カテゴリ:歴史から学ぶインバウンド( 14 )


2014年 06月 01日

「上海よりの外人誘致」~80年前の座談会で語られる課題は今と変わらない

5月中旬に上海の旅行博の視察に行ってきたばかりですが、「上海よりの外人誘致」つながりという意味で、とても興味深い戦前期の記事を見つけたので、紹介したいと思います。

1913(大正2)年に創刊された外客誘致の専門誌「ツーリスト」1934年7月号に掲載されている「夏の雲仙公園~上海よりの外人誘致」という座談会です。いまからちょうど80年前に行われた座談会でありながら、そこでやり取りされる内容は、今日の日本の外客誘致が抱える課題と基本的に変わっていないことに驚きすら感じました。日本のインバウンドの構造問題がそこに提示されているといえるのです。
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以下、ざっくりと内容を紹介します。出席者は6名ですが、肩書がいっさい書かれていません。内容から察するに、国際観光局の関係者(日本および上海事務所)や話の舞台となる長崎県雲仙の観光関係者などだと思われます。

冒頭、以下の問いかけから、座談会は始まります。

「上海方面からは主として雲仙にお出になる方が多いのですが、それはどんな理由からか、又それに関して参考になるようなことを伺いたいと思います」

※1910年当時、雲仙を訪れた外国客については→「なぜ多くの外客が戦前期に雲仙温泉を訪れたのか?」

これに対する出席者の発言を以下、順を追って書き出してみます。

「主な所はマア地理的の関係からで、近いから簡単に行ける」
「行楽の意味からなら青島などもいいのですが、それはやはり同じ支那の土地でありますから感興もそれ程湧かない、日本ですと山水の美も異なりますし、設備もよく整っているといふので来られるやうです」

「外国人は何処の國の方が一番多いですか」の問いについては、「ロシヤ人、英国人が多いやうに思ひます」。

「雲仙に就いて、上海の外国人はどんな希望を持っていますか。何か注文もあるでしょうし、又非難されているような所がないとも限りませぬが…」

「非難も相当耳に致します。第一に部屋を申し込むのに不便がある。とにかく夏半ばになるとホテルが大抵一杯でどうする事も出来ないといふのが主な非難ですが」

上海の外国人の人気渡航地だった当時の雲仙でも、ハイシーズンのホテルの客室不足が問題となっていたようです。その内実はこうです。

「(雲仙に)従来七八軒あるのは旅館とホテルの合の子もたいなものなんですが、お客様の状態と照り合わせると確かに部屋數が不足しているんです。彼方の部屋数總體から言へば四百五十人程の収容數ですが、最盛期には平均して昨年などでも五百人以上の人を収容している。其の結果相当混雑を来しているような状態で、何とかしなければ、雲仙へ行っても泊まれないから駄目だといふやるな考へを起こさせる事になると思ひます」「雲仙は四、五月頃になるともう満員で、七、八月頃になって渡り鳥のやうに飄然と来られて泊めてくれといってもお断りするより仕方ない」

なかにはこんな話も出てきます。

「其の為めに、去年は天幕を張ってお世話したのです」。「天幕」とは臨時の宿泊用テントのことです。「今年もキャンプをやってホテルに入りきれない人々に利用していただくつもりですが」。

これはえらいことですね。せっかく上海航路で日本に避暑に来たのに、テントに泊まるほかなかったとなると、こういう話題はすぐに上海の外国人租界中に広まるおそれがあり、雲仙の外客誘致にとって致命的な打撃を与えかねません。

ところで、雲仙を訪れる外客に関する出席者の発言からいくつかの興味深い指摘が見つかります。たとえば、こんなコメントです。

「今雲仙に来るお客さんはあまり上層階級の人は来ないといふことになっているが、凡ての人が夏の間だけは来られるやうな風にしたい。ですから彼處にホテルを造るにしてもさういふ向きのホテルを造りたい。すべての人が行って其の生活をエンジョイすることが出来るといふ、幾分高級のもので、やがてさういふ風な人は東京附近にも来られるやうにしたいと思ふ、現在では極く上の階級は日本へ行けば、箱根、宮ノ下迄行かなければならぬ、さりとて雲仙で電車の車掌さんなどと一緒になるのは嫌だといふ人は青島や大連に行っているのであるから、雲仙を足場としてあらゆる階級に相應しいやうに、設備したいと思ひます」

ここで面白いのは、当時雲仙は上流階級向けではなく、上海租界在住外国人のうち中流階級以下向けのリゾートとして認知されていたということです。それゆえ、上流階級向けのホテルを建設することで、より幅広い層の外客を誘致すべきだと指摘してきしています。また、蒸し暑い上海の夏を抜け出す避暑地としての雲仙のコンペティターが、青島と大連であるというのも、今日の感覚では思いもよらないものです。

ホテルの客室不足は、今日の日本のインバウンドにも共通する深刻な問題のひとつといえます。その解決策として、当時も同じことが言われていたことが次の指摘でうかがえます。

「雲仙は混んでいるが、唐津に行けば部屋が空いているといふやうな事を客に十分呑み込ませるやうにしていただきたい。上海のオフィスと長崎のオフィスとよく聯絡をとってやられたらいいと思ふ」

誘客地の分散化を進めることの必要性は、当時も理解されていました。そのためにも、上海のジャパンツーリストビューローのような海外にある外客誘致のための宣伝機関が地元と連絡を密にして、情報発信していかなければならないと指摘しています。

さらに、シーズンの分散化も必要だという指摘も見られます。

もともと「日本人の来る季節と外人の来る季節とが違ひますから大して障りないと思ひます。日本人は夏は殆ど行きませぬ。又躑躅の時期、紅葉の頃には西洋人が来ない。其の利用状態からいっても彼處は外人と日本人とは分かれていると考へております」と思われていたのですが、当時は日本人のホテル利用が進んできており、これもホテルの客室不足の大きな理由になっていたからです。そこで、ある出席者はこう提言しています。

「上海方面から来られる方は只今の所夏が主なやうですが、四季を通じてお出になるやう、彼方にいらっしゃる方のお骨折を煩したいと思ひます。春は櫻とか、秋は紅葉頃に、又冬はクリスマスのお休みを利用してスキーに来られるとか…」

ただし、別の出席者はその難しさをこう率直に吐露しています。

「私の方ではいろいろパンフレットなども沢山造りまして、クリスマスからお正月にかけて出かけられるやうに、夏と同程度の船賃に下げてやってみましたが、甚だ不成績でした。もっとも上海支店の者は始めから気乗りしておりませんでした。色々の理由があるやうですが、大體に於いて西洋人はクリスマス、お正月は旅行しない。家に閉じ籠る者が多い。又忙しくてお正月とはいっても男は仕事している者が多いので、家族の者も出かける譯には行かないのだと、そんなことを申しておりましたが、全く失敗しました」

インバウンドはまさに試行錯誤の連続なのですね。

後半でも興味深い提言がいくつも出てきます。

「夏以外に四季を通じてどの位お客を引っ張れるか、上海の方は一つよく研究していただきたいですな(中略)春の休みを利用して何とか吸引策はないか、充分研究してみてください」

「観光局としては四季を通じて折々新聞雑誌に廣告しております」
「私は活動写真を利用するのが非常にいいと思ひますが…」
「それは三、四年前から御経験願っている譯なんです。雲仙のキャンプ南下を撮ったのもありますし、サンマー・イン・ジャパンといふ活動写真なんか利用率さへよければどしどし使っていただきたいと思っています」

「上海を中心にして揚子江、香港、マニラ、ジャバ、あの方面にいる欧米人に食ひ入る為めに、上海に宣傳を中心にした出張員がいるといふことが必要じゃないかと思ひます」
「今の上海の鐡道の駐在官は私もよく知っておりますので、政治上の事は別問題として、観光上に大いにやって貰ひたいといふことを個人としてよく頼んでおきましたが…」

