ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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カテゴリ:日本人が知らない21世紀の満洲( 77 )


2015年 01月 01日

明治の文豪も訪ねた満洲三大温泉はいま

日露戦争後、関東州と南満州鉄道附属地を手に入れた日本は、満鉄主導で現在の東北地方の開発を進めましたが、いかにも日本らしいと思うのが、各地に温泉を開発し、行楽地にしたことです。

なかでも有名だったのが、湯崗子温泉(鞍山)、熊岳城温泉(営口)、五龍背温泉(丹東)でした。当時は「満州三大温泉」と呼ばれていました。

これら満州の温泉を世に広めるのに一躍買ったのが、明治の文豪たちです。

最初の話題提供者は、『満韓ところどころ』を書いた夏目漱石。彼が訪ねたのは日露戦争後わずか 4年目( 1909(明治 42)年)で、満鉄沿線は開発途上でした。それでも、漱石は熊岳城温泉と湯崗子温泉を訪ねており、兵士の療養小屋に毛の生えた程度の温泉宿の様子を「すこぶる殺風景」と評しています。

時代は移って大正期に入ると、紀行作家として有名な田山花袋のベストセラー『温泉めぐり』や『満鮮の行楽』などの読み物の中に、満洲三大温泉の滞在記があります。花袋が訪ねた 1920年代になると、それぞれ洋風の温泉ホテルができていました。

「私達はビイルを飲んだり、湯に浸かったりして、そこに午後二時までいた」(熊岳城温泉)

「温泉場としては、内地では、とてもこれだけのものは何処にも求めることが出来なかった。日本風の室ではあったけれども、副室がついていて、半ばベランダのように椅子だの卓だのが並べてあるのも心地が好かった」「今までに嘗て見たことのない、箱根、塩原、伊香保、何処に行ったって、こうした設備の整ったところはないと思われる立派な浴槽」(湯崗子温泉)。

この時期、すでに満洲にモダンな温泉地ができていたことがわかります。

昭和に入ると、与謝野寛・晶子夫妻が湯崗子温泉を訪ね、こう書いています。

「鉄道の本線に沿って便利なために、在満の邦人が絶えず南北から来て浴遊し、ことに夏期には露西亜人や支那人の滞浴客もあって賑ふそうである」(『満蒙遊記』)。

夫妻が訪れたのは 1928(昭和 3)年。湯崗子温泉は日本国内の多くの温泉地より一足先に国際的なリゾートになっていたのです。

では、当時これほど栄えていた満洲三大温泉は現在、どうなっているのでしょうか。明治の文豪たちが訪ねた名温泉はいま……。

2010年5月、ぼくはこれらの温泉地を訪ねました。

まず湯崗子温泉。そこは温泉療養のための国際医療センターとなっていて、ロシア人が多く訪れていました。

その一角に龍宮城のような建物があり、そこはかつてラストエンペラー溥儀が滞在した温泉ホテル「対翠閣」を大幅改修したものでした。館内には、溥儀のために造られた豪華浴室「龍池」が残っていました。この浴室は対になっていて、皇后専用の浴室「鳳凰」も併設。料金を払えば誰でも個室風呂として利用できます。
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これが絢爛豪華な溥儀の個室風呂「龍池」です。
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対翠閣(現龍宮温泉)の前で記念撮影する溥儀夫妻(1932年3月8日)
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次に熊岳城温泉。戦前期に大連や満鉄沿線の人々が大衆的な行楽地としてレジャーを楽しんでいた熊岳城には有名な温泉ホテルがありました。

これが戦前期の温泉ホテルの絵はがきです。
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ところが、訪ねるのが1年遅かったのです。地元の人の話によると、09年頃に解体され、いまや高級温泉リゾートとして再開発されていました。
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リゾート内には日本式の露天風呂がいくつも造られていました。
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五龍背温泉も、大型の湯治療養施設がいくつもできていました。

幸い1936年に満鉄が造ったという露天風呂と湯小屋が残っていました。
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当時の温泉ホテルの建物は、現在は軍の施設内にあり、外国人は訪問できませんが、地元の友人に写真を撮って来てもらいました。昭和モダンの雰囲気が残っていました。
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満洲三大温泉の泉質は、硫黄や酸性泉などの刺激のある「火山性の温泉」ではなく、地熱で温泉が湧く「非火山性の温泉」です。どの温泉も、日本統治が終わると、日本的な行楽地というより、ソ連の影響を受けた湯治療養施設に転換していきます。

2000年代に入り、中国が豊かになってくると、日本風の温泉リゾートを開発する動きが各地に起こりました。その際、日本統治時代の老朽化した温泉ホテルの多くは姿を消してしまったのです。

満洲三大温泉を訪ねるには、大連からのアクセスが便利です。湯崗子温泉と熊岳城温泉は瀋陽と大連を結ぶ高速鉄道を途中下車。いまでは1時間もかかりません。五龍背温泉には、瀋陽からなら瀋丹線で途中下車。大連からだと、まず丹東までバスで行き(所要4時間)、そこからバスか鉄道に乗り継いで行けます。

●湯崗子温泉
湯崗子龍宮温泉
鞍山市湯崗子温泉旅游度暇区
http://www.tgz.com.cn/

●熊岳城温泉
天沐営口熊岳温泉度暇村
営口市経済技術開発区熊岳鎮温泉村鉄東街
http://www.youkecn.com/ts_list.asp?id=14700&classID=31

●五龍背温泉
五龍背鉄路療養院
丹東市五龍背鎮温泉路303号
http://www.wulongbeiwenquan.cn/

それぞれの温泉地の詳しいレポートはいずれまた。

【追記】(2017.3)
2015年12月に大連と丹東を結ぶ高速鉄道(丹大高鉄)が開通したことで、五龍背温泉へのアクセスが断然楽になりました。同都市間は所要2時間に短縮されたからです。

