ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2013年 06月 08日

大連の女学校の最後の同窓会が開かれたそうです【昭和のフォルム 大連◆校舎②】

2013年6月1日の朝日新聞に「大連弥生高女、最後の同窓会」という記事が載っていました。
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「中国東北部の大連で1919(大正8)年に創立され、戦後すぐに閉鎖された大連弥生高等女学校。日本に引き揚げてからも60年以上続いていた同窓会が解散することになった。3千人いた会員は約10分の1に減り、平均年齢は88歳。青春を分かち合った女学生たちの最後の集いが4日、都内で開かれる」

実は、大連弥生高等女学校の校舎は、もう大連には残っていません。それでも、大連世界旅行社の桶本悟さんの調査によると、以下の3つの女学校の校舎はまだ現存しています。

冒頭の写真が、昭和高等女学校(1923年開校、日本時代は桔梗町)です。現在は、雑居ビルとして使われていますが、実に装飾的な建物です。
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校舎のファサードはにぎやかで、シルエットもかわいらしいですし、細部のデザインも遊び心に富んでいます。当時流行った丸窓をはじめ、機能よりもリズム感を重視したと思われる窓の並びが人の目を楽しませてくれます。
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当時の写真も残っています。
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羽衣高等女学校(1927年開校、日本時代は伏見町)は現在、大連理工大学の一部として使われています。
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当時の写真と比べると、玄関部分など、改築が施されているようです。
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大同女子技芸学院(日本時代は紀伊町)は旧満鉄本社の向かいにありました。ただし、校舎の建物はかなり老朽化しており、現在は倉庫として使用されていますが、再開発の対象となるのは時間の問題と思われます。
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この建物は、当時満蒙文化会館としても使われていたようです。
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ところで、前述の朝日の記事によると、大連弥生高等女学校OGの同窓会は、6月4日東京の神宮外苑にある明治記念館で開かれたそうです。

記事の中では、学校が閉鎖された昭和21年、最後の卒業生となったひとりのOGは、日中国交回復後、2度ほど大連を訪ねたものの、高層ビルが立ち並ぶ光景を見ながら「私の来るところじゃないのかな」と思い、当時の大連の記憶は心にしまうことにしたそうです。

現在の大連の姿を、郷愁を通して見ようとすれば、そういう心情になるもの無理はないと思います。

大連で“昭和”のフォルムを探しに歩くなんてことは、あとの時代に生まれてきた郷愁とは無縁の世代だからこそ、楽しめるものなのかもしれません。前回、「これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう」と書きましたが、当時を生きた人たちの心中は、そんなに無邪気な話ばかりじゃなかったろうとあらためて思った次第です。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-08 15:48 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 06日

これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう【昭和のフォルム 大連◆校舎①】

“昭和”のフォルムの宝庫といえる中国東北三省。なかでも品のいい建物がいくつも残っているのが大連です。
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ぼくが大連を初めて訪ねたのは1986年の夏です。当時の大連の街並みは、新中国の建国後に明け暮れた政治闘争の時代を経てとてつもなく疲弊し、かつて豊かだったはずの色彩も消え、埃を被っていましたが、海風の肌に優しい港町だと思ったものです。ここだけには、他の中国の都市にはない清涼感がありました。

その後、中国経済の発展とともに大連にも高層ビルが林立し、どこにでもあるような、落ち着きのない街並みに変わってしまうのですが、2010年代のいまでも街を歩いてみると、そこかしこに“昭和”のフォルムが見つかります。

