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2015年 01月 03日

「典型的な露西亜式」綏芬河の歴史的街並みを歩く

戦前期のグラビア誌「満洲グラフ」は、1935年当時の綏芬河について以下のように記述しています。

「人口約一万、大部分は露人と滿人で、鮮人がこれに次ぎ、日本人も六百人位住んでいる。町は山の斜面に建てられ、その中央には全市をしろしめすかのようにロシア正教寺院の尖塔が聳え、如何にも典型的な露西亜式の『山の町』を成している」(「満洲グラフ」1935(昭和10)年5月号)

昨年7月、綏芬河を訪ねました。80年前に「典型的な露西亜式の『山の町』」といわれた歴史的な街並みを歩いてみました。

まず綏芬河駅から。1898年に開業した東清鉄道の駅です。
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これが乗車口です。この駅にはロシア側の国境のまち、グロデコヴォ行きの列車が1日2本出ています。
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駅舎内です。
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鉄道をまたぐ橋の上から、ロシアからの木材を満載した貨物列車が見えます。
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これは東清鉄道の技術者のための宿舎で、現在は「鉄路大白楼」(1903年竣工)と呼ばれています。満鉄職員の宿舎だったこともあります。現在は市が来賓を接待する場として使われているようですが、観覧はできません。
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その隣にも当時の鉄道関係と思われる建物があります。駅の周辺にはこうした建物がいくつか残っています。
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駅からまっすぐ坂を上った先に東方正教会(1913年)が建っています。
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いまでも礼拝は行われているようですが、ロシア正教ではなさそうです。内装は当時の面影はありません。
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これは当時のロシアとソ連の領事館(1910年)です。新中国になると接収され、共産党の機関や郵便局などに使われました。
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現在は文化施設として再利用される予定のようです。
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この大きな建物はロシア人学校です。日本時代は軍の施設だったようですが、現在は幼稚園のようでした。子供たちの歌声やピアノの音色が聞こえました。
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これは1916年に建てられたホテルでしたが、24年に共産党の幹部がここで会合をしたことから「綏芬河革命紀念地」と書かれています。現在は針灸と按摩の病院のようです。
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これは旧日本領事館です。建物自体はロシア人商人が1914年に建てたもので、22年に日本政府が購入して領事館にしました。文化革命時には排外的な暴徒によって美しい装飾が破壊されるなど被害があったものの、92年に修復されました。
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3階と4階の間に施された人の顔の装飾が珍しいことから、「人頭楼」と呼ばれています。もっともこれを見る限り、ずいぶん雑な修復ぶりですね。現在は、語学教室など、いくつかのオフィスが入居する雑居ビルとなっています。
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まちの中心に位置する広場は「旗鎮広場」と呼ばれています。
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頭上から広場を眺めると、ヨーロッパのような街並みに見えます。この辺境の地でもマンション建設が進んでいることがわかります。
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このまちでは、通りやバス停の表示にはロシア語が併記されています。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 11:17 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2014年 12月 27日

牡丹江に残る満鉄社宅、再開発による撤収は間近か

牡丹江は中国黒龍江省南東部を代表する人口90万人ほどの都市で、ロシア国境の町・綏芬河や延辺朝鮮族自治州の延吉、北部の鶏西方面などへ向かう鉄道の乗継の基点です。1000年以上前にこの地に栄え、日本との交易の歴史もあった渤海の王都のひとつ、上京龍泉府遺址が近くにあることで知られています。

このまちの都市建設は20世紀初頭の東清鉄道の敷設に始まります。ロシアがハルビンからポグラニチヌイ(綏芬河)までの鉄道建設を着手した際、その沿線を流れる牡丹江(満洲語で「曲がった川」を意味する「ムーダンウラ」の漢語読み)を駅名にしたことが由来です。

もっとも、都市の基礎は日本統治時代に造られました。満州国時代は北満開発の中心地となり、多くの日本人が移り住んでいました。なかにし礼の小説『赤い月』は日本の終戦前夜の牡丹江が舞台のひとつとなっています。1945年8月9日のソ連軍の侵攻により、多くの日本人がこの地で亡くなっています。

牡丹江駅の南西部に、現在も満鉄社宅が残っています。場所は「天安路」です。大連にも多くの日本家屋や満鉄の社宅が残っていますが、同様に家屋の老朽化が進み、住人はほとんどいないようです。
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実は、ぼくの祖父も、同年7月の民間人に対する強制的な徴兵によって牡丹江の部隊に配属され、牡丹江郊外の液河であっけなく戦死しています。

そうしたことから、ぼくは何度か慰霊のためにこの地を訪れています。黒龍江省の一地方都市ということで、10年前くらいまでは中国の目覚しい発展ぶりからは取り残されていた印象がありましたが、今回久しぶりに訪ねて、市街地の周辺に林立する高層マンションラッシュを目にし、ついに不動産開発の波がこうした辺境地域にまで及んでいることを実感しました。
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この豪奢なビルは牡丹江市の新市庁舎です。中国の地方都市は、どこでもこういう状況で、正直なところ、危なかしくってたまらない気がします。

牡丹江に残る満鉄社宅も、再開発による撤収は間近のようです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-27 08:42 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 23日

