ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

inbound.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:日本人が知らない21世紀の満洲( 77 )


2014年 12月 03日

ハルビンで“出戻り”ロシアの味覚に出合う

中国黒龍江省の省都ハルビンは、19世紀末にシベリア鉄道の要衝として建設された都市です。いまでは人口600万人という大都市ですが、100数年前は小さな村でしかありませんでした。

20世紀初頭、8000㎞も離れた欧州からこの地に現れたのは、ロシアの将校や軍人、シベリア鉄道の技師、百貨店の経営者、木材を扱うユダヤ商人などさまざまな人種でした。その結果、ハルビンは「極東のパリ」とも呼ばれる多国籍都市になりました。

新中国建国後、この地に暮らしていたロシア人や外国人たちは徐々に姿を消します。ぼくが初めてハルビンを訪れた1980年代半ば頃には、そんな華麗な略歴がウソのような、暗くよどんだ埃まみれの北方の田舎都市へと変わり果てていました。

ところが、2000年代以降の中国東北部の経済成長でロシア人ビジネスマンや旅行者、留学生などが再びハルビンに現れるようになりました。

いま、ハルビンでは“先祖返り”が起きているのです。

そんなハルビンに来たら、ぜひ味わってほしいのがロシア料理です。
b0235153_17491060.jpg

今年7月中旬、夕暮れ時を迎えた松花江のほとりにあるロシア料理店「カチューシャ」を訪ねました。
b0235153_17493353.jpg

店内は木のぬくもりを感じさせるシックな内装で、アットホームな雰囲気を味わいながら食事が楽しめます。
b0235153_17494269.jpg

人気メニューはカツレツやロールキャベツ、ボルシチなど。ワインやシャンパンはもちろんロシアモノですが、ウエイターのイケメン青年ワーリャさんもイルクーツク出身です。
b0235153_1750687.jpg

b0235153_17501889.jpg

このちょっといかつい男性がオーナーの李宏南さんです。店の名「カチューシャ」は彼の奥さんの名前から採ったそうです。奥さんはハルビンのはるか北方、シベリアのヤクーツク出身のロシア人で、留学先のこの地で地元出身の李さんと知り合い結婚。本場のロシア料理を出したいという彼女の思いから、2006年家族経営の小さな店を始めたといいます。
b0235153_17503052.jpg

奥さんの故郷ヤクーツクはタイガの中で冷凍保存されていたマンモスが発掘されたことで有名です。実は、お産のため里帰りしていた彼女とはお会いできなかったのですが、ご主人に写真を見せてもらったところ、ロシア系ではなく、シベリアの北方民族の女性でした。
b0235153_1750422.jpg

b0235153_17505062.jpg

ロシア料理店「カチューシャ」
ハルビン市道里区中央大街261-1号

もう一軒のロシア人経営のレストランが「アラウンド・ザ・ワールド(环球者西餐厅)」です。
b0235153_11323498.jpg

店内はハルビン在住の欧米人や地元客でにぎわっていました。おすすめ料理はロシア風餃子のペリメニやサーモンのソテーなど。ウォッカやロシアビールも味わえます。
b0235153_11325385.jpg

この店では毎晩19時からライブがあります。ステージに立つ彼女はロシア人歌手のKSENIAさん。
b0235153_11334669.jpg

b0235153_11335812.jpg

この店のシェフはもちろん、3人のウエイトレスはすべてロシア人です。ウラジオストク出身のSVETAさん(右)とヤクツーク出身のMARINAさん(左)。MARINAさんはブリヤート系ロシア人で、元留学生だそうです。
b0235153_11463964.jpg

「20世紀初頭、ハルビンには多くのロシア人が住んでいた。だから、私たちにとってハルビンは親しみのある町なのよ」。同店のロシア人女性マネージャーは店を開いた理由をそう語ってくれました。彼女もウラジオストクから来たそうです。この店も2006年開業です。

同店ではロシア食材の販売も行っています。
b0235153_11393671.jpg

アラウンド・ザ・ワールド(环球者西餐厅)
ハルビン市開発区赣水路183号

半世紀を経てハルビンに姿を現し始めた彼らは、“出戻り”ロシア人といっていいでしょう。おかげで正真正銘のロシアの味覚に出合うことができるようになったのです。
[PR]

by sanyo-kansatu | 2014-12-03 17:50 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 11月 29日

大連現代博物館の近代史の展示は台湾に似ている!

