ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2014年 03月 29日

2013年、九州に寄港する外国クルーズ船はなぜこんなに減ったのか

台湾発のクルーズ客船「スーパースター・アクエリアス」は、毎年4月から10月下旬まで毎週1回、那覇港と石垣港に寄港します。同船は、日本で唯一の外国からの定期クルーズ船です。同船の寄港日に上陸する約1500人の台湾客は、那覇の風景を大きく変えています。
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※沖縄に寄港する外国クルーズ船と乗客の動向については、以下の記事を参照。
【前編】台湾発クルーズ客船、那覇寄港の1日ドキュメントhttp://inbound.exblog.jp/20363867/
【後編】台湾発クルーズ客船、那覇寄港の1日ドキュメントhttp://inbound.exblog.jp/20365044/
沖縄には欧米客を乗せたクルーズ客船も寄港しますhttp://inbound.exblog.jp/20366268/

「スーパースター・アクエリアス」は、今年も4月6日からやって来ます。那覇港に寄港する国内外を合わせたクルーズ客船の予定は以下を参照ください。

那覇港管理組合
http://www.nahaport.jp/kyakusen/nyuukouyotei2014.htm

では、沖縄以外の国内の港ではどうなのでしょうか。先ごろ、大型客船のクイーン・エリザベスが干潮時に横浜ベイブリッジを潜り抜け、横浜港に寄港したニュースがありましたが、今年も全国各地に外国クルーズ船は寄港する予定です。各港の予定は以下のサイトが参考になります

一般社団法人日本外航客船協会
クルーズ船寄港地
http://www.jopa.or.jp/port_detail/port.html

上記2サイトで調べる限り、沖縄県(那覇、石垣)は国内最大級の外国クルーズ船の寄港地といえます(国内クルーズ船を入れたトータルの2013年のクルーズ寄航数では、横浜、神戸に次ぐ3位。那覇港は外国客を乗せたクルーズの比率がいちばん大きい)。

では、今年沖縄以外ではどこの港に多くの外国クルーズ船が寄港するのか。ざっと調べてみると、以下の4港が多そうです。

横浜/「ダイヤモンド・プリンセス」(英)、「コスタ・ビクトリア」(伊)ほか
神戸/「コスタ・ビクトリア」(伊)、「サン・プリンセス」(米)ほか
博多/「コスタ・アトランティカ」(伊)、「ダイヤモンド・プリンセス」(英)、「ボイジャー」(英)ほか
長崎/「ダイヤモンド・プリンセス」(英)、「セレブリティ・ミレニアム」(米)ほか

横浜港クルーズ客船寄港予定 
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/cruise/schedule/2014.html
神戸港クルーズ客船寄港予定 
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/leisure/harbor/passenger/schedule/
博多港クルーズ客船寄港予定
http://port-of-hakata.city.fukuoka.lg.jp/guide/cruise/index.html
長崎港クルーズ客船寄港予定
http://www.jopa.or.jp/port_detail/nagasaki.html

調べていくうちにわかったことがあります。

九州では、2012年空前の外国クルーズ船の寄港ラッシュに沸いたこと。ところが、13年に入ると大幅な減少が見られたことです。

※クルーズ船寄港回数(国内クルーズ船も含む総数)
博多港 2012年:112回→13年:38回
長崎港 2012年78回→13年:48回

なぜこんなに九州に寄港する外国クルーズ客船が減ってしまったのか。

上記2港の関係者に電話取材したところ、2つの理由が見えてきました。まず、2012年秋以降の日中関係の悪化により大型客船「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」「レジェンド・オブ・ザ・シーズ」(米)、「コスタ・ビクトリア」(伊)などの中国発チャーター・クルーズ船の寄港が途絶えたこと。もうひとつは、2011年末に韓国初のクルーズ船会社として創業されたハーモニー・クルーズ社が、12年2月より博多や長崎に多数寄港させた「クラブ・ハーモニー」(韓)が営業悪化のため、13年2月からあっさり運休したことです。

博多港の2012年のクルーズ船の寄港実績をみると、この年の大半の外国クルーズ船が前述した中国発および韓国発だったことがわかります。これが一気に寄港しなくなったわけですから、激減するのも無理はありません。長崎港でも状況は同じでした。

国土交通省が2012年11月に作成した外国クルーズ誘致を促進するための資料に、以下のような統計があります。

外国船社クルーズ船寄港回数上位10港(国内クルーズ船は含まない)

2005年 1位那覇29回/2位石垣29回/3位長崎24回/4位平良22回/5位横浜11回 計199回
2006年 1位長崎50回/2位広島23回/3位神戸18回/4位萩15回/5位宇野14回 計251回
2007年 1位長崎37回/2位那覇26回/3位石垣25回/4位神戸19回/5位鹿児島16回 計281 回
2008 年 1位那覇51 回/2位石垣37回/3位鹿児島30回/4位博多25回/5位長崎25回 計318回
2009年  1位那覇50回/2位長崎45回/3位石垣32回/4位博多28回/5位神戸22回 計348回
2010年  1位博多61回/2位那覇46回/3位鹿児島45回/4位石垣45回/5位長崎39回 計338回
2011年 1位石垣46回/2位那覇37回/3位博多25回/4位長崎17回/5位横浜13回 計186回
2012年 1位那覇73回/2位博多63回/3位長崎55回/4位鹿児島37回/5位石垣33回 計459回 ※ただし、これは2011年12月時点での予定。

これからの観光とクルーズ
http://www.marine.osakafu-u.ac.jp/~lab15/society/PDF/soukai/04.pdf

これをみると、もともと外国クルーズ船は沖縄や九州に多く寄港していましたが、2008年頃より急増しています。中国や韓国からのクルーズ船がこの時期に増えたためです。東日本大震災の2011年はいったん減っていますが、翌12年に大幅にアップしました。これが空前の九州クルーズラッシュとして話題となったのです。当時の状況について、観光庁長官も以下のように明るい展望を語っていました。

観光庁の井手長官、“黒船”来航でどうなる今後のクルーズ振興
http://www.cruise-mag.com/news.php?obj=20120619_01

ところが、その盛り上がりもわずか1年で萎んでしまったのでした。関係者の落胆ぶりが思いやられます。

それでも、2013年の秋頃から、少しずつ上海発のチャーター・クルーズ客船が九州各港に寄港するようになっています。ただし、その勢いは12年には到底及びませんし、実は九州の港湾関係者も、以前のように積極的に中国からのクルーズ船の寄港をメディアに対してアピールしていないようです。その背景には、2012年秋の尖閣事件直後の中国クルーズ船の熊本港寄港が中国国内でバッシングに遭ったことに対するトラウマがあるからに違いありません。日中関係が好転していないいま、あまり騒ぐとかえって中国世論を刺激し、逆効果を生むのではないか。九州のクルーズ関係者の間にそんな複雑な思いが共有されているようなのです。

東京にいると、航空便による中国客の大幅回復が強く実感されますが、九州では少し事情が異なるようです。

※もっとも、九州在住の帆足千恵さんが最近、「九州は日本のクルーズ先進地になれるか? 福岡クルーズ会議から」というコラムを書いていて、九州がいかに熱心にクルーズの誘致に再び取り組もうとしているか、報告されています。要注目です。

※2014年に入り上海発のクルーズ船は再び博多港を訪れるようになりました。寄港状況は以下参照ください。

博多港クルーズ客船寄港予定
http://port-of-hakata.city.fukuoka.lg.jp/guide/cruise/index.html
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by sanyo-kansatu | 2014-03-29 12:53 | “参与観察”日誌 | Comments(0)
2014年 03月 29日

28回 100年前の外客誘致はどうだった? 戦前期からいまに至るインバウンドの歴史の話

訪日外国人数1000万人達成や東京オリンピック開催の決定で、今年に入ってますますインバウンド振興の機運が盛り上がっています。ところで、日本の外客誘致は、いまから100年前に始まっていたことをご存知でしょうか。

思いがけない話かもしれませんが、日本の外客誘致には戦前期から継続的に取り組まれてきた歴史があります。今回はその歴史を通して、ニッポンのインバウンドの理解を深めてみたいと思います。
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いまでこそ「インバウンド」ということばや「訪日外国人の旺盛な消費への期待」から外客誘致の必要性に対する理解が広まってきましたが、歴史を振り返ると、日本の外客誘致はいまから100年前に始まっています。

それは、1912(明治45)年3月に当時の鉄道院によって設立されたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTBの前身)の活動によってスタートしました。今日の「観光立国」政策や外客誘致のためのプロモーション活動も、すでに戦前期にひな型があったのです。

JTB100年のあゆみ
http://www.jtbcorp.jp/jp/100th/history/

100年前の訪日外国人数は約2万人


設立当時のジャパン・ツーリスト・ビューローは、今日の日本を代表する旅行会社JTBとは実態がかなり異なるもので、むしろ現在の日本政府観光局(JNTO)に近い存在でした。

では、戦前期の外客誘致とはどんなものだったのでしょうか。

それを知るうえで格好の資料となるのが、ジャパン・ツーリスト・ビューローが発行した「ツーリスト」(1913年6月創刊)です。同誌は外客誘致の促進を目的に創刊された隔月刊の機関誌で、1943年まで発行されていました。

ところで、100年前の訪日外国人数はどのくらいの規模だったのでしょうか。同誌創刊号の「発刊之辭」ではこう述べられています。

「漫遊外客の来遊するもの年々二萬人内外を有し、其費す金額も一年大略一千三百萬圓を下らずと云ふに至りては、是を国家経済上より見るも亦決して軽々に看過すべからざる事實たらずんばあらず」。