ショック!? あの『ラストエンペラー』に出てくる大連港の名所がなくなってしまった

今年7月、大連を訪ねたとき、いちばんびっくりしたのは、大連港埠頭待合所の表玄関が姿を消していたことでした。
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これが「満鉄グラフ」(1935年10月号)の大連・ハルビン開通記念特集のグラビアに登場する埠頭ビルです。

同特集によると、この年の9月1日から大連・ハルビン間(941.6km)が「超特急アジア」によって結ばれたとこう書かれています。

「九月一日の午前九時、大連・ハルビンの両驛から發車した満鐵の流線型国際超特急アジアは、その夜十時三十分、一分一秒の誤差もなく、青磁グリーンに塗られた颯爽たる雄姿を両驛のフォームに現はしたのである」

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そして、こちらが現在の姿です。ぼくは思わず「あっ」と声を出し、その場で溜息をもらしてしまいました。

なにしろここは、戦前期を象徴する大連の顔としての歴史的な場であることはもちろんですし、ぼくにとっても、公開当時夢中になった映画「ラストエンペラー」(1987)で、溥儀と家庭教師レジナルド・ジョンストンの別れのシーンにも使われた有名なスポットだったからです。

映画「ラストエンペラー」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg

簡単に大連港の歴史を振り返ってみましょう。

大連港は1898年、ロシア帝国が清から租借後、東清鉄道を大連まで延伸し、1902年に開港したものです。その後、日露戦争に勝利した日本が05年に租借地(関東州)としました。その年、大阪商船による日満連絡船(大阪・大連航路)が開設しています。
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待合所(正確には「大連港第2埠頭船客待合所」)が竣工されたのは24年。当時は1階に鉄道のプラットフォームが接続されており、鉄道に乗り換えることができたようです。また路面電車も通っており、市内に向かうことができました。
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ぼくも何度かこの待合所に入ったことがありますが、5000人の収容能力があったという長い通路に立つと、大陸の玄関口としての歴史の舞台を想起させるスケール感を強く感じました。

戦前期の大連のランドマークだった半円形の玄関口は26年に竣工されたもので、実は1970年代に、この写真のような味気のないビルに改装されていました。ですから、もともと魅力は半減していたといえるのですが、首から顔を切り落とされてしまったようないまの無残な姿からは、もうここが大連港にとって重要な場所ではないことをはっきり宣告されたようで、残念に思わずはいられませんでした。
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待合所の向かいの重厚な建築物は、旧満鉄大連埠頭事務所ビル。26年竣工です。こちらはまだ残っていますが、かつての大連の象徴的な空間が、丸ごとぬけ殻のように、さらにいえば無用の長物でもあるかのように茫漠と広がっている光景にも唖然とするほかないのです。
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よく見ると、路面電車の線路跡が残っていました。
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2012年7月にここを訪ねたときには何も変化はなかったことを記憶しているので、それ以後再開発されてしまったのだと思い、大連の知人に確認したところ、13年3月から改修工事が始まり、7月には現在の姿になったそうです。

ところで、大連港はこれからどのように再開発されていくのでしょうか。

現在、大連港の旅客船航路は、天津や煙台、威海など山東半島各地や大連の沖合に浮かぶ長海県の島々、そして韓国の仁川港へのフェリー航路などがあります。

これはいまに始まった話ではありませんが、大連港は旅客輸送よりも圧倒的に物流の拠点としての位置付けが大きいわけです。つまり、大連経済開発区に近い新港(旅客船の利用する旧港の北側に位置しています)の重要性のほうがはるかに上なのです。
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この写真は大連市の中心部の高層ビルから撮ったもので、左上に見える埠頭が新港です。

結果的に、この旧港の跡地は観光地として再開発されることになるようです。すでに兆しは見えます。たとえば、旧埠頭待合所の並びに誕生した「15庫」と呼ばれるファッションビルです。日本統治時代の大連港の倉庫群を改装した、いわば横浜赤レンガ倉庫の大連版です。
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4階建てのビルの中には、こじゃれたショップやカフェ、レストランが入店しています。
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港側に面したテラスには大連港を一望にできるカフェが並んでいます。
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夜も悪くありません。周辺の高層ビルの明かりも港に映えてきれいです。そういえば、薄熙来の大連市長時代、「大連は北方の香港」と称されていたことを思い出しました。当時はぴんときませんでしたが、この都市の為政者たちはまんざらそれがただの夢とは思っていないのかもしれません。
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入店しているショップも大連としては斬新で、北京によくある個性的な書籍や雑誌のみをセレクトしたブックショップ「回声書店」は面白いので、訪ねてみるといいでしょう。書棚に並ぶ本の種類が新華書店とはずいぶん違います。

15庫
大連市中山区港湾広場港湾街1号
http://www.weibo.com/15cool

さらに、大連港の南側にはヒルトンやコンラッドといった外資系のファイブスターホテルができていますし(ともに12年開業)、13年の夏季ダボス会議の会場として使われた国際会議センターは、この写真のように、いまの(いや、少し前の?)中国を象徴するようなスペクタクルなデザイン建築となっています。
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現在、この地区は東港(旧港)と呼ばれています。はたして大連港はどんな姿に変貌していくのか。

ぼくが初めてこの地を訪れた1980年代に感じた、まるで北欧の港町のような清涼感はすでに失われてしまっているいま、何か前向きな期待感というのは失礼な話、ないのですが、このまちに住む多くの知人や友人たちのことを思い浮かべるとき、中国のどのまちとも違う繊細さや穏健さを身につけている彼らが(それはたぶんこの都市の環境が育んだものだと思う)、中央政府的な野心から少し距離を置いて、別の道を選んでほしいと思ったものです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-23 13:28 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 22日

ハルビンのKFCはアールヌーボー建築

この建物は何だかわかりますか? 童話に出てくるおとぎの国のお家みたいでしょう。

答えは中国のある都市のKFC(ケンタッキーフライドチキン)のお店です。
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ずいぶんしゃれてると思いませんか?

