風呂と湯小屋が残っていました。
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当時の温泉ホテルの建物は、現在は軍の施設内にあり、外国人は訪問できませんが、地元の友人に写真を撮って来てもらいました。昭和モダンの雰囲気が残っていました。
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満洲三大温泉の泉質は、硫黄や酸性泉などの刺激のある「火山性の温泉」ではなく、地熱で温泉が湧く「非火山性の温泉」です。どの温泉も、日本統治が終わると、日本的な行楽地というより、ソ連の影響を受けた湯治療養施設に転換していきます。

2000年代に入り、中国が豊かになってくると、日本風の温泉リゾートを開発する動きが各地に起こりました。その際、日本統治時代の老朽化した温泉ホテルの多くは姿を消してしまったのです。

満洲三大温泉を訪ねるには、大連からのアクセスが便利です。湯崗子温泉と熊岳城温泉は瀋陽と大連を結ぶ高速鉄道を途中下車。いまでは1時間もかかりません。五龍背温泉には、瀋陽からなら瀋丹線で途中下車。大連からだと、まず丹東までバスで行き(所要4時間)、そこからバスか鉄道に乗り継いで行けます。

●湯崗子温泉
湯崗子龍宮温泉
鞍山市湯崗子温泉旅游度暇区
http://www.tgz.com.cn/

●熊岳城温泉
天沐営口熊岳温泉度暇村
営口市経済技術開発区熊岳鎮温泉村鉄東街
http://www.youkecn.com/ts_list.asp?id=14700&classID=31

●五龍背温泉
五龍背鉄路療養院
丹東市五龍背鎮温泉路303号
http://www.wulongbeiwenquan.cn/

それぞれの温泉地の詳しいレポートはいずれまた。

【追記】(2017.3)
2015年12月に大連と丹東を結ぶ高速鉄道(丹大高鉄)が開通したことで、五龍背温泉へのアクセスが断然楽になりました。同都市間は所要2時間に短縮されたからです。

高速鉄道で大連から2時間! 日帰り可能になった中朝国境の町、丹東
http://inbound.exblog.jp/26451900/

ちなみに丹東市内に、日本式の温泉施設「江戸温泉城」があります。ここもすごく面白いスポットです。

北朝鮮の町並みが露天風呂から丸見え!?  丹東の「江戸温泉城」にて
http://inbound.exblog.jp/26446784/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 13:58 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 29日

延辺朝鮮族自治州60周年にできた延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係

延辺博物館は、2012年9月の延辺朝鮮族自治州創立60周年を記念してオープンした文化施設です。場所は、延吉市(中国吉林省)の市街地西部に位置する朝陽川空港の近くで、現在進められている大規模な新都市建設区域にあります。
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延辺博物館
http://www.ybbwg-china.org
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まるで平壌の人民文化宮か!? と見紛うばかりの朝鮮風の大講堂で、3階に分かれた展示コーナーでは、吉林省東南部にあたる延辺地方の歴史を扱っています。大きく3つに分けると、古代史、朝鮮族が入境して以降の近現代史、そしてお約束の抗日プロパガンダ史です。

まず2階の近現代史のコーナーですが、かつて間島と呼ばれたこの地に朝鮮族が大挙して入境した19世紀後半以降の歴史や独自の民俗文化、生活習俗などを、実物大蝋人形を多用しながら、わかりやすく展示しています。
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最近新設される中国の博物館はどこも蝋人形だらけということにお気づきの人もいるでしょう。こんな子供だましみたいな展示には価値がない。そう思われる人も多いかもしれませんが、ぼくはそんなに嫌いではありません。カラフルな衣装を身に付けた朝鮮族たちが遊び戯れる姿は、それが史実にどれだけ合うかどうかはともかく、とっつきやすいし、見ていて楽しいものです。
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朝鮮文化の根幹にかかわる「族譜」や伝統的な儒教道徳に関する展示品なども置かれています。
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この地に稲作を根付かせた農耕に関する展示も。
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なにしろ中国で最もふっくらおいしいお米がとれるといわれる延辺です。いまでも延辺では人の手で田植えをする姿が見られるのですが、実際には農民の大半は漢族といわれています。

さて、延辺博物館の評価をどう考えるかですが、そもそも朝鮮族を主人公にしたわずか100年そこそこの近現代史を語ろうとしても、価値のある展示物をあれこれ探し出すこと自体にそもそも無理があったというべきかもしれません。そこで蝋人形を使って朝鮮族の民俗風習を描こうとするのは、ある意味仕方がないのでしょう。でも、当の朝鮮族の人たちはこの展示をどう思っているのでしょうか。