1912(明治45)年当時の訪日外国人数は約2万人、外客による消費額は約1300万円でした。つまり、2013年に訪日外国人数が1000万人を超えたということは、この100年で市場が約500倍に拡大したことになります。

もちろん、当時といまではさまざまな面で大きく事情が違っていました。たとえば、当時の外客は基本的に客船で来日しています。戦前の資料をみると、1940年代(昭和10年代後半)になってようやく航空機による訪日外客が現れていますが、「500倍」という数的拡大は、いうまでもなく、本格的な航空機時代を迎えた戦後の輸送量の飛躍的増加があってこその話です。
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※100年前の訪日外国人の状況については、中村の個人blog「100年前(1913年)の訪日外客数は2万人、消費額は1300万円」を参照。

アジア客より欧米客が圧倒的に多かった

旅客機の利用が現在ほど一般的ではなかった戦前期において、訪日外客は国際客船の寄港する港から入国していました。
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現在、横浜港に停泊する氷川丸(1930年竣工。北太平洋航路で運航した客船)

ツーリスト6号(1914年4月)の「大正2(1913)年中本邦渡来外人統計表」によると、当時の入国地としての以下の14の港が記されています。

横浜、神戸、大阪、長崎、函館、門司、下関、敦賀、小樽、七尾、青森、唐津、厳原(対馬)、室蘭。

統計表には、それぞれの港ごとに国籍別の入国者数が記載されています。入国者数のトップは横浜で、次いで神戸、長崎、下関、敦賀、門司、函館の順になっています。100年前の日本の玄関口は、成田や羽田ではなく、横浜や神戸でした。

さらに、この統計表によると、1913(大正2)年の訪日外客数は21886人。国籍別にみると、トップが支那(この時期は辛亥革命直後で「中国」という国家は存在しているとはいいがたい状況であったため、当時の中国大陸を指す一般的な呼称として「支那」が使われています)で7786人、次いで米国5077人、英国4123人、ロシア2755人、ドイツ1184人の順になっています。これら中米英露独のトップ5の占める数は圧倒的に高く、他の国々とは比較にならないほどでした。ちなみに、上位5か国の順位は、1926(大正15)年まで変わっていません。

今日と比べると国籍別比率の観点で大きく違うのは、アジア系旅客よりも欧米系旅客が多かったこと、なかでもロシア人の比率の高さが注目されます。

※当時の訪日外国人の国籍別数の詳細については、中村の個人blog「戦前期、外国人はどこから入国したのか?」を参照。

当時も日本のキラーコンテンツは温泉だった

では、100年前の訪日外客は日本のどこを訪ね、滞在を楽しんでいたのでしょうか。

ツーリスト3号(1913年10月)では、この年の7、8月「避暑地、温泉及び都会等に滞在せる外人旅客数」を国籍別に調査しています。同調査に挙げられた滞在地は以下のとおりです。

東京、横浜、鎌倉、熱海、伊東、修善寺、京都、神戸、宝塚、有馬、宮島、道後、別府、長崎、小浜、温泉(雲仙)、伊香保、草津、日光、中宮祠(中禅寺湖)、湯本(箱根)、鹽原(塩原)、松島、大沼公園、登別温泉

なかでも外客滞在数のトップは、日光で6256人。次いで鎌倉3368人、京都3008人、東京1738人、中宮祠1593人、横浜1127人、湯本1067人、小浜1039人、神戸878人、雲仙765人と続きます。
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1878(明治11)年創業の富士屋ホテル(箱根・宮ノ下)は日本人経営による初めての本格的外客向けホテル

当時の日本では、国内全域を短時間で移動できるような鉄道網や自動車道は発達していなかったので、滞在型の旅行形態が一般的でした。現在の東京・大阪5泊6日コースのような周遊旅行はありえませんでした。そのため、多くの外客は東京や京都といった大都市以外は、国内各地の温泉地や避暑地、また鎌倉や日光、宮島など主要な観光地の周辺に生まれつつあった外国人経営の洋式ホテルや日本式の温泉旅館に滞在していたようです。当時から日本のキラーコンテンツは温泉だったことがわかります。
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昭和7年の雲仙での滞在欧米客のパーティ風景

ここでちょっと興味深いのは、トップ10の中に長崎県の雲仙温泉が入っていることです。これは前述した横浜、神戸に次ぐ3番目の入国地が長崎だったことと関係しています。中国大陸と日本をつなぐ長崎・上海航路で訪日した上海租界在住の欧米人(なかでもロシア人の比率が高かったようです)が避暑のため、長崎に渡り、雲仙温泉に滞在したからです。いまではちょっと想像つかない話ですが、当時雲仙には多くの欧米客が滞在していた記録が残されています。

※当時の訪日外客の滞在事情については、中村の個人blog 「100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか?」を参照。

インバウンドのイロハは西欧から学んだ

もっとも、1912(明治45)年当時の日本には、海外から訪れる外国人客を受け入れるためのインフラが、ハード、ソフトの両面でほとんど整備されていませんでした。

そのため、「ツーリスト」誌においても、外客誘致のためには何が必要かを啓蒙するため、海外事情の紹介に努めています。

それらの海外レポートの多くを執筆しているのは、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事の生野圑六です。生野は鉄道院の役人で、のちに京浜電気鉄道社長になる人物ですが、ヨーロッパ諸国を中心に海外を視察し、各国の外客誘致の現状について報告しています。彼は日本のインバウンド黎明期に最も積極的に啓蒙活動に取り組んだ論客です。

生野がシベリア鉄道経由でヨーロッパ視察に出かけたのは、1912年6月末から9月末にかけてです。ベルリンで開催された国際旅客交通会議に出席するためでした。

「欧州各国に於ける外客誘致に関する施設」(ツーリスト創刊号(1913年6月))という報告の中で、彼はヨーロッパで見聞した多くのことに驚き、感心しています。以下、ポイントを整理してみます。

①当時のスイスではすでに外客受入態勢が完備していたこと

「瑞西は何度参りましても實に心地善い處であります。外客に対する遊覧設備の完備せること、案内上の用意の行届いていること、廣告印刷物等の豊富なること、山水風光明媚なると共に、隅々まで清潔なること、停車場などに長さ数間の大写真などが掲げてあること、ホテルの空室の有無を停車場内に掲示する設備などもあること」。

「外客に対する遊覧設備の完備」もそうですが、彼は何より外客の「案内上の用意の行届いていること」に感心しています。

②ヨーロッパでは国境を越えたドライブ旅行が始まっていたこと

「近時欧米に於ける自動車の発達は非常なもので、従て自動車で自国内のみならず、外国に旅行に出掛ける者は甚だ多いのであります。此道路の如きもツーリストを招致するのが目的であります。鉄道会社も夏期は乗合自動車を運転して、一定の賃金を以て旅客の需に応じております。吾国に於いても将来或地方には、自動車道路を設けることなども一の問題であろうと思ひます」。

これはフランスのエビアンからニースまでモンブラン山脈を横断する約700㎞の自動車専用道路を視察したことに対する感想ですが、日本では戦後を待たなくてはならなかった本格的なモータリゼーションによる観光市場の促進が、ヨーロッパではすでに戦前期から始まっていたことがわかります。

③パリには観光客を惹きつけるさまざまなインフラが充実していたこと

「巴里には其近郊に風光明媚なる處や、名所旧蹟が沢山ありますが、外客を惹付けるには寧ろ人工的設備、或は人為的方法が興つて力あることと思ひます。即美術博物館の完備せる、公園の大規模なる、市内交通機関の便利なる、市街の美観を保つが為に用意周到なる、皆之であります。暇令ば、公設建造物、廣場、凱旋門、スタチュー、橋梁等一として美術的ならざるはなく、電柱などは一本もなく、電車も高架式は許されて居ません。ホテルの設備は完全にして、而も比較的低廉である。劇場には国立竝に準国立とも称すべきものも四ヶ所を始め、多数あり、名優少なからず、他の諸国に於いては夏時は大劇場は休業する例なるに、巴里は無休で、料理や葡萄酒は廉価にして、而も美味である。尚巴里人はコスモポリタンで、外国人を外国人扱ひせず、吾々の如き異人種でも、白人同様に扱ふ等、其他外国人の為に特に利便を計っていることは、列挙すれば沢山あることと思ひます。之等のことは必ずしも吾国に於いて総て模倣すべきでもないが、又中には大に学ぶべきことがあると思ひます」。

ほとんど手放しの称賛ぶりですが、これが100年前の日本人の正直な実感だったと思われます。

④ヨーロッパでは新聞広告による外客誘致が広く行われていたこと

「(ヨーロッパ各地で発行される英国のデーリーメール新聞は)英米人の大陸旅行者に中々よく読まるるのでありますが、此新聞社は倫敦竝に巴里の中心に、立派なる案内所を持っておりまして、欧州のみならず世界各国の鉄道、汽船、ツーリスト・ビューロー、ホテル等は固より、静養地、遊覧地、シーズン、遊覧設備、自動車旅行、飛行、学校、貸家、貸別荘等に関する報告を與ふること」。

この視察を通して生野が得た最大の収穫は、外客誘致のために宣伝媒体(メディア)がいかに効果的であるかを知ったことでした。今日の日本では当たり前になっている海外に対する訪日プロモーションは、100年前に学んだものだったのです。

生野は帰国後、「ツーリスト」誌において繰り返し外客誘致のための広報機関の運営や宣伝方法、案内所の設立、ツーリスト業者の組織のあり方などを提言しています。それらの報告は、この時期ニッポンのインバウンドが、西欧をモデルに一から形成されていった過程が生々しく伝わってくる内容となっています。

