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2013年 06月 09日

当時こんなにいろいろあった専門学校【昭和のフォルム 大連◆校舎④】

大連に現存する日本時代の校舎といえば、専門学校がいくつかあります。
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なかでも古いのは、南満洲工業専門学校(大連工業実務学校として1911年5月開校、22年に改組。日本時代は伏見町)です。現在は大連理工大学の一部として使用されています。
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大連市立実業学校(1921年開校。柳町にあったが、41年日出町に移転)は現在、大連の海軍学校です。日本のジャズドラマーの草分けとして有名な故ジョージ川口さんは同校出身だそうです。
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大連高等商業学校(1936年開校。日本時代は紅葉町)も現在、大連市36中学として残っています。
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満鉄社員になるための人材育成学校だった大連満鉄育成学校(日本時代は乃木町)は現在、大連市鉄道技工学校として使われています。
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なお、大連の現存する日本時代の校舎については、大連世界旅行社の桶本悟さんが実地調査を続けています。桶本さんの調査によると、現在未撮影ですが、他にも以下の学校が現存しています。

・大連第三中学校(1938年開校、日本時代は香月台)。現在は、大連の海軍大学校寮。中に入ることは難しく、撮影は困難です。
・大連経済専門学校。現在は大連教育学院。
・満鉄鉄道学院(旧満鉄本社内)
・静浦小学校(1935年開校、日本時代は静浦町)

その他、現存していない学校については、下記サイトを参照のこと。

大連世界旅行社
http://www.t-railway.com/
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by sanyo-kansatu | 2013-06-09 23:57 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 09日

自分の故郷が永遠に失われたという感覚【昭和のフォルム 大連◆校舎③】

1980年代半ばから90年代にかけて、大連をはじめ中国東北三省への“望郷”ツアーが数多く催行されました。ツアー客の大半は、日本統治時代に現地に住んでいた満洲に縁のある人たちでした。
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ぼくもその頃、現地で何度かツアー客を見かけたことがあります。世代的には、大正から昭和初期にかけて生まれた年代が中心です。当時同じ職場だった人たちとその家族のグループが多かったですが、意外にいたのが、同じ小学校の同窓生のグループでした。

これまで大連に現存する旧制中学や高等女学校の校舎を紹介してきましたが、今回は小学校編です。以下、開校時期の早い順に挙げていきます。

まず、沙河口小学校(1911年9月開校、日本時代は霞町)です。現在は大連市47中学です。沙河口には満鉄の工場があったため、そこで働く満鉄の社員や労働者の子弟が多く通っていたと思われます。教室の窓枠が大きく、現代にも通じるいかにも小学校の校舎らしいデザインです。
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伏見台小学校(1918開校、日本時代は博文町)は元大連第一中学校の隣にあります。大連市の中心に位置する名門校だったことは、現在中国でエリートに特化した教育を実践している大連市実験小学として使われていることからもうかがえます。当時の写真も残っています。
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春日小学校(1920年開校、日本時代は西公園町)の校舎は、屋根の上の小さな塔が特徴的です。現在、大連市24中学です。当時の写真にもふたつの塔が見えます。
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聖徳小学校(1927年4月開校、日本時代は聖徳町)は現在東北路小学です。玄関正面に蔦が覆い、歴史を感じさせる校舎です。
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日出小学校(1937年開校、日本時代は日出町)は現在、大連の海軍学校(当時は大連実業学校)の敷地内にあります。1930年代後半に建てられただけあって、かなり現代風の校舎です。
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先週水曜日、奉天会という満洲国時代の奉天(現在の瀋陽)に縁のある皆さんの連絡組織で事務局を務めている澤田武彦さんのお話を聞く機会がありました。昭和6年生まれの澤田さんは、当時の奉天の鉄西区という工業地帯にあった鉄西小学校出身でした。

澤田さんは1980年代後半から90年代半ばにかけて、3回瀋陽を訪ねています。その旅行は鉄西小学校の同窓生の皆さんと一緒だったそうです。

奉天会のホームページにこう書かれています。

「終戦後半世紀を経て、未だ尚奉天会が続いていて、且つ益々盛大になっている理由は何であろうか。

まず第一に、奉天は我々にとって忘れられない故郷であるということである。しかも二度と戻ってこない故郷である。壮年・青年時代を過ごし、そこで働き、学び色々な人生経験をした奉天。或いはもっと若い年代では、幼年期・小学校・中学校・女学校の思いでの日々を過ごした奉天。二度と戻らない故郷である故に、奉天に対する思いは強いのである。

