ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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カテゴリ:ボーダーツーリズム(国境観光)( 100 )


2016年 10月 03日

中ロ貿易は縮小中だが、農産品、特にロシア産アイスクリームが中国で人気だとか

新潟県にある公益財団法人環日本海経済研究所(ERINA)のメルマガ「北東アジアウォッチ」は、一般の日本のメディアではまず扱われることのない、中国東北地方、ロシア、モンゴルの現況、そして日本海側各県と対岸の同地域との交流の様子を伝えてくれるユニークなメディアです。

その最新号(2016年9月30日発行)にこんな記事がありました。7月に中国東北地方を1ヵ月かけて視察してきたぼくにとって、このささやかなニュースは現地で見た実感を納得させてくれるものでした。
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これはロシア国境の町、黒龍江省綏芬河にあるマキシム・レストランという西洋料理店のデザートとコーヒーです。

中国を席巻しつつあるロシア産アイスクリーム

2週間前、プーチン大統領は杭州市のG20に出席した際、習近平国家主席にロシア産アイスクリームをひと箱、贈呈した。「貴国のものは良い乳脂肪を使っているから、特に美味しい。非常に気に入っている」と習主席は説明した。

中国人はこの2年間、熱心にロシア産食品を試してきた。彼らが特に惚れ込んだのがロシア産アイスクリームだ。2015年には、アムール州が初めて、中国に食品を供給し始めた。その逆ではない。長年の間で初めて、ブラゴベシチェンスクから黒河へ、ハチミツ、チョコレート、クッキー・ビスケット類、アイスクリーム、粉類、ヒマワリ油、炭酸水を積んだトラックがアムール川の氷を渡った。その結果、アムール州は、何トンもの中国製品の購入が慣例だった地域から、本格的な対中国輸出地域へと変貌した。

概して、中国とロシアの貿易高は昨年、金額では680億ドルに縮小した(28.6%減)。しかし、ロシアから中国への農産品輸出は拡大した。例えば、2015年の結果から、油脂製品の輸出量は9.4倍、油糧種子・果実は4.9倍に拡大した。穀物、豆類、野菜の輸出も増えている。最後に、ロシア産アイスクリームの中国への輸出量は昨年、118%拡大した。

ロシア産アイスクリームの対中国輸出の急成長は今年も続いている。ロシア産アイスは既に、中国の国境の都市、特に綏芬河、満洲里で幅広く認知された。この夏には、ロシア産アイスは市内で最もポピュラーな輸入品となった。今年上半期、綏芬河の国境回廊経由で出荷されたロシア産アイスの量は昨年比で206%拡大した。

プーチンとソ連の継承国・ロシアへの敬愛以外に、当然ながら、経済的要素が大きな役割を演じている。ここ2年のうちに、中国側はロシアの国境地域でロシア産の食品やアイスクリームをより一層、買うようになった。それは、彼らにとってそれらが安くなったからだ。一方、欧州あるいはアメリカの商品は現地通貨の下落によってかなり値上がりした。

これまで、ロシア産アイスの輸出は保存に必要なインフラの欠如によって制約されてきたが、今ではこのような不備は是正された。例えば、2015年下半期、綏芬河に広さ3000平方メートル余りの冷凍食品取扱用複合物流施設が建設された。保管量は日量2000トンとなっている。これが直ちに、ロシア産アイスの輸出量の急成長につながったのだ。(ヴズグリャド9月19日)


記事にもあるように、ロシア経済の不振により中ロ両国の貿易は縮小傾向にあります。2年前はあれほど多くのロシア人が黒龍江省の国境都市(満州里や黒河、綏芬河など)に姿を見せていたものの、2016年の夏は相当少なくなっていました。中国の経済減速もかなり著しいものがあるため、輸入が減っていることも大きいでしょう。

ところが、2015年から中国はロシアの農産品の輸入を拡大してきたようです。これまでであれば、圧倒的に中国からロシアへの貿易量が多かったはずの農産品ですが、これも中ロ関係を重視する現政権の志向と関係がありそうです。
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実際、中ロ国境都市では、習近平主席とプーチン大統領が強く手を握る宣伝ポスターのたぐいをいたるところで見かけます。面白いのは、どちらかといえば、習主席が積極的な姿勢で前に出て、プーチン大統領は控えめなスタンスに見えることでしょうか。このポスターもそうですが、圧倒的に習主席の存在感が大きく見えます。

そんなわけで、中ロ国境都市では街中にロシア産品が売られています。
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以下は、黒河市内にある「ロシア商品街」という通りで売られる主な産品です。
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よく見かけるのが、前述の記事にもある「ハチミツ、チョコレート、クッキー・ビスケット類」です。
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これは何でしょう。ロシア製のミキサーでしょうか。

アイスクリームは、こうした一般の雑貨店で売られるというより、レストランのデザートとして供されることが多そうです。
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もともと以前からこの地域で売られていたロシア産品は、この看板にもあるように「マトリョーシカ、腕時計、推奨、琥珀、金製品、香水、銅器、錫器、望遠鏡、首飾り、各種ロシア工芸品」、さらには「チョコレート、コーヒー、ミルク、ワイン、ウォッカ」などの嗜好品でした。
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最近は、両国合弁のロシア製品も増えているようです。ですから、一見ロシア産品でも、製品表示をよく見ると、中国の投資によって生産されるロシア食品も多いのです。
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実は、このロシア製ビールの多くも、一部中国との合弁企業で作られているようでした。
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両国の経済力の格差が中ロ貿易の中身にも影響を与えているように思います。共に経済の減速が進んでいることも背景にあり、木材や資源系物資ではなく、これらの嗜好品が街を彩るようになっているのです。
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by sanyo-kansatu | 2016-10-03 12:06 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 16日