この座談会が行われた1934年当時の時局について、以下のような発言もあります。

「(雲仙に外客が急増する背景として)何といっても支那が何となく物騒である。そして日本の為替が安い。先生達の習慣として休みの間は何處かに出かける癖がある。従って船賃もあまり高くない、そして生活も楽であるから、日本へ来る人は増えないまでも、大體今の程度で行くのではないかと思ひます」

当時も今日同様、円安が大きな外客急増の背景となっていたのです。さらに、日中対立という時局の問題も…。

「郵船としては一週二回の定期を出します。つまり、四日八日に二回、支那人も相當に雲仙に行くことと思ひます。それから昨年急激にお客の増えた理由としては、日本、支那に於ける大きい外國商社の使用人が本國に歸る休暇を延ばされたらしいですな。三年か四年目に歸るのを来年にせよとかいふ事で、そんな點から家族などは何とかして避暑でもしなければ健康上困るといふそれが一つ、又相変わらず支那内地が物騒であるといふ點で、それは今年もあまり變わりないかと思ひます」

1934年というのは、第一次上海事変(1932年1月)と第二次上海事変(1937年8月)の間にあたる時期でした。逆をいえば、戦闘状態が起きているなか、外客誘致のための活動はふつうに続けられていたのです。実際のところ、上海租界在住の外国人たちは避暑地を選ぶにしても、できれば中国から離れたいという思いがあったことでしょう。

今日上海からの訪日客誘致といえば、上海とその周辺に住む中国で最も経済発展した地域の中国人たちを日本に呼び込むことですが、80年前は上海租界の外国人を上海・長崎航路のある長崎県雲仙に呼び込み、そこから訪問地とシーズンの分散化を図ることでした。

私たちは80年のときを経て、先人たちと同じ課題に向き合っているのです。
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by sanyo-kansatu | 2014-06-01 11:38 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 06月 01日

85年前にすでに話題となっていた巨大クルーズ客船「コロムバス」号

近年、海外から寄港するクルーズ客船を誘致する動きが全国で広がっていますが、実は昭和の初めごろの日本でも同じことが起きていました。

外客誘致の専門誌「ツーリスト」1930(昭和5)年3月号には、ニューヨーク発の巨大クルーズ客船の来航のニュースが紹介されています。
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「巨船コロムバス」

「大き過ぎて横濱桟橋への繋累が問題となり各方面の心配の種となったコロムバス号がいよいよレーモンド・ホイットコム社主催の観光団を満載して来月二日神戸、四日横浜へ入港する。この汽船は北独逸ロイドに属し、『ヨーロッパ』、『ブレーメン』に次ぐ巨船で、總噸數三萬二千五百噸、長さ七百七十五尺、幅八十五尺で。我國第一の汽船浅間丸に較べ噸數に於いて一萬五千噸、長さに於いて百九十一尺大きい。定員は一、二等各四百名、ツーリスト・キャビン二百名、三等六百五十名計千六百五十名で、外に乗務員七百三十名、總計二千三百八十名となる。

同船は一月廿一日紐育出帆、歐州から地中海かけての主要都市及マニラ、香港、臺灣、支那、朝鮮等を歴訪し内地では四月一日宮島が最初の寄港地となっている。宮島では一行歓迎の為燈篭流しを行ふ豫定である」

いまから約85年前の話です。面白いのは、当時もクルーズ客船が大きすぎるため、横浜港の寄港が危ぶまれたという話です。今年3月、英国のクルーズ船「クイーン・エリザベス号」が横浜港に初寄港する際、高さ55mの横浜ベイブリッジを干潮時にぎりぎりの高さで入港したというニュースが伝えられましたが、当時はベイブリッジこそないものの、日本の桟橋の規格が海外の大型クルーズ客船仕様になっていないため、大変だったという話は、いまもって変わらないことがわかります。

日本各地の港湾の桟橋の規格が小さすぎるため、先ごろの世界の大型クルーズ客船のトレンドに合っていないことから、クルーズ市場において大きくアジアの港湾都市に差を付けられていることはよく指摘されます。

また乗客数1650名、乗務員730名の総計2380名が一度に上陸するという規模は、今日のクルーズ客船とほとんど変わりません。これだけの数の欧米客が一斉に上陸するのは、当時の日本人にとっては、かなりインパクトのある光景だったに違いありません。当時日本を代表する港湾都市であった横浜や神戸はともかく、最初の寄港地となった宮島では、その日どんな光景が見られたのか、想像するだけでも楽しくなります。海の中に屹立する宮島の厳島神社の鳥居は、外国客にとってとても神秘的な光景に映るのでしょうね。いまはそれほどでもないようですが、当時のツーリスト誌を読んでいると、欧米客の厳島神社の人気の高さがうかがわれます。コロムバス号の3番目の寄港地として宮島が選ばれたのは、理由があったと思います。

※戦前期、外国客はどこから入国したか? http://inbound.exblog.jp/22097926/

最後の「宮島では一行歓迎の為燈篭流しを行ふ豫定である」という一文も、日本人の考えるおもてなしというのは、いまも昔も変わらないものだと微笑ましく思えてきます。

※【後編】台湾発クルーズ客船、那覇寄港の1日ドキュメント http://inbound.exblog.jp/20365044/
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by sanyo-kansatu | 2014-06-01 11:19 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 15日

ご当地みやげを改造せよ(1919年の提言)

ツーリスト28号(1917年11月)において、国内観光地に外客や国内遊覧客の便宜を図るためのさまざまな設備をつくることを提案したジャパンツーリストビューロー幹事の生野圑六は、2年後、次なる提案をしています。

それは、ご当地みやげを改造せよ、です。

「遊覧地土産品の改造を促す」(ツーリスト40号(1919年11月))の中で、彼はまず伊香保温泉を訪ねた折、遊覧客向けの設備が著しく改善されたことを「愉快」に感じたと述べたうえで、こんなことを書いています。

「一般遊覧地に對し上記六ケ条(ニッポンの観光地は外客の存在を意識して大正期に近代化された)の外更に所謂土産品の改造を促したいのである」

どういうことでしょう。

「今日相当名ある遊覧地を旅行して最も煩く眼に觸れる一は土産品である。曰く『温泉みやげ』『海水浴みやげ』其他神社佛閣に因める、さくら、もみぢもゆかりのあるもの等殆ど幾千種を以て數へらるるのであるが、假令土産品、名物の名は共通であっても此種のものが果たして土地特有の特色を出して居るか否乎は甚だ疑はしいのである。忌憚なく謂はしむれば今日の所謂土産品は其名の共通なる如く其實物も共通であって甲地のものも乙地のものも更に異れる點がない、例へば『松島みやげ』と称する貝細工と『江の島名物』の貝細工とを比較し、又箱根特産と銘打たる木細工と熱海名産の木細工とを比較する時吾人は容易に各自異れりとする其特色を見出し兼ぬるのである」

痛いところを突いていますね。でも、これは今日においても見られる現象ではないでしょうか。

生野は言います。

「土産品としては其種類の如何を問はず絛件として多少に関はらず必ず地方的趣味地方的特色を基礎として加味したものであって欲しい。例へば木曽の名物ならば本曾特有の或物を得て之に歴史的、傳統的な意義を含ませ、其郷土的色彩を加工の上に施したならば、単に一箇の木曽みやげとして見る以外之に由り其郷土人士の趣味性、風俗などより種々なる思想の上のことまで味ひ得られるであらう」

まったくおっしゃるとおりですね。

「一方又みやげ品は地方遊覧地の繁栄を期する上にも可なり重要な財源の一に數ふる事が出来る。従って各遊覧地が工夫を凝らし特色を発揮し、其需要を活発ならしむるに努めれば単に旅客の注意を喚起し趣味を満足せしむるに止らず、或る意味に於ては遊覧地住民に對する副業奨励ともなり遊覧地旅客相互に稗益するところ蓋し鮮少ならざる可しと信ぜられる」

