ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2015年 01月 17日

ショック!? 大連「旧ロシア人街」の再開発が一気に進んでいた

大連駅の北東側にある旧ロシア人街(俄罗斯风情街)は、19世紀末期、大連に港湾施設を建設し、都市開発を進めたロシア人たちが最初につくったエリアです。いわば大連発祥の地です。
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これは日本統治時代の絵はがきで、鉄道をまたぐ旧日本橋(現・勝利橋)の北側の一帯には、ロシア風の街並みが広がっていました。

現在では、このエリアのメイン通りにあたる団結街を「俄罗斯风情街」と命名し、再開発されています。歴史的建築物を保護することを目的に、2000年代初めに大連市政府によって着手されたものですが、正直なところ、土産物屋とエコノミーホテルの並ぶチープなロシア風テーマパークと化してしまっています。

ざっと主な歴史的建築物の現在の姿を見ていきましょう。
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旧ロシア人街の入口に建つこの象徴的な建築物は、1900年に東清鉄道汽船会社の社屋として建てられたもので、日本時代は「日本橋図書館」でした。現在は「大連芸術展示館」という美術館です。
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実は、この建物自体は新中国建国後、いったん取り壊されており、のちに復元されたものだそうです。話が少し込み入ってしまいますが、大連と姉妹都市の北九州市の門司港にこの建物のレプリカがあり、ぼくも以前、訪ねたことがあります。なぜこんなところに? と奇妙な印象が残っているのですが、なんでも現在の大連のこの建物は、門司港のレプリカを参考に復元されたのだとか。

これが「俄罗斯风情街」です。確かにかつてこの通りには壮麗なロシア建築が並んでいましたが、新中国建設後は老朽化が進み、2000年代に派手なペイントを塗りたくられ、雑にお色直しして現在に至っています。
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数年前から、中国を代表するエコノミーホテルチェーンの錦江之星などいくつかのホテルとしても使われています。1泊200元程度の価格帯なので、若い国内の旅行者が利用しているようです。知り合いのトラベルライターが昨年9月、錦江之星に宿泊したそうで、部屋の写真を見せてもらいましたが、内装はきれいにリノベーションされ、快適な印象でした。
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谷川一巳さんの「tabinori」大連の旅(2014年9月)
http://tabinori.net/kankokaigai/dlc.html
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土産物屋にはマトリョーシカなどロシアがらみの商品が並べられていますが、まるでパッとしません。
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通りのいちばん奥まった場所に、唯一お色直しされておらず、老朽化にまかせるまま、それゆえに独特の存在感のある建築物が建っています。
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この幽霊屋敷のような建物の来歴を語ると話がずいぶん長くなります。最初、東清鉄道事務所として建てられ、1902年には初代の大連市役所、日本統治時代の07年に満鉄本社、翌08年に2代目ヤマトホテル、その後、満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と名称を変更しながら博物館として使われ、新中国時代は97年まで大連市自然博物館でした。その後、一時期オフィスやホテルにも使われたようでしたが、結局、この歴史的な建築遺構をうまく使いこなすオーナーが現れなかったせいか、廃墟同然の姿で現存しています。
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この建物の周辺だけ、時間が停まっているように見えます。100年前からずっとここに建ち、このまちの変遷を眺めてきたのです。かつての大連はこのような洋館が並ぶ、さぞ美しいまちだったことでしょう。

さて、ここまでが旧ロシア人街の表の顔ですが、もっと面白いのが、この通りの左右両脇に広がる界隈の路地裏歩きです。勝利橋を背にして右手に広がるのが上海路界隈、また左手に広がるのが光輝巷や煙台街界隈。前者はもともと東清鉄道汽船会社のオフィスや社宅など、後者はロシア人の暮らした住居が多数残っていました。

もっとも、最近まではそれら老朽化した住居に地方から出稼ぎに来た「外地人」労働者とその家族が住んでいました。

まず上海路界隈から。これは、最も早い時期の日本統治時代に使われた建物だそうです。
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このあたりには、木造のロシア風住居が相当傷みながらもいくつか残っています。
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長屋風の共同住宅もあります。このあたりはロシア時代のものか、日本時代のものかわかりません。
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この界隈には海鮮市場や小吃の屋台なども見られます。
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一方、光輝巷や煙台街界隈には、2012年くらいまでロシア風の住宅街がなんとか残っていました。
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100年前は瀟洒な洋館だったと思われる住居が廃屋に限りなく近い状態で残っていたのです。
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もちろん、いまは地方からの労働者の住み着く世界です。
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この状況から在りし日の情景を思い浮かべるにはかなりの想像力を要するかもしれません。しかし、高層ビルの建ち並ぶ現代的な大連市中心部のある一角に残る光景としては、非常に興味深い界隈でした。これらの写真の多くは、2010年夏に撮ったものです。
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ところが、昨年7月この界隈を歩いてみたところ、大きな変化が見られました。特に光輝巷や煙台街界隈です。さきほど見たロシア風住宅街はほぼ消えうせていたのです。

代わりにそこにあったのは、住宅展示場のような門構えのあるホテルでした。旧ロシア人街の再開発がついに進んでしまっていたのか! 少々大げさですが、ぼくその場に立ち尽くし、呆然としてしまいました。
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ホテルの名前は「鉄道1896花園酒店」といいます。館内に足を運んでみましたが、外観は確かに洋風ですが、なんの変哲もない中国式ホテルでした。
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鉄道1896花園酒店
大連市西崗区光輝巷36号