鴨緑江断橋の展示に見られる中国の歴史認識がわかりやすい

中朝国境最大のまち・丹東(遼寧省)には、朝鮮戦争時代に米軍によって落とされた鴨緑江断橋があります。
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断橋の隣には、中朝友誼橋(写真・左)が架かっています。そちらは朝鮮と結ぶ鉄道と車両の両用の橋です。

断橋の遊歩道を歩くと、橋の断たれた先が展望スペースになっていて、朝鮮に向かって橋脚だけが残る光景が見られます。対岸の北朝鮮の風景も眺めることができます。
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この橋は1909年に日本が朝鮮領内の京義線を中国につなげるため、「鴨緑江橋梁」として建設されたものです。当時鴨緑江を航行する船舶のために橋の中央部が旋回できるよう設計されていました。そのための駆動軸がいまも残されています。
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断橋の歩道の両サイドには、数十枚にわたる写真パネルが展示されており、そこにはこの橋の100年の歴史が記されています。日本がからむこの地域に関する中国の歴史認識を考えるうえで、とてもわかりやすい素材だと思ったので、以下主なパネルを紹介します。

まず全体像を理解するために。これが現在の断橋と中朝友誼橋の全貌です。
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1908年8月、日本は朝鮮側の橋の基礎工事を始めています。展示によると、09年4月日本は腐敗した清朝政府に圧力をかけ、5月には橋の建設を強行したとあります。
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船舶の航行時は、橋の中央部が90度旋回したことが解説されています。一度の使用時には20分要したそうです。
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開通は1911年10月。線路の両脇に歩道があり、当時の人たちは歩いて渡ることができたようです。
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1943年4月、「日本侵略者」はもうひとつの橋(第二橋梁・現「中朝友誼橋」)を建設します。45年8月15日、日本は第二次世界大戦に無条件降伏し、以後この橋は中朝両国が共有することになります。
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ところが、50年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、鴨緑江沿岸にも危機が迫るとあります。
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毛沢東は「抗美援朝、保家衛国」(米国に対抗し朝鮮を支援することで、国家を防衛する)政策を決定し、朝鮮半島への派兵を開始します。
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同年10月19日、中国人民志願軍は安東(丹東)、河口、輯安(集安)の3カ所から朝鮮領内に入ります。
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同年11月8日午前9時、B29が鴨緑江大橋を爆撃し、一部の橋桁が落ちます。
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さらに同月14日、米軍は再び来襲し、朝鮮側の橋桁は完全に落ちてしまいます。
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53年7月27日、朝鮮戦争の停戦協定が結ばれます。「こうして2年9か月の抗美援朝戦争に勝利した」とあります。
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58年、中国人民志願軍が凱旋帰国するとあります。停戦から5年間も朝鮮領内にいたとは。何をしていたのでしょう。
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停戦直後の鴨緑江断橋の両岸を撮ったもののようです。この当時は、当然のことながら、戦火のため丹東も対岸の新義州も疲弊していたことがわかります。
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断橋の改修が始まったのは、朝鮮戦争停戦から約40年後の93年6月です。
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94年6月28日、断橋の改修工事は完了し、旅游区として正式に対外開放されます。
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さて、このパネル展示には、1910年の開通後から終戦末期の43までの約30年間の歴史は省かれてしまっています。そして、朝鮮戦争における米軍の爆撃や人民志願軍の「抗美援朝」政策に基づく出兵がメインストーリーとして語られます。さらにいえば、人民志願軍の帰国から90年代までの30数年間についても、触れられていません。

中国側がつくった展示ですから仕方がないことでしょうが、この地域の過去100年に関する中国人の歴史認識を形作るうえで、彼らが史実を採用する基準がどこにあるかを理解するには、とてもわかりやすいパネルだと思います。

それは言うまでもなく、抗日&朝鮮戦争を「勝利」に導いた共産党政権の正統性(ことの成否はともかく)に関わる基準です。ここでその歴史認識の是非を問うことに意味はありません。むしろ、何を採りあげ、何を採りあげないのか。その判断の基準を知っておくことで、彼らと仮に歴史について話す機会があるとき、議論を深めるうえで参考になるだろうということです。そういう意味では、鴨緑江断橋は今日の中国の歴史認識を語るうえで、きわめてシンボリックなスポットとなるのは当然なのでしょう。

ちょっと面白いと思ったのは、以前丹東駅のターミナル構内に展示されていたこの駅の100年の変遷を物語る十数枚の写真との比較です。1910年から45年までの30年間の駅舎とその周辺の様子も知ることができます。そこには駅のプラットフォームに着物姿の日本人が写っている写真も含まれ、興味深いです。丹東駅では中国の歴史認識に関わる事件が起きてはいなかったため、こういう見せ方ができたのでしょう。

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)
http://inbound.exblog.jp/20541074/

断橋のたもとには、いまでもトーチカが残っています。
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最近、断橋の前にへし折れた鉄骨をアート仕立てにした展示と石碑が置かれました。断橋が戦跡であることをさらに強調するための作品のように見えます。
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下流域についに新しい大橋(正式名は「中朝鴨緑江公路大橋」)が完成したものの、朝鮮側の事情ですぐには開通に至らないなど、中朝関係が以前と比べずいぶん様変わりするなか、「抗美援朝」を強調する戦跡というこのスポットの意味づけは、今後どうなっていくのでしょうか。