高速道路沿いのサービスエリアがアジア客に人気といいます。そこで販売されるさまざまなご当地みやげを買うこと自体がお楽しみの時間になっているのだそうです。ですから、ツアーバスの関係者も、単なるトイレ休憩の場所ではなく、じっくり時間を取るそうです。

日本人の目からみると、ご当地みやげと称されるものの中には、かつて生野が指摘したようなマユツバっぽい品々も紛れているように思いますが、少なくとも海外の観光客にとって観光アトラクションのひとつになっているというのは、面白い話です。生野は、この光景を見て何を思うのでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-15 11:16 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 15日

ニッポンの観光地は外客の存在を意識して大正期に近代化された

外国人観光客の増加は、国内の観光地にいろんな影響を与えます。その端緒となったのが、1912年のジャパンツーリストビューローの設立を機に、国として外客誘致を始めたことにありますが、それから5年後。国内外の旅客が著しく増加したことが、「遊覧地に對する提案」(ツーリスト28号(1917年11月))という論考の中で述べられています。

ビューローきっての論客、生野圑六はこんな風に書いています。

「斯く旅客増加の原因は勿論交通機関の発達、商工業の隆盛、国民経済の好況其他種々なる理由に基く事でもあらうが、近来我が國民間に健全なる旅行趣味が著しく普及され来たつた事も其主なる理由の一として挙げなければならぬ。殊に今年の夏の如き登山旺盛熱を極め、富士、日本アルプス、木曽御嶽等の登襻者激増し、之が為め中央線の各列車は登山期中殆ど連日白衣の登山者を以て満たされてあつた。而して如上の旅客を呑吐する新宿飯田町两驛に於ける七八月中乗客は九十二萬五千餘名にも達し、昨年の同期に比し實に十六萬八千名の増加であつた」

この記述から、大正期に入ると、近代交通を利用した登山などのレジャーの大衆化が日本で始まったことがうかがえます。当時の登山者はお遍路みたいに白装束だったのですね。こうしたレジャーブームは内地だけ話ではありませんでした。どういうことでしょう。

「従って是等旅客を吸収する地方遊覧地温泉等に於てもこの夏は未曽有の好景気を示し、相当信用ある旅館の如き悉く満員にして一、二週間前豫約し置くにあらざれば到底其客室も得難き有様であつた。単に其は我が内地ばかりではなく満洲に於ても青島に於ても同様であった。外人避暑客も亦日光箱根鎌倉輕井澤温泉(うんぜん)等に避暑せる以外北海道に或は山陰北陸に涼を趁ふて赴けるもの不尠、我が國に於ける主要遊覧地に就き調査せる所に由れば其夏期滞在外人數は昨年に比し今年は約三割の増加であった」

この時期、日本の周縁に「外地」という植民地空間が広がりつつあり、多くの日本人が海外に足を運び始めました。一方、外国人も全国各地の観光地に繰り出していました。おそらく日本の歴史上、これほど多くの人々が一斉にレジャーに出かけるという光景は初めてのことだったに違いありません。

ところが、こうした盛況にもかかわらず、生野はこう言っています。

「我が國民間に旅行趣味の普及され来つた事、實に斯くの如くであるが、一方是等旅客を歓迎収容す可き遊覧地は現在果たして之に對應する丈の進歩発達をなしたであろうか、はた又設備施設を有するであろうか」

そして、「遊覧地に對する提案」として以下の6つを挙げるのです。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事
ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事
ハ)簡易図書館を設くる事
ニ)物産陳列館を設くる事
ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと
ヘ)戦利品陳列に對する注意

以下、簡単に説明しましょう。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事

「各遊覧地に案内所を設くる事は先づ第一に必要である。欧米の各遊覧地には大抵案内所があつて該遊覧地竝附近の見物散歩に関するインフォメーションを與ふるは勿論、旅館貸家貸室の斡旋をなし、遊覧地の地図や案内書などを無代で配布している。我が國でも已に道後温泉大原海水浴場其他二三のところでは温泉事務所や旅館組合で夫夫斡旋しているやうであるが、是非之は一般遊覧地にも普及さしたい」

まずは観光案内所の設置。これが外客受入の第一歩というわけです。現在どんな小さな町にもある案内所は、この時期に広まっていったのですね。

ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事

「遊覧客誘致上案内記の必要且有効な事は本誌に於ても屡々繰り返し唱道している次第であるが、猶未だ充分とは謂はれぬ。尤も長崎県温泉(うんぜん)の如き懸賞を以て英文露文案内を発行し、別府箱根の如きも町やホテルで英文案内を発行して遠く海外に迄配布しているが、相当名ある遊覧地で未だ案内記を持たぬ所が澤山ある」

国内の一部先進的な観光地では、すでに英文の観光案内書が用意されていました。生野はその内容についてこんなことを書いています。

「案内記の発行といっても多額の費用を投ずる必要は毫もない。半紙一枚乃至二枚大の洋紙に表面に簡単なスケッチマップでも印刷し裏面に交通状態遊覧箇所旅館車馬料金其他を掲載して置けば事たることである。温泉ならば其泉質温度効能入浴上の心得などを記す可きは謂ふまでもない」

内容は簡単でよいが、旅行者にとって必要な情報に絞り込むべし、とのこと。また配布場所や費用の捻出法など細かい提案をしています。

「而して是等は各旅館又は前述の案内所に供へ置き宿泊者に之を與ふる以外、各主要地の旅館或は停車場に配布して旅客誘致の具と為さば一層効果ある事と信ずる。其費用に関しては旅館組合の出資或は町村費を以て作製する事」

さらに、外客誘致のための具体的な提案もあります。

「差当り東洋在住外人竝露人浴客誘致の為め英露文案内記を発行し関係各方面に配布するなど最も時宜に適した遣り方であらう。若し出来得るならば箱根温泉(うんぜん)別府有馬伊香保等少くも外人浴客を収容し得る設備を有する温泉場が共同して相当出資の上、外国文温泉案内乃至ポスターを発行し、更に進んで海外の新聞雑誌へ浴客歓迎の聯合廣告を出す様な方法を取る迄に奮発して貰ひたい」

ハ)簡易図書館を設くる事

「簡易図書館乃至巡回文庫の設置は遊覧客の為めにもなれば又其町村の為めにもなる」「場所は特殊の建物を有せざる遊覧地に於ては学校の一隅乃至物産陳列館の一部或は倶楽部の一部を利用するも可」

スイスでの視察を通し、欧米のリゾート客たちがホテルのカフェなどで読書する姿を見ていたであろう生野は、観光地に簡易図書館が必要であることを提案しています。そこにどんな本を置けばいいかについてもこう言っています。

「而して緃覧せしむ可き書冊は一般娯楽的のものも必要であるが、主として其土地の地理歴史に関したもの、竝に寫眞帖絵葉書地図等附近遊覧の参考となるものを網羅したい。出来るならば参考室を置き其土地の素封家に依頼し所蔵美術品の出品を乞ふとか或は其土地特有の動植物鉱石類の標本、漁具農具等を陳列するとか温泉地ならば其鉱泉の分析表其他各種統計表を掲出し一見して其土地の状況を知り得る様であれば甚だ興味あり且有益であらうと信じる。出品物にはローマ字若しくは英語を以て簡単な説明を附し外人でも利用し得る様にする事」