この店は、黒龍江省のハルビンというまちにあります。ハルビンを最初に建設したのは東清鉄道をこの地に敷いたロシア人で、19世紀末のことです。
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もともとこの不思議なデザインをした建物は、東清鉄道管理局長の官邸で、1920年に建てられたものだ、とハルビン市が設置したプレートには書かれています。アールヌーボー建築です。

場所は、ハルビン駅の正面からまっすぐ伸びる紅軍街が大直街と交差する紅博広場に面したホテル「国際飯店」のすぐ隣にあります。
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デザインが面白いので、ついぐるぐる周辺から見渡してみたくなります。
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さっそくですから、店に入ってみましょう。
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内装は現代的ですが、ハルビンのあちこちに現存するロシア教会など、このまちを象徴する写真が飾られています。

周辺はすでに再開発が進んでいるのですが、ハルビンでは古い建築物を保存することが条例で定められているため、工事現場に囲まれながらも、こんな風に残されています。ここは、ケンタッキーの向かいにある地下鉄駅工事の現場です。
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ハルビンは自らの出自がロシアにあることを公式に表明することを決めたようです。それは彼らの歴史認識には抵触しないようです。市内の歴史博物館の展示を見ればよくわかります。その話はまた後日。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-22 15:51 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 11月 19日

大連の若い世代(80后)は日本時代の住居や路面電車が懐かしいという

今年7月下旬、大連を訪ねたとき、最も印象に残った場所が、地元生まれの若いカップルが経営しているカフェ「瀋小姐の店」でした。
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この店の特徴はお茶を飲むだけでなく、店内で版画や手づくり工芸を楽しめることです。アトリエ風の店内は、創作教室といってもいいかもしれません。
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客層は圧倒的に若い女の子ばかり。彼女たちは地元だけでなく、中国全土から旅行で訪れた人たちも多いそうです。
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店内には、大連の老房子(古い建築)をイラストや版画で描いた絵はがきや日本統治時代の古地図が売られています。
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「大連印画」「老大連」「大連の詩」「大連老式電車の旅」「歩く大連」「大連老建築」など、種類もいろいろ。中国の歴史博物館に展示されているような、どこかおどろおどろしい日本統治時代の写真とは、まったくの別世界。いまどきの中国の若者のセンスが感じられるポップな仕立てとなっています。

このカフェを経営しているのは、1984年大連生まれの周科さんと瀋潔さんです。ふたりは大連工業大学時代の同級生。ちなみに同大学には、アートデザインや服飾などの学部もあります。なぜこの店を始めたのか聞くと、こう話してくれました。
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「ぼく(周さん)は子供の頃、祖母の住む古い日本家屋でよく過ごしました。いまはオリンピック広場となっている北側の一画ですが、当時はそれが日本家屋だとは知りませんでした。高校生になった頃、これらの老房子が次々に再開発されるのを見て、自分の大切な思い出が失われていくようで惜しいと思ったのです。

大学で美術を専攻したぼくは、老房子の写真を撮り始めました。大学を卒業後、美術教師をしながら、撮りためた写真や版画を絵はがきにして、大連を訪れる観光客に伝えたいと考えたのが、このカフェの始まりです」。

※再開発の進む大連の状況については「次々に壊されていく文化台の一戸建て住宅【昭和のフォルム 大連◆文化台②】」http://inbound.exblog.jp/20697489/参照。
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奥さんの瀋潔さんは浙江省出身ですが、大学で知り合った周さんに大連をあちこち案内されたとか。そのときの移動の足はたいてい路面電車だったそうです。いまも自宅からこのカフェまで毎日通勤の足は路面電車。車窓から見える老房子を眺めながら、電車に乗るだけで大連の魅力が満喫できてしまうと思ったことから、このイラストマップ「大连漫游计划」(一部)や「大連老式電車の旅」の絵はがきをつくることを思いついたといいます。
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実は、奥さんの瀋潔さんは毛糸や皮の小物の手作り作家で、ノウハウ本の著書もあるという女性。このカフェには、そんなふたりの噂を聞きつけて、手作り創作と大連の魅力を教えてもらおうと全国からファンが集まるようになったといいます。
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周さんの話を聞きながらとても興味深いと思ったのは、1980年代生まれ(中国では「80后」世代といって、文革以前の古い社会主義中国を知らない新世代)の彼らが大連の日本家屋に対して親しみと懐かしさを感じているということでした。彼らは1990年代以降の「愛国主義教育」を最初に受けた世代ですが、そこで教え込まれた「歴史認識」をするりとスルーして、日本時代の建築に自らの幼少期の舞台としてノスタルジーを感じていることです。彼らにとって日本家屋は自分たちの大切な思い出なのです。