中朝新国境橋が完成しても開通できない理由
http://inbound.exblog.jp/23944673/

丹東の抗美援朝紀念館とあやうい愛国主義「歴史」教育について
http://inbound.exblog.jp/20441774/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-16 12:16 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 15日

丹東で唯一ショーを撮影できる北朝鮮レストラン「柳京酒店」

丹東は本ブログでもしばしば登場する中朝国境にある中国最大のまちです。

旅先では誰もがその土地の名物料理を味わってみたいと思うものですが、鴨緑江の下流域に位置するこのまちの名物は、地元産のハマグリBBQと、対岸から渡ってきた女性たちが歌舞音曲で魅了する「北朝鮮レストラン」です。

北朝鮮レストランの多くは、朝鮮戦争時に米軍によって落とされた鴨緑江断橋のたもとの河沿いに並ぶように出店しています。

もう6年以上前のことです。このまちのある北朝鮮レストランでカメラマン氏と現地の友人と3人で食事をしながら、ウエイトレスらによる歌謡ショーを観ていました。店内には韓国人客が多く、場もとても盛り上がっていました。我々日本人客がいることを意識してか、テレサ・テンの曲を歌ってくれたり、歓迎ムードに包まれていました。

カメラマン氏は彼女らの歌い、踊る姿を自由に撮影していました。彼だけでなく、韓国人客も一緒になって、その場は撮影会の会場と化していたのです。

ショーが終わると、ひとりの男性が入店してきて、プルコギを注文しました。ウエイトレスのひとりが、彼に呼ばれ、何事か話をしていたのですが、しばらくすると、ショーに出演していたウエイトレスらが我々のテーブルに集まってきて、中国語で「いま撮った写真のデータを消せ」と言い出したのです。

先ほどまでの様子とうって変った彼女たちの剣呑な態度に驚くとともに、なぜこういう事態になったのか訝しく思っていると、現地の友人が小さな声で「あの男は、北朝鮮の監視員です。気を付けてください」とささやきます。

事態の急変に珍しく強く反応したのが、カメラマン氏です。彼は中国に限らず、世界中どこに行っても同じように地元の人たちのスナップを撮るのを常としてきましたが、写真を見せると、みんな喜んで送ってくれ、となるのが普通です。それを、いきなり「データを消せ」と、先ほどまで笑顔を振りまいていた彼女たちに迫られたものですから、ショックとともに腹にすえかねたのでしょう。カメラマンにとってデータを消せと言われるほどの苦痛はないからです。

こうした様子を遠目に眺めていた先ほどの男が、不意打ちのように日本語で声をかけてきました。「彼女たちは、先ほどあなたたちが撮った写真をすべて見せてくださいと言っています。そして、問題があるものは消してほしいと」。

「なぜですか。彼女たちも喜んでいましたよ。それに問題って何ですか。いきなり消せとは失礼じゃないですか」。そうぼくが応じると、彼は言うのです。

「あなたたちがこの写真を週刊誌に売ったら、彼女たちは国に帰ったあと、どうなると思いますか。彼女たちの立場になって考えてみてください」

ずいぶんな決めつけに一瞬イラっとしましたが、なるほど、そんな言い方をするものなのかと思ったと同時に、この男は日本にいたことのある人間だとわかったので、「あなたは日本のどこから来たのですか」と逆質問してみました。関西方面のようでした。

こういう場面になると、もっとその男を質問攻めにしたくなってしまうのがぼくのたちですが、カメラマン氏がこの場には耐えきれないため、帰ると言い出したので、そこで話は終わりました。店を出ると、鴨緑江断橋の薄暗いネオンがぼんやりと光って、川面に映っていました。ひどく後味の悪い夜の思い出です。

その後、何度も丹東に来ましたが、このまちの北朝鮮レストランでは撮影は行いませんでした。実際、数年前からこのまちでは、何人に限らず、ウエイトレスやショーの撮影は禁止になっていたのです。きっとこの種のトラブルが問題化されたためでしょう。

ところが、昨年7月、2年ぶりに丹東を訪れたとき、現地の友人が「この店だけ撮影OK」と連れてきてくれたのが「柳京酒店」でした。

場所は、鴨緑江断橋のすぐそばです。店内は広く、他の北朝鮮レストランとは違い、内装もそこそこ洗練されています。どうやら中国人経営のレストランのようです。
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丹東にある北朝鮮レストランのなかで、唯一歌謡ショーの撮影が許されているのは、そのためでしょう。他店と違い、ショーは1日2回。12時30分と18時30分に始まりますが、早めに予約をしておかないといい席が取れない人気店なのだそうです。

実際、店内は国内外の観光客でいっぱいでした。実は、この近くに北朝鮮の経営する5階建てのレストランがあるのですが(なんでも世界最大の北朝鮮レストランというふれこみです)、そちらは閑古鳥のようです。やはりここは中国。客のニーズに応えられなければ、商売はうまくいかないものです。ここに北朝鮮式ビジネスのジレンマがあります。