高速鉄道で大連から2時間! 日帰り可能になった中朝国境の町、丹東
http://inbound.exblog.jp/26451900/

ちなみに丹東市内に、日本式の温泉施設「江戸温泉城」があります。ここもすごく面白いスポットです。

北朝鮮の町並みが露天風呂から丸見え!?  丹東の「江戸温泉城」にて
http://inbound.exblog.jp/26446784/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-01 13:58 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 29日

延辺朝鮮族自治州60周年にできた延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係

延辺博物館は、2012年9月の延辺朝鮮族自治州創立60周年を記念してオープンした文化施設です。場所は、延吉市(中国吉林省)の市街地西部に位置する朝陽川空港の近くで、現在進められている大規模な新都市建設区域にあります。
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延辺博物館
http://www.ybbwg-china.org
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まるで平壌の人民文化宮か!? と見紛うばかりの朝鮮風の大講堂で、3階に分かれた展示コーナーでは、吉林省東南部にあたる延辺地方の歴史を扱っています。大きく3つに分けると、古代史、朝鮮族が入境して以降の近現代史、そしてお約束の抗日プロパガンダ史です。

まず2階の近現代史のコーナーですが、かつて間島と呼ばれたこの地に朝鮮族が大挙して入境した19世紀後半以降の歴史や独自の民俗文化、生活習俗などを、実物大蝋人形を多用しながら、わかりやすく展示しています。
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最近新設される中国の博物館はどこも蝋人形だらけということにお気づきの人もいるでしょう。こんな子供だましみたいな展示には価値がない。そう思われる人も多いかもしれませんが、ぼくはそんなに嫌いではありません。カラフルな衣装を身に付けた朝鮮族たちが遊び戯れる姿は、それが史実にどれだけ合うかどうかはともかく、とっつきやすいし、見ていて楽しいものです。
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朝鮮文化の根幹にかかわる「族譜」や伝統的な儒教道徳に関する展示品なども置かれています。
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この地に稲作を根付かせた農耕に関する展示も。
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なにしろ中国で最もふっくらおいしいお米がとれるといわれる延辺です。いまでも延辺では人の手で田植えをする姿が見られるのですが、実際には農民の大半は漢族といわれています。

さて、延辺博物館の評価をどう考えるかですが、そもそも朝鮮族を主人公にしたわずか100年そこそこの近現代史を語ろうとしても、価値のある展示物をあれこれ探し出すこと自体にそもそも無理があったというべきかもしれません。そこで蝋人形を使って朝鮮族の民俗風習を描こうとするのは、ある意味仕方がないのでしょう。でも、当の朝鮮族の人たちはこの展示をどう思っているのでしょうか。

この博物館を案内してくれたのは、日本留学経験もある30代の朝鮮族の姜さん(男性)でしたが、彼はここにぼくを連れてくるのはあまり気乗りがしないようでした。特に、抗日プロパガンダ史のコーナーの前では「ここは見なくていいですよね」とスル―しようとしたので、「まあそう言わず」と入ってみたのですが、見せるべき展示品が少ないせいか、相変わらずおどろおどろしい写真で埋め尽くされていました。
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このコーナーの見せどころは、雪原で戦う抗日義勇兵の蝋人形の展示でしょうか。
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それでも、朝鮮族が最初に開拓した20世紀初頭の龍井のまちを蝋人形を使った展示では、背景のスクリーン画像に当時の間島日本領事館らしき建物が写っていて印象的でした。
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中国東北地方には土地柄、この手のプロパガンダ施設は山ほどあります。これは朝鮮族には限りませんが、友好的な中国人の多くは、日本人にはこの手の場所はなるべく足早に立ち去らせようとするところがあります。なぜって、こんなに生々しく陰惨な展示を見終わったあと、お互い何事もなかったかのようにふるまうのは難しいのが人情だからです。

特に朝鮮族の場合、中国国民として日本を悪者に仕立てるのは仕方がないとしても、共産党の治世が70年近く続くなか、漢族だってずいぶん我々にひどいことをしたじゃないか。そういう気持ちを内心に秘めていると感じることがあります。

さらに、前述した近現代史の展示を見ていて、いまさらながら感じるのは、漢族のまなざしは明らかに朝鮮族を少数民族という下位民族とみなしていることです。雲南省あたりの少数民族と同様に、蝋人形の展示でお茶をにごされている、という言い方だってできるでしょう。
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実際延辺の歴史なんてそんなところじゃないかという話はありますが、自尊心の強い朝鮮族の人たちにとって、これは内心屈辱的なことではないでしょうか。現在、延辺朝鮮族自治州に住む朝鮮族の比率が3割にまで低下している背景にも、この地と自らの来歴に自信が持てないこと、すなはち民族的、歴史的にみて誇れるものを博物館に展示することができない彼らの無力感があるように思います。

さらに、朝鮮族に複雑な思いを引き起こさせるものに、3階の石器時代から始まる古代史のコーナーがあります。ここは撮影NGでした。理由は、7世紀末にこの地に君臨した渤海の遺跡から発掘された文物の展示と関係があります。

実は、延辺地方で発掘された渤海の重要な文物の多くは撤去されていたからです。そのほとんどは吉林省の省都である長春の博物館に持っていかれたのだろうということです。同じことは黒龍江省でも見られました(→奈良・平安時代に日本と交流していた渤海国の都城跡(上京龍泉府遺址)http://inbound.exblog.jp/23955554/)が、それを物語るように、渤海の展示スペースには、空のガラスケースと解説パネルだけが残っていました。

「こういう姿をお見せするのは恥ずかしいことです」と彼は言いましたが、これも渤海が中国の「地方政権」であると主張する政府の意向によるものだと考えられます。「地方政権」である以上、貴重な文物は地方ではなく、省都にある上位の博物館に展示するべきである!? でも、本当は同族である韓国人が多く訪れる延辺の地に、彼らの歴史論争に火をつけかねない文物を置いておきたくないということではないでしょうか。