ニ)物産陳列館を設くる事

図書館に加え、「其土地竝附近の特産物を陳列して一般遊覧客の観覧に供する」物産陳列館も設けるべきだとの提案です。その理由はこうです。

「これがあれば客が散歩の序でに見物し、一瞥して其土地の商況を知る事も出来、又容易に土産物の調達も出来る。一方から見れば又之に由て多少地方商業の改良発達を促す事が出来やふと思ふ。又此処に各商店の廣告を美術的に綜合して掲示し置く事なども有利な廣告法であらう。但しこの陳列所の出品物には必ず算用数字で正札を附け置く事」

ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと

「遊覧地に於ける旅客の足止め策として遊覧的設備娯楽機関の必要なるは謂ふ迄もない事である。海外の遊覧地に於ては有名な山岳には登山鉄道架空索道の設備があり又湖上には遊覧船を浮かべ、大抵の所にはゴルフ、テニス、ベースボール、クリケット等運動遊戯に関する設備があって長期滞在客と雖毫も倦む事がない」

今日当たり前に存在する観光地の娯楽設備やスポーツ施設などの設置もこの時期に企画されたことがわかります。

ヘ)戦利品陳列に對する注意

最後の提案は、いかにも100年前の日本人の精神状況を物語っているといえるものです。生野はこう書いています。

「我が國は日清日露の二大戦役を経、近くは青島戦に大勝を得た結果、戦利品豊富にして国内至る所に行亘り少しく著名なる神社公園其他公開の場所に於て殆ど其陳列を見ざるなしといふ有様である。是れは我が先輩の武勇を顕彰し、國民に尚武的精神を涵養せしむる上に甚だ有益な事ではあるが、公園遊覧地等に於てはこれあるが為めに屡々其の風致を害し感興を殺ぎ、殊に外人観光客に不快を感ぜしむる事決して尠なくない」

中国遼寧省の旅順への訪問が外国人に開放された2010年、ぼくはその地を取材で訪れたことがあります。日露戦争の激戦区だった旅順は、すでに中国の町となっていましたが、戦前期の旅順に関する資料や地図などを読むと、当時の旅順のあちこちに、乃木将軍に関連する記念碑やさまざまな「戦利品陳列」物が並べられていたことを知りました。同じことは、日本国内でも起きていたのです。たとえばこうです。

「例へば陸中中尊寺の寶庫には古色掬す可き宋代の名畫がアノ有名な一時金輪佛や舎利寶塔と共に澤山陳列されてある。然るに其名畫の下に日露戦役戦利品たる不格好な錆び果てた小銃其他の戦利品が置かれてある為め兎角の名畫も引立たず観覧者の興趣を殺ぐ事甚しい。又鎌倉八幡宮境内の老梅の下に日露戦役記念たる巨砲が据付けられてあるが、アレなども確かに境内の風致を減殺しているものである。嘗て露国の観光団が来朝した時、某陳列館を見物し、偶ま日露戦役記念品を陳列しある一室に至るや、何れも申合わした如く頭痛と称し早々にして立ち去ったといふ話もある」

生野はこの状況に対して、以下のように述べています。

「斯くの如きは彼等に徒に敵愾心を起こさしむるもので国際的倩誼よりするも恰もミリタリズムを標榜するが如くで甚だ穏かならぬ事であると思ふ。殊に最近露国人竝支那人旅客の増加せる折柄一層本問題に對し注意を佛ふ事が肝要である。余の理想を謂へば公園遊覧地等の如き場所より是等戦利品を撤去し第二の國民を養成する学校内の一部に陳列するか或は特に神社の一部の如き場所にでも纏めて陳列する様にしたい」

生野の提案は、当時の日本人がほとんど気づいていなかった外客の目線を意識した具体的な内容でした。今日その多くの提案は実現していますが、我々が学ぶべきは彼の外客に対する細やかなまなざしというべきでしょう。

ニッポンの観光地は、こうして外客の存在を意識して大正期に近代化されていったのです。もし生野が今日生きていたら、我々にもたくさんの注文がつけられるかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-15 11:02 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 14日

1933(昭和8)年の「アメリカ人は日本で何を見たいか」番付表

日本政府観光局(JNTO)の前身にあたる国際観光協会は1931(昭和6)年に発足しています。同協会が1930年代にアメリカで実施したユニークな事業について、ツーリスト155号(1933年8月)は紹介しています。

それは、米国の雑誌「アメリカン・ボーイ・マガジン」誌上において実施した「日本……なぜ僕は日本へ行きたいか」という題名での懸賞論文募集でした。

ツーリスト誌では、同募集に寄せられた1775通の中から、彼らの訪日旅行の関心事として論文に出てきた地名や風物、文化などを件数別に整理し、以下のような番付表にまとめています。
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まず西から。大関は富士山、関脇が桜、小結が川(瀑布)、前頭は花卉、稲田、国民精神、山嶽、風習、キモノ、スポーツ、農山漁村、建国歴史、宗教、温泉、樹木、自然美、日本語、著名の士。伝説、祭礼、鳥獣魚、サムライ、海、労働者、箱園、藝妓、演劇、日本文学、音楽、火山、地震、金魚、娘。

東は大関が神社仏閣、関脇が近代都市、小結が日本建築、前頭は美術、古都、人力車、生絲、塔、日本料理、近代産業、下駄、土産物、諸制度、茶、陶器、漆器、宮城、象牙、鳥居、銀座、提灯、玩具、満州問題、真珠、買物蒐集、茶店、三十三間堂、橋、刺繍、茶の湯、鵜飼、駕籠、凧。

さらに、行事は大仏と日光、宮島。世話人が日米親善と交通機関、近代文化とあります。当時のツーリスト誌の編集者はしゃれっ気を出そうと番付表にすることを思いついたのでしょうが、その効果が出ているかというと、う~ん。

番付表に出てくるアイテムはあまりにランダムすぎて、ワケがわからないものもありますが、当時のアメリカの青年たちが日本について知っているさまざまなイメージの断片が並べられていて、なんだか面白いものです。思うに、これらのイメージは実のところ、現代のアメリカ人の日本観という意味でも、そんなに中身は変わっていないのではないか(もちろん、ここにはない現代的な事象は加わるでしょうけれど)と思ったりします。

それを嘆かわしいなどと思う必要はないでしょう。所詮外国人の日本理解とはそういうものだという認識が必要ではないか。だって自分だって一度も訪ねたことのない国についてイメージを挙げろといわれれば、似たようなものでしょう。最近、よく街角で見かけるようになった外国人観光客の姿を見ながらそう思います。誰を責めるような話ではないのです。

何が言いたいかというと、こうした断片的な日本理解を前提とした外客向けのわかりやすく面白い情報発信が求められているということです。彼らに一から説明することの難しさを我々はもっと知る必要があると思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-14 17:59 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 13日

今日同様、戦前期も中国の反日プロパガンダへの対応が課題だった

戦前期の日本の外客誘致において克服すべき課題は山のようにありました。何より外国人を快く受け入れ、もてなすためのインフラは、ハード、ソフトともに十分に整備されていませんでした。それに加えて、当時のインバウンド推進論者にとって大きな懸念となっていたのが、「米國及び支那に於ける排日の気勢」でした。

その懸念は、早くも第一次世界大戦が終了する1910年代後半には強く意識されていました。ツーリスト40号(1919年11月)の「時事雑感」の中で生野圑六はこう書き出しています。

「米國及び支那に於ける排日の気勢は数年来毫も緩和されぬやうであるが、外人新聞などの報道に由ると是等排日運動の主唱者は大部分嘗て我が國に留学若しくは来遊した人達であるとの事である。勿論是には種々理由もあることであらうが、要するに何れも我が國滞在中あまり温かならざる待遇を受け、充分我が國情を諒解するに至らなかった人達であることだけは容易に想像せられる。由来日支親善、日米親厚なる語は久しき以前より已に幾回となく繰返されているのであるが、其の聲の徒らに大なるのみで其実績は一向挙らぬやうに感ぜられる」。