特に当時の旧制中学の校舎は、モダンでスタイリッシュです。

大連を代表する旧制中学が大連第一中学校。1918年開校で、日本時代は博文町にありました。現在、大連理工大学の校舎の一部として使われています。
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近くで見ると、雑に塗り分けられたペイントによって年代の重みが消されてしまっているのが興ざめという気もしますが、シルエットは悪くありません。
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校舎の裏を覗いてみたら、蔦がレンガの壁を覆い、年代を感じさせます。むしろ手つかずにされていた空間のほうがグッとくるものです。
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大連市重要保護建築に指定されています。
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周辺を高層ビルに取り囲まれているのが現在の姿です。
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日本時代の写真はこれです。
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大連第二中学校は1924年開校。日本時代は水仙町にありました。現在の建物は1996年に改築され、当時の面影はないので残念です。現在は春天大厦という商業ビルです。
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以上は官立学校ですが、公立の大連市立大連中学校(1934年開校、日本時代は下藤町)は、外観のデザインが斬新です。現在、大連軍人倶楽部として使われています。
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建物の中にこっそり入ってみると、いかにも“昭和”の雰囲気。うっとりしてしまいます。当時の写真も、断然イカしています。
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20世紀後半の日本に建てられた我らの時代の校舎はいかにも画一的。新設校の校舎なんてもういけません。それに比べ、この時代に建てられた校舎には味わい深さがある。これが自分の母校だったら、懐かしさもひとしおだろうと思ってしまいます。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-06 13:29 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 06日

「新鴨緑江大橋が半分くらいできた」と地元の人に聞きました

鳴り物入りで建設の始まった新鴨緑江大橋。中国遼寧省の丹東新区と北朝鮮の新義州をつなぐ全長約2kmの斜張橋です。
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昨日(2013.6.5)、丹東に住む友人から「新鴨緑江大橋が半分くらいできました」と現地で撮影された写真付きのメールが届きました。約1年前の2012年7月に現地を訪ねたときにはほとんど存在していなかった斜張橋を支える2つの塔と橋桁の一部が出来上がりつつあります。

中朝経済を結ぶ大動脈となることを期待して2010年2月25日、両国の間で建設協定が結ばれました。工事現場の掲示板によると、建設投資22億元、約3年の工期で完成される計画で工事は2011年5月に始まっています。
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以下、この2年間の工事の進捗を写真で見てみましょう。

2011年7月1日
橋桁をつくるための土台が半分くらい出来ています。
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橋のたもとには工事を眺める地元の人たちがいました。
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2012年7月4日
斜張橋を支える塔の建設が始まったようでした。
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2013年6月5日
塔はだいぶ出来上がりましたが、橋桁はまだ一部しか出来ていません。
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工事現場に掲示された新鴨緑江大橋の完成図のイラストを見ると、スマートなシルエットが魅力です。
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地図によると、大連や瀋陽方面からの高速道路と接続される予定です。
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写真を送ってくれた友人によると、この新鴨緑江大橋は、表向き両岸から工事を進めているとはいえ、投資も建設もその大半は中国にお任せ。そのくせ北朝鮮側は、開通後には通行料を取ると言い出して、そりゃないだろと、中朝間でもめているとか。いかにも両国の関係を象徴しているようで、面白いですね。

もっとも、中朝経済の発展格差の大きさからすれば、中国側は必ずしも工事を急ぐ必要を感じないのかもしれません。また、中国の地方経済が抱える不良債権問題が工期に影響してくる可能性も今後はあるかもしれません。

いずれにせよ、橋が完成したあかつきには、吉林省琿春の圏河橋(中朝第2の国境、圏河・元汀里で見たもの【中朝国境シリーズ その1】)と同じように、中国側からの交通量が一方的に増えることが予想されます。経済的には常に受け身に回らざるを得ない北朝鮮はいろんな手を使って交通量を調整することも考えられます。新鴨緑江大橋開通というインパクトが、この地域にどんな変化をもたらすことになるのか。それが見えてくるのはもうしばらく先のことですが、今後も注視していきたいと思います。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-06 08:51 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 06月 03日

丹東で“昭和”のフォルムを探して

中国東北三省を訪ねると、つい“昭和”のフォルムを探したくなります。
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昭和の時代に造られた建築物のやわらかいフォルムが単純に好きなのです。日本の地方都市にもあの時代の建物がときどき残っていて、それを見つけると、つい写真に撮っておきたくなる。それと基本同じです。

