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2013年 07月 09日

1993年に発掘された檀君陵。あの蓮池薫さんの見解は?

前回、「朝鮮観光案内」(朝鮮新報社 1991)という旅行ガイドブックを紹介しましたが、実をいうと、同書には今日の北朝鮮を観光するうえで最も重要とされる名所の記述が見当たりません。

それは朝鮮民族の祖とされる檀君陵です。

それもそのはず、檀君陵が発掘されたのは1993年のことだからです。

檀君陵をめぐって、蓮池薫さんは『私が見た「韓国歴史ドラマ」の舞台と今』(講談社 2009)の中で次のように書いています。
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「1993年10月、北朝鮮は『檀君陵発掘報告』なるものを発表した。平壌市江東郡文興里にある高句麗遺跡群から、檀君とその夫人の遺骨を発掘したという衝撃的なものだった。それによると、遺骨86個と金銅王冠の一部などが出土したが、『電子常磁性共鳴法』という方法による鑑定の結果、檀君の遺骨は5011±267年前のものと断定されたというのだ。
(中略)
この発表とほぼ同時に北朝鮮は大規模な檀君陵建設に取りかかる。そして、これまで神話的伝説人物とみなされていた檀君を実在した民族の祖先、古朝鮮の建国始祖として大々的に宣伝し始めた」

こうしたワケで、1991年に刊行された「朝鮮観光案内」には、檀君陵のことは書かれていませんが、唯一檀君のゆかりの地についての記述があります。それは、妙香山山系に連なる渓谷の中にある「檀君窟と檀君台」です。そこにはこう解説されています。

「古朝鮮を創建した檀君王が生まれたという伝説をもつ檀君窟は、万瀑洞渓谷を抜け出て、西側の丘陵を越えた昆盧峰の中腹に位置している。万瀑洞から檀君窟に通ずる道は、九層の滝の2段目から分かれる。そこに『檀君窟950m』と書かれた標識板がある。

海抜864.4mの地点にある檀君窟は、花崗岩が長い歳月にわたって風化してできた洞窟。幅16m、長さ12m、高さ4mである。

洞窟のなかには三間の家がある。洞窟内では、岩の裂け目からきれいな湧き水が流れ出ている。

檀君窟の後の高い綾線には、檀君が向かい側の卓旗峰の中腹に立っている天柱石を標的にして、弓矢のけいこをしたという檀君台がある」(同書72p)。

ここでわかるのは、1991年当時、北朝鮮でも檀君は「伝説」にすぎなかったことです。

蓮池さんは前述の著書でこう書いています。

「北朝鮮では、1993年に『檀君陵』が発掘される以前は、ほとんど檀君について、関心を示していなかった。1972年編の北朝鮮歴史書では、『檀君は歴史的事実ではなく、支配階級が人民の階級意識を麻痺させるために、つくり上げたもの』として、檀君と開天節そのものを否定していた」

いまとなっては、1972年当時の北朝鮮の指摘は正しかったというよりほかありません。北朝鮮の為政者の側に「人民の階級意識を麻痺させる」必要が生まれたということでしょう。

蓮池さんは、北朝鮮にいたころ、テレビで檀君陵を見たことがあるそうです。その規模は、総面積45ヘクタール。東京ドームの10倍に相当する大きさだそうです。
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by sanyo-kansatu | 2013-07-09 15:37 | 朝鮮観光のしおり | Comments(0)
2013年 07月 09日

1991年発行のガイドブック「朝鮮観光案内」を読んでみた

ここに「朝鮮観光案内」という旅行ガイドブックがあります。
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1991年発行。発行元は朝鮮新報社です。最近の旅行ガイドブックでは珍しいB6版、オール4色、164ページの体裁です。携帯用の案内書としてはコンパクトによくまとまっています。

表紙の写真は、白頭山(中国名は「長白山」)の天池です。裏表紙は、朝鮮民主主義人民共和国国際旅行社日本総代理店の中外旅行社の広告が入っています。

日本人の北朝鮮観光が始まったのは1987年10月(→「北朝鮮観光25年を振り返る」)。大韓航空機爆破事件(1987 年11月)ですぐに中断されたものの、再開されたのは3年半後の91年6月です。「日朝国交正常化直前限定ツアー」という、いささか勇み足なタイトルが付けられた商品として催行され、その時期に合わせて刊行されたのが、本書だと思われます。

では目次から見ていきましょう。

●目次
朝鮮民主主義人民共和国地図(2p)
朝鮮主要観光案内図(2p)
目次(3p)
平壌 9-51(43p)
平壌近郊 52―64(13p)
妙香山 65―79(15p)
新義州/江界/惠山 80―84(5p)
白頭山 85-96(11p)
清津/咸北 97―98(2p)
七宝山 99―107(9p)
咸興/咸南 108―111(3p)
元山/松寿園 112―114(3p)
金剛山 115―131(17p)
海州/信州 132―136(5p)
開城 137―144(8p)
あらまし(自然、歴史、生活、政治、文化などの紹介) 145-159(15p)
旅行の手引き(入国手続き、滞在メモ、旅行会話など) 160―164(5p)

いろいろ気になったり、引っかかったりするところがありますが、まずあっと思うのは、「朝鮮民主主義人民共和国地図」です。それは朝鮮半島全域がまるで北朝鮮の領土であるかのような地図であり、我々が普段見慣れた南北分断境界線も書かれていません。その一方で、次のページの「朝鮮主要観光案内図」では同様に境界線はありませんが、ほぼ現在の北朝鮮に限られた地図の範囲で主要都市や観光地が落とされています。

本書で最大のボリュームを割いて紹介されているのが、首都平壌です。冒頭の見開きは、チュチェ思想塔からのぞむ平壌市中心部のビルが並ぶ風景と「人民大学習堂の展望台に立つ金日成主席と金正日書記」の2点の写真で構成されています。次が平壌市の見開き地図。本編は金日成主席の銅像の建つ万寿台から始まります。

平壌観光は、ここがかつて高句麗の首都だったことから、古代遺跡めぐりがひとつのポイントです。また首都らしく建国にまつわる歴史施設や文化施設、市民の行楽地なども紹介されています。

なかでも「青春街スポーツ村」に代表される各種スポーツの競技場が写真入りで詳しく解説されているのが特徴でしょうか。これは想像するに、1988年のソウルオリンピックに不参加を表明した北朝鮮としては、自国にもオリンピックを開催できる施設は揃っているのだと訴えたかったのではないかと思われます。

あとは旅行ガイドブックのお約束として、平壌市内のホテルやレストラン、ショッピングに関する施設紹介があります。平壌の名物料理として「平壌冷麺」「神仙炉」「大同江のぼら料理」が挙げられています。

この調子で各地の内容を紹介しているとキリがないので、以下気がついた点だけ列挙していきましょう。

まず北朝鮮観光のハイライトは、四大名勝とされる妙香山、白頭山、七宝山、金剛山の登山だといえそうです。上記四山に割かれたページ数を他の都市と比べると圧倒的に多いからです。一般にガイドブック編集者が最初に手をつける作業は、どの場所を何ページ取るかという台割です。そのバランスは、想定される読者(本書の場合、北朝鮮観光に訪れる日本人を想定しているはず)を意識して割り振られるのが常です。それは本書においても、ほぼいえることだと思います。

それぞれの名山を紹介する写真を見ていると、岩肌の露出した峰や奇岩の多い、いわば中国名山に通じるコンセプトの山岳観光が主体のようです。

唯一違うのが白頭山です。白頭山は、2000年代以降、中国との歴史認識問題の舞台として知られていますが(→「長白山(白頭山)が中韓対立の舞台となっている理由(「東北工程」とは何か)」)、本書では同山を「革命の聖山」として紹介しています。