今年7月下旬、大連を訪ねて足を運んだいくつかの場所の中でとても興味深かったのが、大連現代博物館でした。
b0235153_1591427.jpg

大連現代博物館は2002年、いわゆる「愛国主義教育基地」としてオープンした博物館です。当初は改革開放以降の大連市の発展を紹介するプロパガンダ施設としかいえない代物でしたが、07年市政府はリニューアルを決定。13年4月に再オープンされました。その目玉常設展が「近代大連」です。ここではアヘン戦争の1840年から1949年の新中国建国に至る大連の歴史を扱っています。
b0235153_1593444.jpg

b0235153_1510270.jpg

もともと小さな漁村にすぎなかった大連の誕生は、19世紀後半にロシア帝国がこの地に進出し、自由港とするべく港湾施設を建設したことに始まります。
b0235153_1510109.jpg

その後、日露戦争(1905)の勝利によって大連建設の主導権が日本に移ります。
b0235153_15103268.jpg

その遺構である「関東都護府」などの石碑も展示されます。
b0235153_15103956.jpg

大連港の建設や満鉄の設立、市街地の発展、路面電車の敷設など、見事に発展していく大連の近代史を豊富な写真や遺品で紹介していきます。
b0235153_1511018.jpg

b0235153_1511629.jpg

b0235153_1511252.jpg

b0235153_15113774.jpg

b0235153_15114620.jpg

この展示はいくつかのコーナーに分かれていて、中国ではお約束ともいうべき「人民反抗闘争」のコーナーもあります。
b0235153_15115663.jpg

しかし、何より驚いたのは、もうひとつのコーナーです。1840年~1945年の日本統治期を含めたその期間を「多元文化的交流与融合」の時代と位置づけ、当時の街の様子や人々の日常の暮らしを紹介していることでした。以前、旅順にある歴史博物館をすべて訪ねましたが、そこでの展示は、日本帝国主義の侵略と人民の抵抗だけの内容でした。それに対し、「多文化的交流と融合」の時代とは……。今日の中国では稀有ともいうべき斬新なコンセプトといえます。
b0235153_15121752.jpg

面白いのは、日本統治期に「浪速町」(現在の中山広場から旧ロシア人街に通じる通り)と呼ばれた繁華街のジオラマや、現在では跡形もない大連神社の太鼓(どこに保存されていたのでしょう?)の実物など、当時の市民生活の実像を紹介する展示がいくつもあったことです。
b0235153_15122661.jpg

b0235153_15123625.jpg

そこには、中国の他の都市では決して見られない、戦前の日本と関わる史実を「歴史」として公平に扱おうとする姿勢があるのです。日本の記憶をすべて否定の対象とするのではなく、「多文化」の融合した時代の象徴として展示すること。そこには日本統治期を相対化しようとする視点があります。以前訪ねた台湾の歴史博物館の展示に似た印象を持ちました。

しかし、それはふつうに考えてみれば当然のことだ思います。なにしろ大連で都市建設が着手されたのは19世紀末のこと。自らの歴史を史実に沿って語ろうとすると約100年という短いスケールの中で日本の記憶を除き去ることができないのは無理もありません。それは上海の歴史博物館が西洋列強の租界を自らの歴史として取り込んでいるのと同様だからです。日本が占めた時間の意味をことさら誇張するつもりはありませんが、逆に政治的な意図があったため、これまで中国の歴史展示はそれを無視してきたといえます。

大連現代博物館の「近代大連」は、日本による侵略一色に塗りたてられていた中国東北地区の歴史展示を、固有の地域史として市民の実感に即して描き直そうとする野心的な試みではないかと思います。

しかし、ここは2010年代の中国。習近平体制以降、過去へと時代が逆行するような時勢の中で、このままずっとこの展示が許されるのだろうか。正直なところ、心配になったほどです。

