ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2017年 10月 05日

大鵬以外にもいるポロナイスク(敷香)と縁のある日本人の話(間宮林蔵、鳥居龍蔵、馬場脩、林芙美子)

昭和の人気力士、横綱大鵬(本名・納谷幸喜)は昭和15年(1940年)当時日本領だった樺太の敷香町、現在のポロナイスクで、ロシア革命後に樺太に亡命したというウクライナ人の父と日本人の母の間に生まれています。
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大鵬の公式サイトによると、この銅像が建てられたのは、2014年8月15日のことでした。

第四十八代横綱大鵬オフィシャルサイト
http://www.taiho-yokozuna.com/profile/index.html
元横綱大鵬、銅像で「里帰り」 生誕地サハリンで除幕式(日本経済新聞2014/8/15)
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG15025_V10C14A8CR8000/
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銅像が置かれているのは、以前大鵬が両親と一緒に住んでいた家があった場所です。

この町と縁のある日本人はほかにもいます。それが誰かを知るには、ポロナイスク郷土博物館を訪ねると、わかります。
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この地域の博物学の発展に貢献した人物の顔が、博物館の入口に石版印刷されて並んでいるのですが、その中に日本人が3名います。

間宮林蔵、鳥居龍蔵、馬場脩です。
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間宮林蔵(1780-1844)は、江戸後期の探検家で、樺太が島であることを発見したことから、間宮海峡の名が付いたことで知られています。彼はその後、アイヌの従者を雇い、対岸のアムール河口に渡り、清国やロシアの東進の動向を探索しています。そのとき、オロッコ、ニブフなどのアイヌ以外の先住民と出会っており、その記録は『東韃地方紀行』として残されています。
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鳥居龍蔵(1870-1953)は、明治生まれの人類学者で、戦前の日本の北東アジアへの勢力拡大の中で、現在の中国東北部、台湾、中国西南部、モンゴル、朝鮮半島、ロシアのシベリア、そして千島列島や樺太の調査を行いました。

ネットをなにげに検索していたら、考古学者で元徳島大学教授の東潮先生が書かれた以下の論文が見つかりました。樺太をはじめとした鳥居龍蔵の調査地のいくつかを、東潮先生が実際に訪ね、いまから100年近く前の鳥居の調査記録と現在の姿を重ねて報告しています。とてもリアルで面白い論文でした。

「鳥居龍蔵のアジア踏査行一中国西南・大興安嶺・黒龍江(アムーノレ川1)・樺太(サハリン)-」(徳島大学総合科学部人聞社会文化研究(17巻(2009) 65-164)

徳島県鳥居龍蔵記念博物館
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/torii/default.htm

3人目はアイヌ研究で知られた考古学者の馬場脩(1892-1979)です。
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自分はこの方面に詳しくないため、この人だけは知らなかったので、帰国して調べてみました。

馬場脩(はこだて人物誌)
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/b_jimbutsu/baba_osa.htm

いずれにせよ、大鵬も含め、これら4名は地元公認の日本人というわけです。

地元では知られていませんが、作家の林芙美子は昭和9年(1934年)6月、樺太を旅行し、「樺太への旅」という紀行文を書いています。彼女は当時の日本領の最北の地に近い敷香まで来て、国境見物に行くか、敷香の近くにある先住民の暮らす集落を訪ねるか迷っていましたが、結局、先住民に会いに行くことに決めました。

※「樺太への旅」は岩波文庫の『下駄で歩いた巴里』に収録。

先住民の集落は「オタスの杜」と呼ばれた場所で、そこにはニブフ(ギリヤーク)やウィルタ(オロッコ)、エヴェンキ(キーリン)、ウリチ(サンダー)、ヤクートなどの先住民が集められ、日本語教育が行われていました。

林芙美子はオタスの小学校を見学したときの様子を以下のように書いています。

「やがて子供の歌声がきこえてきました。私は無礼な侵入者として、授業中の教室を廊下の方からのぞいて見ました。教室は一部屋で、生徒は、一年生から六年生までいっしょで、大きい子供も小さい子供も大きく唇を開けて歌っています。金属型の声なので、何を歌っているのか判りませんが、音楽的でさわやかです。台所から出て来たような、太った女の先生が素足でオルガンを弾いていました」