あらためて日中関係の難しさと根の深さを感じざるを得ません。気になるのは、当時の「排日の気勢」が中国だけでなく、アメリカにも起きていたことでしょう。当時のアメリカにはアジア系移民を排斥するムードがあり、それが1924年のいわゆる「排日移民法」の制定につながっていきます。こうしたアメリカの姿勢は当時の日本人に大きな衝撃を与えたといわれます。

同時代人であった生野は、米中両国において「排日の気勢」が生まれた背景として外客誘致を進める立場から2つの理由を挙げています。

ひとつは「我が國に於ける来遊米国人や支那人に対する待遇依然として発達せず」という外客に対する受入態勢の問題。2点目が「我が國には目下列強が盛んに利用しつつあるが如き有力なる対外的プロパガンダの機関を有せざる結果事毎に誤解猜疑を招く事多く、今回の講和会議等に於いても相手国に我が國情を充分判って居らぬところ」だというのです。

特に後者の例として、「英国の小学教科書に日本の貴婦人として煙管片手に立膝したる婦人が麗々しく掲げられ、米国の小学教科書にも日本人の代表として徳川時代の最も下劣なるものを挙げている」と指摘し、「蓋し外人の我が國情に通ぜざるは我々の想像以上」と書いています。さらに1919年3月、日本併合下の朝鮮半島で起きた三一運動時におけるアメリカの「現時の十字磔」という虚偽報道についてこう書いています。

「これは当時我が國新聞紙にも傳へられたる如く今夏朝鮮に暴動の起こりたる折、米國の一宗教雑誌が韓国政府時代の軍隊が同國罪人を死刑に處ひつつある寫眞を掲げて之を『現時の十字磔』と題し日本軍隊が朝鮮の耶蘇教徒を死刑に處する圖なりと説明したのである。勿論邦人には一見して直ちに其日本兵にあらざるを識別し得るのであるが、不幸にして我が國の事情に疎き米人には其虚偽の事実なるを解し得ぬのである。爾後『日本軍隊の朝鮮人虐殺』として同写真は同國のあらゆる新聞雑誌に掲載せられ、しかも斯くの如き虚偽の事実が米国に於て排日気勢を煽る原因となりつつあるのである」。

なんだか近年のもろもろの騒動に似た話のようにも思えてきますね。

そして彼はこう主張します。

「実際、國と國との関係は畢竟するに國民と國民との関係に外ならぬ故、國家相互の親善を計らんと欲せば先づ其根本に遡って彼我國民の完全なる諒解を得る方法を講ずることが最も肝要にして又最も捷徑なるは謂ふまでもない」「玆に於て我が國情宣傳機関の必要が愈々痛切に感ぜられるのである」。

これらの記述を読んでいると、戦前期において反日プロパガンダへの対応がいかに大きな課題だったかわかってきます。それゆえ、海外の反日キャンペーンに国として対応する宣伝機関が必要だと生野は考えたのでした。

「然乍ら一方対日誤解より生ずる國家的損失の點より考ふれば之(生野のいう國情宣傳機関)に要する費用の如きは眞に微々たるものであるまいか。余は若し出来得るならば適当なる対外プロパガンダの機関の設立を見ざる限り各方面よりの後援と物質的援助を得て我がツーリストビューローの機関をして今後益々是等の方面にも活動せしめたいと思ふ。就中刻下の急務たる日米、日支の親善促進に就ては最善を盡して其の実現を期したい」。

そのためにできることとして、本来外客誘致のための広報機関であるジャパンツーリストビューローを日本の対外宣伝のために活用すべきである、というのが彼の発想でした。

生野の当時の認識は、今日においても通じるものだと思わざるを得ません。なぜなら、残念なことに、当時と同様、今日においても近隣諸国からの「反日キャンペーン」は後を絶たないからです。

生野は「来遊米国人や支那人」に対する受入態勢の改善についても、次のように述べています。

「又かの支那に於ける排日運動の如きも、其一因は世に傳へられる如く或は某國の煽動政策に由るかも知れぬが、我が國民自身亦自ら考慮し反省せねばならぬ點も尠くない。先日余は支那の一有力者より所謂『中日親善』に関する意見を聞いたが、同氏は『支那人が日本にありて最も不満足に感じていることは支那人を頭から軽蔑することである。それは日本人の無意識な行為かも知れぬが我々から見て非常に傲慢に感ぜられる。殊に留学生に対する差別的待遇に至っては一層反感を煽るものがある。例へば下宿屋にありても女中は不親切で主人は冷酷である。貸家を求めても支那人と見ると高値をふく、道を歩いては子供にまで馬鹿にされる、まるで只苦しめられる為に来たやうなものである。是等の問題は勿論今は些細なことかも知れぬが支那人は決して其軽蔑せられた事を忘れぬ國民である。将来に於ける影響は決して単純なものではないと思ふ』云々と語ったが、是等は大いに反省すべきことである」。

こうなってくると、受入態勢以前の心がまえの問題といえます。ただ当時、本当にそこまで中国人蔑視の風潮が日本社会に広まっていたかについては一概にいえない気もします。なぜなら中国文明に対する憧れや親しみは、当時の日本人の意識の中にも普通にあったと思うからです。ありうるのは、当時も在留外国人中最大数を占めた中国人の内訳は、3割が商人、2割が留学生。そして残りの半数は「他の在留外人に比し比較的賤業に従事し居るもの多きを以て或は邦人の蔑視を買ふに至るの傾向あり」(ツーリスト26号(1917年7月)で生野が書いた論考「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」)という背景があったのではないかと思われます。

ところが、当時もいまも、ビジネスマンや留学生などの高い階層に属する中国人というのはどうも「残りの半数」の存在抜きで自らの民族的優秀さを外国人に認めさせたいという気持ちが強いようです。その姿は反面、とても身勝手に映るものです。

要は日本側の国民レベルの無意識の応対も、受け取る側の認識によって印象は大きく変わるということではないでしょうか。というのも、日中関係が最も良好といわれた1990年代前半ですら、日本にいた一部の中国人留学生の中に同じようなこと(要は日本に対する不満です)を主張した人たちがいたことを思い出すからです。彼らは改革開放後に出国した「新華僑」と呼ばれた人たちで、ぼくと同世代でした。彼らは自ら抱えるエリート意識と日本での自分の境遇の落差を受け入れがたく感じているようでした。自分たちはもっと日本社会で評価されていいはずだ、という思いを募らせていたのです。ぼくには彼らがそれに足るものを持っていたかどうかわかりませんでしたから、中国人というのは難儀な人たちだなあと感じました。彼らは、その後アメリカに渡っていきました。そう、このタイプ、結局アメリカに向かうケースが多いんです(どうやら戦前もそうだったようです。生野は日本留学中に不満をため込んだ華人たちがアメリカに渡って「排日の気勢」を焚きつけていると指摘していますが、こういうことは現在も起きていないとはいえません)。

そのとき彼らの話を聞きながら思ったのは、20世紀初頭の「半植民地化」状態にあった中国と、生まれつき肥大化した彼らの民族的な自意識とのギャップから、その耐えがたい苛立ちの矛先が日本に向かいやすいという心理は、現代においても形を変えて起こりうるのだなという発見でした。それはとても残念で理不尽なことに思いましたけれど、いまこうして顕在化してきたわけです。

ツーリスト誌を読んでいると、100年前と今日の相似的な状況がいろいろ見えてきて、気が滅入りそうになります。しかし、かつて「排日の気勢」への対応をおろそかにしたことが、その後の時局の悪化につながったという歴史は知っておくべきだと思います。

日本を政敵とみなして声を荒げて非難する彼らの「紅衛兵」スタイルに真っ向から挑むのではなく、観光の語源とされる「観国之光,利用賓于王(国の光を観る。用て王に賓たるに利し)」に即して「国の光を観せる」ことでたおやかに対応していくことは、いまの時代にこそ求められているひとつのやり方だと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-13 16:23 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 12日

