カテゴリ:歴史から学ぶインバウンド( 14 )


2014年 02月 23日

100年前、日本は欧州から外客誘致のイロハをこうして学んだ

1912(明治45)年、日本はジャパン・ツーリスト・ビューローを創立し、国家として外客誘致を企図するのですが、当時の日本には西欧の国々から訪れる外国人を心地よく受け入れるためのインフラが、ハード、ソフトの両面でほとんど整備されていませんでした。

そのため、ツーリスト誌においても、外客誘致のために何が必要なのかについて啓蒙するため、西洋諸国をはじめ海外の事情の紹介に努めています。とりわけ創刊号から10号くらいにかけては毎回、外客誘致のための広報機関や宣伝方法、案内所の運営、ツーリスト業者の組合組織のあり方などが提言されています。

それらの海外レポートの多くを執筆しているのは、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事の生野圑六です。生野は鉄道省の役人で、のちに京浜電気鉄道社長になる人物ですが、1912年夏、ヨーロッパ諸国を視察し、各国の外客誘致の現状について報告しています。彼は日本のインバウンド黎明期に最も積極的に啓蒙活動に取り組んだ論客といえそうです。
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以下、ツーリスト創刊号(1913年6月)「欧州各国に於ける外客誘致に関する施設」という生野の報告を紹介します。これを読むと、今日日本では当たり前になっている外客誘致のための施設や諸施策の導入に向けた取り組みが100年前にようやく始まろうとしていたことがわかります。ニッポンのインバウンドはこの時期、ヨーロッパをモデルに一から形成されていったことが生々しく伝わってきます。

生田圑六がシベリア鉄道経由でヨーロッパ視察に出かけたのは、1912年6月末から9月末にかけてです。ベルリンで開催された国際旅客交通会議に出席するためでした。その目的について、彼はこう記しています。

「欧州に於ける一般鉄道の視察旁々、漫遊外客誘致待遇に関する機関、組織、方法の研究、玆に現場における実況を視察致しましたのでありますが、可也廣くと思ひまして、各国に旅行して、漫遊客の集合するところを出来る丈見物しました。七月上旬には、丁度ストックホルムにオリンピック、ゲームが開会されるので、世界各国の人々が集合して、混雑致すところを見るのには、何よりの好機会と思ひまして、其地に出掛けました」。

その年のオリンピックには日本人選手はわずか2名しか参加していなかったそうですが、オリンピック開催都市となったストックホルムについて彼はこう書いています。

「兎に角、数万人の外国人が入り込んでいるに関はらず、市内秩序整然としているのには感心しました。特にホテル、商店、其他外人が接するのは、待遇上大に注意を払っておりました。日本などではかかる場合、動もすれば目前の利益のみを事として、永遠の利害を打算せず、暴利を貪ると云ふやうなことがあるやうでありますが、之は大に注意しなければならぬことと思ひます」。

生野はそのときスウェーデンのツーリスト・ビューロー本部を訪問し、「スカンジナビア半島では、夏季には外客を誘致することに大に力めて居ることを承知」したといいます。また、コペンハーゲンのチボリパークを訪ね、そこには「各種の音楽、遊戯、カフェ、レストラン等が多数ありまして、夕刻より夜半まで、非常に賑はつて」いること、「概して欧米人は夕食後散歩するとか、音楽を聴くとか、芝居を見るとか云ふような習慣があるので、欧米の遊覧地、海水浴場、其他のリゾートには必ずさう云ふものがあり、又一方にはローンテニス、ゴルフ、其他遊戯、運動の設備」があり、「此點は今後日本でも相当に考慮を要することと思ひます」と述べています。帰国後、彼はツーリスト誌上において、外客誘致のため、日本に西洋的な遊覧地を開発するよう呼びかけますが、このときの見聞がベースになっているものと考えられます。

その後、彼はいったんベルリンに戻り、7月下旬から約1か月間をかけてウィーン、ブダペスト、インスブルック、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ポンペイ、そこで折り返してスイスに向かってしばらく滞在し、ニース、モンテカルロ、リオン、パリ、ロンドン、そして再びベルリンに戻り、シベリア鉄道で帰途についています。これはまさに20世紀初頭のヨーロッパに誕生しつつあったモダンツーリズムの最前線をくまなく訪ね歩いたという意味で、ニッポンのインバウンドの歴史にとって記念碑的な出来事といえるでしょう。