第二には、世代交代が順次行われてきたことである。奉天時代に壮年期にあった方々が次第に老境に入り、或いは故人となって、会員数が減少傾向になった時、各中学校・女学校の同窓会のメンバーが大挙して奉天会に加入して来たこと。更に時を経て最近では、各小学校の同窓会のメンバーがまとまって加入してきた。又、親の意志を継いで、奉天在住時代は幼年期にあった人達で奉天会に参加してきた人達もいる。

第三に、奉天会に加入していない元奉天在住者が、日本全国にかなり存在するということである。平成10年に奉天会が「瀋陽友好親善訪問団」を結成して瀋陽市を訪問する企画を立案し、広く一般紙の朝日・読売・毎日新聞に広告を出したところ東北や九州を始め、日本各地から多数の参加者が出たのである。訪問団に参加した人々は全員奉天会に加入したが、このように奉天会の会員に成り得る潜在会員が全国各地に多数存在する」。

奉天会(日本瀋陽会) http://homepage3.nifty.com/jiangkou/Kiyoshi/shenyang/seiritu.html

澤田さんによると、これが書かれたのは2000年代の前半だそうで、現在は関係者もかなり高齢化しており、年1回の懇親会が主な活動だそうです。

これを読んであらためて考えるのは、奉天会の皆さんにとって「(奉天は)二度と戻ってこない故郷」であるという認識についてです。自分の故郷が永遠に失われたという感覚とはどのようなものなのか。

ぼくにはその感覚はよくわかりません。ただ想像するに、いまではその地を実際に訪ねてみることはできても、もうそこは自分の国ではない。そこにあるのに、自分のものとはいえないという宙ぶらりんな感じ。一般に故郷とは自分が少年時代を過ごした場所として認識されることが多いと思います。その場所を無邪気に語ることがためらわれるような長い時間の経過と空虚感。せめてそれを埋めるには、同じ時代に同じ場所で過ごした同窓生の存在が大切に思えてくるのではないでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-09 21:39 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(2)
2013年 06月 08日

大連の女学校の最後の同窓会が開かれたそうです【昭和のフォルム 大連◆校舎②】

2013年6月1日の朝日新聞に「大連弥生高女、最後の同窓会」という記事が載っていました。
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「中国東北部の大連で1919(大正8)年に創立され、戦後すぐに閉鎖された大連弥生高等女学校。日本に引き揚げてからも60年以上続いていた同窓会が解散することになった。3千人いた会員は約10分の1に減り、平均年齢は88歳。青春を分かち合った女学生たちの最後の集いが4日、都内で開かれる」

実は、大連弥生高等女学校の校舎は、もう大連には残っていません。それでも、大連世界旅行社の桶本悟さんの調査によると、以下の3つの女学校の校舎はまだ現存しています。

冒頭の写真が、昭和高等女学校(1923年開校、日本時代は桔梗町)です。現在は、雑居ビルとして使われていますが、実に装飾的な建物です。
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校舎のファサードはにぎやかで、シルエットもかわいらしいですし、細部のデザインも遊び心に富んでいます。当時流行った丸窓をはじめ、機能よりもリズム感を重視したと思われる窓の並びが人の目を楽しませてくれます。
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当時の写真も残っています。
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羽衣高等女学校(1927年開校、日本時代は伏見町)は現在、大連理工大学の一部として使われています。
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当時の写真と比べると、玄関部分など、改築が施されているようです。
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大同女子技芸学院(日本時代は紀伊町)は旧満鉄本社の向かいにありました。ただし、校舎の建物はかなり老朽化しており、現在は倉庫として使用されていますが、再開発の対象となるのは時間の問題と思われます。
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この建物は、当時満蒙文化会館としても使われていたようです。
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ところで、前述の朝日の記事によると、大連弥生高等女学校OGの同窓会は、6月4日東京の神宮外苑にある明治記念館で開かれたそうです。

記事の中では、学校が閉鎖された昭和21年、最後の卒業生となったひとりのOGは、日中国交回復後、2度ほど大連を訪ねたものの、高層ビルが立ち並ぶ光景を見ながら「私の来るところじゃないのかな」と思い、当時の大連の記憶は心にしまうことにしたそうです。

