ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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カテゴリ:北東アジア未来形:満洲の今( 74 )


2014年 12月 28日

中国「四線」級地方都市のレジャーはこんな感じ?(黒龍江省鏡泊湖)

昨日、黒龍江省牡丹江市の夏の夜の風情をブログに書きましたけれど、こういう中国の「四線」級地方都市に暮らす人たちはどんなレジャーを楽しんでいるのでしょうか。

中国「四線」級地方都市の夏の風物詩、広場に繰り出す若者たち(黒龍江省牡丹江市)
http://inbound.exblog.jp/23931622/

牡丹江に近い、黒龍江省有数の行楽地のひとつである鏡泊湖は、そうしたテーマを考えるうえで格好の観光スポットかもしれません。今年7月、鏡泊湖を訪ねているのでレポートしたいと思います。

鏡泊湖は、牡丹江市の南東100km先に広がる細長い湖で、1万年前の噴火によって牡丹江が遮られたことでできたといわれる火山湖です。長さ45km、最大幅6km。面積は琵琶湖の半分ほど。中国国内では北方の避暑地としてそれなりに知られ、夏季には多くの観光客が訪れます。

見どころは湖の北側にある吊水瀑布。増水した湖水が牡丹江の支流である滝つぼに一気に流れ落ちる様には清々しさがあります(冬季は氷結します)。
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入場料80元を支払い(けっこう高いですね)、入場門をくぐると、機関車型のカートが待っていますが(これ、上海の南京路などにもよくあるやつです)、吊水瀑布までは徒歩5分の距離なので、無視して進みます。
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しばらくすると吊水瀑布が見えてきます。ずいぶんな人だかりです。何だろう。
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滝の方向をよく見ると、ひとりの男性が岩をよじ登っています。上半身裸で水着姿のようです。
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そして、滝の上を歩き出しました。なぜか彼は肩にカバンをかけています。
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それからどうなったのか……。そうなんです。彼は滝つぼに飛び込んだのです。

鏡泊湖の飛び込み名人(動画)
※ただし、慌ててコンデジで彼の飛び降りる様を撮ろうとしたため、横組の映像となってしまいました。所詮おとぼけ映像ということで、お許しください。
http://youtu.be/CVYdzSTOtJI

「鏡泊湖の飛び込み名人」こと、狄煥然さんは牡丹江出身。10年前からこの飛び込みパフォーマンスをやっているそうです。1日10時と14時の2回。ちょうどぼくは午後の回に出くわしたのでした。

彼は地元の有名人らしく、こんなカッコいいポスターまでできています。
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こちらはもっとすごいですよ。滝の水が氷結した真冬の滝つぼに果敢に飛び込んでいます。「最美冰雪行 冰瀑跳水」。だいたい意味はわかりますね。
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彼はテレビにも出演しています。これもポスターですが、よく見てください。狄煥然さんの隣にいる女性は、確か1990年代にテレビ朝日の『トゥナイト』に出演していた中国人美女レポーターの朱迅さんではありませんか。面白いので、Wikipediaをみてみると、99年に帰国して中国でアナウンサーとして活躍している彼女について、こんなことが書かれていました。
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「外国語に堪能で才色兼備なキャスターとしての高い評価を得る一方、日本時代にお色気色の強い番組である『トゥナイト2』や、援助交際を含むコギャル文化を描いた映画『バウンズkoGALS』に出演していたことは、中国で今なお否定的にとらえる向きもある」

彼女も帰国してからいろいろご苦労があったようですね。そんな彼女とこんなところで再会できるとは。しかし、彼女のレポートする番組に狄煥然さんが出演しているということは、彼もそこそこ全国区の人だったりして。「中国ビックリ人間大集合」的な意味ですけれど。

さて、いよいよご本人にご登場いただきましょう。
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どこにでもいるようなふつうのおじさんですが、これから先、何年この荒業にチャレンジするのか。さぞかしご家族は心配しているのでは。
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それでも、彼はみんなから記念撮影を頼まれる人気者です。

それにしても、こういう人物、そして彼を取り巻くこういう感じ、なんといえばいいのでしょう。これぞ「四線」級ならではのレジャー・ワールドとでもいえばいいのか。

別に小バカにしているつもりはないですよ。日本にだって狄煥然さんみたいな人、いるわけだし、全国区とはいえない地方の観光地に行けば、これに近い微妙なイベントも、ふつうにあるわけですから。

目の前で起きている状況は決してイケてるとは思えないものの、それをぶち壊すのはいくらなんでも傲慢で、だからそういう行き場のない思いを胸に秘めたまま、周囲の皆さん、それはおじいちゃんやおばあちゃん、お子様だったりするわけですが、彼らの微笑に合わせて、状況に身を任せるしかない。でも、できればなるべく足早にこの場を離れたい……。

でも、それが本来の「レジャー」ってものでしょう。昨日アップした牡丹江の夜の広場でダンスをしていた若者たちの地元に対する思いも、きっとそういうのに近いのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、有料のミニバスに乗って鏡泊湖に向かうことにしました。人は誰しも、状況に身を任せるしかないのです。
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鏡泊湖では遊覧ボートが何艘も停泊していました。今年の夏の東北地方は雨が少なかったせいか、湖水がかなり減少しているようで、乗船客はほとんどいないようでした。それにしても、こんなに湖水が少なくて、この先行楽地として大丈夫なのかしら……。