「日支親善」(日中友好)とインバウンドの難しい関係

戦前期の日本は、外客誘致に着手せんと動き出したばかりの黎明期から、国際環境の激流に呑み込まれてしまいます。その後も、時局の悪化に翻弄され続けました。

なかでも日中対立は、今日にも増して深刻な障害となりました。当時の論客のひとり、生野圑六はツーリスト誌上において日支親善の楔子(くさび)とすべきとして「支那人誘致の新計畫」(中国人に対する訪日旅行誘致)を主張します。

どんなことを言っているのでしょうか。ツーリスト26号(1917年7月)で生野が書いた論考「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」を見ていくことにしましょう。

冒頭で彼はこう書きます。

「我がツーリストビューローは、日支関係の現状に鑑み其将来に想倒し、日支親善の最捷徑は支那国民をして眞に我が國情を了解せしむるにある可きを認め、其一方法として多数支那人の来遊を促す可く、差当り北京並上海の二箇所に新たに案内所を設置し、尚青島にも支部及案内所を設くる事に決定したる」。

「日支親善」(日中友好)の最も早道は、中国人の訪日旅行を促進し、日本の国情を理解させることだ、というのです。そのために企図されたのが、ジャパンツーリストビューローの北京や上海、青島の事務所の開設でした。

当時の日中関係の悪化の理由について、彼は「支那側の誤解其他之に関連せる各種の事情等も確かに其原因の一部たりしならんも我が國の支那に対する不謹慎の言論並渡来支那人に対する不親切なる待遇等の如きも亦其一因たり」と述べ、中国側の日本に対する「誤解」とともに、日本側の中国に対する「不謹慎の言論」や「不親切なる待遇」があったといいます。 

これが書かれた大正前期、日本を訪れる中国人は約6000人、外客全体の約3割でした。最も多かったのは、日露戦争当時の年間7000~8000人で、それ以後減少し、とりわけ1917(大正6)年は「革命、内乱等の事情に由り」約3000人とかなり少なくなっていました。

一方、日本在住の中国人は約1万2000人で、今日と同じく当時も在住外国人中最大を占めました。内訳は、3割が商人、2割が留学生。ところが、残りの半数は「他の在留外人に比し比較的賤業に従事し居るもの多きを以て或は邦人の蔑視を買ふに至るの傾向あり」と書いています。

生野は、在日中国人に対する「邦人の蔑視を買ふに至る傾向」が日中関係に影響しているとして、次のように述べています。

「是が為め彼等は往々我邦人の眞意を誤解し将来支那の中堅たる可き留学生間に於いて我が國の態度に疑義を挿み之が批難をなすものあり。是等は些々たる問題なるが如しと雖動がては或は日貨排斥、非買行動等となりて現はれ延ては排日思想の動機ともなることなきにしもあらざるを以て我が國民は先づ斯る小事に就きても細心の注意を拂ふ事肝要なり」。

こうした一方、当時すでに日中間の交通機関の発達が進んでいました。1913(大正2)年に開始した「日支連絡運輸」以降、両国の直通乗車券が発売され、東京・北京間の移動はわずか5日間に短縮されていました。1915(大正5)年には4カ月間利用できる「日支周遊券」が発売され、「彼地にありては奉天、北京、漢口。上海等又我が國にありては長崎、下関、神戸、大阪、京都、東京等の主要各都市を相互自由に視察し得べきものなれば両國旅行者間に極めて便宜のものたるを疑はず」といいます。

生野は「日支親善」(日中友好)がお互いにとっていかに大切か、次のように「唱道」します。

「更に又経済上の見地よりするに於いては吾人は一層痛切に日支親善の必要を唱道せざる可らざるものあり即ち支那は現在ひとり東洋の市場たるのみならず世界の市場として認められ、其天然資源の豊富なる事世界無比と称せられる。従って今日已に米國の如き支那に対し大規模の投資をなさんことを希望しつつある所なるが我が國は地理的に最優越せる地位にあるを以て各種の利便を有し支那との貿易額の如きも次第に觀る如く累年著しき発展を示しつつあり」「(第一次世界大戦の)戦後に於ける列強の激烈なる商戦は必ずや先づ東洋殊に支那の市場に於て行はる可く、列強が各其主力を此處に傾注せる曉に於て我が國は果たして之に堪え且克く之に抗するの力ありや」。

「之を要するに、支那と我が國とは東亞の保全興隆の為め凡ての関係に於て相提携し協力す可き必然的運命を有するものにして又将来互に了解し信倚し敬重して進まざる可らざるの立場にあり」。

生野の主張自体はまっとうなものだったと思います。しかし、彼はこの時期、日中間に起きていた深刻な事態について、どこまで理解したうえでこれを書いていたのか、疑問を感じざるを得ないのも確かです。

当時の日中関係史について簡単に触れてみましょう。この論考が書かれる2年前、第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣は袁世凱政権に対華21ヶ条要求を出しました。さらに、大戦後、1919年1月のパリ講和会議において「日本がドイツから奪った山東省の権益」が国際的に承認されると、同年5月4日、北京の学生たちの行ったデモ行進が五四運動となっていきます。

確かに、生野も同論考で日支親善を「唱道」しながら、「然るに日支親善は朝野に唱道せられて已に年久しきも未だ確実に其成績を見るに至らず」と嘆いているのです。

この時期の生野の提言は「日支两国民間に繙れる空気を一新し、彼の眠れる友情を覚醒し以て日支親善の楔子(くさび)たらん事を期す」ため、悪化する当時の日中関係を中国人の訪日誘致によって相互理解を深め、改善しようということでした。

この提言は、今日においても通じる話といえるでしょう。

もっとも、「日支親善」(日中友好)とインバウンドがいかに難しい関係にあるかについては、ここ数年の日中関係の悪化で私たちも痛感したばかりです。

いま言えることは、生野の真摯な提言を支持しつつも、当時の日中間に起きていた深刻な事態に対して、彼はなぜ理解不足だったのか、あらためて考えてみることだと思います。同じことは、今日においても言えるはずだからです。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-12 16:52 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 11日

インバウンドには戦争の影響が避けられない非情な面もある(時局と外客誘致策)

「今次の欧州戦乱が我がツーリスト事業の上に、現在如何なる程度迄影響を及ぼしつつあるかは、未だ正確なる調査材料を得ざるを以て、竝に数字的方面より明言し得ざるを遺憾とするも、本年八月(其後の分は未だ材料を得ず)中の渡来外客数を昨年の同月と比較するに、実に七百八十余人の減少を見る、之を以てしても其打撃の決して僅少ならざるは明らかなる事なり」(「時局と外客誘致策」ツーリスト10号)

ツーリスト10号(1914年12月)では、1914年7月に始まった第一次世界大戦の影響で、ヨーロッパ客を中心に訪日外客が減少したことをジャパンツーリストビューロー幹事の生野圑六はこう報告しています。

「(当時の外客数は)支那人を別とし、常に其最大多数を占むるものは米人にして、英人之に次ぎ、露独仏の順位にあり」「支那人を覗き、交戦国民数は其約六割強を占む。而して是等交戦国民中大部分の渡来は少なくとも時局の終結迄は、全然期待し得ざるものと認めざる可らず。是我がツーリスト業者に取り決して僅少ならざる打撃と謂ふ可し」。

日本がようやく外客誘致に着手したわずか2年後に起きたのが、第一次世界大戦でした。先人たちは、いきなり出鼻をくじかれることになったのです。なにしろ当時の欧米外客のうち6割強が大戦の舞台となったヨーロッパ客だったからです。

いまでこそ、「ツーリスト産業は平和産業」などと深く考えることもなく言っていますが、100年前の日本人はいやおうなく戦争とインバウンドの非情な関係について現実的に考えざるを得なかったといえます。