※中国の「80后」世代については、カテゴリ「アニメと「80后」の微妙な関係」を参照。
http://inbound.exblog.jp/i13

もっとも、いまとなってはわずかに現存するにすぎない大連の日本家屋は、いわゆる内地の家屋とは違い、当時は最先端の文化住宅だったはずです。なにしろ水洗トイレやお風呂も普通に備わっていたのです。大連で幼少期を過ごした年配の方が、日本に引き上げてきてからいちばん驚いたのは、「ボッチャントイレ」と「五右衛門風呂」だったと話していたことを思い出します。「大連の当時の生活環境に日本が追いついたのは、昭和50年代になってからではないか」。そう語る引き上げ世代の話を聞いたこともあります。つまり、大連の若い世代が懐かしく思っているのは、戦前期の日本にはまだ一般化していなかった昭和モダンの最新式住居が歳月とともに老朽化した姿だったといえます。

大連の若い世代の日本家屋に対する感覚は、大連育ちの日本の年配の皆さんと重なる部分とそうでない部分があるかもしれませんけれど、実はぼくのような戦後まれの「満洲3世」にとっても共感する部分が大きいといえます。それは大連との同時性を有していた日本の昭和モダンが持つフォルムの温かみや懐かしさを、高度経済成長期に重なる自らの成長とともに失ってしまったという想いであり、日中の経済発展のタイムラグによって同じ経験が後年外地でも生まれたのだという共時性を周さんに感じるからです。実際、ぼくが初めて大連を訪ねたのは1980年代半ばで、彼が生まれたばかりの頃でした。

だからでしょうか、ぼくは初対面の周さんと話がずいぶん合いました。なぜ彼が老房子の写真を撮りためようとしたか、その動機が手に取るように理解できたからです。そんな話を周さんにしたところ、彼も日本で刊行された大連の老房子の写真集や本を集めていると言いました。

ちなみに周さんは電車ファンでもあるそうです。実は、1990年代の薄熙来市長時代の大連では、それまで使っていた日本時代の老朽化した電車を新式車両に転換する際、あえて外観のデザインは日本時代の姿を残そうとしたそうです。それが大連市民のフィーリングに合ったからでしょう。その決定はいまも高く評価されていると聞きます。
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その車両は、時代を経て今日も残る日本時代の石造建造物との対比でみると、少し真新しすぎるように見えなくもないのですが、遠目のシルエットは当時と変わらないものです。それが旧満鉄関連のビルの前を走っていたりする姿がいまでも見られるのが、大連の風情となっています。そして、その路面電車は周さん夫妻たち、現在の大連市民の日常の足でもあるのです。

大連市民の間では、いまでも失脚した薄熙来の人気が高いようですが、こうした日本がらみのエピソードが穏やかに語られているのは、中国広しといえども、大連くらいではないでしょうか。

カフェ「瀋小姐の店」は、旧ロシア人街の最も奥まった場所の右手にあります。いまや新しい大連観光の情報発信地となっています。
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旧ロシア人街の建物はいまではあざとくペイントを塗り替えられ、テーマパークと化してしまいましたが(そういう意味では、もう情緒はありません)、カフェの窓の外には旧大連自然博物館が見えます。なぜかここだけは投資の対象からはずされ、かつて東清鉄道事務所や市役所にも使われた老房子の荒れ果てた姿は、ちょっぴり痛々しさを覚えます。
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●カフェ「瀋小姐の店」
住所:大連市西崗区団結街6号文化産業研究中心
http://site.douban.com/129650/


※現在の旧ロシア人街については――

ショック!? 大連「旧ロシア人街」の再開発が一気に進んでいた
http://inbound.exblog.jp/24019874/
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by sanyo-kansatu | 2014-11-19 18:35 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 03月 24日

日本の供養文化を海外にどうやって伝えるか(お仏壇のハセガワ銀座本店)

今回も「やまとごころ.jp」のインタビューから。「お仏壇のはせがわ銀座本店」の話。

2003年に銀座1丁目に開店した「はせがわ銀座本店」には、多くの外国客が訪れている。「お仏壇のはせがわ」でおなじみの同店で外国客に人気なのは、和を感じさせる季節の室礼(しつらい)商品や、6階のギャラリーに収蔵されている年代物のお仏壇など貴重な伝統工芸品だ。まだ始まったばかりの同店のユニークな外国客誘致の取り組みについて、大石光一本店長と林星司店長のおふたりに話を聞いた。
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目次:
供養マーケットの創出
売れ筋は24節句の室礼(しつらい)商品
日本の伝統工芸技術を伝えるギャラリー
今後の課題

―銀座本店の位置付けについて教えてください。

大石
「これまで弊社はお仏壇や仏具、墓石や納骨に関するトータルサポートなど、新しい供養マーケットの創出を手がけ、国内に100店舗以上を出店してきました。ブランディングショップとして銀座本店をオープンさせたのは2003年です。お仏壇というのは、お寺さんを小さくした本堂で、家の中で仏様や祖先を祀る場所です。そこには、鍛金や彫金、金箔打ち、漆塗りなど、さまざまな伝統工芸の技法が集約されています。
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銀座本店では、単にお仏壇や仏具を並べるだけでなく、日本の伝統的な供養文化を多くの方に理解していただくため、小さなギャラリーを設置しました。

そこでは、定期的にお坊さんを呼んで法話会を開いたり、仏具等の展示会を開催したりしています。
毎年10~12月には古布人形展をやっていますが、そのときばかりは、ここは本当にお仏壇屋さんなのだろうか、というほど大勢の方がいらっしゃいます」

―いつごろから外国客が来店するようになったのですか?