ホテルの隣には、おそらくハルビンにある有名ロシア料理店の支店と思われるレストランが建っていました。
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これでは「俄罗斯风情街」となんら変わりません。残念なことですが、いまの大連ではこのようなやり方しか採用できないことを責められるものではありません。なにしろ前述した旧満州資源館のような歴史的な建築物もどう扱っていいかわからず、ずっと放置されているのですから。無名の個人が住んでいた住居群を保存して残すことは難しいでしょう。そもそも今日の大連の多くの人たちにとって、移民労働者の暮らす貧困地区にすぎない一角は、なるべく早く再開発してほしいというのが本音だったかもしれません。

※ただし、旧ロシア人街には、大連育ちの若い世代が始めたこんな創作カフェもあります。これが新しい満洲の姿ともいえます。

大連の若い世代(80后)は日本時代の住居が懐かしいという
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by sanyo-kansatu | 2015-01-17 11:27 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 16日

鴨緑江断橋の展示に見られる中国の歴史認識がわかりやすい

中朝国境最大のまち・丹東(遼寧省)には、朝鮮戦争時代に米軍によって落とされた鴨緑江断橋があります。
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断橋の隣には、中朝友誼橋(写真・左)が架かっています。そちらは朝鮮と結ぶ鉄道と車両の両用の橋です。

断橋の遊歩道を歩くと、橋の断たれた先が展望スペースになっていて、朝鮮に向かって橋脚だけが残る光景が見られます。対岸の北朝鮮の風景も眺めることができます。
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この橋は1909年に日本が朝鮮領内の京義線を中国につなげるため、「鴨緑江橋梁」として建設されたものです。当時鴨緑江を航行する船舶のために橋の中央部が旋回できるよう設計されていました。そのための駆動軸がいまも残されています。
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断橋の歩道の両サイドには、数十枚にわたる写真パネルが展示されており、そこにはこの橋の100年の歴史が記されています。日本がからむこの地域に関する中国の歴史認識を考えるうえで、とてもわかりやすい素材だと思ったので、以下主なパネルを紹介します。

まず全体像を理解するために。これが現在の断橋と中朝友誼橋の全貌です。
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1908年8月、日本は朝鮮側の橋の基礎工事を始めています。展示によると、09年4月日本は腐敗した清朝政府に圧力をかけ、5月には橋の建設を強行したとあります。
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船舶の航行時は、橋の中央部が90度旋回したことが解説されています。一度の使用時には20分要したそうです。
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開通は1911年10月。線路の両脇に歩道があり、当時の人たちは歩いて渡ることができたようです。
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1943年4月、「日本侵略者」はもうひとつの橋(第二橋梁・現「中朝友誼橋」)を建設します。45年8月15日、日本は第二次世界大戦に無条件降伏し、以後この橋は中朝両国が共有することになります。
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ところが、50年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、鴨緑江沿岸にも危機が迫るとあります。
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毛沢東は「抗美援朝、保家衛国」(米国に対抗し朝鮮を支援することで、国家を防衛する)政策を決定し、朝鮮半島への派兵を開始します。
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同年10月19日、中国人民志願軍は安東(丹東)、河口、輯安(集安)の3カ所から朝鮮領内に入ります。
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同年11月8日午前9時、B29が鴨緑江大橋を爆撃し、一部の橋桁が落ちます。
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さらに同月14日、米軍は再び来襲し、朝鮮側の橋桁は完全に落ちてしまいます。
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53年7月27日、朝鮮戦争の停戦協定が結ばれます。「こうして2年9か月の抗美援朝戦争に勝利した」とあります。
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58年、中国人民志願軍が凱旋帰国するとあります。停戦から5年間も朝鮮領内にいたとは。何をしていたのでしょう。
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停戦直後の鴨緑江断橋の両岸を撮ったもののようです。この当時は、当然のことながら、戦火のため丹東も対岸の新義州も疲弊していたことがわかります。
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断橋の改修が始まったのは、朝鮮戦争停戦から約40年後の93年6月です。
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94年6月28日、断橋の改修工事は完了し、旅游区として正式に対外開放されます。
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さて、このパネル展示には、1910年の開通後から終戦末期の43までの約30年間の歴史は省かれてしまっています。そして、朝鮮戦争における米軍の爆撃や人民志願軍の「抗美援朝」政策に基づく出兵がメインストーリーとして語られます。さらにいえば、人民志願軍の帰国から90年代までの30数年間についても、触れられていません。

中国側がつくった展示ですから仕方がないことでしょうが、この地域の過去100年に関する中国人の歴史認識を形作るうえで、彼らが史実を採用する基準がどこにあるかを理解するには、とてもわかりやすいパネルだと思います。

それは言うまでもなく、抗日&朝鮮戦争を「勝利」に導いた共産党政権の正統性(ことの成否はともかく)に関わる基準です。ここでその歴史認識の是非を問うことに意味はありません。むしろ、何を採りあげ、何を採りあげないのか。その判断の基準を知っておくことで、彼らと仮に歴史について話す機会があるとき、議論を深めるうえで参考になるだろうということです。そういう意味では、鴨緑江断橋は今日の中国の歴史認識を語るうえで、きわめてシンボリックなスポットとなるのは当然なのでしょう。

ちょっと面白いと思ったのは、以前丹東駅のターミナル構内に展示されていたこの駅の100年の変遷を物語る十数枚の写真との比較です。1910年から45年までの30年間の駅舎とその周辺の様子も知ることができます。そこには駅のプラットフォームに着物姿の日本人が写っている写真も含まれ、興味深いです。丹東駅では中国の歴史認識に関わる事件が起きてはいなかったため、こういう見せ方ができたのでしょう。

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)
http://inbound.exblog.jp/20541074/

