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2013年 02月 17日

中国の成長の代価を負わされた存在をめぐって(中国インディペンデント映画祭2011 その7)

2011年12月9日、武蔵野美術大学で開かれた徐童監督の『収穫(麦収)』の上映会の続き、質疑応答の時間です。

作品の上映後、徐童監督と映画祭の主催者である中山大樹さん、そしてひとりの中国女性がステージに登壇しました。

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左から徐童監督、中山大樹さん

最初に司会の女性から、監督がこの作品を撮るきっかけについての質問がありました。徐童監督は自分の経歴にも簡単に触れながら、主人公ホンミャオとの出会いとこの作品を撮るに至った経緯について、以下のように話しました。

「私は1987年に北京の大学を卒業し、その後、スチールカメラマンとしてテレビ局や雑誌社などで仕事をしていました。2000年頃から、中国の現代アートが世界的に注目されるようになり、私もアートの世界で評価されるようになりたいと考えていました。ところが、中国の現代アートはその後バブル状況に陥り、誰もが欧米で売れるような、たとえば毛沢東がらみの作品ばかりになった。そんな中国の現実から乖離した作品があふれるようになったので、私は大いに不満でした。

2007年、私はそんな思いを表現するため、小説を書きました。社会の下層の人々の生活や苦悩を書きたいと思ったのです。しかし、小説では十分書ききれなかったというか、書き足りないと感じました。そこで、ドキュメンタリーを撮ろうと考えました。ちょうどそんな頃、ホンミャオと偶然街で出会ったのです」

ホンミャオの「職場」は北京市の南はずれ、朝陽区高西店にある風俗床屋です。現在の北京市は、中心部をぐるりと取り囲むように、地下鉄沿線上に新興住宅地として開発された高層マンション群と、老朽化したまま放置されるスラムが混在して広がっています。こうして増殖していく都市空間の内部には、都市戸籍を持たない「外地人」が暮らすスラム=“都市の辺境”がエアポケットのようにまだらに存在しています。

2000年代に入り、猛烈な不動産投資ブームによる高層ビルの建設ラッシュで北京の相貌が大きく変わっていくなか、徐童監督は時代の変化と社会の矛盾に戸惑いを覚えながら、引き込まれるように“都市の辺境”に足をふみ入れることになったのではないかと想像します。徐童監督は1965年生まれ。ぼくとは同世代で、1980年代から今日に至る北京の変化を眺めてきたところもあり、彼の気持ちはわかる気がするのです。

ぼくは外国人ですから、北京では階層縦断的にさまざまな人たちとそれなりに交流できる特権を手にしています。ある日は外資系高層ホテルのハイソなバーに出入りするような小資(プチブル)たちとも会いますし、またある日は「農民工生活区」の住人たちとも一緒に食事をするというようなこともあります(中国は階層が断絶している社会ですから、両者の交流はまずありえないといっていいと思う。徐童監督のような奇特な人物を除くと)。

ぼくから見れば、プチブルの連中は、たいていの場合、中身は薄っぺらなくせに強欲で自尊心が肥大化していると感じることが多くてうんざりです。残念な人たちに見えます(文化人、読書人はまた別の話です)。それに比べれば、「農民工生活区」の人たちからのほうが学べることはずっと多い。彼らは、自分たちの生きる社会の矛盾や痛みについて、否が応でも思い知らされている人たちだからです。

徐童監督の作品はすべてそうですが、これら両者の深い階層断絶の裂け目から放擲され、置き去りにされた社会的弱者とされる人たちの人生に向き合おうとしているのだと思います。一見取るに足りないと思われがちな彼らの人生の深淵に目を開かせてくれたのが、都市と農村を往復する農民工のひとりであるホンミャオの存在だったのでしょう。だから、彼はこんなことを言うのです。

「初めて彼女に会ったとき、このような境遇にありながら、当時20歳の彼女に、なぜこんなに力があるのだろうか、と思いました」。

そう語る徐童監督は北京市民のひとりであり、ホンミャオとはもとより別世界の住人です。しかし、いまの中国で「外地人」に対して、彼のような視線を向けることのできる都市民はまだ少数派のように思います。

監督はこんなことも言います。

「私自身、フリーランサーでもあり、“都市をさまよう人間(盲流)”のひとりです。そういう意味では、ホンミャオと自分は境遇が似ていると思いました」

ここでいう“都市をさまよう人間(盲流)”とは、今回の映画祭の関連イベントでも上映された中国初のドキュメンタリー作品とされる『流浪北京 最後の夢想家たち』(1991)の世界につながる自己認識だと思われます。北京でアート表現に携わる人間の多くは、天安門事件当時の若い北京のアーチストたちの精神状況を描いたこの作品の登場人物と同様に、自らを“都市をさまよう人間(盲流)”とみなしているところがあるのでしょう。その意味で、少々カッコよすぎるとは思いますが、彼は自分の不安定な境遇を彼女と重ねているわけです。これもまあ理解はできます。

そして、この作品を撮るに至った理由について彼はこう説明します。

「中国における下層社会の住人は、この30年間の経済発展の代価を負わされている存在です。映像を通して代価を払わされている人たちの姿を記録することは重要な仕事だと考えています」

徐童監督に限らず、中国のドキュメンタリー作家たちが共通して語るこうした「公式見解」は、ちょっと優等生すぎて、「記録」するだけで本当に事足りるのか? 体制に日和見しているのではないか、と思わないではありません。下層の人たちの世界をいちばんよく知る彼らがそんな悠然とした態度であれば、社会は変わりようがないではないか、と思うからです。

しかし、そんな邪推も、彼らが作品化している舞台である北京周辺の郊外村やスラムを訪ねたり、「外地人」とつきあう機会が増えたりしていくうちに、ぼくにも少しずつ納得できるようになりました。それ以上のことを軽々と口にできるほど、中国は悠長な社会ではないからです。特権階層に限らず、この国の多くの知識階層も、中国はとても不安定な社会であることを自覚しているため、自分たちにはコントロール不能の社会変動につながりかねない「民主化」など、そんなに気安く口にすることはありません。そうした主張をする人たちもいるのは確かですが、それこそ「夢想家」と呼ばれかねないのではないでしょうか。

さて、『収穫(麦収)』という作品の最も驚嘆すべきところは、なぜこのような映像を撮ることが可能だったのか、でしょう。徐童監督はこんな風に説明します。

「ドキュメンタリーは真実そのものではない。つくられたものと考えるべきです。ただし、同時に現場にいて感じたことは真実といえる。私にとってカメラは決して冷たい機械ではありません。交流の道具なのです。私はホンミャオとその周辺にいる人たちすべてに対して、監督ではなく、友人のひとりとして付き合いました。そうした信頼関係があってこそ、撮影が可能となるのです」

当然のことですが、風俗嬢たちの日常を収めた長回しの映像の背後には常に徐童監督がいて、ビデオカメラを回し続けていたわけです。それが可能になる「信頼関係」というものは、日本のような国ではちょっと想像できないことで、もしかしたら中国においてもあと10年もすれば社会が成熟化して不可能になってしまうかもしれない、撮る側と撮られる側の間にある微妙で率直な関係性を唯一の成立条件としているように思えます。

こうした関係性による映像の成立条件に対する疑義が呈されたのが、香港「収穫(麦収)」事件です。2009年、この作品は日本をはじめ国内外のドキュメンタリー映画祭に出品されましたが、香港の映画祭会場において、性産業従事者のプライバシーを著しく侵害した作品として上映停止を求める運動が起こり、上映会場のスクリーンの前に横断幕が掲げられたといいます。

ここで問題となっているのは、このような映像が撮られたことではなく、上映することに対してで、同じ中華圏の香港やその後の台湾でも強い批判が起きたのです。日本をはじめ中華圏以外の国では所詮外国の話ということからか、作品の世界をどこかフィクションのように受け流すことができるのかもしれませんが、同じ中華圏で「民主化」を経た地域に暮らす人たちにとって、ホンミャオ個人の人権問題として物議を醸すことになったというのは興味深い話です。

要するに、「このような映像を撮られてしまった彼女の今後の人生にどんな悪い影響を与えることになるのか、監督は自覚しているのか。その場合、どう責任を取るのか」という主張です。これはこれでもっともな意見です。たいていの国では、こうした「人権意識」が常識としてあるゆえに、このような映像を撮ることがはばかられてしまうからです。

その件について徐童監督はこう語っています。

「私の作品を批判する社会運動家の人たちにも良心があることは私も理解しています。ただ登場人物の顔にモザイクをかけたからといって身元が割れないということでもありません。むしろ彼女らが風俗嬢ということで、決して社会の表に出ることのない存在として隠されるより、堂々と顔を出して生きるべきではないかと思うのです」

こうした「事件」を経て、『収穫(麦収)』はさすがに中国国内では上映しないこと。海外での上映は構わないけれど、すべて監督の了承を得たうえでなければならないという取り決めになったそうです。実際、この作品は中国のなんでもありの動画サイトでも観ることはできなくなっています。

おそらく徐童監督自身、撮影当時はもとより、上映にあたって「人権意識」が問われるようなことなど想定していなかったでしょう。香港の社会運動家が言うように、ホンミャオの将来への影響や責任など、考えてもみなかったに違いありません。そんなことまで自覚していたら、決して撮り続けることはできなくなったと思いますし、逆にそういう「人権意識」の持ち主が回すカメラであれば、ホンミャオの側も撮られることを拒絶したのではないか。そんな気がします。

風俗嬢とカメラマン、両者の間に取り交わされたある種の無頓着さからくる了解事項、そこにはお互いを対等に尊重する姿勢と関係性の相互承認があって、初めて『収穫(麦収)』の成立条件として機能したのだと思われますし、2000年代に入ってなお中国が「人権意識」の抜け落ちたような社会であることも、この奇跡的ともいえる記録映画の誕生に寄与することになったといえなくもありません。結果的に、オリンピック開催に象徴される中国の表向きの華やかさとは対極の世界を描いているようで、やはりこの作品にはどこか救いがあることも、2000年代という時代に撮られた作品らしい気がします。

こうした「事件」の複雑な経緯に触れたあと、徐童監督はこんなことを言っています。

「私とホンミャオはカメラを通してお互いの属する別世界を知ることになりました。このことが私たちにとっていちばん重要なことでした」

ちょっときれいごとすぎるもの言いに聞こえるかもしれませんが、徐童監督のホンミャオに対する終始一貫した態度によって、私たち観客も農民工という「別世界」を知ることになったのは確かです。この作品を通じて、都市で暮らす農民工たちが中国の成長の代価をいかに負わされているかという実相について、多くの知見を得ることができたのと同時に、彼らのしたたかさや強さを知ることができたのも、大きな収穫といえるでしょう。