実際、延辺にあるふたつの渤海遺跡(西古城、八連城)は、現在フェンスで囲まれ、外国人の訪問が許されていません。

渤海国の遺跡を隠したいのは誰だ?
http://inbound.exblog.jp/23955813/

ぼくはこれらの展示をみて、これまで述べたようなことも含め、朝鮮族の彼が館内を案内するのを気乗りしなかった理由、すなはち延辺博物館と朝鮮族の冷めた関係をあらためて理解したのでした。この博物館の名称をめぐって、オープン前の12年当時論争があったそうですが、地元が主張する「中国朝鮮族博物館」という名称は却下され、現在の名称になったそうです。当局は民族名を残したくなかったということでしょうか。

さて、近現代史のコーナーの最後には、これもお約束ともいうべき躍進する延辺経済を標榜する展示がありました。現在着工中の高速鉄道がついには長春から琿春まで延伸されるといいます。これまで夜行列車を使っていた延辺と長春の移動がわずか3時間でつながるわけです。
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この写真の人物は、以前の自治州長です。延辺自治州政府のサイトによると、現在の州長は李景浩という人です。
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延辺朝鮮族自治州政府
http://www.yanbian.gov.cn/

今年7月延辺に来て、延吉市の郊外のインフラ開発がすごい勢いで進んでいることを実感しました。仁川経由のフライトで現地入りしたのですが、着陸前の眼下に広がる市の西方の巨大なマンション建設群がそれです。これは延辺大学などがある旧市街から西へ10数km離れた場所で、まったく新しい都市が生まれようとしているように見えました。
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これは延吉市に限ったことではなく、多くの中国の地方都市で旧市街から離れた場所に新都市(新区)開発が進められています。そこには無数のマンションが林立しており、豪奢な市庁舎はいち早くそちらに移っているようです。

こういう中国式ニュータウンの生成を見るにつけ、いつも思うことがあります。いったいこれは誰のためのニュータウンなのだろうか。それとも、意地悪く言えば、これが世にいう地方政府の債務増大を象徴する光景ということなのか。

中国の地方開発はどこでもこんな感じです(まちづくりの観念は欠落。不動産販売が優先)
http://inbound.exblog.jp/20618946/

はたしてこれから延辺はどう変わっていくのでしょうか。これからも見届けていくことしたいと思います。

ちょっと古い情報ですが、この地域の概要をつかみたければ、ジェトロの発行している「延辺朝鮮族自治州概況」(JETRO2012年 5月 )が参考になります。
https://www.jetro.go.jp/world/asia/cn/tohoku/pdf/overview_yanbian_201205.pdf
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by sanyo-kansatu | 2014-12-29 11:33 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 28日

日本人と鏡泊湖のいにしえの縁と忘却と

鏡泊湖を訪ねた帰り際、公園内の土産物店に入ったところ、こんなポスターが貼られていました。どうやらこの湖で捕れる鯉や鮒は有名なようです。

中国「五線」級地方都市のレジャーはこんな感じ?(黒龍江省鏡泊湖)
http://inbound.exblog.jp/23936094/
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実は、満洲国時代、鏡泊湖が鮒の産地であることは知られていました。当時発行されていたグラビア誌「満洲グラフ」1939(昭和14)年8月号の「水幽邃の別天地 鏡泊湖」という特集では、こう書かれています。

「東満牡丹江省西南の一劃、寧安縣を南北に細長くくぎった琵琶湖の半分程の湖がある。床しいその名は鏡泊湖。(中略)この鏡泊湖一帯の地に、粛慎と呼ばれる民族が勢力をふるっていたが、やがてその衰微と共に、高句麗の建国を見、間もなく北満一帯を風塵してしまった。湖畔の南湖頭には高句麗城址と云われる遺跡が、今尚風に吹かれて曾つての姿をのこしている。高句麗に代って、渤海国が興ってからは、首都を湖の東北東京城に定めた。この時代には、湖水の鳥貝からとれた真珠や、鮒などが貢物として重用されたと云われるから、恐らく當時の鏡泊湖には遊客の往来も繁く、幾多の船舶が湖上を輻輳したことであろう」

当時の日本人は鏡泊湖を古代史の舞台として眺めていたようです。なにしろ奈良・平安時代の日本と交易をしていた渤海の支配する地域だったからです。満洲国建国に際し、日本とこの地の歴史的関係を引き寄せて語ることにはそれなりの意味、つまり統治の正当化があったと思われます。

さらに、「満洲グラフ」1941(昭和16)年1月号では、再度鏡泊湖特集を企画していて、こんなことが書かれています。

「鏡泊湖は国立公園の有力候補である。湖面をゆけば原始林に蔽われた翠密の屏風美しい島、満洲ラインの名にそむかぬ絶妙な景観の變化、百花繚乱の山野、数千羽の鵜が、群棲する奇峰、碧空に舞ふ丹頂鶴や五位鷲、瀑布、尺餘の魚類の漁獲、鏡泊湖水力電気發電所、鏡泊学園村、秋田魚農開拓民等々、観光に産業に満洲の誇るべき一つである」

満洲国建国から約10年。北満開拓は当時最も注目された事業のひとつであり、その地を広く国民に知らしめる必要から「満洲グラフ」はこの特集を組んだものと考えられます。単なる風光明媚の地としてだけでなく、豊かな水利を活用した水力発電開発や北満開拓のための人材育成機関として1933年に開校された鏡泊学園(資料によると匪賊の襲撃や財政難で35年には解散したものの、有志がこの地に残って活動を続けていたようです)など、当時の日本人は鏡泊湖のことをそこそこ知っていたのです。国立公園の候補だったというのですから。