ですから、あまり騒ぎ立てたりすると中国当局が反応してはまずいので、皆さんそっと足を運んでいただきたいと思います。実は、ぼくはこの博物館の館長と面識があるのですが、名前も伏せておこうと思います。その方に迷惑がかかると申し訳ないからです。中国とはどうしようもなく、そういう国だからです。

大連現代博物館の意欲的な取り組みは、近代史の展示だけではないようです。ちょうど訪れたとき、別の展示室で中部アフリカの民族文化の企画展も開催していました。アフリカへの莫大な投資を進める今日の中国が、市民に対して異文化理解を深めることを目的とした企画という意味であれば、これも興味深いといえます。
b0235153_15145100.jpg

さらにいうと、日本のアニメ文化の企画展なんてのもあったようです。
b0235153_12275047.jpg


大連現代博物館
沙河口区会展路10号
http://modernmuseum.dl.gov.cn
星海広場の北端にあります。
b0235153_15141611.jpg

[PR]

by sanyo-kansatu | 2014-11-29 15:15 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2014年 11月 19日

大連の若い世代(80后)は日本時代の住居や路面電車が懐かしいという

今年7月下旬、大連を訪ねたとき、最も印象に残った場所が、地元生まれの若いカップルが経営しているカフェ「瀋小姐の店」でした。
b0235153_1830546.jpg

この店の特徴はお茶を飲むだけでなく、店内で版画や手づくり工芸を楽しめることです。アトリエ風の店内は、創作教室といってもいいかもしれません。
b0235153_18311054.jpg

客層は圧倒的に若い女の子ばかり。彼女たちは地元だけでなく、中国全土から旅行で訪れた人たちも多いそうです。
b0235153_18312583.jpg

店内には、大連の老房子(古い建築)をイラストや版画で描いた絵はがきや日本統治時代の古地図が売られています。
b0235153_1429303.jpg

b0235153_18314539.jpg
b0235153_1430661.jpg
b0235153_14302080.jpg

「大連印画」「老大連」「大連の詩」「大連老式電車の旅」「歩く大連」「大連老建築」など、種類もいろいろ。中国の歴史博物館に展示されているような、どこかおどろおどろしい日本統治時代の写真とは、まったくの別世界。いまどきの中国の若者のセンスが感じられるポップな仕立てとなっています。

このカフェを経営しているのは、1984年大連生まれの周科さんと瀋潔さんです。ふたりは大連工業大学時代の同級生。ちなみに同大学には、アートデザインや服飾などの学部もあります。なぜこの店を始めたのか聞くと、こう話してくれました。
b0235153_1832407.jpg

「ぼく(周さん)は子供の頃、祖母の住む古い日本家屋でよく過ごしました。いまはオリンピック広場となっている北側の一画ですが、当時はそれが日本家屋だとは知りませんでした。高校生になった頃、これらの老房子が次々に再開発されるのを見て、自分の大切な思い出が失われていくようで惜しいと思ったのです。

大学で美術を専攻したぼくは、老房子の写真を撮り始めました。大学を卒業後、美術教師をしながら、撮りためた写真や版画を絵はがきにして、大連を訪れる観光客に伝えたいと考えたのが、このカフェの始まりです」。

※再開発の進む大連の状況については「次々に壊されていく文化台の一戸建て住宅【昭和のフォルム 大連◆文化台②】」http://inbound.exblog.jp/20697489/参照。
b0235153_18333025.jpg
b0235153_1432149.jpg

奥さんの瀋潔さんは浙江省出身ですが、大学で知り合った周さんに大連をあちこち案内されたとか。そのときの移動の足はたいてい路面電車だったそうです。いまも自宅からこのカフェまで毎日通勤の足は路面電車。車窓から見える老房子を眺めながら、電車に乗るだけで大連の魅力が満喫できてしまうと思ったことから、このイラストマップ「大连漫游计划」(一部)や「大連老式電車の旅」の絵はがきをつくることを思いついたといいます。
b0235153_18343836.jpg