大石
「当初外国のお客様のご来店は想定していなかったのですが、オープンすると、すぐに店内を覗きに来られるようになりました。最初は欧米の方が多かったようですが、最近はアジア方面、特に中国からのお客さまが多いという印象です。いまは欧米客3:アジア客7くらいの比率でしょうか」
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「1階に展示してある『季節の室礼商品』と私どもが呼んでいる、端午や桃の節句にちなんだガラス細工やちりめん細工の商材を手に取ったり、奥の黄金の茶室をご覧になったりしています。
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欧米の方は特に着物生地の商材やお香がお好みのようです。よく購入される商品の価格帯は、3万円前後。アジアのお客さまには香木が人気です。『これはどこで採れたものですか? 何年物ですか?』と熱心にご質問されます。中国に比べ値段が安く、偽物を買わされることがないので、日本での購入を希望するそうです」

大石
「欧米客は仏像をキャラクター化したブロンズ像などをアート作品として購入される場合が多いです。有名な彫刻家で東京芸術大学の籔内佐斗司先生の作品はとても人気があります」。
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―ギャラリーでは何を展示しているのですか?

大石
「弊社ではお仏壇や仏具の製造に加え、国内の重要文化財の修復をお手伝いさせていただいています。いま世界的にお仏壇や仏具を専門に作る職人は少なくなっています。中国では文化大革命によって徹底的に仏教文化が破壊されたため、ほとんどいないそうですし、台湾でも高齢化が進んでいると聞きます。そこで、2006年以来、弊社は東京芸術大学と連携、文化財保存学を学ぶ大学院生の最優秀研究に『お仏壇のはせがわ賞』授与し、日本の伝統工芸技術の継承にささやかながらご協力させていただいています。
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銀座本店のギャラリーは『ご供養の過去・現在・未来』をテーマとして日本の工芸技術と『祈りの心』を知っていただくために開設したものです。明治時代の金仏壇や阿弥陀如来立像といった貴重な文化財とともに、同大学院の優秀作品などを常設しています。来店したお客さまからお声をかけていただければ、6階までご案内します」。

―外国客向けの課題や今後の展望についてどうお考えですか?

大石
「昨年10月から中国福建省出身の林店長が着任し、中国のお客さまの接客は彼が担当しています。英語を話すスタッフもおり、ようやく外国客向けの態勢を整えつつある状況です。日本の『祈りの文化』を海外の方にもっと伝えていきたいと考えていますが、まだまだこれからです」。


「アジアのお客さまの8割を占める中国本土のお客さまは、一つひとつの商材に対して『これはどこで作ったものですか? この仏具にはどんな意味があるのですか?』と細かく尋ねられることも多く、やりがいがあります。日本の仏像の面相は、東南アジアと違い、中国や朝鮮半島の仏像と似ているので、人気があるのです。最近、中国では若い世代がお寺にお参りによく行くようになったといわれます。時代と共に信仰心が蘇ってきたのです。ですから、海外のお客さまをいかに当店に誘致するか、仏壇仏具を通して日本の伝統工芸技術の素晴らしさをいかに伝えるか、というふたつの目標をこれから掲げていきます」。
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はせがわ銀座本店
東京都中央区銀座1-7-6 銀座河合ビル
http://www.hasegawa.jp

【編集後記】
当初「お仏壇のはせがわ」に外国客が訪れているという話を聞いたとき、きっとタイ人だろうと思っていました。タイ人の日本旅行には、全国各地の大仏や仏教寺院の訪問が欠かせず、彼らが熱心にお参りしている姿を見ていたからです。ところが、銀座本店で話を聞いたところ、来店客の多くは中国本土客でした。背景には、文化大革命で破壊され、失われた中国の仏教文化を取り戻そうとする精神的な欲求があるらしいこと。ここ十数年の経済一辺倒の風潮の中で、特に中国の若い世代が熱心に宗教文化にすがろうとしている姿が見られることなど、今日の中国人にとって心の問題がとても重要になっていることを、同店の中国出身の担当者の指摘から知ることができました。

銀座には毎日、多くの観光バスが現れ、外国人観光客が散策とショッピングの時間を過ごしています。銀座には、はせがわ以外にも、日本を代表する多くの企業のショールームが集まっています。これらのショールームが一堂に連携して日本のものづくりの素晴らしさを発信することができれば、外国客に対する銀座の新しい過ごし方を提案できるのではないでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-24 15:18 | 東京インバウンド・スポット | Comments(0)
2014年 01月 21日

文革時の蛮行をザンゲする元紅衛兵たち

脱臭無菌化された「文革系雑貨」があふれる一方、最近中国では文革当時の蛮行をザンゲする年老いた元紅衛兵たちが現れています。

先日もたまたま北京にいてキオスクで手にした新京報に以下の記事が掲載されていました。

新京報 2014年1月13日
宋任穷之女向文革中受伤害师生道歉 数度落泪(←これは同記事が転載されたものです)
http://news.sohu.com/20140113/n393382704.shtml
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このニュースについては、産経新聞が以下のように報じています。