そういう“昭和”のフォルムが、20世紀前半に日本の大陸進出の結果、とりわけ中国東北三省に多く残されているという事実は、戦後の高度経済成長期に生まれた自分のような日本人にとって、奇妙な感覚があります。日本では幼少期までわずかに街に残っていた好ましいフォルムが一斉に消えてなくなっていく過程を目の当たりにしながら成長してきたところ、大人になって中国を訪ねてみたら、それがたくさん残っていることを知ったからです。それは小躍りしたくなるのを抑えられないような心持でした。ちょうど1980年代の半ば頃のことです。

しかし、いまや中国も高度経済成長のまっただ中にあります。かつての日本と同じように、あの魅力的なフォルムが次々に壊されていく様を、ぼくもこの20数年間見つめてきました。結局、同じことが起こるのだなと残念に思いながら。

だから、せめて中国で自分の好きなフォルムを見つけたら、写真に押さえておこう。これは一種の反射神経みたいなものです。

以下は2012年7月に中国遼寧省丹東を訪ねたとき、朝早く起きて駅前の宿泊ホテルの近所を1時間ばかり散策したときに撮ったものです。撮影は、ぼくの相棒、佐藤憲一カメラマンです。
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最初は、かつて安東大和小学校だった建物です。現在は遼東賓館というホテルです。丹東駅の北側の九緯路にあります。戦前の学校の校舎というのは、現代のものに比べて風格がありますね。教室だった部屋が客室に使われていると思うと、面白いです。
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昔の大和小学校の絵葉書も残っています。
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遼東賓館の前の九緯路は、街路樹が見事に育ち、涼しげです。吉林省延辺朝鮮族自治州の龍井もそうでしたが、東北三省の省都の中心部にはもうほとんどなくなってしまった街路樹が、地方都市に行くと、こうして今も残っていて、見るとホッとします。
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次は、安東郵便局で、現在は丹東郵政局と呼ばれています。七経街(当時は大和橋通)にあります。
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がっしりとした堅牢な建築で、絵葉書が撮られた頃に比べると、かなり増築しているようです。瀋陽駅前にも同じような当時の郵便局が残っています。
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冒頭の写真は、安東高等女学校です。現在は、丹東第六中学校で、錦山大街にあります。建築スタイルは、大連に残っている同時代の学校にもよく似ています。もっといえば、東京の都心に残っている昭和初期に建てられた小学校(廃坑寸前の学校も多いようです)のいくつかとも似ています。同時代の建築であるため、当然のことなのでしょうけれど。
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丹東の日本時代の建築については、大連世界旅行社の桶本悟さんが実地調査を続けておられ、いつもぼくは情報提供してもらっています。同社のHPにも、詳しく紹介されているので、ご参照ください。

大連世界旅行社
http://www.t-railway.com/

また、地元丹東の人らしき方が日本時代の絵葉書を集めてネットに公開していました。歴史といえば、「政治」と結びつけて語ることしかできない輩も中国には多いですが、理性的かつ素朴な好奇心から、学校で教えてくれた「歴史」とは異なる地元の昔の姿に関心を持つ人たちもいるのだろうと思います。

丹东人必顶:老安东图片
http://dx1.gogoqq.com/aspx/138705522/journalcontent/1319356440.aspx
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by sanyo-kansatu | 2013-06-03 20:10 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 03日

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)

2009年に新改装された丹東駅(中国遼寧省瀋丹線)の広いターミナル構内に、約100年の歴史を持つ同駅の駅舎の写真が時系列で展示されています。丹東駅といえば、2010年5月初旬、いまは亡き北朝鮮の金成日総書記が特別列車で訪中した際、この駅でしばらく停車したことが、テレビで報道されたことがあります。
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1910年の丹東駅(当時は安東駅)