断橋のたもとには、いまでもトーチカが残っています。
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最近、断橋の前にへし折れた鉄骨をアート仕立てにした展示と石碑が置かれました。断橋が戦跡であることをさらに強調するための作品のように見えます。
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下流域についに新しい大橋(正式名は「中朝鴨緑江公路大橋」)が完成したものの、朝鮮側の事情ですぐには開通に至らないなど、中朝関係が以前と比べずいぶん様変わりするなか、「抗美援朝」を強調する戦跡というこのスポットの意味づけは、今後どうなっていくのでしょうか。

中朝新国境橋が完成しても開通できない理由
http://inbound.exblog.jp/23944673/

丹東の抗美援朝紀念館とあやうい愛国主義「歴史」教育について
http://inbound.exblog.jp/20441774/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-16 12:16 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 16日

かつて“小崗子”と呼ばれた労働者居住区を上空から眺める(大連)

昨年7月、大連の知り合いのオフィスを訪ねたとき、オフィスの高層階の窓から、大連駅の西に広がる古い街並みが残る一画が見渡せました。林立する高層ビル群が押し寄せるように間近に迫るなか、この一帯だけ、ぽっかりと空が広がっているような不思議な眺めです。
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ここはかつて“小崗子”と呼ばれた場所で、ロシアと日本の統治時代の頃より、主に山東省から大連に流入してくる労働者たちの暮らす地域でした。現在は一般に「東関街」と呼ばれています。このあたりには遊郭などもあったようです。
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頭上から見ると、それぞれの住居はかなり老朽化していることがうかがえます。
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居住区をよく見ると、通りに並ぶ住居の内側に中庭のような空間が見られます。これが古き良き中国人の住まい方を意味する「大雑院」でしょうか。複数の家族が住む共同住宅の内側に設えられたコミュニティ空間のことです。日本でいえば、長屋住まいの世界に近いと思います。
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昨日、中国の瀋陽から訪ねてきた友人に「大雑院」の話をしたところ、「必ずしも大雑院の中では、みんなが仲良く暮らしていたわけではないでしょう。喧嘩もあったと思うし、そんなきれいごとばかりの世界ではなかったと思いますよ」と笑いながら答えていました。彼は40代前半の男性なので、子供のころ、自分も大雑院の世界で暮らしていたようです。まあそれはそうでしょうね。

さらに望遠の倍率を上げると、屋根が崩壊していたり、一部再開発が始まっていたりすることも見えてきました。
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2012年に大連を訪ねたとき、東関街を歩いたことがあります。以下は、そのとき撮影したものです。
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いまも残る住居建築には、レンガの壁と独特のシンプルな装飾なども見られます。
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オンドルの煙突が並ぶ光景は、いかにも東北らしいです。
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倒壊しそうな危うい住居も残っています。
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洗濯物が干されていることを見る限り、まだ多くの住人がいることがわかります。100年前もそうでしたが、いまでも地方から大連に出稼ぎにきた労働者たち、いわゆる「外地人」の居住地になっています。これは市内の他の日本統治時代の古い住居が彼らの住処になっているのと同様です。
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旧満鉄病院(大連中山医院)の周辺に広がるかつての日本人居住区の南山や、老虎灘に向かう通り沿いの高台にある文化台の日本住居もいまではかなり取り壊しが進んでいますが、大連市内の中心部に位置する東関街の再開発が遅れているのは、「外地人」居住区であることと関係あるのでしょうか。今度大連の知人に尋ねてみようと思います。

東関街の最近の様子については、ネット上で何人かの方が写真を公開しています。

東北の旧市街地をめぐる旅 ③大連
http://www.shukousha.com/column/tada/3663/

このコラムを書かれた多田麻美さんとは一度北京でお会いしたことがあります。

冬八九大連(2)消えゆく老街
http://4travel.jp/travelogue/10650186

これは4Travel.jpに投稿されていたもので、写真がとても豊富です。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-16 11:47 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2015年 01月 13日

東寧要塞と3人の中国娘とアニメの話

今日の日本人の中で、東寧要塞のことを知っている人はどれだけいるでしょうか。ご遺族や近代史に特別の関心のある人を除けば、もうすっかり記憶の彼方にあり、戦跡のひとつであることすら知らない人がほとんどでしょう。そもそも中ロう国境に近い、この辺鄙な土地を訪れる日本人もまずいないと思われます。

※地下要塞の様子は――
ソ満国境・対ソ戦の歴史を物語る東寧要塞
http://inbound.exblog.jp/23965185/

一方、中国人にとっての東寧要塞とは何なのか。

昨年7月この地を訪ねて感じたのは、ふたつの側面があることです。それを語る前に、今回の要塞訪問の1日の出来事を話したいと思います。この写真は、要塞の入口のある高台から見えた東寧要塞群遺址博物館という施設です。この施設の意味については、後ほど。
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さて、東寧要塞には、中国黒龍江省の東南部のはずれに位置する東寧のバスターミナルから出る小型バスに乗って行きます。東寧には綏芬河からバスで1時間ほど。
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これが東寧のまちです。中国の奥地ともいえる辺境の地にもかかわらず、繁華街も大きく、市街地の周辺には、いまや地方名物ともいえるマンション群すら建ち始めています。ここで緑色の「要塞」行きバスに乗ります。
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市街地から東に向かって約5㎞走ると、ロシア行きの東寧の鉄道駅が右手に見えます。ここは貨物のみ運用のようです。
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さらに5㎞進むと、ロシアとの国境ゲート(東寧口岸)が見えてきます。
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東寧口岸は中ロ両国民のみ通行可能です。東寧県三岔口がこのあたりの地名で、綏芬河に比べるとのどかな国境です。ロシア人客を乗せたバスが国境ゲートをくぐるのを見かけました。

