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2013年 07月 07日

次々に壊されていく文化台の一戸建て住宅【昭和のフォルム 大連◆文化台②】

神戸や函館に似た、中国では珍しい高台の一戸建て住宅街だった大連の文化台の景観が大きく変わり始めたのが、2000年代後半に入ってからです。
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中国の中央政府が着手した「東北振興」政策によって、ここ大連でも次々に都市近郊にまで再開発の波が襲うようになりました。その結果、文化台の一戸建て住宅が次々に壊されてしまいました。
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1990年代の大連は、先般失脚した薄熙来が市長でした。彼の開発区を中心にした積極的な外資の導入により大連は発展し、市街地はいち早く再開発の時代を迎えたのですが、その波は郊外にまでは及んでいませんでした。しかし、胡錦濤政権以降に常態化してしまった地方政府による土地売却利益と不動産投機がカップリングしたあやしげな再開発がついに大連でも動き出してしまいました。

現在の文化台には当時の住宅はもうあまり残っていません。一部当時を想起させる閑静な住宅街の風情は見られるものの、おそらくこの地区から多くの大連市民は離れてしまっていると思われます。彼らは新しい高層マンションの住人として生まれ変わっているのでしょう。いまでもこの地区に残っているのは、高齢化して新興マンションに移り住むことのできない住民たちか地方から流入した外地人がほとんどではないかと思われます。

2012年7月、文化台にわずかに残された日本時代の一戸建て住宅を写真に収めることにしました。
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by sanyo-kansatu | 2013-07-07 23:46 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 07月 07日

周囲の高層建築とはまるでスケールの違う街区【昭和のフォルム 大連◆連鎖街③】

大連駅前に残る不思議な一画、旧「連鎖街」に人気の少ない早朝、再び訪ねてみました。
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人通りが多く、屋台などが出ていると、ただの中国の古い繁華街にしか思えませんが、無人の「連鎖街」に立っていると、まるでタイムスリップしたような気分になってきます。

「連鎖街」の後方に高層建築が見えますが、この街区とはスケールがまるで違うことに気づきます。それは視覚的にもわかることですが、何より身体で感じることができます。その対比自体はとても興味深いことですが、ここではこのマイクロな空間構成こそが昭和の街並みなのだと理解して、この空間を楽しむことにしましょう。
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あとは、建築の老朽化や簡体字の看板などの存在はひとまず無視して、建築の細部を切り取り、そこに目を凝らしましょう。この時代の建築は曲線の多い優美なファサードもそうですが、窓の形や配置が実にチャーミングだと思います。そして想像力をふくらませましょう。通りを何度も行き来していくうちに、だんだん頭の中に絵葉書で見た当時の風景や喧噪が蘇ってくるような気が……。
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まったくもってこれはひとり遊びの世界には違いありませんが、「古地図を見て東京を歩く」という楽しみ方と少し似ています。東京の場合、江戸、明治、昭和といくつもの時代が折り重ねられた歴史の多重性が複雑に絡み合いますが、大連の場合、そこはわりとシンプルです。つまり、日本の統治した昭和と新中国建国後の停滞期から改革開放を経た現在に至るまでの時間軸でほぼ割り切れる世界といえます。

「連鎖街」には、その地に立って初めて蘇る身体感覚があります。それは歴史的な時空との対話とでもいえばいいのか。それにしても、当時のマイクロな街並みの中で繰り広げられていた人間の暮らしや営みは、今日のように高速建築が建ち並ぶ世界と、どこがどう違うのでしょうか。ぼくには今日の世界のほうが当時に比べて暮らし向きがいいとはとても思えないのです。
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by sanyo-kansatu | 2013-07-07 15:21 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 07月 07日

「昭和モダン遺跡」と名付けたい【昭和のフォルム 大連◆連鎖街①】

大連駅前に “昭和”の時間がそのまま残されたエアポケットのような一画があります。
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そこはかつて「連鎖街」と呼ばれたまちです。

前回紹介した甘井子は都市近郊の住宅街ですが、「連鎖街」は昭和モダニズムがコンパクトに体現された都市空間といえます。周辺はすっかり高層ビル群に取り囲まれているにもかかわらず、そこだけぽっかり3階建てくらいの昭和の低層建築の一画が取り残されているのがとても不思議です。まるで『3丁目の夕日』に使われた映画セットのようでもあるのです。