実は、奥さんの瀋潔さんは毛糸や皮の小物の手作り作家で、ノウハウ本の著書もあるという女性。このカフェには、そんなふたりの噂を聞きつけて、手作り創作と大連の魅力を教えてもらおうと全国からファンが集まるようになったといいます。
b0235153_18344695.jpg

周さんの話を聞きながらとても興味深いと思ったのは、1980年代生まれ(中国では「80后」世代といって、文革以前の古い社会主義中国を知らない新世代)の彼らが大連の日本家屋に対して親しみと懐かしさを感じているということでした。彼らは1990年代以降の「愛国主義教育」を最初に受けた世代ですが、そこで教え込まれた「歴史認識」をするりとスルーして、日本時代の建築に自らの幼少期の舞台としてノスタルジーを感じていることです。彼らにとって日本家屋は自分たちの大切な思い出なのです。

※中国の「80后」世代については、カテゴリ「アニメと「80后」の微妙な関係」を参照。
http://inbound.exblog.jp/i13

もっとも、いまとなってはわずかに現存するにすぎない大連の日本家屋は、いわゆる内地の家屋とは違い、当時は最先端の文化住宅だったはずです。なにしろ水洗トイレやお風呂も普通に備わっていたのです。大連で幼少期を過ごした年配の方が、日本に引き上げてきてからいちばん驚いたのは、「ボッチャントイレ」と「五右衛門風呂」だったと話していたことを思い出します。「大連の当時の生活環境に日本が追いついたのは、昭和50年代になってからではないか」。そう語る引き上げ世代の話を聞いたこともあります。つまり、大連の若い世代が懐かしく思っているのは、戦前期の日本にはまだ一般化していなかった昭和モダンの最新式住居が歳月とともに老朽化した姿だったといえます。

大連の若い世代の日本家屋に対する感覚は、大連育ちの日本の年配の皆さんと重なる部分とそうでない部分があるかもしれませんけれど、実はぼくのような戦後まれの「満洲3世」にとっても共感する部分が大きいといえます。それは大連との同時性を有していた日本の昭和モダンが持つフォルムの温かみや懐かしさを、高度経済成長期に重なる自らの成長とともに失ってしまったという想いであり、日中の経済発展のタイムラグによって同じ経験が後年外地でも生まれたのだという共時性を周さんに感じるからです。実際、ぼくが初めて大連を訪ねたのは1980年代半ばで、彼が生まれたばかりの頃でした。

だからでしょうか、ぼくは初対面の周さんと話がずいぶん合いました。なぜ彼が老房子の写真を撮りためようとしたか、その動機が手に取るように理解できたからです。そんな話を周さんにしたところ、彼も日本で刊行された大連の老房子の写真集や本を集めていると言いました。

ちなみに周さんは電車ファンでもあるそうです。実は、1990年代の薄熙来市長時代の大連では、それまで使っていた日本時代の老朽化した電車を新式車両に転換する際、あえて外観のデザインは日本時代の姿を残そうとしたそうです。それが大連市民のフィーリングに合ったからでしょう。その決定はいまも高く評価されていると聞きます。
b0235153_14334769.jpg

その車両は、時代を経て今日も残る日本時代の石造建造物との対比でみると、少し真新しすぎるように見えなくもないのですが、遠目のシルエットは当時と変わらないものです。それが旧満鉄関連のビルの前を走っていたりする姿がいまでも見られるのが、大連の風情となっています。そして、その路面電車は周さん夫妻たち、現在の大連市民の日常の足でもあるのです。

大連市民の間では、いまでも失脚した薄熙来の人気が高いようですが、こうした日本がらみのエピソードが穏やかに語られているのは、中国広しといえども、大連くらいではないでしょうか。

カフェ「瀋小姐の店」は、旧ロシア人街の最も奥まった場所の右手にあります。いまや新しい大連観光の情報発信地となっています。
b0235153_18345534.jpg

旧ロシア人街の建物はいまではあざとくペイントを塗り替えられ、テーマパークと化してしまいましたが(そういう意味では、もう情緒はありません)、カフェの窓の外には旧大連自然博物館が見えます。なぜかここだけは投資の対象からはずされ、かつて東清鉄道事務所や市役所にも使われた老房子の荒れ果てた姿は、ちょっぴり痛々しさを覚えます。
b0235153_1835436.jpg