でも、もうそんなことは誰もがすっかり忘却してしまいました。

中国のローカルな行楽地としての鏡泊湖の現在の姿を、こうした日本人とのいにしえの縁と忘却という現実をふまえて眺めていると、まあこれはこれでとにかく平和でのどかなことはいいことだ。そう思うほかありません。
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土産物店では、なぜかロシアのマトリョーシカも売っていました。なにしろここは黒龍江省。ロシアに接している土地ですから。メイド・イン・チャイナなんですけどね。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-28 12:23 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 28日

中国「四線」級地方都市のレジャーはこんな感じ?(黒龍江省鏡泊湖)

昨日、黒龍江省牡丹江市の夏の夜の風情をブログに書きましたけれど、こういう中国の「四線」級地方都市に暮らす人たちはどんなレジャーを楽しんでいるのでしょうか。

中国「四線」級地方都市の夏の風物詩、広場に繰り出す若者たち(黒龍江省牡丹江市)
http://inbound.exblog.jp/23931622/

牡丹江に近い、黒龍江省有数の行楽地のひとつである鏡泊湖は、そうしたテーマを考えるうえで格好の観光スポットかもしれません。今年7月、鏡泊湖を訪ねているのでレポートしたいと思います。

鏡泊湖は、牡丹江市の南東100km先に広がる細長い湖で、1万年前の噴火によって牡丹江が遮られたことでできたといわれる火山湖です。長さ45km、最大幅6km。面積は琵琶湖の半分ほど。中国国内では北方の避暑地としてそれなりに知られ、夏季には多くの観光客が訪れます。

見どころは湖の北側にある吊水瀑布。増水した湖水が牡丹江の支流である滝つぼに一気に流れ落ちる様には清々しさがあります(冬季は氷結します)。
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入場料80元を支払い(けっこう高いですね)、入場門をくぐると、機関車型のカートが待っていますが(これ、上海の南京路などにもよくあるやつです)、吊水瀑布までは徒歩5分の距離なので、無視して進みます。
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しばらくすると吊水瀑布が見えてきます。ずいぶんな人だかりです。何だろう。
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滝の方向をよく見ると、ひとりの男性が岩をよじ登っています。上半身裸で水着姿のようです。
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そして、滝の上を歩き出しました。なぜか彼は肩にカバンをかけています。
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それからどうなったのか……。そうなんです。彼は滝つぼに飛び込んだのです。

鏡泊湖の飛び込み名人(動画)
※ただし、慌ててコンデジで彼の飛び降りる様を撮ろうとしたため、横組の映像となってしまいました。所詮おとぼけ映像ということで、お許しください。
http://youtu.be/CVYdzSTOtJI

「鏡泊湖の飛び込み名人」こと、狄煥然さんは牡丹江出身。10年前からこの飛び込みパフォーマンスをやっているそうです。1日10時と14時の2回。ちょうどぼくは午後の回に出くわしたのでした。

彼は地元の有名人らしく、こんなカッコいいポスターまでできています。
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こちらはもっとすごいですよ。滝の水が氷結した真冬の滝つぼに果敢に飛び込んでいます。「最美冰雪行 冰瀑跳水」。だいたい意味はわかりますね。
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彼はテレビにも出演しています。これもポスターですが、よく見てください。狄煥然さんの隣にいる女性は、確か1990年代にテレビ朝日の『トゥナイト』に出演していた中国人美女レポーターの朱迅さんではありませんか。面白いので、Wikipediaをみてみると、99年に帰国して中国でアナウンサーとして活躍している彼女について、こんなことが書かれていました。
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「外国語に堪能で才色兼備なキャスターとしての高い評価を得る一方、日本時代にお色気色の強い番組である『トゥナイト2』や、援助交際を含むコギャル文化を描いた映画『バウンズkoGALS』に出演していたことは、中国で今なお否定的にとらえる向きもある」

彼女も帰国してからいろいろご苦労があったようですね。そんな彼女とこんなところで再会できるとは。しかし、彼女のレポートする番組に狄煥然さんが出演しているということは、彼もそこそこ全国区の人だったりして。「中国ビックリ人間大集合」的な意味ですけれど。

さて、いよいよご本人にご登場いただきましょう。
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どこにでもいるようなふつうのおじさんですが、これから先、何年この荒業にチャレンジするのか。さぞかしご家族は心配しているのでは。
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それでも、彼はみんなから記念撮影を頼まれる人気者です。

それにしても、こういう人物、そして彼を取り巻くこういう感じ、なんといえばいいのでしょう。これぞ「四線」級ならではのレジャー・ワールドとでもいえばいいのか。

別に小バカにしているつもりはないですよ。日本にだって狄煥然さんみたいな人、いるわけだし、全国区とはいえない地方の観光地に行けば、これに近い微妙なイベントも、ふつうにあるわけですから。

目の前で起きている状況は決してイケてるとは思えないものの、それをぶち壊すのはいくらなんでも傲慢で、だからそういう行き場のない思いを胸に秘めたまま、周囲の皆さん、それはおじいちゃんやおばあちゃん、お子様だったりするわけですが、彼らの微笑に合わせて、状況に身を任せるしかない。でも、できればなるべく足早にこの場を離れたい……。

でも、それが本来の「レジャー」ってものでしょう。昨日アップした牡丹江の夜の広場でダンスをしていた若者たちの地元に対する思いも、きっとそういうのに近いのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、有料のミニバスに乗って鏡泊湖に向かうことにしました。人は誰しも、状況に身を任せるしかないのです。
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鏡泊湖では遊覧ボートが何艘も停泊していました。今年の夏の東北地方は雨が少なかったせいか、湖水がかなり減少しているようで、乗船客はほとんどいないようでした。それにしても、こんなに湖水が少なくて、この先行楽地として大丈夫なのかしら……。

