ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

inbound.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:ノービザ解禁間近!極東ロシア( 26 )


2013年 03月 05日

ウラジオストクで見かけたちょっと意外なモノ

今回ウラジオストクを訪ねるにあたって、中国から国際定期バスに乗っていくという変則的なルートを選んだのですが、陸路の国境を越えたとたん、風景が一変したことにあらためて驚きました。もちろん、そこに住む人々の暮らしの様子も違います。極東のはずれにありながら、この地で見られる光景はアジアではありません。

いまのウラジオストクを象徴する景観といえば、金角湾に架かる斜張橋でキマリでしょうが、北東アジア地域において、ウラジオストク以外にはあまり見かけない場所、あるいは街で見かけたちょっと意外なモノがあります。以下、雑多に集めてみました。

①APEC会場(現在は国立極東連邦大学のキャンパス)
 ぼくがウラジオストクを訪ねた2012年6月下旬には、まだAPEC会場は外国人の立ち入り禁止だったので、ボートで近くに寄って写真を撮りました。APEC開催後の跡地利用として、市内にあった大学のキャンパスのほとんどが島に移されることになったため、学生さんたちは引っ越しで大変だったそうです。ハコものはつくったものの……という問題はここでも起きているようです。
b0235153_9372945.jpg

②日本食レストラン
 ウラジオストクには日本食レストランがいくつかあります。すしバーなんてもあります。在留邦人約80名ということですから、地元の人たちが利用しているのでしょう。
b0235153_9403616.jpg

③ウラジオストク駅
 ウラジオストク駅の写真は正面だけでなく、いろんな角度から撮ってもきれいです。これは意外というよりも、正真正銘ウラジオストクらしい場所のひとつでしょう。
b0235153_1038333.jpg

b0235153_9453879.jpg

④博物館の展示
 夏のウラジオストクは海水浴ができるほど暑い日が続きますが、この地が厳寒の極東ロシアにあることを気が付かせてくれるのは、博物館にあるシベリアタイガーのはく製や先住民族の展示です。
b0235153_9493217.jpg
b0235153_9495038.jpg

⑤雑貨店に売られているもの
 雑貨店に入ると、売られている商品がいかにもロシア的です。ニシンやサーモン、イクラの缶詰、チーズ、チョコレートなど、こういうものはさすがに食文化の異なるお隣の中国の雑貨店ではあまり見かけません。
b0235153_953064.jpg
b0235153_953890.jpg

⑥釣り用品
 港町だけあって釣り人が多いらしく、市場で釣り用品を売っていました。
b0235153_9542772.jpg

⑦ヨットハーバー
 ウラジオストクにはたくさんのヨットハーバーがあります。この町の小金持ちたちは、みんなクルーザーを持っているようです。
b0235153_10242716.jpg

⑧コメディの公演ポスター
 お隣の中国東北地方では「二人转」と呼ばれる男女ふたり組の伝統的な漫才をよく劇場でやっていますが、こちらではこういう4人組のコメディショーになるんですね。
b0235153_1051830.jpg

⑨ライブバー、軽食スタンド
 これは別にどうということはないですが、ロシアの軽食スタンドってこんな感じなんですね。
b0235153_1072957.jpg
b0235153_1073486.jpg

⑩日本車積み入れ港
 ここはウラジオストクの西方にあるザルピノという町で、トロイツァ港といいます。トヨタやマツダの新車の積み入れが行われていて、ここから鉄道でモスクワ方面に運ばれるそうです。
b0235153_101459100.jpg
b0235153_10151965.jpg

[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-03-05 10:30 | ノービザ解禁間近!極東ロシア | Comments(0)
2013年 03月 05日