ゲートの隣には綏芬河と同様、「国門旅游区」があるのですが、ほとんど人影を見ることはありませんでした。商店なども閉まっている様子です。
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※綏芬河の「国門旅游区」は以下参照。

綏芬河の新国境ゲート建設は進行中
http://inbound.exblog.jp/23962530/

バスはここで折り返し、いったん東寧方面に戻り、途中で左(南)に折れ、要塞を目指します。このあたりの道路表記は、ハングル、中国語、ロシア語の3カ国併記です。
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終点の要塞のバス降車場所は工事中でした。
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しかも、要塞まで山道を10分近く歩かなければなりません。道中には家族連れやカップルなど、まるでふつうの行楽地に向かうような人たちもたくさんいて、彼らと一緒に山道を登りました。
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最初に見えてきたのは、中国人民解放軍の空軍機の姿でした。終戦末期のソ連軍との激戦地だったはずの東寧要塞に、なぜ人民解放軍機が?
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子供たちが飛行機の前で記念撮影をしています。

「東寧抗連英雄園」とあり、人民解放軍の著名な将軍たちの像が並んでいました。どうやら朝鮮戦争時に連合軍と戦った軍の英雄を顕彰しているようです。
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お約束の「国恥忘れるなかれ」の標語が書かれた石碑もあります。
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「第二次世界大戦最後の戦場」の石碑も。
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当地の歴史とは本来無縁のような数々の展示物をあとにし、いよいよ東寧要塞に向かいます。そのとき、3人の女の子が階段を先に上っていました。お互いに写真を撮り合ったりして、ずいぶん楽しそうです。この写真は、中国ではこんな戦跡を見に若い子が来るものなんだなあと不思議に思って撮ったものです(実は彼女たちとはあとで再会することになります)。
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要塞の入口には記念撮影する人たちが次々に現れます。まるでのどかな行楽地のような情景が繰り広げられているのです。
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地下要塞を探索したあと、東寧要塞群遺址博物館に行くことにしました。
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展示の入口に「侵華日軍アジア最大軍事要塞群 東寧要塞群」とあります。
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要塞群の地図です。一部日本の資料をそのままコピーして無断使用しているものもありそうです。
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ソ連軍のずいぶんド派手な攻略ルートが示されます。
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勲山要塞をはじめ周辺の要塞の展示です。
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当時の部隊が残した遺品を展示しています。
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ここまでは日本軍に関する資料ばかりですが、この先に初めて中国人に関する展示が見られます。
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「残害労工」。つまり、この要塞を掘るために多くの中国人労働者が駆り出されたことが明かされるのです。

この土地を訪ねた人は、この巨大なアリの巣のような要塞の不気味な存在感とそこに立てこもってソ連軍と交戦した当時の日本兵のことを想像してみるわけですが、そもそもこの坑道を掘ったのは誰か。そのことにあらためて気づかされるのです。

日露戦争と同様に、この地の戦闘には中国軍は関係ないはずなのに、どうしてこれほど巨大なプロパガンダ施設をつくる必要があったのか。最初は訝しく思っていたのですが、そのひとつの理由に中国人労働者の問題があったのだと思われます。

これが中国にとっての日本軍の非道を告発する東寧要塞の「愛国主義歴史教育施設」としての側面です。

しかし、これまで見てきたように、ここにはもうひとつの側面がありそうです。それは、この「愛国施設」が地元の人たちにとっての数少ない行楽地であることです。

そのことに気づかされたのが、前述した3人の地元の女の子たちとのささやかな交流でした。

その日はとても暑く、烈火のような日差しが東寧の要塞群の眠る山々を照りつけていました。彼女たちは博物館の前の日かげのベンチに腰かけて休んでいました。ぼくとカメラマン氏も博物館の展示を見たあと、同じベンチでひと休みしているうちに、カメラマン氏と彼女たちの間で会話が始まったのです。

彼女たちは言いました。「あなたたち、本当に日本人なの。初めて見たぁ」。そう言ってじろじろ我々を見ながらはしゃいでいるのです。中国で日本人がいまどき珍しがられるのはめったにないと思いますが、確かにこんな辺境の地に来ればそういうこともあるかもしれない。このあたりではロシア人なら何度も姿を見せたことはあったでしょうが……。そんなことを思いながら、彼女たちの反応ぶりがおかしく、かわいらしくもあったので、「君たち、どこに住んでるの?」。話を聞いてみることにしたのです。
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彼女たちは東寧の工場で働く女工さんでした。週に1度の休日に職場の友だちと遊びに来ていたのです。

だとして、なぜ戦跡のような場所へ? そう尋ねると、彼女たちは顔を見合わせ、「職場で要塞の話を聞き、行ってみようかと思った」。そう言いながら笑うのです。

おそらくこういうのも、ひとつの「愛国教育」の一環なのでしょう。

その一方で、こうも思います。本当は彼女たちだって戦跡なんかではなく、もっと楽しいところに行きたかったに違いない。でも、地元にはそんなものはないのですから、仕方がないのです。ディズニーランドもショッピングモールもない辺境の地で暮らすこの国の若者にとって、日帰り行楽地がたまたま地元にあった東寧要塞だったに過ぎないということではないか……。

実際、彼女たちがここで過ごしている様子は、中国のどこにでもある観光地で彼らが見せる姿そのものでした。もし博物館の展示を見た彼女たちが「愛国心」を刺激されていたとしたら、当の日本人を前にしてもっと違った反応を見せることもあり得たでしょう。そういうタイプの若者もきっといるに違いありません。