「やがて校長先生は子供たちの図画を取り出して来て見せてくれましたが、皆、子供の名前が面白い。「オロッコ女十一才、花子」「ギリヤーク女八才、モモ子」などと書いてあるのです。描かれているものは、馴鹿だとか熊の絵が多いのですが、風景を描かないのはこの地方が茫漠としたツンドラ地帯で、子供の眼にも、風景を描く気にならないのだと思います」

これは今回ぼくが訪ねたポロナイスク郷土博物館やノグリキ郷土博物館で見た光景とつながる話でした。いまの先住民の子供たちは、きっとロシア人風の名前なのでしょうね。
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ノグリキ郷土博物館で知るサハリン北部に住んでいた先住民族たち
http://inbound.exblog.jp/27122360/

当時先住民たちは日本人と隔離され、「土人」と呼ばれていました。林芙美子も「土人」と書いています。現代の感覚でこれを批判するのはたやすいことですが、彼女は先住民の子供たちを優しいまなざしで見つめています。

そして、こんなことも書いています。

「このオタスの草原の風景は、妙に哀切で愉しい。私はここまで来て、一切何も彼も忘れ果てる気持ちでした」

彼女にとって樺太の旅で過ごした時間のうち、敷香でのオタスの杜訪問がいちばん好ましいものと感じられたようです。

「樺太への旅」という紀行エッセイは短いものですが、林芙美子がいう「妙に哀切で愉しい」この土地の印象は、時代を超えて、よくわかるような気がします。
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by sanyo-kansatu | 2017-10-05 13:58 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)
2017年 10月 05日

「巨人・大鵬・卵焼き」の大鵬が生まれたポロナイスクで昭和の時代を思う

ユジノサハリンスクから北へ288km、サハリン中南部の東海岸にある港町のポロナイスクは、戦前まで「敷香(しすか)」と呼ばれていました。

サハリン南部を日本が領有していたこの時期、敷香は北緯50度線の国境に近い町でした。

今年6月中旬、この町を訪ねたのですが、あいにく午後になってもオホーツクの海霧に覆われていて、ずいぶんさびしい土地のように見えました。さらに北にあるノグリキでは好天に恵まれたのですが、天気はその土地の印象をまったく変えてしまいます。

この町はポロナイ川の河口にあります。河口を訪ねると、まさしく北海の港です。
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海岸を歩いていると、小さな男の子がいました。
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地元の家族連れのようです。このあたりの住民は純粋なロシア人ではなく、先住民との混血の人も多そうです。
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ひとりの男性がバイクに乗って近づいてきて、この港でとれたマスでしょうか、手で高く掲げて見せてくれました。彼は「トヨタ、ホンダ…」と叫んでいました。
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昭和9年(1934年)にこの地を訪ねた林芙美子は、紀行文「樺太への旅」の中で、海岸線を散歩していると、先住民が幌内川の河口でマスをとっていて、「一尾五十銭」で買い、宿で調理してもらって食べたこと、「紅身が一枚々々刺身のようにほぐれて薄味で美味」だったとその感想を書いています。

車に乗って海岸線を走りました。
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鉄道は港まで延びています。あまり利用されていないようです。
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これは港の近くの水産加工工場です。
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この町には戦前から王子製紙の工場があり、現在は操業していないのですが、工場までの引込み線が残っています。現在のポロナイスク駅は町のはずれにありますが、少し前までは工場に近い町中にありました。
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カメラマンの佐藤憲一さんがふと自分が昔乗っていたのと同じ車種のランドクルーザーを見つけて、思わず記念撮影。「いま日本ではこの車種はもうほとんど見つからないんじゃないかな…」。そういう車が普通に走っているのがサハリンの田舎町です。
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この町と縁のある日本人の話は別の機会に書きましたが、敷香は1960年代当時の子供に人気の代名詞「巨人・大鵬・卵焼き」で知られる人気力士の大鵬が生まれていて、なんと銅像が建っています。お相撲さんだけに、裸の銅像なのは仕方がないのかもしれませんが、これもかなりさびしげな光景で、ふつうの住宅街の中にあります。

大鵬以外にもいるポロナイスク(敷香)と縁のある日本人の話(間宮林蔵、鳥居龍蔵、馬場脩、林芙美子)
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この町でもコリア系の人たちによく会いました。
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結局、日が暮れるとすることもないので、町はずれのレストランでずっと時間をつぶした話はすでに書いたとおりです。そこでは元気な地元のお母さんや子供たちの様子を見物することになりました。
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ポロナイスクで食べたスモークサーモンと韓国チゲ風ボルシチの不思議な夜
http://inbound.exblog.jp/27110639/