西欧建築の意匠があふれるウラジオストク

ウラジオストクには、ロシア建築を中心にさまざまな西欧建築の意匠があふれています。19世紀後半に造られた街だけに、建築物の様式もそれなりに凝っていて、写真の撮りがいがあります。加えて、街のあちこちにあるロシア正教会のたまねぎ型シルエットがエキゾチックな印象を与えてくれます。以下、佐藤憲一さんが撮ったウラジオストクの西欧建築の細部に寄る写真バージョンです。

b0235153_8232151.jpgb0235153_8234232.jpgb0235153_823568.jpgb0235153_824795.jpgb0235153_8241659.jpgb0235153_8242695.jpgb0235153_8243839.jpgb0235153_824498.jpgb0235153_825114.jpgb0235153_8251496.jpgb0235153_8253511.jpgb0235153_8262547.jpgb0235153_8263416.jpgb0235153_8264238.jpgb0235153_8265199.jpg
[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-03-05 08:18 | ノービザ解禁間近!極東ロシア | Comments(0)
2013年 03月 05日

ウラジオストク 橋のある風景

ウラジオストクでは、2012年9月に開催されたAPECの会場が建設されたルースキー島と市街を結ぶ巨大な斜張橋(塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ、支える橋)が2本造られました。これによって、都市の景観が大きく変わりました。ぼくが訪ねた6月下旬にはまだ一部工事中でした。でも、APEC開催時にはぎりぎり間に合ったそうです。

以下、前半は金角湾をまたぐ斜張橋と街の風景、後半はルースキー島まで延びた巨大斜張橋をボートから眺めたものです。

b0235153_7582314.jpgb0235153_7585138.jpgb0235153_759269.jpgb0235153_7591178.jpgb0235153_7591972.jpgb0235153_7594397.jpgb0235153_7595329.jpgb0235153_80224.jpg
[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-03-05 07:52 | ノービザ解禁間近!極東ロシア | Comments(0)
2013年 03月 04日

「浦潮旧日本人街散策マップ」でウラジオストクの日本のゆかりの地を訪ねる

b0235153_5181233.jpg




















2012年6月26日から28日まで、ぼくは極東ロシアのウラジオストクに滞在しました。そのとき、市内散策の頼りとしたのが、「浦潮旧日本人街散策マップ~日本にゆかりのあるウラジオストクの名所・旧跡巡り~」(2011年7月発行)でした。このマップは在ウラジオストク日本国総領事館とロシア国立沿海地方アルセーニエフ博物館が共同で制作したものです。モルグン・ゾーヤ先生が編集に関わっておられます。
b0235153_5192529.jpg
































以下、このマップに掲載されている日本のゆかりの地(一部訪問できていない場所もあります)の現在の姿を紹介します。撮影は佐藤憲一さんです。文章はマップからの抜粋です。

①旧日本総領事館(沿海地方裁判所)
オケアンスキー大通り7番。ウラジオストクに初めて領事館機能をもつ日本貿易事務館が開設されたのは1876年。1914年に木造の建物がとり壊され、同じ場所に建築家・三橋四郎による石造りのギリシア式建築の建設が始まった。完成は1916年。
b0235153_520115.jpg

②浦潮本願寺記念碑
アレウツカヤ通り57番。1986年、西本願寺はウラジオストクで初めての海外布教所を開く。1904年の日露戦争開戦でほとんどの日本人が帰国したため、いったん活動を休止するが、その後再開。最終的には37年閉鎖。現在は黒くなった土台の石が残されているだけ。浦潮本願寺は当時、故郷から遠く離れて生活する日本人にとって癒しの場であり、啓蒙と交流の場だった。最後の住職、戸泉賢龍の未亡人である戸泉米子の尽力とウラジオストク市民、極東国立大学東洋学院、西本願寺、スタニスラフ・デザインセンターなどの協力により2000年、寺院が立っていた場所に記念碑が建てられた。
b0235153_5203146.jpg

③旧日本人小学校
フォンタンナヤ通り21番。最初の日本人学校は浦潮本願寺の一室で1894年に開校されたが、1913年この建物を購入。1922年当時生徒数256人で運営された。1931年閉鎖。
b0235153_5204814.jpg

④旧松田銀行部
オケアンスキー大通り24番。1907年、長崎市の十八銀行支店として開設。ルーブルから円への換金、満洲大豆の輸出で利益を上げる。1916年、朝鮮銀行に段階的に吸収され、19年に朝鮮銀行浦潮斯徳支店となる。
b0235153_521654.jpg