※生野圑六の海外レポートについては、中村の個人blog「100年前、日本は欧州から外客誘致のイロハをこうして学んだ」、「大正期にスイスから学んだ観光宣伝のさまざまな手法」を参照。

外客誘致の目的はいまも昔も変わらない

100年前の日本は、日露戦争に勝利し、世界デビューを果たしたばかりでした。しかし、国民経済は西欧諸国に比べるとまだ貧しく、彼らから学ぶべきことが山のようにありました。

そもそも当時の外客誘致の目的は何だったのでしょうか。

ツーリスト創刊号(1913年6月刊)の巻頭には、「ジャパン、ツーリスト、ビューロー設立趣旨」なる以下の文章(一部抜粋)が寄せられています。

「日本郵船会社、南満州鉄道会社、東洋汽船会社、帝国ホテル及我鉄道院の有志聯合の上『ツーリスト、ビューロー』を設立せんことを期し、諸君の御会合を請ひたるに、斯く多数其趣旨を賛成して、御参集を辱ふしたるは、我々発起人一同の感謝とするところである。抑も漫遊外客は、我日本の現状に照らし、各種の方面より大いにこれを勧誘奨励すべきは、今更贅言を要せない次第である、外債の金利支払及出入貿易の近況に対し、正貨出入の均衡を得せしめんが為め、外人の内地消費を多からしむるに努め、又内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め、国家経済上の見地より、外国漫遊旅客の発達を促すは、刻下焦眉の急たること申す迄もなく、更に一方により考ふれば、東西交通の利便開け、東西両洋の接触日に頻繁を加ふるの際、我国情を洽く海外に紹介し、遠来の外客を好遇して国交の円満を期すべきは、国民外交上忽にすべからざる要点である」。

ここでは、当時の外客誘致を提唱する基本的な考え方として、以下の3つの目的を挙げています。

①「外人の内地消費」
②「内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め」
③「遠来の外客を好遇して国交の円満を期す」

①「外人の内地消費」とは、文字通り「訪日外国人の消費による経済効果」のことです。まだ貧しかった当時の日本にとって、国際客船に乗って訪日する富裕な欧米客の消費力に対する期待は今日以上に高かったことでしょう。

興味深いのは、②「内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め」です。これは、そもそも外客誘致の目的は、日本滞在中多くの外客に国内産品を消費してもらうためだけではなく、その良さを広く知ってもらうことにあるという輸出立国的な認識です。インバウンド促進の目的をツーリズム産業内の市場拡大や地域振興とみなすだけでなく、それを輸出産業につなげてこそ意味があるという論点は、すでに戦前期からあったことがわかります。むしろ、「訪日外国人の旺盛な消費への期待」ばかりが語られがちな今日よりも、当時のほうが物事の本質が明確に意識されていたようにも思います。

③「遠来の外客を好遇して国交の円満を期す」は、外客誘致の目的は国際親善にあるという認識です。

「ツーリスト」誌上では、その後、外客誘致に対する「経済効果」論争が繰り広げられます。外客による消費を重視する立場と、国際親善こそ重要で経済効果は二義的なものだという主張に分かれるのです。後者の主張が生まれた背景には、1914年に始まった第一次世界大戦で戦場となったヨーロッパ諸国からの訪日旅行者が減ったことや、その後の長い日中対立がありました。

たとえば、ツーリスト10号(1914年12月)では、「(第一次世界大戦で)欧州方面に失ひたるものを米国方面に補ひ」(「時局と外客誘致策」)というようなヨーロッパに代わる外客誘致先としての米国への取り込みを促す論考。またツーリスト26号(1917年7月)では、「日支两国民間に繙れる空気を一新し、彼の眠れる友情を覚醒し以て日支親善の楔子(くさび)たらん事を期す」(「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」と、悪化する当時の日中関係を中国人の訪日誘致によって相互理解を深め、改善しようと提言しています。国際情勢がいかに外客誘致に影響していたかがわかる話ですが、今日においてもそれが同様であることは、ここ数年の近隣諸国との関係悪化で私たちもあらためて理解したばかりです。

こうしてみると、戦前期の外客誘致の目的や課題は、今日となんら変わらないものであることがわかります。現在の日本政府観光局や観光庁が主導する官民挙げたインバウンドの取り組みは、すでに100年前に企画され、実施されてきた事業だったのです。
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1935(昭和10)年に開業した雲仙観光ホテル

その後、昭和に入り、ニッポンのインバウンドは進展を見せます。国策として全国各地に外客のためのホテル建設が積極的に進められました。日本の名立たるクラシックホテルの多くはこの時期建てられたものです

しかし、時局は戦時体制に向かい、結局のところ、外客誘致どころではなく、敗戦を迎えます。それでも、戦後の混乱期を抜けると、再び外客誘致が始まります。その契機となったのが、1964年の東京オリンピックでした。

そして、いま私たちは2020年開催予定の東京オリンピックをひとつの目標として見据え、インバウンド促進を進めています。こうして歴史を振り返ると、日本はすでに外客誘致に関してそれなりの経験を積み重ねてきたことを知ると同時に、いいことも悪いことも含め、これから先も似通った経験をしていくことになるのだろう、という気がします。

それだけに、過去の歴史には、今日から見ても学べる多くの知見があります。今後は、ツーリスト創刊号で提唱された外客誘致の目的のうち、②や③の視点がより重要になってくると思います。すなはち、外客の消費を期待するだけでなく、それを日本のものづくりと直結させていく動きを促進させる必要。さらに、近隣諸国との関係も含め、訪日旅行プロモーションをいかに国際親善につなげていくかという点でしょう。

大正期に一から始まった日本の外客誘致の取り組みを知り、先人の思いや心意気を思うと、その尽力を断絶することなく、きちんと受け継いでいく必要がある。そんな殊勝な気持ちになったものです。

※やまとごころ.jp 28回 100年前の外客誘致はどうだった? 戦前期からいまに至るインバウンドの歴史の話

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by sanyo-kansatu | 2014-03-29 12:33 | 最新インバウンド・レポート | Comments(0)
2014年 03月 28日

第1回「ジャパン・ショッピング・フェスティバル(JSF)」報告会にて

2013年12月1日~2014年2月28日にかけて、東京、大阪、福岡の約200を超える小売施設が参加した「ジャパン・ショッピング・フェスティバル(JSF)」が開催されました。主催は、一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会 Japan Shopping Tourism Organization(略称JSTO)と観光庁。JSTOはショッピングを通して日本の魅力を海外にPRするため、2013年9月に設立された組織です。今回は、2013-14年冬に実施された第1回JSFの報告会で語られた関係者の取り組みを紹介します。

日時 3月12日(水)15:00~17:00
会場 JAビル(大手町)
主催 一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)

●プログラム1:2013-14冬 ジャパン・ショッピング・フェスティバル(JSF)報告
新津研一JSTO専務理事(株式会社USPジャパン代表取締役社長)

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第1回JSFでは、海外PRのための公式サイト「GoJSF-Japan Shopping Festival」を昨年10月25日開設しました。今回JSFに参加したのは、東京、大阪、福岡の230施設。ショッピングセンターや量販店、専門店、百貨店、ディスカウントストア、アウトレットモールなど、業態はさまざまです。同サイトは4言語(英語、中国語(繁体字、簡体字)、韓国語)対応で、参加店舗の情報がインデックスされ、各店から限定品情報やイベント情報、セール情報が発信されました。
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GoJSF-Japan Shopping Festival
http://www.gojsf.com/

さらに、公式Facebook や協力企業を通じた海外PRも展開しました。Facebookの国別「いいね!」数では、7万人のアクセスの半数以上をタイが占めるという興味深い結果も出ました。とはいえ、ようやく海外PRのためのプラットフォームができたというのが実情で、JSFが海外で十分認知されたという状況には至っていません。

国内では、各地の参加施設が告知ポスターやフライヤーを使ってPRしました。ただし、日本旅行やデジタルカメラが当たる抽選キャンペーン「ジャパンプライズ」の応募者数が予想を下回ったなど、いくつかの課題も指摘されました。

●プログラム2
各商業施設の取り組み事例


春節の販売強化策
京王百貨店 代田怜子氏


京王百貨店では、今年の春節(1月24日~2月13日)の免税売上実績は対前年の約2倍となりました。国別でみると、1位は台湾、2位が中国ですが、ここ数ヵ月、中国のシェアが伸びています。

同店では、春節期間中、外国人向けの5%割引クーポンやお買上プレゼントを告知した「ウェルカムボード」の設置は店内誘導につながり割引クーポンによる売上は対前年8.5倍と大きな効果をもたらしました。さらに「春節福袋」を企画しましたが、事前告知不足や内容の見直しが改善点として挙げられるものの、福袋を紹介するペラの配布による掲載店舗への誘導は成果を挙げました。

東京メトロ1日乗車券の販売と割引キャンペーン
ビックカメラ 田熊力也氏


ビックカメラでは、春節期間中、免税売上が全売上の2桁の比率になりました。同店では、新しい取り組みとして英語、中国語(繁体字、簡体字)、韓国語、タイ語、インドネシア語の多言語Facebookで商品情報を配信。カメラ好き社員の多い同社ならではの販促品として、社員が撮影したオリジナル写真のポストカードを外国客に渡したり、東京メトロと連携して1日乗車券を販売したうえ、乗車券を店頭で提示することで8%割引のキャンペーンを実施するなど、ユニークな販促を展開しました。
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海外店を活用した取り組み
三越伊勢丹ホールディングス 堀井大輔氏


