ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2013年 03月 16日

中国インディペンデント映画祭主催者、中山大樹さんに会う

もう1年も前のことですが、2012年3月25日、中国インディペンデント映画祭主催者の中山大樹さんにお会いした話をしようと思います。

彼にはどうしても聞きたいことがいくつかありました。中国インディペンデント映画の世界をどのように知り、映画祭をやるに至ったか。今回の出展作の中でぼくがいちばん興味深く感じた徐童監督の『収穫』という特異な作品が撮られた経緯や背景、上映後に起きた香港「収穫」事件の顛末。そして中山さんにとって中国インディペンデント映画の魅力は何なのか、といったことでした。インディペンデント系の映画作家が多く集まっているという北京郊外の宋庄についても、教えてもらおうと考えていました。以下、秋葉原のコーヒーショップで約1時間、中山さんにお聞きした話を紹介します。

中国独立映画との出会い

――まず中国インディペンデント映画祭の立ち上げに至る経緯についてお聞かせください。

「最初の映画祭(2008年)を立ち上げたころ、私は日本にいました。実は2005年まで上海で働いていたのですが、帰国してからは東京フィルメックスにかかる中国の映画などを観に行ったりしていました。

2005年、06年と連続で應亮という監督の作品が2回かかったのですが、ひとりの監督が低予算で、自分で映像を撮り、編集もするという、いわゆるインディペンデント映画というのを初めて観たんです。それまでジャ・ジャンクーなどは観ていたのですが、中国にもインディペンデントな映像作家がいることに、とてもびっくりしたんです。

最初の年の應亮監督の作品が『あひるを背負った少年』、次の年が『アザー・ハーフ』(ともに中国インディペンデント映画祭第1回出展作)でした。ちょうどそのとき、應亮監督も来日していたので、会場で直接声をかけて、「こういう作品があるのなら、もっと紹介してほしい」と伝えたのです。

当時彼は四川に住んでいましたが、実家は上海です。その後、私は上海や北京に行って彼に会い、いろんな監督を紹介してもらったり、作品のDVDをもらったりしました。そのとき、日本では中国のインディペンデント系の作品はほとんど紹介されていないから、上映イベントをやりたいなと思ったんです。最初に彼に話しかけたのが2006年で、上海に行ったのが07年のことです。

インディペンデント系の作家は北京に多くいるので、いろんな人に会えました。当時私は日中貿易の仕事をしていました。もともと1998年に初めて上海に留学して、その後は行ったり来たり。02年~05年は現地で会社員として働いていました。その頃から映画は趣味で、映画館でよく観ていました。好きな監督の舞台あいさつを撮って、ホームページで紹介していたのです」

――インディペンデント映画の存在に気づいたのはいつごろですか?

「インディペンデント映画は技術の進歩と関係があります。デジタルビデオが中国で普及し始めたのは2000年ごろからで、作品も02年ごろから現れます」 

――第1回の中国インディペンデント映画祭は?

「2008年8月でした。2回目が09年12月。今回が11年12月」

――作品を選んだりするのは1年くらいかけて……。

「そうですね。日本にいたころは、中国でインディペンデント映画の映画祭があるときは必ず出かけていって、作家と会って話をしました。中国のインディペンデント映画祭は、北京でも開催されますが、おそらく最大規模なのが、毎年9月か10月に南京で開かれるものと、雲南省で2年に1回、3月に開かれるものです。それから先ほどの應亮監督がやっている重慶。北京ではこれまで5月と10月にやっていたのですが、今年から少し状況が変わるようです」

――一部中止になるとか。確か、中国の著名な現代アートの評論家が主催しているのですよね?

「実は私が以前働いていたのは、その評論家の栗憲庭の電影基金で、2006年に設立されたものです。07年以降、毎年北京独立電影展をやっているのですが、それ以前にもうひとつ、5月に開催される中国記録映画祭があったのです。栗憲庭電影基金ではこのふたつの映画祭を主催していたのですが、今年から一本化しようということになりました。今年は8月に開催される予定です」

※2012年8月に開かれた北京独立影像展については、中山さんの以下の報告を参照。
「北京独立影像展の報告」 http://webneo.org/archives/3959

――場所は?

「宋庄です」

――中山さんが電影基金で働いていたのは?

「2010年3月から11年5月までです」

――その経緯は?

「2007年から宋庄の映画祭には毎年通っていました。そのうち関係者の人たちと親しくなって、彼らが日本の映画を上映するときに、中国語字幕をつくる仕事を手伝っていました。

日本で映画祭をやることを決めて、私は仕事をやめたので、わりと時間があったんです。日本で映画祭を立ち上げるとき、彼らにずいぶん助けてもらいました。そしたら、向こうでスタッフが辞めて手が足りないというので、ちょっと手伝いにいきましょうかという話になったんです」

――映画祭立ち上げのために仕事をお辞めになったのですか。

「仕事と映画祭の両立はできなかったんです。自分の経営していた会社を売ってしまいました」

――すごいですね。それだけの価値があると思ったのですね。

「仕事はそれなりに順調でしたが、そんなに面白くなかった。せっかくなら自分の好きなことをやりたい。それで……」

――いまは北京にいらっしゃるのですね。

「はい、特になにもやっていないのですけど(笑)。人の映画の制作を手伝ったり、インディペンデント映画について執筆したりしています」。

徐童監督と『収穫』事件の顛末

――さて、今回ぜひお聞きしたかったのが、徐童監督の作品についてです。映画祭の関連イベントとして武蔵野美術大学で上映された『収穫』には驚きました。主人公はいわゆる地方出身の風俗嬢ですが、監督は彼女の生活のあらゆる場面でそばにいてカメラを回しています。しかもカメラと彼女との距離が近い。それは物理的にも精神的にもそうだと思うのですが、なぜそのようなことが可能だったのか。これはぼくがこれまで観てきた中国インディペンデント映画にも共通する驚きであり、疑問なのですが……。

「そうですね。個々の作品に関してというより、全体的な傾向なんですが、中国の人は撮られることに抵抗がないんです。おそらくそれをどこかに流されたりしたら困るという意識がなくて、だから撮られても特に構えたり、撮るなといって騒いだりすることがほとんどないんです」

――確かに、ぼくも中国各地をカメラマンと一緒にずいぶん訪ねていますから、撮られることに抵抗のない中国の老百姓というのか、民衆の人たちの存在はそれなりに理解しています。ただ、『収穫』の場合、対象が風俗嬢でもあり、ちょっと普通ではないな、と思ったんです。さらに驚いたのは、武蔵野美術大学の上映会場に、『占い師』の登場人物であった唐小雁さんがいたことです。どこかで見たことのある人だなあと思っていたのですが、本当にご本人だったとは。確か、彼女はドキュメンタリーの被写体として中国で何かの賞を受賞されたとか。これはどういうことですか。

「徐童監督は自分の作品を上映するとき、唐小雁さんを必ず上映会場に同行させていたんです。国内でもそうですが、そのうち香港やロッテルダム、北欧にも同行するようになって、彼女はだんだん有名になったんです。それで、中国の映画関係者が、彼女の映画以外の貢献も含めて表彰しようということになったんだと思います」

――確かに、彼女は特異な人生を歩んできた人ですものね。『占い師』の中では一時彼女は失踪してしまいますね。それにしても、当時は北京郊外のスラムで売春婦としてすさんだ生活をしていていたのに、東京で会った彼女はずいぶんあか抜けて、きれいになっていましたね。こういうことが起こることも含めて、中国のドキュメンタリー映画の世界は面白いですね。

「彼女は上映会場でも自ら進んで観客と話をするんです。『占い師』の後、今度は彼女のお父さんを主人公にした作品が撮られたのですが、その作品を上映するときも、彼女は上映会に必ず立ち会います。彼女は自分のことを撮られることも、それを人に観られることも、なんら問題とは思っていないようです。

――かつて彼女に起こった辛い出来事が次々と公開されるというのに……。

「彼女自身も上映会でいろんな人たちと会うことで、生活も変わってきた。いろんな国に行ったり、雑誌のインタビューに出たりして、鼻が高いみたいです」

――それからもうひとつ、座談会で話題となった『収穫』事件についてお聞きしたいです。作品上映に対する反対運動が起きたのですね。主人公のホンミャオの人権問題が議論されたということでした。中国のメディアでも取り上げられたのでしょうか。

「香港や大陸の一部のネットメディアで断片的に取り上げられた程度だと思います。最初に問題が起こったのは、2009年3月の雲南の映画祭でした。実はその前に北京で上映されたときは何も問題にはなりませんでした。

上映後の質疑応答の中で、徐童監督に対して批判的なことを言う人がいたんです。その人が『これは上映すべきではないのではないか』と掲示板に書き出して、賛否を問うたのです。映画祭の討論会でも、この作品が取り上げられました」

――論点は何だったのですか?