駅前を東西に走る旧栄町通(現・長江路)の南側、駅から向かって右手の旧末広町通(現・青泥窪橋街)が交差する一画に、当時日本の地方都市にはどこにでもあったであろう駅前繁華街を形成する街並みがそのまま残っています。

当時の記憶をもとに書き起こされた地図によると、駅に面した角にジャパンツーリストビューロー(JTBの前身)のオフィスがあったようです。かつて日本全国および外地と呼ばれた中国大陸、朝鮮半島、台湾などの主要都市の駅前の一等地には、必ずジャパンツーリストビューローがあり、旅客を迎えていました。
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ほかにもバーやカフェ、洋品店、航空会社のオフィスなど、いかにもハイカラな店舗が並んでいたことがわかります。

以下、当時の写真資料を紹介します。資料の提供は大連世界旅行社の桶本悟さんです。

面白いのは、「連鎖街」の中心を東西に交差する目抜き通りの名が、日本の繁華街を代表する「銀座通り」(写真上)「心斎橋通り」(写真下)と呼ばれていたことです。
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「連鎖街」には常盤座という劇場もありました。戦前昭和のスターの多くは、大連に立ち寄った際、この舞台で活躍したそうです。
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また往年の映画スター、三船敏郎の生家として知られる「スター写真館」が入っていたビルもあります。三船敏郎は1920年青島生まれ。彼の父親は中国大陸で貿易商を営んでいた人物ですが、25年に大連に移り住み、写真館を開業したそうです。
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それから、これは桶本悟さんに教えていただいた話ですが、テレビドラマ『水戸黄門』シリーズで、1969~78年まで格さん(渥美格之進)役を演じた横内正さんの生家のビルも残っています。

「連鎖街」の南を走る旧常盤通り(現・中山路)は、路面電車も走る大連を代表する大通りでした。三越などの百貨店もありました。
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ぼくは初めて「連鎖街」周辺を歩いたとき、「昭和モダン遺跡」とでも名付けたい衝動に駆られたものです。そこには、確かに昭和の日本の地方都市の駅前から繁華街に至る空間と同質のものがあると身体で感じたからです。

次回は「連鎖街」の現在の姿を紹介します。
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by sanyo-kansatu | 2013-07-07 12:16 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 07月 06日

“昭和”がいちばん残る街【昭和のフォルム 大連◆甘井子】

大連は訪れるたびになんともいえない親しみを感じるまちです。

現在では再開発と高層ビル化が進み、かつてのすがすがしい北方の港町という風情は感じられなくなってしまいましたが、“昭和”のフォルムを探してこっそり街を歩くのは楽しいひとときです。

なかでも大連市中心部から大連湾をはさんだ北側にある甘井子は、市内でもいちばん“昭和”の街並みが残されているまちかもしれません。

甘井子は都市近郊の住宅地です。いまでも当時の交番や消防署、病院、学校、そして満鉄の社宅などが、老朽化しながらもなんとか残っています。長い年月による庭木の成長で緑に覆い尽くされた満鉄の一戸建て社宅が並ぶ路地を歩いていると、自分の幼少期である昭和40年代にわずかに残っていた街のおぼろげな記憶が呼び起され、しんみりしてしまいます。

写真は2012年7月上旬、甘井子を訪ねたときのものです。あいにく雨天でしたが、それもまた悪くなかったです。撮影は佐藤憲一カメラマン。現地を案内してくれたのは、大連世界旅行社の桶本悟さんです。

旧甘井子消防署
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旧甘井子交番
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旧甘井子水道局
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旧甘井子博愛病院
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甘井子の東の外れには、石炭積み出し埠頭がありました。いまも埠頭はあります。
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さて、以下は旧満鉄の社宅など、当時の住居です。最初は一戸建てで2階建ての社宅です。
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旧甘井子満鉄独身寮(撮影は桶本悟さん)
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旧甘井子満洲化学工場社宅(撮影は桶本悟さん)
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甘井子満洲化学工場の敷地内には神社もありました。いまは児童館のような使われ方をしていました。
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旧甘井子小学校
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以下、一戸建ての社宅です。
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集団住宅です。かなり老朽化しています。
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住人はすでにいなくなってしまったのか、開け放たれた戸の中をこっそり覗いてみました。
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階段に寝そべった猫がこちらを見ていました。
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by sanyo-kansatu | 2013-07-06 22:55 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 09日