丹東駅が最初に建設されたのは、日露戦争中のことです。当時は安東と呼ばれた鴨緑江下流域の小鎮と瀋陽(奉天)を結ぶ軍用鉄道(のちの安奉線)は1904年12月3日に完成。翌05年正式に清国から日本の経営が認められています。
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1911年の駅建設風景

その後、1909年から11年にかけて安奉線は標準軌に改軌されます。

1911年10月、朝鮮総督府鉄道・京義線と鴨緑江大橋(現断橋)で接続され、釜山まで鉄道がつながることで、安東の国際駅としての重要性が高まります。
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1916年安東駅停車場
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1928年欧風様式の安東駅
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1930年代の安東駅
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1930年代と思われる安東駅プラットホーム(着物姿の女性客もいます)
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1932年安東駅夜景
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1941年安東駅
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1941年安東駅プラットホーム

1943年4月には、鴨緑江第二橋梁(現中朝友誼橋)が完成。さらなる発展が期待されたものの、満洲国崩壊でその後、時間が止まってしまいます。

1965年に安東市が丹東市に改名され、駅名も丹東駅に変更されています。改革開放を迎え、1989年にようやく駅舎の建て替えが行なわれます。そのときから、丹東駅は味気のない現代建築に変わってしまいました。
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2008年3月にはさらに大規模な改築が行われ、一時臨時駅舎で仮営業。
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2009年1月17日、現在の新駅舎の使用が始まります。
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新駅舎は国際駅にふさわしく空港のような巨大な構内と壮大なプラットホームが自慢です。税関などの施設も整っています。夕方6時発の北京行き夜行寝台列車は瀋陽経由。かつての安奉線(現瀋丹線)を通り、早朝北京に着くので、何度か利用したことがあります。
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あとは北朝鮮との旅客の往来を待つばかりなのでしょうが、丹東駅が国際駅としてのかつての輝きを取り戻すのはいつのことになるのでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-03 13:33 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 02日

廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮(遼寧省丹東市・溥儀東行宮)

中国遼寧省丹東市の郊外に、満洲国皇帝溥儀の離宮が今も残っています。
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離宮の名は「溥儀東行宮」。記録によると、1943年5月上旬に溥儀が巡狩(古代中国で、天子が諸国を巡視したこと)でこの地に訪れた際、宿泊した小型宮殿様式の別荘です。
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正面玄関付近は鬱蒼とした松に覆われ、時の経過を感じさせます。玄関前の2本の柱には、見事な龍がとぐろを巻いています。龍の爪の数は、瀋陽の故宮と同様、きっちり5本あります。
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いまでは老朽化にまかせるままの無残な姿をさらしていますが、かつては精緻な彫りと色鮮やかな図柄が映えたであろう正面玄関の屋根飾りや、天井の青地に描かれた龍と鳳凰の絵を見ていると、ちょっともの悲しい気分にさせられます。
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ざっと外観を見て回りましょう。
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まず正面に向かって左手から。こちらは平屋建てで、厨房や使用人らのスペースのようです。退色してしまっていますが、出入り口脇の壁に施された中国美人図が印象的です。
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右手は、基本2階建てですが、正面後方に一部4階建ての棟があります。どの窓にも、いまどき珍しい凝った窓枠がはめられていますが、ガラスは壊れたままです。壁の鳳凰も剥げ落ちています。
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右手から裏に回ってみましょう。
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背後からの眺めは廃墟然とした気配がさらに濃厚です。4階建ての棟のひとつの窓はすっかり取り外されたままになっていますし、かつて食料や燃料をここから納入したであろう厨房の棟の地下室の扉も木の枠でふさがれています。
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壊れた窓から中をちょっと覗いてみました。調度品ひとつ残っていない部屋でした。浴室もありましたが、小さいサイズなので、皇帝が使ったものではなさそうです。
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玄関脇に「定礎 皇紀二六百年八月」と書かれた石版が残されています。溥儀東行宮は、1940年(昭和15年)8月に建設が始まり、43年に完成しています。
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皇紀2600年と呼ばれたその年、日本国内ではさまざまな記念行事が行われ、満洲国首都・新京特別市の帝宮内に建国神廟が創建されています。同じ年の6月、溥儀は慶賀のため日本を訪れています。