「作品の中で主人公以外の売春婦やお客さんが映っているけれど、彼らに許可を取っているのか。もしそうでないとすると、それは暴力的なことではないか。監督は彼らを利用しているのではないか、というような意見がありました。なぜなら、中国では売春は犯罪ですから、彼女らの顔をそのまま映画に出すこと自体、危険に身をさらさせることになるからです」

――こうした主張をする人たちには何か特別な政治的な立場があるのでしょうか。というのも、ここで言われていることは、国際社会の通念からしても、ごく常識的な見解だと思います。ただ、それが中国ではどう議論されるかに興味を感じました。

「そのときに発言をした人物のことは知りませんが、その話が香港に伝わって、香港の映画祭に出品することになったとき、セックスワーカーの人権を守ろうというNPO団体が上映反対運動を展開したのです。若い人たちが中心だったようです」

――中国では国際的な通念に対する認識は世代によってずいぶん違う気がしますものね。徐童監督はこうした批判が出ることを予測していたのでしょうか。

「最初はまったく予期していなかったそうです。そんな反応が出るのは意外だったと言っていました。北京ではむしろすばらしいという評価でしたから」

――徐童監督の反論はどのようなものだったのですか。

「彼女たちの顔にモザイクをかければいいというものではない。むしろ覆い隠してしまわないで、ひとりの人間として見る方が正しいコミュニケーションが取れるのではないか、というものです」

――確か、座談会でも徐童監督は「ビデオカメラはコミュニケーションの道具だ」と発言していましたね。もしこの議論が日本で起こったら、また別の展開になったでしょうが、作品がすでに撮られてしまったという事実がそこにあり、被写体との関係もきわめて良好であるということに、我々はいまさらながら驚くわけです。

「彼女らにとっては、監督も自分と同じ仲間であって、撮られたことに抵抗はないのですが、確かにその作品をDVD化して発売したり、ネットにアップしたりするのはどうかということが問題になりますよね。それはまずいだろうということで、それはしないことにしました。監督が許可した上映のみで、場所を選んでやるということです」

――いまの中国というのは、こうした微妙でギリギリの関係性というものが成立しうる社会だということですね。

「徐童監督が言っていたのは、彼女たちは失うものが何もないからオープンなのだということでした」

――『占い師』でも知的障害者のおばあさんの姿を延々撮っていますね。

「中国の場合、どこまでが良くて、どこまでが良くないというモラルというようなものがまだ確立していないということなのだと思います」

――それにしても、今回の映画祭は興味深い作品ばかりでした。たとえば、『独身男』のような農村を舞台にした夜這いの話は、あくまでフィクションなのでしょうけれど、まるで文化人類学のフィールドのような異界だったと思います。

「ああいう農村の実情については、中国でも都市に住む人たちはほとんど知らないと思います。この作品を撮った郝杰監督は、農村の実情というのが決してきれいなものではなく、ドロドロしていて、だから面白いのだということをストレートに伝えたかったのです。この作品について、中国の農村の醜い姿をあえて外国人にみせるようなことはけしからん、というようなことをいう人が中国にはたくさんいるのですが、いや実際はこんなもんですよ。あなたたちは知らないだけだ。そう監督は話しています」

――そういう心意気というか、ポジティブな率直さが中国インディペンデント映画の監督たちの魅力ですね。撮られたって何も失うものはないというホンミャオや唐小雁さんと似ている気がします。

今後は楽観できない?

ところで、もうひとつ気になったのは、徐童監督もそうですが、今回来日した張賛波監督も2008年からドキュメンタリー作品を撮り始めたと言っています。それは偶然だったのでしょうか。彼らにとって2008年という年には何か特別な意味でもあるのでしょうか。北京オリンピックの年ということですけれど。

「何か共通点があるのかどうかわからないのですが、2008年から撮り始めたという人は多いんです。でも、そういう指摘はまだ誰もしていないです。ただ、個人的には、2008年が何かの転換点になっているのではないか、と思っています。逆に2008年以降、作品を撮らなくなっている人もいます。たとえば、『あひるを背負った少年』の應亮監督がそうです。07年までは撮っていたのに、そこからぴたりと止まってしまった。いま彼は教壇に立って教える側にいます。だから、まだそこはなんとも言えないですね」

――それにしても、映画祭のために会社を売ってまで取り組んでいる中山さんですが、何がそこまでさせるのでしょうか。

「よく人から聞かれることなんですが、ひとつは日本で誰も中国のインディペンデント映画の上映イベントをしていなかったので、やってみようと。誰かがやっていたら、たぶんやらなかったと思います。それと、第1回をやったときは、続けるつもりもなかったんです。結果的に評判がよくて、みんながまた観たいというので、続けることになった」

――次回はいつですか。

「まだ決まっていません。作品が集まったらやろうかなと。そんなにたくさんの作品があるわけではないんです。まだ次回向けは数本しか集まっていないので……」

――量産できる世界ではないでしょうしね。しかし、イベントのためには現地で監督に会ったり、彼らを招聘したり、お金がかかりますね。スポンサーはあるのですか。

「スポンサーはいないので、みなさんから寄付を募っています」

――ところで、中国では一般にインディペンデント映画の上映はどのように行われているのですか。

「最初に話した南京や雲南、重慶、北京で開かれる4つの映画祭と、あとは有志がカフェなどで独自に数十人くらい集めて上映しているという感じです。中国国内でもこの世界を知っている人は少ないです」

――この先、中国インディペンデント映画の可能性についてはどうお考えですか。

「中国の映画界では、『第六世代』という呼び方があって、1990年代後半くらいからインディペンデント作品をつくり始めた人のことを指すのですが、『第七世代』という呼び方はないんです。

インディペンデント映画が今後どうなっていくのかよくわかりませんが、あまり楽観できないのではないかと私は思っています。もしかしたら、もうあまり撮られなくなるのではないかと思うことがあります」

――それはどうしてですか。

「あまり若い世代が育っていないからです。確かにいることはいるんですが、たとえば、ショートムービーをネットにアップしようとする人はいます。でも、昔のように、気負って重い作品をつくろうとしている人は若い世代にはいないです」

――映画祭の関連イベントで、慶応大学日吉キャンパスで中国の1980年代生まれの映像作家の短編をいくつか観ましたが、盧茜監督の『北京へようこそ』はよくできていましたね。あのような才能ある若い世代がどんどん出てきたら、面白いことになると思ったのですが、彼はその後作品を発表していないのですか。

「聞かないですね」

――いまの中国の若い世代は、社会への関心が低下し、内面に向かっているといいます。もちろん、日本はずっと以前からそういう状況ですが、中国では、都市に住む若者の生活環境こそ、先進国に近づいたとはいえ、国全体でみると、社会問題は何ひとつ解決されていないわけで、こんなことで大丈夫なのか、と思いますね。

「そうなんですよね。中国にはまだ描くべきものはたくさんあるんです」


最後のくだりで、ぼくは中山さんにいたく共感してしまいました。彼の主催した映画祭のおかげで、中国インディペンデント映画の世界を知ることになり、本当に感謝しています。

中国インディペンデント映画は、ひとつの独自のスタイルを確立していると思います。

重要なのは、自分たちの社会をきちんと見つめ、向き合おうとする姿勢でしょう。そこにしかオリジナルな世界は生まれないという恰好の事例だと思います。政府がいくらお金をつぎ込んでも、良質なアニメが中国でなかなか生まれないのとは対照的です。

中国インディペンデント映画は、いまの中国が世界に誇れる重要な文化的なジャンルのひとつだと思います。

中山大樹(なかやま・ひろき)
中国インディペンデント映画祭代表。1973年生まれ。中国に滞在しながら、インディペンデント映画の上映活動や執筆をしている。
ブログ『鞦韆院落』
http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005


ネットを検索していたら、中山さんの以下のインタビューが見つかりましたので、紹介します。
『映画芸術』2011年11月25日
中国インディペンデント映画祭2011
中山大樹インタビュー
http://eigageijutsu.com/article/236962523.html
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by sanyo-kansatu | 2013-03-16 16:17 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2013年 03月 09日

1993年のウラジオストク

ぼくはいまから約20年前の1993年4月上旬、ウラジオストクを訪ねています。93年というのは、その一昨年のクリスマスの日に、ソ連邦が崩壊してロシア連邦に生まれ変わり、軍港として長く対外的に閉ざされていたウラジオストクが外国人に開放された翌年です。

当時から北東アジアを自由に渡航できる時代が来ることを待ち望んでいたぼくは「ウラジオ(浦潮)が開放された以上、行くしかない」と思い立ち、休暇をとって新潟からウラジオストクに飛びました。

そこでいきなり目にしたのは、金角湾に浮かぶロシア海軍の軍艦でした。すでにそのときには、外国のツーリストが港を訪れても誰からもとがめられることなく、自由に写真を撮っても許される時代になっていたのです。
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いまでも思い出すのが、同じ時期、宿泊先だったウラジオストクホテルに、当時テレビでも有名だった軍事評論家の江畑謙介さんが滞在していて、エレベーターの中でご一緒したことです。その後、帰国してテレビを見たら、江畑さんがロシア海軍の潜水艦の中に入って「極東艦隊は老朽化している」と、それは嬉々とした表情で話していたことに、つい苦笑してしまいました。1930年代以降、長く閉ざされていた日本とウラジオストクの交流は、こんなかたちで始まったのでした。

さて、ウラジオストク市街と金角湾を一望にできるスポットが鷲の巣展望台です。当時、ぼくもここを訪れていて、2枚の写真を撮っています。以下、20年後に同じ場所から撮った写真と比べてみましょう。撮影した季節が違うので見た目の印象をかなり割り引かなければなりませんが、ソ連崩壊直後の疲弊した1993年4月とAPECを開催するまでになった2012年6月のウラジオストクの街並みです。
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続いて、当時のウラジオストク駅、目抜き通りのスヴェトランスカヤ通りです。
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当時は、同じ社会主義陣営の北朝鮮やベトナムからの労働者がいて、路上で物売りなどをやっていました。開放後、中国からの労働者や物売りが一気にウラジオストクに入り込んだため、現在では外国人の労働ビザはかなり制限されているようです。ただし、建設現場や港湾施設では多くの中国や北朝鮮の労働者を見かけました。ウラジオストクの市街地では不可視の存在となった彼らも、いるところにはいるのです。
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また当時は日本から大量の中古車を積み出して、ウラジオストクからロシア全域に転売する業者が大勢いました。ソ連崩壊で軍事産業が壊滅し、経済的に困窮したウラジオストクの民間経済は、日本の中古車販売が支えていたといってもよかったのです。街にはマフィアも暗躍していたそうで、確かにバーなどに行くと、怪しげな連中がたむろしていたことを思い出します。
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市庁舎には、ソ連時代のものと思われる紋章が残っていたようです。
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あれから20年後、ウラジオストクはどう変わったのか。そして、20世紀初頭には3000人以上の日本人が暮らし、事業を営んでいたウラジオストクが、これからどう変わっていくのか、興味は尽きません。
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by sanyo-kansatu | 2013-03-09 12:03 | ノービザ解禁!極東ロシア | Comments(1)
2013年 03月 05日