さて、演奏が始まりました。最初の「パンガプスムニダ(お会いできて嬉しいです)」こそチマチョゴリ姿でしたが、それ以後はありがちなショーではなく、バンド仕立ての軽快なスタイルがこの店の特徴のようです。これまで中国各地、そして東南アジア方面でも北レスを見つけると足を運んできましたが、ここはショー自体に新しい趣向が感じられて面白いです。
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もうそこらじゅうで彼女たちをバックにした記念撮影が始まっています。
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彼女はもしかしたら中国人かもしれません。ちょっとあか抜け方が他のNKガールたちとは違っていました。こうした共演も中国人経営だからできることなのでしょう。
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料理は中華と朝鮮の折衷です。味は……まあこんなものでしょう。
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ところが、今回もちょっとしたトラブルが発生しました。どうやら写真はOKですが、動画はNGだというのです。それを知らずにデジコンで動画を撮っていたら、いきなりウエイトレスが近づいてきて、カメラを取り上げようとするのです。あまりの強引さに怒るというより、呆れてしまいました。およそ客に接する態度ではありません。まったく、もうひどいんですから……。やれやれ。

あとで聞くと、YOU TUBEにアップされるから動画はNGだとか何とか言っていました。

彼らにとってレストランの経営には、海外から(特に同胞である韓国から)の悪意の視線をめぐる葛藤がつきまとうようです。
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柳京酒店
http://www.ddliujing.com
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by sanyo-kansatu | 2015-01-15 10:24 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 13日

東寧要塞と3人の中国娘とアニメの話

今日の日本人の中で、東寧要塞のことを知っている人はどれだけいるでしょうか。ご遺族や近代史に特別の関心のある人を除けば、もうすっかり記憶の彼方にあり、戦跡のひとつであることすら知らない人がほとんどでしょう。そもそも中ロう国境に近い、この辺鄙な土地を訪れる日本人もまずいないと思われます。

※地下要塞の様子は――
ソ満国境・対ソ戦の歴史を物語る東寧要塞
http://inbound.exblog.jp/23965185/

一方、中国人にとっての東寧要塞とは何なのか。

昨年7月この地を訪ねて感じたのは、ふたつの側面があることです。それを語る前に、今回の要塞訪問の1日の出来事を話したいと思います。この写真は、要塞の入口のある高台から見えた東寧要塞群遺址博物館という施設です。この施設の意味については、後ほど。
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さて、東寧要塞には、中国黒龍江省の東南部のはずれに位置する東寧のバスターミナルから出る小型バスに乗って行きます。東寧には綏芬河からバスで1時間ほど。
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これが東寧のまちです。中国の奥地ともいえる辺境の地にもかかわらず、繁華街も大きく、市街地の周辺には、いまや地方名物ともいえるマンション群すら建ち始めています。ここで緑色の「要塞」行きバスに乗ります。
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市街地から東に向かって約5㎞走ると、ロシア行きの東寧の鉄道駅が右手に見えます。ここは貨物のみ運用のようです。
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さらに5㎞進むと、ロシアとの国境ゲート(東寧口岸)が見えてきます。
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東寧口岸は中ロ両国民のみ通行可能です。東寧県三岔口がこのあたりの地名で、綏芬河に比べるとのどかな国境です。ロシア人客を乗せたバスが国境ゲートをくぐるのを見かけました。

ゲートの隣には綏芬河と同様、「国門旅游区」があるのですが、ほとんど人影を見ることはありませんでした。商店なども閉まっている様子です。
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※綏芬河の「国門旅游区」は以下参照。

綏芬河の新国境ゲート建設は進行中
http://inbound.exblog.jp/23962530/

バスはここで折り返し、いったん東寧方面に戻り、途中で左(南)に折れ、要塞を目指します。このあたりの道路表記は、ハングル、中国語、ロシア語の3カ国併記です。
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終点の要塞のバス降車場所は工事中でした。
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しかも、要塞まで山道を10分近く歩かなければなりません。道中には家族連れやカップルなど、まるでふつうの行楽地に向かうような人たちもたくさんいて、彼らと一緒に山道を登りました。
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最初に見えてきたのは、中国人民解放軍の空軍機の姿でした。終戦末期のソ連軍との激戦地だったはずの東寧要塞に、なぜ人民解放軍機が?
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子供たちが飛行機の前で記念撮影をしています。

「東寧抗連英雄園」とあり、人民解放軍の著名な将軍たちの像が並んでいました。どうやら朝鮮戦争時に連合軍と戦った軍の英雄を顕彰しているようです。
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お約束の「国恥忘れるなかれ」の標語が書かれた石碑もあります。
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「第二次世界大戦最後の戦場」の石碑も。
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当地の歴史とは本来無縁のような数々の展示物をあとにし、いよいよ東寧要塞に向かいます。そのとき、3人の女の子が階段を先に上っていました。お互いに写真を撮り合ったりして、ずいぶん楽しそうです。この写真は、中国ではこんな戦跡を見に若い子が来るものなんだなあと不思議に思って撮ったものです(実は彼女たちとはあとで再会することになります)。
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要塞の入口には記念撮影する人たちが次々に現れます。まるでのどかな行楽地のような情景が繰り広げられているのです。
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地下要塞を探索したあと、東寧要塞群遺址博物館に行くことにしました。
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展示の入口に「侵華日軍アジア最大軍事要塞群 東寧要塞群」とあります。
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要塞群の地図です。一部日本の資料をそのままコピーして無断使用しているものもありそうです。
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ソ連軍のずいぶんド派手な攻略ルートが示されます。
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勲山要塞をはじめ周辺の要塞の展示です。
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当時の部隊が残した遺品を展示しています。
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ここまでは日本軍に関する資料ばかりですが、この先に初めて中国人に関する展示が見られます。
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「残害労工」。つまり、この要塞を掘るために多くの中国人労働者が駆り出されたことが明かされるのです。