実は、彼女たちと会話を楽しんでいるまさにそのとき、「日本人がいるぞ」という声を聞きつけて、ひとりの中年男性が近づいてきてぼくにこう言ったのです。

「お前はこの博物館に展示された歴史をどう思うのか? 中国の老百姓についてどう考えるのか?」

そして、ちょっとした人だかりに囲まれてしまったのでした。

こういうときの発言は慎重さを要します。

「とてもひとことでは言い表せませんが、私は日本と中国の歴史をよく理解しています。この土地の歴史も知っています。だからここに来たのです」。

話はそこまででした。その男性も別に悪意を込めて問いつめようとしているというのではなく、まさかこんなところで日本人に会うとは思わなかったことから、自然に発せられたことばだったと理解すべきでしょう。

ぼくと彼女たちは一緒にバスで東寧に戻ることになりました。その日は日曜で、20~30分おきにバスは出ています。

ぼくはバスの中で、こういう年頃の中国人相手にお決まりの話題ともいえる日本のアニメについて尋ねました。「日本のアニメ好き?」。

そして、彼女たちが好きだというアニメをぼくのノートに書き出してくれたのがこれです。
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火影忍者 ナルト
海賊王 ワンピース
悬崖上的金鱼姬 崖の上のポニョ
龙猫 となりのトトロ 
千与千寻 千と千尋の神隠し
死神 BLEACH
妖精的尾巴 FAIRY TALE

彼女たちは、中国全土の若者たちと同じように、宮崎駿の作品をはじめとした日本のアニメを見ているのです。いまさら言うまでもありませんが、動画投稿サイトや海賊版DVDを通して、当たり前のように。

こういう場面に出会うたび、いつも感慨深く思うことがあります。彼女たち、中国の若い世代は日本にいるぼくの子供たちとほとんど同じ時期に同じアニメを見て育ったのだなと。ネット時代の到来以降、日中の若い世代の間でアニメ視聴の同時性が起きていたのです。これはぼくと同じ世代(1960年代生まれ)の中国人とぼくたちの関係とはまったく異なるもので、時代の変化を感じます。

その一方で、中国政府はさぞ悔しいことだろうなとも思います。昨年、中国の地方メディアが「ドラえもんに警戒せよ」と批判を繰り広げ、中国の若い世代から失笑を買ったことがありました。そのメディアによると、「ドラえもんは日本の戦争犯罪を隠ぺいするための宣伝戦だ」というわけです。なぜそのような冗談みたいな報道が中国から出てくるかという背景も、今回の東寧の1日の出来事からもある程度理解できると思います。当局は中国の若い世代の日本のアニメの浸透ぶりが許せないと感じているのです。

「ドラえもんは侵略者だ!」、日本陰謀説を唱える地方紙に批判集中、「頭おかしいんじゃないの」(2014.9.27)
http://www.recordchina.co.jp/a94827.html

その日、ぼくは綏芬河から夜行列車でハルビンに行く予定でした。そのため、東寧からバスで綏芬河に明るいうちに戻らなければなりませんでした。しかし、「要塞」発のバスは東寧の市街地のはずれで降ろされ、バスターミナルまで彼女たちに案内してもらうことになりました。

これに似た経験はこれまで何度もあります。中国に対する偏りがちな見方を調整するうえでも、名も知れないような地方都市を訪ねるのは面白いものです。

※中国の若者と日本のアニメについては以下参照。

アニメと「80后」の微妙な関係
http://inbound.exblog.jp/i13/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-13 12:32 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 04日

ソ満国境・対ソ戦の歴史を物語る東寧要塞

昨年7月、アジア最大規模の日本軍地下要塞といわれた東寧要塞を訪ねました。
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場所は、中国黒龍江省の綏芬河から約50km南に位置する東寧県のロシア国境近くにあります。

1934(昭和9)年6月に関東軍によって建設され、主要部分は37年に完成。45年8月9日のソ連軍の侵攻後、この地下要塞に配備された東寧要塞守備隊は敗戦から10日過ぎの26日まで戦い続け、玉砕することなくソ連軍の降伏勧告に応じて武装解除したことから、「第二次世界大戦最後の戦場」という碑が置かれています。
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現在、東寧要塞の一部にあたる勲山要塞の内部が公開されています。

これが勲山要塞の入り口です。
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入り口を入ると、レールと階段が敷かれた急勾配があります。ここは砲台で、砲撃が終わると砲車を中に引き上げるようになっていたそうです。
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炭鉱の坑道のような通路が続きます。
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「軍官宿舎」とあります。そこそこ広いスペースの部屋になっています。
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山の中をくり抜かれた地下要塞の中は、夏でも湿った冷気で長時間過ごすのは大変そうです。
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「作戦指揮室」とあります。
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こちらも相当広い部屋ですが、コンクリートの壁を湿った水がぬめりと覆っています。
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洗面所(トイレ?)でしょうか。
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内部には複数の砲台跡があります。
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これが現在、観覧できる地下要塞の地図です。もちろん、要塞はさらに張り巡らされていたはずですが、安全上などの理由で公開されていません。
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要塞の外はごつごつした岩山で、あちこちに砲台跡や通気口があります。
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当時、満洲国の東部国境地帯の東寧から北に向かって約300㎞の虎頭までの一帯は、対ソ戦に備えて構築された関東軍最大の要塞地帯でした。
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勲山要塞(東寧要塞の一部)
黒龍江省牡丹江市東寧県三岔口鎮南山村南
http://www.dnys.org.cn