この視察で、生野は多くのことに「驚き」「感心」しています。以下、書き出してみます。

・当時のスイスはすでに外客受入態勢が完備していたこと。

「瑞西は何度参りましても實に心地善い處であります。外客に対する遊覧設備の完備せること、案内上の用意の行届いていること、廣告印刷物等の豊富なること、山水風光明媚なると共に、隅々まで清潔なること、停車場などに長さ数間の大写真などが掲げてあること、ホテルの空室の有無を停車場内に掲示する設備などもあること」。

・フランスのエビアンからニースまでモンブラン山脈付近を横断する約700㎞の自動車専用道路が作られていたこと。

「近時欧米に於ける自動車の発達は非常なもので、従て自動車で自国内のみならず、外国に旅行に出掛ける者は甚だ多いのであります。此道路の如きもツーリストを招致するのが目的であります。鉄道会社も夏期は乗合自動車を運転して、一定の賃金を以て旅客の需に応じております。吾国に於いても将来或地方には、自動車道路を設けることなども一の問題であろうと思ひます」。

日本では戦後を待たなくてはならなかった本格的なモータリゼーションによる観光市場の促進が、ヨーロッパではすでに戦前期から始まっていたことがわかります。

・パリには観光客を惹きつけるハードのインフラが充実していたこと。

「巴里には其近郊に風光明媚なる處や、名所旧蹟が沢山ありますが、外客を惹付けるには寧ろ人工的設備、或は人為的方法が興つて力あることと思ひます。即美術博物館の完備せる、公園の大規模なる、市内交通機関の便利なる、市街の美観を保つが為に用意周到なる、皆之であります。暇令ば、公設建造物、廣場、凱旋門、スタチュー、橋梁等一として美術的ならざるはなく、電柱などは一本もなく、電車も高架式は許されて居ません。ホテルの設備は完全にして、而も比較的低廉である。劇場には国立竝に準国立とも称すべきものも四ヶ所を始め、多数あり、名優少なからず、他の諸国に於いては夏時は大劇場は休業する例なるに、巴里は無休で、料理や葡萄酒は廉価にして、而も美味である。尚巴里人はコスモポリタンで、外国人を外国人扱ひせず、吾々の如き異人種でも、白人同様に扱ふ等、其他外国人の為に特に利便を計っていることは、列挙すれば沢山あることと思ひます。之等のことは必ずしも吾国に於いて総て模倣すべきでもないが、又中には大に学ぶべきことがあると思ひます」。

ほとんど手放しの称賛ぶりですが、これが100年前の日本人の正直な実感だったと思われます。

・ヨーロッパでは新聞広告による外客誘致が広く行われていたこと。

「(ヨーロッパ各地で発行される英国のデーリーメール新聞は)英米人の大陸旅行者に中々よく読まるるのでありますが、此新聞社は倫敦竝に巴里の中心に、立派なる案内所を持っておりまして、欧州のみならず世界各国の鉄道、汽船、ツーリスト・ビューロー、ホテル等は固より、静養地、遊覧地、シーズン、遊覧設備、自動車旅行、飛行、学校、貸家、貸別荘等に関する報告を與ふること」。

外客誘致のために、宣伝媒体(メディア)がいかに効果的であるかを生野は知ったのでした。

生野はこうして外客誘致のためのハード面、ソフト面でのインフラ整備やメディア活用のイロハを学んで帰国するのですが、一点のみ、イタリアでの「不快な」体験を反面教師的にこう指摘しています。

「伊太利では一方に流石美術国のこととて、絵画と云はず、彫刻と云はず、建築と云はず、其立派にして豊富なることに驚きましたが、一方には軽微なること乍ら、随分不快なる念を與へられたことがありました。夫は下級鉄道員の吾々に対する態度、行為、或は寺院其他にて付き纏ふ案内者のうるさきこと、馬車の御者の不正直なること等でありましたが、夫に付けて思ひ浮んだのは、我日本の現在漫遊外人に対する関係であります。直接外人に接するものの中には、随分不正直、不親切なるものがあるやう耳にします。是等は日本に於いてツーリストが風景其他より折角得た美威を傷けることがありはせぬか、是に対して吾がツーリスト、ビューローとしても大に注意して、相当の方法を講じなければなりませぬ」。