それゆえ、「時局と外客誘致策」なる以下の提言が出てくるわけです。生野はこう書きます。

「然りと雖、年々米国より欧羅巴へ旅行する漫遊者の数は実に大なるものにして、假りに其十分の一を誘致し得たりとするも、優に我が國に渡来する外客総数に幾倍するものある可し」「これ我がツーリスト業者の乗ず可き機会にして、此際此方面に意を注ぎ、専ら是等(米国の)漫遊客を羅致するに力を致さば、欧州方面に失ひたるものを米国方面に補ひ、獨り現時の不景気を挽回し得るのみならず、将来益々多数の米客を誘致するの動機を作り、依て以て更に対米関係を円満ならしめ、外交上に、通商上に多少の効果を齎すに至らば尚一段の精巧なる可し」。

「刻下の急務は戦乱の為に失へる欧州方面のツーリストを米国方面より回収し、尚進むで所詮禍轉じて福と為すの策を講ずるにあり」。

要するに、米国客に対して、ヨーロッパに代わる旅行先として日本を売り込むべし、という提言です。なんだか火事場泥棒的という気がしないではありませんが、これが当時の「外客誘致策」の中身でした。

生野は具体的に米国向けの誘致策をこう説明しています。

「この機会を利用し、第一、我が國に対する米人の注意を喚起する事、第二、今回の戦乱は我が國に於いて生活上其他何等の変化を来さざりし事、第三、吾國の風景事物及ホテル其他の設備を広告紹介する事等に努めざる可らず」。

とはいえ、当時の日本の外客誘致の考え方が今日のそれと著しく違っていたとはいえません。今日おいても国際関係の緊張が外客誘致に大きな影響を与えることは、近年の近隣諸国との関係悪化から私たちも理解するようになったはずです。

第一次世界大戦時、日本は戦争の当事者ではなかったがゆえに、調子よくふるまうことができたにすぎず、その後の歴史は、日本が当事者となることで外客誘致どころではなくなることを物語っています。

ツーリスト誌は、その後も「時局と外客誘致策」について、そのときどきの情勢をふまえ、多くの提言をしています。それについては、今後紹介しようと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-11 14:22 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 10日

なぜ多くの外客が戦前期に雲仙温泉を訪れたのか?

「100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか」で書いたように、当時の外客滞在数のトップ10の中に雲仙温泉(長崎県)がランクインしています。

これは当時日本に外国人が入国する港の3位が長崎だったことと関係があります。結論から先にいうと、中国大陸と日本をつなぐ長崎・上海航路で訪日した上海租界在住の欧米人(なかでもロシア人の比率が高かったようです)が避暑のため、長崎に渡り、雲仙温泉に滞在していたからです。
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いまではちょっと想像つかない話ですが、100年前の雲仙温泉には多くの欧米客が滞在していた記録が残っています。

ジャパンツーリストビューロー幹事の生野團六は「吾国の外客誘致を目的とする施設に就いて 附温泉公園経営」(ツーリスト8号(1914年8月))の中で、雲仙は「我國の外客誘致上見逃すべからざる重要な地點」として、当時の様子を解説しています。

まず雲仙温泉の来歴、ならびに現況についてこう説明しています。

「往時は古湯のみで浴客の如きも附近の下級人民に限られ何等の設備なかりしが、一度外人の発見するところとなりて以来、漸次開拓せられ歳々来遊外客の多きを加ふると共に浴場の設備改善せられ『ホテル』は増設せられ今日は小なりと雖も其数、十を以て算するに至った、今日の新湯は恰も外国山間の避暑地たるの観がある、而して此地には大小総数三十余のケーザー(クルーザー)があり、温泉は共同浴場の外に各ホテル共に『プライベート・バス』に之を引用して居る。附近には妙見、普賢、國見、雲仙等の諸山あり、海抜四千数百尺にして登山の樂あり。其他牧場、小湖水、小川、瀧谷等、散策に適するものが甚多い。当地夏時の最高温度は八月に於いて二十九度に過ぎず。以て其清涼なるを知るべく、言ふまでもなく当地の『シーズン』夏時六月末より九月に至る期間なれど春季の『マザレア』秋季の紅葉の稱すべきものもあり」。
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当時の雲仙温泉と小浜に滞在する外客数の推移は以下のとおりです。

1908(明治41)年 1374人
1909(明治42)年 1394人
1910(明治43)年 1522人
1911(明治44)年 1995人

長崎県は雲仙周辺を「温泉を以て天下の一大樂園」とするべく、明治44年から6年間の継続事業として12万坪を「温泉公園」として開発しました。雲仙岳の麓にあり、外客が海水浴を楽しんでいた小浜から雲仙までの道路の改築、公園内の整備などに着手しました。当時すでに以下のような施設があったようです。

・娯楽場…138坪の平屋建築で、夜会音楽会や活動写真の上映を行う。教会堂として利用されるうえ、周辺にローラースケートを楽しめる運動場もある。
・テニスコート…娯楽場の北に2面のテニスコートと休憩所あり。
・ゴルフヤード…5万千餘坪のゴルフ場。9ホールまで。バーなどを備えた休憩所あり。
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生野は雲仙温泉に新しくできた外客向け施設を紹介したうえで、当時の外客についてこう述べています。

「温泉繁栄の主因は固より其地形の然らしむるものなるに相違なきも其他にも理由がなければならぬ。即温泉の地たるマニラ、香港、上海、青島、浦鹽(ウラジオストク)等欧米各国の東洋殖民地より海上交通の便容易なると、ホテル料金の低廉なる等とが即夫である」。

つまり、当時の雲仙温泉は東アジアの欧米植民地在住の外国人が海を渡って訪れていたのです。

生野はようやく整備が進みつつある雲仙の外客向け施設と宿泊客の状況について、こんな鋭い意見を述べています。

「上記各殖民地より来遊する現在の外客の多数は所詮番頭、中流人士。宣教師の如き家族を引伴れて来遊滞在するもの多数を占めて居る。一度料金の他の内地のホテルの如くならんには数年ならずして其跡を絶つに到ることは必定である」。

これはどういうことでしょうか。当時雲仙のホテル料金は「アメリカンプランとしての料金が二圓半乃至五圓」と日本国内の他の温泉地に比べ安めに設定されていて、客層は中流階級の欧米客が多数を占めていたというのです。ですから、もし料金を他の温泉地並みに上げると、外客は訪れなくなるだろう、というのです。

つまり、生野は、欧米からの長期航路で横浜や神戸を訪れる外国人と、東アジアの欧米植民地在住の外国人を区別し、彼らの雲仙訪問はホテルや船運賃が低廉であるために実現できた「中流人士」のカジュアルな避暑旅行にすぎないこと。それゆえホテル料金を上げるべきではないと言っているのです。
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さらに、生野は「然らば現在のホテルには改良の必要なしと言ふか否大に然らず、改善を要するもの一二にして足らぬ。然れども予は其改善にも多額の投資を要するものを希望するものではない。即ち自分は建造物を立派にせよとは言はぬ。器具を立派にせよと注文せぬ。室内にカーペットを敷けとは言はぬ。美味なる皿数を多くせよとは言はぬ」といいます。

つまり、ホテルのハード面を改善するには投資が必要なので、そのためにホテル料金を上げては元も子もない。「換言すれば比較的に投資若くは営業費の多くを増やさずして改善し得べきことに全力を盡さんこと」を関係者に希望するというのです。当時雲仙が外客を取り込めている地勢的かつ外客の特性をふまえたうえで、その比較優位性を忘れて投資を進めたところで、良い結果は得られない。むしろ、金をかけずにできることをすべきだと提言しているのです。