この地下要塞を整備し、公開したのは、もちろん中国です。彼らから見た東寧要塞についてはまた後日。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-04 10:46 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

「典型的な露西亜式」綏芬河の歴史的街並みを歩く

戦前期のグラビア誌「満洲グラフ」は、1935年当時の綏芬河について以下のように記述しています。

「人口約一万、大部分は露人と滿人で、鮮人がこれに次ぎ、日本人も六百人位住んでいる。町は山の斜面に建てられ、その中央には全市をしろしめすかのようにロシア正教寺院の尖塔が聳え、如何にも典型的な露西亜式の『山の町』を成している」(「満洲グラフ」1935(昭和10)年5月号)

昨年7月、綏芬河を訪ねました。80年前に「典型的な露西亜式の『山の町』」といわれた歴史的な街並みを歩いてみました。

まず綏芬河駅から。1898年に開業した東清鉄道の駅です。
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これが乗車口です。この駅にはロシア側の国境のまち、グロデコヴォ行きの列車が1日2本出ています。
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駅舎内です。
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鉄道をまたぐ橋の上から、ロシアからの木材を満載した貨物列車が見えます。
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これは東清鉄道の技術者のための宿舎で、現在は「鉄路大白楼」(1903年竣工)と呼ばれています。満鉄職員の宿舎だったこともあります。現在は市が来賓を接待する場として使われているようですが、観覧はできません。
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その隣にも当時の鉄道関係と思われる建物があります。駅の周辺にはこうした建物がいくつか残っています。
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駅からまっすぐ坂を上った先に東方正教会(1913年)が建っています。
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いまでも礼拝は行われているようですが、ロシア正教ではなさそうです。内装は当時の面影はありません。
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これは当時のロシアとソ連の領事館(1910年)です。新中国になると接収され、共産党の機関や郵便局などに使われました。
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現在は文化施設として再利用される予定のようです。
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この大きな建物はロシア人学校です。日本時代は軍の施設だったようですが、現在は幼稚園のようでした。子供たちの歌声やピアノの音色が聞こえました。
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これは1916年に建てられたホテルでしたが、24年に共産党の幹部がここで会合をしたことから「綏芬河革命紀念地」と書かれています。現在は針灸と按摩の病院のようです。
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これは旧日本領事館です。建物自体はロシア人商人が1914年に建てたもので、22年に日本政府が購入して領事館にしました。文化革命時には排外的な暴徒によって美しい装飾が破壊されるなど被害があったものの、92年に修復されました。
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3階と4階の間に施された人の顔の装飾が珍しいことから、「人頭楼」と呼ばれています。もっともこれを見る限り、ずいぶん雑な修復ぶりですね。現在は、語学教室など、いくつかのオフィスが入居する雑居ビルとなっています。
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まちの中心に位置する広場は「旗鎮広場」と呼ばれています。
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頭上から広場を眺めると、ヨーロッパのような街並みに見えます。この辺境の地でもマンション建設が進んでいることがわかります。
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このまちでは、通りやバス停の表示にはロシア語が併記されています。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 11:17 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2014年 12月 27日

牡丹江に残る満鉄社宅、再開発による撤収は間近か

牡丹江は中国黒龍江省南東部を代表する人口90万人ほどの都市で、ロシア国境の町・綏芬河や延辺朝鮮族自治州の延吉、北部の鶏西方面などへ向かう鉄道の乗継の基点です。1000年以上前にこの地に栄え、日本との交易の歴史もあった渤海の王都のひとつ、上京龍泉府遺址が近くにあることで知られています。

このまちの都市建設は20世紀初頭の東清鉄道の敷設に始まります。ロシアがハルビンからポグラニチヌイ(綏芬河)までの鉄道建設を着手した際、その沿線を流れる牡丹江(満洲語で「曲がった川」を意味する「ムーダンウラ」の漢語読み)を駅名にしたことが由来です。

もっとも、都市の基礎は日本統治時代に造られました。満州国時代は北満開発の中心地となり、多くの日本人が移り住んでいました。なかにし礼の小説『赤い月』は日本の終戦前夜の牡丹江が舞台のひとつとなっています。1945年8月9日のソ連軍の侵攻により、多くの日本人がこの地で亡くなっています。

牡丹江駅の南西部に、現在も満鉄社宅が残っています。場所は「天安路」です。大連にも多くの日本家屋や満鉄の社宅が残っていますが、同様に家屋の老朽化が進み、住人はほとんどいないようです。
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実は、ぼくの祖父も、同年7月の民間人に対する強制的な徴兵によって牡丹江の部隊に配属され、牡丹江郊外の液河であっけなく戦死しています。

そうしたことから、ぼくは何度か慰霊のためにこの地を訪れています。黒龍江省の一地方都市ということで、10年前くらいまでは中国の目覚しい発展ぶりからは取り残されていた印象がありましたが、今回久しぶりに訪ねて、市街地の周辺に林立する高層マンションラッシュを目にし、ついに不動産開発の波がこうした辺境地域にまで及んでいることを実感しました。
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この豪奢なビルは牡丹江市の新市庁舎です。中国の地方都市は、どこでもこういう状況で、正直なところ、危なかしくってたまらない気がします。

牡丹江に残る満鉄社宅も、再開発による撤収は間近のようです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-27 08:42 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 23日

ショック!? あの『ラストエンペラー』に出てくる大連港の名所がなくなってしまった

今年7月、大連を訪ねたとき、いちばんびっくりしたのは、大連港埠頭待合所の表玄関が姿を消していたことでした。
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これが「満鉄グラフ」(1935年10月号)の大連・ハルビン開通記念特集のグラビアに登場する埠頭ビルです。