鏡泊湖に行くには、牡丹江駅前の光華バスターミナルから「東京城」行きバスで終点下車。そこから「镜泊湖」行きバスに乗換、終点下車。所要2時間30分が目安です。タクシーなら片道300元、所要1時間半が目安。牡丹江駅前の旅行会社が催行するお得な日帰りツアーに参加すると、ローカルの中国客と一緒にほのぼのレジャー体験を満喫できるでしょう。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-28 12:08 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 27日

中国「四線」級地方都市の夏の風物詩、広場に繰り出す若者たち(黒龍江省牡丹江市)

北満に位置していますから、冬は寒冷で長く、夏は短い。今年7月中国黒龍江省の牡丹江を訪ねたとき、夏の夜を楽しむ市民が広場に繰り出していました。
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牡丹江の市街地は鉄道駅の南を中心に形成され、メインストリートは駅から牡丹江(河川)まで延びる太平路。平安街と交差する場所に文化広場があり、その周辺が繁華街です。
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太平路と平行して駅から南に至る東条路は歩行者天国で、夜は屋台が出ます。
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ぼくはこういう中国の地方都市の夜の街をふらつくのが案外好きです。
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広場には大型ビジョンの映像が流れています。水着モデル大会の告知のようです。
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さすがは中国。偽マックが堂々と営業しています。
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「魚疗馆」というのは、魚が足の角質などを食べてくれるフィッシュマッサージのことです。こういうの、彼らは好きですね。
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高級宝飾店も営業しています。電光掲示板には、宝飾品の投資価値や運勢のことなど、いろいろ謳っています。

見ていて飽きなかったのは、広場でダンスに興じる地元の若者たちの姿でした。都会に憧れる地方都市生まれの若者たち。日本の1970年代にタイムスリップしたような気がします。
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踊る牡丹江の若者たち(動画)
http://youtu.be/qULxHVwJDcI

ところで、中国では国内都市を経済発展レベルで5つのランクに分けて「○線都市」などと呼ぶことがあります。「一線都市」は、中国を代表する北京市、上海市、広州市、天津市、深圳市。「二線都市」は省都や沿海都市など。「三線都市」は「二線」に次いで経済規模が大きい地方都市です。

東北三省では、瀋陽市(遼寧省)、大連市(遼寧省)、長春市(吉林省)、ハルビン市(黒龍江省)が「二線都市」、鞍山市(遼寧省)、吉林市(吉林省)、大慶市(黒龍江省)などが「三線都市」ですから、牡丹江は「四線都市」あたりではないかと思われます。まあ片田舎の地方都市ということです。

「四線都市」といってもバカにできないのは、今回宿泊したホテル(金鼎国際大酒店)も悪くはないことです。人口だって90万人。日本の地方都市に比べれば、決して小さくはない。ハード優先には違いありませんが、地方都市の想像以上の発展ぶりを多くの日本人は理解していないといえるかもしれません。
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それに、こういう地方都市の普通の人たち(中国では「老百姓」といいます)の暮らしぶりこそ、いまの中国を表象しているといえるのではないか、と思うのです。

2011年、東京で開催された中国インディペンデント映画祭の上映作品『花嫁(新娘)』(2009)は、四川省巫山県という長江中流域の地方都市に暮らす4人の中年男の物語です。

花嫁(新娘)
http://cifft.net/2011/xn.htm

※『花嫁(新娘)』のストーリーについては以下参照。
さえない中年男たちのドタバタ劇だが、身につまされる?(中国インディペンデント映画祭2011 その10)
http://inbound.exblog.jp/20052959/

『花嫁(新娘)』の章明監督は、同映画祭のインタビューで次のように語っています。

「私の作品の特徴は、登場人物に語らせるというスタイルであることです。『花嫁(新娘)』の場合も、地方の小都市に住む人々の生活やモノの見方、態度を描いています。彼らこそ中国の一般大衆です。中国の人々の大部分は大都市ではなく地方の小さな町に住んでいるのです」

誰もが知る首都北京や上海を舞台にした作品ではなく、地方都市に生きる人たちこそ、中国の一般大衆であり、彼らの姿を描くことに意味があるというのが、章明監督の考えというわけです。

前述の牡丹江の若者のダンス動画などを見ていると、その意見にぼくも強く同意したくなります。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-27 10:18 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 27日

牡丹江に残る満鉄社宅、再開発による撤収は間近か

牡丹江は中国黒龍江省南東部を代表する人口90万人ほどの都市で、ロシア国境の町・綏芬河や延辺朝鮮族自治州の延吉、北部の鶏西方面などへ向かう鉄道の乗継の基点です。1000年以上前にこの地に栄え、日本との交易の歴史もあった渤海の王都のひとつ、上京龍泉府遺址が近くにあることで知られています。

このまちの都市建設は20世紀初頭の東清鉄道の敷設に始まります。ロシアがハルビンからポグラニチヌイ(綏芬河)までの鉄道建設を着手した際、その沿線を流れる牡丹江(満洲語で「曲がった川」を意味する「ムーダンウラ」の漢語読み)を駅名にしたことが由来です。

もっとも、都市の基礎は日本統治時代に造られました。満州国時代は北満開発の中心地となり、多くの日本人が移り住んでいました。なかにし礼の小説『赤い月』は日本の終戦前夜の牡丹江が舞台のひとつとなっています。1945年8月9日のソ連軍の侵攻により、多くの日本人がこの地で亡くなっています。

牡丹江駅の南西部に、現在も満鉄社宅が残っています。場所は「天安路」です。大連にも多くの日本家屋や満鉄の社宅が残っていますが、同様に家屋の老朽化が進み、住人はほとんどいないようです。
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実は、ぼくの祖父も、同年7月の民間人に対する強制的な徴兵によって牡丹江の部隊に配属され、牡丹江郊外の液河であっけなく戦死しています。