この土地を訪ねた人は、この巨大なアリの巣のような要塞の不気味な存在感とそこに立てこもってソ連軍と交戦した当時の日本兵のことを想像してみるわけですが、そもそもこの坑道を掘ったのは誰か。そのことにあらためて気づかされるのです。

日露戦争と同様に、この地の戦闘には中国軍は関係ないはずなのに、どうしてこれほど巨大なプロパガンダ施設をつくる必要があったのか。最初は訝しく思っていたのですが、そのひとつの理由に中国人労働者の問題があったのだと思われます。

これが中国にとっての日本軍の非道を告発する東寧要塞の「愛国主義歴史教育施設」としての側面です。

しかし、これまで見てきたように、ここにはもうひとつの側面がありそうです。それは、この「愛国施設」が地元の人たちにとっての数少ない行楽地であることです。

そのことに気づかされたのが、前述した3人の地元の女の子たちとのささやかな交流でした。

その日はとても暑く、烈火のような日差しが東寧の要塞群の眠る山々を照りつけていました。彼女たちは博物館の前の日かげのベンチに腰かけて休んでいました。ぼくとカメラマン氏も博物館の展示を見たあと、同じベンチでひと休みしているうちに、カメラマン氏と彼女たちの間で会話が始まったのです。

彼女たちは言いました。「あなたたち、本当に日本人なの。初めて見たぁ」。そう言ってじろじろ我々を見ながらはしゃいでいるのです。中国で日本人がいまどき珍しがられるのはめったにないと思いますが、確かにこんな辺境の地に来ればそういうこともあるかもしれない。このあたりではロシア人なら何度も姿を見せたことはあったでしょうが……。そんなことを思いながら、彼女たちの反応ぶりがおかしく、かわいらしくもあったので、「君たち、どこに住んでるの?」。話を聞いてみることにしたのです。
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彼女たちは東寧の工場で働く女工さんでした。週に1度の休日に職場の友だちと遊びに来ていたのです。

だとして、なぜ戦跡のような場所へ? そう尋ねると、彼女たちは顔を見合わせ、「職場で要塞の話を聞き、行ってみようかと思った」。そう言いながら笑うのです。

おそらくこういうのも、ひとつの「愛国教育」の一環なのでしょう。

その一方で、こうも思います。本当は彼女たちだって戦跡なんかではなく、もっと楽しいところに行きたかったに違いない。でも、地元にはそんなものはないのですから、仕方がないのです。ディズニーランドもショッピングモールもない辺境の地で暮らすこの国の若者にとって、日帰り行楽地がたまたま地元にあった東寧要塞だったに過ぎないということではないか……。

実際、彼女たちがここで過ごしている様子は、中国のどこにでもある観光地で彼らが見せる姿そのものでした。もし博物館の展示を見た彼女たちが「愛国心」を刺激されていたとしたら、当の日本人を前にしてもっと違った反応を見せることもあり得たでしょう。そういうタイプの若者もきっといるに違いありません。

実は、彼女たちと会話を楽しんでいるまさにそのとき、「日本人がいるぞ」という声を聞きつけて、ひとりの中年男性が近づいてきてぼくにこう言ったのです。

「お前はこの博物館に展示された歴史をどう思うのか? 中国の老百姓についてどう考えるのか?」

そして、ちょっとした人だかりに囲まれてしまったのでした。

こういうときの発言は慎重さを要します。

「とてもひとことでは言い表せませんが、私は日本と中国の歴史をよく理解しています。この土地の歴史も知っています。だからここに来たのです」。

話はそこまででした。その男性も別に悪意を込めて問いつめようとしているというのではなく、まさかこんなところで日本人に会うとは思わなかったことから、自然に発せられたことばだったと理解すべきでしょう。

ぼくと彼女たちは一緒にバスで東寧に戻ることになりました。その日は日曜で、20~30分おきにバスは出ています。

ぼくはバスの中で、こういう年頃の中国人相手にお決まりの話題ともいえる日本のアニメについて尋ねました。「日本のアニメ好き?」。

そして、彼女たちが好きだというアニメをぼくのノートに書き出してくれたのがこれです。
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火影忍者 ナルト
海賊王 ワンピース
悬崖上的金鱼姬 崖の上のポニョ
龙猫 となりのトトロ 
千与千寻 千と千尋の神隠し
死神 BLEACH
妖精的尾巴 FAIRY TALE

彼女たちは、中国全土の若者たちと同じように、宮崎駿の作品をはじめとした日本のアニメを見ているのです。いまさら言うまでもありませんが、動画投稿サイトや海賊版DVDを通して、当たり前のように。

こういう場面に出会うたび、いつも感慨深く思うことがあります。彼女たち、中国の若い世代は日本にいるぼくの子供たちとほとんど同じ時期に同じアニメを見て育ったのだなと。ネット時代の到来以降、日中の若い世代の間でアニメ視聴の同時性が起きていたのです。これはぼくと同じ世代(1960年代生まれ)の中国人とぼくたちの関係とはまったく異なるもので、時代の変化を感じます。

その一方で、中国政府はさぞ悔しいことだろうなとも思います。昨年、中国の地方メディアが「ドラえもんに警戒せよ」と批判を繰り広げ、中国の若い世代から失笑を買ったことがありました。そのメディアによると、「ドラえもんは日本の戦争犯罪を隠ぺいするための宣伝戦だ」というわけです。なぜそのような冗談みたいな報道が中国から出てくるかという背景も、今回の東寧の1日の出来事からもある程度理解できると思います。当局は中国の若い世代の日本のアニメの浸透ぶりが許せないと感じているのです。