前述したように、溥儀が東行宮を訪ねたのは、1943年のことです。すでにその頃、太平洋戦線における日本軍の形勢は悪化していただけに、彼がどんな心境でこの離宮に滞在していたかを想像すると、気が滅入ってきます。
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これが廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮の現在の姿です。そこには、かつての栄華を想起させる断片が無造作に放置されたままいくつも残されていて、いくぶんの痛ましさをおぼえますが、あらゆる記憶は時代とともに忘れ去られてしまうのだというある種さばさばした条理に思い至ります。

現在、この廃墟のいわれを示すものは、丹東市政府が2005年になってようやく市級重要文物保護単位として認めたことを伝える粗末な石碑だけです。
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この建物の現在の所有者は地元の空軍だそうです。以前一度、娯楽施設に改装してひと儲けしようという話もあったそうですが、中途半端に建物の色を塗り替えてみただけで、投げ出してしまっています。この建物の持つ歴史的な由来の扱いを、現在の共産党政権の歴史観の枠でしか計れない地方軍人がうまく処理して再活用するには難しすぎたのか、そのままに至っているようです。

いまでは、近所の保育園の子供たちとその世話をしている老人たちの憩いの場となっています。「ラストエンペラーの離宮の廃墟」とだけ聞けば、さぞ溥儀の怨念が残っていて、幽霊屋敷にでもなっているのではないか、なんて思う人もいるかもしれませんが、そういう話はまったくないようです。
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場所は、丹東市内から最近リニューアルして立派になった丹東浪頭空港の少し西側の高台の上にあります。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-02 11:52 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 05月 18日

図們江、野ざらしにされた断橋の風景

以前、鴨緑江の河口断橋について書きましたが、今回は図們江にあるふたつの断橋を紹介しましょう。
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それは吉林省の図們と琿春の間にあります。
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まず、琿春市英安鎮にある甩湾子橋です。完成時には約 500m という長さの朝鮮と満州国をつなぐ国境橋で、対岸は北朝鮮咸鏡北道の訓戎です。欄干は途中まで残っていますが、すぐになくなります。橋を歩いていても、最初は橋が断たれていることがわからないくらい、中国側の橋桁はそのまま残っています。北朝鮮側近くになって、突然橋桁がなくなります。
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わずか10数メートル先に北朝鮮側の橋梁が残っていて、向かって左手に国境警備のためと思われる老朽化した建物があります。時折、国境警備兵らしき軍人の姿が見えます。
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この橋は、1945年8月のソ連軍侵攻時に日本軍が爆破したそうです。国境をつなぐ橋らしく、中国側に当時のトーチカが残っています。
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甩湾子橋の東、図們江の下流側に橋脚だけが残された鉄橋跡が見えます。これは1935年に開業した琿春鉄路(のちの東満州鉄道)の甩湾子駅(満州国)と訓戎駅(朝鮮)をつなぐ鉄橋でしたが、終戦時にソ連軍がシベリア鉄道用として橋上の鉄梁をすべて収奪したため、現在の姿をしているそうです。
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もうひとつの断橋は、図們市涼水鎮にある穏城大橋です。甩湾子橋より少し上流にあります。この一帯は図們江の下流域にあたり、肥沃な平野が続きます。19世紀から多くの朝鮮農民が入植してきました。いまどき珍しく、手で田植えをする姿を見ました。牧童ものんびり羊を追っているような世界です。
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さて、穏城大橋は1937年5月に竣工された国境橋で、対岸は北朝鮮の穏城郡です。こちらは中国側も橋桁がわずかしか残っておらず、北朝鮮側では橋脚が残されているだけです。
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余談ですが、さらに上流に行くと、図們市街地近くで、図們江が深く北朝鮮側に入り込むように蛇行して流れる場所があります。そこからは北朝鮮の革命記念塔のような施設がよく見えます。こうした施設は中国側から見られることを意識して造られていると思われます。
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これまで中朝間に残るいくつかの断橋を見てきましたが、①終戦時に日本軍が破壊したパターン、②朝鮮戦争で米軍機によって爆撃されたパターン、さらには③ソ連軍が橋桁などを収奪し、撤去したパターンなどがあるようです。