そうしたことから、ぼくは何度か慰霊のためにこの地を訪れています。黒龍江省の一地方都市ということで、10年前くらいまでは中国の目覚しい発展ぶりからは取り残されていた印象がありましたが、今回久しぶりに訪ねて、市街地の周辺に林立する高層マンションラッシュを目にし、ついに不動産開発の波がこうした辺境地域にまで及んでいることを実感しました。
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この豪奢なビルは牡丹江市の新市庁舎です。中国の地方都市は、どこでもこういう状況で、正直なところ、危なかしくってたまらない気がします。

牡丹江に残る満鉄社宅も、再開発による撤収は間近のようです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-27 08:42 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 25日

大連の中山広場の歴史と地下鉄開通の報

大連の中山広場は、ロシアがこの地を租借した20世紀初頭、最初につくった直径213mの美しいサークル型の広場で、「ニコラヤフ広場」と呼ばれていました。
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このサークルを中心に放射状に通りが延びるという、19世紀のパリの都市計画を意識した最先端の都市構造が大連に生まれたのは、日本というよりロシアの植民者たちの企図したものではありましたが、その後、日本の手により広場の周辺には10棟の特徴ある欧風建築が建ち並びました。日本統治時代は「大広場」と呼ばれていました。

実際、アジア広しといえども、このように広場と通りが連結し、都市全体が広がっていくようなスケール感を持ったまちづくりは(身近なところでは、田園調布がそうかもしれませんが)大連くらいしか思いつきません。

これが戦前期の大広場の写真です。
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周辺には、大連ヤマトホテルや横浜正金銀行、大連市警察署、大連市庁舎などの重要建築が建てられ、そのほとんどが現存しています。
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中山広場はなんといっても、頭上から眺めたときの美しさが印象的です。

特に夕暮れ時の中山広場は、息を呑むような光景です。この写真は2006年9月に撮影したものです。撮影場所は、現在の中国銀行大連支店(旧横浜正金銀行)の裏手にある高層ビルの屋上階にあったバーの展望台でした(最初の1枚も同じ場所から少し明るい時間帯に撮ったもの)。
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ところが、08年に訪ねたときには、このバーは営業をやめていました。それが直接の理由かどうかわかりませんが、この頃から徐々に大連でも地下鉄工事が始まり、中山広場の周辺はフェンスで覆われ、隠されてしまったからです。

大連の地下鉄工事は、予想以上に難航し、時間がかかったようです。

それでも、今年7月に訪れたときには、再び中山広場は姿を見せてくれました。地下鉄工事の完了にともない、元通りの広場に戻っていたのです。

そこでぼくは、再び中山広場を頭上から撮影できる絶景スポットを探すことにしました。

現地の旅行会社の皆さんに聞いたところ、ふたつの高層ホテルが候補に上がりました。

ひとつがインターコンチネンタルホテル大連です。

場所は中山広場より大連駅に近い友好広場に面しています。さっそく、同ホテルの関係者を訪ね、中山広場が見える客室に通してもらいました。

これがその写真です。2006年の撮影場所とはほぼ反対側からなので、大連港まで延びる人民路や大連湾まで見渡せます。人民路沿いには高層ビルがいくつも並んでいます。
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これがインターコンチネンタルホテル大連の外観です。
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同ホテルが提供してくれた夜景の写真です。おそらく大連で最も美しい夜景の見られるホテルといってもいいでしょう。
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もうひとつが2013年12月にオープンしたアロフト大連です。場所は、中山広場から延びる魯迅路に面しており、インターコンチネンタルとは逆向きから広場を見ることができます。ヤマトホテルの裏から眺める中山広場というのも、面白いです。
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アロフト大連は、スターウッドグループのヤングエグゼクティブ向けのファッショナブルなブランドで、今回一泊したのですが、大連一スタイリッシュなホテルといえそうです。
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フロントからロビーの待合室、各フロアの廊下、そして当然客室も、都会的なセンスであふれています。どちらも外資系の高層ホテルですが、この手のホテルが大連にもお目見えする時代になったのですね。

さて、ロシアによる美しい都市計画の名残を感じさせる中山広場ですが、その後都市建設のあとを継いだ当時の日本人は何を考えていたのでしょうか。明治以降、西洋から学んだあらゆる思想や技量をすべてこの地に注ぎ込もうと懸命になっていたに違いありません。

もっとも、日本もロシアもヨーロッパから採り入れた最先端をこの地に再現しようとしたという意味で、どこか背伸びしたところは似ていたのではないか、という気もします。

来年には大連で地下鉄が開通するそうです。
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1号線は高速鉄道が発着する大連北駅から星海広場あたりまで。2号線は大連港(東港)から中山広場、人民広場、大連空港を通り、大連北駅につなぐ路線のようです。



※2015年5月22日についに地下鉄が開通しました。運行している路線はまだ一部ですが、空港から市内へは行けます。

大連の地下鉄開通で市内のホテルに楽々直行できるようになりました
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by sanyo-kansatu | 2014-12-25 14:22 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 25日

現存するヤマトホテルのすべて

中国東北地方には、20世紀初頭に始まった日本統治時代に建設されたクラシックホテルが多数現存しています。その代表格が満鉄ホテルチェーンです。
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最初に開業したのが、1907(明治40)年の大連ヤマトホテルです。大連市中心部に位置する中山広場の南側正面にいまも独特の存在感を見せる石造5階建てのルネサンス式建築のホテルですが、実は大連ヤマトホテルとしては3代目で、清水組(現清水建設)が竣工し、14年に開業したものです。
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初代はロシアが造った東清鉄道の建物を借用したものでした。
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2代目は、09年に旧ロシア市役所を別館として開業したもので、日本統治時代は満蒙資源館として、また新中国時代は長く大連市自然博物館として使われていた建物です。ロシア人街のいちばん奥正面に現存していますが、現在は廃墟同然の姿をさらしています。
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実は、09年に満洲を訪れた夏目漱石はここに宿泊しています。その記録は『満韓ところどころ』という彼の直截かつ辛辣な大陸紀行に残されています。