ところで、この作品が撮られた3年後、ホンミャオは故郷で結婚し、娘が生まれたそうです。徐童監督は結婚式には顔を出さなかったそうですが、1000元の紅包(中国の祝い事の際、包むお金のこと)を彼女に送ったとのこと。中国人というのは、自分が出した金については、はっきり額を明かさないと気が済まないようですね(笑)。

最後に、この質疑応答中に起きたちょっとしたサプライズについて触れておきます。最初に監督と中山さんとひとりの中国女性が登壇したと書きましたが、この女性、なんと今回の映画祭の出品作『占い師(算命)』の登場人物のひとり、唐小雁さんだったのです。

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唐小雁さん

実は、『収穫(麦収)』の上映中、彼女はたまたまぼくの隣の席に座っていたのですが、独特の存在感のある女性でもありますし、そもそもどこかで見たことのある人だなとずっと気になっていたのです。それはそうでしょう。数日前にぼくは『占い師(算命)』を観ていたからです。撮影当時の彼女は、幸の薄そうな、これまた風俗嬢で、泣いたりわめいたり、警察につかまったりと(もちろんドキュメンタリーですから、事実です)、波乱万丈な人生を垣間見せてくれた当人です。その彼女が日本に来ているということにびっくりしました。このドキュメンタリー作品に出演したことで、彼女の人生は大きく変わったそうです。

半年後、北京で監督と唐小雁さんに再会することになるのですが、また後日報告します。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-17 16:52 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2013年 02月 13日

北京の風俗嬢と農民工生活区のすべて(中国インディペンデント映画祭2011 その6)

1年ぶりに中国の自主映画(中国独立电影)の作品について書きます。以下、「中国インディペンデント映画祭2011」の報告の続きです。
          
2011年12月9日、中国インディペンデント映画祭の関連イベントとして、武蔵野美術大学で開かれた徐童監督の「収穫(麦収)」の上映会に行きました。この作品は、第2回中国インディペンデント映画祭(2009)の出品作です。今回の出品作のひとつ、「占い師(算命)」と同じ監督の作品です。

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このドキュメンタリー作品のあらすじを語るには、ちょっと下世話な話から始めなければなりません。中国の床屋が、いわゆる風俗店として使われていることをご存知でしょうか。現地駐在の方や出張などで何度か中国の地方都市に足を運んだことのある人なら見たことがあるのではないかと思います。見た目はただのうらぶれた床屋ですが、窓越しに中を覗くと、なにやらケバケバしい女たちが何人も腰かけていて、目でも合おうものなら手招きされそうな妖しい雰囲気がある。そこは地方出身者と都市の下層階級向けの風俗施設というわけです。

北京などの大都市でも、中心部から車で10分も走れば姿を現わす、地方からの出稼ぎ労働者たちが暮らす居住区(「農民工生活区」といいます)にはたいていどこにでもあります。そんな風俗床屋で働く20歳の娘がこの作品の主人公です。

彼女の名はホンミャオ(仮名)。細くつりあがった瞳、平たい顔と低い鼻、決して器量よしというタイプではないのですが、まだあどけなさの残る屈託のない表情と、農民工によく見られる気の強さが彼女の中に同居しています。見た目でいうと、そんな商売に身をやつしているとは思えない子です。出身は北京の南方約90キロの場所にある河北省定興県閻家営村。北京市西南のはずれにある「農民工生活区」に暮らし、東南のはずれにある店に「上班(通勤)」しています。

話は、彼女が河北省の実家に帰省し、父親と会うシーンから始まります。父親は病気のため点滴を受けながらオンドルに横たわっています。彼女は父親に北京の市場で買ったポロシャツをお土産として渡します。それから家族みんなで卓を囲んで食事をします。

そんなのどかな農民一家の団欒風景から一転して場面は天安門広場になり、けたたましいサイレンの音が響き渡ります。この作品が撮られたのは2008年。撮影期間中に起きた5月12日の四川大地震直後の被災者への黙祷シーンがさりげなく挿入されています。つまり、この話は世界中から注目された北京オリンピック開催と同じ年に起きている出来事だということを伝えようとしています。

さて、作品ではホンミャオの私生活のいっさいが次々と公開されます。彼女の仕事や友情、恋愛、家族との関係など、こんなに何もかもさらしてしまって大丈夫なのか、と心配してしまうほどの赤裸々さです。ところが、曇りのない彼女のキャラクターがなせるわざというべきか、決して賤業に身をやつしているというようなじめじめしたところはなく、ある種のすがすがしさすら観客に感じさせるところがあり、これは驚くべきことに違いありません。

「ホンミャオの生活圏」として、作品中に登場する場所を書き出してみました。彼女は北京市南部にある生活圏と実家のある河北省定興県閻家営村をこの1年のうち何回か往復しています。
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ホンミャオの北京の部屋は、豊台区の「農民工生活区」にあります。北京と広州を結ぶ京広線の線路のすぐ脇、レンガ塀一枚で隔てただけの場所にあるため、騒音が相当激しそうな環境です。北京では一般に「東富西貴北賎南貧」といいますが、ここはその「南貧」に位置しており、結局のところ、彼女は多くの「農民工生活区」の住人たちがそうであるように、北京中心部の高層ビル群が並ぶ世界に自ら足を運び、越境していくことはまずありません。彼女ら「外地人」は、空間的にも北京生まれの都市戸籍者たちとはまったく分断された生活圏を生きているといえます。

オンドルが中心を占める彼女の小さな部屋には、テレビと衣装棚とわずかな家財道具があるだけですが、女の子らしくクマのぬいぐるみが置かれていたりします。同じ農民工の彼氏と携帯でおしゃべりするのもオンドルの上です。

彼女の「職場」は、朝陽区高西店の風俗床屋です。昼下がり、彼女と同じく地方出身である同僚の女たちは昨晩相手をした、たちの悪い客に悪態をついています。「河北省出身の17歳の処女が1万元で買われたが、そのうち彼女の手元に残るのは7000元だ」などという噂話も、姉御風の同僚が訳知り顔で話しています。

この作品では、彼女らの「職場」の風景が、あきれるほどの率直さで日常的に映し撮られています。女たちは床屋の中の長椅子に座って客が現れるのをひたすら待っているのですが、ひまなときには音楽を聴きながら踊ってみたり、みんなで食事をしたり……。徐童監督は彼女らと同じ場所にいて、その姿を長回しで収めているわけです。

これだけで十分興味深い光景ですが、さらに面白いのは、さまざまな登場人物の姿を通じて、彼女らの「職場」の外に広がる農民工の多様な日常が映し出されていることです。

ホンミャオには農民工の彼氏がいます。彼は建築現場で巨大なクレーンを扱う仕事をしていて、休日に彼女を現場に連れていき、自分の仕事がいかに大変か自慢げに語ります。こういういじらしい感じは、若き日の吉永小百合の主演映画『キューポラのある街』(1962年)みたいです。ただし、前述したように、いまの北京にはそこから車で10分ほどの場所に高層ビル群が林立している別世界があるという現実があります。よくいわれるように、中国にはいくつもの「時代」がモザイクのようにバラバラに折り重なりながら共時的に存在しているのです(もちろん、その「時代」というのは、我々先進国がこれまで経てきた時間軸の括りを便宜上そう呼んでいるにすぎないのかもしれませんが)。

農民工カップルのふたりは、中国の消費時代の申し子とされる都会生まれの「80后」と同年代の若者ですが、三里屯あたりのおしゃれなカフェやレストランには縁がなさそうです。夜のデートは屋台の食事が定番。そこには、いろんな年代の地方出身者たちが集まっていて、世代を超えた会話が繰り広げられています。ランプの明かりに照らされた彼らの表情はリラックスしていて、和気あいあいとしています。

風俗店の老板(経営者)は江西省出身の女性で、ある日彼女の誕生日を店の女の子と一緒に祝うことになりました。彼女の自宅にはなかなか男前の愛人がいて、料理も上手です。食事をすませると、みんなでKTVに行きます。そこは、彼女らと同じ地方出身の若いホストのいる店です。一晩のチップは100元。ホンミャオも遊びと割り切っているのでしょう。お気に入りのホストのひざの上に乗ってカラオケを歌っています。そして今日の主役、老板が歌うのは、テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』。ああ、なんという場末感。しかし、彼女たちにとってこの時間がどれほど気晴らしになっているのか、よく伝わってくる光景です。

こうして同僚や男友達にも恵まれたホンミャオは、北京でそれなりに楽しく毎日を過ごしているようです。おしゃれしたい年頃ですから、「農民工生活区」にある小さなネイルサロンに行ったりもします。しかし、直接的ではないものの、彼女の職業の内実を暗示するいくつかのシーンも挿入されています。たとえば、彼女がある検査のため病院に通う冒頭のシーンがそうです。検査の結果は問題がなかったことを彼氏と一緒に喜ぶ姿も映されていますが、性病の懸念を彼女がずっと抱えていることがわかります。また、北京で最初に働いた風俗床屋のあった場所を訪ねると、そこは当局によって閉鎖されており、近所の人の話では、老板は懲役5年の刑に服していることを知らされます。北京における彼女自身も、いかにあやうい存在であるかがわかります。

そのうえ、実家の父親が深刻な病気を罹っており、彼女はその治療費を負担しているのです。家族への送金のために双井郵便局に行くシーンもありますが、別の日には手術のために父親が入院した河北省保定市の第一中心医院の病室を見舞いで訪ね、母親に3000元を手渡します。すると、母親はそのうち200元をそっと娘に返しました。

中国では、金勘定は現ナマを第三者に見せないと意味がありません。そもそもなぜ3000元を渡したかわかったかというと、母親が娘から渡された100元札の束を数えるシーンを見ながら、ぼくが枚数をカウントしたからです。カウントできるほど他者にはっきり見せてこそ、親を扶助する孝行娘とその母という関係性が表ざたになるわけで、母娘ともに「面子」が立つというわけです。しかも、いったん娘からもらった金の一部を返すことで、母親の「面子」も維持される。金銭をめぐるこうしたやりとりも、彼らにとって「面子」に関わる重要な行為といえます。外国人からすると一瞬違和感を覚えるような光景ですが、徐童監督はこうしたなにげない、いかにも中国的な親と子のリアルな情愛を感じさせるシーンをしっかり収めています。