鏡泊湖に行くには、牡丹江駅前の光華バスターミナルから「東京城」行きバスで終点下車。そこから「镜泊湖」行きバスに乗換、終点下車。所要2時間30分が目安です。タクシーなら片道300元、所要1時間半が目安。牡丹江駅前の旅行会社が催行するお得な日帰りツアーに参加すると、ローカルの中国客と一緒にほのぼのレジャー体験を満喫できるでしょう。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-28 12:08 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 27日

中国「四線」級地方都市の夏の風物詩、広場に繰り出す若者たち(黒龍江省牡丹江市)

北満に位置していますから、冬は寒冷で長く、夏は短い。今年7月中国黒龍江省の牡丹江を訪ねたとき、夏の夜を楽しむ市民が広場に繰り出していました。
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牡丹江の市街地は鉄道駅の南を中心に形成され、メインストリートは駅から牡丹江(河川)まで延びる太平路。平安街と交差する場所に文化広場があり、その周辺が繁華街です。
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太平路と平行して駅から南に至る東条路は歩行者天国で、夜は屋台が出ます。
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ぼくはこういう中国の地方都市の夜の街をふらつくのが案外好きです。
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広場には大型ビジョンの映像が流れています。水着モデル大会の告知のようです。
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さすがは中国。偽マックが堂々と営業しています。
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「魚疗馆」というのは、魚が足の角質などを食べてくれるフィッシュマッサージのことです。こういうの、彼らは好きですね。
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高級宝飾店も営業しています。電光掲示板には、宝飾品の投資価値や運勢のことなど、いろいろ謳っています。

見ていて飽きなかったのは、広場でダンスに興じる地元の若者たちの姿でした。都会に憧れる地方都市生まれの若者たち。日本の1970年代にタイムスリップしたような気がします。
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踊る牡丹江の若者たち(動画)
http://youtu.be/qULxHVwJDcI

ところで、中国では国内都市を経済発展レベルで5つのランクに分けて「○線都市」などと呼ぶことがあります。「一線都市」は、中国を代表する北京市、上海市、広州市、天津市、深圳市。「二線都市」は省都や沿海都市など。「三線都市」は「二線」に次いで経済規模が大きい地方都市です。

東北三省では、瀋陽市(遼寧省)、大連市(遼寧省)、長春市(吉林省)、ハルビン市(黒龍江省)が「二線都市」、鞍山市(遼寧省)、吉林市(吉林省)、大慶市(黒龍江省)などが「三線都市」ですから、牡丹江は「四線都市」あたりではないかと思われます。まあ片田舎の地方都市ということです。

「四線都市」といってもバカにできないのは、今回宿泊したホテル(金鼎国際大酒店)も悪くはないことです。人口だって90万人。日本の地方都市に比べれば、決して小さくはない。ハード優先には違いありませんが、地方都市の想像以上の発展ぶりを多くの日本人は理解していないといえるかもしれません。
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それに、こういう地方都市の普通の人たち(中国では「老百姓」といいます)の暮らしぶりこそ、いまの中国を表象しているといえるのではないか、と思うのです。

2011年、東京で開催された中国インディペンデント映画祭の上映作品『花嫁(新娘)』(2009)は、四川省巫山県という長江中流域の地方都市に暮らす4人の中年男の物語です。

花嫁(新娘)
http://cifft.net/2011/xn.htm

※『花嫁(新娘)』のストーリーについては以下参照。
さえない中年男たちのドタバタ劇だが、身につまされる?(中国インディペンデント映画祭2011 その10)
http://inbound.exblog.jp/20052959/

『花嫁(新娘)』の章明監督は、同映画祭のインタビューで次のように語っています。

「私の作品の特徴は、登場人物に語らせるというスタイルであることです。『花嫁(新娘)』の場合も、地方の小都市に住む人々の生活やモノの見方、態度を描いています。彼らこそ中国の一般大衆です。中国の人々の大部分は大都市ではなく地方の小さな町に住んでいるのです」

誰もが知る首都北京や上海を舞台にした作品ではなく、地方都市に生きる人たちこそ、中国の一般大衆であり、彼らの姿を描くことに意味があるというのが、章明監督の考えというわけです。

前述の牡丹江の若者のダンス動画などを見ていると、その意見にぼくも強く同意したくなります。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-27 10:18 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 27日

牡丹江に残る満鉄社宅、再開発による撤収は間近か

牡丹江は中国黒龍江省南東部を代表する人口90万人ほどの都市で、ロシア国境の町・綏芬河や延辺朝鮮族自治州の延吉、北部の鶏西方面などへ向かう鉄道の乗継の基点です。1000年以上前にこの地に栄え、日本との交易の歴史もあった渤海の王都のひとつ、上京龍泉府遺址が近くにあることで知られています。

このまちの都市建設は20世紀初頭の東清鉄道の敷設に始まります。ロシアがハルビンからポグラニチヌイ(綏芬河)までの鉄道建設を着手した際、その沿線を流れる牡丹江(満洲語で「曲がった川」を意味する「ムーダンウラ」の漢語読み)を駅名にしたことが由来です。

もっとも、都市の基礎は日本統治時代に造られました。満州国時代は北満開発の中心地となり、多くの日本人が移り住んでいました。なかにし礼の小説『赤い月』は日本の終戦前夜の牡丹江が舞台のひとつとなっています。1945年8月9日のソ連軍の侵攻により、多くの日本人がこの地で亡くなっています。