三越伊勢丹ホールディングスでは、海外、国内、社内の3つの取り組みを実施しています。

同グループは海外5カ国、27店舗を展開していることから、現地で発行しているカード会員に対する訪日旅行時の優待サービスとしてクーポン券を発行しました。また国内では、新宿エリアでの他の商業施設と連携した共同キャンペーンを行いました。同じ志を持った異業種の方と話し合いの場を持てたことが収穫でした。
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社内の取り組みとしては、店舗での外客受入の強化策として、対応言語別のバッジを胸に付け、外国語のサポート体制を構築しました。春節前に社内WEBで外客受入のための勉強会をしたことが、現場のスタッフのモチベーションアップにつながりました。
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Tokyo Grand Shopping Week
原宿表参道欅会 中島圭一氏

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原宿表参道欅会では、春節期間中(1月23日~2月5日)、Tokyo Grand Shopping Weekを開催しました。昨年同時期にも、Tokyo Fan Weekを開催していますが、今年のイベントはよりショッピングのイメージを重視して名称を変更したものです。

表参道ヒルズ、ラフォーレ原宿、東急プラザなど、表参道原宿の施設テナントやキデイランドなどの個店約240店舗が参加し、バーゲンセールやお土産企画、レストラン・ウィークなどのコンテンツを実施しました。また期間中、1000円以上お買い求めの外国客に店頭でのスクラッチ抽選キャンペーンを企画しました。

同会では、3~4年前からインバウンドに対する取り組みを始めています。多くの商業施設を取りまとめるため、毎月2回会議を開き、現場担当者らによる意見交換を行っていることが、今回のイベントの大きな推進力となっています。

●プログラム3:2014年夏キャンペーンに向けて
新津研一JSTO専務理事(株式会社USPジャパン代表取締役社長)


今年7月1日~8月31日にかけて夏のキャンペーンを実施します。

この冬のキャンペーンの課題をふまえ、運営方法を見直し、プロモーションの魅力度アップのために、海外PRの発信スケジュールを早期提示することに努めます。我々にとっての課題として何より挙げられるのが、日本には海外向けのショッピングのポータルサイトがない、ということに尽きます。このサイトをポータルに育てていく必要があります。

さらに次回は、これまで参加していなかった北海道や中京エリアの小売店、一部のドラッグストア、専門店などの参加者を拡大していきます。

一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)
東京都港区西新橋3-6-2 西新橋企画ビルディング3階
http://www.jsto.or.jp

<取材後記>
報告会の冒頭で、新津研一JSTO専務理事は「日本の魅力はショッピングに集約されている。ショッピングこそ、日本旅行の楽しいコンテンツである。ところが、海外ではそれが十分認知されていない。JSFは、日本の魅力を海外に広くPRするために、オールジャパンで取り組んでいく取り組みだ」といいます。

昨年秋、一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)が設立するというニュースを耳にしたとき、最初に思ったのは、このプロジェクトにモデルはあるのだろうか? ということでした。

たとえば、かつてバーゲンシーズンには日本人も大挙して押しかけた香港。なぜ多くの日本人は香港に買い物に出かけたのか? 確かに、香港政府観光局のプロモーションは当時から洗練されていましたが、それ以上に雑誌メディアなどが豊富な現地情報を提供していて、お目当ての商品を最初から目がけて香港に足を運ぶ人が多かったように思います。おいしい香港料理が食べられることもお楽しみとして。

こうしてみると、海外の旅行者というのは、限りなくピンポイント情報を求めているのでは……。要するに、バーゲン情報の具体的な中身。そんな身も蓋もないことを思わないではありません。

もっとも、関係者の語るように、いまはまだこのプロジェクトはスタートラインに立ったばかり。今年の春節は、大幅回復した中国本土客によって一部の小売店や百貨店に売上増をもたらしたのは事実です。ただし、それは多くの場合、関係者らの長い試行錯誤や努力の積み重ねがあったということは、今回の事例報告でよくわかりました。

今回の報告会では、現場で外客による売上効果を手応えとして実感している小売関係者の生の声を聞けたことに意味がありました。本来ライバルである方たちが、お互いの経験や知見を惜しみなく公開する場がこうして設けられたことにこそ、JSTO設立のひとつの意義があると思いました。

※九州在住の帆足千恵さんがやまとごころ.jpでJSFの九州での様子を報告しています。
訪日旅行者1000万人時代にショッピングツーリズムの果たす役割は何か?
http://www.yamatogokoro.jp/column/2014/column_147.html
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by sanyo-kansatu | 2014-03-28 08:52 | 東京インバウンド・スポット | Comments(0)
2014年 03月 24日

日本の供養文化を海外にどうやって伝えるか(お仏壇のハセガワ銀座本店)

今回も「やまとごころ.jp」のインタビューから。「お仏壇のはせがわ銀座本店」の話。

2003年に銀座1丁目に開店した「はせがわ銀座本店」には、多くの外国客が訪れている。「お仏壇のはせがわ」でおなじみの同店で外国客に人気なのは、和を感じさせる季節の室礼(しつらい)商品や、6階のギャラリーに収蔵されている年代物のお仏壇など貴重な伝統工芸品だ。まだ始まったばかりの同店のユニークな外国客誘致の取り組みについて、大石光一本店長と林星司店長のおふたりに話を聞いた。
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目次:
供養マーケットの創出
売れ筋は24節句の室礼(しつらい)商品
日本の伝統工芸技術を伝えるギャラリー
今後の課題

―銀座本店の位置付けについて教えてください。

大石
「これまで弊社はお仏壇や仏具、墓石や納骨に関するトータルサポートなど、新しい供養マーケットの創出を手がけ、国内に100店舗以上を出店してきました。ブランディングショップとして銀座本店をオープンさせたのは2003年です。お仏壇というのは、お寺さんを小さくした本堂で、家の中で仏様や祖先を祀る場所です。そこには、鍛金や彫金、金箔打ち、漆塗りなど、さまざまな伝統工芸の技法が集約されています。
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銀座本店では、単にお仏壇や仏具を並べるだけでなく、日本の伝統的な供養文化を多くの方に理解していただくため、小さなギャラリーを設置しました。

そこでは、定期的にお坊さんを呼んで法話会を開いたり、仏具等の展示会を開催したりしています。
毎年10~12月には古布人形展をやっていますが、そのときばかりは、ここは本当にお仏壇屋さんなのだろうか、というほど大勢の方がいらっしゃいます」

―いつごろから外国客が来店するようになったのですか?

大石
「当初外国のお客様のご来店は想定していなかったのですが、オープンすると、すぐに店内を覗きに来られるようになりました。最初は欧米の方が多かったようですが、最近はアジア方面、特に中国からのお客さまが多いという印象です。いまは欧米客3:アジア客7くらいの比率でしょうか」
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「1階に展示してある『季節の室礼商品』と私どもが呼んでいる、端午や桃の節句にちなんだガラス細工やちりめん細工の商材を手に取ったり、奥の黄金の茶室をご覧になったりしています。
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欧米の方は特に着物生地の商材やお香がお好みのようです。よく購入される商品の価格帯は、3万円前後。アジアのお客さまには香木が人気です。『これはどこで採れたものですか? 何年物ですか?』と熱心にご質問されます。中国に比べ値段が安く、偽物を買わされることがないので、日本での購入を希望するそうです」

大石
「欧米客は仏像をキャラクター化したブロンズ像などをアート作品として購入される場合が多いです。有名な彫刻家で東京芸術大学の籔内佐斗司先生の作品はとても人気があります」。
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―ギャラリーでは何を展示しているのですか?

大石
「弊社ではお仏壇や仏具の製造に加え、国内の重要文化財の修復をお手伝いさせていただいています。いま世界的にお仏壇や仏具を専門に作る職人は少なくなっています。中国では文化大革命によって徹底的に仏教文化が破壊されたため、ほとんどいないそうですし、台湾でも高齢化が進んでいると聞きます。そこで、2006年以来、弊社は東京芸術大学と連携、文化財保存学を学ぶ大学院生の最優秀研究に『お仏壇のはせがわ賞』授与し、日本の伝統工芸技術の継承にささやかながらご協力させていただいています。
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銀座本店のギャラリーは『ご供養の過去・現在・未来』をテーマとして日本の工芸技術と『祈りの心』を知っていただくために開設したものです。明治時代の金仏壇や阿弥陀如来立像といった貴重な文化財とともに、同大学院の優秀作品などを常設しています。来店したお客さまからお声をかけていただければ、6階までご案内します」。

―外国客向けの課題や今後の展望についてどうお考えですか?