いずれにせよ、60年以上前の話です。この間、これらの断橋は野ざらしのまま放置されてきたのです。いったい中朝間の人的交流や物流はどこまで停滞してしまっていたのか。

その土地を誰が仕切るか――。それによって地域の発展の度合いがこれほど変わるものなのか。中朝間に残る断橋を見ていると、そう思わざるを得ません。高度経済成長を達成したといっても、中国にとって延辺は所詮辺境なのですね。

かつて朝鮮農民にとって希望の地だった延辺の農村は、すでに漢族化が進んでいるといわれます。中国にとっては、それで好都合なのでしょう。

中国から見れば、ロシアや北朝鮮と国境を接するこの地域をあまり勢いづかせないほうがむしろ安泰なのかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2013-05-18 11:28 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 05月 14日

19世紀の近代絵画のような風景~河口断橋の対岸にみる北朝鮮

中国遼寧省の丹東といえば、中国と北朝鮮を結ぶ最大の口岸(イミグレーション)のある都市ですが、そこから東に向かって約40㎞、両国を隔てる鴨緑江の上流に向かうと、河口断橋という奇観があります。
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削られて見えにくくなっていますが、昭和17年12月に竣工した橋だそうです。
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なにが奇観かというと、橋が途中でぶった切れているのです。普通であれば、橋が落ちたら、修復してつなぐものですが、河口断橋は1950年代に橋が断たれて以降、60年間そのまま放置されていまに至っているのです。この景観は、ぜひとも見ておくべきでしょう。
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なぜ放置されているのか。建国以来、中朝の経済発展が長く遅れていたから? そのうち、中国だけが一方的に発展し、両国のつり合いが取れなくなった? といった理由だけで説明できるものなのか、ぼくにはよくわかりません。この両国の関係というのは、表向きと内情ではずいぶん違うようですし。でも、これだけの長い時間、かつてあった橋をつなぐ必要もなかったような関係とは、どういうものなのでしょう……。それを思うと、少し寒気がしてきます。
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いずれにせよ、日本が統治した時代に建設された橋が、朝鮮戦争中に米軍の空爆によって破壊されたまま、現在に至っている。その荒涼として驚くほどの静寂に包まれた河畔の風景が、実に興味深いというほかないのです。

誰でも入場料(10元相当)を払えば、橋が断たれたへさきまで歩いて行けます。
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そこから対岸の北朝鮮の集落が遠望できます。とても寂しげな光景ですが、見ようによっては、電柱を除いて、なんら近代的な意匠を見つけることのできない集落。まるで時間が停まってしまったかのような……。いまどき世界中どこを探しても見つけることのできない、19世紀の近代絵画の題材になりそうな農村風景といえなくもありません。
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橋のたもとには、朝鮮戦争で戦死した毛沢東の息子、毛岸英の像があります。この人物の経歴については、調べるといろんな話が出てきて面白く、中国では映画にもなったようですが、たぶんここに彼の像があることは中国でもほとんど知られていないのではないでしょうか。日本時代に造られたトーチカもここには残っています。
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ここには、土産売りもいます。彼女は北朝鮮の切手を売っていました。