当時日本ではこういうことが多々あったろうと思います。なにしろ、ときは激動の明治がようやく終わったばかりで、訪日外客数は年間わずか2万人。日露戦争になんとか勝利したものの、まだまだ日本は貧しく、生野の啓蒙する中身が実現できるまでには、相当な時間が必要と考えられていたはずです。

さらにいうと、彼が訪れたわずか2年後、あれほど先進的で華やかに見えたヨーロッパが第一次大戦の戦火に包まれたという事実は、国際観光の歴史を考えるうえで無視できないことです。生野は、のちに「時局と外客誘致策」その他の論説で、当時の国際情勢とインバウンドの関係についてさまざまな提言をしていますが、それはあとで紹介します。

※「歴史から学ぶインバウンド」参照。http://inbound.exblog.jp/i38

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by sanyo-kansatu | 2014-02-23 16:36 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 02月 21日

100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか?

いまから100年前の大正2(1913)年の訪日外客数は約2万人でしたが、彼らは日本のどこを訪ね、滞在を楽しんでいたのでしょうか。

当時は国内を数日間で移動できるような鉄道網や自動車道は発達してなかったため、今日のような東京・大阪5泊6日コースのような短期間の周遊旅行はありえませんでした。そのため、多くの外国人客は東京や京都といった大都市以外は、国内各地の温泉地や避暑地、また鎌倉や日光、宮島など主要な観光地の周辺に生まれつつあった外国人経営の洋式ホテルや温泉旅館に滞在していたようです。移動型ではなく、滞在型の旅行形態が一般的だったと思われます。

ツーリスト3号(1913年10月)では、この年の7、8月「避暑地、温泉及び都会等に滞在せる外人旅客数」を国籍別に調査しています。同調査に挙げられた滞在地は以下のとおりです。

東京、横浜、鎌倉、熱海、伊東、修善寺、京都、神戸、宝塚、有馬、宮島、道後、別府、長崎、小浜、温泉(雲仙)、伊香保、草津、日光、中宮祠、湯本、鹽原(塩原)、松島、大沼公園、登別温泉
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なかでも外客数のトップは、日光6256人。次いで鎌倉3368人、京都3008人、東京1738人、中宮祠1593人、横浜1127人、湯本1067人、小浜1039人、神戸878人、雲仙765人と続きます。

調査の結果、この年の7、8月中に日本に滞在していた外国人客数は、24736人でした。国籍別にみると、トップが英国人9225人、次いで米国5992人、支那3001人、ドイツ2866人、フランス1440人、ロシア1044人と続きます。

ただし、この調査において「唯外人滞在数最も多き箱根及び軽井沢の調査未だ判明せざるは、甚だ遺憾とする所也」とあり、これが国内のすべての外国人客を捉えきれていないことも正直に明かされています。

その理由として「されど此種の調査は、事頗る煩累を極め、絶対に正確を期せんこと容易に非ざるべく、殊に外人経営のホテルには宿帳を其筋に提出せざるものもあるとのことなれば、愈々其困難なるを察するに足ると共に、詳細なる回答を送られた警察署に対しては玆に感謝の意を表す」とあるように、当時は外国人経営のホテルも多く、調査が難しかったことがうかがえます。

それをふまえたうえで、同誌は当時の外国人の日本の滞在状況について、こう書いています。

「外人旅客頗る多数なるものの如しと雖も、其大部分は従来より滞在せる外人にして、実際漫遊外客は一小部分なりと推すべき事情あり、若し従来の滞在者と漫遊者とを判然区別し得ば、一層有益なる統計を作り得べしと雖も、暫く如上の統計を以て吾人の参考に資せん」。

確かに、当時すでに在留外国人が多くいたため、国内の避暑地や観光地に滞在する外国人の多くが実は彼らであって、その時期海外から訪れた外客(漫遊外客)の比率はまだ少なかったようです。とはいえ、当時から外国人に国内の温泉地や観光地が人気だったこともよくわかります。
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by sanyo-kansatu | 2014-02-21 08:45 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 02月 19日

戦前期、外国人はどこから入国したのか?