「白頭山根拠地の密営には、朝鮮革命の参謀部である司令部をはじめ、兵営、兵器修理所、縫製所、出版所、連絡所などが秩序整然と配置されていた」(同書87p)といったぐあいです。この時期まだ中国との歴史認識問題は起きていなかったせいか、「朝鮮民族のルーツ」といったふみ込んだ主張は見られないようです。

さらに、白頭山では雪山登山やスキー場など、冬山レジャーに関する情報も紹介されています。

先般世界遺産登録が決まった開城については、高麗王朝の古都としていくつかの名勝が紹介されていますが、わずか8pしか割かれていません。名物も高麗人参の産地として触れられているくらいです。やはり、北朝鮮にとって自らの国家的ルーツとして重要なのは、高麗ではなく、高句麗なのだろうと思います。

北朝鮮という国家の基本的な理解の手助けとなるのが、同国の自然や歴史、生活、政治、文化などを紹介する「あらまし」の章でしょう。

まず「自然」の項ですが、なぜか冒頭にこっそりこんなことが書かれています。「朝鮮民族は、古くから一つの領土で、同じ血縁と言語を持ち生活してきた単一民族である」(同書145p)。

さらに面白いのは、領土についての記述です。「領土は北から南に伸びた朝鮮半島と済州島(朝鮮最大の島)、鬱陵島、独島など、4,198の島からなっている」(同書145p)。巻頭の地図は、朝鮮半島全域が北朝鮮の領土であるという主張に基づいていることがここで判明します。また「独島」、すなはち竹島も北朝鮮領だと主張しているようです。

「歴史」に関しては、メンドウな議論になりそうなので軽く流すとして、気になるのは「紀元前8~7世紀またはそれ以前に成立」した「古朝鮮」という記述があること。李朝時代は約500年も続いたのに、ほとんど投げやりで簡単な記述しかないこと、などでしょうか。またこの項には、「檀君」についてまったく触れられていません。

その他、「生活」や「民族遊戯」といった文化方面の紹介とともに、「行政区画」「国家体制」「経済制度」など、北朝鮮の国家の性格についてコンパクトに紹介しています。ここでいちいち揚げ足を取るつもりはありませんが、面白いのが、最後に登場する「朝鮮の統一方案」です。

それによると、外勢によって分断された祖国を統一する基本原則として「自主、平和統一、民族大団結」を挙げています。その方案として、北朝鮮が主張するのは「思想・制度はそのまま、連邦国家で」というものです。

「この方案は、北と南がともに相手側に現存する思想と体制をそのまま容認する基礎のうえで、双方が同等に参加する民族統一政府を組織し、その下で北と南が同等の権限と義務を担い、それぞれ地域自治制を実現する連邦共和国を創立して祖国を統一するもの」(同書159p)というわけです。

その統一国家の名は「高麗民主連邦共和国」です。

本書が刊行される前年1990年の新年の辞で、金日成主席は「軍事境界線南側地域にあるコンクリート障壁を崩して、北と南の自由往来を実現し、南北が互いに全面開放しようと」と提案したといいます。1989年11月にベルリンの壁が崩壊したばかりだったことを思うと、この主張も現在とはずいぶん違った受けとめられ方があったことでしょう。

たかが旅行ガイドブックですが、あらためて中身を検討してみると、発行された時代の世界情勢や北朝鮮側の考え方が素直に伝わってきます。

ちなみに、巻末にある「旅行の手引き」では、「入国手続き」として「ビザの発給に必要な費用は、1人当たり10ドル。写真を2葉要する」とあります。また滞在中の両替方法や当地のテレビや新聞の紹介、タクシーの利用法も書かれています。まるで自由にタクシーに乗って市内観光をしても構わないような書き方です。

「国際航空時間表」を見ると、当時平壌はベルリン、モスクワ、北京、ハバロフスクと航空便で結ばれていたようです。「国際列車時間表」でも同じくモスクワと北京を結んでいますが、新義州・丹東・満洲里・ザバイカリスク経由だけでなく、豆満江・ハサンという咸鏡北道経由の国際列車が当時は走っていたことが記されていました。昨年、当地(咸鏡北道の羅先貿易特区)を訪れた印象では、とても国際客車が走れるような鉄路には思えませんでしたが、実際はどうだったのでしょう。こうした疑問をつい見つけてしまうことも、昔のガイドブックを読む面白さです。これは宿題にしたいと思います。
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by sanyo-kansatu | 2013-07-09 12:42 | 朝鮮観光のしおり | Comments(0)
2013年 07月 02日

タイの旅行雑誌には日本がこんな風に紹介されています

うれしいことに、タイ人の海外旅行先の人気ナンバーワンは日本だそうです。

タイでは日本のテレビ番組が大量に放映されています。日本のテレビ局から版権を買って深夜枠でグルメ番組や旅行番組を毎日のように流しているそうです。これはテレビ番組を政府が検閲・管理する中国とはまったく事情が違います。こうしてタイ人にとって日本はとても身近な国となっているようです。

では、日本の観光地についてはどのように紹介されているのでしょうか。タイで発行されている旅行雑誌を見てみましょう。

今回、情報提供してくれたのは、タイを中心とした海外向けマーケティング専門広告会社の株式会社Relation(http://www.facebook.com/ThaiInbound)です。

まずタイの主要旅行誌のひとつ、「TRAVEL GUIDE Magazine」です。
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●TRAVEL GUIDE Magazine
タイのトラベルライターによる各国の観光地の特集記事を組んで、毎回豊富な写真で紹介しています。2012年度には北海道(2月号)と長野、新潟(8月号)と年に2回日本を特集しています。
創刊年 2004年 発行部数7.5万部 月刊誌 90バーツ
http://www.travelguidemagazine.biz
http://www.facebook.com/travelguidemagazine

たとえば、2012年8月号の「長野、新潟」特集は、秋冬向けの日本旅行のテーマとして選ばれたと思われます。実はタイ人の日本ツアーの中に、北陸や信州を周遊するコースもあるからです。

特集グラビアの冒頭を飾る写真は、秋の高原です。タイには北部に一部山がありますが、基本的に熱帯の国ですから、日本の高原の風景はとても珍しく映るのです。
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雪景色もタイ人が好む世界です。
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タイの観光地にもたくさん生息していますが、お猿さんが露天風呂に入るなんて、もうたまらない光景でしょう。こういうのがタイ人は大好きです。
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スキー人口はほとんどいないと思われますが、それだけに憧れもあるでしょう。
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次は、同じくタイの雑誌社Check Tourが発行する「Check Tour magazine」です。
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●Check Tour magazine
テーマ性の強い充実した特集記事が売りの月刊誌です。2012年度は、札幌(1月号)、東京ディズニーランド(11月号)など、4回の日本特集を組んでいて、日本への関心の高さを感じます。
創刊年 2010年 発行部数 3万部 月刊誌 85バーツ
http://www.checktour.com/

たとえば、2013年6月号では、高山を特集しています。30pを使ったボリュームたっぷりの企画です。
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秋冬シーズン向けなのに、なぜか桜のグラビアも。これはご愛嬌ということで……?
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飛騨高山テディベアエコビレッジ(http://www.teddyeco.jp/)の4pの特集記事もあります。
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世界遺産の白川郷も、タイ人の日本ツアーの定番です。
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桜餅、串団子、羊羹、たいやき、ういろうなど、日本の和菓子の特集もありました。
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最新号と連動したフリーペーパーも発行しています。同誌に広告出稿した多数の旅行会社のツアー募集広告が載っています。
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在タイ日本人が発行する「The Cue Japan」です。日本のライフスタイルと旅を紹介するフリーペーパーだそうです。
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●The Cue Japan
タイの高級ホテルやレストラン、スパ、コンドミニアム、病院など、現地富裕層が手に取ることのできる場所に配布。タイの媒体に先駆けた新しい日本の観光地の魅力や伝統文化、宿泊施設の滞在シーンなどを豊富な写真で紹介しています。
創刊年 2011年10月 発行部数 2万部 季刊誌 無料
https://www.facebook.com/pages/The-Cue-Japan/232035476859567