文革の元紅衛兵、相次ぎ謝罪 背景に習政権の毛路線模倣への懸念
2014年1月14日
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140114/chn14011411420002-n1.htm

「1966年から76年に中国全土を席巻した文化大革命中に、教師や知識人らをつるし上げ、暴行を加えた紅衛兵による被害者への謝罪が昨年から急増している。中国メディアによると、著名な紅衛兵リーダーだった宋彬彬(そう・ひんひん)氏が12日、北京で文革を反省する会合を開き謝罪した。背景には、習近平政権が毛沢東を模倣した政治運動を展開していることを受け、文革再来への懸念が関係者の間で広がっている事情があるとみられる。

13日付の新京報などによると、宋彬彬氏ら元紅衛兵約20人は北京師範大学付属高校に集まり、文革中に紅衛兵の暴行を受けて死亡した同校の元副校長、卞仲耘(べん・ちゅううん)氏の銅像に黙●(=示へんに寿の旧字体)(もくとう)しざんげした。宋氏は涙ながらに「先生に永遠の追悼と謝罪を表したい」との内容の反省文を読み上げた。」

実は、昨年12月14日、専修大学で宋彬彬氏ら当時の紅衛兵による蛮行をテーマとしたドキュメンタリー映画『私が死んでも』(胡傑監督)が上映されています。同作品は、1966 年8 月に紅衛兵に殺害された、北京師範大学附属高校の党総書記で副校長だった卞仲耘の境遇を扱っており、彼女の夫へのインタビューと彼が当時撮った多数の写真を主たる素材としています。

この上映会は、昨年12月に開催された「中国インディペンデント映画祭2013」の関連企画として実施されたものです。

胡傑監督作品上映とトーク
日時 十二月十四日(土)
『私が死んでも』午後一時一五分~二時二五分
『林昭の魂を探して』二時三五分~四時三五分
胡傑監督トーク「中国現代史とドキュメンタリーの可能性」
会場 専修大学神田校舎一号館二〇二教室
主催①③ 専修大学土屋研究室 http://www.t3.rim.or.jp/~gorge/tsuchiya.html

『私が死んでも』は、文革当時に北京の女子高で起きた教師に対する恐るべき集団リンチ殺人の遺族とその周辺の人々の肉声でつづられた作品でした。なぜ当時の女子高生たちがこのような行為に及んだのか。いまの中国の都市に住む恵まれた階層の若者たちには理解を超えているかもしれません。

1か月ほど前にこの作品を観ていただけに、事件の首謀者たる当人がメディアに姿を現わし、ザンゲしたというニュースを知り、ぼくはかなり驚きました。胡傑監督によると、同作品は中国では一般公開はできませんが、知識人を中心にかなり広範囲にDVDとしてコピーされて広まっているそうです。今回の宋彬彬氏の行動も同作品の存在を抜きにしては語れません。

同作品の概要と胡傑監督のトークの内容については、後日紹介しようと思います。
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胡傑監督(2013年12月14日 専修大学にて)
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by sanyo-kansatu | 2014-01-21 10:07 | のんしゃらん中国論 | Comments(0)
2014年 01月 20日

中国の文革系サブカル雑貨は日本の1970年風?

池袋にできた華人経営の「文革レストラン」の店内ディスプレイやポスター、標語の数々について以前、ぼくはこう書きました。

「これらに見られるように、「文革レストラン」に散りばめられた一見政治的かつノスタルジックな文化的意匠は、実のところ、当時への郷愁ではなく、むしろ2000年代の中国の都市部に多く現れた文化雑貨屋で売られていた他愛のない流行商品やキャラクターグッズのたぐいと変わらないものです。パロディーといっても、そこは用意周到毒抜きされています」(「池袋の「文革レストラン」再訪。紅衛兵コスプレ美女に会う」)。

では、ここでいう中国で商品化された「文革系カルチャー雑貨」とはどんなものでしょうか。

北京の人気観光スポットである南羅鼓巷と798芸術区にある文化雑貨屋で売られているものをいくつか並べてみましょう。そこは地方から北京に遊びに来たおのぼりさんでにぎわっているという感じのスポットです。2008年ごろから2014年1月くらいに撮ったものです。

南羅鼓巷
http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g294212-d2008082-Reviews-Nanluogu_Lane-Beijing.html
798芸術区
http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g294212-d1793347-Reviews-798_Art_Zone-Beijing.html
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これが池袋の「文革レストラン」で見られた文革時代のポスターや標語をパロディー化した雑貨群です。「80后」というのは、中国の1980年代生まれの世代を指します。彼らがこれらのサブカル雑貨のメインの消費者だったというわけですが、もはや本来の政治的な文脈は毒抜きされているので、パロディーとも呼べそうにありません。単なるファンシーグッズです。
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「毛沢東語録」も「愛情語録」に変換されているくらいです。借りているのは、図柄や意匠だけで、当時の陰惨な歴史の記憶はすっかり忘却されています。そう考えると、これらのファンシーグッズがいかにグロテスクな存在であるかを思い知らされるのですが、そんなことを彼らに言っても始まりません。
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なにしろ紅衛兵人形も「可愛的(かわいい)」キャラクター商品です。