大石
「昨年10月から中国福建省出身の林店長が着任し、中国のお客さまの接客は彼が担当しています。英語を話すスタッフもおり、ようやく外国客向けの態勢を整えつつある状況です。日本の『祈りの文化』を海外の方にもっと伝えていきたいと考えていますが、まだまだこれからです」。


「アジアのお客さまの8割を占める中国本土のお客さまは、一つひとつの商材に対して『これはどこで作ったものですか? この仏具にはどんな意味があるのですか?』と細かく尋ねられることも多く、やりがいがあります。日本の仏像の面相は、東南アジアと違い、中国や朝鮮半島の仏像と似ているので、人気があるのです。最近、中国では若い世代がお寺にお参りによく行くようになったといわれます。時代と共に信仰心が蘇ってきたのです。ですから、海外のお客さまをいかに当店に誘致するか、仏壇仏具を通して日本の伝統工芸技術の素晴らしさをいかに伝えるか、というふたつの目標をこれから掲げていきます」。
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はせがわ銀座本店
東京都中央区銀座1-7-6 銀座河合ビル
http://www.hasegawa.jp

【編集後記】
当初「お仏壇のはせがわ」に外国客が訪れているという話を聞いたとき、きっとタイ人だろうと思っていました。タイ人の日本旅行には、全国各地の大仏や仏教寺院の訪問が欠かせず、彼らが熱心にお参りしている姿を見ていたからです。ところが、銀座本店で話を聞いたところ、来店客の多くは中国本土客でした。背景には、文化大革命で破壊され、失われた中国の仏教文化を取り戻そうとする精神的な欲求があるらしいこと。ここ十数年の経済一辺倒の風潮の中で、特に中国の若い世代が熱心に宗教文化にすがろうとしている姿が見られることなど、今日の中国人にとって心の問題がとても重要になっていることを、同店の中国出身の担当者の指摘から知ることができました。

銀座には毎日、多くの観光バスが現れ、外国人観光客が散策とショッピングの時間を過ごしています。銀座には、はせがわ以外にも、日本を代表する多くの企業のショールームが集まっています。これらのショールームが一堂に連携して日本のものづくりの素晴らしさを発信することができれば、外国客に対する銀座の新しい過ごし方を提案できるのではないでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-24 15:18 | 東京インバウンド・スポット | Comments(0)
2014年 03月 18日

いよいよ桜の季節。バスは少しずつ増えています(ツアーバス路駐台数調査 2014年3月)

大雪に見舞われた今年の冬もようやく終わり、だんだん春めいてきました。今年の桜の開花時期は、例年並みだそうです。3月下旬にはたくさんの訪日客が現れることでしょう。新宿5丁目を訪れるバスの数もすこしずつ増えています。
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※このカテゴリでは、2011年11月から始めた御苑大通り新宿5丁目付近におけるアジアインバウンドバスの路駐台数(≒中国客の動向)を記録しています。

1日(土)未確認
2日(日)未確認
3日(月)12:20 1台、18:20 2台
4日(火)12:40 2台、18:50 2台
5日(水)未確認
6日(木)18:10 3台
7日(金)18:20 3台
8日(土)未確認
9日(日)未確認
10日(月)12:50 1台、17:20 2台
11日(火)未確認
12日(水)11:50 4台、18:40 2台
13日(木)未確認
14日(金)未確認
15日(土)未確認
16日(日)未確認
17日(月)未確認
18日(火)14:20 2台、17:40 4台
※この日東京に春一番が吹いたそうですが、陽もずいぶん長くなったので、歌舞伎町に面した靖国通りを歩いたところ、通り沿いに6台のインバウンドバスが停車していました。東京大飯店から歌舞伎町一丁目の門に至るまで、多くの外国人が歩いていました。若い欧米人が目に付いたとともに、中国本土客の団体も大勢いました。みんなに共通するのはスマホで写真を撮っていることです。歌舞伎町はこれから東京を代表するツーリストタウンになることでしょう。それをふまえて、いろいろやれることはありそうです。日本のインバウンの最前線といえます。

ところで、歌舞伎町のコマ劇場跡地に高層ビルが建設中です。ビルの上層階はワシントンホテルが入ります。東京最大のインバウンドホテルになると言われています。来年オープン予定です。
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歌舞伎町には戦後のいろいろな歴史が埋め込まれていますが、そうしたバックグランドを「物語」にして今後はテーマパーク化していくのでしょう。外国人は「アジア最大の歓楽街」という物語を見物に行き、日本人は東京で最も外国人に出会える歓楽街として足を運ぶ。例の欧米人ツーリストでにぎわうロボットレストランは、歌舞伎町が東京を代表するインバウンドタウンとして生まれ変わるひとつの象徴的な場所なんだと思います。

新宿東宝ビル開発計画(新宿コマ劇場・新宿東宝会館跡地再開発) 
http://kabukicho.blog.so-net.ne.jp/2013-02-27-1

19日(水)12:20 7台
※今日のお昼も新宿5丁目の御苑通り沿いに中国団体客があふれていました。なにしろそこには「林園」と「味仙荘」という在日外国人の経営するインバウンド専用食堂が2軒しかないのですから、お昼時にいっせいにバスが駆けつけても、店内には入れないため、通りに入店待ちの観光客があふれることになるのです。

今日は上海語をしゃべる中国客もいました。結局、中国本土客が戻ってきたのは、上海を中心とした華中市場が昨秋から動き出したせいです。
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これだけ中国客が増えてきたのだから、新しい食事処を探すべきでしょうが、とても手が回らないのでしょう。手配をしているのは大方在日アジア系ランドオペレーターだからです。でも、今月末の花見のピークシーズンを迎えたとき、とてもこの2軒ではまかないきれないと予想されます。実は、歌舞伎町内にもう一軒台湾人経営のインバウンド専用食堂があるのですが、これだけでは十分とは思えません。

もっとも、日中関係がこの数年大きく揺れ、政治の影響が著しい訪日中国客は増減を繰り返すため、彼らも思い切った投資ができないのでしょう。もともと薄利多売の食堂商売です。食事の内容は、はっきり言って、中国の大学の学生食堂とか工場労働者のための社内食堂レベルです。5泊6日の日本旅行を続ける彼らは、日本食以外のものを食べたくなるというニーズが強いため、そのレベルの食事の内容でも受け入れられているようですが、長い時間通りに待たされるのはどうでしょう。写真をご覧のように、通行人の道をふさいでしまっている状況です。これが激安ツアーで来日する中国団体客の実情なのです。

20日(木)18:10 3台
21日(金)未確認
22日(土)13:00 7台、18:30 6台
※今日も多くの中国団体ツアーバスが姿を見せました。中国客たちはバスを降りると、列を成して「林園」に吸い込まれていきました。

今月19日に発表された日本政府観光局(JNTO)の訪日外客統計によると、中国は前年度比92%増というダントツの伸びを見せています(昨年の反動で数字が大きく見えているともいえますが)。ついで、タイ70.9%増、マレーシア51.1%増と昨年観光ビザが免除された2国が続き、ベトナム50.8%増、台湾48.3%増、香港45.9%増と軒並み好調です。今年の花見シーズンはアジア客でにぎわうことでしょう。

日本政府観光局プレスリリース(2014年3月19日)
http://www.jnto.go.jp/jpn/news/data_info_listing/pdf/140319_monthly.pdf

23日(日)未確認
24日(月)13:00 2台
25日(火)13:20 4台、18:50 2台
※この日、東京で桜の開花宣言が出ました。近所の桜もつぼみがふくらんでいて、ちらほら花を咲かせていました。

26日(水)11:40 3台
27日(木)12:20 3台、18:20 3台
28日(金)未確認
29日(土)未確認
30日(日)未確認
31日(月)12:20 4台、18:20 3台
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by sanyo-kansatu | 2014-03-18 17:25 | 定点観測ツアーバス調査 | Comments(0)
2014年 03月 15日

ご当地みやげを改造せよ(1919年の提言)

ツーリスト28号(1917年11月)において、国内観光地に外客や国内遊覧客の便宜を図るためのさまざまな設備をつくることを提案したジャパンツーリストビューロー幹事の生野圑六は、2年後、次なる提案をしています。

それは、ご当地みやげを改造せよ、です。

「遊覧地土産品の改造を促す」(ツーリスト40号(1919年11月))の中で、彼はまず伊香保温泉を訪ねた折、遊覧客向けの設備が著しく改善されたことを「愉快」に感じたと述べたうえで、こんなことを書いています。

「一般遊覧地に對し上記六ケ条(ニッポンの観光地は外客の存在を意識して大正期に近代化された)の外更に所謂土産品の改造を促したいのである」

どういうことでしょう。

「今日相当名ある遊覧地を旅行して最も煩く眼に觸れる一は土産品である。曰く『温泉みやげ』『海水浴みやげ』其他神社佛閣に因める、さくら、もみぢもゆかりのあるもの等殆ど幾千種を以て數へらるるのであるが、假令土産品、名物の名は共通であっても此種のものが果たして土地特有の特色を出して居るか否乎は甚だ疑はしいのである。忌憚なく謂はしむれば今日の所謂土産品は其名の共通なる如く其實物も共通であって甲地のものも乙地のものも更に異れる點がない、例へば『松島みやげ』と称する貝細工と『江の島名物』の貝細工とを比較し、又箱根特産と銘打たる木細工と熱海名産の木細工とを比較する時吾人は容易に各自異れりとする其特色を見出し兼ぬるのである」

痛いところを突いていますね。でも、これは今日においても見られる現象ではないでしょうか。

生野は言います。

「土産品としては其種類の如何を問はず絛件として多少に関はらず必ず地方的趣味地方的特色を基礎として加味したものであって欲しい。例へば木曽の名物ならば本曾特有の或物を得て之に歴史的、傳統的な意義を含ませ、其郷土的色彩を加工の上に施したならば、単に一箇の木曽みやげとして見る以外之に由り其郷土人士の趣味性、風俗などより種々なる思想の上のことまで味ひ得られるであらう」

まったくおっしゃるとおりですね。

「一方又みやげ品は地方遊覧地の繁栄を期する上にも可なり重要な財源の一に數ふる事が出来る。従って各遊覧地が工夫を凝らし特色を発揮し、其需要を活発ならしむるに努めれば単に旅客の注意を喚起し趣味を満足せしむるに止らず、或る意味に於ては遊覧地住民に對する副業奨励ともなり遊覧地旅客相互に稗益するところ蓋し鮮少ならざる可しと信ぜられる」

高速道路沿いのサービスエリアがアジア客に人気といいます。そこで販売されるさまざまなご当地みやげを買うこと自体がお楽しみの時間になっているのだそうです。ですから、ツアーバスの関係者も、単なるトイレ休憩の場所ではなく、じっくり時間を取るそうです。