広告ベースの媒体だけに、前述の書店売りの2誌に比べて特集としてのまとまりが弱く、1冊の中にさまざまな情報が盛り込まれすぎている印象ですが、第4号に出てくる雪のかまくらの写真などは、タイ人好みといえそうです。
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最後は、バンコク週報というタイの日本語新聞を発行する出版社が制作している現地のグルメ情報誌「Gozzo(ごっつぉ)」です。
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●Gozzo
日本食と旅行の雑誌と銘打たれています。バンコクにある日本食レストランのタイ人向け情報誌ですが、日本の食文化を詳しく紹介しています。
http://www.facebook.com/GozzoThailand

たとえば、2013年7月号では、焼肉特集が組まれています。焼肉の種類や細かい牛肉の部位の解説もしています。もともと宗教的な理由でタイ人の中には牛肉を食べない人も多いと聞きますが、最近は「和牛」ブームだそうです。こうしたきめの細かい現地での情報提供がタイ人にとって日本食を身近な存在にしているのでしょう。
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この焼肉特集の最後に、日本在住タイ人のPanochanさんという女性のコラムが掲載されていました。西新宿にあるタイ人観光客に人気の焼肉屋「六歌仙」の訪問記事です。
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Panochanさんのブログとフェイスブック
http://toytokyo.bloggang.com
http://www.facebook.com/toylovejapan
※Panochanさんがどんな方であるかについては、現在調査中です。フェイスブックによると、川口在住だそうです。

以上、いろんなことを雑多に書きましたが、タイでは日本の情報が偏りなく、比較的まっすぐに紹介されていることがわかります。タイ人観光客が素直に日本旅行を楽しんでくれる背景には、こうした現地での自由な情報流通があると思われます。

株式会社Relationは、タイ人をはじめ現地通のスタッフを抱え、上記の現地媒体と提携し、特集企画や広告制作を担当しています。タイ向けの訪日プロモーションに関心のある方は、問い合わせてみてはいかがでしょうか。

株式会社Relation
http://www.relation-inc.jp
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by sanyo-kansatu | 2013-07-02 12:06 | “参与観察”日誌 | Comments(0)
2013年 04月 27日

日本の1980年代を思い起こさせる中国のバックパッカーブーム

4月上旬、北京に行ってきました。
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最近、北京にはしゃれたブックカフェがいくつもあって、毎回書棚を覗きにいくのですが、今回発見したのは、沢木耕太郎の『深夜特急』の翻訳本です。ここ数年、「背包(バックパッカー)」ということばが若者文化を象徴するひとつのキーワードになっています。中国の若い世代は(もちろん、都市に生まれた恵まれた階層の若者たちだけの話なのでしょうが)ちょうど1980年代(『深夜特急』の刊行は1986年)の日本のような時代を過ごしていることがよくわかります。おもしろいですね。

昨年(2012年)の12月12日に中国で公開され、13億元超(約200億円)の大ヒットとなった爆笑ロードムービー「Lost in Thailand(人再囧途之泰囧)」のDVDを入手したので、帰国してから観ました。タイを舞台にした3人の男たちのドタバタコメディなんですが、この映画のヒットもまた中国のバックパッカーブームと大いに関係ありそうです。
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空港からホテルに向かう、北京と同じ超渋滞のタクシーの中で、運転手から日本語で話しかけられ、「No,I am Chinese」と主人公が英語で答えるシーンがあります。「これからは中国の時代だ」といわんばかりに気負っで見せるところが、いかにもいまっぽい感じです。数年前まで北京で制作されたこの手のコメディは、もうひとつさえない感じでしたが、かなり洗練されてきた気がします。漫才風のかけあいが秀逸で、けっこう笑えました(この作品、アメリカでも公開したけど、ウケなかったようですが)。

ひとつ思ったのは、日本のこの手の海外を舞台としたコメディの場合、主人公は現地の女の子との淡いロマンスを体験するのがお約束のように思いますが(主人公が現地の男の子と恋愛という逆パターンもあり。旅先で現地の人たちとの交流が描かれるのが日本人の好みなのでしょう)、この作品では舞台はタイでも、徹底して中国人だけで物語が進行していくところが、中国の作品らしい気がしました。いずれにせよ、今年の夏は、タイに中国人の若者があふれるに違いありません。

中国のバックパッカーブームの第一人者として有名なのが、『背包十年 我的职业是旅行(バックパッカー10年 僕の職業は旅)』という本の著者、小鵬さんです。彼はいまや旅のカリスマとして若者に人気です。
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彼は長崎県など、日本のいくつかの自治体に招聘され来日しています。人気ブロガーとして、日本で見たもの、体験したこと、食べたものなどを書いてもらうためです。通常の広告手法よりずっとPR効果があると考えられているのです。その内容は、彼のウエィボー(微博)http://blog.sina.com.cn/hepai で見ることができます。

さて、ブックカフェの書棚をさらに物色していくと、ロンリープラネットの中国版雑誌が定期刊行されていました。これは日本でもなかったことです。もちろん、ガイドブックシリーズのロンリープラネット中国語版も刊行されています。最初『孤独星球』って何のことだろうと思いました。いま中国の人たちは、世界中を見て回りたくてしょうがないようです。
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同じブックカフェに、日本のイラストレーターのたかぎなおこさんの『ひとりたび1年生(第一次一个人旅行)』が平積みで置かれていたのですが、帯にシリーズが100万部を突破したことが書かれていました。すごいですね。いまや中国で村上春樹の次に人気のある日本人作家は、たかぎなおこさんかもしれません。
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この本が売れた背景について、北京の児童出版社の女性編集者と話をしたことがあるのですが、都市で生まれたいまの中国の若者はほぼ全員ひとりっ子だからといいます。ひとりっ子の国、中国では“ひとり旅”が多くの若者の共感を呼ぶのだそうです。

この本の読者もそうでしょうが、最近は若い女性のバックパッカーも登場しているようです。昨年7月、やはり北京のブックカフェで中国版「女の子のひとり旅講座」とでもいうべき会合に偶然出くわしたことがあります。
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「独立女生旅行分享会」という集まりでした。大学を1年間休学して北欧をヒッチハイクしながらひとり旅した22歳の女性の書いた紀行本『我就是想停下来,看看这个世界 』の著者である陈宇欣さんと、自らも70リットルのザックを担いで旅するカルチャー雑誌『OUT』の女性編集者の座談会があったのですが、会場には154人の若い女性が集まっていました。時間がなかったので、じっくり彼女らの話を聞くことはできなかったのですが、その盛況ぶりに時代の変化を感じたものです。
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中国に行くと、かつて日本人が経験したことを数十年遅れで経験し始めたり、夢中になっていたりする若い世代の姿をよく見かけます。バックパッカーブームでいえば、1980年代当時世界にインターネットはなかったため、旅の体験談や情報の提供のあり方はいまとはずいぶん違いました。それでもなぜいまの中国の若者が世界に雄飛したいのかについては、当時を知るぼくはよく理解できます。今日の中国社会の閉塞感を知れば、無理もないと思いますし、そのひとつの突破口のようにバックパッカーの旅が考えられているだろうことも。実際、彼らの話を聞いていると、未熟でいたいけだった当時の自分を思い出して、照れくさいような気恥ずかしい気分にもなります。