「ドラえもんは侵略者だ!」、日本陰謀説を唱える地方紙に批判集中、「頭おかしいんじゃないの」(2014.9.27)
http://www.recordchina.co.jp/a94827.html

その日、ぼくは綏芬河から夜行列車でハルビンに行く予定でした。そのため、東寧からバスで綏芬河に明るいうちに戻らなければなりませんでした。しかし、「要塞」発のバスは東寧の市街地のはずれで降ろされ、バスターミナルまで彼女たちに案内してもらうことになりました。

これに似た経験はこれまで何度もあります。中国に対する偏りがちな見方を調整するうえでも、名も知れないような地方都市を訪ねるのは面白いものです。

※中国の若者と日本のアニメについては以下参照。

アニメと「80后」の微妙な関係
http://inbound.exblog.jp/i13/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-13 12:32 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 04日

ソ満国境・対ソ戦の歴史を物語る東寧要塞

昨年7月、アジア最大規模の日本軍地下要塞といわれた東寧要塞を訪ねました。
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場所は、中国黒龍江省の綏芬河から約50km南に位置する東寧県のロシア国境近くにあります。

1934(昭和9)年6月に関東軍によって建設され、主要部分は37年に完成。45年8月9日のソ連軍の侵攻後、この地下要塞に配備された東寧要塞守備隊は敗戦から10日過ぎの26日まで戦い続け、玉砕することなくソ連軍の降伏勧告に応じて武装解除したことから、「第二次世界大戦最後の戦場」という碑が置かれています。
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現在、東寧要塞の一部にあたる勲山要塞の内部が公開されています。

これが勲山要塞の入り口です。
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入り口を入ると、レールと階段が敷かれた急勾配があります。ここは砲台で、砲撃が終わると砲車を中に引き上げるようになっていたそうです。
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炭鉱の坑道のような通路が続きます。
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「軍官宿舎」とあります。そこそこ広いスペースの部屋になっています。
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山の中をくり抜かれた地下要塞の中は、夏でも湿った冷気で長時間過ごすのは大変そうです。
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「作戦指揮室」とあります。
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こちらも相当広い部屋ですが、コンクリートの壁を湿った水がぬめりと覆っています。
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洗面所(トイレ?)でしょうか。
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内部には複数の砲台跡があります。
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これが現在、観覧できる地下要塞の地図です。もちろん、要塞はさらに張り巡らされていたはずですが、安全上などの理由で公開されていません。
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要塞の外はごつごつした岩山で、あちこちに砲台跡や通気口があります。
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当時、満洲国の東部国境地帯の東寧から北に向かって約300㎞の虎頭までの一帯は、対ソ戦に備えて構築された関東軍最大の要塞地帯でした。
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勲山要塞(東寧要塞の一部)
黒龍江省牡丹江市東寧県三岔口鎮南山村南
http://www.dnys.org.cn

この地下要塞を整備し、公開したのは、もちろん中国です。彼らから見た東寧要塞についてはまた後日。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-04 10:46 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

綏芬河の新国境ゲート建設は進行中

中国黒龍江省の綏芬河では、ロシアとの国境ゲートの周辺を「国門旅游区」として開発しています。

中国のイミグレーションを訪ねると、帰国の途につくロシア人たちがやって来ました。
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彼らは吸い込まれるように、出境オフィスの中に入っていきます。
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現在、ここでは新国境ゲートを建設中です。
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これが未来図ですが、規模の大きさは半端じゃありません。
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これが古い国境ゲートです。
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中国人観光客も来ていて、記念撮影しています。
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この「旅游区」の中では、2013年夏から中国国際口岸貿易博覧会が開催されています。
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この博覧会について
http://www.erina.or.jp/jp/Library/bn/pdf/bn99.pdf

ネットなどの情報によると、昨年8月も、ロシア各州や韓国、台湾などの名産品(食品や酒)、中国の自動車部品、住宅建材、日用品、衣類、機械などが出展されていたもようです。

会場となった巨大なビルは、ふだんはロシア産品などの販売展示場になっていました。
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やたらと広いスペースに、イクラの瓶詰とかズワイガニの缶詰とかがちょこんと置かれています。
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ロシアのチョコレートも。
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中国客が買い物しています。
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マトリョーシカも売っていました。本来ロシア土産のはずですが、黒龍江省ではハルビンをはじめ、けっこういろんな場所で売っています。
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よく見ると、「中国産」でした。

おそらくロシア人ツーリストの来訪をあてこんで投資されたものと思われますが、ここにはホリディ・インがあります。ただし、館内は閑散としていました。おそらく大半のロシア人たちは、市内のもっとリーズナブルなホテルを利用しているのだと思います。
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はたしてこの中ロ国境は今後も発展していくのでしょうか。

綏芬河の街中にあふれるロシア人と中国商人たちが繰り広げる活気は確かに興味深いことです。

一方、今日の中国とロシア、とりわけ極東における両国の人口規模や経済力の違いを考えると、北朝鮮との関係ほど悲観的ではないものの、どこまで輝かしい未来が待っているかについては複雑な思いがないではありません。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 18:01 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