さてそのころ、彼女の実家では、麦の収穫の季節を迎えていました。実家の外には、すっかりコムギ色に染まった麦畑が広がっています。北京の「農民工生活区」や風俗床屋の世界をさんざん見せられてきた観客にとって、ハッと胸を打たれる光景です。旧式のコンバインが音を立てて麦を刈り取っていきます。

ホンミャオは農民の娘です。病気の父親に代わって刈り取った麦の籾殻を庭先で分けたり、収穫のすんだ土地にトウモロコシの種を蒔いたりするのは彼女の仕事です。

そんな農作業に明け暮れる彼女も、実家の部屋に戻ると、北京の彼氏からの電話を受けるのですが、なんと彼氏の浮気がばれてしまいます。しかも、その相手は同僚の女友達だったことが判明し、彼女は涙にくれます。そして、心を痛めた彼女は寝込んでしまいます。

こうして実家のオンドルの上であられもない寝姿をカメラにさらしたまま、長い沈黙のあと、彼女はカメラマン兼監督である徐童に向かって言います。

「拍不拍了?(もう撮るの撮らないの?)」

映像は暗転。テレサ・テンの『阿里山的姑娘』が流れ、唐突にエンドロールを迎えます。

「終幕」。

……とまあこんなストーリーです。

ひとことでいえば、北京の底辺を生きる若い女性、しかも風俗嬢である農民工の私生活をビデオカメラで延々撮り続けるという、常識で考えれば、よくこんなことが可能だったなあと半ば呆れつつも、驚かざるを得ない作品です。

なぜ徐童監督がこの作品を撮るに至ったか、またなぜこのような映像を撮ることができたのかについては、上映後に監督に対する会場からの質疑応答があったので、次回紹介します。
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by sanyo-kansatu | 2013-02-13 11:57 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2012年 01月 13日

中国とマンガに関する3つの疑問を解く(中間報告バージョン)

2012年1月13日、やまとごころ.jpの勉強会で、中国のアニメファンに関するちょっとした報告をしました。11年秋に北京で開催された第12回国際マンガサミットの模様を取材したのですが、これはそのときのまとめのような内容です。
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中国とマンガに関する3つの疑問を解く(中間報告バージョン)
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by sanyo-kansatu | 2012-01-13 15:51 | アニメと「80后」の微妙な関係 | Comments(0)
2011年 12月 31日

中国インディペンデント映画の誕生と現在(中国インディペンデント映画祭2011 その5)

12月7日には、中国インディペンデント映画祭の関連イベントとして「日吉電影節2011」(主催は慶應義塾大学)がありました。この期間中のイベントは何でも見てやろうという気でいたので、久しぶりに慶應の日吉キャンパスに足を運びました。

プログラムは、第一部が中国の若手監督(1980年代生まれが中心)の短編映画の上映で、第二部が北京電影学院教授の章明監督と俳優の王宏偉さん、中国インディペンデント映画祭代表の中山大樹さんの座談会でした。

映画上映についてはあとで触れるとして、この日ぼくにとって収穫だったのは、章明監督による中国インディペンデント映画の誕生の背景と現在の動向に関するスピーチを聞けたことでした。以下、簡単に章明監督の話を紹介します。
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章明監督


「中国インディペンデント映画(いわゆる自主制作映画)が誕生したのは1990年代です。背景には改革開放以降の中国の経済発展と、デジタルビデオカメラのコンパクト化をはじめとした撮影技術の進歩があります。中国ではそれまで映画製作は国家が資金を出す代わりに国家の要求するものしかつくることができませんでした。これが変わったのが天安門事件後です。鄧小平は民主化を抑えるかわりに、経済面の開放を加速化させましたが、その影響は映画製作の現場にも現れました。民間資本による映画製作が可能となったのです。

これは映画製作者にとって、ひとつの門が開いたことを意味しました。国家の要求するものとは異なる作品をつくることができるようになったからです。

私たち映画製作者たちは、当然のことですが、これまでとは違ったものを撮りたいと考えました。内容においては、すべてが政治がらみだったものからそうではないものに、登場人物においては、これまで映画に出てくることのなかった、たとえば泥棒といった世間の片隅に生きている人物を扱うことで、社会の真実をリアルに描きたいと思いました。

もっとも、1990年代はテレビドラマが人気で、街にはハリウッドや香港映画のビデオ上映館が大流行でしたから、映画は衰退していく時期でした。中国映画市場が活況を呈してきたのはここ数年のことで、いまでは天安門事件後に生まれた世代が映画館に足を運ぶ時代になりました。映画館の数も増えています。ただ作品の種類は少なく、そのほとんどはハリウッドか中国政府の後押しした歴史大作です。我々のつくっているような低予算のインディペンデント映画が映画館にかかることはありません。

なぜなら、中国では映画館で上映するためには、当局の検閲を受けなければならないからです。またたとえ検閲を受けたとしても、興行収入を得る見込みのない作品を上映する映画館はないからです。

私の新作『花嫁』(2009年)にしても、中国ではいまだ5~10回しか上映されていません。最初に上映されたのが北京の798芸術区にあるイベリア芸術センターで開かれたインディペンデント映画祭で、その後の南京や重慶の映画祭や大学のキャンパスでしかありません。中国には、海外のようなアートシアターは少なく、自主的に上映することしかできないからです。おそらく私のこの作品の観客は1000人に満たないでしょう。

それでも、中国のポータルサイトのひとつ「捜狐」のように、インディペンデント映画専門のサイトをつくろうとする動きもあります。ある若手の映画作家が、性転換したダンサーを主人公としたドキュメンタリー映画をネットにのせ、2000万アクセスを得たという成功例もあります。ただこうしためぐり合わせは誰にでもあるものではありません」。

その後の質疑応答で、章明監督(1961年四川省生まれ)は映画監督を志した経緯について次のように語りました。

「私は小学生の頃、長江のほとりの農村(四川省巫山)で過ごしました。校舎は古い廟で、教室の四角い窓から長江と行き交う船が見えました。それは映画のスクリーンのように美しかった。中学時代は演劇をやり、高校時代に映画雑誌を初めて読み、映画の脚本の存在を知りました。大学時代は美術大学で油絵を専攻しました。

大学卒業直前の1980年頃、栗原小巻主演の『愛と死』(1971年松竹)を観ました。そのとき、初めてスローモーション映像というものを知ったんです。その後、映画制作を志し、北京電影学院に入学しました」。

(章明監督は、91年に北京電影学院監督科の修士課程終了。北京電影学院教員となり、テレビドラマや広告制作に携わる。初監督作品『巫山雲雨(沈む街)』(1996年)がトリノや釜山の映画祭で最優秀作品に選ばれる)

監督の作風や映画撮影に対する考え方を問う質問に対して、彼はこう答えています。

「私の作品の特徴は、登場人物に語らせるというスタイルであることです。『花嫁』の場合も、地方の小都市に住む人々の生活やモノの見方、態度を描いています。彼らこそ中国の一般大衆です。中国の人々の大部分は大都市ではなく地方の小さな町に住んでいるのです」

実際、外国人である我々は北京や上海といった大都市に住む人たちこそ、そこそこ知っているとはいえ、地方の小都市に住む人たちのことはまるで知りません。彼らがどんな環境で暮らし、何を考えながら日々を送っているのか。監督の作品はそれを知る手がかりを与えてくれます(『花嫁』については後日紹介します)。

また監督の話から、中国インディペンデント映画が扱う題材やテーマが、かつてのように国家が要求する歴史の英雄を描くのではなく(いまでもその傾向が強いですけど)、中国の一般大衆の生活や日常を扱うことに熱心なのは、それ相応の背景や動機があったことがわかりました。

さて、順序が逆になりましたが、第一部に戻ります。中国の若手監督による短編映画の上映です。2009年の重慶インディペンデント映画祭の出品作から選ばれたそうです。以下、作品の簡単な紹介とひとことコメント。

①『阿Q魚伝(Q鱼的下午)』(2005年 林哲楽監督)
金魚鉢の中にいる金魚たちを擬人化してモノローグさせるというユーモア小編です。中国のネット上でよく見かける手法ですが、ぼくにはとても古めかしく感じました。1960年代や70年代の実験映画でこういうのはよくあったんじゃないかと。言っちゃ悪いけど、いまの中国の若い世代が新しげなこと、気の利いたことをやろうとすると、とたんに古めかしく見えてしまうことはよくあると思います。近年大量に生産されている中国産のアニメや漫画を見ていると、その思いを強くします。

②『キャンディ(糖果)』(2007年 趙楽監督)
中国の農村を舞台にしたメルヘンです。ひとりの男の子がいたずら半分に自分の食べたキャンディの包み紙に石鹸を包むと、その包み紙が姉から感謝の印として級友の男の子へ、そして先生へと渡り、最後に自分の手元に戻ってくるという話です。今回の映画祭では、大人の世代の監督たちが中国の農村の異界ぶりをリアルに描き出しているのに対し、「80后」世代の監督は、同じ舞台をキャンディの甘い包み紙でくるんでしまいました。その評価はともかく、この違いをどう理解すればいいのか。ちょっと面白いテーマだと思います。

③『息子とゴキブリ(儿子与蟑螂)』(2007年 欧陽傑監督)
時代の変化についていけない小説家の父と息子の葛藤を描く話。やはりかつての実験映画のようですが、ストーリーの展開や人物の内面がうまく伝わってきません。章明監督も「物語の処理がうまくできていない」とコメント。それでも「重慶のじめじめした重苦しい空気は伝わってくる」とのこと。なんともコメントしにくい作品ですが、息子の自殺後、カメラが映し出す夜の車道の街灯のうすぼんやりした映像が、1970年代の日本の映画やドラマのシーンに似ていたことが印象的でした。

④『北京へようこそ(北京欢迎你)』(2008年 盧茜監督)
コンセプトがわかりやすく完成度の高い作品です。当時ネット上で評判になった記憶があります。2008年、オリンピック開催に沸く北京市政府が『北京へようこそ(北京欢迎你)』(ジャッキー・チェンら中国の芸能人によるキャンペーンソングの曲名)と表向き外来者を歓迎しているように見えて、その実外地人(地方から北京に来た中国人)に対する滞在許可のチェックを厳しくしたことを大いに皮肉る内容です。