当時の日本人と同じような若者がボリュームとしては相当数いるのが、いまの中国です。違う点は、当時の日本ではバックパッカーになるタイプの若者は特別な階層に属していたわけではなく、好景気に恵まれ、ひとつの趣味のジャンルとして時代を謳歌していたにすぎないのに対し、いまの中国ではそれなりの恵まれた階層に属していなければ実現できないことでしょう。国全体から見れば限られた層の話なのです。

それだけに、中国の新しい世代の選良たちを見ていると、彼らがバックパッカー経験を通じて、旧世代の自国中心的な歴史観に対する疑問や、異文化への敬意といった本来の意味での“国際標準”を身につけてくれるようになるといいのだが……などと先輩面して言いたくなります。余計なおせっかいなんでしょうけどね。
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by sanyo-kansatu | 2013-04-27 12:59 | “参与観察”日誌 | Comments(0)
2013年 04月 02日

19回 ガラパゴス化した日本のプロモーションは伝わらない

今年は例年に比べずいぶん早い春が訪れようとしていますが、東南アジアの動きも含めて、アジアのインバウンド旅行市場に新しい展開が生まれてきそうでうれしい限りです。そこで、今回はアジア市場に対する訪日プロモーションと、そのベースになる紙媒体の情報発信のあり方についてあらためて考えてみたいと思います。

このテーマを考えるうえでふさわしい方として今回ご登場いただくのは、台湾と香港で日本の情報誌の編集を長く手がけてこられた鈴木夕未さんです。彼女は現在、台湾国際角川股份有限公司(http://www.kadokawa.com.tw/)で『Japan Walker』の編集に携わっています。彼女は1999年に台湾に渡り、日本の情報誌である角川書店の『東京ウォーカー』の台湾版を現地で立ち上げ、根付かせた功労者のひとりです。

先日彼女が帰国された折、久しぶりにお会いする機会があり、台湾や香港における都市情報誌の現状と日系メディアの置かれた立場について貴重な話を聞くことができました。

彼女が語ってくれた話は、訪日旅行プロモーションのために日本で大量に発行された外国人観光客向けの地図やパンフレット、フリーペーパーなどが現在抱える問題の本質をあぶりだしています。ありていにいうと、それらはほとんど彼らから支持されていないという現実です。なぜなのか。別の言い方でいえば、日本の「情報誌」文化がガラパゴス化していないだろうか、という問いかけでもあります。これは華人文化圏だけではなく、今後多くの関係者がプロモーションに注力していくだろう東南アジア市場にも共通の問題であるはずです。以下、彼女の話を聞くことにしましょう。

香港人は日本の情報誌のゴチャゴチャしたレイアウトが嫌い

――昨年まで香港にいたのですね。いまは昔いた『台北ウォーカー』に戻られたとか。

「私は2012年の春、『香港ウォーカー』のリニューアルのため、香港に呼ばれました。同誌は5年前に創刊されており、当初は日本や台湾と同じく、都市情報誌として隔週で発行されていました。

香港は雑誌の激戦区です。しかも、基本は週刊誌。旅行雑誌でさえ週刊で発行されているくらい。せっかちで新しいもの好きの香港人の気質に週刊誌文化が合っていて、しっかり根づいているのです。こうしたなか、『香港ウォーカー』は苦戦続きで、2年前から他誌との違いを明確に打ち出すため、訪日旅行のための情報をメインに発信する媒体に生まれ変わりました。

なにしろ香港はわずか700万人の人口なのに、毎年約50万人が訪日旅行するという土地柄です。香港人の日本旅行熱が高いこと、日本が好きで、興味を持っている香港人が多いこと、香港には日本の旅行をメインコンテンツにした雑誌がなかったことから、角川がこれまで培ってきた強みを活かし、香港の現地情報ではなく、日本の情報を発信する月刊誌に方向転換したのです」

――ところが、それでもなかなかうまくいかなかったようですね。なぜだと思いますか?

「ひとつは特集の問題です。たとえば、2013年1月号の第一特集『関西パワースポット』企画はまったくウケませんでした。日本では人気のある企画なのですが。

もちろん、うまくいったものもあります。2012年8月号の『北海道のアイヌ神話』特集は、企画のテーマと写真を大きく使ったデザインが好評でした。同じ8月号でやったアニメ特集も、私からみると中途半端な内容のように思いましたが、かなり人気があったようです。香港にはアニメ好きが多く、日本のアニメで育っている世代が『香港ウォーカー』のメイン読者ですから。要するに、日本人ウケがいいものと、香港人ウケがいいものは違うんですね」。

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『香港ウォーカー』2013年1月号の「関西パワースポット」特集は香港ではウケなかった

――取材や誌面づくりはどうしているのですか?

「当初は、日本各地で発行される地方版ウォーカーの記事とデザインをそのまま流用し、サイズを変更して翻訳していたそうです。でも、それではダメだということで、独自で取材陣を送り出すことになりました。雑誌以外にもガイドブックを制作したのですが、12月に発売した東京のガイドブックはよく売れているようです。これは東京ウォーカーの過去記事を流用し、デザインを香港人向けにアレンジして再編集したものと、香港人の編集スタッフが現地を取材してつくったものが半々です。

しかし、『香港ウォーカー』が苦戦しているいちばんの理由は、香港の一般読者が“日本の情報誌特有のゴチャゴチャした細かいレイアウトが嫌い”、ということではないかと思います」。

――それはどういうことですか?

「理由はとても単純です。彼らにいわせれば、とても窮屈な感じがするからだそうです。実際、香港で発行されている他の旅行雑誌は、写真を大きく使ったレイアウトがメインで、記事はほとんどありません。彼らにいわせると、写真を見て“行きたい!”という気持ちを喚起してくれないとダメなのだそうです。その場所に行かなくても行った気になれる、そんな誌面がいい。これは香港人の編集スタッフたちと何度も話し合ったことなので、間違いないと思います」。

日本のプロモーションはあらゆるものが情報過多

――なるほど。香港の読者は実用的な情報ではなく、まずは旅に出かけたくなるようなイメージを喚起してくれる媒体を求めているということでしょうか。

「その通りです。香港の人たちは、極端なことをいうと、雑誌には情報はいらないといいます。きれいな写真があればいいという感覚なんです」。

――同じことはぼくの知り合いの中国の旅行会社の人もいっていました。日本から送られてくる全国各地の旅行パンフレットを見ながら、「たくさんの情報はいらない。きれいで印象的な大きな写真が1点あればいい」「ひとつのページにこんなに写真と文章がいっぱいあると、どこをどう読んでいいのかわからない」。それを聞いて、そりゃそうだなあと思ったことがあります。彼らにとっては所詮外国の情報ですから、日本人相手と同じように、そんなに細かくいろいろ書かれても、おもしろさがわからないというのが正直なところではないでしょうか。

「それと香港人は地図が嫌いみたいなんですね(苦笑)。私が日本の情報誌の誌面づくりのルールに則して実用的な地図を入れようとすると、スタッフから反対されるんです。ガイドブックならあってもいいけど、雑誌では地図は誰も見ないから載せる必要がないというのです」。

――確かに、雑誌とガイドブックでは本来、用途が違いますものね。日本人なら『東京ウォーカー』や『るるぶ情報版』を持って旅に出かけたり、街歩きを楽しんだりするものですが、外国の人たちにはそんな習慣はない。

「香港の人たちは雑誌を持って街歩きをすることは基本的にありません。ガイドブックとは別物と考えているのです。そういう意味では、海外向けの日本のフリーペーパーは彼らのニーズに合っていないのかもしれませんね」