綏芬河の土曜の夜は、ロシア人も中国人も踊る、の巻

昨年7月、綏芬河を訪ねたとき、毎日通いつめたレストランがあります。まちいちばんのロシア料理店「マクシムレストラン(馬克西姆餐庁)」です。

このレストランの3階のバーはちょっとしたクラブスペースになっていて、土曜の夜の10時過ぎに足を運んでみたら、ロシア人と中国人が仲良く踊っていました。手前にいるワイングラスを手に咥え煙草のロシア人のお姉さんはなかなかカッコ良かったです。
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いまどき中国のどこの地方都市でもこの手の場所はあるものですが、ロシア人がこんなにあふれているのは珍しいでしょう。客の7割がロシア人、3割が中国人という感じでしょうか。電光掲示板にはロシア語と中国語が交互に流れてゆきます。
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音楽的にはわりとありふれた洋楽中心ですが、たまに聴き慣れないロシアンポップスがかかると、ロシアの女の子たちも俄然盛り上がり、いい感じになります。
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この鳥かごに入ったロシア人ダンサーは、このまちに出稼ぎに来ているのでしょうか。

ここでは、毎晩クラブ形式でさまざまなイベントを開催しているのだそうです。特に週末の夜はクラブDJが仕切るダンススペースと化すので、人気があるのだとか。

綏芬河、週末のマクシムバーにて(動画)
http://youtu.be/_1zxaTjS8oA
http://youtu.be/mp6aLr4k5ww
http://youtu.be/ENUZxRWt9Y0
http://youtu.be/PlT83_VSkWc

ちなみに、1、2階のレストランはロシア料理中心のメニューでしたが、午後はコーヒーとケーキでのんびり過ごすこともできます。
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中国の地方都市を長く旅していると、こういう一息つける場所はそんなにないので、助かりました。客の大半はもちろんロシア人です。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 17:24 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

綏芬河にはロシア人ツーリストがいっぱい

これまで昨年7月に訪ねた綏芬河駅の様子歴史的町並みを紹介してきましたが、いよいよ現在のまちの姿を見ていこうと思います。

舞台は、市の中心に位置する旗鎮広場の東側に広がる「中ロ商業貿易街地区」周辺です。

この一角には、ロシア人ツーリスト相手の商店やレストラン、マッサージ店などが並び、ロシア語の看板で埋め尽くされています。ロシア人仕様の衣料や生活雑貨、食品などを扱う商店があります。
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中国国内でこれほどロシア語のあふれるまちはないのではないでしょうか。広告ポスターもたいていロシア人がモデルです。
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これがこの地区の昼間の様子です。ロシア人だらけです。
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2012年夏にロシア極東を訪ねたとき、ウラジオストクの若い女性がこう話してくれたことを思い出しました。「ウラジオストクに住むロシア人の多くは、半年とか1年ごとに給料を貯めて、中国に買い物に行くんです。ロシアはモノが少ないし、高いから。私はこの前綏芬河で毛皮のコートを買いました」。確かに、綏芬河にいるロシア人は男性より女性の比率が圧倒的に高いように見えるのも、買い物がいちばん目的で来ているからでしょう。日本の女性が韓国旅行に行くのと似ているのではないでしょうか。彼女らにとって半年、1年ぶりのハレの場なのです。実際、みんなとても楽しそうです。
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このまちには地下街があり、商店の販売員は誰もがロシア語を話します。
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商品の値札はルーブル表記です。
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ショッピングモールもあります。
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ロシアレストランも何軒かあり、家族やカップルで食事を楽しむ人たちの姿が見られます。彼らは中国料理も好んで食べるので、たいていのレストランのメニューには西洋料理と中国料理がミックスされています。
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「マクシムレストラン(馬克西姆餐庁)」の広告(動画)
http://youtu.be/HcKxBXx1kvo

ここはまさに「中ロ友好」を絵に描いたようなまちといえます。政府の公用車には、プーチン大統領と習近平主席が握手するポスターも貼られて、それをアピールしています。
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夜はロシア語のネオンが色鮮やかに輝いています。
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これが中ロ国境のまちのいまの姿です。

もっと綏芬河の夜を知りたければ、以下を参照ください。

綏芬河の土曜の夜は、ロシア人も中国人も踊る、の巻
http://inbound.exblog.jp/23962403/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 12:54 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

「典型的な露西亜式」綏芬河の歴史的街並みを歩く

戦前期のグラビア誌「満洲グラフ」は、1935年当時の綏芬河について以下のように記述しています。

「人口約一万、大部分は露人と滿人で、鮮人がこれに次ぎ、日本人も六百人位住んでいる。町は山の斜面に建てられ、その中央には全市をしろしめすかのようにロシア正教寺院の尖塔が聳え、如何にも典型的な露西亜式の『山の町』を成している」(「満洲グラフ」1935(昭和10)年5月号)