牡丹江駅の南西部に、現在も満鉄社宅が残っています。場所は「天安路」です。大連にも多くの日本家屋や満鉄の社宅が残っていますが、同様に家屋の老朽化が進み、住人はほとんどいないようです。
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実は、ぼくの祖父も、同年7月の民間人に対する強制的な徴兵によって牡丹江の部隊に配属され、牡丹江郊外の液河であっけなく戦死しています。

そうしたことから、ぼくは何度か慰霊のためにこの地を訪れています。黒龍江省の一地方都市ということで、10年前くらいまでは中国の目覚しい発展ぶりからは取り残されていた印象がありましたが、今回久しぶりに訪ねて、市街地の周辺に林立する高層マンションラッシュを目にし、ついに不動産開発の波がこうした辺境地域にまで及んでいることを実感しました。
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この豪奢なビルは牡丹江市の新市庁舎です。中国の地方都市は、どこでもこういう状況で、正直なところ、危なかしくってたまらない気がします。

牡丹江に残る満鉄社宅も、再開発による撤収は間近のようです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-27 08:42 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 25日

大連の中山広場の歴史と地下鉄開通の報

大連の中山広場は、ロシアがこの地を租借した20世紀初頭、最初につくった直径213mの美しいサークル型の広場で、「ニコラヤフ広場」と呼ばれていました。
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このサークルを中心に放射状に通りが延びるという、19世紀のパリの都市計画を意識した最先端の都市構造が大連に生まれたのは、日本というよりロシアの植民者たちの企図したものではありましたが、その後、日本の手により広場の周辺には10棟の特徴ある欧風建築が建ち並びました。日本統治時代は「大広場」と呼ばれていました。

実際、アジア広しといえども、このように広場と通りが連結し、都市全体が広がっていくようなスケール感を持ったまちづくりは(身近なところでは、田園調布がそうかもしれませんが)大連くらいしか思いつきません。

これが戦前期の大広場の写真です。
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周辺には、大連ヤマトホテルや横浜正金銀行、大連市警察署、大連市庁舎などの重要建築が建てられ、そのほとんどが現存しています。
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中山広場はなんといっても、頭上から眺めたときの美しさが印象的です。

特に夕暮れ時の中山広場は、息を呑むような光景です。この写真は2006年9月に撮影したものです。撮影場所は、現在の中国銀行大連支店(旧横浜正金銀行)の裏手にある高層ビルの屋上階にあったバーの展望台でした(最初の1枚も同じ場所から少し明るい時間帯に撮ったもの)。
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ところが、08年に訪ねたときには、このバーは営業をやめていました。それが直接の理由かどうかわかりませんが、この頃から徐々に大連でも地下鉄工事が始まり、中山広場の周辺はフェンスで覆われ、隠されてしまったからです。

大連の地下鉄工事は、予想以上に難航し、時間がかかったようです。

それでも、今年7月に訪れたときには、再び中山広場は姿を見せてくれました。地下鉄工事の完了にともない、元通りの広場に戻っていたのです。

そこでぼくは、再び中山広場を頭上から撮影できる絶景スポットを探すことにしました。

現地の旅行会社の皆さんに聞いたところ、ふたつの高層ホテルが候補に上がりました。

ひとつがインターコンチネンタルホテル大連です。

場所は中山広場より大連駅に近い友好広場に面しています。さっそく、同ホテルの関係者を訪ね、中山広場が見える客室に通してもらいました。

これがその写真です。2006年の撮影場所とはほぼ反対側からなので、大連港まで延びる人民路や大連湾まで見渡せます。人民路沿いには高層ビルがいくつも並んでいます。
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これがインターコンチネンタルホテル大連の外観です。
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同ホテルが提供してくれた夜景の写真です。おそらく大連で最も美しい夜景の見られるホテルといってもいいでしょう。
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もうひとつが2013年12月にオープンしたアロフト大連です。場所は、中山広場から延びる魯迅路に面しており、インターコンチネンタルとは逆向きから広場を見ることができます。ヤマトホテルの裏から眺める中山広場というのも、面白いです。
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アロフト大連は、スターウッドグループのヤングエグゼクティブ向けのファッショナブルなブランドで、今回一泊したのですが、大連一スタイリッシュなホテルといえそうです。
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フロントからロビーの待合室、各フロアの廊下、そして当然客室も、都会的なセンスであふれています。どちらも外資系の高層ホテルですが、この手のホテルが大連にもお目見えする時代になったのですね。

さて、ロシアによる美しい都市計画の名残を感じさせる中山広場ですが、その後都市建設のあとを継いだ当時の日本人は何を考えていたのでしょうか。明治以降、西洋から学んだあらゆる思想や技量をすべてこの地に注ぎ込もうと懸命になっていたに違いありません。

もっとも、日本もロシアもヨーロッパから採り入れた最先端をこの地に再現しようとしたという意味で、どこか背伸びしたところは似ていたのではないか、という気もします。

来年には大連で地下鉄が開通するそうです。
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1号線は高速鉄道が発着する大連北駅から星海広場あたりまで。2号線は大連港(東港)から中山広場、人民広場、大連空港を通り、大連北駅につなぐ路線のようです。



※2015年5月22日についに地下鉄が開通しました。運行している路線はまだ一部ですが、空港から市内へは行けます。

大連の地下鉄開通で市内のホテルに楽々直行できるようになりました
http://inbound.exblog.jp/24550588/
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by sanyo-kansatu | 2014-12-25 14:22 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 25日