西欧建築の意匠があふれるウラジオストク

ウラジオストクには、ロシア建築を中心にさまざまな西欧建築の意匠があふれています。19世紀後半に造られた街だけに、建築物の様式もそれなりに凝っていて、写真の撮りがいがあります。加えて、街のあちこちにあるロシア正教会のたまねぎ型シルエットがエキゾチックな印象を与えてくれます。以下、佐藤憲一さんが撮ったウラジオストクの西欧建築の細部に寄る写真バージョンです。

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by sanyo-kansatu | 2013-03-05 08:18 | ノービザ解禁!極東ロシア | Comments(0)
2013年 03月 05日

ウラジオストク 橋のある風景

ウラジオストクでは、2012年9月に開催されたAPECの会場が建設されたルースキー島と市街を結ぶ巨大な斜張橋(塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ、支える橋)が2本造られました。これによって、都市の景観が大きく変わりました。ぼくが訪ねた6月下旬にはまだ一部工事中でした。でも、APEC開催時にはぎりぎり間に合ったそうです。

以下、前半は金角湾をまたぐ斜張橋と街の風景、後半はルースキー島まで延びた巨大斜張橋をボートから眺めたものです。

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by sanyo-kansatu | 2013-03-05 07:52 | ノービザ解禁!極東ロシア | Comments(0)
2013年 03月 04日

「浦潮旧日本人街散策マップ」でウラジオストクの日本のゆかりの地を訪ねる

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2012年6月26日から28日まで、ぼくは極東ロシアのウラジオストクに滞在しました。そのとき、市内散策の頼りとしたのが、「浦潮旧日本人街散策マップ~日本にゆかりのあるウラジオストクの名所・旧跡巡り~」(2011年7月発行)でした。このマップは在ウラジオストク日本国総領事館とロシア国立沿海地方アルセーニエフ博物館が共同で制作したものです。モルグン・ゾーヤ先生が編集に関わっておられます。
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以下、このマップに掲載されている日本のゆかりの地(一部訪問できていない場所もあります)の現在の姿を紹介します。撮影は佐藤憲一さんです。文章はマップからの抜粋です。

①旧日本総領事館(沿海地方裁判所)
オケアンスキー大通り7番。ウラジオストクに初めて領事館機能をもつ日本貿易事務館が開設されたのは1876年。1914年に木造の建物がとり壊され、同じ場所に建築家・三橋四郎による石造りのギリシア式建築の建設が始まった。完成は1916年。
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②浦潮本願寺記念碑
アレウツカヤ通り57番。1986年、西本願寺はウラジオストクで初めての海外布教所を開く。1904年の日露戦争開戦でほとんどの日本人が帰国したため、いったん活動を休止するが、その後再開。最終的には37年閉鎖。現在は黒くなった土台の石が残されているだけ。浦潮本願寺は当時、故郷から遠く離れて生活する日本人にとって癒しの場であり、啓蒙と交流の場だった。最後の住職、戸泉賢龍の未亡人である戸泉米子の尽力とウラジオストク市民、極東国立大学東洋学院、西本願寺、スタニスラフ・デザインセンターなどの協力により2000年、寺院が立っていた場所に記念碑が建てられた。
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③旧日本人小学校
フォンタンナヤ通り21番。最初の日本人学校は浦潮本願寺の一室で1894年に開校されたが、1913年この建物を購入。1922年当時生徒数256人で運営された。1931年閉鎖。
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④旧松田銀行部
オケアンスキー大通り24番。1907年、長崎市の十八銀行支店として開設。ルーブルから円への換金、満洲大豆の輸出で利益を上げる。1916年、朝鮮銀行に段階的に吸収され、19年に朝鮮銀行浦潮斯徳支店となる。
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⑤旧朝鮮銀行
オケアンスキー大通り9/11。松田銀行部を吸収し、名前を変えた朝鮮銀行浦潮斯徳支店は22年10月まで日本の浦潮派遣軍との間で積極的に業務を行う。その後、日ソ漁業協定終結で同支店は日本の漁業者によるオホーツク海での操業のため業務を行い、1930年には朝鮮銀行全体の利益の10%を生むほどになる。ところが、同年ソ連政府によって閉鎖させられる。
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⑥旧堀江商店(極東国立工科大学)
アレウツカヤ通り39番。堀江直造は1892年に日用雑貨貨物輸出商としてウラジオストクに渡り、99年に経営者になる。日露戦争後、ウラジオストクに戻り、缶詰工場を操業。シベリア出兵時は日本軍に協力。『ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの』(東洋書店)の著者・堀江満智氏は堀江直造の孫。
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⑦旧横浜正金銀行(アルセーニエフ博物館)
スヴェトランスカヤ通り20番。1918年横浜正金銀行は北満州からの農産物を大連経由ではなく、東清鉄道とウスリー鉄道を使って輸出するために、ウラジオストクに支店を開設。しかし、22年シベリアからの日本軍撤退で、24年閉鎖。
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⑧旧「浦潮日報」編集部
オケアンスキー大通り13番。「浦潮日報」は1917年12月9日創刊の日本語新聞で、発行者は東京外語ロシア語科卒の和泉良之助。
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⑨ウラジオストク駅
ニジニポルトヴァヤ通り2番。最初の建物はシベリア鉄道がウラジオストクまで開通した1891年に建てられ、94年にニコライ皇太子が起工に立ち会い、94年に完成。この建物は1912年に竣工。ロシアの17世紀の建築様式で建てられた。モスクワまでの距離は9288km。1912年に敦賀・ウラジオストク航路が開かれ、ウラジオストク経由で日本からモスクワ、ヨーロッパへとつながった。当時最短2週間でヨーロッパ行きが可能になった。
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⑩ニコライ皇太子凱旋門
ピョートル大帝通り2番。1891年ニコライ皇太子が日本を回って、シベリア鉄道の起工式のためウラジオストクに立ち寄った際、建設された。ロシア革命でいったんとり壊されたが、2002年有志により再建される。
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⑪プーシキン劇場
プーシキン通り27番。1915年、芸術座の松井須磨子が出演。当時彼女が歌った「カチューシャの唄」は日本でも大ヒットした。
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⑫スポーツ湾とディモナ・スタジアム
ウラジオストク市街地にあるビーチで、短い極東ロシアの夏を満喫する市民が繰り出す。その隣のサッカースタジアムは、1940年代後半、日本人シベリア抑留者によって建設された。
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⑬ミリオンカ
ここのみ日本人とのゆかりはなく、かつての貧困地区で、中国人が多く住んでいた。写真は元売春窟のあった建物。
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⑭与謝野晶子碑
オケアンスキー大通り39番。1912年5月、与謝野晶子はウラジオストクを訪ねている。1994年、極東国立大学東洋学院の建物の前に記念碑が建てられた。
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⑮ウラジオストク駅と金角湾大橋
鉄道駅前広場の上からウラジオストク駅と金角湾大橋を望む。手前に見えるのはレーニンの銅像。
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by sanyo-kansatu | 2013-03-04 14:34 | ノービザ解禁!極東ロシア | Comments(1)
2013年 02月 22日

さえない中年男たちのドタバタ劇だが、身につまされる?(中国インディペンデント映画祭2011 その10)

2011年12月16日は『花嫁(新娘)』(2009)を観ました。

花嫁(新娘)
http://cifft.net/2011/xn.htm

四川省巫山県という長江中流域の地方都市に暮らす4人の中年男の物語です。この作品はフィクションです。映画祭の公式サイトによると、こんなあらすじです。

「長江のほとりの町で暮らす、何をするにも一緒な中年おやじ四人組。彼らはいずれも円満とは言いがたい家庭生活をおくっている。そのうちの一人、妻に死なれたチーさんのために、彼らは嫁探しを始める。ただ、彼らには人に言えないたくらみがあった。哀愁ただよう間抜けな男たちをシュールでユーモラスに描いた、ベテラン監督ならではの味のある一本」。

これだけ読むと、中国の片田舎に住むダメおやじ4人組が繰り広げるほのぼのコメディのようですが、ここでいう「人には言えないたくらみ」の中身を明かしてしまうと、ちょっとガクゼンとしてしまうかもしれません。というのは、主人公のひとりで妻に先立たれた茶館の店主が、山村に暮らす田舎娘と偽装結婚したのち、保険金殺人を図り、それを4人で山分けしようと結託するという大そうな悪だくみだからです。

物語は、4人組がハイキングにでも出かけるような軽装で山あいの村を訪ね、保険金殺人の餌食となる娘を探すために山道を歩いているシーンから始まります。しかし、それはのどかなもので、自分たちがこれからしでかそうとしている非情な行為に対する罪の意識は感じられません。まったくいまどきの都市部に住む中国人というのは、農村やそこに住む人たちのことをどこまでなめきっているのでしょうか。

今日の中国社会には、自分の利益のために他人を道具として利用するという行為は必ずしも悪ではない、という空気が蔓延しているように思います。社会主義から市場経済へのなしくずし的な移行の中で、他人を出し抜いてでもサバイバルしていかなければバカを見るという強迫観念があるからなのか。

実際、彼ら現代中国人の抱えたプレッシャー(中国語でも「圧力」といいます)は、外国人の目から見ると、気の毒なほどです。なぜそこまで無茶しなければならないのか……。男たちは、多額の保険金のために村娘をかどわかし、殺害する計画を、いい歳して実践します。彼らはごくふつうの市井の人間で、特別悪人というわけではないのです。もちろん、これはフィクションですが、昨今の中国社会の風潮をふまえた設定だけにリアリティがあります。

山道でひとりの老人と一緒におとなしく座っている娘に彼らは出会います。声をかけても黙ったままですが、結局、その家族にお金を渡して昼食をとります。最近の中国では手軽なレジャーとして、ふだんは静かな山村に住む農家が観光客相手に地場の食材を使った料理をふるまう「農家菜館」が人気です。男たちは料理を目の前にすると、本来の邪悪な目的もすっかり忘れて舌鼓を打ち、その日は何の収穫もないまま街に帰ります。