ストーリーは、あるマンションの管理人のおばさんが、政府から住人の戸籍管理を徹底するよう通達を受け、マンション内の住人を訪ねて回るというもの。ひとり住まいの老人介護をする四川省出身の小時工(家政婦)や共同住まいの売春婦たち(風呂場に隠れていたもうひとりの女は妹だというが、客と思われる男がのこのこ出てきてしまう)、雲南省出身の偽ブランド品販売業者の夫婦(おばさんは南国フルーツのドリアンをすすめられるが、臭いのきつさに遠慮する)、北京市出身だが農村戸籍であるがゆえに管理の対象となることに憤慨する青年、半地下室をスタジオ代わりに使う上海や湖南出身の外地人ロックバンドの若者たちなど、いまの北京を象徴する多様なキャラクターが登場します(ちなみに、半地下室とは1980~90年代に中国で建てられた団地やマンションの地下にある元核シェルターのことで、いまではそのスペースを間仕切りして、地方からの出稼ぎ労働者や大学卒業後も北京に残った若者たちがアパート代わりに住んでいます)。

まるで都市社会調査の現場に立ち会うようなストーリー立てにぼくはわくわくしましたし、作品の最後に住人の映像と例のジャッキーたちの歌『北京へようこそ(北京欢迎你)』を重ねる手法は絶妙というほかありません。ここまでわかっている人間が中国にもいることを知ると(そういう言い方はそもそも不遜だとは思いますが)、とても頼もしい気がしてきます。もっとも、中国においては、スマートで切れ味がよすぎる社会批評は、かえって当局にはかすり傷にすら感じないという現実もある気がします。

「日吉電影節2011」では、前半の「80后」世代の作品上映と、後半の大人世代にあたる章明監督らのスピーチとの間のつながりがしっくりきませんでしたが、いろんな発見はありました。きっと大学生向けのイベントということで、世代の近い若手監督の作品を選んだという教育的配慮があったのでしょうね。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-31 21:46 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 12月 30日

中国版ミニ角栄のなれの果て(中国インディペンデント映画祭2011 その4)

ここ連日、ポレポレ東中野に通っています。中国インディペンデント映画は、お世辞抜きで面白いと言わざるをえません。外国人であるぼくが生半可な気持ちで取材をしようと試みても、ここまではとても入り込めないという臨界点が中国にはあるものですが、その先に広がる茫漠としたこの国ならではの奥深い世界をリアリティたっぷりに見せてくれます。もうお腹いっぱいですから勘弁してください、というくらい徹底的に。

1日4本立ての上映スケジュールが組まれていますが、1日1本観ればもう十分すぎるぐらい内容が重いので、ぼくにはハシゴは無理です。せめて上映後1日かけて、その作品が撮られた背景や登場人物の言動の意味について自分なりに整理しておかないと、わけがわからなくなってしまうからです。

12月6日に観たのは、新聞記者出身の周浩監督の『書記』(2009年)でした。
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話の結末を明かしてしまうのはルール違反ですが、ノンフィクションであることと、DVD化でもされない限り、誰もがそう簡単に観ることのできない独立系であることをふまえ、最初に言ってしまうと、この作品は、退任15ヵ月後、収賄の罪で懲役7年の刑に処された河南省固始県の郭永昌共産党書記(2007年当時)の在任中最後の3ヵ月の日々を追ったドキュメンタリーです。

中国の地方行政は33の省と直轄市、自治区に分かれ、それらは約1500の県で構成されています。日本では地方行政のトップは県知事ですが、中国では政府と共産党による二重権力構造が常態化していて、実際には県長(日本の知事にあたる)よりも共産党書記の権限が上のようです。2012年秋の党大会で国家主席に就任するとされる習近平が浙江省の書記であったことに比べると相当格が落ちるとはいえ、この作品の主人公が地方行政の事実上トップであることを思えば、元記者によくここまで密着して撮らせることを許したものだという驚きがあります。

河南省固始県といえば、地図でみればわかりますが、中国内陸部の典型的な地方都市です。この作品が撮られた2007年は、上海の不動産価格の高騰がピークになるだろうと外資系投資関係者らの間で言われていた頃です。その狂おしいまでの熱気は一足遅れて地方都市にも波及していました。その渦中に行政トップの要職に座る郭書記の仕事は大きくふたつ。どうやって外資を呼び込み、地元経済の成長を図るか。同時に発展に伴う格差の拡大をはじめとした社会のひずみを解消するか。とはいえ、全国の地方都市が自分たちも上海のように発展したいと一心に不動産開発に明け暮れていた時代ですから、後者の仕事はなおざりになりがちです。

さて、この作品で興味深いのは、地方行政の中南海ともいうべき郭書記の執務室の映像をカメラが収めていることです。一部、映像が真っ暗になり、音声だけになるシーンもありますが(おそらく郭書記以外の他の関係者に禍をもたらす可能性のある人物が映っていたに違いありません)、多くは書記に頼みごとや陳情に来る訪問者たちとのやりとりです。退任を間近に控えた郭書記は慈悲深く寛大な指導者の役割を演じているがごとく、細々とした訪問者が抱える問題の解決を約束してみせます。地上げによる立ち退き費用の支払いを渋る公的機関と結託したデベロッパーとの契約書類に自筆のサインを書き込み、関係各所に指示を出しておくから大丈夫、と優しく語りかける彼は、テレビで見る温家宝首相の姿と重なって見えます。でも、県政府ビルの周辺には、決して招き入れられることのない陳情者たちが大挙して取り巻いているシーンも映されています。

104分間の映像の大半を占めるのが、酒宴の風景です。お抱え運転手に「毎日が午前様」と揶揄されながら、この地を訪ねる国内外の投資関係者や不動産事業者らと日夜酒杯を重ねる郭書記はカラオケ大好きの乾杯大将です。酒宴の背後には地元の若い女歌手やダンサーがいて、その地方色たっぷりの場末感が今日の中国らしさを存分に味わせてくれます。

とりわけ郭書記のハッスルぶりが見られるのが、海外の投資関係者との宴会です。台湾関係者とは肩を組み、デュエットでカラオケを熱唱、同じ“中華民族”としての一体感に酔いしれてみせます。一方、欧米人企業家相手には中国式のカラオケ接待ではなく、個室を借り切った誕生日パーティを準備させるなど、両者の好みを使い分ける気配りを忘れません。が、用意させた誕生日ケーキのクリームを欧米人の顔に塗りたくり、おどけてみせるといった、ついついお里が知れてしまうシーンも出てきます。おそらく彼の胸の内には、中国人も欧米人相手にここまで対等に振舞えるようになったんだぞという自負があったであろうことがうかがえます。

ぼくは以前、仕事の関係で延辺朝鮮自治州のトップに近い役人に面会したことがあります。酒宴にも招かれたのですが、彼は外国人であるぼくに、自らの権限を誇示することに熱心でした。ぼくはそのとき、延辺にある複数の北朝鮮との国境ゲートを視察して回りたかったので、その話をすると、後日、外国人の立ち入りが禁止されている中朝国境のある橋を彼の電話1本で現場の役人に命令を下し、渡らせてくれたりするわけです。

思うに、彼らのような地方役人がなぜ自分の権限を誇示したがるかというと、自分の権限が及ぶ範囲と限界を知っているからでしょう。彼らは、中央政府にたてつくことはできなくても、この地では俺がなんでも決められるということを、とりわけ外国人相手に言いたくなるようです。

しかし、高級カラオケクラブの個室で側近にレミーマルタンを開けさせながら、県内の消費税率をトップダウンで決めてしまうなんて政治手法に道義などあろうはずはありません。「県の書記なんてのは、大旦那みたいなもんさ。歳入3億元なのに、なぜ10億元の歳出が可能か。それは俺が省幹部に顔が利くからだ」。退任間近になると、彼はますます大胆になってこんなことを言い出す始末です。

このシーンを観ながら、ぼくはつぶやいていました。これも2010年までの話だろうさ。11年から先はこうもいくまい。地方財政は破綻の危機だというし、マンション建てれば金が生まれるなんて時代ではもうないのだから。さあ、中国もこれからが大変だ……。

ですから、エンディングの字幕で郭書記の懲役刑が告げられるのを観ながら、溜飲が下がったのは確かでしたが、どこか後味の悪さが残ります。要するに、彼は中国版ミニ角栄。退任挨拶で涙を流したりする情にもろい人物で、時代に乗ったお調子者にすぎない。その小物ぶりに、同情の余地があるようにも思えてくるからです。なぜって、本物のワルなら捕まったりはしないでしょうから。

いまとなっては、実名まで明かされてしまったこの人物、中国で最も面子のない男、カッコ悪いにもほどがある。一見頭がよくて抜け目がないようで、その実スキだらけという中国人ってよくいます。脇が甘すぎたのか、稀代のお人よしだったということか。おそらく彼は自分がこれだけ県を発展させたのだから、任期内の功績は後代に残す価値があり、その記録を撮らせるのも悪くない、くらいの認識だったに違いありません。確かに、2000年代の中国はそんな時代だったと思います。

この人物、世代的には文革時代には紅衛兵でもあった50代でしょう。青年時代には資本主義者を打倒すべく大暴れした人間が大人になり、権力を手に入れたとたん、接待漬け、酒宴三昧の日々を送ってついには監獄行きという結末は、中国の官僚制度の救いようのなさを呆れるほどわかりやすく見せてくれたといえます。ぜひとも中国の国営テレビで全国放映すべき貴重な映像だと思いますが、無理でしょうね。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-30 22:09 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 12月 26日

農村の老人たちの夜這いの物語(中国インディペンデント映画祭2011 その3)

12月5日は、『独身男(光棍儿)』を観ました。数日前、中国の農村の若者の物語(『二冬』)を観て、できることなら農村の性の世界も見せてほしいと書いたばかりですが、この作品ではそれがてんこもりで描かれていてちょっとびっくりしました。

You Tube『独身男(光棍儿)』

舞台は北京市の外縁に張りつくように広がる河北省のどこまでも乾いた大地に点在している山あいの村。初めての大学合格者が出たと村民総出でお祝いするほど、都市文明から隔絶された陸の孤島です。

(話の筋には関係ありませんが、こんな奥地に住みながら、一浪の末合格したこの村の若者はインターネットを使いこなしています。またこうした農村出身の若者が都市部の大学を卒業しても、特権階級の子弟でもない限り、蟻族になるほかないこともなんとなく見えてしまう。それがいまの中国です。