当時の日本人がいかに現実に根差した状況判断をしていたか。感心してしまいます。

とはいえ、生野はこの論説の最後で「積極的施設を希望することに於ては、恐らく人後に落ちぬ積である」と述べ、以下のような展望を語っています。

「富士山、箱根、伊豆半島を連關して、一大ナショナルパークを現出せしめ、京都を中心として、琵琶湖奈良其他の名勝を綴付して、一大樂園となし、又瀬戸内海を利用して、小豆島宮島別府高松等を配して、世界的遊覧設備をなすこととし、之が為には、登山鉄道の建設、自動車道路の開設、遊覧汽船の配備、其他各種の施設並に附帯事業の経営を開始するが如きは、自分の最希望するところである。然れども凡そ事物には順序があり、計畫には資本を要する」。

100年後の今日、少なくとも生野が展望した状況は実現しているように思えます。しかし、当時の生野のように、厳しく自国の姿と海外の状況を比較相対化し、戦略的に将来の展望を語るということが、今日の我々にはたしてできているのか、大いに疑問です。先人のことばを通して、いまの自分たちには何が足りないのか、学ばなければならないことはたくさんあるなあと感じ入る次第です。
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現在の雲仙観光ホテル(1935年開業)
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by sanyo-kansatu | 2014-03-10 11:34 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 02月 23日

大正期にスイスから学んだ観光宣伝のさまざまな手法

前回、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事の生野圑六による1912年夏のヨーロッパ視察が、ニッポンのインバウンドにとって記念碑的な意味を持ったことを書きましたが、今回は彼のスイス視察の報告を紹介します。

ツーリスト2号(1913年8月)「欧州各国に於ける外客誘致に関する施設(続き)」では、当時から観光立国として知られたスイスについてこう高く評価しています。

「瑞西と云へば、三才の童子と雖もよく知って居る通り、景色が佳く、欧州の中心に位置して交通の便も善く、登山鉄道、遊覧船、其他各種の設備整ひ、『ホテル』は到る處に経営されて居るといふ有様で、人民は少なくとも二ヶ国の欧州語を語り、其質朴親切で、物価は比較的低廉で、夏時は清涼にして三丈の暑を忘るるに足り、冬期は寒冷ではありますが、近年『ウィンター、スポーツ』の設備をなして、客を呼んで居る。斯く総ての方面より視て、此国は遊覧地たるに適して居る」。

スイスには外客誘致のための以下の3つの観光宣伝の専門機関があると生野は指摘します。

①スイス政府鉄道
②ホテル協会
③デペロップメント・ソサエティ

以下、それぞれの機関の業務や活動について整理します。

①スイス政府鉄道

スイス政府鉄道には「パブリシティ・ビューロー」という独立した旅行奨励宣伝機関があり、「毎年約拾弐萬乃至五萬圓の費用を投じている」。

業務内容は、以下のとおり。

a.外国における出張代理所の監督(ベルリン、パリ、ロンドン、ニューヨークの4カ所。繁華街に人目を惹くスイスの絵画や写真、印刷物を陳列する。新聞、雑誌にスイスの旅行ニュースの配信を行う)

b.各種広告物の出版(各種スイス旅行宣伝雑誌の出版、旅行地図の製作。これらは英仏独伊語で2~3万部発行。外国出張所、汽船会社、鉄道会社、旅行関連業者などに配布)

c.外国新聞雑誌の広告(英独のでは日刊紙、グラビア雑誌など。「日刊新聞には時として瑞西に関するアーチクルを載せることもありますが、又時として小さいスイスの風景写真を載せて、其下に記事を載せることもあり、絵入雑誌には風景等の写真を頁大に挿入する」

d.海外向けスイスの気象報告

e.外国博覧会への参加

②ホテル協会

ホテル協会は、「パブリシティ・ビューロー」が発行する宣伝媒体や外国出張所に多大な寄付を行い、サポートしている。また各地にホテル組合があり、独自で機関雑誌を発行。バーゼルのホテル協会では、海外向けの宣伝活動を行う。毎年、ホテルリストを発行。各ホテルの客室数、料金、食事代、交通の利便、暖房設備などを記載した冊子10万部を発行し、海外に配布。ローザンヌのホテルスクールでは、ホテル業者の子弟に対して外国語や経理、料理、飲料、給仕、管理などを教授し、ホテル従業員を養成している。

③デペロップメント・ソサエティ


これは日本のツーリスト・ビューローのような会員組織で、会員としては全国の「州、市、銀行、交通業者、ホテル業者、商工業組合、其他雑貨、絹、時計、写真、美術品、菓子食料品等各種の商店等、殆ど其地の主なる団体個人を網羅」している。会費は「10フラン以上」で、各地の繁華街にインフォメーション・ビューロー(観光案内所)を設置し、「其處に二三の事務員が居て、旅行に関する各種の報道は勿論、其他のホテル、商店、素人下宿、商工業上のこと迄も、無料にて質問に応じ、店の窓には必ず人の目を惹くべき時々の写真印刷物等を飾り、室内には市内案内所、附近鉄道お汽船ホテルの案内記は申す迄も無く、国内各地の同業者の印刷物を無数に竝べてありまして、随意に與へるやうになっております。又場所によりて各国のダイレクトリー、新聞、雑誌、タイムテーブル等をも備へております」)

これを読む限り、当時からスイスでは外客誘致のために政府をはじめとしたツーリスト事業者たちがいかに協力して広報宣伝の推進と外客受入態勢の整備に努めていたかよくわかります。

こうしたインバウンドの最前線の姿を目撃した生野は大いに刺激を受けたことでしょう。その一方、スイスのホテル関係者の話として次のようなことも述べています。

「尚談話中にこの人は私に向て、漫遊外客を誘致するために広告其他各種の手段を採ることは必要ではあるが、来遊せる外客を満足して帰国せしむることは最大切である。(中略)ホテルは外客にとりて旅行中の吾家である。一日見聞の愉快を追想のも、旅の疲労を静に慰するのも、皆ホテル内のことである。さればホテルの待遇にして十分ならざる以上は、到底外客を満足せしむることは出来ぬ、最重大なる責任を有する者はホテルであると申しておりました。これは大に理由のあることと存じました」。

さらに、同報告の中には、スイスの周辺国との外客誘致の競争がきわめて激しいことも触れられています。ヨーロッパ各国との外客誘致競争に対抗するために、あるスイスの関係者は以下の取り組みを始めようとしていることを紹介しています。

「政府の一省中に外客奨励中央局の設立を以て焦眉の急務なりと述べ、更に其組織に言及し、最後に其事業として旅客交通に関して発布されたる法令規則の統一、新法令の発布をなし、外客交通上の保護を計ること、旅客交通が経済貿易上に及ぼす影響の研究、各種遊覧遊戯的設備の完成、遊戯的大会の開催、外国博覧会への参加、在外案内所の完成、国際的自動車旅行の研究、特に海外に於いて瑞西国内各種の機関が箇々別々の動作をなし、廣告紹介などを行ひつつあるものを統一し、更に有効なる手段を採ると同時に、冗費を除くこと等を述べております」。

ここには、今日の問題多き日本の外客誘致の現状からみても耳の痛い指摘がいくつもあります。たとえば、外客誘致のための法令(制度設計)の不備や、「海外に於いて瑞西国内各種の機関が箇々別々の動作をなし、廣告紹介などを行ひつつあるものを統一し、更に有効なる手段を採ると同時に、冗費を除くこと」などという指摘がそうです。

100年前のスイスでは、今日の日本がいまだに克服できていない(それ以前に、問題として広く認識されているかすらあやしい)数々の問題点が、すでに指摘されていたことにあらためて驚きます。その一方で、大正時代に一から外客誘致を学ぼうとした日本の先人の心意気を思うと、殊勝な気持ちになるものです。その尽力や知見を断絶することなく、きちんと受け継いでいく必要があると思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-02-23 16:56 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)