●カフェ「瀋小姐の店」
住所:大連市西崗区団結街6号文化産業研究中心
http://site.douban.com/129650/


※現在の旧ロシア人街については――

ショック!? 大連「旧ロシア人街」の再開発が一気に進んでいた
http://inbound.exblog.jp/24019874/
[PR]

by sanyo-kansatu | 2014-11-19 18:35 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 10月 17日

冬は零下30度のまち、ハルビン(黒龍江省)の地下鉄が開通しました

先日、中国黒龍江省の知り合いから、ハルビンの地下鉄1号線が開通したというニュースが届きました。
b0235153_944345.jpg

運行スタートは9月26日。区間はハルビン南駅からハルビン東駅までの全長17.48km、18駅だそうです。これで東北三省では瀋陽に次ぎ2番目の地下鉄となります。運賃は2元~4元と、北京の地下鉄と同じ価格帯で超格安です。
b0235153_9443595.jpg
b0235153_9444711.jpg
b0235153_9451759.jpg

ハルビンといえば、中国最北部にある黒龍江省の省都で、冬には零下30度以下になる厳寒のまちです。そこで、ハルビンの地下鉄は中国初の寒冷地仕様だそうで、零下38度の低温環境の中でも運行できるといいます。

このニュースを届けてくれたのは、ハルビンにある黒竜江省新世紀国際旅行社の呼海友さんと金龍珠さんです。地下鉄の写真も送ってくれました。

「ハルピンの地下鉄は最新技術を採り入れています。車両はアルミ合金の構造で、中国で最軽量。車体の雪花図案の装飾はハルビンらしいイメージを喚起しています。他の都市の地下鉄に比べ、騒音が少なく快適に乗車できます。車両内は空気浄化システムを採用しています。そして、信号システムは一部日本の技術を採用しており、安全性に優れています。そして、これがいちばん大事なことですが、座席の下にヒーターがあり、冬でも暖かいんですよ」とのこと。
b0235153_9454381.jpg

ハルビンの地下鉄工事は2008年から開始されました。現在、大連でも工事が進行中です。沿海地区に比べインフラが遅れがちだった東北三省の都市にも、ようやく現代的な都市交通システムが生まれています。来年ハルビンに行く予定があるので、ぜひ乗ってみたいと思います。
[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-10-17 09:46 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 07月 07日

次々に壊されていく文化台の一戸建て住宅【昭和のフォルム 大連◆文化台②】

神戸や函館に似た、中国では珍しい高台の一戸建て住宅街だった大連の文化台の景観が大きく変わり始めたのが、2000年代後半に入ってからです。
b0235153_23415686.jpg

中国の中央政府が着手した「東北振興」政策によって、ここ大連でも次々に都市近郊にまで再開発の波が襲うようになりました。その結果、文化台の一戸建て住宅が次々に壊されてしまいました。
b0235153_23425687.jpg

1990年代の大連は、先般失脚した薄熙来が市長でした。彼の開発区を中心にした積極的な外資の導入により大連は発展し、市街地はいち早く再開発の時代を迎えたのですが、その波は郊外にまでは及んでいませんでした。しかし、胡錦濤政権以降に常態化してしまった地方政府による土地売却利益と不動産投機がカップリングしたあやしげな再開発がついに大連でも動き出してしまいました。

現在の文化台には当時の住宅はもうあまり残っていません。一部当時を想起させる閑静な住宅街の風情は見られるものの、おそらくこの地区から多くの大連市民は離れてしまっていると思われます。彼らは新しい高層マンションの住人として生まれ変わっているのでしょう。いまでもこの地区に残っているのは、高齢化して新興マンションに移り住むことのできない住民たちか地方から流入した外地人がほとんどではないかと思われます。