夜10時半を過ぎたので、レストランを出て駅に向かう途中、団地を横に見ながら歩きました。古い団地の前に駐車されているのは、日本車だらけです。
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ロシアの田舎町で見かける団地のシルエットや窓からもれる明かりは、高度経済成長が始まった頃の、まだそんなに豊かではなかった昭和の時代を思い起こさせるところがあります。なにしろここは当時のヒーロー、「北海の白熊」と呼ばれていた大鵬が生まれた町なのです。
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by sanyo-kansatu | 2017-10-05 09:48 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)
2017年 10月 05日

083 礼拝が行われているハルビンの教会

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ハルビンには東方正教系の教会がいくつもあるが、1935年に建てられたアレクセイエフ教会は、現在ハルビン天主堂と呼ばれている。20数年前に訪ねたとき、この教会の鐘は外され、地面に置かれていたが、いまはミサが行われている。地元のおじさんたちの憩いの場でもある。(撮影/2014年7月)

※ミサといっても、ロシア正教ではなく、中国政府が管理するキリスト教です。このような教会は中国各地にあり、中国語の牧師が中国語でミサを行っています。都市部だけでなく、農村でもキリスト教はけっこう根を張っています。

ボーダーツーリズム(国境観光)を楽しもう(ハルビン編)
http://border-tourism.jp/haerbin/
Facebook:ボーダーツーリズム(国境観光)を楽しもう
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by sanyo-kansatu | 2017-10-05 08:57 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2017年 10月 04日

制裁のさなか、なぜ中国は北朝鮮と結ぶ新しい橋を建設するのか

先日、中国吉林省延辺朝鮮族自治州の延吉に住む友人から1枚の写真が届きました。
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これは中朝国境の町、図們で対岸の北朝鮮の南陽と結ぶ新しい橋を建設している光景です。写真の左手が日本時代の1941年に造られた図們大橋、右手が現在建設中の新橋です。旧橋が老朽化したのと、トラック1台しか走れない幅なので、もっと物流を増やせるように対面で2台が走れるような大きな橋になるそうです。再来年に完成の予定だとか。

この国境については、いまぼくが連載しているForbesJapanのサイトでささやかなレポートを書いています。

草むらには目を光らす北朝鮮兵、遊覧ボートから見る中朝国境の今(ForbesJapan2017/08/30)
https://forbesjapan.com/articles/detail/17498

実は、1ヵ月前に友人が送ってくれた写真をこのレポートに載せたのですが、最近あらたに撮ったという写真が届いたのです。

これをみると、いろんな発見があります。

まずこの写真は、高い場所から撮られていますが、図們大橋の手前にある国門の上からのものでしょう。そこは展望台になっているんです。

さらに気づくのは、図們江の水量がずいぶん少ないことです。今年北朝鮮は干ばつと聞いていた話がうなづける光景です。

すでに細い橋が朝鮮側とつながっているようですが、あくまで工事用の臨時橋で、その手前が建設中の橋の土台です。

朝鮮側をみると、昨年夏の大水後、急ピッチで建てられた南陽の集合住宅がたくさん見えます。今夏は雨が少なかったこの地域も、昨年は大雨で朝鮮側に限り、多くの人命が失われました。

しかし、被災後の南陽の復旧のスピードは早く、あっという間にこのようなピンク色の団地が建ち、古い町並みを隠してしまったのでした。
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今夏の大雨で北朝鮮・南陽のまちの景観は大きく変わりました (2016年 12月 10日)
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中朝国境は、いまも少しずつですが、変わろうとしています。

写真を送ってくれた友人によると、核実験が行われた9月3日、これまでにない大きな揺れを感じたそうです。また8月中旬に中国商務部からの指示で、中朝国境西側の最大の物流ルートだった琿春・圏河税関で北朝鮮産海産物は輸入禁止となり、業者たちは当分再開はないだろうと話しているそうです。

では、国際社会が制裁を行うさなか、なぜ中国は北朝鮮と結ぶ新しい橋を建設するのでしょうか。

この国境を何度も訪ね、両国に暮らす人たちの様子を眺めてきたぼくがいえるのは「そこが国境だから」というものです。身もふたもない言い方ですが、中国からすれば、いまが非常事態だとはいえ、いずれは収まるもの。この2000年間ずっとそうだったように、隣り合った国との交流はこの先もずっと続くわけですから。