※ちなみに蟻族とは、2000年代半ば頃より中国で急増している大卒でありながら都市生活に見合った収入が得られないため、都市近郊のスラム地区にルームシェアしながら居住する地方出身者のこと。「80后」世代が多い(『蟻族-高学歴ワーキングプアたちの群れ』(2010年 勉誠出版))
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さて、物語は若い頃(文革の時代という設定)、恋人との結婚を反対された羊飼いの楊が主人公で、彼は50代の今でも村長の妻となった彼女と密通を続けています。そこには不倫という罪の匂いはなく、村祭りの夜、彼女のほうから楊の住む村はずれの小屋へ夜這いにやって来るというあっけらかんとしたものです。情事のシーンは直接撮られることなく、真っ暗闇の映像に白い字幕でふたりの会話だけが映されるという奥ゆかしい表現なのですが(これは他の中国インディペンデント作品『花嫁』でも同じでした)、驚いたことに、その村長の妻は楊だけではなく、同じ夜、村の独身男たちの家を何軒もハシゴしていくのです。

独身男といっても、冒頭で明かされるように、楊ですら最も若く、60~70代の老人たちです。若い頃、さまざまな事情があって結婚できずに老年を迎えた男たちですが、出張がちの夫の外出時を見計らって、彼女は男たちの家を訪ね歩き、ひとときの性を楽しみ、いくばくかの小遣いをせしめて帰るのです。その金は息子の大学進学のために使われることは一同承知しています。

外界から閉ざされた辺境の地での、一同納得済みで維持される性とわずかな金銭の交換を通じた複数の男とひとりの女の関係。まるで文化人類学のフィールド調査の対象を見ているようでもありますが、中国の農村では老人たちの性の供宴がこんな形で行なわれていたのか(もちろん、これはフィクションです)と正直呆れつつ、どこか納得させられてしまいました。

彼らの関係性のバランスが崩れるのは、楊が四川省出身の嫁を買ったことから始まります。中国の農村では人身売買が日常的に行なわれているとは聞いていましたが、6000元(約7万5000円)ほどの金と引き換えに現れた色白の若い女が、はるか彼方の四川の山奥で人さらいに遭い、拉致されてこの地に連れて来られた哀れな身の上であることは村人みんなが承知しています。それでも、誰も楊を非難したり見下すどころか、村の男たちはうらやましがるばかりです。これでは人権という観念がこの国では通じないのも無理はありません。このあたりの展開はいかにも今日の中国的で、よくできています。

面白くないのは村長の妻です。その6000元は口約束とはいえ、息子の大学進学資金に用立ててやろうと身寄りのない楊が以前話していた金だったからですし、何より楊が若い女に執心している姿を見るのは口惜しい……。ところが、女は楊のもとから逃亡を企てるのです。金で買ったとはいえ、年の差には抗えません。落胆する楊を尻目に、村の若い男が彼女を見初めて自分の嫁にしたいと言い出します。そのためには、楊に女を諦めさせ、代わりに彼が6000元を用立てなければならない。ひとりの女の売買をめぐって村中で金の工面の話をしている光景の異常さもそうですが、一人っ子時代の親に対する息子の甘ったれぶりには呆れてモノが言いようのない始末です。息子は老いた父親に迫るのです。「なぜ息子のために金を用意できないんだ。オレはあの女を嫁にしたいんだ」と。

結局、四川の女はその若い男すら置いて村を後にしてしまうのですが、我に返った楊は手元に戻った6000元をあっけなく村長の妻に渡します。こうして村の独身男たちと女の奇妙な関係はひとまず元に戻っていくのでした。

この作品を撮った郝杰監督は、河北省出身の1981年生まれ。なんでもこの物語は、すべて彼の地元の顧家溝村で実際に起こった話に基づいているそうで、劇中の人物は本人や彼の家族や親戚が演じているとか。夜這いの関係者がいるその村で撮影を行うというような無茶ぶりは、都会育ちの「80后」世代にはとうていできないやり方でしょう。

映画を観始めてから最初の30分くらいは、中国のとんでもないド田舎で繰り広げられる老人たちの夜這いの話とは、なんてたちの悪い露悪趣味だろうと思いましたが、観ているうちにだんだん認識が改められていきました。監督本人も「独身男のセクシーさに気づいたとき、我々は敬意をもって彼らの生命の軌跡にストップモーションをかける。その価値は永遠だ」とパンフレットの中で語っています。彼らがセクシーかどうかはともかく、この監督の人間の見つめ方はどこか魯迅的なところがあるようにも思えてきました。

もっとも、この若い監督が老人の性の問題をどこまで切実に理解して描いているのか。その生身の感触を知るはずがないからこそ、こんなにカラッと妙味たっぷりに表現できたのだと思いますが、そもそも「80后」の彼が、なぜこの題材を選んだのか。一人っ子政策の徹底と男尊女卑の社会風潮から男女比率の均衡が急激に崩れた結果、適齢期の男子が3000万人もあぶれてしまうという今日の中国社会、今後もさらなる超少子高齢化の未来が待ち受ける自らの老後の時代を見通してというわけでもないのでしょうけれど。

日本でいえば、老人ホームの色恋話がこれに近いのかもしれませんが、中国の農村出身の映像作家が描くこの特異な物語は、ずいぶん遠い世界の出来事だと思わざるをえません。老人の性を日本で描くとしたら、もっと違った表現になるのではと思うからです(そうでもないのかな。ぼくにはまだその境地がわからないので、なんともいえませんけど)。

中国の農村というある種の異界を、その地で生まれ育った若い世代がどう認識しているのか。こうした作品を観なければ、我々には思いもつかないものです。この作品の海外での評価が高いというのも、うなずけるところがあります。

今日中国において徹底的に貶められている農村社会に対する見方がちょっぴり変えられた作品でした。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-26 18:00 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 12月 26日

北京郊外村のシュールな異界(中国インディペンデント映画祭2011 その2)

12月4日は、徐童監督の『占い師(算命)』(2010年)を観ました。前回(『冬に生まれて(二冬)』は農村が舞台でしたが、今回は北京近郊の移民労働者の住む街(郊外村)で撮られたドキュメンタリー作品です。

Youku『占い師(算命)』

足に障害のある50代の貧しい占い師と知的障害者の妻が主人公。登場人物は自分の身の上を占ってもらうため彼を訪ねてくる売春婦や元炭鉱夫たち。社会の底辺を生きるキャラクターが勢揃いです。
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フィクションではないため、そんなに観客に都合よくドラマが展開するはずもなく、それぞれの登場人物ごとに章を分け、監督はカメラを執拗に回していく構成です。最初はかなりトウのたった30代の売春婦の話です。彼女は占い師から男運の悪さを指摘されながら、カメラの前で若い頃の思い出を語り、今日の落ちぶれた姿を嘆き、ときにあられもなく泣きじゃくるのですが、ある日しつこい男客を店の前で殴り倒し、警察に拘留されてしまいます。その後、売春取締りで店をつぶされるという災難続きで、ついに行方知れずとなってしまいます。

次の章では、占い師は妻の故郷に夫婦ふたりで里帰りします。実家では彼女の兄弟たちに歓待されるものの、知的障害を負った彼女が人生の大半を過ごした場所が家畜小屋だったことを観客は知らされます。家族は彼女を決して家屋には住まわせなかったというのです。食事も残飯同然でした。

占い師はそれを承知で嫁にもらうことに決めたそうです。カメラがかつて彼女が寝起きしていた小屋を映すと、一頭のヤギがぬっと現われ、憎らしげにこちらをにらんでいました。

最後の章で、ふたりは縁日に占いの店を出します。粗末な机をひとつ置いただけの露店の占い師の隣には、妻がイスに腰掛け、物乞いをしています。障害者であることが記された肩掛けをした彼女は、日がな夫とともに客が来るのを待っています。普段は哀れな老婆にしか見えない彼女が童女のようにふりまく純真な笑顔に、観客は思わず見とれてしまいます。結局、冷やかし客がほとんどで、たいした売上がないまま看板をたたみ、ふたりが引き上げていくシーンで映像は終わります。

障害を負った男が知的障害のある女を妻にするという設定は、映画『歌舞伎町の案内人』で知られる上海出身の張加貝監督が2007年に撮った『さくらんぼ 母ときた道(桜桃)』でも採用されていたように、中国ではわりと普通の感覚のようです。障害者同士の婚姻は、自分に見合った相手を伴侶とするもんだという、人としての常識の範疇に属するという理解でしょうか。この国では「人としてみな等しく」といった障害者福祉の観念が大半の国民に及んでいない以上、無理もない話かもしれませんが、逆にいえば、身障者であっても結婚を諦めることはないという意味で、ポジティブな生き方ができるともいえるでしょう。

それにしても、北京中心部からそれほど離れていない場所に、こんなシュールとでも呼ぶほかない生活が普通にあることに、あらためて中国のリアルを思い知らされます。

中国では社会福祉に頼ることはできないという現実だけでなく、公安による無慈悲な処遇(中国では占いは非合法。ゆえにガサ入れも入る)も受け入れなければならない。一般に中国政府や中国を研究する人たちは、はっきり言いたがらないように見えますが、郊外村はアジアの大都市ならたいていどこにでもあるスラムと呼んでいい場所だと思います。

前回観た中国の農村と比べると、大都市周辺に広がる郊外村の生活は、高層ビル街が身近な場所に見えているぶん、いっそうみじめさを感じてしまいます。しかし、それはぼくが日本人だからそう感じるのであって、中国の人たちからすれば、特別なことではないのかもしれません。いまの中国、高層ビル街ではなく、郊外村で生きる人たちのほうが多数派であることも事実でしょう。

何より『占い師(算命)』を観ながら驚くのは、撮影者と被写体の近さです。これは戦前期、南満洲鉄道株式会社によって建設され、新中国後、共産党に引き継がれた瀋陽の重工業地帯の労働者たちの日常を撮り続け、中国社会主義の終末の光景を記録した記念碑的作品『鉄西区』(2003年 王兵監督)と同様、中国のドキュメンタリーの手法上の大きな特徴といえそうです。

なぜこの人たちは他者に撮られることをここまで許したのか? 