ところが、ふとした縁で茶館の店主はその娘と再会します。店のアルバイトを探していたところ、紹介されたのが彼女だったのです。

その子は見るからに地味な田舎娘です。うつむきがちで起伏のない面立ちに小太りの体型。感情を表に出すことはありません。しかし、それには理由がありました。彼女は心臓が弱く、村出身の同年代の多くの若者が都会に出ていくなか、ひとり山村に残っていたのです。

そんな彼女ですが、茶館の住み込みウエイトレスという仕事であれば、重労働とはいえませんし、本当のことをいえば、都会に出てみたかったのです。店主はこれ幸いとばかりに、件の保険金殺人の構想を胸に秘めながら、彼女を雇い入れます。

物静かな娘ですが、初めての都会暮らしとあって、仕事にも慣れていくにつれ、笑顔を見せるようになります。4人組の仲間も店に来て、彼女を見るや、当初の計画を決行するまたとないチャンス到来と小躍りします。そして、店主に早く彼女と結婚するように迫るのです。

こうして田舎娘と晴れて同居することになった店主は、若い彼女にだんだん情がわいてくるのを抗えません。そしてある日、結婚を申し出ると、なんと彼女は承諾するのです。身体的な理由で人並みの人生を送ることをあきらめ、山にこもっていた彼女は、都会の男と結婚したら、自分の運命も変わるかもしれない。いつか子供をみごもって、そのまま都会で暮らすことができるかも。そんな夢に賭けてみたいと考えたのです。

ふたりは新婚旅行に出かけ、初めてホテルで一夜をともにします。実は性の営みは彼女の心臓にとって大きな負担であり、行為の途中ですぐに失神してしまいます。店主は驚きますが、かえっていとおしさがわいてくるばかりです。

歳の離れた若い新妻を手に入れた店主は、新婚生活を満喫します。ところが、それが気に入らないのは、悪だくみを計画した4人組の仲間たちです。彼女の生命保険の支払いもそうですが、ふたりの結婚式や新婚旅行の費用もみんなで用立てていたからです。投資した以上、いつかは回収しなければならないというわけです。

決行を迫る3人との間で葛藤する店主ですが、ついに新妻を手にかけることを決意した夜、家に戻ると、シャワー室で彼女が倒れています。シャワー室に突然侵入したネズミに驚いて倒れたことを暗示するシーンも挿入されますが、彼女は妊娠していたこともあり、心臓がその負担に耐えられなかったせいでもあるようです。そう、彼女はあっけなく亡くなってしまうのです。もともと彼女は出産に耐えられるような身体ではなかったのでした。

実は、3人の仲間も口では決行を店主に迫りながら、彼が決意をしたすぐあとになって、やっぱり人殺しなんて大それたことはやめようと、彼のあとを追いかけてきて、無残な彼女の姿を見ることになります。所詮、人間なんてそんなに冷酷にはなれないものです。彼らは、結果的に自ら手を下すことなく計画を遂行したことになったのですが、後悔と罪の意識にかられ、彼女の故郷の葬儀に出席します。深い山あいの村で繰り広げられる厳かな葬儀のシーンで物語は終幕を迎えます。

この作品の舞台である四川省巫山県は、監督の故郷だそうで、ストーリーも現地の友人から想を得たといいます。きわめてドキュメンタリータッチな作風ゆえに、長江流域の地方都市の雰囲気がよく伝わってきます。

主人公の店主以外の男たちの人生と生活の舞台となるさまざまな場所(住居や職場、遊興地など)や、そこで起こる出来事もなかなか興味深いです。4人組の悪だくみの会合でよく使われるレストランは長江の眺めが抜群ですし、ここでもお約束のように、風俗床屋とそこで働く女たちとのやりとりが出てきます。大学の社会人講座で経済を講じる4人組のひとりは、中国経済の成長ぶりがどれほど素晴らしいか、教壇の上で弁をふるっていますが、これなどいかにも2000年代の中国らしいシーンだと思います。

その講師は、自分の妻とホテルにしけこむ不倫男を目撃し、ボコボコにしたところ、その男は公安の幹部で今度は自分が命を狙われることになり、しばらく山に逃亡するというシーンもあります。一般に中国コメディの笑いのセンスは、日本の感覚とはずいぶん異なり、笑いのツボがつかみづらいことも多いのですが、これには笑いました。

とはいえ、この作品はいわゆる娯楽作ではありません。作品を撮った章明監督については、以前当ブログでも紹介したことがありますが、どうやら『花嫁(新娘)』は中国当局の検閲を通していないものらしく、ミニシアターなどで上映するほかなく、観客は1000人に満たない(2011年12月現在)とご本人が語っていました。

ではなぜそのような作品を撮るのかといえば、誰もが知る首都北京や上海を舞台にした作品ではなく、地方都市に生きる人たちこそ、中国の一般大衆であり、彼らの姿を描くことに意味があると考えているからのようです。以前、章明監督はこう語っています。

「私の作品の特徴は、登場人物に語らせるというスタイルであることです。『花嫁(新娘)』の場合も、地方の小都市に住む人々の生活やモノの見方、態度を描いています。彼らこそ中国の一般大衆です。中国の人々の大部分は大都市ではなく地方の小さな町に住んでいるのです」

作品の舞台として自分の故郷を選び、日常に潜む題材からストーリーを脚色していくという創作スタイルは、現在北京電影学院の教員である章明監督の教え子たちにも受け継がれているようです。たとえば、今回の映画祭の出品作の『冬に生まれて(二冬)』の楊瑾監督、『独身男(光棍儿)』の郝杰監督。またこれはフィクションではありませんが『天から落ちてきた!』の張賛波監督はみんなそうです。

ただし、この創作スタイルでは数多くの観客を得ることは難しいところにジレンマがあります。いわゆる娯楽大作のように、あの手この手で観客を惹きつける魅力的なエピソードや笑いや涙を盛り込むこともなく、その土地の日常を淡々と撮っていくという手法は、そもそも目指すところが違うということでしょう。そこをつくり手としてどう考えるかについては、張賛波監督のように、「(自分のドキュメンタリー作品は)あくまで自己表現の手段です。個人的な考えを表現するためには、フィクションや小説でも構わないのですが、たまたま私はドキュメンタリーを選択しました」と言い切ってしまえば潔いのでしょうが、つくり手によっても考えはいろいろなのだと思います。

今回、『花嫁(新娘)』を観ながら、ともに中年男の悲哀を描いているという意味で、中国人の北海道旅行人気に火をつけた『非誠勿擾』(2008 馮小剛監督)とつい比較してしまったのですが、前者が地方都市に住むさえない男たちの保険金殺人未遂にまでからむドタバタ劇であるのに対し、後者はアメリカ帰りで金には困らない男の優雅でとりすました婚活ラブストーリー。当然、作品を観たあとの登場人物たちに対する印象が違ってきます。

『花嫁(新娘)』では、そこで起きている出来事のすべてが理解できるわけではないのですが、登場人物たちが悪戦苦闘している姿は伝わってくるぶん、許せる気がしてくるのです。だから異質さを強く感じながらもどこか親しみをおぼえるところがある。それに比べ、『非誠勿擾』では主人公に対して“いけすかないヤツ”とツッコミを入れたくなったものです(北海道の小さな教会の牧師の前で主人公がひたすら懺悔しまくるシーンは笑えましたけど)。

日本で『非誠勿擾』の興業を試みた人たちがいましたが、北海道以外ではうまくいかないのは無理もないと思ったものです。日中の笑いのセンスの違いもそうですが、はっきり言っていまの日本人にはバブル臭い設定やストーリー展開がとても古臭く感じられて、たいして面白い映画ではないのです。一方、我々とは異なる時代を生きている中国の観客は逆にそれがいいと感じたはずです。だから大ヒットしたのです。

遠く離れた異国の地、自分とは生活環境も異なるし、一度もその地を訪れたことのない場所に住む人間に対して、一瞬でもなにがしかの親近感をおぼえるというのは、たぶん彼ら間抜けな4人の中年男が繰り出すしがないエピソードの数々、そのディティールにぼくがどこかで身につまされたからでしょう。それは、ちょうど新宿の町に突如現れた、どう見ても都会的な洗練からはほど遠い中国団体ツアーのグループと横断歩道ですれ違う瞬間、場違いにも思える異質な存在に軽い戸惑いをおぼえつつも、よく見るとカメラをあちこちに向け、日本の旅行を楽しんでいる彼らの無邪気な姿を発見することで、親しみの感情が生まれる。そんな日本でもしばしば見かけるようになった異文化接触の光景に似ていたように思います。

監督:章明(チャン・ミン)
重慶市巫山県出身。96年にデビュー作『沈む街』がベルリン国際映画祭で紹介されると、その年の数十カ国の映画祭で上映され、多数の賞を受けた。現在は北京電影学院の教員として多くの監督を育成しながら、脚本家や監督として活躍している。代表作は他に『週末の出来事』(01)、『結果』(05)など。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-22 13:18 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2013年 02月 21日

雲南省の廃墟の町でリス族の歌う賛美歌が美しい(中国インディペンデント映画祭2011 その9)

2011年12月11日は、『ゴーストタウン(廃城)』(2008)を観ました。

雲南省の辺境にある元漢人村と思われる小さな町の日常を撮った作品です。雲南省といっても、最近、中国の都市部の若者にもよくいるバックパッカーや外国人ツーリストが訪れる見所やゲストハウスのあるような気の利いた土地ではありません。いずれにしても、上海や北京の喧騒とは遠い世界の話です。

映画祭のパンフレットによると、このドキュメンタリーのあらすじはこうです。

「リス族とヌー族が暮らす雲南省の山岳地帯。政府によって放棄され廃墟となった街に、農民たちが住みついている。ここに住む人々は町の人の暮らす家や道路を享受し、頭上には真っ青な空と暖かな大地がある。