昨年7月、綏芬河を訪ねました。80年前に「典型的な露西亜式の『山の町』」といわれた歴史的な街並みを歩いてみました。

まず綏芬河駅から。1898年に開業した東清鉄道の駅です。
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これが乗車口です。この駅にはロシア側の国境のまち、グロデコヴォ行きの列車が1日2本出ています。
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駅舎内です。
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鉄道をまたぐ橋の上から、ロシアからの木材を満載した貨物列車が見えます。
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これは東清鉄道の技術者のための宿舎で、現在は「鉄路大白楼」(1903年竣工)と呼ばれています。満鉄職員の宿舎だったこともあります。現在は市が来賓を接待する場として使われているようですが、観覧はできません。
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その隣にも当時の鉄道関係と思われる建物があります。駅の周辺にはこうした建物がいくつか残っています。
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駅からまっすぐ坂を上った先に東方正教会(1913年)が建っています。
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いまでも礼拝は行われているようですが、ロシア正教ではなさそうです。内装は当時の面影はありません。
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これは当時のロシアとソ連の領事館(1910年)です。新中国になると接収され、共産党の機関や郵便局などに使われました。
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現在は文化施設として再利用される予定のようです。
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この大きな建物はロシア人学校です。日本時代は軍の施設だったようですが、現在は幼稚園のようでした。子供たちの歌声やピアノの音色が聞こえました。
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これは1916年に建てられたホテルでしたが、24年に共産党の幹部がここで会合をしたことから「綏芬河革命紀念地」と書かれています。現在は針灸と按摩の病院のようです。
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これは旧日本領事館です。建物自体はロシア人商人が1914年に建てたもので、22年に日本政府が購入して領事館にしました。文化革命時には排外的な暴徒によって美しい装飾が破壊されるなど被害があったものの、92年に修復されました。
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3階と4階の間に施された人の顔の装飾が珍しいことから、「人頭楼」と呼ばれています。もっともこれを見る限り、ずいぶん雑な修復ぶりですね。現在は、語学教室など、いくつかのオフィスが入居する雑居ビルとなっています。
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まちの中心に位置する広場は「旗鎮広場」と呼ばれています。
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頭上から広場を眺めると、ヨーロッパのような街並みに見えます。この辺境の地でもマンション建設が進んでいることがわかります。
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このまちでは、通りやバス停の表示にはロシア語が併記されています。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 11:17 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 02日

朝9時半、綏芬河駅にロシア人が大挙して現れる、の巻

「露語で『国境に沿ふ町』を意味するポグラニーチナヤは、單に北鐡東部線(現名綏芬河線)の終点であると言ふばかりではなく、國境驛として特異な風格を持っている。
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人口約一万、大部分は露人と滿人で、鮮人がこれに次ぎ、日本人も六百人位住んでいる。町は山の斜面に建てられ、その中央には全市をしろしめすかのようにロシア正教寺院の尖塔が聳え、如何にも典型的な露西亜式の『山の町』を成している。

日、蘇の領事館はじめ、両國の税關、滿洲國國境警備隊もあり、滿洲里との間に一週三回往復する北鐡國際列車が着發する日には、蘇聯邦の方から鳥鐡(ウスリー鐡道)の列車も連絡のために本驛に進入して来る。

北鐡の接収によって、ポグラニーチナヤの驛名は永久に解消され、滿洲名の綏芬河だけが残る事になった」(「満洲グラフ」1935(昭和10)年5月号)

昨年7月、中ロ国境にある黒龍江省の綏芬河を訪ねました。

朝9時半、綏芬河(旧ポグラニーチナヤ)駅の降車出口にロシア人が大挙して降りてきました。
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大人から子供までいますが、やはりロシアの若い女の子たちの快活な姿は、中国の辺境のまちを華やかにしてくれます。
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皆さん、大きなバッグやスーツケースを手にしています。彼らは中国のお隣の極東ロシアからやって来たツーリストです。
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彼女らの頭の中は、さぞや滞在中の買い物や食事のスケジュールのことでいっぱいでしょう。
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しばらくすると、皆さん駅前で待っていたバスに分乗して市内のホテルに消え去りました。
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2014年7月中旬午前9時半、綏芬河駅にて(動画)
http://youtu.be/7H7ciL_w3vg
http://youtu.be/K5dvycowSIc

綏芬河の都市建設は、20世紀初頭の東清鉄道の敷設に始まります。ロシアはハルビンからポグラニーチナヤ(綏芬河)までの鉄道建設を着手しましたが、その後、日露戦争や満洲国成立を経て日本の管理下に編入されていきます。前述のグラビア記事は、まさにその直後に書かれたものです。

そして、これがそれから80年後の中ロ国境のまち、綏芬河の姿なのです。

万年モノ不足で悩まされている極東沿海地域に住むロシア人たちが中国東北地方に大挙して現れるようになったのは、1990年代の後半くらいからのことです。

背景には中ロの経済逆転があります。その事実に気づいたロシア人エリートたちは当時、相当ショックを受けたそうですが、一般のロシア市民にしてみれば、国境を越えた先に、こんなに安くてモノが豊富な場所があれば、迷わず足を運ぶことになるのは当然だったでしょう。

こうして綏芬河は、ただの中国の辺境の地からロシア人ツーリスト仕様のにぎやかなまちになりました。もともとロシアが建設したまちに“出戻り”を始めたロシア人たちと商機を求めてこの地に集まってきた中国人がこのまちの主人公なのです。

昨夏見た綏芬河のまちの様子については、次回ご報告します。

「典型的な露西亜式」綏芬河の歴史的街並みを歩く
http://inbound.exblog.jp/23961267/

※実はあとで綏芬河駅の時刻表を確認したところ、9時半に到着する列車は大連発ハルビン経由であることが判明しました。つまり、この写真に写っているロシア人ツーリストは、大連またはハルビンなどをめぐるツアーに参加し、ロシア帰国前の最後の目的地として綏芬河に到着したものと考えられます。実際、大連は金石灘のような海水浴場もあり、ロシア人に人気だという話もウラジオストクで聞きました。綏芬河からだと国際バスでロシアに戻ることも簡単なので、ここで降車するのでしょう。いずれにせよ、皆さん買い物するならやっぱり綏芬河なのです。その様子は以下を参照ください。

綏芬河にはロシア人ツーリストがいっぱい
http://inbound.exblog.jp/23961594/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-02 23:55 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)