現在の大連の姿を、郷愁を通して見ようとすれば、そういう心情になるもの無理はないと思います。

大連で“昭和”のフォルムを探しに歩くなんてことは、あとの時代に生まれてきた郷愁とは無縁の世代だからこそ、楽しめるものなのかもしれません。前回、「これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう」と書きましたが、当時を生きた人たちの心中は、そんなに無邪気な話ばかりじゃなかったろうとあらためて思った次第です。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-08 15:48 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 06日

これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう【昭和のフォルム 大連◆校舎①】

“昭和”のフォルムの宝庫といえる中国東北三省。なかでも品のいい建物がいくつも残っているのが大連です。
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ぼくが大連を初めて訪ねたのは1986年の夏です。当時の大連の街並みは、新中国の建国後に明け暮れた政治闘争の時代を経てとてつもなく疲弊し、かつて豊かだったはずの色彩も消え、埃を被っていましたが、海風の肌に優しい港町だと思ったものです。ここだけには、他の中国の都市にはない清涼感がありました。

その後、中国経済の発展とともに大連にも高層ビルが林立し、どこにでもあるような、落ち着きのない街並みに変わってしまうのですが、2010年代のいまでも街を歩いてみると、そこかしこに“昭和”のフォルムが見つかります。

特に当時の旧制中学の校舎は、モダンでスタイリッシュです。

大連を代表する旧制中学が大連第一中学校。1918年開校で、日本時代は博文町にありました。現在、大連理工大学の校舎の一部として使われています。
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近くで見ると、雑に塗り分けられたペイントによって年代の重みが消されてしまっているのが興ざめという気もしますが、シルエットは悪くありません。
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校舎の裏を覗いてみたら、蔦がレンガの壁を覆い、年代を感じさせます。むしろ手つかずにされていた空間のほうがグッとくるものです。
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大連市重要保護建築に指定されています。
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周辺を高層ビルに取り囲まれているのが現在の姿です。
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日本時代の写真はこれです。
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大連第二中学校は1924年開校。日本時代は水仙町にありました。現在の建物は1996年に改築され、当時の面影はないので残念です。現在は春天大厦という商業ビルです。
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以上は官立学校ですが、公立の大連市立大連中学校(1934年開校、日本時代は下藤町)は、外観のデザインが斬新です。現在、大連軍人倶楽部として使われています。
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建物の中にこっそり入ってみると、いかにも“昭和”の雰囲気。うっとりしてしまいます。当時の写真も、断然イカしています。
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20世紀後半の日本に建てられた我らの時代の校舎はいかにも画一的。新設校の校舎なんてもういけません。それに比べ、この時代に建てられた校舎には味わい深さがある。これが自分の母校だったら、懐かしさもひとしおだろうと思ってしまいます。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-06 13:29 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 06日

「新鴨緑江大橋が半分くらいできた」と地元の人に聞きました

鳴り物入りで建設の始まった新鴨緑江大橋。中国遼寧省の丹東新区と北朝鮮の新義州をつなぐ全長約2kmの斜張橋です。
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昨日(2013.6.5)、丹東に住む友人から「新鴨緑江大橋が半分くらいできました」と現地で撮影された写真付きのメールが届きました。約1年前の2012年7月に現地を訪ねたときにはほとんど存在していなかった斜張橋を支える2つの塔と橋桁の一部が出来上がりつつあります。

中朝経済を結ぶ大動脈となることを期待して2010年2月25日、両国の間で建設協定が結ばれました。工事現場の掲示板によると、建設投資22億元、約3年の工期で完成される計画で工事は2011年5月に始まっています。
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以下、この2年間の工事の進捗を写真で見てみましょう。

2011年7月1日
橋桁をつくるための土台が半分くらい出来ています。
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橋のたもとには工事を眺める地元の人たちがいました。
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2012年7月4日
斜張橋を支える塔の建設が始まったようでした。
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2013年6月5日
塔はだいぶ出来上がりましたが、橋桁はまだ一部しか出来ていません。
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工事現場に掲示された新鴨緑江大橋の完成図のイラストを見ると、スマートなシルエットが魅力です。
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地図によると、大連や瀋陽方面からの高速道路と接続される予定です。
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写真を送ってくれた友人によると、この新鴨緑江大橋は、表向き両岸から工事を進めているとはいえ、投資も建設もその大半は中国にお任せ。そのくせ北朝鮮側は、開通後には通行料を取ると言い出して、そりゃないだろと、中朝間でもめているとか。いかにも両国の関係を象徴しているようで、面白いですね。