すでに2014年、中国は遼寧省の丹東にこんなに大きな橋を造り、莫大な投資をしているのに、すでにこの3年、放置されたまま、開通していません。投資をまったく回収できていないのです。
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中朝新国境橋が完成しても開通できない理由(2014年 12月 30日)
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しかし、中国側のこうした気の長い意図ですら、現在の頑な北朝鮮のリーダーにとっては、素直に受け取れるものではないのでしょう。むしろ逆効果なのかもしれません。彼は周辺の大国からも畏れられるリーダーとして対等に扱われたいのでしょうから。まるで「裸の王様」ですが、いつまでこんなことが続くとも思えません。図們新橋が完成する再来年には、もうコトが収まっているだろう。中国側は、そんな気構えでいるのではないでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2017-10-04 17:21 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2017年 10月 04日

082 ハルビンのシンボル、聖ソフィア大聖堂

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ハルビン生まれの若いカップルが寄り添い見上げる、ネギ坊主型のドーム屋根にレンガの外壁。かつてのロシア正教会の寺院、聖ソフィア大聖堂はハルビンのシンボルだ。建設は1907年からで、完成したのは1932年。現在は、ハルビンの歴史博物館となって、宗教施設としては使われていない。(撮影/2014年7月)

※ここ本当に中国? と思うかもしれません。戦前はこの町に日本人も多く住んでいました。

ボーダーツーリズム(国境観光)を楽しもう(ハルビン編)
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by sanyo-kansatu | 2017-10-04 09:22 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2017年 09月 29日

樺太時代をいまに伝えるサハリン州郷土博物館

サハリンが樺太と呼ばれていた時代が確かにあったことをいまに伝えるシンボルともいうべき場所がサハリン州郷土博物館です。

この威風堂々とした建物は、昭和12年(1937)に樺太庁博物館として建てられました。当時流行していた「帝冠様式」を採用したもので、建築家の貝塚義雄が設計しています。
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同館の沿革は、サハリン北部のロシア人の最初の居留地のひとつ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーにあった国境警備所に1896年に設置された博物館から始まります。その後、1905年に南樺太が日本の勢力下になり、17年に旧博物館を開館。37年に現在の建物に移され、樺太庁博物館となります。展示品は、樺太の動植物や鉱物、考古学、先住民族の民俗などの資料でしたが、日本の敗戦後の46年にソ連の手に渡り、今日に至っています。

樺太庁博物館時代については、国立国会図書館デジタルコレクションの中に、日本が独自に蒐集した旧博物館の展示品などが解説される「樺太庁博物館案内」(昭和8)があり、興味深い内容となっています。

樺太庁博物館案内」(昭和8)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118555

今年6月、現在の博物館を訪ねると、地元ロシア人の子供たちが大勢見学に来ていました。
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館内の展示は以下のとおりです。

●地下1階
地質学
極東 海の生物
●1階
サハリンの植物や動物
特設展示会場
古代文化と先住民族
深海生物の世界
●2階
サハリン島と千島列島の発見と開発
ロシアの懲役徒刑地とされたサハリン
戦前の時代(日本統治時代)から第二次世界大戦まで
戦後期、現代のサハリン
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以下、ざっと見て回りましょう。