大連にはこれ以外に3つのヤマトホテルがありました。ひとつは、大連郊外の海浜景勝地に10年に開業した大連星が浦ヤマトホテルです。当時の日本ではまだ海水浴というレジャーが鎌倉などの外国人居留地を除き一般化していなかったことを思うと、いかに先進的な存在であったかわかります。
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いまは亡き祖母が大連で洋品店を営んでいた叔父を訪ねたときに、星が浦海岸で遊んだ話をうれしそうにしてくれたことがあります。時代は1940年頃のことですから、すでに周辺はこの絵はがきの写真のように、今日の日本ではもう見られない戦前期特有の優雅で落ち着いた海浜リゾート地だったことでしょう。
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一方、これが現在の星が浦(現・星海)海岸です。残念ながら、星が浦ヤマトホテルは現存していません。
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もうひとつが、旅順ヤマトホテルで08年に開業しています。ここには前述の夏目漱石も泊まっていますし、のちに川島芳子が結婚式を挙げています。
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これが現在の姿で、軍の招待所(「81067部隊招待所」)として使われています。

[追記]
2015年2月上旬に旅順を訪ねた知り合いの話によると、同招待所はすでに閉業しており、いずれ取り壊しされるという貼り紙が書かれていたそうです。残念ですね。(2015.2.21)
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あまり知られていない3つ目が、18年に開業した旅順黄金台ヤマトホテルです。旅順東南部の黄金山と呼ばれる景勝地に位置しているのですが、現在は軍区の中で一般人は立ち入り禁止のため、その地を訪れることは基本的にできません。
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2010年、いまは亡き友人の桶本悟氏が、当局の許可を取っていまは廃墟となっている同ホテルの跡地を訪ねています。これがそのときの写真ですが、荒れ放題で放置されていたものの、「大和旅館」のプレートが残っていたそうです。

さて、場所をかえて瀋陽の奉天ヤマトホテルです。当初、東京駅を模した赤レンガ造りの奉天駅(現瀋陽駅)の一部をステーションホテルとして10年に開業させたものでした。
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現在も大広場(現・中山広場)に堂々たる威容で立っているのが、29(昭和4)年に再開業した現・遼寧賓館です。
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08年開業の長春ヤマトホテル(満州国建国後は新京ヤマトホテルに改称)は、当時最先端のセセッション(アールヌーボー)様式の設計スタイルを採用していました。
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現在は、大部分が改修されてしまいましたが、春誼賓館として長春駅前で営業を続けています。
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ハルビンヤマトホテルも現存しています。このホテルの出自は東清鉄道の施設ですが、時代と共に所有者が移り、満洲国時代は「ハルビン大和旅館」でした。現在は、龍門大廈と呼ばれています。
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当時ヤマトホテルは、満州国各地にあったのですが、現在ではそのほとんどが再開発によって消失してしまいました。現存しているのは、大連・瀋陽・長春・ハルビンという中国東北地方の四大主要都市に建てられた都市のランドマークとして貴重な記念碑的作品だけだと思っていました。

ところが、唯一それ以外に現存しているヤマトホテルがあることを知ったのは、2012年北朝鮮の羅先を訪ねたときのことでした。羅津ヤマトホテルです。なぜこの地にヤマトホテルがあったかというと、当時「北鮮」と呼ばれた鏡咸北道は、満鉄の管轄内にあったためだと思われます。これまで紹介したものに比べると、歴史的重厚感には欠けますが、ロビーや客室、食堂の雰囲気はそれなりにヤマトホテルらしさを残していました。
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これら満鉄が経営したヤマトホテルは、日本の内地のシティホテルと比べても遜色がないばかりか、当時の最新式の設備を誇っていました。近年の中国の経済発展による新しい都市施設の増殖の中で、老朽化が目につくのは致し方がないことですが、20世紀初頭のモダニズム空間の魅力は異彩を放つことはあっても、色褪せることはありません。これから先も大事に使い続けてほしいものです。

今回紹介したそれぞれのホテルの内部の撮影はすべて行っています。後日あらためて。

大連ヤマトホテルの現在
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by sanyo-kansatu | 2014-12-25 11:55 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 23日

ショック!? あの『ラストエンペラー』に出てくる大連港の名所がなくなってしまった

今年7月、大連を訪ねたとき、いちばんびっくりしたのは、大連港埠頭待合所の表玄関が姿を消していたことでした。
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これが「満鉄グラフ」(1935年10月号)の大連・ハルビン開通記念特集のグラビアに登場する埠頭ビルです。

同特集によると、この年の9月1日から大連・ハルビン間(941.6km)が「超特急アジア」によって結ばれたとこう書かれています。

「九月一日の午前九時、大連・ハルビンの両驛から發車した満鐵の流線型国際超特急アジアは、その夜十時三十分、一分一秒の誤差もなく、青磁グリーンに塗られた颯爽たる雄姿を両驛のフォームに現はしたのである」

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そして、こちらが現在の姿です。ぼくは思わず「あっ」と声を出し、その場で溜息をもらしてしまいました。

なにしろここは、戦前期を象徴する大連の顔としての歴史的な場であることはもちろんですし、ぼくにとっても、公開当時夢中になった映画「ラストエンペラー」(1987)で、溥儀と家庭教師レジナルド・ジョンストンの別れのシーンにも使われた有名なスポットだったからです。