もっとも、中朝経済の発展格差の大きさからすれば、中国側は必ずしも工事を急ぐ必要を感じないのかもしれません。また、中国の地方経済が抱える不良債権問題が工期に影響してくる可能性も今後はあるかもしれません。

いずれにせよ、橋が完成したあかつきには、吉林省琿春の圏河橋(中朝第2の国境、圏河・元汀里で見たもの【中朝国境シリーズ その1】)と同じように、中国側からの交通量が一方的に増えることが予想されます。経済的には常に受け身に回らざるを得ない北朝鮮はいろんな手を使って交通量を調整することも考えられます。新鴨緑江大橋開通というインパクトが、この地域にどんな変化をもたらすことになるのか。それが見えてくるのはもうしばらく先のことですが、今後も注視していきたいと思います。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-06 08:51 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 06月 03日

丹東で“昭和”のフォルムを探して

中国東北三省を訪ねると、つい“昭和”のフォルムを探したくなります。
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昭和の時代に造られた建築物のやわらかいフォルムが単純に好きなのです。日本の地方都市にもあの時代の建物がときどき残っていて、それを見つけると、つい写真に撮っておきたくなる。それと基本同じです。

そういう“昭和”のフォルムが、20世紀前半に日本の大陸進出の結果、とりわけ中国東北三省に多く残されているという事実は、戦後の高度経済成長期に生まれた自分のような日本人にとって、奇妙な感覚があります。日本では幼少期までわずかに街に残っていた好ましいフォルムが一斉に消えてなくなっていく過程を目の当たりにしながら成長してきたところ、大人になって中国を訪ねてみたら、それがたくさん残っていることを知ったからです。それは小躍りしたくなるのを抑えられないような心持でした。ちょうど1980年代の半ば頃のことです。

しかし、いまや中国も高度経済成長のまっただ中にあります。かつての日本と同じように、あの魅力的なフォルムが次々に壊されていく様を、ぼくもこの20数年間見つめてきました。結局、同じことが起こるのだなと残念に思いながら。

だから、せめて中国で自分の好きなフォルムを見つけたら、写真に押さえておこう。これは一種の反射神経みたいなものです。

以下は2012年7月に中国遼寧省丹東を訪ねたとき、朝早く起きて駅前の宿泊ホテルの近所を1時間ばかり散策したときに撮ったものです。撮影は、ぼくの相棒、佐藤憲一カメラマンです。
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最初は、かつて安東大和小学校だった建物です。現在は遼東賓館というホテルです。丹東駅の北側の九緯路にあります。戦前の学校の校舎というのは、現代のものに比べて風格がありますね。教室だった部屋が客室に使われていると思うと、面白いです。
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昔の大和小学校の絵葉書も残っています。
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遼東賓館の前の九緯路は、街路樹が見事に育ち、涼しげです。吉林省延辺朝鮮族自治州の龍井もそうでしたが、東北三省の省都の中心部にはもうほとんどなくなってしまった街路樹が、地方都市に行くと、こうして今も残っていて、見るとホッとします。
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次は、安東郵便局で、現在は丹東郵政局と呼ばれています。七経街(当時は大和橋通)にあります。
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がっしりとした堅牢な建築で、絵葉書が撮られた頃に比べると、かなり増築しているようです。瀋陽駅前にも同じような当時の郵便局が残っています。
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冒頭の写真は、安東高等女学校です。現在は、丹東第六中学校で、錦山大街にあります。建築スタイルは、大連に残っている同時代の学校にもよく似ています。もっといえば、東京の都心に残っている昭和初期に建てられた小学校(廃坑寸前の学校も多いようです)のいくつかとも似ています。同時代の建築であるため、当然のことなのでしょうけれど。
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丹東の日本時代の建築については、大連世界旅行社の桶本悟さんが実地調査を続けておられ、いつもぼくは情報提供してもらっています。同社のHPにも、詳しく紹介されているので、ご参照ください。