本作は3つの独立したパートにより、ゴーストタウンに生きる人々の状態を表現している。

・「神の御言葉」……二世代の宣教師の平淡で味気ない家庭生活と宣教師の仕事について描く。平淡さの影には、父子の長年にわたる苦渋と矛盾が隠されていた。

・「記憶」……分裂した家庭、誘拐されて売られた女性の心に閉じ込められた長年の苦悶。二つの異なる物語に共通する結末――ゴーストタウンからの別れ。かつての生活は、記憶へと変わる。

・「少年」……12歳の阿龍少年の物語。何ものにも縛られず、毎日仲間とともに働いて金を稼ぎ、鳥を捕まえて遊ぶ。時にお化けを信じ、時にキリストを信じる」。

なぜこの町は政府によって「放棄」されたのか。この地域の事情に疎いぼくには正確なところはわかりませんが、町の中心にある旧政府の建物の前に毛沢東像がいまも立っていることから、ここは文革時代(あるいはそれ以前に)に都会から下放(政策的に移住)した漢族の若者が建設した町で、改革開放とともに彼らが都会に戻ってしまい、廃虚となってしまったのではないかと思われます。

それはいってみれば、満州国の消滅で日本人が帰国したのち、無人となった家屋に中国の民が住み着くようになったのと同じように、用なしとなった町に、周辺に暮らしていた少数民族たちが雨露をしのぐために移り住むようになったというようなことではないでしょうか。

監督には、何らかの政治的な意図があるのだろうと思います。ただし、いまどき文革時代の検証や批判といったものは、中国では流行らない気がします。そんなことより、いま現在の問題をどうするのか、ということに多くの人たちの関心があるからです。この作品が映し出す辺境の町の人々と暮らしは、もっと別の何かを訴えかけてくるのですが、正確な現地事情がわからないため、それをうまく言語化できないのが残念です。

いちばん印象に残ったのは、インドシナの国々の北部国境地帯と中国にまたがって暮らす少数民族のリス族たちが、町のキリスト教会で賛美歌を歌うシーンです。村人が建てた小さく粗末な教会ですが、まるで中南米のグアテマラに土着化したカソリック教会のミサを連想させる幻想的な光景でした。

欧米列強がアジアを植民地化した時代、インドシナの少数民族の住む地域に多くの宣教師が入り込み、キリスト教を普及しました。では、現在中国に住む少数民族たちの中にはどのくらいの信者がいるのでしょうか。今回の映画祭の出品作の「冬に生まれて(二冬)」の中にも、主人公が親に連れられ、更生施設としてのキリスト教の学校に入れられるシーンがありますが、漢族の住むエリアでも、農村に行くとかなり広範囲にキリスト教が普及していることがうかがわれます。

いま中国は膨張主義の時代に突入しているように見えます。尖閣沖や南シナ海もそうですが、人口減に悩む極東ロシアでも中国人労働者流入のプレッシャーにさらされています。中国からインドシナに高速鉄道を延ばす計画もある。周辺国の懸念は国によって濃淡はあるものの、高まりつつあります。

その一方で、国内ではこの町のようにゴーストタウン化する地域も増えています。この町の場合は、政治路線の転換に伴う「放棄」が理由ですが、最近では不動産バブルの崩壊でゴーストタウン化する町もあります。中国の膨張主義もまた、改革開放という政治路線の延長線上にあるものですが、そうした路線がひとたび行き詰まったあとに残るであろう静寂というものを、この小さなゴーストタウンはある意味先取りした光景なのかもしれない。そんな気もしてきました。

監督:趙大勇(チャオ・ダーヨン)
1970年遼寧省撫順市生まれ。美大で油絵を学び画家として暮らしていたが、2001年からドキュメンタリー映画の制作を開始。本作は『南京路』につぐ2作目。現在はドキュメンタリーのみならず、フィクションや実験映画なども制作し、活躍の幅を広げている。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-21 13:07 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2013年 02月 20日

ドキュメンタリーは中国の歴史を記録するという自負(中国インディペンデント映画祭2011 その8)

2011年12月10日、ポレポレ東中野の1Fのカフェで中国インディペンデント映画祭2011の関連イベントとして、「場外シネマシリーズ3-轟轟烈烈!! 中国インディーズ・ムービー <冬>パート2 新星」という作品上映&トークイベントがありました。

上映されたのは、張躍東監督の『犬吠える午後(下午狗叫)』というアート系作品でした。中国の現代アートの映像作品によく見られる、さまざまな寓意を含んだ実験的な作品で、今回映画祭に出品されたドキュメンタリー作品や自主映画のように、特定の場所や登場人物の境遇、それぞれのシーンを社会的な文脈にのせて意味を読み取ることのできるようなタイプの作品ではありません。感想はというと、寓意もまた文化的なコンテクストを共有していないとなかなか面白さが伝わりにくいなあ、という印象です。

会場で配られた資料によると、張監督のプロフィールは「1975年山東省生まれ。98年山東美術学院油画科卒、2002年北京電影学院監督専攻卒。CCTV勤務などを経て、05年に韓東らとインディペンデント脚本家のグループ『北門』を発足。現在はフリー監督」とあります。彼もまた今回の映画祭に出品している監督たちと同様、フリーランサーとしていまの中国で制作活動を行っている映像作家のようです。

このあとのトークイベントにも関係する話ですが、今日の北京は、表現に携わるフリーランサーたちでもなんとか“食っていける”ような環境にある数少ない中国の都市のひとつといえそうです。中国のアートシーンを切り開いてきた先行世代が過ごしてきた1990年代までとは違い、昨今バブル状況にある北京では、広告やテレビ業界に入り込めば、仕事の場もそれなりにあるでしょうし、時代を謳歌し、うまくしのいでいる人も多そうです。これは日本の1980年代にクリエイターと呼ばれた人種のありようと似たようなところがあるかもしれません。そういう環境下で、あえてドキュメンタリー制作を志すことにはどんな意味があるのでしょうか。

さて、トークイベントは「中国インディーズ制作の魅力と困難」というものです。

ゲストは、来日中の中国人監督で、これまで当ブログでも紹介した『占い師(算命)』『収穫(麦収)』の徐童監督と、『天から落ちてきた!』(2009)の張賛波監督のおふたり。司会の女性と映画祭主催者で通訳の中山大樹さんが登壇しています。

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右から徐童監督、中山大樹さん、張賛波監督


まず、それぞれのプロフィールを以下記しておきます。

●徐童(シュー・トン)
1965年北京市生まれ。中国伝媒大学卒業。かつてはスチールカメラマンをする傍ら、小説を発表していた。デビュー作『収穫(麦収)』(08)が世界で評価され、ドキュメンタリー作家に転向。『占い師(算命)』は2本目、3作目『老唐頭』も2011年完成し、各国の映画祭で好評を得ている。

●張賛波(チャン・ザンボー)
1975年湖南省生まれ。2005年北京電影学院大学院修士課程終了。北京電影学院では『花嫁』の章明から指導を受けていた。故郷である湖南省を舞台にした作品を撮っている。『天から落ちてきた!(天降)』は初のドキュメンタリー作品。映画評論家でもあり、雑誌などにコラムを執筆。

おふたりに共通するのは、北京在住のフリーのドキュメンタリー映像作家であるということです。

資料の中に、「中国のインディペンデント映画」に関する解説があります(以下、抜粋)。おさらいしておきましょう。

「1980年代末からテレビ制作に携わる者が自主的な作品づくりを試み始め、90年代末にデジタルビデオカメラが普及すると、さらに様々な立場の個人による映画制作が急速に広がった。初期の作品として知られるのは、呉文光の『流浪北京 最後の夢想家たち』(1990)『私の紅衛兵時代』(1993)や、張元の『北京バスターズ』(1992)『広場』(1995)など。今や知名度の高いジャ・ジャンクーもインディペンデントの映画制作を始めた草分けのひとり。最近では、ロウ・イエ(『スプリング・フィーバー』2009)やワン・ビン(『溝』2010)などが各国の映画祭で注目を浴びている。そして彼らだけでなく、中国では個人的に映像作品を手がけている人が数多く存在する。しかし、中国国内では公に認められていない表現活動であるため、表立って公開される機会は得られない。どの作家も、海外の映画祭に応募したり、市街のカフェで上映したり、DVDにして知人を通じて配ったりという方法で作品の発表をしている」。

この解説を読むだけで、中国のドキュメンタリー映像作家たちの社会に置かれた立場がわかると思います。こうした環境の中で、なぜ彼らが作品制作に取り組もうとするのか。それにはどんな困難が伴うのか。以下、おふたりのトークを収録することにします。

司会「おふたりはどういう経緯で映画をつくり始めたのですか?」

徐童「私が東京に来て感じたことは、インディペンデント映画を取り巻く空気がとてもいいことです。たくさんの観客のみなさん、特に若い人たちが来ていることがすばらしい。私たちのような中国の現実を反映した作品を海外の多くの人たちに観ていただく仕事はとても重要だとあらためて感じました。

中国はこの30年間大きな変化を遂げました。でも、必ずしもいい変化ばかりではありません。中国の現代化は、私の作品の登場人物たちにも大きな影響を与えています。下層を生きる人たちに大きな代償を強いているのです。ですから、彼らの生活を記録することは、中国の歴史の一部を記録に留めることになると考え、私はドキュメンタリーを撮り続けています。

私は以前、小説を書いたり、写真で現代アートをやったりしていましたが、映像はより現実をいきいきと伝えることができるので、ドキュメンタリーを撮るようになりました。私の最初の作品は『収穫(麦収)』(2009)で、今回の出品作は『占い師(算命)』(10)、最新作は『老唐頭(老唐头)』(11)といいます。この3作品を私は『遊民三部作』と呼んでいます。私はいま、新しい作品に取り組んでいます」。