それが可能であったのは、第一に彼らが底辺の人間だったからといえるのでしょうが、たとえ境遇は恵まれていなくても、彼らは自分が取るに足りない人間というようにはどうやら思っていない。どこまで当人が言語化できているかはともかく、自らが誇り高き中華民族の老百姓の代表なんだという自負があるように見えます。そこがとても中国人らしい。それは自分の人生すら壮大な歴史の一部なのだと納得することで自らの境遇を受け入れていく諦念と裏腹の自己認識とでもいえばいいのか。

このドキュメンタリー作品の題材は、あまりに地味で、どうしようもなく救いようのない中国の現実をさらしていますが、その映像につきあうことで初めて見えてくることがあります。いまの日本人にとってはおよそ遠い世界の出来事だけに、今日の中国がなぜかくあるのか、その秘密が開陳されているようにも思います。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-26 17:52 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 12月 07日

アニメ王国ニッポンを旅しよう!

ちょうど北京で国際マンガサミットが開かれていた2011年10月下旬、ぼくは北京の知り合いの日本のアニメファンの女の子が主催する「六次会」という集まりで、ちょっとしたおしゃべりをしました。六次会では北京の大学の日本語学科を卒業した若い社会人のみなさんが交流のために、年に何度かたいてい学生街の五道口あたりのカフェで集まっているそうです。

六次会 http://neo-acg.org/supesite/?action-viewnews-itemid-2844

そのときぼくは、国際マンガサミット開催時期ということもふまえて、日本全国のアニメスポットを紹介しました。

そのためにつくったのが、下記のパワポの資料です。タイトルは「一起来动漫王国日本旅行吧(アニメ王国ニッポンを旅しよう!)」です。

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六次会に参加したみなさんはみんな日本語が上手で、日系企業などにお勤めの方も多かったのですが、ふだん自分が動画サイトなどで愛好しているアニメの作品の舞台=実在の場所と日本の旅行をつなげて考えるという、いわゆる「聖地」めぐりの発想はまだピンとこないみたいでした。作品の登場人物たちが繰り広げているのはフィクション空間にすぎないけれど、その場所は実在するのだから行ってみるといろいろ発見があったり、感じられたりして面白いよ、というようなメタな楽しみ方は、中国に住むみなさんにはまだちょっと距離があるのかもしれません。

ただひとり日本の名古屋に留学していた人がいて、彼女だけはその面白さを少し理解できたようでした。彼女は旅行好きで、1年間の留学期間中、全国各地を旅したそうです。そういう人なら、日本各地の風景や食文化などの地域性の微妙な違いもそれなりにわかっているので、それが作品の設定や物語に登場してくるさまざまなディティールに反映されていることに想像力が働くからでしょう。

そう考えると、海外の人たちに「聖地」巡礼の面白さをすすめるのは、現段階ではちょっとハードルが高いような気がしました。いまでこそ、たくさんの中国人観光客が来日する時代ですが、実際には誰もが簡単に日本に旅行に行けるわけではないことも、いまの中国の実情だからです。日本のアニメ好きだから、日本人と同じように日本のことをわかっているわけではないのです。とはいえ、海外にもおたくはいるので、彼らにならその面白さがわかるのかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-07 07:29 | アニメと「80后」の微妙な関係 | Comments(0)
2011年 12月 04日

中国農村版ロードムービーか?(中国インディペンデント映画祭2011 その1)

12月3日(~16日)から「中国インディペンデント映画祭2011」がポレポレ東中野で始まりました。今年で3回目だそうです。

中国インディペンデント映画祭2011
http://cifft.net/2011/index.htm
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中国現代アートの作家たちと同じように、この社会を生きるひとりの人間として、多くの人の目に触れることはなくても、自由な映像表現を志す中国人というのは確かに存在しています。彼らの制作するいわゆるインディペンデント系作品は、多くの場合、自国の人たちにではなく、海外の映画祭に出品されることで、外国人たちの好奇と鑑賞の対象とされるという構造は、ことの良し悪しはともかく、今に始まったことではありません。

彼らは中国社会全体から見れば芥子粒のような集団かもしれませんが、この国の良心とも呼ぶべき存在になりつつあると思います。本人たちは自分たちのことを「地下工作者」などと自嘲的に呼ぶことが多いですが、ここ数年国際的な評価を勝ち得ていくなかで、自信を持ち始めているように見えます。

凝ったシナリオや舞台装置、演出によらず、対象にギリギリまで近づいてカメラを回すことで、ある意味無防備なまでに中国の生の現実をさらけ出していくような作風の多い中国のインディペンデント系の映像作品を観ることは、ぼくにとって“参与観察”の延長線のようなところがあります。場所が日本でも中国にいるときでも、中国の人たちに交じって彼らの世界を“参与観察”しているときの心境は、映画館で映像作品を黙って観ているのと似ています。

それでも、初日に観た楊瑾監督の『冬に生まれて(二冬)』(2008年)は、ぼくが普段カバーしているつもりの“参与観察”の領域をはるかに超えていたと観念せざるを得ませんでした。終映後、監督への質問タイムがあったのですが、中国の農村の若者の物語について何をどう聞いたらよいのか思いつかず、しばらくの間言葉を失ってしまった、というのが正直なところです。

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『冬に生まれて』楊瑾監督作品 2008年 150分


あらすじはこうです。山西省の片田舎で片親に育てらた二冬という若者が、喧嘩に明け暮れ、地元で問題ばかり起こすものですから、母親によってキリスト教会の学校に入れられてしまいます。しかし、そんな彼が学校になじめるわけがなく、退学されてしまうのですが、そのとき同級生の女の子を連れて学校を出て行くのです。それは駆け落ちなのか何なのか、結局彼は知り合いの炭坑現場で働くことになるのですが、すぐに彼女を妊娠させてしまい、ふたりはあっけなく結婚、母の家で暮らすことになります。それでも、二冬の仕事は長続きしません。ついには不法伐採をして警察に拘留され、帰宅すると、女の子の赤ん坊が待っていました。

その後、彼は自分が母親の実の子ではないことを知ります。村はずれにある子捨ての場所として知られている巨石の下に捨てられていたのを、いまは亡き父親が拾ってきたのだと、母に告げられるのです。彼はその巨石を爆破し、旅に出る……。

そんな切ないといえば切ないけれど、なんとも間の抜けた主人公のさえない日常が延々と150分間映し出されるという映画です。

これまでぼくは中国の相当辺鄙な場所までのこのこ出かけて、うろついてきたつもりなので、この作品の舞台となっている中国の辺境地域の農村風景や轟音を立てて走る旧式のバス、粗末な家屋などの世界を見知ってはいます。でも、そこで暮らす人たちの内面、今回でいえば、主人公の二冬や彼の子を身ごもる彼女が何をどう考えて、そのようにふるまっているのかといった微細な心理や彼らの置かれた境遇の深い背景まではよくわからない。都会の若者ならともかく、中国の農村の若者の心というのは、我々には難題です。今日の日本人が考える田舎のイメージとは激しく隔たりがある世界といっていい。我々にとって、中国の農村でいま起きている出来事について、リアルな想像力を働かせることはそんなに簡単ではないと思います。

そうした戸惑いは、会場にいた若い中国人たちの質問からも感じられました。「方言がほとんど聞き取れなかったため、日本語字幕に頼るしかなかった」との発言もあったように、インディペンデント映画祭に来るような在日中国人の大半は都市出身者でしょうから(質問したのはなぜかみんな女性でした)、農村についての理解は日本人とそれほど変わらないのかもしれません。

ところが、楊瑾監督はこの地で少年期を過ごし、物語自体も実在する知人の境遇から創案したものだといいます。彼自身、かつてこの作品世界の住人だったというわけです。

一般に都市出身の映像作家が、外国人や大都市の住人がまず訪れることのない農村を舞台に選ぶとき、自然の過酷さや人びとの暮らし向きの悲惨さを強調してみせるか、あるいは詩情あふれるシーンを作り込むことで物語化するか。そのいずれかになる場合が多い気がします。これは現代アートの世界でも同じで、たとえば、煤煙で顔の真っ黒になった炭鉱夫たちの写真展が、炭鉱事故が頻発した2000年代中頃、北京の画廊では大流行でした。あくまで都市の側から異界としての農村を視ているわけです。

楊瑾監督は、黄河中流域の濁流以外にはこれといって目を引く特徴のない農村を舞台に(まあ中国の農村ってたいていこんな感じなのですが)、ひとりの若者の青春の彷徨(?)をほとんどドキュメンタリー作品のように撮っています。制作予算の少ないインディペンデント系作品では普通のことなのでしょうが、一般の興行映画の観客であれば、こんな世界に付き合わされてはたまらない。観客を泣かせるなり、深い感動やカタルシスを与えるなり、もっとメリハリの利いたドラマにしてくれよ。そう思うに違いありません(東日本大震災で日本での上映が取りやめになった『唐山大地震』のように!?)。

映画の最後で、自分の出自を知った二冬が彼女と赤ん坊を背中に乗せ、雪原をバイクで走っていくシーンが、アメリカンニューシネマみたいだという観客の声もありましたが、これってやっぱり青春映画だったんでしょうか? つまりは中国農村版のロードムービーなのか? ……なんて思っちゃうこと自体失礼な話でしょうけど。でも、誰に対して失礼? 監督に、それとも中国の農村に住む人々に対して? あー、ちょっとめんどくさいな。中国の農村の話を自分ごととして考えるにはあまりに世界が遠くて、正直お手上げです。

そんなボヤキが頭の中を飛び交いながらもあらためて思うのは、いったい二冬にはどんな未来が待っているのだろうか、という問いでした。そもそも監督は中国の農村にどんな未来を夢見ているのか? 直球すぎて、そんなことを急に聞かれても監督も困るかもしれませんが、質問タイムで聞いてみてもよかったかな、とあとになって思った次第です(もうひとつ聞いてみたいと思ったのは、中国の農村ではキリスト教がどのくらい普及しているのか。人びとの精神生活にどの程度影響を与えているのか、です)。いずれにせよ、普段中国の農村について考えたこともなかったひとりの日本の観客にこのような問いかけをさせたということに、この作品の持つ意味もあるのでしょう。
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終映後の質問タイムにて。右が楊瑾監督

終映後、スクリーンの前に現れた楊瑾監督と観客の受け応えを見ているとき、こういう人ってもう日本にはほとんどいないんじゃないかな(今日の中国の農村社会のような環境で少年期を過ごした人という意味です)。いるとしても団塊世代以上の年代か、相当辺鄙な山村か離島生まれじゃないとありえないのでは、と思ってしまいました。