2012年7月、文化台にわずかに残された日本時代の一戸建て住宅を写真に収めることにしました。
b0235153_23435033.jpg
b0235153_2345066.jpg
b0235153_2344840.jpg
b0235153_23451797.jpg
b0235153_23442435.jpg
b0235153_23453561.jpg
b0235153_23444142.jpg
b0235153_23455194.jpg
b0235153_23445649.jpg
b0235153_2346882.jpg
b0235153_23451553.jpg
b0235153_23462574.jpg
b0235153_23453211.jpg

[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-07-07 23:46 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 07月 07日

ロシア人墓地も眠る高台の高級住宅地【昭和のフォルム 大連◆文化台①】

大連はもともとロシア人が日本よりひと足早く先に来てつくったまちです。20世紀初頭の北東アジア情勢は今日とは違い、非情なまでの力の優劣が世界を支配していましたから、大連にも歴史の痕跡がいくつも残されています。
b0235153_2395727.jpg

大連を代表する景勝地として知られる老虎灘に市内から向かう解放路沿いの高台に位置するのが文化台です。そこにはロシア人墓地があり、現在も残っています。日露戦争前にあったと思われる要塞跡も、とってつけたように改修されて壁だけ残っています。中ロ関係を意識して政治的に再生された遺物に違いありませんが、日本時代にはここが高級住宅街だったことは確かのようです。
b0235153_23104062.jpg
b0235153_231047100.jpg
b0235153_2310552.jpg
b0235153_231123.jpg

当時の絵葉書をみると、まるで神戸や函館のように高台に一戸建ての邸宅がぎっしり並んでいたことがわかります。市街地に近い南山は満鉄や軍関係者の邸宅が多かったと思いますが、文化台は大連に渡って事業をなした民間人の家が多かったのではないでしょうか。以下の資料と写真は大連世界旅行社の桶本悟さんからお借りしたものです。
b0235153_23112120.jpg
b0235153_23112841.jpg

一戸建て住宅街としての文化台の景観は、2000年代半ばくらいまでは大きく変わることはなかったようです。確かにほとんどの家屋は老朽化しており、高級住宅街としての面影はありませんが、中国ではなんといっても珍しい一戸建て家屋が集中する地区ではありました。
b0235153_23122089.jpg
b0235153_23122788.jpg
b0235153_2312352.jpg

文化台の南側には晴明台という同じく一戸建ての住宅地がありました。勝利橋の北側に残るロシア人家屋のような家がいくつも残っています。
b0235153_2313696.jpg

文化台の景観が大きく変わり始めたのが、2000年代後半に入ってからです。次回、現在の文化台の姿を紹介したいと思います。
[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-07-07 23:14 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 07月 07日

周囲の高層建築とはまるでスケールの違う街区【昭和のフォルム 大連◆連鎖街③】

大連駅前に残る不思議な一画、旧「連鎖街」に人気の少ない早朝、再び訪ねてみました。
b0235153_15155079.jpg

人通りが多く、屋台などが出ていると、ただの中国の古い繁華街にしか思えませんが、無人の「連鎖街」に立っていると、まるでタイムスリップしたような気分になってきます。

「連鎖街」の後方に高層建築が見えますが、この街区とはスケールがまるで違うことに気づきます。それは視覚的にもわかることですが、何より身体で感じることができます。その対比自体はとても興味深いことですが、ここではこのマイクロな空間構成こそが昭和の街並みなのだと理解して、この空間を楽しむことにしましょう。
b0235153_15173358.jpg

あとは、建築の老朽化や簡体字の看板などの存在はひとまず無視して、建築の細部を切り取り、そこに目を凝らしましょう。この時代の建築は曲線の多い優美なファサードもそうですが、窓の形や配置が実にチャーミングだと思います。そして想像力をふくらませましょう。通りを何度も行き来していくうちに、だんだん頭の中に絵葉書で見た当時の風景や喧噪が蘇ってくるような気が……。
b0235153_1517145.jpg
b0235153_15181387.jpg
b0235153_15173735.jpg
b0235153_1518304.jpg
b0235153_15175683.jpg
b0235153_15185041.jpg