張賛波「私が映画を撮るようになったのは偶然です。2009年の『天から落ちてきた(天降)』という作品が最初です。それ以前は、北京電影学院で劇映画の勉強をしていました。08年に作品の舞台となっている湖南省綏寧県のことを知り、ドキュメンタリーを撮ろうと思い立ちました(この土地は中国の衛星ロケット発射基地のすぐそばにあり、発射のたびに残骸や破片が落下してくるため、住人にとってはとても危険。北京オリンピックが開催された2008年においても、その危険は続いている)。

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張賛波監督



それ以降、この道を進むことになりました。電影学院時代の同級生の眼からみると、私は本来やるべきことをやらずに邪道なことをやっている輩と見られていると思います。毎年1本つくっていて、今回の出品作の『恋曲』(2010)、そしていまは『ある種の静けさは草原という名である』という作品を撮っています。

私の作品に対する考え方は徐童監督とは少し違い、海外の観客に観せることはあまり考えていませんでした。あくまで自己表現の手段です。個人的な考えを表現するためには、フィクションや小説でも構わないのですが、たまたま私はドキュメンタリーを選択しました。私のドキュメンタリーは、そこに登場する人々の存在や感情、抱えている困難な状況を描いています。その困難は集団としての場合、個人の問題である場合、民族としての場合もあります。彼らが困難に直面したときの精神状態はどのようなものか。それが私のテーマです。

私の制作方式は、ひとりで現地に行き、撮影し、編集するというものです。集団でつくるというやり方は選んでいません。小さなビデオカメラがあれば、ひとつの作品をつくることができる。ペンを持つのと同じことです。観客のみなさんに私の作品を好きになってくれればうれしいですが、もしそうでないとしても、これからも私は作品はつくり続けます」。

司会「中国と日本ではインディペンデント映画を取り巻く状況は違うようです。中国では国からの圧力があるといいます。政治的な理由で作品を発表できないこともある。それでもやる理由は何でしょうか。どんな魅力があるのですか」

徐童「中国で作品をつくるというのは大変なことです。もちろん、世界どこでも大変ですが。まずお金がないこと。ただし、中国の場合、資金的な問題以外に政治的な障害があります。映画館で上映する場合、作品を電影局の検閲に通さなければなりません。検閲を通ったという承認がなければ、映画館で上映できないのです。

最新作の『老唐頭』は広州の映画祭で上映する予定でしたが、公的なイベントだったため、広東省政府の検閲を通さなければならず、結果的に上映禁止にされました。問題はこうしたことが私個人だけではなく、普遍的に起こっていることです。ある監督は当局に呼ばれて、これを中国では『喝茶(お茶を飲む)』というのですが、事情聴取されています。それは尋問というような厳しいものではありませんけれど。私はまだそんな光栄に浴した経験はないのですが、当局から警告を受けている友人は他にもいます。

ですから、自由な表現をするということが、中国のインディペンデント映画にかかわる最も重要な問題です。民主的な国の人たちには理解できないかもしれませんが、私たちのいう『独立(インディペンデント)』という言葉にはこうした意味が多く含まれています。これが私たちの置かれた現状です。

ただし、私たちの抱えた政治的な制約によって、欧米の映画祭などでは中国人監督の作品がことさら着目される。それは誇張されている面もあると感じています。私たちは何も政治的なテーマばかりを扱っているのではなく、個人の問題を扱っているのだということを忘れないでいただきたいのです。そういう誤解を海外の人たちに与えているのではないかという懸念もあります。

もちろん、中国ではどんな内容であってもそこに政治的な意味が含まれないものはないとはいえる。下層に生きる人たちを、その個々の人たちの姿を撮るということは、それ自体が政治的な意味を帯びないということはありえません。しかし、私の作品が政治的、または芸術的な文脈を越えて、多くの人たちに伝わることを望んでいます」。

張賛波「私も基本的に徐監督に同感です。私たちの創作活動というのは、社会や時代に対する芸術性や政治性を超えて、普遍的な人々の感情や存在を表現するものでありたいと思います。

実は、先ほど私はひとりの日本の観客と話をしました。彼女は日本のテレビ局で青海省のチベット族のドキュメンタリーを制作しているという人です。彼女は映画祭のカタログにある『天から~』の解説文を読んで、私の作品が扱う題材が政治的に敏感なテーマであることを知りました。

彼女は私にこう質問しました。『こういう作品をつくると、当局からの圧力や投獄はないのですか』。彼女が心配したのは、自分が撮った映像を編集し、発表したとき、現地で協力してくれたチベットの人たちが巻き添えを食うのでは、ということでした。

そこで、私はこう言いました。『何かをやろうとするとき、怖れを抱いてはいけない。私はいつも、結果がどうなるかを心配するより、まず撮影してしまう。何か問題が起こったとき、初めてそれを考えるということにしている。もし私があなたのように心配していたら、作品はつくれなかったろう』。 

中国では常に何の危険もない状況というのはなく、何かをやろうとすれば何かしらの影響がありますが、かつての中国とは圧力といっても少し違います。私たち、ドキュメンタリー制作の関係者はとても狭い世界にいますが、今後は何らかの道を見つけていけるはずだと思っています。

いま中国でつくられているドキュメンタリーは、民間の歴史を記録として残すという意味で大きな貢献をしていると考えます。私の創作は個人的なものではあるが、長い目で見れば歴史の一部になりうる。これから数十年後、100年後、その仕事は大きな意味を持つと思っています。 

外国人が中国を撮ることも、同じ意味を持つでしょう。イタリア人の映画監督、アントニオーニが1970年代に中国に来て撮影した『中国』というドキュメンタリー作品があります。これは中国の歴史にとって重要な価値を持っています。文化大革命の時代に中国を訪れた外国人と同じように、いま中国で記録を残すことも価値となるはず。だから、怖れることなく作品を完成させたほうがいいと私は彼女に伝えたいと思います」。

おふたりの発言は、以前紹介した章明監督とも共通していて、いまの中国において、どんなに小さな個人の世界を扱うのだとしても、ドキュメンタリーを撮るということは、中国の歴史を記録することになるという自負があることです。

こうしたもの言い、すなはちリアルな社会の問題に対しても歴史を持ち出す態度というのは、ぼくから見れば、そのよしあしはともかく、まったく中国人らしいというほかありません。張監督の以下のような発言もそうです。

『何かをやろうとするとき、怖れを抱いてはいけない。私はいつも、結果がどうなるかを心配するより、まず撮影してしまう。何か問題が起こったとき、初めてそれを考えるということにしている。もし私があなたのように心配していたら、作品はつくれなかったろう』。 

このような物事の進め方は、表現に携わる人たちだけでなく、いまの中国を生きる一般の人たちの、たとえばビジネスに取り組む姿とも重なるように思います。それは敬服に値するということばだけでは言い表せないものですが、力強さはある。それも彼らの生きる環境のなせるわざなのでしょうか。

中国の知識層の中には、歴史に対する考え方がいかにも夜郎自大で、大衆に対する態度も超然とふるまうことを良しとするようなタイプもいて、鼻につくことが多いのですが、中国のドキュメンタリストたちは、むしろ取るに足りないと思われがちな社会的弱者にまなざしを向けようとしていることに好感をおぼえます。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-20 15:27 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2013年 02月 17日

中国の成長の代価を負わされた存在をめぐって(中国インディペンデント映画祭2011 その7)

2011年12月9日、武蔵野美術大学で開かれた徐童監督の『収穫(麦収)』の上映会の続き、質疑応答の時間です。

作品の上映後、徐童監督と映画祭の主催者である中山大樹さん、そしてひとりの中国女性がステージに登壇しました。

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左から徐童監督、中山大樹さん

最初に司会の女性から、監督がこの作品を撮るきっかけについての質問がありました。徐童監督は自分の経歴にも簡単に触れながら、主人公ホンミャオとの出会いとこの作品を撮るに至った経緯について、以下のように話しました。

「私は1987年に北京の大学を卒業し、その後、スチールカメラマンとしてテレビ局や雑誌社などで仕事をしていました。2000年頃から、中国の現代アートが世界的に注目されるようになり、私もアートの世界で評価されるようになりたいと考えていました。ところが、中国の現代アートはその後バブル状況に陥り、誰もが欧米で売れるような、たとえば毛沢東がらみの作品ばかりになった。そんな中国の現実から乖離した作品があふれるようになったので、私は大いに不満でした。

2007年、私はそんな思いを表現するため、小説を書きました。社会の下層の人々の生活や苦悩を書きたいと思ったのです。しかし、小説では十分書ききれなかったというか、書き足りないと感じました。そこで、ドキュメンタリーを撮ろうと考えました。ちょうどそんな頃、ホンミャオと偶然街で出会ったのです」

ホンミャオの「職場」は北京市の南はずれ、朝陽区高西店にある風俗床屋です。現在の北京市は、中心部をぐるりと取り囲むように、地下鉄沿線上に新興住宅地として開発された高層マンション群と、老朽化したまま放置されるスラムが混在して広がっています。こうして増殖していく都市空間の内部には、都市戸籍を持たない「外地人」が暮らすスラム=“都市の辺境”がエアポケットのようにまだらに存在しています。

2000年代に入り、猛烈な不動産投資ブームによる高層ビルの建設ラッシュで北京の相貌が大きく変わっていくなか、徐童監督は時代の変化と社会の矛盾に戸惑いを覚えながら、引き込まれるように“都市の辺境”に足をふみ入れることになったのではないかと想像します。徐童監督は1965年生まれ。ぼくとは同世代で、1980年代から今日に至る北京の変化を眺めてきたところもあり、彼の気持ちはわかる気がするのです。

ぼくは外国人ですから、北京では階層縦断的にさまざまな人たちとそれなりに交流できる特権を手にしています。ある日は外資系高層ホテルのハイソなバーに出入りするような小資(プチブル)たちとも会いますし、またある日は「農民工生活区」の住人たちとも一緒に食事をするというようなこともあります(中国は階層が断絶している社会ですから、両者の交流はまずありえないといっていいと思う。徐童監督のような奇特な人物を除くと)。