ところで、これらの文革系サブカル雑貨は、1990年代の中国現代アート界を一斉風靡したポリティカルポップと呼ばれた作品群が原型となっているはずです。しかし、当時すでにそれらの作品の政治性は「虚勢」されてしまっているとも指摘されていました。中国の高度経済成長によって現出した消費社会が、これは日本でも同じだったのでしょうが、本来もっていたはずの批評性をなし崩し的に無為化してしまったからです。中国では、毛沢東グッズがみやげ物やお守りになる時代を迎えているのです。

そんなわけですから、ファンシーグッズと化した文革系雑貨について、いまさらあれこれ言っても始まりません。そこで、今度は文革がらみではないグッズも見てみましょうか。それは、いつぞやの日本を思い出す光景だったりします。
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これなど1970年代に流行った「幸福駅」の切符を思い起こさせます。
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中国の人気漫画キャラクターの脱力感あふれるコメント付き雑貨も定番です。
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学生たる者「よく食べ、よく飲み、好色(セクシー)であれ」
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若者の流行語を書き並べたパネル。「宅女」は、わかりますね。
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いまでもたまに見かけますが、数年前まで中国ではこんなマスクが流行ってました。2000年代らしいのどかな風景といっていいのかもしれません。でも、最近はPM2.5による大気汚染が深刻化している時代です。いつまで彼女たちがしゃれっ気や遊び心で日本の1970年代風ファンシーグッズの世界で戯れていられるのか。ちょっと気にならないではありません。

もしかしたら、2000年代というのは、中国の激動の現代史において民衆がつかの間のほっと息をつける安定した時代だったと、後世になっていわれるのかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2014-01-20 18:48 | のんしゃらん中国論 | Comments(0)
2013年 12月 24日

池袋の「文革レストラン」再訪。紅衛兵コスプレ美女に会う

昨晩、仕事仲間と池袋の文革レストラン「東方紅」で忘年会をやりました。その日集った皆さんは中国通が多く、先日ぼくが文革レストランを訪ねた話をしたところ、すぐに食いついてきたので、お連れしたというわけです(大学で東洋史を専攻した皆さんばかりです。専門的に中国史や中国語を学んだことがないのは自分だけ。恐縮します)。
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エレベータの扉が開くと、最初に目に入るのが、毛沢東の大ポスター。皆さん、そこで「おぉー、これがそうか」と軽く反応しつつ、店内に入ると、文革ポスターやら標語の数々を物色しながら、席についたのでした。

席まで案内してくれた紅衛兵のコスプレ店員は、中国のネットに写真が出ていた例の彼女でした。大連出身の王さんといいます。お笑い芸人の青木さやか似の美女、といっておきましょう。明るくていねいな接客で好感度が高いです。
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在日中国人、池袋に文革レストランを開店
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-11/05/content_30500644.htm

店内には、若い中国人のグループが何組かと、今回初めて日本人のグループを2組見かけました。この手の中華料理屋にはよくいそうな年配の男性3人組(きっと中国の夜のお仕事の女性に連れてこられたのでしょう)と、ちょっと意外だったのは、若い女性の4人組でした。だんだん日本人客も増えているんですね。

中華料理はやはり大勢で行くのが楽しいものです。今回5名で行ったので、いろんな料理が注文できました。中国通の皆さんですから、それぞれお好みの料理があるようでしたが、「念のため言いますけど、ここは中国東北料理の店ですから」と、ぼくがひとこと付け加えると、では「酸菜の鍋にしましょう」と、Hさんがメニューを見ながら応じてくれました。
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これが酸菜カキ鍋です。酸菜は中国東北地方の名物の白菜の酢漬け。簡単にいうと、トウガラシ抜きのキムチのようなもので、ちょっと酸っぱいんです。それにこの季節旬のカキを入れて白湯風のスープにした鍋です。美味でしたよ。
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せっかくですから、コスプレ店員の王さんにおすすめを聞いてみると、面白い料理が出てきました。文革時代をイメージ化したアルミの弁当箱のようなものに入ってでてきた豚肉と野菜の田舎風煮込みです。野菜にはカボチャやトウモロコシも入っています。クミンやハッカクなども使われていて、いかにも東北料理らしい味付けでした。
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これは東北料理というわけではありませんが、インゲンの四川風辛味炒めです。日本人の口に合いますね。

他にもいろいろ頼んだのですが、皆さんの評価は、「この店で頼むべきは、東北料理。他の地方料理はちょっと予想した味付けと違う気がする」というところでまとまりました。こういうことって、中国でもよくあります。いまの時代、都市部ではいろんな地方料理レストランがあるのですが、たいてい地元の好みの味に変えられていて、本場の味を知る人からすると、「あれっ、ちょっと違う」となるものです。東北人が四川料理をつくると違った味になるという話で、池袋でもそれがいえるわけです。