地下1階には、アンモナイトなどのサハリンの地質学資料や周辺の海洋に生息する動物たちの生態を解説する展示があります。古代動物や海龍の骨のレプリカなども。
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1階には、サハリンの動植物を展示するコーナーがあります。見学に来た地元の子供たちが海ガメを熱心にスケッチしていました。
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サハリンには珍しい蝶がいっぱいいるそうで、日本の研究家もこの地をよく訪れています。朝日純一さんの『原色図鑑 サハリンの蝶』(北海道新聞社 1999)はサハリンの蝶類93種を収録しています。
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1階には、サハリンの先住民族の展示もあります。サハリン南部や北海道、千島列島(クリル諸島)に住んでいたアイヌや、中部にいたトナカイを飼うウイルタ(オロック)やエヴェンキ、北部にいた狩猟民のニブフなどの衣服や生活道具、狩猟用具などがあります。この展示はニブフの衣装などを展示したもので、中国の清朝を起こした女真族の衣装と似ているのがぼくにはどうしても気になってしまいます。
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アイヌの衣装には動物の皮や植物の内皮、木綿などを素材にした3つのタイプがあるそうで、一目でわかる独特のデザインが魅力的です。この博物館は、日本時代の樺太庁博物館を継承しているため、南樺太に多く住んでいたアイヌの資料は、日本時代に蒐集されたものが多いと思われます。
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同館が収蔵する代表的なコレクションのひとつが、アイヌの挂甲(古代鎧)です。日本では古墳などで発掘されていますが、同館のサイトでは「アゴヒゲアザラシ皮を利用して作った桂甲です。この桂甲は1930年代、多来加湖(ネフスコエ湖)付近に暮らしていたアイヌ村長の家で見つかりました」とあります。
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サハリンに住んでいた先住民族たちにとって、非日常的な世界と交信し、ときに予言やご託宣、治療などを行うシャーマンは大切な存在でした。これはサハリンの先住民族みならず、北東アジアの女真族、モンゴル族などにも共通しています。
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2階に上がると「サハリン島と千島列島の発見と開発」の部屋があります。時代は18世紀、日本人とロシア人がこの地域を探検しています。間宮林蔵はロシアでも有名だそうです。
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その後、ロシア船は交易を求めて日本近海に現れます。江戸幕府が下田でペリーとの交渉を通じて日米和親条約を締結した1854年の12月、ロシア使節海軍中将プチャーチンとの交渉の末、日露和親条約を調印しています。
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そして、この部屋は日露戦争後、1905年に南樺太を日本が領有してから敗戦に至る45年に至るまでの「日本時代」の展示です。
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当時の暮らしを物語る展示があります。
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これが北緯50度の日ソ国境にあった標石のレプリカです。
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サハリン北緯50度線、日ソまぼろしの国境標石跡を訪ねる
http://inbound.exblog.jp/27114498/

裏面はロシア語です。
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この時代、南樺太と千島列島、そして朝鮮半島は日本の領土でした。
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博物館の庭に、なぜか日露戦争時代の高射砲が置かれていました。
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ぼくはこれまで中国で多くの歴史博物館を観てきましたが、ロシアと中国の展示に違いがあることを強く感じます。どの国の歴史展示にも政治的な意図が含まれることは避けられないにしても、中国のような日本に対する憎悪は感じられないことです。

サハリン州郷土博物館(Сахали́нский государственный областно́й краеве́дческий музе́й)
http://jp.sakhalinmuseum.ru/

※サハリンには鉄道博物館もあり、こちらも面白いです。

日本人としてぜひ訪ねておきたいサハリン鉄道博物館
http://inbound.exblog.jp/27172862/
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by sanyo-kansatu | 2017-09-29 17:30 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)
2017年 09月 29日

日本人としてぜひ訪ねておきたいサハリン鉄道博物館

ユジノサハリンスクにはいくつもの博物館がありますが、駅の近くにあるサハリン鉄道博物館は、日本人としてぜひ訪ねておきたい場所だと思います。

樺太時代をいまに伝えるサハリン州郷土博物館
http://inbound.exblog.jp/27174994/
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展示室は3つに分かれているのですが、まず目に飛び込んでくるのは、樺太時代の鉄道に関する部屋です。戦前の日本で流行した樺太の鳥瞰図が目を引きます。
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樺太時代の鉄道関連の資料が並べられています。
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ロシア語で書かれているので判読できませんが、サハリンの鉄道の歴史に関する展示もあります。写真に出てくるのは日本人の顔ばかりなので、樺太時代の話だと思われます。
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2つめの部屋は、ソ連時代の鉄道に関する展示です。こちらはさすがに豊富な資料があります。
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3つ目の部屋は、サハリンの鉄道を中心にした書籍や資料、地図が展示されています。日本時代の書籍もあるようです。
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館内はそれほど広くないのですが、展示を見て回っていると、ひとりのロシア人の男性が近づいてきました。この博物館の館長のアンドレイ・ニコラエヴィチ・チリキンさんです。
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ぼくはロシア語が話せず、館長さんは英語ができないことから、ほとんど具体的なコミュニケーションはできてはいないのですが、とにかく彼は日本人が来訪したことを心からうれしく思ったようで、館内をすみずみまで案内してくれるだけでなく、日本時代の樺太の写真を彼のPCからいろいろ見せてくれました。
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これはユジノサハリンスクの空中写真です。
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こちらは豊原駅(現ユジノサハリンスク駅)とありますが、初期の駅舎のようです。
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その後新しくなった豊原駅です。
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落合(現ドリンスク)にあった回転台です。
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その回転台の上に蒸気機関車が載っています。
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ぼく自身はサハリンの歴史についてもそうだし、鉄道に詳しいわけでもないので、館長さんにとっては物足りない相手だったに違いありませんが、彼は日本人との交流を望んでいるように思いました。