大連世界旅行社
http://www.t-railway.com/

また、地元丹東の人らしき方が日本時代の絵葉書を集めてネットに公開していました。歴史といえば、「政治」と結びつけて語ることしかできない輩も中国には多いですが、理性的かつ素朴な好奇心から、学校で教えてくれた「歴史」とは異なる地元の昔の姿に関心を持つ人たちもいるのだろうと思います。

丹东人必顶:老安东图片
http://dx1.gogoqq.com/aspx/138705522/journalcontent/1319356440.aspx
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by sanyo-kansatu | 2013-06-03 20:10 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 03日

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)

2009年に新改装された丹東駅(中国遼寧省瀋丹線)の広いターミナル構内に、約100年の歴史を持つ同駅の駅舎の写真が時系列で展示されています。丹東駅といえば、2010年5月初旬、いまは亡き北朝鮮の金成日総書記が特別列車で訪中した際、この駅でしばらく停車したことが、テレビで報道されたことがあります。
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1910年の丹東駅(当時は安東駅)

丹東駅が最初に建設されたのは、日露戦争中のことです。当時は安東と呼ばれた鴨緑江下流域の小鎮と瀋陽(奉天)を結ぶ軍用鉄道(のちの安奉線)は1904年12月3日に完成。翌05年正式に清国から日本の経営が認められています。
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1911年の駅建設風景

その後、1909年から11年にかけて安奉線は標準軌に改軌されます。

1911年10月、朝鮮総督府鉄道・京義線と鴨緑江大橋(現断橋)で接続され、釜山まで鉄道がつながることで、安東の国際駅としての重要性が高まります。
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1916年安東駅停車場
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1928年欧風様式の安東駅
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1930年代の安東駅
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1930年代と思われる安東駅プラットホーム(着物姿の女性客もいます)
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1932年安東駅夜景
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1941年安東駅
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1941年安東駅プラットホーム

1943年4月には、鴨緑江第二橋梁(現中朝友誼橋)が完成。さらなる発展が期待されたものの、満洲国崩壊でその後、時間が止まってしまいます。

1965年に安東市が丹東市に改名され、駅名も丹東駅に変更されています。改革開放を迎え、1989年にようやく駅舎の建て替えが行なわれます。そのときから、丹東駅は味気のない現代建築に変わってしまいました。
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2008年3月にはさらに大規模な改築が行われ、一時臨時駅舎で仮営業。
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2009年1月17日、現在の新駅舎の使用が始まります。
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新駅舎は国際駅にふさわしく空港のような巨大な構内と壮大なプラットホームが自慢です。税関などの施設も整っています。夕方6時発の北京行き夜行寝台列車は瀋陽経由。かつての安奉線(現瀋丹線)を通り、早朝北京に着くので、何度か利用したことがあります。
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あとは北朝鮮との旅客の往来を待つばかりなのでしょうが、丹東駅が国際駅としてのかつての輝きを取り戻すのはいつのことになるのでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-03 13:33 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 06月 02日

廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮(遼寧省丹東市・溥儀東行宮)

中国遼寧省丹東市の郊外に、満洲国皇帝溥儀の離宮が今も残っています。
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離宮の名は「溥儀東行宮」。記録によると、1943年5月上旬に溥儀が巡狩(古代中国で、天子が諸国を巡視したこと)でこの地に訪れた際、宿泊した小型宮殿様式の別荘です。
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正面玄関付近は鬱蒼とした松に覆われ、時の経過を感じさせます。玄関前の2本の柱には、見事な龍がとぐろを巻いています。龍の爪の数は、瀋陽の故宮と同様、きっちり5本あります。
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いまでは老朽化にまかせるままの無残な姿をさらしていますが、かつては精緻な彫りと色鮮やかな図柄が映えたであろう正面玄関の屋根飾りや、天井の青地に描かれた龍と鳳凰の絵を見ていると、ちょっともの悲しい気分にさせられます。
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ざっと外観を見て回りましょう。
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まず正面に向かって左手から。こちらは平屋建てで、厨房や使用人らのスペースのようです。退色してしまっていますが、出入り口脇の壁に施された中国美人図が印象的です。
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右手は、基本2階建てですが、正面後方に一部4階建ての棟があります。どの窓にも、いまどき珍しい凝った窓枠がはめられていますが、ガラスは壊れたままです。壁の鳳凰も剥げ落ちています。
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右手から裏に回ってみましょう。
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背後からの眺めは廃墟然とした気配がさらに濃厚です。4階建ての棟のひとつの窓はすっかり取り外されたままになっていますし、かつて食料や燃料をここから納入したであろう厨房の棟の地下室の扉も木の枠でふさがれています。
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壊れた窓から中をちょっと覗いてみました。調度品ひとつ残っていない部屋でした。浴室もありましたが、小さいサイズなので、皇帝が使ったものではなさそうです。
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玄関脇に「定礎 皇紀二六百年八月」と書かれた石版が残されています。溥儀東行宮は、1940年(昭和15年)8月に建設が始まり、43年に完成しています。
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皇紀2600年と呼ばれたその年、日本国内ではさまざまな記念行事が行われ、満洲国首都・新京特別市の帝宮内に建国神廟が創建されています。同じ年の6月、溥儀は慶賀のため日本を訪れています。