同特集によると、この年の9月1日から大連・ハルビン間(941.6km)が「超特急アジア」によって結ばれたとこう書かれています。

「九月一日の午前九時、大連・ハルビンの両驛から發車した満鐵の流線型国際超特急アジアは、その夜十時三十分、一分一秒の誤差もなく、青磁グリーンに塗られた颯爽たる雄姿を両驛のフォームに現はしたのである」

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そして、こちらが現在の姿です。ぼくは思わず「あっ」と声を出し、その場で溜息をもらしてしまいました。

なにしろここは、戦前期を象徴する大連の顔としての歴史的な場であることはもちろんですし、ぼくにとっても、公開当時夢中になった映画「ラストエンペラー」(1987)で、溥儀と家庭教師レジナルド・ジョンストンの別れのシーンにも使われた有名なスポットだったからです。

映画「ラストエンペラー」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg

簡単に大連港の歴史を振り返ってみましょう。

大連港は1898年、ロシア帝国が清から租借後、東清鉄道を大連まで延伸し、1902年に開港したものです。その後、日露戦争に勝利した日本が05年に租借地(関東州)としました。その年、大阪商船による日満連絡船(大阪・大連航路)が開設しています。
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待合所(正確には「大連港第2埠頭船客待合所」)が竣工されたのは24年。当時は1階に鉄道のプラットフォームが接続されており、鉄道に乗り換えることができたようです。また路面電車も通っており、市内に向かうことができました。
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ぼくも何度かこの待合所に入ったことがありますが、5000人の収容能力があったという長い通路に立つと、大陸の玄関口としての歴史の舞台を想起させるスケール感を強く感じました。

戦前期の大連のランドマークだった半円形の玄関口は26年に竣工されたもので、実は1970年代に、この写真のような味気のないビルに改装されていました。ですから、もともと魅力は半減していたといえるのですが、首から顔を切り落とされてしまったようないまの無残な姿からは、もうここが大連港にとって重要な場所ではないことをはっきり宣告されたようで、残念に思わずはいられませんでした。
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待合所の向かいの重厚な建築物は、旧満鉄大連埠頭事務所ビル。26年竣工です。こちらはまだ残っていますが、かつての大連の象徴的な空間が、丸ごとぬけ殻のように、さらにいえば無用の長物でもあるかのように茫漠と広がっている光景にも唖然とするほかないのです。
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よく見ると、路面電車の線路跡が残っていました。
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2012年7月にここを訪ねたときには何も変化はなかったことを記憶しているので、それ以後再開発されてしまったのだと思い、大連の知人に確認したところ、13年3月から改修工事が始まり、7月には現在の姿になったそうです。

ところで、大連港はこれからどのように再開発されていくのでしょうか。

現在、大連港の旅客船航路は、天津や煙台、威海など山東半島各地や大連の沖合に浮かぶ長海県の島々、そして韓国の仁川港へのフェリー航路などがあります。

これはいまに始まった話ではありませんが、大連港は旅客輸送よりも圧倒的に物流の拠点としての位置付けが大きいわけです。つまり、大連経済開発区に近い新港(旅客船の利用する旧港の北側に位置しています)の重要性のほうがはるかに上なのです。
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この写真は大連市の中心部の高層ビルから撮ったもので、左上に見える埠頭が新港です。

結果的に、この旧港の跡地は観光地として再開発されることになるようです。すでに兆しは見えます。たとえば、旧埠頭待合所の並びに誕生した「15庫」と呼ばれるファッションビルです。日本統治時代の大連港の倉庫群を改装した、いわば横浜赤レンガ倉庫の大連版です。
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4階建てのビルの中には、こじゃれたショップやカフェ、レストランが入店しています。
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港側に面したテラスには大連港を一望にできるカフェが並んでいます。
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夜も悪くありません。周辺の高層ビルの明かりも港に映えてきれいです。そういえば、薄熙来の大連市長時代、「大連は北方の香港」と称されていたことを思い出しました。当時はぴんときませんでしたが、この都市の為政者たちはまんざらそれがただの夢とは思っていないのかもしれません。
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入店しているショップも大連としては斬新で、北京によくある個性的な書籍や雑誌のみをセレクトしたブックショップ「回声書店」は面白いので、訪ねてみるといいでしょう。書棚に並ぶ本の種類が新華書店とはずいぶん違います。

15庫
大連市中山区港湾広場港湾街1号
http://www.weibo.com/15cool

さらに、大連港の南側にはヒルトンやコンラッドといった外資系のファイブスターホテルができていますし(ともに12年開業)、13年の夏季ダボス会議の会場として使われた国際会議センターは、この写真のように、いまの(いや、少し前の?)中国を象徴するようなスペクタクルなデザイン建築となっています。
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現在、この地区は東港(旧港)と呼ばれています。はたして大連港はどんな姿に変貌していくのか。

ぼくが初めてこの地を訪れた1980年代に感じた、まるで北欧の港町のような清涼感はすでに失われてしまっているいま、何か前向きな期待感というのは失礼な話、ないのですが、このまちに住む多くの知人や友人たちのことを思い浮かべるとき、中国のどのまちとも違う繊細さや穏健さを身につけている彼らが(それはたぶんこの都市の環境が育んだものだと思う)、中央政府的な野心から少し距離を置いて、別の道を選んでほしいと思ったものです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-23 13:28 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 22日

ハルビンのKFCはアールヌーボー建築

この建物は何だかわかりますか? 童話に出てくるおとぎの国のお家みたいでしょう。

答えは中国のある都市のKFC(ケンタッキーフライドチキン)のお店です。
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ずいぶんしゃれてると思いませんか?