映画「ラストエンペラー」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg

簡単に大連港の歴史を振り返ってみましょう。

大連港は1898年、ロシア帝国が清から租借後、東清鉄道を大連まで延伸し、1902年に開港したものです。その後、日露戦争に勝利した日本が05年に租借地(関東州)としました。その年、大阪商船による日満連絡船(大阪・大連航路)が開設しています。
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待合所(正確には「大連港第2埠頭船客待合所」)が竣工されたのは24年。当時は1階に鉄道のプラットフォームが接続されており、鉄道に乗り換えることができたようです。また路面電車も通っており、市内に向かうことができました。
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ぼくも何度かこの待合所に入ったことがありますが、5000人の収容能力があったという長い通路に立つと、大陸の玄関口としての歴史の舞台を想起させるスケール感を強く感じました。

戦前期の大連のランドマークだった半円形の玄関口は26年に竣工されたもので、実は1970年代に、この写真のような味気のないビルに改装されていました。ですから、もともと魅力は半減していたといえるのですが、首から顔を切り落とされてしまったようないまの無残な姿からは、もうここが大連港にとって重要な場所ではないことをはっきり宣告されたようで、残念に思わずはいられませんでした。
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待合所の向かいの重厚な建築物は、旧満鉄大連埠頭事務所ビル。26年竣工です。こちらはまだ残っていますが、かつての大連の象徴的な空間が、丸ごとぬけ殻のように、さらにいえば無用の長物でもあるかのように茫漠と広がっている光景にも唖然とするほかないのです。
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よく見ると、路面電車の線路跡が残っていました。
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2012年7月にここを訪ねたときには何も変化はなかったことを記憶しているので、それ以後再開発されてしまったのだと思い、大連の知人に確認したところ、13年3月から改修工事が始まり、7月には現在の姿になったそうです。

ところで、大連港はこれからどのように再開発されていくのでしょうか。

現在、大連港の旅客船航路は、天津や煙台、威海など山東半島各地や大連の沖合に浮かぶ長海県の島々、そして韓国の仁川港へのフェリー航路などがあります。

これはいまに始まった話ではありませんが、大連港は旅客輸送よりも圧倒的に物流の拠点としての位置付けが大きいわけです。つまり、大連経済開発区に近い新港(旅客船の利用する旧港の北側に位置しています)の重要性のほうがはるかに上なのです。
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この写真は大連市の中心部の高層ビルから撮ったもので、左上に見える埠頭が新港です。

結果的に、この旧港の跡地は観光地として再開発されることになるようです。すでに兆しは見えます。たとえば、旧埠頭待合所の並びに誕生した「15庫」と呼ばれるファッションビルです。日本統治時代の大連港の倉庫群を改装した、いわば横浜赤レンガ倉庫の大連版です。
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4階建てのビルの中には、こじゃれたショップやカフェ、レストランが入店しています。
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港側に面したテラスには大連港を一望にできるカフェが並んでいます。
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夜も悪くありません。周辺の高層ビルの明かりも港に映えてきれいです。そういえば、薄熙来の大連市長時代、「大連は北方の香港」と称されていたことを思い出しました。当時はぴんときませんでしたが、この都市の為政者たちはまんざらそれがただの夢とは思っていないのかもしれません。
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入店しているショップも大連としては斬新で、北京によくある個性的な書籍や雑誌のみをセレクトしたブックショップ「回声書店」は面白いので、訪ねてみるといいでしょう。書棚に並ぶ本の種類が新華書店とはずいぶん違います。

15庫
大連市中山区港湾広場港湾街1号
http://www.weibo.com/15cool

さらに、大連港の南側にはヒルトンやコンラッドといった外資系のファイブスターホテルができていますし(ともに12年開業)、13年の夏季ダボス会議の会場として使われた国際会議センターは、この写真のように、いまの(いや、少し前の?)中国を象徴するようなスペクタクルなデザイン建築となっています。
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現在、この地区は東港(旧港)と呼ばれています。はたして大連港はどんな姿に変貌していくのか。

ぼくが初めてこの地を訪れた1980年代に感じた、まるで北欧の港町のような清涼感はすでに失われてしまっているいま、何か前向きな期待感というのは失礼な話、ないのですが、このまちに住む多くの知人や友人たちのことを思い浮かべるとき、中国のどのまちとも違う繊細さや穏健さを身につけている彼らが(それはたぶんこの都市の環境が育んだものだと思う)、中央政府的な野心から少し距離を置いて、別の道を選んでほしいと思ったものです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-23 13:28 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 12月 22日

ハルビンのKFCはアールヌーヴォー建築

この建物は何だかわかりますか? 童話に出てくるおとぎの国のお家みたいでしょう。

答えは中国のある都市のKFC(ケンタッキーフライドチキン)のお店です。
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ずいぶんしゃれてると思いませんか?

この店は、黒龍江省のハルビンというまちにあります。ハルビンを最初に建設したのは東清鉄道をこの地に敷いたロシア人で、19世紀末のことです。
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もともとこの不思議なデザインをした建物は、東清鉄道管理局長の官邸で、1920年に建てられたものだ、とハルビン市が設置したプレートには書かれています。アールヌーヴォー建築です。

場所は、ハルビン駅の正面からまっすぐ伸びる紅軍街が大直街と交差する紅博広場に面したホテル「国際飯店」のすぐ隣にあります。
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デザインが面白いので、ついぐるぐる周辺から見渡してみたくなります。
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さっそくですから、店に入ってみましょう。
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内装は現代的ですが、ハルビンのあちこちに現存するロシア教会など、このまちを象徴する写真が飾られています。

周辺はすでに再開発が進んでいるのですが、ハルビンでは古い建築物を保存することが条例で定められているため、工事現場に囲まれながらも、こんな風に残されています。ここは、ケンタッキーの向かいにある地下鉄駅工事の現場です。
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ハルビンは自らの出自がロシアにあることを公式に表明することを決めたようです。それは彼らの歴史認識には抵触しないようです。市内の歴史博物館の展示を見ればよくわかります。その話はまた後日。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-22 15:51 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)