前述したように、溥儀が東行宮を訪ねたのは、1943年のことです。すでにその頃、太平洋戦線における日本軍の形勢は悪化していただけに、彼がどんな心境でこの離宮に滞在していたかを想像すると、気が滅入ってきます。
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これが廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮の現在の姿です。そこには、かつての栄華を想起させる断片が無造作に放置されたままいくつも残されていて、いくぶんの痛ましさをおぼえますが、あらゆる記憶は時代とともに忘れ去られてしまうのだというある種さばさばした条理に思い至ります。

現在、この廃墟のいわれを示すものは、丹東市政府が2005年になってようやく市級重要文物保護単位として認めたことを伝える粗末な石碑だけです。
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この建物の現在の所有者は地元の空軍だそうです。以前一度、娯楽施設に改装してひと儲けしようという話もあったそうですが、中途半端に建物の色を塗り替えてみただけで、投げ出してしまっています。この建物の持つ歴史的な由来の扱いを、現在の共産党政権の歴史観の枠でしか計れない地方軍人がうまく処理して再活用するには難しすぎたのか、そのままに至っているようです。

いまでは、近所の保育園の子供たちとその世話をしている老人たちの憩いの場となっています。「ラストエンペラーの離宮の廃墟」とだけ聞けば、さぞ溥儀の怨念が残っていて、幽霊屋敷にでもなっているのではないか、なんて思う人もいるかもしれませんが、そういう話はまったくないようです。
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場所は、丹東市内から最近リニューアルして立派になった丹東浪頭空港の少し西側の高台の上にあります。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-02 11:52 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 05月 18日

図們江、野ざらしにされた断橋の風景

以前、鴨緑江の河口断橋について書きましたが、今回は図們江にあるふたつの断橋を紹介しましょう。
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それは吉林省の図們と琿春の間にあります。
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まず、琿春市英安鎮にある甩湾子橋です。完成時には約 500m という長さの朝鮮と満州国をつなぐ国境橋で、対岸は北朝鮮咸鏡北道の訓戎です。欄干は途中まで残っていますが、すぐになくなります。橋を歩いていても、最初は橋が断たれていることがわからないくらい、中国側の橋桁はそのまま残っています。北朝鮮側近くになって、突然橋桁がなくなります。
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わずか10数メートル先に北朝鮮側の橋梁が残っていて、向かって左手に国境警備のためと思われる老朽化した建物があります。時折、国境警備兵らしき軍人の姿が見えます。
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この橋は、1945年8月のソ連軍侵攻時に日本軍が爆破したそうです。国境をつなぐ橋らしく、中国側に当時のトーチカが残っています。
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甩湾子橋の東、図們江の下流側に橋脚だけが残された鉄橋跡が見えます。これは1935年に開業した琿春鉄路(のちの東満州鉄道)の甩湾子駅(満州国)と訓戎駅(朝鮮)をつなぐ鉄橋でしたが、終戦時にソ連軍がシベリア鉄道用として橋上の鉄梁をすべて収奪したため、現在の姿をしているそうです。
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もうひとつの断橋は、図們市涼水鎮にある穏城大橋です。甩湾子橋より少し上流にあります。この一帯は図們江の下流域にあたり、肥沃な平野が続きます。19世紀から多くの朝鮮農民が入植してきました。いまどき珍しく、手で田植えをする姿を見ました。牧童ものんびり羊を追っているような世界です。
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さて、穏城大橋は1937年5月に竣工された国境橋で、対岸は北朝鮮の穏城郡です。こちらは中国側も橋桁がわずかしか残っておらず、北朝鮮側では橋脚が残されているだけです。
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余談ですが、さらに上流に行くと、図們市街地近くで、図們江が深く北朝鮮側に入り込むように蛇行して流れる場所があります。そこからは北朝鮮の革命記念塔のような施設がよく見えます。こうした施設は中国側から見られることを意識して造られていると思われます。
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これまで中朝間に残るいくつかの断橋を見てきましたが、①終戦時に日本軍が破壊したパターン、②朝鮮戦争で米軍機によって爆撃されたパターン、さらには③ソ連軍が橋桁などを収奪し、撤去したパターンなどがあるようです。