日本の訪日旅行プロモーションの紙媒体はあらゆるものが情報過多で、その情報の見せ方も相手のニーズに合っていない。あれこれ地元の魅力を伝えたい発信側の気持ちはわかるけど、日本人相手と同じようにぎっしり情報を詰め込んでも、外国の人たちにはどこからどう読んでいいのかわからないのです。この不幸なミスマッチが起こる背景について、ぼくは本連載の「第1回 震災は点検の絶好のチャンス!」の中で指摘していました。以下はその抜粋部分です。

――日本側の作る観光パンフレットの多くは、日本の消費者(中国のではない!)の嗜好に沿った実用ガイドに偏っています。これでは旅行先を決める前の段階で使えない。その豊富な情報を享受できるほど、大半の中国の消費者は日本の事情を理解しているわけではないからです。

さらに致命的なのは、そもそも中国の消費者が日本の過剰に洗練された情報誌の読み方を知らないという事情があります。限られた2次元のスペースにたくさんの写真と細かい情報がぎっしり書き込まれた、たとえば『東京ウォーカー』や『るるぶ情報版』のような情報誌を読んだことがないのです。だから、仮に中国客が日本のパンフレットを手にしても、どこからどう読めばいいのかわからない。掲載店舗のありかを探すために別ページにある地図を参照するという情報誌の基本的な約束事を知らないのです。しかし、彼らはネット通販の口コミサイトなら使える。ピンポイントの店舗や商品情報はわかるのです。

それは端的にいうと、彼らが『エイビーロード』を知らないままネット時代を迎えたことを意味します。このすでに休刊した情報誌の存在は、多様な商品の中身を詳細に比較検討できることで日本の海外旅行シーンの成熟化に大きな役割を果たしました。一方、中国の消費者はこうした比較検討メディアの時代を経験することなく、ネット時代に突入しました。おかげで我々の知っている情報化のプロセスがすっぽり抜け落ちているのです。――

「情報誌」文化も日本のガラパゴス化のひとつ

――そもそも香港の人たちは、『東京ウォーカー』やかつての『エイビーロード』のような情報誌に慣れていない。そのことが情報誌のデザインをそのまま踏襲した最近の日本の旅行パンフレットやフリーペーパーを受け付けなくさせている理由なんだろうと思います。

「地図の要不要もそうですが、当初日本の情報誌の翻訳から始まった『香港ウォーカー』の編集スタッフたちは、『日本の記事はキャッチがしつこすぎる』といいます。彼らには『日本人は同じことを繰り返し書いている』と感じるそうです。タイトル、サブタイトル、リード、キャッチ、本文、キャプションと、すべて同じことを書いているというんです。確かにそういわれると、そうですよねえ」

鈴木さんのいうように、日本の雑誌編集者たちは、タイトルやキャッチを本文の中から抽出して、なるべく読者の眼を引くよう短いセンテンスにまとめて表現することに腕を競っているようなところがあります。タイトルだけ読めば、何が書いてあるか大枠がつかめるようなうまいキャッチをつけて一人前。一種の言葉遊びのおもしろさもありますし、編集者のセンスが問われるところです。

こうした雑誌文化の背景には、本とは違って雑誌はすべてを通しで読まれるとは限らないため、なるべく数多くの情報を詰め込んで、各読者が眼を引いたものだけ読んでもらえばいい。そうしたゴチャ混ぜの情報の断片をまるで幕の内弁当のおかずのようにぎっしりと詰め込んでいるのが、日本の情報誌です。そのような情報誌の読み方が彼らにはわからないというわけです。大皿料理をみんなで取り分ける食文化の彼らに、幕の内弁当が合わないのは無理もないかもしれません。

こうしてみると、日本で独自に進化した「情報誌」文化はガラパゴス化といわれても仕方がないのではないでしょうか。もちろん、ガラパゴス化は自国の消費者のニーズに則して開発されたもので、それ自体悪いというわけではありません。ただし、海の向こうに市場を求めようとすると、支障が生まれる。日本の携帯が陥った状況と同じことだと思います。

我々は1枚のページに情報がコンパクトにまとまっていると便利だと考えがちですが、実のところ、華人文化圏の人たちがそう受け取るとは限りません。とりわけ中国のようなプロパガンダの国の住人は、タダでくれる情報であれば、何らかの誘導があるだろうとふつうに考えます。彼らは我々に比べてとてつもなく疑り深い人たちでもあるのです。

さらに、鈴木さんがさきほど語ったように、香港では「雑誌を持って歩く」という習慣が浸透していないことも、日本の海外向けフリーペーパーが受け入れられない理由といえます。彼らにとって雑誌はあくまで読むものなのです。そして、いまや持って歩くのはスマートフォンという時代です。

問題なのは、情報の送り手である日本の制作者たちが「情報誌」文化の作法に縛られたまま、外国人相手にきちんとコンテンツが伝わっていないにもかかわらず、無自覚のうちに情報発信を続けていることです。

鈴木さんが香港で学んだ「自己満足ではダメ」

鈴木さんは香港で情報誌編集に携わった悪戦苦闘の日々について、赤裸々に語ってくれました。

「私は香港の編集スタッフとうまくいっていませんでした。理由は、私の考えが“日本的すぎる”からでした。赴任当初は使命感もあるし、日本からわざわざ呼ばれたのだからと、企画もページ構成も日本人目線でやっていました。だから、彼らとぶつかりました。

でも、徐々に彼らのいうように『雑誌は読むもの』という考え方を受け入れ、日本の月刊誌や季刊のハイグレードな雑誌をイメージして柔軟に対応するようにしました。本当をいえば、日本の観光地を背景に芸能人を大きく見せるような現行の『香港ウォーカー』の表紙は、実際のコンテンツと合っていないと思うのですが、香港の人にはそれで構わないのです。ミュージシャンやタレントのインタビューなども、写真をできるだけ大きくしてくれという読者からのリクエストがありました。私からすると、それは違うだろうと思うのですが、香港では“写真を大きく使う”、これがいちばん重要なのです」。

――『香港ウォーカー』のこの1年間のバックナンバーを見せていただきましたけど、2012年の5月号くらいまでは日本の情報誌のように、細かいレイアウトやキャッチを多用した誌面づくりが見られますが、だんだんそれが減って誌面がすっきりしてきますね。

「海外で仕事をして勉強させられることがたくさんあります。日本にいては気づかないことばかりです。10年前、私たちが『台北ウォーカー』の立ち上げに成功したのは、そこが台湾だったからです。日本に片想いしている台湾だったから、私たちの思いが実現できたのだと、いまは思います。

そういう意味では、日本に恋する台湾と、最近中国かぶれになってきた香港ではまったく違いますね。 香港人はある意味、欧米人の感覚にも近いです」。

鈴木さんは、日本に片思いし、日本のやり方を受け入れてくれる台湾の特殊性に、いまさらながら気づいたといいます。と同時に、鈴木さんのように、時間をかけて日本の「情報誌」文化を根付かせた日本人がいたことで、台湾の消費社会の成熟に貢献した面もあったのではないかと思います。でも、台湾はきわめて例外的なケースで、そこで成功したことが、その他の華人文化圏やアジアの国々で通用するとは限らないのです。

「やはりその国と仕事をしていくなら、“郷には入れば郷に従え”じゃなければいけないと思います。その国の人たちの気質や好みを把握してやっていかないと、受け入れてもらえません。

自戒の意味も込めて感じたのは、日本人はお山の大将になっているんですよ。自分たちの技術がすごいと。でも、実際はそんなことばかりじゃないですよ。たとえば、街でのWi-Fiの普及度でいえば、日本は遅れています。それは香港から帰ってくると痛感します。日本だから日本のやり方が合っているだけで、外国に来たら日本のやり方は通用しません。香港では本当に悔しくて何度も泣きました。現地のデザイナーとのコミュニケーションも然り。私の意見をまったく聞こうとしないのですから(苦笑)。