この博物館を案内してくれたのは、日本留学経験もある30代の朝鮮族の姜さん(男性)でしたが、彼はここにぼくを連れてくるのはあまり気乗りがしないようでした。特に、抗日プロパガンダ史のコーナーの前では「ここは見なくていいですよね」とスル―しようとしたので、「まあそう言わず」と入ってみたのですが、見せるべき展示品が少ないせいか、相変わらずおどろおどろしい写真で埋め尽くされていました。
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このコーナーの見せどころは、雪原で戦う抗日義勇兵の蝋人形の展示でしょうか。
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それでも、朝鮮族が最初に開拓した20世紀初頭の龍井のまちを蝋人形を使った展示では、背景のスクリーン画像に当時の間島日本領事館らしき建物が写っていて印象的でした。
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中国東北地方には土地柄、この手のプロパガンダ施設は山ほどあります。これは朝鮮族には限りませんが、友好的な中国人の多くは、日本人にはこの手の場所はなるべく足早に立ち去らせようとするところがあります。なぜって、こんなに生々しく陰惨な展示を見終わったあと、お互い何事もなかったかのようにふるまうのは難しいのが人情だからです。

特に朝鮮族の場合、中国国民として日本を悪者に仕立てるのは仕方がないとしても、共産党の治世が70年近く続くなか、漢族だってずいぶん我々にひどいことをしたじゃないか。そういう気持ちを内心に秘めていると感じることがあります。

さらに、前述した近現代史の展示を見ていて、いまさらながら感じるのは、漢族のまなざしは明らかに朝鮮族を少数民族という下位民族とみなしていることです。雲南省あたりの少数民族と同様に、蝋人形の展示でお茶をにごされている、という言い方だってできるでしょう。
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実際延辺の歴史なんてそんなところじゃないかという話はありますが、自尊心の強い朝鮮族の人たちにとって、これは内心屈辱的なことではないでしょうか。現在、延辺朝鮮族自治州に住む朝鮮族の比率が3割にまで低下している背景にも、この地と自らの来歴に自信が持てないこと、すなはち民族的、歴史的にみて誇れるものを博物館に展示することができない彼らの無力感があるように思います。

さらに、朝鮮族に複雑な思いを引き起こさせるものに、3階の石器時代から始まる古代史のコーナーがあります。ここは撮影NGでした。理由は、7世紀末にこの地に君臨した渤海の遺跡から発掘された文物の展示と関係があります。

実は、延辺地方で発掘された渤海の重要な文物の多くは撤去されていたからです。そのほとんどは吉林省の省都である長春の博物館に持っていかれたのだろうということです。同じことは黒龍江省でも見られました(→奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)http://inbound.exblog.jp/23955554/)が、それを物語るように、渤海の展示スペースには、空のガラスケースと解説パネルだけが残っていました。

「こういう姿をお見せするのは恥ずかしいことです」と彼は言いましたが、これも渤海が中国の「地方政権」であると主張する政府の意向によるものだと考えられます。「地方政権」である以上、貴重な文物は地方ではなく、省都にある上位の博物館に展示するべきである!? でも、本当は同族である韓国人が多く訪れる延辺の地に、彼らの歴史論争に火をつけかねない文物を置いておきたくないということではないでしょうか。

実際、延辺にあるふたつの渤海遺跡(西古城、八連城)は、現在フェンスで囲まれ、外国人の訪問が許されていません。

渤海国の遺跡を隠したいのは誰だ?
http://inbound.exblog.jp/23955813/

ぼくはこれらの展示をみて、これまで述べたようなことも含め、朝鮮族の彼が館内を案内するのを気乗りしなかった理由、すなはち延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係をあらためて理解したのでした。この博物館の名称をめぐって、オープン前の12年当時論争があったそうですが、地元が主張する「中国朝鮮族博物館」という名称は却下され、現在の名称になったそうです。当局は民族名を残したくなかったということでしょうか。

さて、近現代史のコーナーの最後には、これもお約束ともいうべき躍進する延辺経済を標榜する展示がありました。現在着工中の高速鉄道がついには長春から琿春まで延伸されるといいます。これまで夜行列車を使っていた延辺と長春の移動がわずか3時間でつながるわけです。
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この写真の人物は、以前の自治州長です。延辺自治州政府のサイトによると、現在の州長は李景浩という人です。
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延辺朝鮮族自治州政府
http://www.yanbian.gov.cn/

今年7月延辺に来て、延吉市の郊外のインフラ開発がすごい勢いで進んでいることを実感しました。仁川経由のフライトで現地入りしたのですが、着陸前の眼下に広がる市の西方の巨大なマンション建設群がそれです。これは延辺大学などがある旧市街から西へ10数km離れた場所で、まったく新しい都市が生まれようとしているように見えました。
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これは延吉市に限ったことではなく、多くの中国の地方都市で旧市街から離れた場所に新都市(新区)開発が進められています。そこには無数のマンションが林立しており、豪奢な市庁舎はいち早くそちらに移っているようです。