いずれにせよ、60年以上前の話です。この間、これらの断橋は野ざらしのまま放置されてきたのです。いったい中朝間の人的交流や物流はどこまで停滞してしまっていたのか。

その土地を誰が仕切るか――。それによって地域の発展の度合いがこれほど変わるものなのか。中朝間に残る断橋を見ていると、そう思わざるを得ません。高度経済成長を達成したといっても、中国にとって延辺は所詮辺境なのですね。

かつて朝鮮農民にとって希望の地だった延辺の農村は、すでに漢族化が進んでいるといわれます。中国にとっては、それで好都合なのでしょう。

中国から見れば、ロシアや北朝鮮と国境を接するこの地域をあまり勢いづかせないほうがむしろ安泰なのかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2013-05-18 11:28 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 05月 14日

19世紀の近代絵画のような風景~河口断橋の対岸にみる北朝鮮

中国遼寧省の丹東といえば、中国と北朝鮮を結ぶ最大の口岸(イミグレーション)のある都市ですが、そこから東に向かって約40㎞、両国を隔てる鴨緑江の上流に向かうと、河口断橋という奇観があります。
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削られて見えにくくなっていますが、昭和17年12月に竣工した橋だそうです。
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なにが奇観かというと、橋が途中でぶった切れているのです。普通であれば、橋が落ちたら、修復してつなぐものですが、河口断橋は1950年代に橋が断たれて以降、60年間そのまま放置されていまに至っているのです。この景観は、ぜひとも見ておくべきでしょう。
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なぜ放置されているのか。建国以来、中朝の経済発展が長く遅れていたから? そのうち、中国だけが一方的に発展し、両国のつり合いが取れなくなった? といった理由だけで説明できるものなのか、ぼくにはよくわかりません。この両国の関係というのは、表向きと内情ではずいぶん違うようですし。でも、これだけの長い時間、かつてあった橋をつなぐ必要もなかったような関係とは、どういうものなのでしょう……。それを思うと、少し寒気がしてきます。
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いずれにせよ、日本が統治した時代に建設された橋が、朝鮮戦争中に米軍の空爆によって破壊されたまま、現在に至っている。その荒涼として驚くほどの静寂に包まれた河畔の風景が、実に興味深いというほかないのです。

誰でも入場料(10元相当)を払えば、橋が断たれたへさきまで歩いて行けます。
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そこから対岸の北朝鮮の集落が遠望できます。とても寂しげな光景ですが、見ようによっては、電柱を除いて、なんら近代的な意匠を見つけることのできない集落。まるで時間が停まってしまったかのような……。いまどき世界中どこを探しても見つけることのできない、19世紀の近代絵画の題材になりそうな農村風景といえなくもありません。
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橋のたもとには、朝鮮戦争で戦死した毛沢東の息子、毛岸英の像があります。この人物の経歴については、調べるといろんな話が出てきて面白く、中国では映画にもなったようですが、たぶんここに彼の像があることは中国でもほとんど知られていないのではないでしょうか。日本時代に造られたトーチカもここには残っています。
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ここには、土産売りもいます。彼女は北朝鮮の切手を売っていました。

人の気配も少なく寂しげな北朝鮮側に対して、中国側の河畔にはホテルが立っています。ぼくがこの地を訪ねたのは5月中旬でしたが、6月以降になると、ここで多くの中国人がレジャーを楽しむことでしょう。レストランでは川魚料理が売りで、たいそうにぎわうそうです。
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この橋のたもとからは、鴨緑江を遊覧するボートが出ます。その話は、またあとで。→「【中朝国境シリーズ その3】丹東よりずっと面白い河口断橋の遊覧ボート
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(写真は2008年5月に訪問したときのものです)
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by sanyo-kansatu | 2013-05-14 23:03 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)