でも、仕方ないですよね。雑誌を読むのはこちらの人です。私が香港でやろうとしていたのは、自己満足の世界だったと気づきました。台湾ではこの経験を無駄にしないようにと思います」。

自覚なく大量発行されている現状を変えよう

鈴木さんはいま、台湾で『Japan Walker』という訪日旅行情報を満載した『台北ウォーカー』の別冊附録(ブックレット)を出す仕事に取り組んでいます。

「毎月60ページほどのブックレットなので、旅行カバンにちょっと忍ばせてもらえたらと思っています」。

鈴木さんが香港で味わった葛藤は、海外向けの観光パンフレットを発行する自治体関係者やフリーペーパーの発行者のみなさんも自分の問題として大いに学ぶべきではないでしょうか。

「いま全国の自治体で大量につくっている観光パンフレットや地図は、そのほとんどが日本人用をただ翻訳しただけで、まったく外国人のニーズに合っていないんです。この無駄にはもうみんな気がつかないといけないと思います」。

なぜこのような無駄がいつまでもまかり通るのか。発行元の多くが費用対効果に責任を負わない自治体であることもそうですが、広告を集めれば、それで成立してしまうというフリーペーパーのビジネスモデルにもあると思います。実際に読まれなくても、発行だけはできてしまうからです。それが現場の制作者たちにとっても自らのガラパゴス化に対する無自覚を温存させている面があります。

最近でも、トラベルマートの会場などで多言語化された地元の旅行パンフレットを用意しただけで満足しているような自治体関係者を見ると、残念というほかありません。そりゃないよりはましかもしれませんけど、もうそんなことですまされる時代だとは思えません。自覚なく大量発行される現状を変えなければなりません。

日本の「情報誌」文化を脱却し、相手のニーズに近づくことで成功した例として、中国で発行される日系ファッション雑誌があります。もともと日本で発行していた女性誌を、中国でライセンス契約して発行してきたのですが、やはり最初は日本の翻訳記事が多かったそうです。誌面に出てくるのも日本のモデルばかり。しかし、それではうまくいかなかったといいます。

当然のことですが、中国の女性の好みやライフスタイルに合わせたオリジナルな内容でなければ、読まれ続けるはずはないのです。そのためには、彼女らのニーズを追い求める姿勢が必要でしたし、とりわけ中国人モデルの育成が重要だったそうです。それは、日本の出版界が欧米のスタイル雑誌や女性誌を日本のマーケットに根付かせたプロセスと基本的に同じことだったと思います。

同じことは、インバウンドの海外向け情報発信においてもいえることなのです。

台湾で新たにチャレンジする鈴木夕未さんの今後の活躍に期待したいと思います。

やまとごころ.jp 19回 本気でアジアを狙うなら、「情報誌」の発想を変えよう
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by sanyo-kansatu | 2013-04-02 08:30 | やまとごころ.jp コラム | Comments(0)
2012年 12月 29日

韓国料理好きなら試してみたい 延辺朝鮮族料理ガイド(13-14年版)

ここ数年、エスニックグルメ通の間で延辺料理が話題になっており、都内にもたくさんの延辺料理レストランがオープンしています。延辺料理は、韓国料理と中国料理をベースに蒙古などの影響を受け、唐辛子を使った甘辛酢っぱい味が特徴です。本場、延吉を代表するレストランの人気メニューを一品一品写真に撮って解説します。

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by sanyo-kansatu | 2012-12-29 19:59 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2012年 12月 29日

一度に中韓2カ国語をマスター! 延辺大学留学案内(13-14年版)

延辺朝鮮自治州を代表する延辺大学では、多くの留学生を受け入れています。「一度に中韓2カ国語をマスターできる」ことが売りになっています。今回は延辺大学の協力により授業の風景や留学生(日本人、ロシア人など)のキャンパスライフを紹介します。

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by sanyo-kansatu | 2012-12-29 19:56 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2012年 12月 29日

世界遺産「古代高句麗王国の首都と古墳群」 韓国歴史ドラマの舞台を訪ねよう(13-14年版)

2000年代中ごろより精力的に製作された韓国歴史ドラマ。その面白さは日本でも人気を呼んでいます。興味深いのは、韓国歴史ドラマの舞台となる地域の多くが、中国遼寧省や吉林省の一部であることです。

そこで、中国にある韓国歴史ドラマのゆかりの地を訪ねてみました。高句麗建国の地とされる五女山城(『朱蒙(チュモン)』『風の国』)や集安(ぺ・ヨンジュウン主演の『太王四神記』)です。

韓国歴史ドラマは、史実を超えた、いわば歴史ファンタジーの世界です。中国と韓国・北朝鮮の歴史論争の舞台でもあるのですが、ここではエンターテインメントに徹して紹介しています。

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by sanyo-kansatu | 2012-12-29 19:45 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2012年 12月 29日

国際定期バスで中ロ国境越え 延辺からウラジオストクへの小旅行(13-14年版)

近年、北東アジアの国際情勢の変化の中で、中国・ロシア・北朝鮮の3カ国が国境を接する地域が注目されています。2012年9月、中国吉林省延辺朝鮮族自治州は成立60周年を迎え、隣の極東ロシア・ウラジオストクではアジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれました。こうした動きにともない、この地域の経済交流も進展の兆しを見せています。

そこで、「地球の歩き方・中国東北編」の今年の改訂では、「延辺朝鮮族自治州」特集を企画しました。その第一特集がこれです。

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by sanyo-kansatu | 2012-12-29 18:51 | ノービザ解禁間近!極東ロシア | Comments(0)
2012年 01月 07日

戦前期のガイドブックは現在、どれだけ“使える” か

数年前、日本大学文理学部が開催した「写された満洲〜デジタルアーカイブから甦るハルビン都市空間〜」(2009年10月)という展覧会を観に行ったとき、主催者である松重充浩先生(日本大学文理学部教授)と偶然お会いしたことが縁で、近現代東北アジア地域史研究会のニュースレター23号(2011年12月17日発行)に上記のタイトルで以下の文章を寄稿させていただきました。アカデミズムの世界とは縁がないものの、中国東北地方に関心を持つぼくにとって知見を広めるいい機会となりました。以下、寄稿した文章を掲載します。
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近現代東北アジア地域史研究会のニュースレター23号(2011年12月17日発行)



戦前期のガイドブックは現在、どれだけ“使える” か

『地球の歩き方』(ダイヤモンド・ビッグ社刊)は、2009 年に創刊30 周年を迎えた海外旅行ガイドブックシリーズです。現在、海外の国・地域の約200 タイトルが刊行され、そのうち中国は中国編、上海編、北京編、東北編、華南編、成都編、シルクロード編、チベット編、香港編、マカオ編の10 タイトルに分冊されています。

そのなかの1 タイトル、『大連・瀋陽・ハルビン-中国東北地方の自然と文化』(以下、『東北編』)の制作をぼくは担当しています。前任者の健康上の理由で6年ほど前に引き継ぎました。中国東北地方には個人的な縁もあったので、隔年ごとの改訂作業を定点観測的な現地視察も兼ねて行っています。本稿では、この地域の旅行案内書が現在、どのように作られているか、ご紹介したいと思います。
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『地球の歩き方 大連・瀋陽・ハルビン~中国東北地方の自然と文化 2010-11年版)』(ダイヤモンド・ビッグ社刊)2010年6月刊行

1.日本で唯一の中国東北地方のガイドブック

旅行案内書ゆえの制約もありますが、『東北編』では、個人的な関心領域を比較的自由にテーマとして扱うことができています。『東北編』が日本で唯一の中国東北地方のガイドブックであるため、上海や北京などの人気エリアのように他の出版社から多数の類書が刊行されていない。おかげで、一般消費者のニーズを意識したシェア争いに巻き込まれないですんでいるというのが(ここだけの話ですが)理由です。