ぼくから見れば、プチブルの連中は、たいていの場合、中身は薄っぺらなくせに強欲で自尊心が肥大化していると感じることが多くてうんざりです。残念な人たちに見えます(文化人、読書人はまた別の話です)。それに比べれば、「農民工生活区」の人たちからのほうが学べることはずっと多い。彼らは、自分たちの生きる社会の矛盾や痛みについて、否が応でも思い知らされている人たちだからです。

徐童監督の作品はすべてそうですが、これら両者の深い階層断絶の裂け目から放擲され、置き去りにされた社会的弱者とされる人たちの人生に向き合おうとしているのだと思います。一見取るに足りないと思われがちな彼らの人生の深淵に目を開かせてくれたのが、都市と農村を往復する農民工のひとりであるホンミャオの存在だったのでしょう。だから、彼はこんなことを言うのです。

「初めて彼女に会ったとき、このような境遇にありながら、当時20歳の彼女に、なぜこんなに力があるのだろうか、と思いました」。

そう語る徐童監督は北京市民のひとりであり、ホンミャオとはもとより別世界の住人です。しかし、いまの中国で「外地人」に対して、彼のような視線を向けることのできる都市民はまだ少数派のように思います。

監督はこんなことも言います。

「私自身、フリーランサーでもあり、“都市をさまよう人間(盲流)”のひとりです。そういう意味では、ホンミャオと自分は境遇が似ていると思いました」

ここでいう“都市をさまよう人間(盲流)”とは、今回の映画祭の関連イベントでも上映された中国初のドキュメンタリー作品とされる『流浪北京 最後の夢想家たち』(1991)の世界につながる自己認識だと思われます。北京でアート表現に携わる人間の多くは、天安門事件当時の若い北京のアーチストたちの精神状況を描いたこの作品の登場人物と同様に、自らを“都市をさまよう人間(盲流)”とみなしているところがあるのでしょう。その意味で、少々カッコよすぎるとは思いますが、彼は自分の不安定な境遇を彼女と重ねているわけです。これもまあ理解はできます。

そして、この作品を撮るに至った理由について彼はこう説明します。

「中国における下層社会の住人は、この30年間の経済発展の代価を負わされている存在です。映像を通して代価を払わされている人たちの姿を記録することは重要な仕事だと考えています」

徐童監督に限らず、中国のドキュメンタリー作家たちが共通して語るこうした「公式見解」は、ちょっと優等生すぎて、「記録」するだけで本当に事足りるのか? 体制に日和見しているのではないか、と思わないではありません。下層の人たちの世界をいちばんよく知る彼らがそんな悠然とした態度であれば、社会は変わりようがないではないか、と思うからです。

しかし、そんな邪推も、彼らが作品化している舞台である北京周辺の郊外村やスラムを訪ねたり、「外地人」とつきあう機会が増えたりしていくうちに、ぼくにも少しずつ納得できるようになりました。それ以上のことを軽々と口にできるほど、中国は悠長な社会ではないからです。特権階層に限らず、この国の多くの知識階層も、中国はとても不安定な社会であることを自覚しているため、自分たちにはコントロール不能の社会変動につながりかねない「民主化」など、そんなに気安く口にすることはありません。そうした主張をする人たちもいるのは確かですが、それこそ「夢想家」と呼ばれかねないのではないでしょうか。

さて、『収穫(麦収)』という作品の最も驚嘆すべきところは、なぜこのような映像を撮ることが可能だったのか、でしょう。徐童監督はこんな風に説明します。

「ドキュメンタリーは真実そのものではない。つくられたものと考えるべきです。ただし、同時に現場にいて感じたことは真実といえる。私にとってカメラは決して冷たい機械ではありません。交流の道具なのです。私はホンミャオとその周辺にいる人たちすべてに対して、監督ではなく、友人のひとりとして付き合いました。そうした信頼関係があってこそ、撮影が可能となるのです」

当然のことですが、風俗嬢たちの日常を収めた長回しの映像の背後には常に徐童監督がいて、ビデオカメラを回し続けていたわけです。それが可能になる「信頼関係」というものは、日本のような国ではちょっと想像できないことで、もしかしたら中国においてもあと10年もすれば社会が成熟化して不可能になってしまうかもしれない、撮る側と撮られる側の間にある微妙で率直な関係性を唯一の成立条件としているように思えます。

こうした関係性による映像の成立条件に対する疑義が呈されたのが、香港「収穫(麦収)」事件です。2009年、この作品は日本をはじめ国内外のドキュメンタリー映画祭に出品されましたが、香港の映画祭会場において、性産業従事者のプライバシーを著しく侵害した作品として上映停止を求める運動が起こり、上映会場のスクリーンの前に横断幕が掲げられたといいます。

ここで問題となっているのは、このような映像が撮られたことではなく、上映することに対してで、同じ中華圏の香港やその後の台湾でも強い批判が起きたのです。日本をはじめ中華圏以外の国では所詮外国の話ということからか、作品の世界をどこかフィクションのように受け流すことができるのかもしれませんが、同じ中華圏で「民主化」を経た地域に暮らす人たちにとって、ホンミャオ個人の人権問題として物議を醸すことになったというのは興味深い話です。

要するに、「このような映像を撮られてしまった彼女の今後の人生にどんな悪い影響を与えることになるのか、監督は自覚しているのか。その場合、どう責任を取るのか」という主張です。これはこれでもっともな意見です。たいていの国では、こうした「人権意識」が常識としてあるゆえに、このような映像を撮ることがはばかられてしまうからです。

その件について徐童監督はこう語っています。

「私の作品を批判する社会運動家の人たちにも良心があることは私も理解しています。ただ登場人物の顔にモザイクをかけたからといって身元が割れないということでもありません。むしろ彼女らが風俗嬢ということで、決して社会の表に出ることのない存在として隠されるより、堂々と顔を出して生きるべきではないかと思うのです」

こうした「事件」を経て、『収穫(麦収)』はさすがに中国国内では上映しないこと。海外での上映は構わないけれど、すべて監督の了承を得たうえでなければならないという取り決めになったそうです。実際、この作品は中国のなんでもありの動画サイトでも観ることはできなくなっています。

おそらく徐童監督自身、撮影当時はもとより、上映にあたって「人権意識」が問われるようなことなど想定していなかったでしょう。香港の社会運動家が言うように、ホンミャオの将来への影響や責任など、考えてもみなかったに違いありません。そんなことまで自覚していたら、決して撮り続けることはできなくなったと思いますし、逆にそういう「人権意識」の持ち主が回すカメラであれば、ホンミャオの側も撮られることを拒絶したのではないか。そんな気がします。

風俗嬢とカメラマン、両者の間に取り交わされたある種の無頓着さからくる了解事項、そこにはお互いを対等に尊重する姿勢と関係性の相互承認があって、初めて『収穫(麦収)』の成立条件として機能したのだと思われますし、2000年代に入ってなお中国が「人権意識」の抜け落ちたような社会であることも、この奇跡的ともいえる記録映画の誕生に寄与することになったといえなくもありません。結果的に、オリンピック開催に象徴される中国の表向きの華やかさとは対極の世界を描いているようで、やはりこの作品にはどこか救いがあることも、2000年代という時代に撮られた作品らしい気がします。

こうした「事件」の複雑な経緯に触れたあと、徐童監督はこんなことを言っています。

「私とホンミャオはカメラを通してお互いの属する別世界を知ることになりました。このことが私たちにとっていちばん重要なことでした」

ちょっときれいごとすぎるもの言いに聞こえるかもしれませんが、徐童監督のホンミャオに対する終始一貫した態度によって、私たち観客も農民工という「別世界」を知ることになったのは確かです。この作品を通じて、都市で暮らす農民工たちが中国の成長の代価をいかに負わされているかという実相について、多くの知見を得ることができたのと同時に、彼らのしたたかさや強さを知ることができたのも、大きな収穫といえるでしょう。

ところで、この作品が撮られた3年後、ホンミャオは故郷で結婚し、娘が生まれたそうです。徐童監督は結婚式には顔を出さなかったそうですが、1000元の紅包(中国の祝い事の際、包むお金のこと)を彼女に送ったとのこと。中国人というのは、自分が出した金については、はっきり額を明かさないと気が済まないようですね(笑)。

最後に、この質疑応答中に起きたちょっとしたサプライズについて触れておきます。最初に監督と中山さんとひとりの中国女性が登壇したと書きましたが、この女性、なんと今回の映画祭の出品作『占い師(算命)』の登場人物のひとり、唐小雁さんだったのです。

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唐小雁さん

実は、『収穫(麦収)』の上映中、彼女はたまたまぼくの隣の席に座っていたのですが、独特の存在感のある女性でもありますし、そもそもどこかで見たことのある人だなとずっと気になっていたのです。それはそうでしょう。数日前にぼくは『占い師(算命)』を観ていたからです。撮影当時の彼女は、幸の薄そうな、これまた風俗嬢で、泣いたりわめいたり、警察につかまったりと(もちろんドキュメンタリーですから、事実です)、波乱万丈な人生を垣間見せてくれた当人です。その彼女が日本に来ているということにびっくりしました。このドキュメンタリー作品に出演したことで、彼女の人生は大きく変わったそうです。

半年後、北京で監督と唐小雁さんに再会することになるのですが、また後日報告します。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-17 16:52 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2013年 02月 13日

北京の風俗嬢と農民工生活区のすべて(中国インディペンデント映画祭2011 その6)

1年ぶりに中国の自主映画(中国独立电影)の作品について書きます。以下、「中国インディペンデント映画祭2011」の報告の続きです。
          
2011年12月9日、中国インディペンデント映画祭の関連イベントとして、武蔵野美術大学で開かれた徐童監督の「収穫(麦収)」の上映会に行きました。この作品は、第2回中国インディペンデント映画祭(2009)の出品作です。今回の出品作のひとつ、「占い師(算命)」と同じ監督の作品です。