当時こんなにいろいろあった専門学校【昭和のフォルム 大連◆校舎④】

大連に現存する日本時代の校舎といえば、専門学校がいくつかあります。
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なかでも古いのは、南満洲工業専門学校(大連工業実務学校として1911年5月開校、22年に改組。日本時代は伏見町)です。現在は大連理工大学の一部として使用されています。
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大連市立実業学校(1921年開校。柳町にあったが、41年日出町に移転)は現在、大連の海軍学校です。日本のジャズドラマーの草分けとして有名な故ジョージ川口さんは同校出身だそうです。
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大連高等商業学校(1936年開校。日本時代は紅葉町)も現在、大連市36中学として残っています。
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満鉄社員になるための人材育成学校だった大連満鉄育成学校(日本時代は乃木町)は現在、大連市鉄道技工学校として使われています。
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なお、大連の現存する日本時代の校舎については、大連世界旅行社の桶本悟さんが実地調査を続けています。桶本さんの調査によると、現在未撮影ですが、他にも以下の学校が現存しています。

・大連第三中学校(1938年開校、日本時代は香月台)。現在は、大連の海軍大学校寮。中に入ることは難しく、撮影は困難です。
・大連経済専門学校。現在は大連教育学院。
・満鉄鉄道学院(旧満鉄本社内)
・静浦小学校(1935年開校、日本時代は静浦町)

その他、現存していない学校については、下記サイトを参照のこと。

大連世界旅行社
http://www.t-railway.com/
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by sanyo-kansatu | 2013-06-09 23:57 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 09日

自分の故郷が永遠に失われたという感覚【昭和のフォルム 大連◆校舎③】

1980年代半ばから90年代にかけて、大連をはじめ中国東北三省への“望郷”ツアーが数多く催行されました。ツアー客の大半は、日本統治時代に現地に住んでいた満洲に縁のある人たちでした。
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ぼくもその頃、現地で何度かツアー客を見かけたことがあります。世代的には、大正から昭和初期にかけて生まれた年代が中心です。当時同じ職場だった人たちとその家族のグループが多かったですが、意外にいたのが、同じ小学校の同窓生のグループでした。

これまで大連に現存する旧制中学や高等女学校の校舎を紹介してきましたが、今回は小学校編です。以下、開校時期の早い順に挙げていきます。

まず、沙河口小学校(1911年9月開校、日本時代は霞町)です。現在は大連市47中学です。沙河口には満鉄の工場があったため、そこで働く満鉄の社員や労働者の子弟が多く通っていたと思われます。教室の窓枠が大きく、現代にも通じるいかにも小学校の校舎らしいデザインです。
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伏見台小学校(1918開校、日本時代は博文町)は元大連第一中学校の隣にあります。大連市の中心に位置する名門校だったことは、現在中国でエリートに特化した教育を実践している大連市実験小学として使われていることからもうかがえます。当時の写真も残っています。
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春日小学校(1920年開校、日本時代は西公園町)の校舎は、屋根の上の小さな塔が特徴的です。現在、大連市24中学です。当時の写真にもふたつの塔が見えます。
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聖徳小学校(1927年4月開校、日本時代は聖徳町)は現在東北路小学です。玄関正面に蔦が覆い、歴史を感じさせる校舎です。
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日出小学校(1937年開校、日本時代は日出町)は現在、大連の海軍学校(当時は大連実業学校)の敷地内にあります。1930年代後半に建てられただけあって、かなり現代風の校舎です。
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先週水曜日、奉天会という満洲国時代の奉天(現在の瀋陽)に縁のある皆さんの連絡組織で事務局を務めている澤田武彦さんのお話を聞く機会がありました。昭和6年生まれの澤田さんは、当時の奉天の鉄西区という工業地帯にあった鉄西小学校出身でした。

澤田さんは1980年代後半から90年代半ばにかけて、3回瀋陽を訪ねています。その旅行は鉄西小学校の同窓生の皆さんと一緒だったそうです。

奉天会のホームページにこう書かれています。

「終戦後半世紀を経て、未だ尚奉天会が続いていて、且つ益々盛大になっている理由は何であろうか。

まず第一に、奉天は我々にとって忘れられない故郷であるということである。しかも二度と戻ってこない故郷である。壮年・青年時代を過ごし、そこで働き、学び色々な人生経験をした奉天。或いはもっと若い年代では、幼年期・小学校・中学校・女学校の思いでの日々を過ごした奉天。二度と戻らない故郷である故に、奉天に対する思いは強いのである。