現存するヤマトホテルのすべて

中国東北地方には、20世紀初頭に始まった日本統治時代に建設されたクラシックホテルが多数現存しています。その代表格が満鉄ホテルチェーンです。
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最初に開業したのが、1907(明治40)年の大連ヤマトホテルです。大連市中心部に位置する中山広場の南側正面にいまも独特の存在感を見せる石造5階建てのルネサンス式建築のホテルですが、実は大連ヤマトホテルとしては3代目で、清水組(現清水建設)が竣工し、14年に開業したものです。
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初代はロシアが造った東清鉄道の建物を借用したものでした。
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2代目は、09年に旧ロシア市役所を別館として開業したもので、日本統治時代は満蒙資源館として、また新中国時代は長く大連市自然博物館として使われていた建物です。ロシア人街のいちばん奥正面に現存していますが、現在は廃墟同然の姿をさらしています。
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実は、09年に満洲を訪れた夏目漱石はここに宿泊しています。その記録は『満韓ところどころ』という彼の直截かつ辛辣な大陸紀行に残されています。

大連にはこれ以外に3つのヤマトホテルがありました。ひとつは、大連郊外の海浜景勝地に10年に開業した大連星が浦ヤマトホテルです。当時の日本ではまだ海水浴というレジャーが鎌倉などの外国人居留地を除き一般化していなかったことを思うと、いかに先進的な存在であったかわかります。
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いまは亡き祖母が大連で洋品店を営んでいた叔父を訪ねたときに、星が浦海岸で遊んだ話をうれしそうにしてくれたことがあります。時代は1940年頃のことですから、すでに周辺はこの絵はがきの写真のように、今日の日本ではもう見られない戦前期特有の優雅で落ち着いた海浜リゾート地だったことでしょう。
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一方、これが現在の星が浦(現・星海)海岸です。残念ながら、星が浦ヤマトホテルは現存していません。
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もうひとつが、旅順ヤマトホテルで08年に開業しています。ここには前述の夏目漱石も泊まっていますし、のちに川島芳子が結婚式を挙げています。
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これが現在の姿で、軍の招待所(「81067部隊招待所」)として使われています。

[追記]
2015年2月上旬に旅順を訪ねた知り合いの話によると、同招待所はすでに閉業しており、いずれ取り壊しされるという貼り紙が書かれていたそうです。残念ですね。(2015.2.21)
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あまり知られていない3つ目が、18年に開業した旅順黄金台ヤマトホテルです。旅順東南部の黄金山と呼ばれる景勝地に位置しているのですが、現在は軍区の中で一般人は立ち入り禁止のため、その地を訪れることは基本的にできません。
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2010年、いまは亡き友人の桶本悟氏が、当局の許可を取っていまは廃墟となっている同ホテルの跡地を訪ねています。これがそのときの写真ですが、荒れ放題で放置されていたものの、「大和旅館」のプレートが残っていたそうです。

さて、場所をかえて瀋陽の奉天ヤマトホテルです。当初、東京駅を模した赤レンガ造りの奉天駅(現瀋陽駅)の一部をステーションホテルとして10年に開業させたものでした。
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現在も大広場(現・中山広場)に堂々たる威容で立っているのが、29(昭和4)年に再開業した現・遼寧賓館です。
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08年開業の長春ヤマトホテル(満州国建国後は新京ヤマトホテルに改称)は、当時最先端のセセッション(アールヌーボー)様式の設計スタイルを採用していました。
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現在は、大部分が改修されてしまいましたが、春誼賓館として長春駅前で営業を続けています。
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ハルビンヤマトホテルも現存しています。このホテルの出自は東清鉄道の施設ですが、時代と共に所有者が移り、満洲国時代は「ハルビン大和旅館」でした。現在は、龍門大廈と呼ばれています。
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当時ヤマトホテルは、満州国各地にあったのですが、現在ではそのほとんどが再開発によって消失してしまいました。現存しているのは、大連・瀋陽・長春・ハルビンという中国東北地方の四大主要都市に建てられた都市のランドマークとして貴重な記念碑的作品だけだと思っていました。

ところが、唯一それ以外に現存しているヤマトホテルがあることを知ったのは、2012年北朝鮮の羅先を訪ねたときのことでした。羅津ヤマトホテルです。なぜこの地にヤマトホテルがあったかというと、当時「北鮮」と呼ばれた鏡咸北道は、満鉄の管轄内にあったためだと思われます。これまで紹介したものに比べると、歴史的重厚感には欠けますが、ロビーや客室、食堂の雰囲気はそれなりにヤマトホテルらしさを残していました。
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これら満鉄が経営したヤマトホテルは、日本の内地のシティホテルと比べても遜色がないばかりか、当時の最新式の設備を誇っていました。近年の中国の経済発展による新しい都市施設の増殖の中で、老朽化が目につくのは致し方がないことですが、20世紀初頭のモダニズム空間の魅力は異彩を放つことはあっても、色褪せることはありません。これから先も大事に使い続けてほしいものです。

今回紹介したそれぞれのホテルの内部の撮影はすべて行っています。後日あらためて。

大連ヤマトホテルの現在
http://inbound.exblog.jp/20581894/
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by sanyo-kansatu | 2014-12-25 11:55 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 23日

ショック!? あの『ラストエンペラー』に出てくる大連港の名所がなくなってしまった

今年7月、大連を訪ねたとき、いちばんびっくりしたのは、大連港埠頭待合所の表玄関が姿を消していたことでした。
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これが「満鉄グラフ」(1935年10月号)の大連・ハルビン開通記念特集のグラビアに登場する埠頭ビルです。