この店は、黒龍江省のハルビンというまちにあります。ハルビンを最初に建設したのは東清鉄道をこの地に敷いたロシア人で、19世紀末のことです。
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もともとこの不思議なデザインをした建物は、東清鉄道管理局長の官邸で、1920年に建てられたものだ、とハルビン市が設置したプレートには書かれています。アールヌーボー建築です。

場所は、ハルビン駅の正面からまっすぐ伸びる紅軍街が大直街と交差する紅博広場に面したホテル「国際飯店」のすぐ隣にあります。
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デザインが面白いので、ついぐるぐる周辺から見渡してみたくなります。
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さっそくですから、店に入ってみましょう。
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内装は現代的ですが、ハルビンのあちこちに現存するロシア教会など、このまちを象徴する写真が飾られています。

周辺はすでに再開発が進んでいるのですが、ハルビンでは古い建築物を保存することが条例で定められているため、工事現場に囲まれながらも、こんな風に残されています。ここは、ケンタッキーの向かいにある地下鉄駅工事の現場です。
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ハルビンは自らの出自がロシアにあることを公式に表明することを決めたようです。それは彼らの歴史認識には抵触しないようです。市内の歴史博物館の展示を見ればよくわかります。その話はまた後日。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-22 15:51 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 11月 29日

大連現代博物館の近代史の展示は台湾に似ている!

今年7月下旬、大連を訪ねて足を運んだいくつかの場所の中でとても興味深かったのが、大連現代博物館でした。
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大連現代博物館は2002年、いわゆる「愛国主義教育基地」としてオープンした博物館です。当初は改革開放以降の大連市の発展を紹介するプロパガンダ施設としかいえない代物でしたが、07年市政府はリニューアルを決定。13年4月に再オープンされました。その目玉常設展が「近代大連」です。ここではアヘン戦争の1840年から1949年の新中国建国に至る大連の歴史を扱っています。
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もともと小さな漁村にすぎなかった大連の誕生は、19世紀後半にロシア帝国がこの地に進出し、自由港とするべく港湾施設を建設したことに始まります。
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その後、日露戦争(1905)の勝利によって大連建設の主導権が日本に移ります。
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その遺構である「関東都護府」などの石碑も展示されます。
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大連港の建設や満鉄の設立、市街地の発展、路面電車の敷設など、見事に発展していく大連の近代史を豊富な写真や遺品で紹介していきます。
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この展示はいくつかのコーナーに分かれていて、中国ではお約束ともいうべき「人民反抗闘争」のコーナーもあります。
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しかし、何より驚いたのは、もうひとつのコーナーです。1840年~1945年の日本統治期を含めたその期間を「多元文化的交流与融合」の時代と位置づけ、当時の街の様子や人々の日常の暮らしを紹介していることでした。以前、旅順にある歴史博物館をすべて訪ねましたが、そこでの展示は、日本帝国主義の侵略と人民の抵抗だけの内容でした。それに対し、「多文化的交流と融合」の時代とは……。今日の中国では稀有ともいうべき斬新なコンセプトといえます。
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面白いのは、日本統治期に「浪速町」(現在の中山広場から旧ロシア人街に通じる通り)と呼ばれた繁華街のジオラマや、現在では跡形もない大連神社の太鼓(どこに保存されていたのでしょう?)の実物など、当時の市民生活の実像を紹介する展示がいくつもあったことです。
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そこには、中国の他の都市では決して見られない、戦前の日本と関わる史実を「歴史」として公平に扱おうとする姿勢があるのです。日本の記憶をすべて否定の対象とするのではなく、「多文化」の融合した時代の象徴として展示すること。そこには日本統治期を相対化しようとする視点があります。以前訪ねた台湾の歴史博物館の展示に似た印象を持ちました。

しかし、それはふつうに考えてみれば当然のことだ思います。なにしろ大連で都市建設が着手されたのは19世紀末のこと。自らの歴史を史実に沿って語ろうとすると約100年という短いスケールの中で日本の記憶を除き去ることができないのは無理もありません。それは上海の歴史博物館が西洋列強の租界を自らの歴史として取り込んでいるのと同様だからです。日本が占めた時間の意味をことさら誇張するつもりはありませんが、逆に政治的な意図があったため、これまで中国の歴史展示はそれを無視してきたといえます。

大連現代博物館の「近代大連」は、日本による侵略一色に塗りたてられていた中国東北地区の歴史展示を、固有の地域史として市民の実感に即して描き直そうとする野心的な試みではないかと思います。

しかし、ここは2010年代の中国。習近平体制以降、過去へと時代が逆行するような時勢の中で、このままずっとこの展示が許されるのだろうか。正直なところ、心配になったほどです。

ですから、あまり騒ぎ立てたりすると中国当局が反応してはまずいので、皆さんそっと足を運んでいただきたいと思います。実は、ぼくはこの博物館の館長と面識があるのですが、名前も伏せておこうと思います。その方に迷惑がかかると申し訳ないからです。中国とはどうしようもなく、そういう国だからです。

大連現代博物館の意欲的な取り組みは、近代史の展示だけではないようです。ちょうど訪れたとき、別の展示室で中部アフリカの民族文化の企画展も開催していました。アフリカへの莫大な投資を進める今日の中国が、市民に対して異文化理解を深めることを目的とした企画という意味であれば、これも興味深いといえます。
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さらにいうと、日本のアニメ文化の企画展なんてのもあったようです。
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大連現代博物館
沙河口区会展路10号
http://modernmuseum.dl.gov.cn
星海広場の北端にあります。
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by sanyo-kansatu | 2014-11-29 15:15 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)