彼は1982年生まれだそうですから、中国史上初めて現れた消費世代といわれる「80后」なのですが、都会育ちの子たちとは雰囲気が違います。子供時代を中国の農村で過ごした人間特有のおおらかさとふてぶてしさを併せ持っているとでもいうのか。都会の人間から見ると、ちょっととりつくしまのない感じもする。でも愛嬌のある人のようです。

実際、北京には彼のような農村出身のクリエイターもそれなりにいて、文化の多様性を生んでいるように思います。ここでいう多様性とは、相手のすべてを理解することは到底できないほどお互いの境遇や世界観が隔たっているということは中国では普通のことだし、すべてをわかりあえなくても仕方ないではないか、というような大ざっぱな感覚の共有が前提となって織り成されている世界とでもいいましょうか。中国社会の一面としての異質なものへの許容度の高さは、多文化社会に対する自覚的な認識からではなく、やむを得ないこととして社会に容認されている結果という感じでしょう。厳密さや完璧性を好む日本人には、雲をつかむような感じですが、楊瑾監督を見ていると、とても中国的な映像作家なんだなと思えてきます。

ただ、ご本人も質問タイムで白状していたように、女の子があまりきちんと描けていないのはちょっと残念でした。せっかくだから、もっと農村の若者の恋愛の機微を見せてもらいたかったな。二冬と彼女の性愛の描写だって、プロの役者ではないから無理とはいうけど、撮ってほしかった気がします。都市における性描写なんて目新しくともなんともありませんが、中国の農村における性のあり方というテーマは、単なる好奇心を超えて、監督の次回作品の題材だという一人っ子政策をめぐる問題とも直結していると思うからです。

もちろん、それは監督も承知でしょう。観客の質問に対してもいちいちボケを入れた返しを繰り出してくるような独特のほのぼのキャラクターですから、どんな新境地を切り拓いていくのか、次作を楽しみにしたいと思います。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-04 20:29 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 11月 24日

満洲国の工場遺産-映画『鉄西区』と瀋陽鋳造博物館

旅行作家の蔵前仁一さんが発行する『旅行人』2011《上期号》(163号)で、日本人が満洲に残した近代化遺産を紹介しました。

南満洲鉄道株式会社によって1930年代に開発され、新中国に受け継がれた重工業地帯「鉄西区」(遼寧省瀋陽市)は、2000年代に入ると政府主導の再開発によってほとんどの工場が撤去され、高層マンションの並ぶ街へと変貌しました。2007年にオープンした瀋陽鋳造博物館は、無人となった工場内の廃墟空間に往時の歴史を展示するユニークな施設です。
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満洲国の工場遺産-映画『鉄西区』と瀋陽鋳造博物館            

文/中村正人 写真/佐藤憲一

雪の舞う一本の線路を貨物列車が前に向かってゆっくりと走っていく。進行方向に固定されたデジタルビデオカメラが映し出すのは、線路脇に広がる老朽化した無人の工場群。石炭の煤で汚れた工場の壁面には消えかかった文革時代の標語が見える。その合間に労働者の住居がもたれあうように並んでいる。中国東北地方によくある石炭オンドルの煙突が屋根からニョキリと隊列のように突き出している。

沿線には工場地帯の躍動感はまるでない。ただ車輪の走行音だけが響き、あたりは静寂に包まれている。時折中国の鉄道特有の耳をつんざく警笛が凍えた空気をぶち破る。レンズに吹きつける雪片が風景を徐々に曇らせると、前方に蒸気機関車が現れる。台詞もモノローグもないまま、場面が変わり、巨大な工場の内部にカメラは侵入する――。

満州国時代に建設された工場町

『鉄西区』という風変わりな中国のドキュメンタリー作品がある。

上映時間はなんと9時間5分。最後まで観るのは正直勇気がいる。

舞台は旧満州、中国遼寧省の省都瀋陽。かつて奉天と呼ばれた中国東北地方の中心都市で、清朝を興した満州族の故地としても知られる。20世紀前半、ロシアから南満洲鉄道の権益を受け継いだ満鉄は、1919(大正7)年、東京駅を模した風格あるレンガ造りの奉天駅(1910年竣工。現瀋陽駅)の西側の広大な農地を工業用地として買収。満州事変(1931年)後、本格的な経営に着手し、日本内地や地元中国の企業が相次いで進出、満州国随一の重工業地帯を形成した。新中国建国後の1950年代には1000を超える工場と100万人の労働者が住んだ町、それが鉄西区である。ところが、中国最大規模を誇った近代的な工場地帯は、90年代以降、国有企業改革が進められたことで衰退に向かう。作品は、地区内の9割の工場が操業を停止し、大量の失業者が町にあふれた2000年前後に撮られた300時間もの記録映像を編集したものである。

同じ時期、似たような社会状況を題材にした中国映画として、北京オリンピック開幕式の演出で知られる張芸謀の『至福のとき』(2002)がある。国有企業の経営破綻で閉鎖された大連の工場跡地を舞台にした盲目の少女をヒロインとしたメルヘンの物語だが、どんな深刻な状況も彼の手にかかると安易にメロドラマ化してしまうところがあり、『鉄西区』の思想とはまったく別物である。

監督は王兵という1967年陝西省生まれの中国人映像作家で、長回しの映像を好んで撮る人だ。同作品は2003年山形ドキュメンタリー映画祭で大賞を受賞。2007年にも、1950年代後半の反右派闘争による政治弾圧で粛清されかけたひとりの中国女性の語りを記録した『鳳鳴』という作品で連続受賞している。フランスでも評価が高い。

ぼくはこれらの作品を2008年の年末、東京駿河台のアテネフランスに3日間通って観た。その後、上海で仏語版DVDを入手。あとで知ったが、百度など中国の動画サイトで簡単に観ることができる。そこには彼のインタビュー映像などもある。

ここまで晒すか!労働者の日常

1992年に瀋陽の魯迅美術学院写真学科に入学した王兵は、鉄西区の工場や線路沿いをよく歩き、写真を撮って過ごしたという。彼が『鉄西区』を撮り始めたのは、97年のアジア通貨危機後、工場地区の崩壊が決定的になり、倒産が相次いだ99年からだ。

この作品の何が風変わりかといって、中国のしがない労働者や、どうにも浮かばれそうにはない(失礼!)庶民、若者の日常をひたすら撮り続けていることだ。英雄好きの中国人の本分からすれば対極にある、取るに足りない人々、そのあられもない生身の姿が美化されることもなく、ここまで晒すか!といった感じで映し出される。かつては街を支えた巨大工場の殺伐とした廃墟の跡が重苦しい虚脱感やうすら寒い終末観を感じさせる。

『鉄西区』は「工場」「街」「鉄路」と題された3部構成の作品である。

第1部「工場」には3つの工場が出てくる。そのうちふたつの工場(瀋陽ケーブル工場、瀋陽圧延工場)はすでに操業停止され、なすすべもなく労働者たちが工場周辺をたむろしているだけだが、唯一稼動しているのが最初に出てくる瀋陽精錬工場だ。

Youku第1部「工場」

工場内に侵入したカメラが最初に映すのは、素っ頓狂な映像だ。着衣場がないのか、股間を手で隠して素っ裸の男が廊下を走ってくる。後を追い、カメラもシャワー室へ。レンズは湯気で曇り、裸の群れと水しぶきの音がこだまする。工場内の休憩室で将棋をさす男たちの場面に移ると、「ここはかつて国家一級先進企業だった」と自嘲的に語り始める男がいる。また別の中年男は自分の境遇を語り、「自分には学がない。文革世代だったから。仕方がない」と愚痴をこぼす。東北の男たちはそこらかしこで手鼻をかみ、シャツの腹をめくり、飯をかき込む。ささいなことで口論し、タバコを口から離さない。

第2部「街」の舞台は強制立ち退き直前の住居区で、前述の労働者の子供たちと思われる10代の若者たちが主人公だ。北京や上海なら彼らも1980年代生まれ、消費時代の申し子ともてはやされる「80後」世代だが、ここは瀋陽、衰退した工場労働者の町である。次々と古い社員住宅が壊され、あちこちに空き地が生まれるなか、悪臭が鼻をつく扉のない公共トイレが残っているような住環境だ。

Youku第2部「街」

それでも彼らは恋をする。華流ポップスを口ずさみ、バレンタインデーには好きな女の子に花を贈ってみたりする。田舎の若者がやることは、なにしろ初心でせつなく痛々しい。

それにしても、なぜこの町の若者は家でぶらぶらしているのだろうか。上海や華南の工場にでも出稼ぎに行けばいいのにという気もするが、親と同様十分な教育を受けていないうえ、工場労働者の悲哀をよく知る彼らの腰は重いようだ。

第3部「鉄路」は線路小屋を仮住まいとする親子の話だ。元鉄道職員だが失職し、妻から逃げられた父親は、線路沿いに落ちている屑鉄や石炭を拾って暮らしている。ある日、彼は石炭泥棒として警察に拘留されてしまう。数週間後、息子は釈放された父親と食堂に行き、泥酔し泣き崩れてしまう。父親に背負われ家路に向かうふたり。不幸を絵に描いたような展開が続き、ついに親子は線路小屋を追い出される。

Youku第3部「鉄路」

ところが、1年後、父親は新しい女と生活を始めている。ずいぶん楽しげである。経緯は詳しく触れられないが、なんとも意外な展開だ。これは希望ということなのか……釈然としないまま、映像は終わる。ことの次第を喜んでいいのか、重く受けとめるべきなのか、匿名の群集ドラマを見せられた膨満感と解放感を味わいながら。

カメラの背後で何を考えていたのか

繰り返すが、9時間5分である。いったいどこまで彼らの世界につき合わされるのか。なぜ自分はこんな美学のかけらの微塵も感じられない中国オヤジたちのナマの生態を見せられ続けなければならなかったのか。そもそもこれは本当にドキュメンタリーなのだろうか。この映像のどこが面白いのか――。そう感じた観客も多かったのではないか。

そういいながら、このうんざりするような中国庶民が繰り広げる蕪雑な世界に、ぼくは気がつくと、なじんでいたことを告白する。確かに最初の1時間はキツかった。早く終わらないかとイライラした。ところが、4時間を越えたあたりから、登場人物にだんだん感情移入していたのだ。その頃にはもう観客もまばらなアテネフランセのシートに寝転がってスクリーンを観ていたように思う。