第二には、世代交代が順次行われてきたことである。奉天時代に壮年期にあった方々が次第に老境に入り、或いは故人となって、会員数が減少傾向になった時、各中学校・女学校の同窓会のメンバーが大挙して奉天会に加入して来たこと。更に時を経て最近では、各小学校の同窓会のメンバーがまとまって加入してきた。又、親の意志を継いで、奉天在住時代は幼年期にあった人達で奉天会に参加してきた人達もいる。

第三に、奉天会に加入していない元奉天在住者が、日本全国にかなり存在するということである。平成10年に奉天会が「瀋陽友好親善訪問団」を結成して瀋陽市を訪問する企画を立案し、広く一般紙の朝日・読売・毎日新聞に広告を出したところ東北や九州を始め、日本各地から多数の参加者が出たのである。訪問団に参加した人々は全員奉天会に加入したが、このように奉天会の会員に成り得る潜在会員が全国各地に多数存在する」。

奉天会(日本瀋陽会) http://homepage3.nifty.com/jiangkou/Kiyoshi/shenyang/seiritu.html

澤田さんによると、これが書かれたのは2000年代の前半だそうで、現在は関係者もかなり高齢化しており、年1回の懇親会が主な活動だそうです。

これを読んであらためて考えるのは、奉天会の皆さんにとって「(奉天は)二度と戻ってこない故郷」であるという認識についてです。自分の故郷が永遠に失われたという感覚とはどのようなものなのか。

ぼくにはその感覚はよくわかりません。ただ想像するに、いまではその地を実際に訪ねてみることはできても、もうそこは自分の国ではない。そこにあるのに、自分のものとはいえないという宙ぶらりんな感じ。一般に故郷とは自分が少年時代を過ごした場所として認識されることが多いと思います。その場所を無邪気に語ることがためらわれるような長い時間の経過と空虚感。せめてそれを埋めるには、同じ時代に同じ場所で過ごした同窓生の存在が大切に思えてくるのではないでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-09 21:39 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(2)
2013年 06月 08日

大連の女学校の最後の同窓会が開かれたそうです【昭和のフォルム 大連◆校舎②】

2013年6月1日の朝日新聞に「大連弥生高女、最後の同窓会」という記事が載っていました。
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「中国東北部の大連で1919(大正8)年に創立され、戦後すぐに閉鎖された大連弥生高等女学校。日本に引き揚げてからも60年以上続いていた同窓会が解散することになった。3千人いた会員は約10分の1に減り、平均年齢は88歳。青春を分かち合った女学生たちの最後の集いが4日、都内で開かれる」

実は、大連弥生高等女学校の校舎は、もう大連には残っていません。それでも、大連世界旅行社の桶本悟さんの調査によると、以下の3つの女学校の校舎はまだ現存しています。

冒頭の写真が、昭和高等女学校(1923年開校、日本時代は桔梗町)です。現在は、雑居ビルとして使われていますが、実に装飾的な建物です。
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校舎のファサードはにぎやかで、シルエットもかわいらしいですし、細部のデザインも遊び心に富んでいます。当時流行った丸窓をはじめ、機能よりもリズム感を重視したと思われる窓の並びが人の目を楽しませてくれます。
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当時の写真も残っています。
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羽衣高等女学校(1927年開校、日本時代は伏見町)は現在、大連理工大学の一部として使われています。
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当時の写真と比べると、玄関部分など、改築が施されているようです。
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大同女子技芸学院(日本時代は紀伊町)は旧満鉄本社の向かいにありました。ただし、校舎の建物はかなり老朽化しており、現在は倉庫として使用されていますが、再開発の対象となるのは時間の問題と思われます。
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この建物は、当時満蒙文化会館としても使われていたようです。
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ところで、前述の朝日の記事によると、大連弥生高等女学校OGの同窓会は、6月4日東京の神宮外苑にある明治記念館で開かれたそうです。

記事の中では、学校が閉鎖された昭和21年、最後の卒業生となったひとりのOGは、日中国交回復後、2度ほど大連を訪ねたものの、高層ビルが立ち並ぶ光景を見ながら「私の来るところじゃないのかな」と思い、当時の大連の記憶は心にしまうことにしたそうです。