日本人の目からみると、ご当地みやげと称されるものの中には、かつて生野が指摘したようなマユツバっぽい品々も紛れているように思いますが、少なくとも海外の観光客にとって観光アトラクションのひとつになっているというのは、面白い話です。生野は、この光景を見て何を思うのでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-15 11:16 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 15日

ニッポンの観光地は外客の存在を意識して大正期に近代化された

外国人観光客の増加は、国内の観光地にいろんな影響を与えます。その端緒となったのが、1912年のジャパンツーリストビューローの設立を機に、国として外客誘致を始めたことにありますが、それから5年後。国内外の旅客が著しく増加したことが、「遊覧地に對する提案」(ツーリスト28号(1917年11月))という論考の中で述べられています。

ビューローきっての論客、生野圑六はこんな風に書いています。

「斯く旅客増加の原因は勿論交通機関の発達、商工業の隆盛、国民経済の好況其他種々なる理由に基く事でもあらうが、近来我が國民間に健全なる旅行趣味が著しく普及され来たつた事も其主なる理由の一として挙げなければならぬ。殊に今年の夏の如き登山旺盛熱を極め、富士、日本アルプス、木曽御嶽等の登襻者激増し、之が為め中央線の各列車は登山期中殆ど連日白衣の登山者を以て満たされてあつた。而して如上の旅客を呑吐する新宿飯田町两驛に於ける七八月中乗客は九十二萬五千餘名にも達し、昨年の同期に比し實に十六萬八千名の増加であつた」

この記述から、大正期に入ると、近代交通を利用した登山などのレジャーの大衆化が日本で始まったことがうかがえます。当時の登山者はお遍路みたいに白装束だったのですね。こうしたレジャーブームは内地だけ話ではありませんでした。どういうことでしょう。

「従って是等旅客を吸収する地方遊覧地温泉等に於てもこの夏は未曽有の好景気を示し、相当信用ある旅館の如き悉く満員にして一、二週間前豫約し置くにあらざれば到底其客室も得難き有様であつた。単に其は我が内地ばかりではなく満洲に於ても青島に於ても同様であった。外人避暑客も亦日光箱根鎌倉輕井澤温泉(うんぜん)等に避暑せる以外北海道に或は山陰北陸に涼を趁ふて赴けるもの不尠、我が國に於ける主要遊覧地に就き調査せる所に由れば其夏期滞在外人數は昨年に比し今年は約三割の増加であった」

この時期、日本の周縁に「外地」という植民地空間が広がりつつあり、多くの日本人が海外に足を運び始めました。一方、外国人も全国各地の観光地に繰り出していました。おそらく日本の歴史上、これほど多くの人々が一斉にレジャーに出かけるという光景は初めてのことだったに違いありません。

ところが、こうした盛況にもかかわらず、生野はこう言っています。

「我が國民間に旅行趣味の普及され来つた事、實に斯くの如くであるが、一方是等旅客を歓迎収容す可き遊覧地は現在果たして之に對應する丈の進歩発達をなしたであろうか、はた又設備施設を有するであろうか」

そして、「遊覧地に對する提案」として以下の6つを挙げるのです。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事
ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事
ハ)簡易図書館を設くる事
ニ)物産陳列館を設くる事
ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと
ヘ)戦利品陳列に對する注意

以下、簡単に説明しましょう。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事

「各遊覧地に案内所を設くる事は先づ第一に必要である。欧米の各遊覧地には大抵案内所があつて該遊覧地竝附近の見物散歩に関するインフォメーションを與ふるは勿論、旅館貸家貸室の斡旋をなし、遊覧地の地図や案内書などを無代で配布している。我が國でも已に道後温泉大原海水浴場其他二三のところでは温泉事務所や旅館組合で夫夫斡旋しているやうであるが、是非之は一般遊覧地にも普及さしたい」

まずは観光案内所の設置。これが外客受入の第一歩というわけです。現在どんな小さな町にもある案内所は、この時期に広まっていったのですね。

ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事

「遊覧客誘致上案内記の必要且有効な事は本誌に於ても屡々繰り返し唱道している次第であるが、猶未だ充分とは謂はれぬ。尤も長崎県温泉(うんぜん)の如き懸賞を以て英文露文案内を発行し、別府箱根の如きも町やホテルで英文案内を発行して遠く海外に迄配布しているが、相当名ある遊覧地で未だ案内記を持たぬ所が澤山ある」

国内の一部先進的な観光地では、すでに英文の観光案内書が用意されていました。生野はその内容についてこんなことを書いています。

「案内記の発行といっても多額の費用を投ずる必要は毫もない。半紙一枚乃至二枚大の洋紙に表面に簡単なスケッチマップでも印刷し裏面に交通状態遊覧箇所旅館車馬料金其他を掲載して置けば事たることである。温泉ならば其泉質温度効能入浴上の心得などを記す可きは謂ふまでもない」

内容は簡単でよいが、旅行者にとって必要な情報に絞り込むべし、とのこと。また配布場所や費用の捻出法など細かい提案をしています。

「而して是等は各旅館又は前述の案内所に供へ置き宿泊者に之を與ふる以外、各主要地の旅館或は停車場に配布して旅客誘致の具と為さば一層効果ある事と信ずる。其費用に関しては旅館組合の出資或は町村費を以て作製する事」

さらに、外客誘致のための具体的な提案もあります。

「差当り東洋在住外人竝露人浴客誘致の為め英露文案内記を発行し関係各方面に配布するなど最も時宜に適した遣り方であらう。若し出来得るならば箱根温泉(うんぜん)別府有馬伊香保等少くも外人浴客を収容し得る設備を有する温泉場が共同して相当出資の上、外国文温泉案内乃至ポスターを発行し、更に進んで海外の新聞雑誌へ浴客歓迎の聯合廣告を出す様な方法を取る迄に奮発して貰ひたい」

ハ)簡易図書館を設くる事

「簡易図書館乃至巡回文庫の設置は遊覧客の為めにもなれば又其町村の為めにもなる」「場所は特殊の建物を有せざる遊覧地に於ては学校の一隅乃至物産陳列館の一部或は倶楽部の一部を利用するも可」

スイスでの視察を通し、欧米のリゾート客たちがホテルのカフェなどで読書する姿を見ていたであろう生野は、観光地に簡易図書館が必要であることを提案しています。そこにどんな本を置けばいいかについてもこう言っています。

「而して緃覧せしむ可き書冊は一般娯楽的のものも必要であるが、主として其土地の地理歴史に関したもの、竝に寫眞帖絵葉書地図等附近遊覧の参考となるものを網羅したい。出来るならば参考室を置き其土地の素封家に依頼し所蔵美術品の出品を乞ふとか或は其土地特有の動植物鉱石類の標本、漁具農具等を陳列するとか温泉地ならば其鉱泉の分析表其他各種統計表を掲出し一見して其土地の状況を知り得る様であれば甚だ興味あり且有益であらうと信じる。出品物にはローマ字若しくは英語を以て簡単な説明を附し外人でも利用し得る様にする事」

ニ)物産陳列館を設くる事

図書館に加え、「其土地竝附近の特産物を陳列して一般遊覧客の観覧に供する」物産陳列館も設けるべきだとの提案です。その理由はこうです。

「これがあれば客が散歩の序でに見物し、一瞥して其土地の商況を知る事も出来、又容易に土産物の調達も出来る。一方から見れば又之に由て多少地方商業の改良発達を促す事が出来やふと思ふ。又此処に各商店の廣告を美術的に綜合して掲示し置く事なども有利な廣告法であらう。但しこの陳列所の出品物には必ず算用数字で正札を附け置く事」

ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと

「遊覧地に於ける旅客の足止め策として遊覧的設備娯楽機関の必要なるは謂ふ迄もない事である。海外の遊覧地に於ては有名な山岳には登山鉄道架空索道の設備があり又湖上には遊覧船を浮かべ、大抵の所にはゴルフ、テニス、ベースボール、クリケット等運動遊戯に関する設備があって長期滞在客と雖毫も倦む事がない」

今日当たり前に存在する観光地の娯楽設備やスポーツ施設などの設置もこの時期に企画されたことがわかります。

ヘ)戦利品陳列に對する注意

最後の提案は、いかにも100年前の日本人の精神状況を物語っているといえるものです。生野はこう書いています。

「我が國は日清日露の二大戦役を経、近くは青島戦に大勝を得た結果、戦利品豊富にして国内至る所に行亘り少しく著名なる神社公園其他公開の場所に於て殆ど其陳列を見ざるなしといふ有様である。是れは我が先輩の武勇を顕彰し、國民に尚武的精神を涵養せしむる上に甚だ有益な事ではあるが、公園遊覧地等に於てはこれあるが為めに屡々其の風致を害し感興を殺ぎ、殊に外人観光客に不快を感ぜしむる事決して尠なくない」

中国遼寧省の旅順への訪問が外国人に開放された2010年、ぼくはその地を取材で訪れたことがあります。日露戦争の激戦区だった旅順は、すでに中国の町となっていましたが、戦前期の旅順に関する資料や地図などを読むと、当時の旅順のあちこちに、乃木将軍に関連する記念碑やさまざまな「戦利品陳列」物が並べられていたことを知りました。同じことは、日本国内でも起きていたのです。たとえばこうです。

「例へば陸中中尊寺の寶庫には古色掬す可き宋代の名畫がアノ有名な一時金輪佛や舎利寶塔と共に澤山陳列されてある。然るに其名畫の下に日露戦役戦利品たる不格好な錆び果てた小銃其他の戦利品が置かれてある為め兎角の名畫も引立たず観覧者の興趣を殺ぐ事甚しい。又鎌倉八幡宮境内の老梅の下に日露戦役記念たる巨砲が据付けられてあるが、アレなども確かに境内の風致を減殺しているものである。嘗て露国の観光団が来朝した時、某陳列館を見物し、偶ま日露戦役記念品を陳列しある一室に至るや、何れも申合わした如く頭痛と称し早々にして立ち去ったといふ話もある」