⑤旧朝鮮銀行
オケアンスキー大通り9/11。松田銀行部を吸収し、名前を変えた朝鮮銀行浦潮斯徳支店は22年10月まで日本の浦潮派遣軍との間で積極的に業務を行う。その後、日ソ漁業協定終結で同支店は日本の漁業者によるオホーツク海での操業のため業務を行い、1930年には朝鮮銀行全体の利益の10%を生むほどになる。ところが、同年ソ連政府によって閉鎖させられる。
b0235153_5212745.jpg

⑥旧堀江商店(極東国立工科大学)
アレウツカヤ通り39番。堀江直造は1892年に日用雑貨貨物輸出商としてウラジオストクに渡り、99年に経営者になる。日露戦争後、ウラジオストクに戻り、缶詰工場を操業。シベリア出兵時は日本軍に協力。『ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの』(東洋書店)の著者・堀江満智氏は堀江直造の孫。
b0235153_5215832.jpg
b0235153_5221467.jpg

⑦旧横浜正金銀行(アルセーニエフ博物館)
スヴェトランスカヤ通り20番。1918年横浜正金銀行は北満州からの農産物を大連経由ではなく、東清鉄道とウスリー鉄道を使って輸出するために、ウラジオストクに支店を開設。しかし、22年シベリアからの日本軍撤退で、24年閉鎖。
b0235153_5223238.jpg

⑧旧「浦潮日報」編集部
オケアンスキー大通り13番。「浦潮日報」は1917年12月9日創刊の日本語新聞で、発行者は東京外語ロシア語科卒の和泉良之助。
b0235153_5225042.jpg

⑨ウラジオストク駅
ニジニポルトヴァヤ通り2番。最初の建物はシベリア鉄道がウラジオストクまで開通した1891年に建てられ、94年にニコライ皇太子が起工に立ち会い、94年に完成。この建物は1912年に竣工。ロシアの17世紀の建築様式で建てられた。モスクワまでの距離は9288km。1912年に敦賀・ウラジオストク航路が開かれ、ウラジオストク経由で日本からモスクワ、ヨーロッパへとつながった。当時最短2週間でヨーロッパ行きが可能になった。
b0235153_523754.jpg

⑩ニコライ皇太子凱旋門
ピョートル大帝通り2番。1891年ニコライ皇太子が日本を回って、シベリア鉄道の起工式のためウラジオストクに立ち寄った際、建設された。ロシア革命でいったんとり壊されたが、2002年有志により再建される。
b0235153_5232296.jpg

⑪プーシキン劇場
プーシキン通り27番。1915年、芸術座の松井須磨子が出演。当時彼女が歌った「カチューシャの唄」は日本でも大ヒットした。
b0235153_523384.jpg

⑫スポーツ湾とディモナ・スタジアム
ウラジオストク市街地にあるビーチで、短い極東ロシアの夏を満喫する市民が繰り出す。その隣のサッカースタジアムは、1940年代後半、日本人シベリア抑留者によって建設された。
b0235153_5235613.jpg

⑬ミリオンカ
ここのみ日本人とのゆかりはなく、かつての貧困地区で、中国人が多く住んでいた。写真は元売春窟のあった建物。
b0235153_5241567.jpg

⑭与謝野晶子碑
オケアンスキー大通り39番。1912年5月、与謝野晶子はウラジオストクを訪ねている。1994年、極東国立大学東洋学院の建物の前に記念碑が建てられた。
b0235153_5243477.jpg

⑮ウラジオストク駅と金角湾大橋
鉄道駅前広場の上からウラジオストク駅と金角湾大橋を望む。手前に見えるのはレーニンの銅像。
b0235153_5245352.jpg

[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-03-04 14:34 | ノービザ解禁間近!極東ロシア | Comments(1)
2013年 03月 04日

ウラジオストクの旧日本人街(モルグン・ゾーヤ先生講演会)

2012年4月13日、経堂にある日本ウラジオストク協会でウラジオストクの極東連邦大学で日本語を教えていらっしゃるモルグン・ゾーヤ先生のお話を聞く会がありました。6月に取材でウラジオストクに行くことを計画していたので、現地の最新事情やこの都市の日本との歴史的な関係について知るいい機会となりました。以下、モルグン先生のお話を収録した一部を紹介します。