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このドキュメンタリー作品のあらすじを語るには、ちょっと下世話な話から始めなければなりません。中国の床屋が、いわゆる風俗店として使われていることをご存知でしょうか。現地駐在の方や出張などで何度か中国の地方都市に足を運んだことのある人なら見たことがあるのではないかと思います。見た目はただのうらぶれた床屋ですが、窓越しに中を覗くと、なにやらケバケバしい女たちが何人も腰かけていて、目でも合おうものなら手招きされそうな妖しい雰囲気がある。そこは地方出身者と都市の下層階級向けの風俗施設というわけです。

北京などの大都市でも、中心部から車で10分も走れば姿を現わす、地方からの出稼ぎ労働者たちが暮らす居住区(「農民工生活区」といいます)にはたいていどこにでもあります。そんな風俗床屋で働く20歳の娘がこの作品の主人公です。

彼女の名はホンミャオ(仮名)。細くつりあがった瞳、平たい顔と低い鼻、決して器量よしというタイプではないのですが、まだあどけなさの残る屈託のない表情と、農民工によく見られる気の強さが彼女の中に同居しています。見た目でいうと、そんな商売に身をやつしているとは思えない子です。出身は北京の南方約90キロの場所にある河北省定興県閻家営村。北京市西南のはずれにある「農民工生活区」に暮らし、東南のはずれにある店に「上班(通勤)」しています。

話は、彼女が河北省の実家に帰省し、父親と会うシーンから始まります。父親は病気のため点滴を受けながらオンドルに横たわっています。彼女は父親に北京の市場で買ったポロシャツをお土産として渡します。それから家族みんなで卓を囲んで食事をします。

そんなのどかな農民一家の団欒風景から一転して場面は天安門広場になり、けたたましいサイレンの音が響き渡ります。この作品が撮られたのは2008年。撮影期間中に起きた5月12日の四川大地震直後の被災者への黙祷シーンがさりげなく挿入されています。つまり、この話は世界中から注目された北京オリンピック開催と同じ年に起きている出来事だということを伝えようとしています。

さて、作品ではホンミャオの私生活のいっさいが次々と公開されます。彼女の仕事や友情、恋愛、家族との関係など、こんなに何もかもさらしてしまって大丈夫なのか、と心配してしまうほどの赤裸々さです。ところが、曇りのない彼女のキャラクターがなせるわざというべきか、決して賤業に身をやつしているというようなじめじめしたところはなく、ある種のすがすがしさすら観客に感じさせるところがあり、これは驚くべきことに違いありません。

「ホンミャオの生活圏」として、作品中に登場する場所を書き出してみました。彼女は北京市南部にある生活圏と実家のある河北省定興県閻家営村をこの1年のうち何回か往復しています。
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ホンミャオの北京の部屋は、豊台区の「農民工生活区」にあります。北京と広州を結ぶ京広線の線路のすぐ脇、レンガ塀一枚で隔てただけの場所にあるため、騒音が相当激しそうな環境です。北京では一般に「東富西貴北賎南貧」といいますが、ここはその「南貧」に位置しており、結局のところ、彼女は多くの「農民工生活区」の住人たちがそうであるように、北京中心部の高層ビル群が並ぶ世界に自ら足を運び、越境していくことはまずありません。彼女ら「外地人」は、空間的にも北京生まれの都市戸籍者たちとはまったく分断された生活圏を生きているといえます。

オンドルが中心を占める彼女の小さな部屋には、テレビと衣装棚とわずかな家財道具があるだけですが、女の子らしくクマのぬいぐるみが置かれていたりします。同じ農民工の彼氏と携帯でおしゃべりするのもオンドルの上です。

彼女の「職場」は、朝陽区高西店の風俗床屋です。昼下がり、彼女と同じく地方出身である同僚の女たちは昨晩相手をした、たちの悪い客に悪態をついています。「河北省出身の17歳の処女が1万元で買われたが、そのうち彼女の手元に残るのは7000元だ」などという噂話も、姉御風の同僚が訳知り顔で話しています。

この作品では、彼女らの「職場」の風景が、あきれるほどの率直さで日常的に映し撮られています。女たちは床屋の中の長椅子に座って客が現れるのをひたすら待っているのですが、ひまなときには音楽を聴きながら踊ってみたり、みんなで食事をしたり……。徐童監督は彼女らと同じ場所にいて、その姿を長回しで収めているわけです。

これだけで十分興味深い光景ですが、さらに面白いのは、さまざまな登場人物の姿を通じて、彼女らの「職場」の外に広がる農民工の多様な日常が映し出されていることです。

ホンミャオには農民工の彼氏がいます。彼は建築現場で巨大なクレーンを扱う仕事をしていて、休日に彼女を現場に連れていき、自分の仕事がいかに大変か自慢げに語ります。こういういじらしい感じは、若き日の吉永小百合の主演映画『キューポラのある街』(1962年)みたいです。ただし、前述したように、いまの北京にはそこから車で10分ほどの場所に高層ビル群が林立している別世界があるという現実があります。よくいわれるように、中国にはいくつもの「時代」がモザイクのようにバラバラに折り重なりながら共時的に存在しているのです(もちろん、その「時代」というのは、我々先進国がこれまで経てきた時間軸の括りを便宜上そう呼んでいるにすぎないのかもしれませんが)。

農民工カップルのふたりは、中国の消費時代の申し子とされる都会生まれの「80后」と同年代の若者ですが、三里屯あたりのおしゃれなカフェやレストランには縁がなさそうです。夜のデートは屋台の食事が定番。そこには、いろんな年代の地方出身者たちが集まっていて、世代を超えた会話が繰り広げられています。ランプの明かりに照らされた彼らの表情はリラックスしていて、和気あいあいとしています。

風俗店の老板(経営者)は江西省出身の女性で、ある日彼女の誕生日を店の女の子と一緒に祝うことになりました。彼女の自宅にはなかなか男前の愛人がいて、料理も上手です。食事をすませると、みんなでKTVに行きます。そこは、彼女らと同じ地方出身の若いホストのいる店です。一晩のチップは100元。ホンミャオも遊びと割り切っているのでしょう。お気に入りのホストのひざの上に乗ってカラオケを歌っています。そして今日の主役、老板が歌うのは、テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』。ああ、なんという場末感。しかし、彼女たちにとってこの時間がどれほど気晴らしになっているのか、よく伝わってくる光景です。

こうして同僚や男友達にも恵まれたホンミャオは、北京でそれなりに楽しく毎日を過ごしているようです。おしゃれしたい年頃ですから、「農民工生活区」にある小さなネイルサロンに行ったりもします。しかし、直接的ではないものの、彼女の職業の内実を暗示するいくつかのシーンも挿入されています。たとえば、彼女がある検査のため病院に通う冒頭のシーンがそうです。検査の結果は問題がなかったことを彼氏と一緒に喜ぶ姿も映されていますが、性病の懸念を彼女がずっと抱えていることがわかります。また、北京で最初に働いた風俗床屋のあった場所を訪ねると、そこは当局によって閉鎖されており、近所の人の話では、老板は懲役5年の刑に服していることを知らされます。北京における彼女自身も、いかにあやうい存在であるかがわかります。

そのうえ、実家の父親が深刻な病気を罹っており、彼女はその治療費を負担しているのです。家族への送金のために双井郵便局に行くシーンもありますが、別の日には手術のために父親が入院した河北省保定市の第一中心医院の病室を見舞いで訪ね、母親に3000元を手渡します。すると、母親はそのうち200元をそっと娘に返しました。

中国では、金勘定は現ナマを第三者に見せないと意味がありません。そもそもなぜ3000元を渡したかわかったかというと、母親が娘から渡された100元札の束を数えるシーンを見ながら、ぼくが枚数をカウントしたからです。カウントできるほど他者にはっきり見せてこそ、親を扶助する孝行娘とその母という関係性が表ざたになるわけで、母娘ともに「面子」が立つというわけです。しかも、いったん娘からもらった金の一部を返すことで、母親の「面子」も維持される。金銭をめぐるこうしたやりとりも、彼らにとって「面子」に関わる重要な行為といえます。外国人からすると一瞬違和感を覚えるような光景ですが、徐童監督はこうしたなにげない、いかにも中国的な親と子のリアルな情愛を感じさせるシーンをしっかり収めています。

さてそのころ、彼女の実家では、麦の収穫の季節を迎えていました。実家の外には、すっかりコムギ色に染まった麦畑が広がっています。北京の「農民工生活区」や風俗床屋の世界をさんざん見せられてきた観客にとって、ハッと胸を打たれる光景です。旧式のコンバインが音を立てて麦を刈り取っていきます。

ホンミャオは農民の娘です。病気の父親に代わって刈り取った麦の籾殻を庭先で分けたり、収穫のすんだ土地にトウモロコシの種を蒔いたりするのは彼女の仕事です。

そんな農作業に明け暮れる彼女も、実家の部屋に戻ると、北京の彼氏からの電話を受けるのですが、なんと彼氏の浮気がばれてしまいます。しかも、その相手は同僚の女友達だったことが判明し、彼女は涙にくれます。そして、心を痛めた彼女は寝込んでしまいます。

こうして実家のオンドルの上であられもない寝姿をカメラにさらしたまま、長い沈黙のあと、彼女はカメラマン兼監督である徐童に向かって言います。

「拍不拍了?(もう撮るの撮らないの?)」

映像は暗転。テレサ・テンの『阿里山的姑娘』が流れ、唐突にエンドロールを迎えます。

「終幕」。

……とまあこんなストーリーです。

ひとことでいえば、北京の底辺を生きる若い女性、しかも風俗嬢である農民工の私生活をビデオカメラで延々撮り続けるという、常識で考えれば、よくこんなことが可能だったなあと半ば呆れつつも、驚かざるを得ない作品です。

なぜ徐童監督がこの作品を撮るに至ったか、またなぜこのような映像を撮ることができたのかについては、上映後に監督に対する会場からの質疑応答があったので、次回紹介します。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-13 11:57 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)