まったくもってこれはひとり遊びの世界には違いありませんが、「古地図を見て東京を歩く」という楽しみ方と少し似ています。東京の場合、江戸、明治、昭和といくつもの時代が折り重ねられた歴史の多重性が複雑に絡み合いますが、大連の場合、そこはわりとシンプルです。つまり、日本の統治した昭和と新中国建国後の停滞期から改革開放を経た現在に至るまでの時間軸でほぼ割り切れる世界といえます。

「連鎖街」には、その地に立って初めて蘇る身体感覚があります。それは歴史的な時空との対話とでもいえばいいのか。それにしても、当時のマイクロな街並みの中で繰り広げられていた人間の暮らしや営みは、今日のように高速建築が建ち並ぶ世界と、どこがどう違うのでしょうか。ぼくには今日の世界のほうが当時に比べて暮らし向きがいいとはとても思えないのです。
b0235153_227443.jpg

[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-07-07 15:21 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 07月 07日

再開発も近い!? これが現在の連鎖街です【昭和のフォルム 大連◆連鎖街②】

大連駅前に残る日本時代の駅前繁華街、「連鎖街」の現在の姿を紹介します。
b0235153_1424129.jpg

撮影は2010年5月と12年7月。佐藤憲一カメラマンです。

かつてしゃれたカフェやバーが軒を並べていた「連鎖街」ですが、現在は時代から取り残されたような金物工具などの卸売場や修理工場の並ぶ地区として市から割り当てられています。

夕方が近くなると、通勤客相手に農民が道の真ん中に野菜を並べ、歩行者天国の通りには屋台が出ます。
b0235153_1433927.jpg
b0235153_143590.jpg

これが当時の銀座通りです。
b0235153_1435293.jpg
b0235153_1431833.jpg

旧式のトウモロコシ焼き器を見つけました。
b0235153_1441121.jpg

かつての常盤座の周囲には高層建築が見えます。現在は、金物工具の卸売市場として使われていますが、過去の栄華を思うと、なんだかガッカリですね。
b0235153_1452188.jpg

これはかつての心斎橋通り。日本時代はにぎわった目抜き通りも、ひたすら老朽化しています。
b0235153_14224520.jpg

b0235153_1453590.jpg

路地に入ってみると、すでに住人はほとんどいないようです。再開発の日も近いのでしょうか。
b0235153_14232186.jpg

b0235153_1454395.jpg

b0235153_1461914.jpg

なんだか無残な光景という気がしてきます。
[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-07-07 14:06 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 07月 07日

「昭和モダン遺跡」と名付けたい【昭和のフォルム 大連◆連鎖街①】

大連駅前に “昭和”の時間がそのまま残されたエアポケットのような一画があります。
b0235153_1210789.jpg

そこはかつて「連鎖街」と呼ばれたまちです。

前回紹介した甘井子は都市近郊の住宅街ですが、「連鎖街」は昭和モダニズムがコンパクトに体現された都市空間といえます。周辺はすっかり高層ビル群に取り囲まれているにもかかわらず、そこだけぽっかり3階建てくらいの昭和の低層建築の一画が取り残されているのがとても不思議です。まるで『3丁目の夕日』に使われた映画セットのようでもあるのです。

駅前を東西に走る旧栄町通(現・長江路)の南側、駅から向かって右手の旧末広町通(現・青泥窪橋街)が交差する一画に、当時日本の地方都市にはどこにでもあったであろう駅前繁華街を形成する街並みがそのまま残っています。

当時の記憶をもとに書き起こされた地図によると、駅に面した角にジャパンツーリストビューロー(JTBの前身)のオフィスがあったようです。かつて日本全国および外地と呼ばれた中国大陸、朝鮮半島、台湾などの主要都市の駅前の一等地には、必ずジャパンツーリストビューローがあり、旅客を迎えていました。
b0235153_12115288.jpg

ほかにもバーやカフェ、洋品店、航空会社のオフィスなど、いかにもハイカラな店舗が並んでいたことがわかります。

以下、当時の写真資料を紹介します。資料の提供は大連世界旅行社の桶本悟さんです。

面白いのは、「連鎖街」の中心を東西に交差する目抜き通りの名が、日本の繁華街を代表する「銀座通り」(写真上)「心斎橋通り」(写真下)と呼ばれていたことです。
b0235153_12122568.jpg
b0235153_12124961.jpg