同特集によると、この年の9月1日から大連・ハルビン間(941.6km)が「超特急アジア」によって結ばれたとこう書かれています。

「九月一日の午前九時、大連・ハルビンの両驛から發車した満鐵の流線型国際超特急アジアは、その夜十時三十分、一分一秒の誤差もなく、青磁グリーンに塗られた颯爽たる雄姿を両驛のフォームに現はしたのである」

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そして、こちらが現在の姿です。ぼくは思わず「あっ」と声を出し、その場で溜息をもらしてしまいました。

なにしろここは、戦前期を象徴する大連の顔としての歴史的な場であることはもちろんですし、ぼくにとっても、公開当時夢中になった映画「ラストエンペラー」(1987)で、溥儀と家庭教師レジナルド・ジョンストンの別れのシーンにも使われた有名なスポットだったからです。

映画「ラストエンペラー」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg

簡単に大連港の歴史を振り返ってみましょう。

大連港は1898年、ロシア帝国が清から租借後、東清鉄道を大連まで延伸し、1902年に開港したものです。その後、日露戦争に勝利した日本が05年に租借地(関東州)としました。その年、大阪商船による日満連絡船(大阪・大連航路)が開設しています。
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待合所(正確には「大連港第2埠頭船客待合所」)が竣工されたのは24年。当時は1階に鉄道のプラットフォームが接続されており、鉄道に乗り換えることができたようです。また路面電車も通っており、市内に向かうことができました。
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ぼくも何度かこの待合所に入ったことがありますが、5000人の収容能力があったという長い通路に立つと、大陸の玄関口としての歴史の舞台を想起させるスケール感を強く感じました。

戦前期の大連のランドマークだった半円形の玄関口は26年に竣工されたもので、実は1970年代に、この写真のような味気のないビルに改装されていました。ですから、もともと魅力は半減していたといえるのですが、首から顔を切り落とされてしまったようないまの無残な姿からは、もうここが大連港にとって重要な場所ではないことをはっきり宣告されたようで、残念に思わずはいられませんでした。
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待合所の向かいの重厚な建築物は、旧満鉄大連埠頭事務所ビル。26年竣工です。こちらはまだ残っていますが、かつての大連の象徴的な空間が、丸ごとぬけ殻のように、さらにいえば無用の長物でもあるかのように茫漠と広がっている光景にも唖然とするほかないのです。
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よく見ると、路面電車の線路跡が残っていました。
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2012年7月にここを訪ねたときには何も変化はなかったことを記憶しているので、それ以後再開発されてしまったのだと思い、大連の知人に確認したところ、13年3月から改修工事が始まり、7月には現在の姿になったそうです。

ところで、大連港はこれからどのように再開発されていくのでしょうか。

現在、大連港の旅客船航路は、天津や煙台、威海など山東半島各地や大連の沖合に浮かぶ長海県の島々、そして韓国の仁川港へのフェリー航路などがあります。

これはいまに始まった話ではありませんが、大連港は旅客輸送よりも圧倒的に物流の拠点としての位置付けが大きいわけです。つまり、大連経済開発区に近い新港(旅客船の利用する旧港の北側に位置しています)の重要性のほうがはるかに上なのです。
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この写真は大連市の中心部の高層ビルから撮ったもので、左上に見える埠頭が新港です。

結果的に、この旧港の跡地は観光地として再開発されることになるようです。すでに兆しは見えます。たとえば、旧埠頭待合所の並びに誕生した「15庫」と呼ばれるファッションビルです。日本統治時代の大連港の倉庫群を改装した、いわば横浜赤レンガ倉庫の大連版です。
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4階建てのビルの中には、こじゃれたショップやカフェ、レストランが入店しています。
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港側に面したテラスには大連港を一望にできるカフェが並んでいます。
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夜も悪くありません。周辺の高層ビルの明かりも港に映えてきれいです。そういえば、薄熙来の大連市長時代、「大連は北方の香港」と称されていたことを思い出しました。当時はぴんときませんでしたが、この都市の為政者たちはまんざらそれがただの夢とは思っていないのかもしれません。
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入店しているショップも大連としては斬新で、北京によくある個性的な書籍や雑誌のみをセレクトしたブックショップ「回声書店」は面白いので、訪ねてみるといいでしょう。書棚に並ぶ本の種類が新華書店とはずいぶん違います。

15庫
大連市中山区港湾広場港湾街1号
http://www.weibo.com/15cool

さらに、大連港の南側にはヒルトンやコンラッドといった外資系のファイブスターホテルができていますし(ともに12年開業)、13年の夏季ダボス会議の会場として使われた国際会議センターは、この写真のように、いまの(いや、少し前の?)中国を象徴するようなスペクタクルなデザイン建築となっています。
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現在、この地区は東港(旧港)と呼ばれています。はたして大連港はどんな姿に変貌していくのか。

ぼくが初めてこの地を訪れた1980年代に感じた、まるで北欧の港町のような清涼感はすでに失われてしまっているいま、何か前向きな期待感というのは失礼な話、ないのですが、このまちに住む多くの知人や友人たちのことを思い浮かべるとき、中国のどのまちとも違う繊細さや穏健さを身につけている彼らが(それはたぶんこの都市の環境が育んだものだと思う)、中央政府的な野心から少し距離を置いて、別の道を選んでほしいと思ったものです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-23 13:28 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 22日

ハルビンのKFCはアールヌーボー建築

この建物は何だかわかりますか? 童話に出てくるおとぎの国のお家みたいでしょう。

答えは中国のある都市のKFC(ケンタッキーフライドチキン)のお店です。
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ずいぶんしゃれてると思いませんか?