とはいえ、ふだんは口の悪いことで知られるHさんから「こんな本場の料理が日本で食べられるとは、うれしいことですね」と言われたので、ぼくはほっと胸をなでおろしたのでした。そして、「そりゃそうですよ。本場の東北人がつくってるんですから」と応じたものです。
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中国語のわかる皆さんですから、店内にたくさん貼られたポスターや標語が気になるようです。たとえば、トイレの前に貼ってある「同志们,无论大小,记得冲(皆さん、大でも小でも流すことをお忘れなく)」や、厨房に入る従業員出口の「闲人免进(関係者以外立ち入り禁止)」は、当時のプロパガンダポスターから図柄を拝借し、言い回しを変えてパロディー化したものです。
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これは、2000年代半ば中国で一斉風靡したテレビのオーディション番組の人気投票でデビューした李宇春さんというアイドル歌手の新曲のタイトル「再不疯狂我们就老了」を拝借して、当時のポスターにはめ込んだもののようです。
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またこれは逆のパターンで、文革当時、毛沢東が紅衛兵に呼びかけた「战无不胜的,毛泽东思想胜利万岁」というメッセージ入りのプロパガンダポスターの、紅衛兵たちが高く掲げる(おそらく)毛沢東語録(だと思いますが)の代わりに米国アップル社のロゴをはめ込んでいます。

中国共产党第九次全国代表大会主席团秘书处新闻公报(1969年4月24日)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64561/4429452.html

これらに見られるように、「文革レストラン」に散りばめられた一見政治的かつノスタルジックな文化的意匠は、実のところ、当時への郷愁ではなく、むしろ2000年代の中国の都市部に多く現れた文化雑貨屋で売られていた他愛のない流行商品やキャラクターグッズのたぐいと変わらないものです。パロディーといっても、そこは用意周到毒抜きされています。

※これらのグッズについては「中国の文革系サブカル雑貨は日本の1970年風?」を参照。 

とはいえ、今月26日が毛沢東生誕120年にあたることを意識して書かれたと思われる今朝の朝日新聞の国際記事「文革 封印の過ち語る 毛沢東生誕120年 回顧の風潮に危機感」(2013年12月24日)が指摘するように、中国では「文革レストラン」という存在自体、単なる飲食施設ではなく、悲惨な歴史の記憶の回顧化、あるいは忘却化に貢献するものだという見方もあるようです。なんにしろ、そんなに遠い時代の話ではないからでしょう。同記事の中では、自分が密告したことで、母親が銃殺刑にされた弁護士の話がでてきます。中国の現代史のタブーを突いてにわかに出現したかのような「文革レストラン」には、まだまだ尾ひれの付く話が出てきそうです。

※そういう意味では、最近中国で文革時の蛮行を懺悔する元紅衛兵たちが現れていることに注目したいと思います。「文革時の蛮行をザンゲする元紅衛兵たち」 参照のこと。
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by sanyo-kansatu | 2013-12-24 10:45 | のんしゃらん中国論 | Comments(0)
2013年 10月 14日

平壌で見かけた台湾人観光客たち(万寿台創作社レストラトランにて)

平壌では多くの中国人観光客を見かけました。外国人客の泊まるホテルは限られており、ぼくの滞在していた高麗ホテルには、ヨーロッパ人客もずいぶんいました。エレベーターに乗り合わせた外国人に片っ端から「Where are you from?」を繰り返したところ、イギリス、ニュージーランド、フィンランド、ロシアなどの観光客が確認できました。純粋な観光客もいましたが、我々のような招待旅行、学術研究の会議の出席者など、いろんなタイプの旅行者がいます。
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今回、平壌では台湾客も見かけました。北朝鮮が海外向けに朝鮮絵画や陶器などの美術品を制作販売している万寿台創作社(→「北京の朝鮮万寿台創作社美術館のアーティストたち」)の経営するレストランでのことです。
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彼らの食事をする個室では、朝鮮の女の子たちによる歌と踊りのショーが繰り広げられていて、我々も一緒に観ることになったのです。
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このレストランには画廊が併設されています。朝鮮の陶器や国内の名勝を描いた風景画などが展示販売されていました。台湾客たちの中には何枚か絵を購入している人もいました。
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ぼくは風景画にはあまり興味がないのですが、何枚か朝鮮の現代の姿を描いた作品もありました。一点は現在の首都平壌を描いた作品。実際の夜はこんなに明るくはないけど……というつっこみはともかく、もう一点は、いつぞや話題となった朝鮮美女軍団を描いた作品です。真っ赤なポロシャツにキャップのロゴはナイキ。ところで、ここに描かれている女の子は、みんな同じ顔に見えてしまうのは気のせいでしょうか。
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ところで、2013年10月14日の朝日新聞朝刊に「北朝鮮貿易博 台湾が初出展」という小さな記事がありました。

「中国・遼寧省丹東市で14日まで開催中の北朝鮮貿易の博覧会で、初めて台湾の中小企業6社が出展した。電子機器や化粧品、自転車のほか特産の高山茶などを売り込み、会場そばには約20店の台湾飲食店も並んだ。中国に生産拠点を広げる台湾企業は、北朝鮮の安い労働力に注目している」とのことです。

「国連の厳しい経済制裁下にある北朝鮮に対して、台湾は日韓のようにすべての貿易を禁じておらず、染料などの化学製品や医療機器などを輸出している」

「中朝両国が北朝鮮領内で進める経済開発区の関係者によると、すでに台湾系の大手電子機器メーカーに区画が割り当てられているという。別の関係者は『視察は中国企業に次いで台湾企業が多い』と明かす」

レストランで台湾客を見かけたとき、「あれっ(中国本土客が多いのはわかるけど、台湾客も来ているんだ…)」と一瞬意外な感じがしたのですが、こういう事情であれば、平壌で台湾人観光客に出くわすのは当然でしょう。
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by sanyo-kansatu | 2013-10-14 09:33 | 朝鮮観光のしおり | Comments(0)