生野はこの状況に対して、以下のように述べています。

「斯くの如きは彼等に徒に敵愾心を起こさしむるもので国際的倩誼よりするも恰もミリタリズムを標榜するが如くで甚だ穏かならぬ事であると思ふ。殊に最近露国人竝支那人旅客の増加せる折柄一層本問題に對し注意を佛ふ事が肝要である。余の理想を謂へば公園遊覧地等の如き場所より是等戦利品を撤去し第二の國民を養成する学校内の一部に陳列するか或は特に神社の一部の如き場所にでも纏めて陳列する様にしたい」

生野の提案は、当時の日本人がほとんど気づいていなかった外客の目線を意識した具体的な内容でした。今日その多くの提案は実現していますが、我々が学ぶべきは彼の外客に対する細やかなまなざしというべきでしょう。

ニッポンの観光地は、こうして外客の存在を意識して大正期に近代化されていったのです。もし生野が今日生きていたら、我々にもたくさんの注文がつけられるかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-15 11:02 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 14日

1933(昭和8)年の「アメリカ人は日本で何を見たいか」番付表

日本政府観光局(JNTO)の前身にあたる国際観光協会は1931(昭和6)年に発足しています。同協会が1930年代にアメリカで実施したユニークな事業について、ツーリスト155号(1933年8月)は紹介しています。

それは、米国の雑誌「アメリカン・ボーイ・マガジン」誌上において実施した「日本……なぜ僕は日本へ行きたいか」という題名での懸賞論文募集でした。

ツーリスト誌では、同募集に寄せられた1775通の中から、彼らの訪日旅行の関心事として論文に出てきた地名や風物、文化などを件数別に整理し、以下のような番付表にまとめています。
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まず西から。大関は富士山、関脇が桜、小結が川(瀑布)、前頭は花卉、稲田、国民精神、山嶽、風習、キモノ、スポーツ、農山漁村、建国歴史、宗教、温泉、樹木、自然美、日本語、著名の士。伝説、祭礼、鳥獣魚、サムライ、海、労働者、箱園、藝妓、演劇、日本文学、音楽、火山、地震、金魚、娘。

東は大関が神社仏閣、関脇が近代都市、小結が日本建築、前頭は美術、古都、人力車、生絲、塔、日本料理、近代産業、下駄、土産物、諸制度、茶、陶器、漆器、宮城、象牙、鳥居、銀座、提灯、玩具、満州問題、真珠、買物蒐集、茶店、三十三間堂、橋、刺繍、茶の湯、鵜飼、駕籠、凧。

さらに、行事は大仏と日光、宮島。世話人が日米親善と交通機関、近代文化とあります。当時のツーリスト誌の編集者はしゃれっ気を出そうと番付表にすることを思いついたのでしょうが、その効果が出ているかというと、う~ん。

番付表に出てくるアイテムはあまりにランダムすぎて、ワケがわからないものもありますが、当時のアメリカの青年たちが日本について知っているさまざまなイメージの断片が並べられていて、なんだか面白いものです。思うに、これらのイメージは実のところ、現代のアメリカ人の日本観という意味でも、そんなに中身は変わっていないのではないか(もちろん、ここにはない現代的な事象は加わるでしょうけれど)と思ったりします。

それを嘆かわしいなどと思う必要はないでしょう。所詮外国人の日本理解とはそういうものだという認識が必要ではないか。だって自分だって一度も訪ねたことのない国についてイメージを挙げろといわれれば、似たようなものでしょう。最近、よく街角で見かけるようになった外国人観光客の姿を見ながらそう思います。誰を責めるような話ではないのです。

何が言いたいかというと、こうした断片的な日本理解を前提とした外客向けのわかりやすく面白い情報発信が求められているということです。彼らに一から説明することの難しさを我々はもっと知る必要があると思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-14 17:59 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 13日

今日同様、戦前期も中国の反日プロパガンダへの対応が課題だった

戦前期の日本の外客誘致において克服すべき課題は山のようにありました。何より外国人を快く受け入れ、もてなすためのインフラは、ハード、ソフトともに十分に整備されていませんでした。それに加えて、当時のインバウンド推進論者にとって大きな懸念となっていたのが、「米國及び支那に於ける排日の気勢」でした。

その懸念は、早くも第一次世界大戦が終了する1910年代後半には強く意識されていました。ツーリスト40号(1919年11月)の「時事雑感」の中で生野圑六はこう書き出しています。

「米國及び支那に於ける排日の気勢は数年来毫も緩和されぬやうであるが、外人新聞などの報道に由ると是等排日運動の主唱者は大部分嘗て我が國に留学若しくは来遊した人達であるとの事である。勿論是には種々理由もあることであらうが、要するに何れも我が國滞在中あまり温かならざる待遇を受け、充分我が國情を諒解するに至らなかった人達であることだけは容易に想像せられる。由来日支親善、日米親厚なる語は久しき以前より已に幾回となく繰返されているのであるが、其の聲の徒らに大なるのみで其実績は一向挙らぬやうに感ぜられる」。

あらためて日中関係の難しさと根の深さを感じざるを得ません。気になるのは、当時の「排日の気勢」が中国だけでなく、アメリカにも起きていたことでしょう。当時のアメリカにはアジア系移民を排斥するムードがあり、それが1924年のいわゆる「排日移民法」の制定につながっていきます。こうしたアメリカの姿勢は当時の日本人に大きな衝撃を与えたといわれます。

同時代人であった生野は、米中両国において「排日の気勢」が生まれた背景として外客誘致を進める立場から2つの理由を挙げています。

ひとつは「我が國に於ける来遊米国人や支那人に対する待遇依然として発達せず」という外客に対する受入態勢の問題。2点目が「我が國には目下列強が盛んに利用しつつあるが如き有力なる対外的プロパガンダの機関を有せざる結果事毎に誤解猜疑を招く事多く、今回の講和会議等に於いても相手国に我が國情を充分判って居らぬところ」だというのです。

特に後者の例として、「英国の小学教科書に日本の貴婦人として煙管片手に立膝したる婦人が麗々しく掲げられ、米国の小学教科書にも日本人の代表として徳川時代の最も下劣なるものを挙げている」と指摘し、「蓋し外人の我が國情に通ぜざるは我々の想像以上」と書いています。さらに1919年3月、日本併合下の朝鮮半島で起きた三一運動時におけるアメリカの「現時の十字磔」という虚偽報道についてこう書いています。

「これは当時我が國新聞紙にも傳へられたる如く今夏朝鮮に暴動の起こりたる折、米國の一宗教雑誌が韓国政府時代の軍隊が同國罪人を死刑に處ひつつある寫眞を掲げて之を『現時の十字磔』と題し日本軍隊が朝鮮の耶蘇教徒を死刑に處する圖なりと説明したのである。勿論邦人には一見して直ちに其日本兵にあらざるを識別し得るのであるが、不幸にして我が國の事情に疎き米人には其虚偽の事実なるを解し得ぬのである。爾後『日本軍隊の朝鮮人虐殺』として同写真は同國のあらゆる新聞雑誌に掲載せられ、しかも斯くの如き虚偽の事実が米国に於て排日気勢を煽る原因となりつつあるのである」。

なんだか近年のもろもろの騒動に似た話のようにも思えてきますね。

そして彼はこう主張します。

「実際、國と國との関係は畢竟するに國民と國民との関係に外ならぬ故、國家相互の親善を計らんと欲せば先づ其根本に遡って彼我國民の完全なる諒解を得る方法を講ずることが最も肝要にして又最も捷徑なるは謂ふまでもない」「玆に於て我が國情宣傳機関の必要が愈々痛切に感ぜられるのである」。

これらの記述を読んでいると、戦前期において反日プロパガンダへの対応がいかに大きな課題だったかわかってきます。それゆえ、海外の反日キャンペーンに国として対応する宣伝機関が必要だと生野は考えたのでした。

「然乍ら一方対日誤解より生ずる國家的損失の點より考ふれば之(生野のいう國情宣傳機関)に要する費用の如きは眞に微々たるものであるまいか。余は若し出来得るならば適当なる対外プロパガンダの機関の設立を見ざる限り各方面よりの後援と物質的援助を得て我がツーリストビューローの機関をして今後益々是等の方面にも活動せしめたいと思ふ。就中刻下の急務たる日米、日支の親善促進に就ては最善を盡して其の実現を期したい」。

そのためにできることとして、本来外客誘致のための広報機関であるジャパンツーリストビューローを日本の対外宣伝のために活用すべきである、というのが彼の発想でした。

生野の当時の認識は、今日においても通じるものだと思わざるを得ません。なぜなら、残念なことに、当時と同様、今日においても近隣諸国からの「反日キャンペーン」は後を絶たないからです。

生野は「来遊米国人や支那人」に対する受入態勢の改善についても、次のように述べています。

「又かの支那に於ける排日運動の如きも、其一因は世に傳へられる如く或は某國の煽動政策に由るかも知れぬが、我が國民自身亦自ら考慮し反省せねばならぬ點も尠くない。先日余は支那の一有力者より所謂『中日親善』に関する意見を聞いたが、同氏は『支那人が日本にありて最も不満足に感じていることは支那人を頭から軽蔑することである。それは日本人の無意識な行為かも知れぬが我々から見て非常に傲慢に感ぜられる。殊に留学生に対する差別的待遇に至っては一層反感を煽るものがある。例へば下宿屋にありても女中は不親切で主人は冷酷である。貸家を求めても支那人と見ると高値をふく、道を歩いては子供にまで馬鹿にされる、まるで只苦しめられる為に来たやうなものである。是等の問題は勿論今は些細なことかも知れぬが支那人は決して其軽蔑せられた事を忘れぬ國民である。将来に於ける影響は決して単純なものではないと思ふ』云々と語ったが、是等は大いに反省すべきことである」。