ウラジオストクは1860年代にできた街です。当時は小さな村でしたが、ロシア海軍が港湾施設を造り、1875年に市制がしかれました。

最初にウラジオストクに来た日本人は1860年代に長崎から来た人たちです。大工(土木請負業者)やからゆきさんが多かったです。当時、ウラジオストクには建築が足りなかったし、ロシア女性も少なかったからです。からゆきさんと一緒に洋品店や理髪師も来ました。

1876年、日本貿易事務館が開設されました。そのとき日本の領事はロシアの軍艦に乗って来ました。1880年代に入ると、日本人の数は増え、約400名と記録に残っています。

1890年代に入ると、都市のインフラが飛躍的に発展します(91年にシベリア鉄道の沿海州地域が着工、93年に完成。モスクワとつながる)。街には日用品や装飾品などの商店が増えましたが、ウラジオストクは物不足のため、日本から多くの商店経営者が渡ってきました。日露戦争前の1903年には、3000人以上の日本人がいました。

※日本との航路は、幕末から長崎、函館などにロシア船の入港があったが、明治政府になってから長崎港を拠点として、極東ロシア、中国、朝鮮への航路が整備された。しかし定期航路が開かれたのは比較的遅い。ロシア義勇隊艦隊が1877年にオデッサから長崎経由でウラジオストクへの定期航路を開設したが、便数が少なく、神戸~ウラジオストク間は1899年(日本郵船)、ウラジオストクへの最短距離である敦賀からは1902年(大家汽船)に開通した。(『ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの』東洋書店 堀江満智著 より)

日露戦争開戦後、日本人の多くは帰国します。貿易事務館も閉鎖されました。しかし、1906年には多くの日本人が戻ってきました。その一部は中国のハルビンへ行きました。当時、ウラジオストクには杉浦商店や徳永商店などに加え、銭湯や写真館ができ、日本人が経営していました。09年頃には日本人経営の精米工場やミネラルウォーター工場などもありました。

1914年、第一次世界大戦が始まりましたが、日露は友好関係にあり、この時期も日本人が増えました。17年にロシア革命が起こり、18年に日本のシベリア出兵が始まると、日本の軍人相手に商売する日本人も増え、5000人を超えるほどになりました。

1922年、シベリア出兵が終わり、多くの日本人が帰国しました。

1930年代に入ると、満州事変が起こり、以後、ウラジオストクは軍事基地にすることがモスクワ政府により決定されました。外国人は、日本人に限らず、中国人、朝鮮人も退去を命じられました。日本総領事館も1936年5月16日閉鎖。最後にウラジオストクを離れた日本人は1937年に出国しました。

その後、日本人がウラジオストクに姿を見せたのは、1945年から53年頃まで、シベリア抑留者の労働キャンプが2つ置かれた時期です。彼らはスタジアムやビル建築、道路の改修工事の現場で働かされました。それから1992年までウラジオストクは対外的に閉じられた都市で、外国人は来ることができませんでした。

1992年に対外開放されて、93年に日本総領事館がナホトカからウラジオストクに移転し、開設されました。現在は、三菱商事や住友商事、三井物産などの商社やNHKの支局など、在留日本人の数は80名くらいです。まだ少ないですね。

以下、用意した写真をお見せしましょう。

b0235153_8244640.jpg

この建物はいま、沿海州地方の内務省です。アレウツカヤ通りにあります。シベリア出兵のときは、日本軍司令部でした。この絵には日本の国旗が見えますし、日本軍人が歩いています。その後、ニッツアというホテルになりました。1945年から47年頃にかけて、日本人シベリア抑留者の手で現在の姿に再建されました
b0235153_8252669.jpg

この絵は古い雑誌から見つけました。誰が画いたものか不明ですが、とても面白いですね。1920年頃の絵で、スヴェトランスカヤ通りかもしれません。イギリスやアメリカの軍人、日本の軍人もいます。日本の娘さんもいて、からゆきさんかもしれません。中国人が野菜を売っています(説明をしておられるのがモルグン・ゾーヤ先生)。
b0235153_18121723.jpg

この絵は1918年4月4日、シベリア出兵で、日本軍の兵士がウラジオストクに上陸しました。空には飛行機も飛んでいます。日本の子供たちは国旗を持って歓迎しました。
b0235153_8255069.jpg