航空旅客機の利用が現在ほど一般的ではなかった戦前期において、外国人は客船を利用して日本を訪れていました。ですから、当時外国客は、今日のように国際線の就航する空港ではなく、国際客船の寄港する港から入国していました。

ツーリスト6号(1914年4月)の「大正2(1913)年中本邦渡来外人統計表」によると、当時の入国地としての以下の14の港が記されています。

横浜、神戸、大阪、長崎、函館、門司、下関、敦賀、小樽、七尾、青森、唐津、厳原(対馬)、室蘭
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統計表には、それぞれの港ごとに国籍別の入国者数が記載されています。入国者数のトップは横浜で、次いで神戸、長崎、下関、敦賀、門司、函館の順になっています。

大正2(1913)年の訪日外客数は21886人で、国籍別にみると、トップが支那7786人、次いで米国5077人、英国4123人、ロシア2755人、ドイツ1184人の順になっています。しかも、これらの5か国の数が圧倒的に多く、他の国々とは比較にならないほどでした。つまり、戦前期の訪日外客はこの5か国が大半を占めたということになります。ちなみにこの上位5か国の順は、大正15(1926)年になっても変わっていません。

明治41(1908)年から大正(1913)2年までの訪日外客数の推移は以下のとおりです。

明治41(1908)年  19328人
明治42(1909)年  17023人
明治43(1910)年  17283人
明治44(1911)年  16728人
明治45/大正元(1912)年  16964人
大正2(1913)年  21886人

この統計について同誌はこう解説しています。

「明治41年より大正元年までの5ヶ年を見るに、41年の1万9328人より、大正元年の1万6964人に減少せるの事実は、明らかに渡来外人の減退を示すものの如くなれども、43年の韓国併合によりて、同年下半期よりは同国人の渡来者を一般の渡来外人中に加算せざるを以て、渡来外人総数に其減少を見るは、寧ろ当然の事に属し識者の憂ふるが如く年々渡来外人の減退するには非ざる也」。

明治43年以降に減少した理由は、韓国併合によってこれまで外国人として統計を取っていた韓国人を外したことにあるというわけです。

そして、大正2年に入り、2万人を超したことから、「依是観是本邦に於ける渡来外人は、減退よりは寧ろ増加の傾向を示し、其前途亦大に喜ぶべきものであるを認めずんばあらずや」としています。

はたしてその後、当時の期待どおりに訪日外客は増えていったのでしょうか。

実は、そうではありませんでした。

それから13年後の大正15(1926)年の訪日外客数も、2万人超にすぎなかったからです。なぜだったのか。これから検討していこうと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-02-19 22:58 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 02月 19日

100年前(1913年)の訪日外客数は2万人、消費額は1300万円

いまでこそ「インバウンド」ということばや「訪日外国人の旺盛な消費への期待」から外客誘致に対する理解が広まってきましたが、歴史を振り返ると、日本の外客誘致はいまからちょうど100年前に始まっています。

それは、1912年3月に創立されたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTBの前身)の活動によってスタートしました。今日の「観光立国」政策や外客誘致のためのプロモーション活動も、すでに戦前期にひな型があったのです。

では、戦前期の外客誘致とはどんなものだったのか。

それを知るうえで格好の資料となるのが、ジャパン・ツーリスト・ビューローが発行した「ツーリスト」(1913年6月創刊)です。JTBのグループサイトによると、同誌は当時の外国人案内所として国内外に次々と設立されたツーリストビューロー間の連絡を密にし、事業進展を図ることを目的として創刊された隔月刊の機関誌で、1943年まで発行されていました。

JTB100年のあゆみ
http://www.jtbcorp.jp/jp/100th/history/

そもそも100年前のジャパン・ツーリスト・ビューローは、今日の日本を代表する旅行会社のJTBとは創立の目的も実態もかなり異なるものでした。むしろ現在の日本政府観光局(JNTO)に近い存在でした。