後日、サハリン在住の知人が同館を訪ねてくれたのですが、アンドレイさんの名刺には「上級学芸員」と書いてあったそうで、聞けばこの博物館は彼が実質的にひとりで現場を任されているそうです。そのため、冬にはスコップを手に階段周りの除雪までやっているとか…。まあそういう意味で、実質的な館長さんというわけです。

その知人はいいます。「サハリンの鉄道の歴史は、南部では樺太時代に日本人が建設した鉄道が起こりになっている側面があります。そんなこともあり、日本から訪ねてきた旅行者に対して熱烈歓迎になったのだと察します」。

博物館の外の駅北側の線路沿いには鉄道車両展示場もあります。以下のサイトが写真入りで細かく紹介しています。

鉄道車両展示場
http://ekinavi-net.jp/sakhalin/sights/railway.html
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サハリン鉄道歴史博物館 (Музей Сахалинской Жулузной Дщроги)
Vokzalnaya Ulista 55
開館 月~金曜日 9時~18時(12時~13時休憩)
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by sanyo-kansatu | 2017-09-29 10:34 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)
2017年 09月 28日

日本時代の記憶が懐かしいサハリンで購入した写真集

今年6月、サハリンに行った話を知り合いや友人にしたら、ご両親や祖父母、親戚が樺太に住んでいたという人が何人かいました。

現地で購入したこの本は、日本時代と現代の同じ場所の写真を見開きごとに並べた写真集です。ぼく自身はロシア語に不自由しているので、よくわからないところもあるのですが、当時の記憶のある方に見せたらきっと懐かしく思うのではないでしょうか。
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この写真集の話をサハリン在住の日本の方にしたところ、「2010年頃に発行された、樺太時代やソ連時代の1950年代あたりの写真に現在の写真を並べたというモノはみたことがあります。『ソ連時代』といっても、1950年代であれば、樺太時代の最後の時期とそれほど変わらない程度に古いわけで、現在とはかなり様子が違うことに驚きます」とのこと。

「当時を知る日本人によると、樺太時代には集落があったのに、現在では路傍に“ソ連化”以降の地名の標識があるばかりという場所も多いです。

これは考えてみれば、“50度線”以南で人口40万人だった昭和10年代の状態が、今日以北も含めて40数万人と人口密度が昔に比べてかなり低くなっているので無理のないことだと思います」。

写真集のページを少しめくってみましょう。

これは旧王子豊原製紙工場です。工場の前に大量の材木が並べられています。
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これは旧豊原駅です。現在のユジノサハリンスク駅のビルがある場所とは違い、駅に向かって若干右手にあったそうです。
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当時の日本人が通った学校の写真もいくつかあります。
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この写真集を眺めていると、中国東北地方、すなはち満洲国と呼ばれた時代の日本人の暮らしや建築を収めた写真集が、日本と中国で大量に発行されていたことを思い出します。本ブログでも、そのほんの一部にすぎませんが、当時の日本とゆかりのある場所を紹介しています。

これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう【昭和のフォルム 大連◆校舎①】
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大連の女学校の最後の同窓会が開かれたそうです【昭和のフォルム 大連◆校舎②】
http://inbound.exblog.jp/20566915/
自分の故郷が永遠に失われたという感覚【昭和のフォルム 大連◆校舎③】
http://inbound.exblog.jp/20573243/
当時こんなにいろいろあった専門学校【昭和のフォルム 大連◆校舎④】
http://inbound.exblog.jp/20573887/

中国東北地方の場合、日本人が多く訪れるようになったのは、日中国交回復後、中国で改革開放が始まった1980年代半ば以降ですが、樺太の場合は、ソ連崩壊後の1990年代以降です。今回サハリンを訪ね、日本の関係者らと話をしていると、90年代以降、多くの日本人が樺太時代の記憶を求めてサハリンを訪れていたことをあらためて知りました。