この店は、黒龍江省のハルビンというまちにあります。ハルビンを最初に建設したのは東清鉄道をこの地に敷いたロシア人で、19世紀末のことです。
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もともとこの不思議なデザインをした建物は、東清鉄道管理局長の官邸で、1920年に建てられたものだ、とハルビン市が設置したプレートには書かれています。アールヌーボー建築です。

場所は、ハルビン駅の正面からまっすぐ伸びる紅軍街が大直街と交差する紅博広場に面したホテル「国際飯店」のすぐ隣にあります。
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デザインが面白いので、ついぐるぐる周辺から見渡してみたくなります。
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さっそくですから、店に入ってみましょう。
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内装は現代的ですが、ハルビンのあちこちに現存するロシア教会など、このまちを象徴する写真が飾られています。

周辺はすでに再開発が進んでいるのですが、ハルビンでは古い建築物を保存することが条例で定められているため、工事現場に囲まれながらも、こんな風に残されています。ここは、ケンタッキーの向かいにある地下鉄駅工事の現場です。
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ハルビンは自らの出自がロシアにあることを公式に表明することを決めたようです。それは彼らの歴史認識には抵触しないようです。市内の歴史博物館の展示を見ればよくわかります。その話はまた後日。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-22 15:51 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 03日

ハルビンで“出戻り”ロシアの味覚に出合う

中国黒龍江省の省都ハルビンは、19世紀末にシベリア鉄道の要衝として建設された都市です。いまでは人口1000万人にもなろうとしている大都市ですが、100数年前は小さな村でしかありませんでした。

20世紀初頭、8000㎞も離れた欧州からこの地に現れたのは、ロシアの将校や軍人、シベリア鉄道の技師、百貨店の経営者、木材を扱うユダヤ商人などさまざまな人種でした。その結果、ハルビンは「極東のパリ」とも呼ばれる多国籍都市になりました。

新中国建国後、この地に暮らしていたロシア人や外国人たちは徐々に姿を消します。ぼくが初めてハルビンを訪れた1980年代半ば頃には、そんな華麗な略歴がウソのような、暗くよどんだ埃まみれの北方の田舎都市へと変わり果てていました。

ところが、2000年代以降の中国東北部の経済成長でロシア人ビジネスマンや旅行者、留学生などが再びハルビンに現れるようになりました。

いま、ハルビンでは“先祖返り”が起きているのです。

そんなハルビンに来たら、ぜひ味わってほしいのがロシア料理です。
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今年7月中旬、夕暮れ時を迎えた松花江のほとりにあるロシア料理店「カチューシャ」を訪ねました。
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店内は木のぬくもりを感じさせるシックな内装で、アットホームな雰囲気を味わいながら食事が楽しめます。
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人気メニューはカツレツやロールキャベツ、ボルシチなど。ワインやシャンパンはもちろんロシアモノですが、ウエイターのイケメン青年ワーリャさんもイルクーツク出身です。
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このちょっといかつい男性がオーナーの李宏南さんです。店の名「カチューシャ」は彼の奥さんの名前から採ったそうです。奥さんはハルビンのはるか北方、シベリアのヤクーツク出身のロシア人で、留学先のこの地で地元出身の李さんと知り合い結婚。本場のロシア料理を出したいという彼女の思いから、2006年家族経営の小さな店を始めたといいます。
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奥さんの故郷ヤクーツクはタイガの中で冷凍保存されていたマンモスが発掘されたことで有名です。実は、お産のため里帰りしていた彼女とはお会いできなかったのですが、ご主人に写真を見せてもらったところ、ロシア系ではなく、シベリアの北方民族の女性でした。
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ロシア料理店「カチューシャ」
ハルビン市道里区中央大街261-1号

もう一軒のロシア人経営のレストランが「アラウンド・ザ・ワールド(环球者西餐厅)」です。
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店内はハルビン在住の欧米人や地元客でにぎわっていました。おすすめ料理はロシア風餃子のペリメニやサーモンのソテーなど。ウォッカやロシアビールも味わえます。
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この店では毎晩19時からライブがあります。ステージに立つ彼女はロシア人歌手のKSENIAさん。
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この店のシェフはもちろん、3人のウエイトレスはすべてロシア人です。ウラジオストク出身のSVETAさん(右)とヤクツーク出身のMARINAさん(左)。MARINAさんはブリヤート系ロシア人で、元留学生だそうです。
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「20世紀初頭、ハルビンには多くのロシア人が住んでいた。だから、私たちにとってハルビンは親しみのある町なのよ」。同店のロシア人女性マネージャーは店を開いた理由をそう語ってくれました。彼女もウラジオストクから来たそうです。この店も2006年開業です。

同店ではロシア食材の販売も行っています。
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アラウンド・ザ・ワールド(环球者西餐厅)
ハルビン市開発区赣水路183号

半世紀を経てハルビンに姿を現し始めた彼らは、“出戻り”ロシア人といっていいでしょう。おかげで正真正銘のロシアの味覚に出合うことができるようになったのです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-03 17:50 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 11月 29日

大連現代博物館の近代史の展示は台湾に似ている!