当時の在住日本人たちの写真です。みんな洋装です。この中に堀江商店の堀江直造さんもいます。当時女性は和装でした。
b0235153_8261781.jpg

これは1923年のアレウツカヤ通りです。北に向かって撮られた写真です。角の建物は妹尾商店ですが、いまはこの建物はありません。バスのターミナルになっています。通りの左側の裏手にはミリオンカと呼ばれた中国人街がありました。お坊さんが歩く姿も見えます。
b0235153_8263972.jpg

この写真はウラジオストク在住のある日本人の家族です。奥さんとふたりの娘が写っていますが、そのひとりは1996年にウラジオストクに来ました。当時78歳でしたが、私が街を案内すると、彼女はそこに何があったのか、よく覚えていました。
b0235153_827195.jpg

アレウツカヤ通りにあった日本の貿易会社です。現在はこの建物はありません
b0235153_8272955.jpg

1917年に日刊紙の「浦潮日報」を創刊した和泉良之助。東京外語ロシア語科出身。
b0235153_8275172.jpg

これは意味深い写真です。私と一緒に写っているのはどなたかわかりますか? 戸泉米子さんといいます。1921年にウラジオストクに来て、その後極東総合大学教育学部ロシア語科を卒業しました。とてもきれいなロシア語を話す方です。革命後、情勢が変わり、彼女はロシア人とのつきあいを絶つように迫られました。その後、ウラジオストクの本願寺の住職の戸泉憲龍氏の奥さんになられました。1936年に本願寺は閉鎖され、ご主人は逮捕されましたが、37年に戸泉さんは帰国しました。戸泉さんはのちに『リラの花と戦争』という本を書きました。3年前、福井県で逝去されたのですが、私が病床を訪ねたとき、彼女は私に「日本とウラジオストクをつなぐ仕事を引き継いでくださいね」と言いました。この写真は、浦潮本願寺跡の前で撮りました。
b0235153_8285691.jpg

ウラジオストクの講道館で柔道を学ぶロシア人たち
b0235153_829182.jpg

ウラジオストクにある日本の陸軍病院の診察券


モルグン・ゾーヤ先生は、ウラジオストクの日本語の母とでもいうべき方で、この地の日本語人材の大半は先生から日本語を学んだ人たちであることをあとで知りました。ぼくがウラジオストクを訪ねた際、現地で街を案内してくれた若いロシア人の皆さんはみんなモルグン先生の教え子だったからです。

講演会が終わったあと、6月にウラジオストク渡航の計画をしていることを伝えたところ、モルグン先生は喜んで再会を約束してくださいました。ところが、ぼくがウラジオストクを訪ねる同じ時期、先生は韓国の病院で足の手術を受けることになり、残念ながら現地でお目にかかることはできませんでした。

先生はそのことをたいそう気にしてくださり、その件でわざわざお電話くださいました。そして、自分の代わりに先生の息子さんを紹介してくださり、彼のボートで金角湾をクルーズすることができました。その模様は「地球の歩き方 中国東北編」のグラビアで紹介しています。本当にお世話になりました。
[PR]

by sanyo-kansatu | 2013-03-04 08:34 | ノービザ解禁間近!極東ロシア | Comments(2)
2012年 12月 29日

国際定期バスで中ロ国境越え 延辺からウラジオストクへの小旅行(13-14年版)

近年、北東アジアの国際情勢の変化の中で、中国・ロシア・北朝鮮の3カ国が国境を接する地域が注目されています。2012年9月、中国吉林省延辺朝鮮族自治州は成立60周年を迎え、隣の極東ロシア・ウラジオストクではアジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれました。こうした動きにともない、この地域の経済交流も進展の兆しを見せています。

そこで、「地球の歩き方・中国東北編」の今年の改訂では、「延辺朝鮮族自治州」特集を企画しました。その第一特集がこれです。

b0235153_184944.jpgb0235153_18492018.jpgb0235153_18493787.jpgb0235153_1849516.jpg
[PR]

by sanyo-kansatu | 2012-12-29 18:51 | ノービザ解禁間近!極東ロシア | Comments(0)