人の気配も少なく寂しげな北朝鮮側に対して、中国側の河畔にはホテルが立っています。ぼくがこの地を訪ねたのは5月中旬でしたが、6月以降になると、ここで多くの中国人がレジャーを楽しむことでしょう。レストランでは川魚料理が売りで、たいそうにぎわうそうです。
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この橋のたもとからは、鴨緑江を遊覧するボートが出ます。その話は、またあとで。→「【中朝国境シリーズ その3】丹東よりずっと面白い河口断橋の遊覧ボート
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(写真は2008年5月に訪問したときのものです)
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by sanyo-kansatu | 2013-05-14 23:03 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 05月 14日

丹東の抗美援朝紀念館とあやうい愛国主義「歴史」教育について

5月上旬、中国が北朝鮮の国営銀行の口座を閉鎖したニュースが伝えられました。そのときふと思い出したのが、3年前に訪ねた中国遼寧省丹東にある抗美援朝紀念館のことです。
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ひとことでいえば、朝鮮戦争(1950~53年)でどれだけ中国が北朝鮮を支援したか、これでもかと宣伝する「歴史」施設です。1958年10月に建て始められ、朝鮮戦争休戦協定の調印40周年記念日である1993年7月27日に開館しています。いわゆる「愛国主義教育基地」のひとつです。
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場所は丹東駅の北西の高台にあります。高さ53mの記念塔が立ち、そこから鴨緑江が見渡せます。丹東には、中朝間をつなぐ最大の口岸(イミグレーション)があり、両国の最も太い人的交流が見られるまちです。
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館内は歴史的な資料を展示する陳列館とパノラマ館に分かれています。陳列館に入ると、まず「抗美援朝、保家衛国」のレリーフを背景にした毛沢東主席と彭徳懐将軍の彫像があります。
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ちょうど大連から高校生が見学に来ていました。中国の高校生はたいていジャージ姿で、校名がひと目でわかります。
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朝鮮戦争の経緯を、中国から見た視点で解説する展示も豊富にそろっています。1950年10月から53 年7月の休戦までに投入された人民志願軍は約300万人、戦闘による 死傷者だけでも36万6000人いたといいます。
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なかでも興味深い展示は、金日成が毛沢東に援軍を乞う手紙です。「この展示のせいで、いま丹東に駐在している北朝鮮ビジネスマン(その数常時約3000人)や旅行で訪れる北朝鮮客はここには来ない」と、丹東在住の中国人の知り合いは話していました。
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なぜ北朝鮮の人たちはここに来ようとしないのか?

ここでの展示は、北朝鮮で教えられた朝鮮戦争の「歴史」観とはさまざまな点で矛盾し、対立が起きそうですからね。それにしても、せっかく大きな犠牲を払って助けたつもりの中国が北朝鮮からさほど感謝されていないのだとしたら、なんてことでしょう。でも、そうなってしまうのは、そもそも両国の「歴史」観に起因しているのだと思います。

陳列館はともかく、パノラマ館は少々やり過ぎの感じがしました。冒頭で写真を見せたように、朝鮮戦争の巨大なジオラマがあるんです。こういうリアルなジオラマは、訪れた子供たちを喜ばすのかもしれませんが、そこに政治が絡む以上、配慮が足らなすぎると思います。
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記念館の外には、当時使用された空軍機や戦車、掃射砲などが置かれています。大連の高校生たちはそこで記念撮影を楽しんでいます。
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それにしても、中朝関係に対する中国国民の懐疑心や不満がこれほど高まっている今日、この「愛国主義教育基地」はこのままで大丈夫なのでしょうか。中国が「歴史」を振りかざせばかざすほど、自縄自縛になってしまう気がします。
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「我的祖国 愛国主義教育基地網上展館」(中国宣伝部)の紹介する抗美援朝紀念館
http://big5.cctv.com/gate/big5/space.tv.cctv.com/page/PAGE1246345067229151