それは単純に考えれば、訪中日本人の渡航先のマーケティングの結果(他地域に比べ東北地方への渡航者は少ない)といえますが、この地域には今日の日本の旅行者にとって一般ウケする観光素材が少ないことも、他社が類書を刊行するのをためらう理由でしょう。現在の渡航者の大半は、大連や瀋陽へのビジネス出張者や駐在員とその家族で、ツアー客は圧倒的に少ないのです。一部に鉄道ファンや北朝鮮マニアといった人たちも出没しているようですが、中国旅行の2大テーマとされるグルメや歴史(ただし、三国志など古代史への関心が大半)の舞台としての魅力が乏しいことが致命的かと思われます。

もっとも、1980 年代から90 年代の半ばくらいまで、中国東北地方は旧満洲に縁のある世代の「望郷」ツアーのメッカだったことは知られています。ぼくも以前、現地でこの世代の方々に何度かお会いしたことがあります。もう20 年以上前のことですが、長春のホテルのロビーで大阪から来たツアーの皆さんと知り合い、市内観光に同行させてもらいました。実は、ぼくの祖父母や母はかつて長春に住んでいました。その当時の住まいを古地図を頼りに探すのを、知り合ったツアー客の方に手伝ってもらったことを思い出します。

2.「望郷」ツアーの最後の記録

2011 年6 月、岩波ホールでドキュメンタリー映像作家の羽田澄子さんの制作した『遥かなるふるさと 旅順・大連』(以下『ふるさと』)が上映されました。

『ふるさと』は、1926 年(昭和元年)大連生まれの羽田さんが多感な年代を過ごした旅順、大連を訪ねるツアーの記録です。館内は旧満洲に縁のある世代であふれていました。それは久々に見た「望郷」ツアーの世界でした。実際、周囲の会話から、「望郷」ツアーに参加したことのある人たちがその場に多くいることがうかがえました。

この作品が撮られるきっかけは、2010 年に日露戦争の激戦地でとして知られる軍港の町、旅順が正式に外国人に対外開放されたことです。

羽田さんは「日中児童の友好交流後援会」が企画するツアーに参加し、同年6 月13 日に成田空港を発ちました。大連空港からバスで旅順に向かい、日露戦争後、東郷平八郎連合艦隊司令長官らが建てた表忠塔(現白玉山塔)に登り、旅順港を一望。東鶏冠山堡塁(ロシア軍トーチカ跡)や水師営会見所(乃木希典将軍とステッセル中将の会見場)、二〇三高地などをめぐります。その後、羽田さんと数名の友人はツアーを離れ、自由行動で新市街にある旧宅を訪ねます。そこには旅順の一庶民が暮らしており、家に上がらせてもらうと、当時とすっかり間取りの変わった部屋を行き交いながら、「ここは父の書斎」「ここは子供部屋」と羽田さんは声をあげます。そして、住人と一緒に記念写真を撮るのでした。

この作品を撮ろうと思った理由について「旅順での生活が私の家族にとって、最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だった」と彼女はパンフレットの中で書いています。

終戦時が20 歳で、現在80 代半ばを迎えられた羽田さんとその友人たちは、旧満洲に想いをはせる最後の世代といっていいかもしれません。その再訪の記録を撮り終えたいま、高齢を迎えた彼らがこの先大挙してこの地を訪ねることはなさそうです。

3.2010-11 年版の主要テーマは旅順開放

ちょうどその2 週間前の5 月下旬、我が『東北編(地球の歩き方 大連編2010-11年版)』取材班は一足先に旅順を訪れていました。今回の取材のテーマは、開放されたばかりの旅順の最新レポートです。ただでさえ観光素材の乏しい東北地方において、旅順開放はニュースでした。遼寧省が舞台となるNHK ドラマ『坂の上の雲』放映も追い風です。現地入りした我々取材班の旅順入城は、ロシア式木造建築が美しい旅順駅からにしようと、わざわざ1 日2 往復しかない鉄道で早朝、旅順に向かいました。

今回ぼくは、以下の3つのグラビア取材を計画していました(以下、企画書より抜粋)。
① 祝!開放 旅順最新案内
大連から鉄道で旅順入城。二〇三高地や水師営会見所、旅順博物館など、これまでツアーでも訪ねることのできたスポットに加え、新たに開放された日露監獄旧跡、旧関東軍司令部、関東法院旧跡などの歴史スポットや、旅順湾を一望できる白玉山塔、日本時代の面影の残る旧市街の風景などを紹介します。

② ローカル鉄道で行く『坂の上の雲』名場面を訪ねる旅
日露戦争から100 余年、現在その地はどんな姿をしているのか。NHK ドラマ『坂の上の雲』の舞台となる中国東北南部の戦跡をローカル鉄道で訪ねます。取り上げるのは、金州(日清戦争時、従軍記者として現地入りした正岡子規の句碑。乃木希典将軍の碑跡)、遼陽(秋山好古の騎兵隊の活躍で有名)、丹東(ロシア軍との最初の陸戦の地)など。都市間移動のノウハウやローカル鉄道の旅の楽しみ方も紹介します。

③ 温泉エッセイスト山崎まゆみの満洲三大温泉めぐり
温泉エッセイスト、YOKOSO JAPAN! 大使として活躍する山崎まゆみさんを起用して、かつて満洲三大温泉(湯崗子温泉、熊岳城温泉、五龍背温泉)と呼ばれた温泉地を訪ねます。ご本人はグラビアに登場いただくつもりです。中国でも近年温浴施設が多数できていますが、日本とゆかりのある古い温泉地で彼女が何を感じるか、レポートしてもらいます。

4.頼りにしたのは戦前期のガイドブック

これらの取材を実現するために、ぼくが頼りにしたのは戦前期のガイドブックでした。

まず、「① 祝!開放 旅順最新案内」では、JTB の前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローの制作した『旅程と費用概算』(1934(昭和9)年版)や、後に社名を変更した東亜旅行社の刊行した『満洲』(1943(昭和18)年)を参考にしました。特に後者は鉄道省が推進した「大陸視察旅行」のためのコンパクトな旅行案内書で、現役の編集者であるぼくの目から見ても、当地の歴史や社会、文化、習俗に精通した簡潔明瞭な文体、多民族集住地域の魅力を伝える口絵など、実用的で洗練された完成度の高さに感心させられます。

当時満洲旅行の最大のハイライトのひとつが、定期巡礼バスを利用した旅順戦蹟めぐりでした。同書には、巡礼バスの立ち寄り先として二〇三高地や表忠塔などの「聖地」が多数紹介されています。今回の取材でも、その解説がほとんどそのまま役立ちました。テキストの歴史解釈の評価をひとまずおくとしても、半世紀を超えて対外的に封印されていた旅順は、当時とほとんど変わらない姿を残していたからです。
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『満洲』(東亜旅行社刊)1943(昭和18)年刊行


「② ローカル鉄道で行く『坂の上の雲』名場面を訪ねる旅」は、司馬遼太郎原作の同長編小説を題材にしています。いくつかの名シーンの舞台となる土地を鉄道で訪ね、現在の姿をグラビアで紹介しました。あらためて100年という時間の経過を感じましたが、当時を想起させる風景も多く残っていました。

これは何でもないワンシーンですが、大連から旅順に向かう鉄道沿線に、旅順攻略戦で戦死した日本兵の白い墓標が多数立てられているのを見て、兵士の士気がそがれることをおそれた児玉源太郎参謀長が撤去するように命じるくだりがあります(第四部「二〇三高地」)。『秘蔵日露陸戰写真帖 旅順攻防戦』(柏書房 2004)に収められた当時の写真を見るかぎり、戦時中その地は草木の生えていない荒野のような丘陵地帯。今日のなだらかな緑の多い農村風景とはまったく別の場所のようですが、鉄道だけは同じレールの上を走っている。そう思うと、100 年の年月も少しだけ身近に感じられたような気がするのでした。