中国で発行されたこの種の写真集の背後に政治的な意図が感じられるのに対し(なぜなら、その多くは日本語だからです)、サハリンで発行されたこの写真集は、ロシア人自身のためにつくられたものだと思われます。デザインからもそうですが、懐旧の念に温もりを感じるからです。

奥付をみると、この写真集は今年出版されたばかりのようで、まだあまり知られていないと思います。もしご興味のある方がいたら、お貸しします。そのほうがきっと役立つでしょう。ご連絡ください。そして、写真の場所が現在のどこであるかなど、教えていただけるとうれしいです。
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by sanyo-kansatu | 2017-09-28 09:32 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)
2017年 09月 18日

ノグリキ郷土博物館で知るサハリン北部に住んでいた先住民族たち

ノグリキは小さな町ですが、かつてサハリン北部に多く住んでいたニブフ(ギリヤーク)やウイルタ(オロッコ)、エヴェンキなどの先住民族たちの暮らしや歴史を展示する郷土博物館があります。場所は1番バスの終点です。

サハリン鉄道終点の町、ノグリキのなんてことのない歩き方
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そこには、彼ら先住民族の生活道具や衣服、祭祀に使う道具などが展示されています。ただし、北部にはアイヌは住んでいなかったので、彼らの展示はありません。
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サハリン州郷土博物館でもそうでしたが、ノグリキ郷土博物館にも地元の子供たちが見学に来ていました。先住民の女性が展示の解説をしてくれます。ノグリキにはニブフを中心に多くの先住民族が住んでいるそうです。
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サハリン北部に生息する動植物のささやかな展示コーナーもあります。子供たちがクマのはく製と対面したり、キツネや野鳥類、サケ、マスといった魚類の展示もあります。
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館長は先住民の女性で、館内を親切に案内してくれました。これは雪道を走るそり。館長は日本の研究者との交流もあるようで、日本語の学術資料も見せていただきました。
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鮮やかなブルーの衣服はニブヒのもので、彼らが身につけていた装飾品などと一緒にガラスのケースに展示されています。彼らはサハリン中部から北部、そして対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイド系の狩猟民族で、古くはギリヤーク(ロシア語)と呼ばれていました。彼らの話す固有の言語はニヴフ語で、ツングース系のアイヌ語とはまったく違うそうです。これは個人的な印象に過ぎませんが、衣服のデザインが清朝を興した女真族のものとあまりに似ていて、民族的なつながりを感じてしまいます。
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トナカイを飼う遊牧の民、ウィルタは毛皮を使った衣装を身につけていました。彼らはサハリン中部以北に住んでいたツングース系民族で、アイヌからはオロッコ と呼ばれていました。
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冬は動物を狩猟、夏は魚を漁猟する移動生活が基本。同じ先住民族でも、これほど衣装が違うのかと驚いてしまいます。またサハリン北部には、中国東北部やロシアに住むエヴェンキ族もいたようです。彼らもトナカイを遊牧する民でした。
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※政府に定住化を迫られ、苦悩する中国のエヴェンキ族を描いたドキュメンタリー映画もあります。考えてみれば、遊牧の暮らしをしていた彼らにとって自分たちの土地はロシアでも中国でもなかったはずです。

中国少数民族の「悲しくてやりきれない」物語の後日談(顧桃監督『最後のハンダハン』)
http://inbound.exblog.jp/26815289/

サハリンで最初に先住文化を蒐集したのは、ウクライナ出身の民族学者のレフ・シュテルンベルクです。彼はマルキストだったため、ロシア帝政時代の1889年から97年までサハリンへ流刑となり、ニヴフの言語や宗教などを研究したそうです。そのとき、蒐集した文物がサハリン郷土博物館の基礎になったといいます。
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ノグリキ近郊の漁村で生まれたウラジミール・ミハイロヴィッチ・サンギはニブフ人作家で、サハリンの先住民族の民話や伝説を集め、1961年『ニブフの伝説』を出版。モスクワで大評判となり、ソ連公認の作家となりました。彼の作品の一部は翻訳されていて、『サハリン・ニヴフ物語』(北海道新聞社2000年刊)として読むことができます。彼の若い頃の写真が、郷土の誇りとして博物館に展示されています。
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博物館の展示室の脇の廊下に、ニブフやウィルタの切り絵作家の作品が展示されています。モチーフとなるのはトナカイや祭りなど、彼らの習俗や生活文化に関わるものです。実は、同じような展示は中国の満洲族博物館にもあって、満洲族にもニブフと同じような切り絵(剪紙)の作家がいます。満洲族の切り絵作家は中国の少数民族文化の担い手として国家的な保護や支援を受けていますが、なぜ切り絵だったのか、その相似が興味深いところです。
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切り絵以外にも、さまざまな作品が展示されています。
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おそらくこれはサケかマスの皮を使ったものでしょう。アムール河流域やサハリンにもいたナナイ(ゴリド)という先住民族は、漁労を営み、中国ではホジェン族(赫哲)と呼ばれています。彼らはもともとサケやマスの皮を使った衣服を着ていたため、中国人から「魚皮韃子」と呼ばれていたそうです。
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他にも、この地を舞台にした絵本もいくつか出版されているようで、地元の子供たちの先住民族教育の場となっているようです
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いまはもう特別なときにしか身につけない民族衣装を着た先住民族たちの写真も展示されていました。
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同博物館には公式サイトもあります。ただし、ロシア語のみです。