「連鎖街」には常盤座という劇場もありました。戦前昭和のスターの多くは、大連に立ち寄った際、この舞台で活躍したそうです。
b0235153_12131665.jpg

また往年の映画スター、三船敏郎の生家として知られる「スター写真館」が入っていたビルもあります。三船敏郎は1920年青島生まれ。彼の父親は中国大陸で貿易商を営んでいた人物ですが、25年に大連に移り住み、写真館を開業したそうです。
b0235153_1226831.jpg

それから、これは桶本悟さんに教えていただいた話ですが、テレビドラマ『水戸黄門』シリーズで、1969~78年まで格さん(渥美格之進)役を演じた横内正さんの生家のビルも残っています。

「連鎖街」の南を走る旧常盤通り(現・中山路)は、路面電車も走る大連を代表する大通りでした。三越などの百貨店もありました。
b0235153_1214425.jpg

ぼくは初めて「連鎖街」周辺を歩いたとき、「昭和モダン遺跡」とでも名付けたい衝動に駆られたものです。そこには、確かに昭和の日本の地方都市の駅前から繁華街に至る空間と同質のものがあると身体で感じたからです。

次回は「連鎖街」の現在の姿を紹介します。
[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-07-07 12:16 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 07月 06日

“昭和”がいちばん残る街【昭和のフォルム 大連◆甘井子】

大連は訪れるたびになんともいえない親しみを感じるまちです。

現在では再開発と高層ビル化が進み、かつてのすがすがしい北方の港町という風情は感じられなくなってしまいましたが、“昭和”のフォルムを探してこっそり街を歩くのは楽しいひとときです。

なかでも大連市中心部から大連湾をはさんだ北側にある甘井子は、市内でもいちばん“昭和”の街並みが残されているまちかもしれません。

甘井子は都市近郊の住宅地です。いまでも当時の交番や消防署、病院、学校、そして満鉄の社宅などが、老朽化しながらもなんとか残っています。長い年月による庭木の成長で緑に覆い尽くされた満鉄の一戸建て社宅が並ぶ路地を歩いていると、自分の幼少期である昭和40年代にわずかに残っていた街のおぼろげな記憶が呼び起され、しんみりしてしまいます。

写真は2012年7月上旬、甘井子を訪ねたときのものです。あいにく雨天でしたが、それもまた悪くなかったです。撮影は佐藤憲一カメラマン。現地を案内してくれたのは、大連世界旅行社の桶本悟さんです。

旧甘井子消防署
b0235153_2243062.jpg

旧甘井子交番
b0235153_22425754.jpg
b0235153_22433244.jpg

旧甘井子水道局
b0235153_224327100.jpg

旧甘井子博愛病院
b0235153_22472367.jpg

甘井子の東の外れには、石炭積み出し埠頭がありました。いまも埠頭はあります。
b0235153_22451357.jpg
b0235153_22451859.jpg

さて、以下は旧満鉄の社宅など、当時の住居です。最初は一戸建てで2階建ての社宅です。
b0235153_22471583.jpg

旧甘井子満鉄独身寮(撮影は桶本悟さん)
b0235153_22485638.jpg

旧甘井子満洲化学工場社宅(撮影は桶本悟さん)
b0235153_22501479.jpg

甘井子満洲化学工場の敷地内には神社もありました。いまは児童館のような使われ方をしていました。
b0235153_22512022.jpg

旧甘井子小学校
b0235153_22552096.jpg

以下、一戸建ての社宅です。
b0235153_22513188.jpg
b0235153_2252810.jpg
b0235153_2251468.jpg

集団住宅です。かなり老朽化しています。
b0235153_22524996.jpg
b0235153_22533121.jpg
b0235153_22531093.jpg
b0235153_22535057.jpg

住人はすでにいなくなってしまったのか、開け放たれた戸の中をこっそり覗いてみました。
b0235153_2254318.jpg

階段に寝そべった猫がこちらを見ていました。
b0235153_2254396.jpg

[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-07-06 22:55 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)