【追記】
抗美援朝紀念館は、その後、2014年12月29日に改修のため閉館しています。現地の友人の話では、17年夏にはリニューアルオープンする予定だったそうですが、公式サイトをみるかぎり、開館には至っていないようです。中朝関係の悪化が、これまでこの博物館が提示してきた歴史認識に変更を迫っているのではないかと思われます。それが明確にならないうちは、開館にはならない気がします。

抗美援朝纪念馆
http://www.kmycjng.com/
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by sanyo-kansatu | 2013-05-14 18:00 | のんしゃらん中国論 | Comments(0)
2013年 05月 14日

朝鮮からの移民が開墾した龍井のいま(吉林省延辺朝鮮族自治州)

龍井は延辺朝鮮族自治州の中心都市・延吉の南西に位置する人口約20万人の都市です。自治州内で最も多く朝鮮族が集住する地域とされます。もともと森林の広がる荒地で、村落が形成されたのは、図們江を渡ってきた朝鮮半島からの移民がこの地(間島。中国では延辺と呼ぶ)を開拓した19世紀後半のことです。

朝鮮半島からの農民の移動は明末に遡りますが、清朝は東北三省を王朝発祥の地として封禁政策を執っていました。そのため、清朝と朝鮮は間島の領有権をめぐって争っていました。

知り合いの朝鮮族の研究者によると、清朝が1881年に琿春に招墾局を設置し、可耕地を調査したところ、すでに間島に多くの朝鮮農民が入り込んでおり、住民の8割に達していたそうです。間島地域は朝鮮北部より平野が多かったためだといいます。

清朝は朝鮮に越境民をすべて帰国させるよう要求しましたが、その数が多くどうすることもできなかったそうで、朝鮮農民を領民と認め、課税することにしました。その後、清朝は朝鮮農民を募集し、この地をさらに開墾させることにしたため、いっそう朝鮮移民は増えたようです。

その後、日本が朝鮮半島の権益を手中にしていきます。1905年の日本による朝鮮の保護国化によって、間島問題は日本と清の問題となります。日露戦争後の1907年、日本は龍井に朝鮮統監府間島派出所を置きます(2年後に間島領事館を設置)。そして、1909年の間島協約により、日本は間島を清朝の領土と認めたかわりに、朝鮮移民は土地所有権を手に入れました。それまで漢族の小作人でしかなかった朝鮮農民にとって、これがさらなる移住を促したのです。

その一方で、間島は抗日独立運動が盛んな地域のひとつとなり、「間島パルチザン」の拠点とも呼ばれました。

さて、近年都市化の進む延吉に比べ、龍井の市街地には落ち着いた雰囲気があります。
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郊外にはリンゴなどの果樹園が広がるのどかな田園風景が見られます。
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龍井発祥の地とされる井戸が残る記念碑
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龍井には、日本統治時代の建築が今でも比較的よく残っています。

1926年に建てられた旧間島領事館(現龍井人民政府庁舎)
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庁舎の裏には、パルチザンらを拷問した当時の記録が展示されています。一般には公開されていませんが、あるご縁で見せてもらいました。ただし、撮影は禁止です。漢族の暮らす地域には、この手の「戦争犯罪」記念館は多くありますが、龍井の人たちには、訪れた日本人をあまり刺激したくないとの配慮がありそうです。確かに、この地の歴史は、そんなに単純なものではないからでもあるでしょう。
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旧領事館周辺に残る当時の官舎
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旧東洋拓殖銀行間島支店
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龍井駅も当時のまま残っています
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龍井中学はこのまちで最も古い教育機関です。日本語クラスもあります。ただし、最近は日本語を学ぶ学生が減っているそうです。
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龍井中学の敷地内には、龍井の歴史館があります。同校出身の民族詩人・尹東柱(1917年生まれ。生家は龍井市智新鎮明東村にある)の生涯を紹介する展示などもあります。
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by sanyo-kansatu | 2013-05-14 11:21 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)