こうなってくると、受入態勢以前の心がまえの問題といえます。ただ当時、本当にそこまで中国人蔑視の風潮が日本社会に広まっていたかについては一概にいえない気もします。なぜなら中国文明に対する憧れや親しみは、当時の日本人の意識の中にも普通にあったと思うからです。ありうるのは、当時も在留外国人中最大数を占めた中国人の内訳は、3割が商人、2割が留学生。そして残りの半数は「他の在留外人に比し比較的賤業に従事し居るもの多きを以て或は邦人の蔑視を買ふに至るの傾向あり」(ツーリスト26号(1917年7月)で生野が書いた論考「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」)という背景があったのではないかと思われます。

ところが、当時もいまも、ビジネスマンや留学生などの高い階層に属する中国人というのはどうも「残りの半数」の存在抜きで自らの民族的優秀さを外国人に認めさせたいという気持ちが強いようです。その姿は反面、とても身勝手に映るものです。

要は日本側の国民レベルの無意識の応対も、受け取る側の認識によって印象は大きく変わるということではないでしょうか。というのも、日中関係が最も良好といわれた1990年代前半ですら、日本にいた一部の中国人留学生の中に同じようなこと(要は日本に対する不満です)を主張した人たちがいたことを思い出すからです。彼らは改革開放後に出国した「新華僑」と呼ばれた人たちで、ぼくと同世代でした。彼らは自ら抱えるエリート意識と日本での自分の境遇の落差を受け入れがたく感じているようでした。自分たちはもっと日本社会で評価されていいはずだ、という思いを募らせていたのです。ぼくには彼らがそれに足るものを持っていたかどうかわかりませんでしたから、中国人というのは難儀な人たちだなあと感じました。彼らは、その後アメリカに渡っていきました。そう、このタイプ、結局アメリカに向かうケースが多いんです(どうやら戦前もそうだったようです。生野は日本留学中に不満をため込んだ華人たちがアメリカに渡って「排日の気勢」を焚きつけていると指摘していますが、こういうことは現在も起きていないとはいえません)。

そのとき彼らの話を聞きながら思ったのは、20世紀初頭の「半植民地化」状態にあった中国と、生まれつき肥大化した彼らの民族的な自意識とのギャップから、その耐えがたい苛立ちの矛先が日本に向かいやすいという心理は、現代においても形を変えて起こりうるのだなという発見でした。それはとても残念で理不尽なことに思いましたけれど、いまこうして顕在化してきたわけです。

ツーリスト誌を読んでいると、100年前と今日の相似的な状況がいろいろ見えてきて、気が滅入りそうになります。しかし、かつて「排日の気勢」への対応をおろそかにしたことが、その後の時局の悪化につながったという歴史は知っておくべきだと思います。

日本を政敵とみなして声を荒げて非難する彼らの「紅衛兵」スタイルに真っ向から挑むのではなく、観光の語源とされる「観国之光,利用賓于王(国の光を観る。用て王に賓たるに利し)」に即して「国の光を観せる」ことでたおやかに対応していくことは、いまの時代にこそ求められているひとつのやり方だと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-13 16:23 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 12日

「日支親善」(日中友好)とインバウンドの難しい関係

戦前期の日本は、外客誘致に着手せんと動き出したばかりの黎明期から、国際環境の激流に呑み込まれてしまいます。その後も、時局の悪化に翻弄され続けました。

なかでも日中対立は、今日にも増して深刻な障害となりました。当時の論客のひとり、生野圑六はツーリスト誌上において日支親善の楔子(くさび)とすべきとして「支那人誘致の新計畫」(中国人に対する訪日旅行誘致)を主張します。

どんなことを言っているのでしょうか。ツーリスト26号(1917年7月)で生野が書いた論考「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」を見ていくことにしましょう。

冒頭で彼はこう書きます。

「我がツーリストビューローは、日支関係の現状に鑑み其将来に想倒し、日支親善の最捷徑は支那国民をして眞に我が國情を了解せしむるにある可きを認め、其一方法として多数支那人の来遊を促す可く、差当り北京並上海の二箇所に新たに案内所を設置し、尚青島にも支部及案内所を設くる事に決定したる」。

「日支親善」(日中友好)の最も早道は、中国人の訪日旅行を促進し、日本の国情を理解させることだ、というのです。そのために企図されたのが、ジャパンツーリストビューローの北京や上海、青島の事務所の開設でした。

当時の日中関係の悪化の理由について、彼は「支那側の誤解其他之に関連せる各種の事情等も確かに其原因の一部たりしならんも我が國の支那に対する不謹慎の言論並渡来支那人に対する不親切なる待遇等の如きも亦其一因たり」と述べ、中国側の日本に対する「誤解」とともに、日本側の中国に対する「不謹慎の言論」や「不親切なる待遇」があったといいます。 

これが書かれた大正前期、日本を訪れる中国人は約6000人、外客全体の約3割でした。最も多かったのは、日露戦争当時の年間7000~8000人で、それ以後減少し、とりわけ1917(大正6)年は「革命、内乱等の事情に由り」約3000人とかなり少なくなっていました。

一方、日本在住の中国人は約1万2000人で、今日と同じく当時も在住外国人中最大を占めました。内訳は、3割が商人、2割が留学生。ところが、残りの半数は「他の在留外人に比し比較的賤業に従事し居るもの多きを以て或は邦人の蔑視を買ふに至るの傾向あり」と書いています。

生野は、在日中国人に対する「邦人の蔑視を買ふに至る傾向」が日中関係に影響しているとして、次のように述べています。

「是が為め彼等は往々我邦人の眞意を誤解し将来支那の中堅たる可き留学生間に於いて我が國の態度に疑義を挿み之が批難をなすものあり。是等は些々たる問題なるが如しと雖動がては或は日貨排斥、非買行動等となりて現はれ延ては排日思想の動機ともなることなきにしもあらざるを以て我が國民は先づ斯る小事に就きても細心の注意を拂ふ事肝要なり」。

こうした一方、当時すでに日中間の交通機関の発達が進んでいました。1913(大正2)年に開始した「日支連絡運輸」以降、両国の直通乗車券が発売され、東京・北京間の移動はわずか5日間に短縮されていました。1915(大正5)年には4カ月間利用できる「日支周遊券」が発売され、「彼地にありては奉天、北京、漢口。上海等又我が國にありては長崎、下関、神戸、大阪、京都、東京等の主要各都市を相互自由に視察し得べきものなれば両國旅行者間に極めて便宜のものたるを疑はず」といいます。

生野は「日支親善」(日中友好)がお互いにとっていかに大切か、次のように「唱道」します。

「更に又経済上の見地よりするに於いては吾人は一層痛切に日支親善の必要を唱道せざる可らざるものあり即ち支那は現在ひとり東洋の市場たるのみならず世界の市場として認められ、其天然資源の豊富なる事世界無比と称せられる。従って今日已に米國の如き支那に対し大規模の投資をなさんことを希望しつつある所なるが我が國は地理的に最優越せる地位にあるを以て各種の利便を有し支那との貿易額の如きも次第に觀る如く累年著しき発展を示しつつあり」「(第一次世界大戦の)戦後に於ける列強の激烈なる商戦は必ずや先づ東洋殊に支那の市場に於て行はる可く、列強が各其主力を此處に傾注せる曉に於て我が國は果たして之に堪え且克く之に抗するの力ありや」。

「之を要するに、支那と我が國とは東亞の保全興隆の為め凡ての関係に於て相提携し協力す可き必然的運命を有するものにして又将来互に了解し信倚し敬重して進まざる可らざるの立場にあり」。

生野の主張自体はまっとうなものだったと思います。しかし、彼はこの時期、日中間に起きていた深刻な事態について、どこまで理解したうえでこれを書いていたのか、疑問を感じざるを得ないのも確かです。

当時の日中関係史について簡単に触れてみましょう。この論考が書かれる2年前、第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣は袁世凱政権に対華21ヶ条要求を出しました。さらに、大戦後、1919年1月のパリ講和会議において「日本がドイツから奪った山東省の権益」が国際的に承認されると、同年5月4日、北京の学生たちの行ったデモ行進が五四運動となっていきます。

確かに、生野も同論考で日支親善を「唱道」しながら、「然るに日支親善は朝野に唱道せられて已に年久しきも未だ確実に其成績を見るに至らず」と嘆いているのです。

この時期の生野の提言は「日支两国民間に繙れる空気を一新し、彼の眠れる友情を覚醒し以て日支親善の楔子(くさび)たらん事を期す」ため、悪化する当時の日中関係を中国人の訪日誘致によって相互理解を深め、改善しようということでした。

この提言は、今日においても通じる話といえるでしょう。

もっとも、「日支親善」(日中友好)とインバウンドがいかに難しい関係にあるかについては、ここ数年の日中関係の悪化で私たちも痛感したばかりです。

いま言えることは、生野の真摯な提言を支持しつつも、当時の日中間に起きていた深刻な事態に対して、彼はなぜ理解不足だったのか、あらためて考えてみることだと思います。同じことは、今日においても言えるはずだからです。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-12 16:52 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)