こういう中国式ニュータウンの生成を見るにつけ、いつも思うことがあります。いったいこれは誰のためのニュータウンなのだろうか。それとも、意地悪く言えば、これが世にいう地方政府の債務増大を象徴する光景ということなのか。

中国の地方開発はどこでもこんな感じです(まちづくりの観念は欠落。不動産販売が優先)
http://inbound.exblog.jp/20618946/

はたしてこれから延辺はどう変わっていくのでしょうか。これからも見届けていくことしたいと思います。

ちょっと古い情報ですが、この地域の概要をつかみたければ、ジェトロの発行している「延辺朝鮮族自治州概況」(JETRO2012年 5月 )が参考になります。
https://www.jetro.go.jp/world/asia/cn/tohoku/pdf/overview_yanbian_201205.pdf
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by sanyo-kansatu | 2014-12-29 11:33 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 28日

日本人と鏡泊湖のいにしえの縁と忘却と

鏡泊湖を訪ねた帰り際、公園内の土産物店に入ったところ、こんなポスターが貼られていました。どうやらこの湖で捕れる鯉や鮒は有名なようです。

中国「五線」級地方都市のレジャーはこんな感じ?(黒龍江省鏡泊湖)
http://inbound.exblog.jp/23936094/
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実は、満洲国時代、鏡泊湖が鮒の産地であることは知られていました。当時発行されていたグラビア誌「満洲グラフ」1939(昭和14)年8月号の「水幽邃の別天地 鏡泊湖」という特集では、こう書かれています。

「東満牡丹江省西南の一劃、寧安縣を南北に細長くくぎった琵琶湖の半分程の湖がある。床しいその名は鏡泊湖。(中略)この鏡泊湖一帯の地に、粛慎と呼ばれる民族が勢力をふるっていたが、やがてその衰微と共に、高句麗の建国を見、間もなく北満一帯を風塵してしまった。湖畔の南湖頭には高句麗城址と云われる遺跡が、今尚風に吹かれて曾つての姿をのこしている。高句麗に代って、渤海国が興ってからは、首都を湖の東北東京城に定めた。この時代には、湖水の鳥貝からとれた真珠や、鮒などが貢物として重用されたと云われるから、恐らく當時の鏡泊湖には遊客の往来も繁く、幾多の船舶が湖上を輻輳したことであろう」

当時の日本人は鏡泊湖を古代史の舞台として眺めていたようです。なにしろ奈良・平安時代の日本と交易をしていた渤海の支配する地域だったからです。満洲国建国に際し、日本とこの地の歴史的関係を引き寄せて語ることにはそれなりの意味、つまり統治の正当化があったと思われます。

さらに、「満洲グラフ」1941(昭和16)年1月号では、再度鏡泊湖特集を企画していて、こんなことが書かれています。

「鏡泊湖は国立公園の有力候補である。湖面をゆけば原始林に蔽われた翠密の屏風美しい島、満洲ラインの名にそむかぬ絶妙な景観の變化、百花繚乱の山野、数千羽の鵜が、群棲する奇峰、碧空に舞ふ丹頂鶴や五位鷲、瀑布、尺餘の魚類の漁獲、鏡泊湖水力電気發電所、鏡泊学園村、秋田魚農開拓民等々、観光に産業に満洲の誇るべき一つである」

満洲国建国から約10年。北満開拓は当時最も注目された事業のひとつであり、その地を広く国民に知らしめる必要から「満洲グラフ」はこの特集を組んだものと考えられます。単なる風光明媚の地としてだけでなく、豊かな水利を活用した水力発電開発や北満開拓のための人材育成機関として1933年に開校された鏡泊学園(資料によると匪賊の襲撃や財政難で35年には解散したものの、有志がこの地に残って活動を続けていたようです)など、当時の日本人は鏡泊湖のことをそこそこ知っていたのです。国立公園の候補だったというのですから。

でも、もうそんなことは誰もがすっかり忘却してしまいました。

中国のローカルな行楽地としての鏡泊湖の現在の姿を、こうした日本人とのいにしえの縁と忘却という現実をふまえて眺めていると、まあこれはこれでとにかく平和でのどかなことはいいことだ。そう思うほかありません。
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土産物店では、なぜかロシアのマトリョーシカも売っていました。なにしろここは黒龍江省。ロシアに接している土地ですから。メイド・イン・チャイナなんですけどね。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-28 12:23 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)