現在の大連の姿を、郷愁を通して見ようとすれば、そういう心情になるもの無理はないと思います。

大連で“昭和”のフォルムを探しに歩くなんてことは、あとの時代に生まれてきた郷愁とは無縁の世代だからこそ、楽しめるものなのかもしれません。前回、「これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう」と書きましたが、当時を生きた人たちの心中は、そんなに無邪気な話ばかりじゃなかったろうとあらためて思った次第です。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-08 15:48 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 06日

これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう【昭和のフォルム 大連◆校舎①】

“昭和”のフォルムの宝庫といえる中国東北三省。なかでも品のいい建物がいくつも残っているのが大連です。
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ぼくが大連を初めて訪ねたのは1986年の夏です。当時の大連の街並みは、新中国の建国後に明け暮れた政治闘争の時代を経てとてつもなく疲弊し、かつて豊かだったはずの色彩も消え、埃を被っていましたが、海風の肌に優しい港町だと思ったものです。ここだけには、他の中国の都市にはない清涼感がありました。

その後、中国経済の発展とともに大連にも高層ビルが林立し、どこにでもあるような、落ち着きのない街並みに変わってしまうのですが、2010年代のいまでも街を歩いてみると、そこかしこに“昭和”のフォルムが見つかります。

特に当時の旧制中学の校舎は、モダンでスタイリッシュです。

大連を代表する旧制中学が大連第一中学校。1918年開校で、日本時代は博文町にありました。現在、大連理工大学の校舎の一部として使われています。
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近くで見ると、雑に塗り分けられたペイントによって年代の重みが消されてしまっているのが興ざめという気もしますが、シルエットは悪くありません。
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校舎の裏を覗いてみたら、蔦がレンガの壁を覆い、年代を感じさせます。むしろ手つかずにされていた空間のほうがグッとくるものです。
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大連市重要保護建築に指定されています。
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周辺を高層ビルに取り囲まれているのが現在の姿です。
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日本時代の写真はこれです。
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大連第二中学校は1924年開校。日本時代は水仙町にありました。現在の建物は1996年に改築され、当時の面影はないので残念です。現在は春天大厦という商業ビルです。
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以上は官立学校ですが、公立の大連市立大連中学校(1934年開校、日本時代は下藤町)は、外観のデザインが斬新です。現在、大連軍人倶楽部として使われています。
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建物の中にこっそり入ってみると、いかにも“昭和”の雰囲気。うっとりしてしまいます。当時の写真も、断然イカしています。
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20世紀後半の日本に建てられた我らの時代の校舎はいかにも画一的。新設校の校舎なんてもういけません。それに比べ、この時代に建てられた校舎には味わい深さがある。これが自分の母校だったら、懐かしさもひとしおだろうと思ってしまいます。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-06 13:29 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 03日

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)

2009年に新改装された丹東駅(中国遼寧省瀋丹線)の広いターミナル構内に、約100年の歴史を持つ同駅の駅舎の写真が時系列で展示されています。丹東駅といえば、2010年5月初旬、いまは亡き北朝鮮の金成日総書記が特別列車で訪中した際、この駅でしばらく停車したことが、テレビで報道されたことがあります。
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1910年の丹東駅(当時は安東駅)

丹東駅が最初に建設されたのは、日露戦争中のことです。当時は安東と呼ばれた鴨緑江下流域の小鎮と瀋陽(奉天)を結ぶ軍用鉄道(のちの安奉線)は1904年12月3日に完成。翌05年正式に清国から日本の経営が認められています。
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1911年の駅建設風景

その後、1909年から11年にかけて安奉線は標準軌に改軌されます。

1911年10月、朝鮮総督府鉄道・京義線と鴨緑江大橋(現断橋)で接続され、釜山まで鉄道がつながることで、安東の国際駅としての重要性が高まります。
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1916年安東駅停車場
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1928年欧風様式の安東駅
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1930年代の安東駅
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1930年代と思われる安東駅プラットホーム(着物姿の女性客もいます)
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1932年安東駅夜景
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1941年安東駅
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1941年安東駅プラットホーム

1943年4月には、鴨緑江第二橋梁(現中朝友誼橋)が完成。さらなる発展が期待されたものの、満洲国崩壊でその後、時間が止まってしまいます。

1965年に安東市が丹東市に改名され、駅名も丹東駅に変更されています。改革開放を迎え、1989年にようやく駅舎の建て替えが行なわれます。そのときから、丹東駅は味気のない現代建築に変わってしまいました。
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2008年3月にはさらに大規模な改築が行われ、一時臨時駅舎で仮営業。
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2009年1月17日、現在の新駅舎の使用が始まります。
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新駅舎は国際駅にふさわしく空港のような巨大な構内と壮大なプラットホームが自慢です。税関などの施設も整っています。夕方6時発の北京行き夜行寝台列車は瀋陽経由。かつての安奉線(現瀋丹線)を通り、早朝北京に着くので、何度か利用したことがあります。
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あとは北朝鮮との旅客の往来を待つばかりなのでしょうが、丹東駅が国際駅としてのかつての輝きを取り戻すのはいつのことになるのでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-03 13:33 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 02日

廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮(遼寧省丹東市・溥儀東行宮)

中国遼寧省丹東市の郊外に、満洲国皇帝溥儀の離宮が今も残っています。
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離宮の名は「溥儀東行宮」。記録によると、1943年5月上旬に溥儀が巡狩(古代中国で、天子が諸国を巡視したこと)でこの地に訪れた際、宿泊した小型宮殿様式の別荘です。
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正面玄関付近は鬱蒼とした松に覆われ、時の経過を感じさせます。玄関前の2本の柱には、見事な龍がとぐろを巻いています。龍の爪の数は、瀋陽の故宮と同様、きっちり5本あります。
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いまでは老朽化にまかせるままの無残な姿をさらしていますが、かつては精緻な彫りと色鮮やかな図柄が映えたであろう正面玄関の屋根飾りや、天井の青地に描かれた龍と鳳凰の絵を見ていると、ちょっともの悲しい気分にさせられます。
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ざっと外観を見て回りましょう。
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まず正面に向かって左手から。こちらは平屋建てで、厨房や使用人らのスペースのようです。退色してしまっていますが、出入り口脇の壁に施された中国美人図が印象的です。
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右手は、基本2階建てですが、正面後方に一部4階建ての棟があります。どの窓にも、いまどき珍しい凝った窓枠がはめられていますが、ガラスは壊れたままです。壁の鳳凰も剥げ落ちています。
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右手から裏に回ってみましょう。
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背後からの眺めは廃墟然とした気配がさらに濃厚です。4階建ての棟のひとつの窓はすっかり取り外されたままになっていますし、かつて食料や燃料をここから納入したであろう厨房の棟の地下室の扉も木の枠でふさがれています。
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壊れた窓から中をちょっと覗いてみました。調度品ひとつ残っていない部屋でした。浴室もありましたが、小さいサイズなので、皇帝が使ったものではなさそうです。
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玄関脇に「定礎 皇紀二六百年八月」と書かれた石版が残されています。溥儀東行宮は、1940年(昭和15年)8月に建設が始まり、43年に完成しています。
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皇紀2600年と呼ばれたその年、日本国内ではさまざまな記念行事が行われ、満洲国首都・新京特別市の帝宮内に建国神廟が創建されています。同じ年の6月、溥儀は慶賀のため日本を訪れています。

前述したように、溥儀が東行宮を訪ねたのは、1943年のことです。すでにその頃、太平洋戦線における日本軍の形勢は悪化していただけに、彼がどんな心境でこの離宮に滞在していたかを想像すると、気が滅入ってきます。
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これが廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮の現在の姿です。そこには、かつての栄華を想起させる断片が無造作に放置されたままいくつも残されていて、いくぶんの痛ましさをおぼえますが、あらゆる記憶は時代とともに忘れ去られてしまうのだというある種さばさばした条理に思い至ります。

現在、この廃墟のいわれを示すものは、丹東市政府が2005年になってようやく市級重要文物保護単位として認めたことを伝える粗末な石碑だけです。
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この建物の現在の所有者は地元の空軍だそうです。以前一度、娯楽施設に改装してひと儲けしようという話もあったそうですが、中途半端に建物の色を塗り替えてみただけで、投げ出してしまっています。この建物の持つ歴史的な由来の扱いを、現在の共産党政権の歴史観の枠でしか計れない地方軍人がうまく処理して再活用するには難しすぎたのか、そのままに至っているようです。

いまでは、近所の保育園の子供たちとその世話をしている老人たちの憩いの場となっています。「ラストエンペラーの離宮の廃墟」とだけ聞けば、さぞ溥儀の怨念が残っていて、幽霊屋敷にでもなっているのではないか、なんて思う人もいるかもしれませんが、そういう話はまったくないようです。
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場所は、丹東市内から最近リニューアルして立派になった丹東浪頭空港の少し西側の高台の上にあります。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-02 11:52 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)