ノグリキ郷土博物館(Ногликский муниципальный краеведческий музей)
http://sakhalin-museums.ru/museum/noglikskiy_muzey/
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by sanyo-kansatu | 2017-09-18 09:21 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)
2017年 09月 14日

サハリン北緯50度線、日ソまぼろしの国境標石跡を訪ねる

もう70年以上前のことですが、サハリンの南半分は日本の国土でした。
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当時、サハリンの北緯50度線に沿って日本とソ連(当時)の陸路の国境があったのです。

※同じ1905年にロシアから租借地として移行した中国の関東州(大連)にも清国との陸路国境と税関がその後できています。

今年6月、北緯50度線に位置するかつての国境標石の跡を訪ねました。

サハリン東海岸の中央部に位置するポロナイスクのホテルで車をチャーターし、北に向かって所要1時間半。道路は舗装されていて悪くはありません。ドライバーは、これまで何度か日本人を乗せたことがあるという地元出身のニコライさんです。英語を少し話します。もちろん、車は右ハンドル。
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一見強面ですが、とてもフレンドリーで、家族でタイ旅行に行った写真を見せてくれ、とても快適なドライブでした。
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「樺太・千島戦没者慰霊碑」の案内板が見えたので、脇道を入っていきます。
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森の中に白い慰霊碑がありました。
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その近くにソ連兵の慰霊碑もあります。
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幹線道路に戻り、北に向かうと、今度は日本の要塞跡がいくつもありました。
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これは要塞の中です。
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ロシア語の解説もあります。
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これは別の要塞、あるいは司令部の跡です。
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第2次大戦終戦前夜に侵攻してきたソ連軍と日本軍の戦闘の記録を解説するプレートも置かれています。
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さらに北に進むと、道路の左手に「50」と書かれた碑(冒頭の写真)が立っていました。日本統治時代に建てた国境標石跡は、そこから100mほど白樺並木に入った場所にあります。

これがそうです。標石は取り除かれたものの、台座は地中奥深くまで埋められていたため、台座だけが残っているのです。
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樺太が日本領だった時代、かつて存在したこの国境標石を見物に来る観光客がけっこういたといいます。まさにボーダーツーリズムです。1924年(大正14年)8月に樺太旅行に出かけた北原白秋は『フレップトリップ』という陽気な紀行書を書いていますが、彼の場合は西海岸を船で進み、当時安別と呼ばれたのがソ連との国境の町で、そこを訪ねています。

また1934年(昭和9年)6月、林芙美子も樺太に渡り、「樺太への旅」という紀行文を書いています。彼女は当時の日本領の最北の地に近い敷香(ポロナイスク)まで来て、国境見物を見にいくか、敷香の近くにある先住民の暮らす集落を訪ねるか迷っていましたが、結局、先住民に会いに行くことに決め、国境には足を運びませんでした。

この国境線に沿っていくつかの国境標石が立っていたようで、白樺並木も数メートルほどの道が東西に向かってできています。

台座は年月とともに苔むしていますが、このまま残してほしいものです。
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車のチャーター代は言い値で7500RB(約1万5000円)でした。初夏のこの時期、林の中は蚊が多いので、虫除けスプレー必携です。

ところで、撮影中、佐藤憲一さんのカメラのGPSをみると、北緯49度59分57秒と表示されました。北緯50度のちょっぴり手前だったようです。
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by sanyo-kansatu | 2017-09-14 13:06 | 日本に一番近いヨーロッパの話 | Comments(0)