今年7月下旬、大連を訪ねて足を運んだいくつかの場所の中でとても興味深かったのが、大連現代博物館でした。
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大連現代博物館は2002年、いわゆる「愛国主義教育基地」としてオープンした博物館です。当初は改革開放以降の大連市の発展を紹介するプロパガンダ施設としかいえない代物でしたが、07年市政府はリニューアルを決定。13年4月に再オープンされました。その目玉常設展が「近代大連」です。ここではアヘン戦争の1840年から1949年の新中国建国に至る大連の歴史を扱っています。
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もともと小さな漁村にすぎなかった大連の誕生は、19世紀後半にロシア帝国がこの地に進出し、自由港とするべく港湾施設を建設したことに始まります。
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その後、日露戦争(1905)の勝利によって大連建設の主導権が日本に移ります。
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その遺構である「関東都護府」などの石碑も展示されます。
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大連港の建設や満鉄の設立、市街地の発展、路面電車の敷設など、見事に発展していく大連の近代史を豊富な写真や遺品で紹介していきます。
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この展示はいくつかのコーナーに分かれていて、中国ではお約束ともいうべき「人民反抗闘争」のコーナーもあります。
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しかし、何より驚いたのは、もうひとつのコーナーです。1840年~1945年の日本統治期を含めたその期間を「多元文化的交流与融合」の時代と位置づけ、当時の街の様子や人々の日常の暮らしを紹介していることでした。以前、旅順にある歴史博物館をすべて訪ねましたが、そこでの展示は、日本帝国主義の侵略と人民の抵抗だけの内容でした。それに対し、「多文化的交流と融合」の時代とは……。今日の中国では稀有ともいうべき斬新なコンセプトといえます。
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面白いのは、日本統治期に「浪速町」(現在の中山広場から旧ロシア人街に通じる通り)と呼ばれた繁華街のジオラマや、現在では跡形もない大連神社の太鼓(どこに保存されていたのでしょう?)の実物など、当時の市民生活の実像を紹介する展示がいくつもあったことです。
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そこには、中国の他の都市では決して見られない、戦前の日本と関わる史実を「歴史」として公平に扱おうとする姿勢があるのです。日本の記憶をすべて否定の対象とするのではなく、「多文化」の融合した時代の象徴として展示すること。そこには日本統治期を相対化しようとする視点があります。以前訪ねた台湾の歴史博物館の展示に似た印象を持ちました。

しかし、それはふつうに考えてみれば当然のことだ思います。なにしろ大連で都市建設が着手されたのは19世紀末のこと。自らの歴史を史実に沿って語ろうとすると約100年という短いスケールの中で日本の記憶を除き去ることができないのは無理もありません。それは上海の歴史博物館が西洋列強の租界を自らの歴史として取り込んでいるのと同様だからです。日本が占めた時間の意味をことさら誇張するつもりはありませんが、逆に政治的な意図があったため、これまで中国の歴史展示はそれを無視してきたといえます。

大連現代博物館の「近代大連」は、日本による侵略一色に塗りたてられていた中国東北地区の歴史展示を、固有の地域史として市民の実感に即して描き直そうとする野心的な試みではないかと思います。

しかし、ここは2010年代の中国。習近平体制以降、過去へと時代が逆行するような時勢の中で、このままずっとこの展示が許されるのだろうか。正直なところ、心配になったほどです。

ですから、あまり騒ぎ立てたりすると中国当局が反応してはまずいので、皆さんそっと足を運んでいただきたいと思います。実は、ぼくはこの博物館の館長と面識があるのですが、名前も伏せておこうと思います。その方に迷惑がかかると申し訳ないからです。中国とはどうしようもなく、そういう国だからです。

大連現代博物館の意欲的な取り組みは、近代史の展示だけではないようです。ちょうど訪れたとき、別の展示室で中部アフリカの民族文化の企画展も開催していました。アフリカへの莫大な投資を進める今日の中国が、市民に対して異文化理解を深めることを目的とした企画という意味であれば、これも興味深いといえます。
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さらにいうと、日本のアニメ文化の企画展なんてのもあったようです。
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大連現代博物館
沙河口区会展路10号
http://modernmuseum.dl.gov.cn
星海広場の北端にあります。
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by sanyo-kansatu | 2014-11-29 15:15 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 11月 19日

大連の若い世代(80后)は日本時代の住居や路面電車が懐かしいという

今年7月下旬、大連を訪ねたとき、最も印象に残った場所が、地元生まれの若いカップルが経営しているカフェ「瀋小姐の店」でした。
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この店の特徴はお茶を飲むだけでなく、店内で版画や手づくり工芸を楽しめることです。アトリエ風の店内は、創作教室といってもいいかもしれません。
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客層は圧倒的に若い女の子ばかり。彼女たちは地元だけでなく、中国全土から旅行で訪れた人たちも多いそうです。
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店内には、大連の老房子(古い建築)をイラストや版画で描いた絵はがきや日本統治時代の古地図が売られています。
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「大連印画」「老大連」「大連の詩」「大連老式電車の旅」「歩く大連」「大連老建築」など、種類もいろいろ。中国の歴史博物館に展示されているような、どこかおどろおどろしい日本統治時代の写真とは、まったくの別世界。いまどきの中国の若者のセンスが感じられるポップな仕立てとなっています。

このカフェを経営しているのは、1984年大連生まれの周科さんと瀋潔さんです。ふたりは大連工業大学時代の同級生。ちなみに同大学には、アートデザインや服飾などの学部もあります。なぜこの店を始めたのか聞くと、こう話してくれました。
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「ぼく(周さん)は子供の頃、祖母の住む古い日本家屋でよく過ごしました。いまはオリンピック広場となっている北側の一画ですが、当時はそれが日本家屋だとは知りませんでした。高校生になった頃、これらの老房子が次々に再開発されるのを見て、自分の大切な思い出が失われていくようで惜しいと思ったのです。