「ツーリスト」創刊号(1913年6月刊)の巻頭には、「ジャパン、ツーリスト、ビューロー設立趣旨」なる以下の文章(一部抜粋)が寄せられています。
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「日本郵船会社、南満州鉄道会社、東洋汽船会社、帝国ホテル及我鉄道院の有志聯合の上『ツーリスト、ビューロー』を設立せんことを期し、諸君の御会合を請ひたるに、斯く多数其趣旨を賛成して、御参集を辱ふしたるは、我々発起人一同の感謝とするところである。抑も漫遊外客は、我日本の現状に照らし、各種の方面より大いにこれを勧誘奨励すべきは、今更贅言を要せない次第である、外債の金利支払及出入貿易の近況に対し、正貨出入の均衡を得せしめんが為め、外人の内地消費を多からしむるに努め、又内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め、国家経済上の見地より、外国漫遊旅客の発達を促すは、刻下焦眉の急たること申す迄もなく、更に一方により考ふれば、東西交通の利便開け、東西両洋の接触日に頻繁を加ふるの際、我国情を洽く海外に紹介し、遠来の外客を好遇して国交の円満を期すべきは、国民外交上忽にすべからざる要点である。随って外客好遇の問題は、国家の重要なる問題であるが、尚我々交通業者、ホテル業者、外人関係商店等の従事者としては、如上の必要と共に、其業務の営利的感念よりするも、廣く遠来の珍客を好遇することは、一層の急を感ずるのである。然るに目下の状態を以てすれば、未だ我日本の風土事物を世界に紹介するの施設も全たからざれば、又一方に渡来の外客を好遇するの設備も乏しく、余は最近萬国鉄道会議に臨席せんが為め、我政府を代表して瑞西国に遊びたるが、彼国に於ける外客待遇設備の完備せるを見て、大に彼に学ぶこと多きを考へ、又帰朝後朝野各方面の人士よりも、此事業の必要なることを勧誘せらるるあり玆に於いて原総裁とも相談の上、今日諸君へ連名御案内したる在京有志と会合し、我々当業者進んで此任に当るの決心を以て、本会設立を申出たる次第である」。

ここには、今日の外客誘致の必要を提唱する基本的な考え方(「外人の内地消費」「内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め」「遠来の外客を好遇して国交の円満を期す」など)とほぼ変わらない内容が書かれています。

さらに、ジャパン・ツーリスト・ビューローの事業として以下の点を挙げています。

「一、漫遊外人に関係ある当業者業務上の改良を図ると共に、相互営業上の連絡利便を増進すること。
 二、外国に我邦の風景事物を紹介し、且つ外人に対して旅行上必要なる各種の報道を与ふるの便を開くこと。
 三、我邦に於ける漫遊外人旅行上の便宜を増進し、且つ関係業者の弊風を矯正すること。
右三項の外、總て外客を我国に誘致し、是等外客に対し諸般の便利を図るため各種の事業を計画実行せんとするの希望である」

現在の日本政府観光局(JNTO)や観光庁がやっていることは、すでに100年前に企画され、実施されていた事業だったのです。

ところで、当時の訪日外客の規模はどのくらいのものだったのでしょうか。同誌の創刊を告げる「発刊之辭」でこう述べられています。

「想ふにツーリスト、ビューローの事業たる、欧米諸国にありては早く業に其必要を認め、今や各国其設備整はざるなしと雖も、本邦にありては其規模誠に小さく、世上一般は之に対して殆ど知るところないものの如し。然れども漫遊外客の来遊するもの年々二萬人内外を有し、其費す金額も一年大略一千三百萬圓を下らずと云ふに至りては、是を国家経済上より見るも亦決して軽々に看過すべからざる事實たらずんばあらず」。

100年前(1913年)の訪日外客数は2万人、消費額は1300万円でした。つまり、2013年に訪日外客数が1000万人を超えたということは、この100年で500倍になったということになります。

これから何回かに分けて「ツーリスト」の約30年の軌跡を追いながら、戦前期の外客誘致の姿について見ていきたいと思います。当時と現在では大きく違うこと(当時の外客は客船で来日。航空機時代を迎えた戦後の輸送量の飛躍的拡大)があるものの、基本的な誘致に対する考え方はそれほど違わないことがわかり、とても興味深いです。そこには、今日から見ても学べる多くの知見があります。

また最初にいってしまうと、1913年に始まった日本の外客誘致の努力に対して、その10年後、20年後を見る限り、戦前期における外客数の大きな増加は、結果として統計的には見られなかったという事実があります。いったいそれはなぜだったのか。これも検討してみようと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-02-19 11:15 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)