たぶん極私的な理由もあるだろう。学生だった1980年代半ば頃から所用あってぼくは瀋陽を何度も訪ねており、登場人物たちの住む世界をある程度見知っていたからだ。

映像を観ながら、こういうオヤジ、確かにいるね。中国のヤンキー、化粧のケバいおねえちゃん、こういう感じだな……。実は、王兵が『鉄西区』を撮っていた2000年の秋も、ぼくは瀋陽を訪ねていた。定点観測のつもりで数年ぶりに訪ねた瀋陽の変わりゆく街の様子や人々の暮らしを眺め、写真を撮ったりした。当時の瀋陽の人たちはカメラに対してガードをつくったりはしなかったと思う。まだそんなゆるい時代だったのだ。

そうだとしても、どうして王兵は登場人物の生活の内部深くまで入り込むことができたのだろうか。編集上カットされた290時間の撮りためた映像が他にあるとしても、人びとはカメラの前で、まるで撮られていることに気づいていないかのように、涙を流し、怒り、笑い、裸になっている。私情を晒すことの意味を訝しがることなく、王兵の立会いを許していたのはなぜか。彼は常にビデオカメラの背後にいたにもかかわらず、透明な存在であり続けられたこと。この作品の驚くべきところは、そこにある。

制作ノートの中で、彼は事前に関係者たちへの聞き取りや調査を行っていたという。もちろんそうだろう。すでに十分顔見知りとなっていたのだ。だが、1年半の時間をかけてビデオを撮り続けた王兵が終始透明な存在でいられたのは、それだけの理由ではないだろう。自分の営為が「ひとつの時代の終わりを見つめ、終わりに立ち会うことの重みを投げつけてくる」(映画評論家・刈間文俊)作品となることを自覚し、歴史の記述者であろうとする明確な企図を最初から強く胸に抱いていたからと考えられる。いうまでもなく、「ひとつの時代」とは、中国が社会主義を標榜した時代である。

中国の近代化遺産-瀋陽鋳造博物館

2008年の初夏、ぼくは映画の舞台の地である瀋陽の鉄西区を訪ねていた。現地の知人から日本統治時代の古い工場を改装した新しい歴史博物館ができたと聞いたからだ。2007年6月26日にオープンした瀋陽鋳造博物館である。

1933年に建てられた森田鉄工所、松田機械、満洲鉛板など12社の日系合弁会社からなる工場跡を改装して展示スペースにしたものだ。新中国後は1956年に瀋陽鋳造工場と改称され、最大従業員5800人のアジア最大級の鋳造企業だったという。現在はその一部しか残っていないが、博物館の敷地面積は4万㎡、1・8万㎡という巨大な工場内部が見学できる。現在でも稼動可能な天井の作業リフトや金属を高温で溶かした鋳造釜などがそのまま置かれており、まさに満州国時代の工場遺産を見学している気分なのだ。20世紀の近代工業空間が持つ迫力は、もう壮観、いや絶景というほかない。

展示コーナーでは、中国を代表する近代化工業遺産として満鉄時代から近年までの工業機械や車両など、計画経済の国らしく5カ年計画ごとに発展状況を解説している。また胡錦濤国家主席の訪問や、労働者劇場風の特設ステージ、天井の高い廃墟空間を活かした斬新なスペースで行なわれたドイツ企業とのパーティの様子が写真で展示される。

その印象が鮮烈に残っていた同じ年の冬にぼくは『鉄西区』の上映を知った。瀋陽鋳造博物館で見た空間が10数年前には疲弊し、操業停止していたこと、それが満州国時代に日本人によって建設された工業遺産だったことを、作品を通してあらためて確認することになった。

最初に少し触れたが、この地区の歴史的な経緯は複雑だ。

『鉄西区』の冒頭の字幕解説では、鉄西区は主に日本の軍用物資の工場地区として1934年に建てられたとある。その先の記述は一気に飛んで1949年の新中国建国からになる。以後、ソ連や旧東ドイツの援助があったことが記される。今日の中国人が新中国建国前の歴史を語るとき、日本は軍隊という記号に結び付けられ、あっさりと片付けられてしまうのが常だ。だが、実際には日本の敗戦後に残された工業設備や生産技術は、国共内戦で国民党やソ連による支配期を経て新中国に継承され、当時としては先進的な工業インフラとして毛沢東時代の中国に影響を与えたことは確かである。

こうして鉄西区は中国の社会主義経済の牽引役として発展を遂げたのだが、栄光の日々は改革開放を迎えた1980年代に転機を迎える。海外からの投資は政策的に華南や沿海地域に集中したため、徐々に地盤沈下が始まった。90年代以降、中央政府が進めた市場経済化で国有企業は非効率な経営と社会保障制度の維持が重荷となって疲弊し、旧式な工場や粗末な住居が残る煤煙と失業者の町となっていく。鉄西区は改革開放や市場化の恩恵から取り残された社会主義の敗北を象徴する街とされたのである。

煙突からマンションの街へ

ところが、ここにどんでん返しがある。『鉄西区』で撮られた社会主義時代の崩壊寸前の工場町は2010年現在、どうなっているのか――。

実は、高層マンションやオフィスビルの並び建つニュータウンに生まれ変わっているのである。

その変転ぶりは、今日の中国社会を象徴する光景といえる。何が起こったのか。2003年に中央政府から東北振興政策が打ち出され、鉄西区にある国有企業を郊外移転することが決められた。そのための資金は、鉄西区を再開発し、商業用地や住宅用地として転売することで地価を上げ、その売却益でまかなうことにしたのだ。この10数年間、中国全土を覆った不動産投資の波がこの地にも襲来したのである。

とりわけ鉄西区の風景が大きく一変したのは2004年のことだ。百度動画で王兵の『鉄西区』を検索すると、中国中央電視台(CCTV)が制作した同地区をテーマとしたドキュメンタリー番組が見つかる。そこでは同年3月23日、高さ約100mの巨大煙突3本が倒壊する映像が見られる。一切の工場建築を取り払った粉塵舞う平坦な荒地に、なぜか煙突だけが残され、それを一気に倒壊してみせるのだ。まるで強制的に執行された壮大なフィナーレを告げる儀式のようでもある。中国版ナショナル・グラフィックにあたる雑誌『中国国家地理』2006年6月号では、中国の工業遺産の特集を組んでいて、2004年前後の数年間で鉄西区にあった4000本を超える煙突が再開発のために倒壊させられたとある。

『鉄西区』が撮られたすぐ後、その地ではとんでもない変化が起こっていたのだ。

実際、線路をはさんだ瀋陽市中心部でも、この数年再開発が急ピッチに進み、今年の年末にはついに地下鉄が開通する。その発展段階は、直感的にいうと10数年前の上海だ。

鉄西区にあるマンション販売会社を覗いたら、富裕層向け高級マンションのジオラマが置かれていた。マンション価格1㎡7000元相当といえば、確かに10年前の上海、北京の価格帯に近い。はたして瀋陽でも同様に今後10年かけて不動産価格が3~5倍に上昇するのだろうか。それを見込んだ利権にさとい投資家たちが不動産を買い込み、価格上昇で売り抜けして資産を稼ぐという、同じことが10年遅れで繰り返されるのだろうか。

登場人物たちはどこへ行ったのか

「ひとつの時代」の終わりに立ち会ったはずの街の風景が見事に豹変していたこと。だとすれば、当局が造らせた博物館もまた「ひとつの時代」が終わったことを公式に承認し、新しい時代の到来の宣言と告げるものだろう。だが、なんともスッキリしないものが残る。

『鉄西区』で王兵が見つめ続けた中国庶民の日常を圧迫した問題の数々は、これで一挙に解決したのだろうか? そう思うと、この作品はまだ完結していないのではないか、と思えてくるのだ。王兵には『鉄西区』の登場人物たちがその後どうなったか、追いかけてほしいものだ。また中央電視台の番組での煙突倒壊シーンをきっと彼も観たと思うが、何を感じただろうか。彼だったら、そのシーンをどう映像で切り取り、どうその意味を位置づけるのか、知りたいものである。

これは無理な注文だろうか。だが、彼のドキュメンタリー作品を観た後、最初にぼくの頭に浮かんだのは、事前に目にしていた『鉄西区』後の中国の変貌をどう理解したらいいのか、ということだったのである。

皮肉を言いたいのではない。こうした見かけの大変貌が日常的に全土で起きているのが、今日の中国の姿である。前述の中央電視台の番組では、永く苦難の時代を生きた鉄西区の歴史を関係者らのコメントを交えて延々と語った後、最後に新興マンション住まいの幸せそうな家族の団欒シーンが挿入される。すべての恩恵は中央政府の政策がもたらしたというわけだが、いかにもきれいごとすぎて疑問に思うからである。

というのも、『鉄西区』は10年前の映像だが、いまもなお中国には発展から置いてきぼりを食った何億もの匿名の民衆の姿があるからだ。実際に、中国では当時の登場人物たちとたいして変わらない生活ぶりを送っている人々を至るところで普通に見かける。たとえば、北京の高層ビル群から車で30分ほど離れた郊外の一角には、地方からの出稼ぎ農民工の暮らす工場町がいくつもある。彼らもいずれ当局主導の不動産開発によって住居の強制立ち退きを迫られる存在になりうるという意味で、『鉄西区』の住人と同じなのだ。こんなことがこの国ではいつまで続くのだろうか――。中国を訪ねるたびにいつも思うのだ。
                 ※            ※    
こうしたテーマにぼくが関心を持つようになったのは、数年前に友人の紹介で「地球の歩き方 中国東北編」(ダイヤモンド・ビッグ社)の編集を請け負うことになり、大連や瀋陽といった旧満州の都市や町を定期的に訪ねるようになってからのことだ。沿海地域に比べ発展が遅れたぶん、日本統治時代の建築遺産や住居が長い間使われ残されていたが、2005年前後から急速に状況が変わりつつあることを感じていた。すべてが消失する前に、せめて写真に残していこう。そう考え、友人の写真家・佐藤憲一さんと作業を進めている。もしこうしたテーマにご関心のある方がいたら、情報交換していただけるとうれしいです。

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【追記】
現在、瀋陽鋳造博物館は中国工業博物館として生まれ変わって、公開されています。2016年7月、現地を再訪する予定です。
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by sanyo-kansatu | 2011-11-24 10:52 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)