大学で美術を専攻したぼくは、老房子の写真を撮り始めました。大学を卒業後、美術教師をしながら、撮りためた写真や版画を絵はがきにして、大連を訪れる観光客に伝えたいと考えたのが、このカフェの始まりです」。

※再開発の進む大連の状況については「次々に壊されていく文化台の一戸建て住宅【昭和のフォルム 大連◆文化台②】」http://inbound.exblog.jp/20697489/参照。
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奥さんの瀋潔さんは浙江省出身ですが、大学で知り合った周さんに大連をあちこち案内されたとか。そのときの移動の足はたいてい路面電車だったそうです。いまも自宅からこのカフェまで毎日通勤の足は路面電車。車窓から見える老房子を眺めながら、電車に乗るだけで大連の魅力が満喫できてしまうと思ったことから、このイラストマップ「大连漫游计划」(一部)や「大連老式電車の旅」の絵はがきをつくることを思いついたといいます。
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実は、奥さんの瀋潔さんは毛糸や皮の小物の手作り作家で、ノウハウ本の著書もあるという女性。このカフェには、そんなふたりの噂を聞きつけて、手作り創作と大連の魅力を教えてもらおうと全国からファンが集まるようになったといいます。
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周さんの話を聞きながらとても興味深いと思ったのは、1980年代生まれ(中国では「80后」世代といって、文革以前の古い社会主義中国を知らない新世代)の彼らが大連の日本家屋に対して親しみと懐かしさを感じているということでした。彼らは1990年代以降の「愛国主義教育」を最初に受けた世代ですが、そこで教え込まれた「歴史認識」をするりとスルーして、日本時代の建築に自らの幼少期の舞台としてノスタルジーを感じていることです。彼らにとって日本家屋は自分たちの大切な思い出なのです。

※中国の「80后」世代については、カテゴリ「アニメと「80后」の微妙な関係」を参照。
http://inbound.exblog.jp/i13

もっとも、いまとなってはわずかに現存するにすぎない大連の日本家屋は、いわゆる内地の家屋とは違い、当時は最先端の文化住宅だったはずです。なにしろ水洗トイレやお風呂も普通に備わっていたのです。大連で幼少期を過ごした年配の方が、日本に引き上げてきてからいちばん驚いたのは、「ボッチャントイレ」と「五右衛門風呂」だったと話していたことを思い出します。「大連の当時の生活環境に日本が追いついたのは、昭和50年代になってからではないか」。そう語る引き上げ世代の話を聞いたこともあります。つまり、大連の若い世代が懐かしく思っているのは、戦前期の日本にはまだ一般化していなかった昭和モダンの最新式住居が歳月とともに老朽化した姿だったといえます。

大連の若い世代の日本家屋に対する感覚は、大連育ちの日本の年配の皆さんと重なる部分とそうでない部分があるかもしれませんけれど、実はぼくのような戦後まれの「満洲3世」にとっても共感する部分が大きいといえます。それは大連との同時性を有していた日本の昭和モダンが持つフォルムの温かみや懐かしさを、高度経済成長期に重なる自らの成長とともに失ってしまったという想いであり、日中の経済発展のタイムラグによって同じ経験が後年外地でも生まれたのだという共時性を周さんに感じるからです。実際、ぼくが初めて大連を訪ねたのは1980年代半ばで、彼が生まれたばかりの頃でした。

だからでしょうか、ぼくは初対面の周さんと話がずいぶん合いました。なぜ彼が老房子の写真を撮りためようとしたか、その動機が手に取るように理解できたからです。そんな話を周さんにしたところ、彼も日本で刊行された大連の老房子の写真集や本を集めていると言いました。

ちなみに周さんは電車ファンでもあるそうです。実は、1990年代の薄熙来市長時代の大連では、それまで使っていた日本時代の老朽化した電車を新式車両に転換する際、あえて外観のデザインは日本時代の姿を残そうとしたそうです。それが大連市民のフィーリングに合ったからでしょう。その決定はいまも高く評価されていると聞きます。
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その車両は、時代を経て今日も残る日本時代の石造建造物との対比でみると、少し真新しすぎるように見えなくもないのですが、遠目のシルエットは当時と変わらないものです。それが旧満鉄関連のビルの前を走っていたりする姿がいまでも見られるのが、大連の風情となっています。そして、その路面電車は周さん夫妻たち、現在の大連市民の日常の足でもあるのです。

大連市民の間では、いまでも失脚した薄熙来の人気が高いようですが、こうした日本がらみのエピソードが穏やかに語られているのは、中国広しといえども、大連くらいではないでしょうか。

カフェ「瀋小姐の店」は、旧ロシア人街の最も奥まった場所の右手にあります。いまや新しい大連観光の情報発信地となっています。
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旧ロシア人街の建物はいまではあざとくペイントを塗り替えられ、テーマパークと化してしまいましたが(そういう意味では、もう情緒はありません)、カフェの窓の外には旧大連自然博物館が見えます。なぜかここだけは投資の対象からはずされ、かつて東清鉄道事務所や市役所にも使われた老房子の荒れ果てた姿は、ちょっぴり痛々しさを覚えます。
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●カフェ「瀋小姐の店」
住所:大連市西崗区団結街6号文化産業研究中心
http://site.douban.com/129650/


※現在の旧ロシア人街については――

ショック!? 大連「旧ロシア人街」の再開発が一気に進んでいた
http://inbound.exblog.jp/24019874/
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by sanyo-kansatu | 2014-11-19 18:35 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)