5.紀行に見る温泉地の変遷

資料探しが最も面白かったのは、「③ 温泉エッセイスト山崎まゆみの満洲三大温泉めぐり」でした。戦前期に当地を訪ねた作家の紀行が参考になりました。

旧満洲の温泉をめぐる最初の話題提供者は、『満韓ところどころ』を書いた夏目漱石でしょうか。彼が訪ねたのは日露戦争後わずか4 年目(1909(明治42)年)で、満鉄沿線は開発途上でした。それでも、漱石は熊岳城温泉と湯崗子温泉を訪ねており、兵士の療養小屋に毛の生えた程度の温泉宿の様子を「すこぶる殺風景」と評しています。

時代は移って大正期に入ると、紀行作家として有名な田山花袋のベストセラー『温泉めぐり』や『満鮮の行楽』などの読み物の中に、満洲三大温泉と称された熊岳城温泉や湯崗子温泉、五龍背温泉の滞在記があります。花袋が訪ねた1920 年代になると、それぞれ洋風の温泉ホテルができていて、「私達はビイルを飲んだり、湯に浸かったりして、そこに午後二時までいた」(熊岳城温泉)「温泉場としては、内地では、とてもこれだけのものは何処にも求めることが出来なかった。日本風の室ではあったけれども、副室がついていて、半ばベランダのように椅子だの卓だのが並べてあるのも心地が好かった」「今までに嘗て見たことのない、箱根、塩原、伊香保、何処に行ったって、こうした設備の整ったところはないと思われる立派な浴槽」(湯崗子温泉)とあるように、この時期すでにモダンな行楽地として温泉開発が進んでいる様子がうかがえます。
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戦前期の熊岳城温泉の絵はがき。この温泉ホテルはもう存在しない。
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熊岳城温泉の戦前期の温泉施設は、数年前にすべて壊され、高級温泉リゾートホテルとして再開発されていた。写真はリゾート内に誇らしげに展示された建築模型。


昭和に入ると、与謝野寛・晶子夫妻が湯崗子温泉を訪ね、こう書いています。「鉄道の本線に沿って便利なために、在満の邦人が絶えず南北から来て浴遊し、ことに夏期には露西亜人や支那人の滞浴客もあって賑ふそうである」(『満蒙遊記』)。夫妻が訪れたのは1928(昭和3)年。戦前期の日本が国際観光(インバウンド)振興を企図し、鉄道省外局に観光局を設置した1930 年より一足先に湯崗子温泉は国際的な温泉リゾートになっていたのです。

では、当時これほど栄えていた満洲三大温泉は現在、どんな姿をしているのか――。

残念ながら、現在の姿を伝える資料は見つかりませんでした。インターネットで検索すると、温泉地は3つとも現存しており、宿泊施設もあることがわかりました。その情報を元に、大連や瀋陽の旅行会社や旅游局の関係者に問い合わせたところ、彼らはまったく事情を知りません。後でわかったことですが、東北地方で温泉開発が始まったのはここ数年で、同じ遼寧省内でも地元以外では開発状況はほとんど知られていなかったのです。

こうなればもう出たトコ勝負です。約70 年前に書かれたガイドブックの地図と記述を頼りに、三輪タクシーに乗り込み、温泉地のありかを探しました。おかげで、ラストエンペラー溥儀のために設えられた湯崗子温泉の絢爛豪華な個室風呂「龍池」を撮影するなど、興味深い発見がありました。詳しい内容は『東北編』をご参照いただければと思います。
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1932 年3 月8 日、対翠閣(現龍宮温泉)前で撮られた溥儀夫妻

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戦前期の「龍池」と思われる写真

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龍宮温泉(湯崗子温泉)には、溥儀のために造られた豪華な浴室「龍池」が現存している。

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五龍背温泉では、1936 年に満鉄の建てた露天風呂と湯小屋が残っていた。

6.近代史から観光素材を発掘する

それにしても、戦前期に書かれたガイドブックや紀行がこれほど“使える”とは驚きでした。当時の時刻表やホテル・旅館の案内はともかく、今日忘れられた温泉の泉質や効能、周辺の行楽地の紹介まで、ガイドブックとしての基本要素はしっかり押さえてあり、実用に耐えうるものです。ガイドブックは時代の気分や消費者のニーズを映し出す鏡であり、消費社会の成熟度を測る指標といえます。旧満洲において、高度なガイドブックを必要とするようなモダン・ツーリズムの世界が現出していたことを物語っています。

『満洲』は、1920(大正9)年以降、毎年改訂された旅行案内書『旅程と費用概算』の地方別分冊版の1タイトルです。つまり、「九州編」や「中国・四国編」と同じ並びで「満洲編」が刊行されていました。昭和18 年版だけに、「開拓地」や「青年義勇隊」などの項目から当時の時代背景や国策の反映が色濃く見られますが、それが最期の版となったようです。その後、この地ではモダン・ツーリズムのにぎわいは封印されてしまいます。

学生だった1980 年代半ば頃、初めて中国東北地方を訪れたぼくの目に、その地はモダニズムが眠る場所として好ましく映りました。高層ビルなどいっさいない当時の大連はまるで北欧の港町のように思えたし、街ごと建築博物館のようなハルビンも他の中国の都市とは違って見えた。街全体は埃を被っていましたが、現代化される前の近代都市の原初の姿とはこういうものだったのか、という感慨をおぼえたのです。モダニズムは現代人にとっての郷愁です。それは国籍を超えたもので、困ったら原点に立ち還る場所。初めて見た風景を懐かしいと感じたのもそのためでしょう。その後、中国の他の地域と同様、この地も現代化の波に洗われてしまいましたが、中国東北地方の固有の面白さは、日本との関わりも含め、近現代史の連続性を通してみていくとき、際立ってくると思うようになりました。

いまぼくは『東北編』の制作を通して、モダン・ツーリズムの黎明期を切り拓いた由緒ある旅行案内書の歴史を引き継いでいるのだというひそかな自負があります。

ぼくが『東北編』で試みているのは、近現代史の中から埋もれた素材を発掘し、エンターテインメント化することです。たとえば、「旅順歴史MAP」は、近年国内旅行ガイドブックでよく見られる古地図を使った散策ガイドの手法の応用編です。その地に封印された歴史的な記憶を誌面に解き放ち、時空を超えて体感する知的な愉しみといえるでしょう。
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旅順歴史MAP(『地球の歩き方 大連編2010-11 年版』 p.20-21)。昭和11(1936)年に発行された「旅順戰蹟案内圖」を元に作成した旅順市内MAP。区画は当時とほぼ変わらず、重要な建築物の多くが使用されているため、現在でも十分散策地図として使える。

しかし、そんなもくろみも、所変われば一筋縄にはいかないのが現実です。

中国では「愛国主義歴史教育」施設(以下「愛国」施設)が待ち構えています。旅順では日露監獄旧址博物館(旧旅順刑務所)や関東軍司令部旧址博物館、日本関東法院旧址陳列館(旧旅順最高法院)などですが、その展示を見るかぎり、「(日露戦争は)中国東北を奪い取るための戦争」と論理は単純明快です。今日の中国では、特定の歴史旧跡をどう残すかは、時々の政治判断で変わりますが、「坂の上の雲」で明治を日本の近代の青春期として無邪気に捉える歴史観は一刀両断、とりつくしまもない日中のすれ違いに唖然とします。

ただし、実情はそれほど単純ではないのが面白いところです。たとえば、二〇三高地ではあろうことか「坂の上の雲」のプリントT シャツが堂々と売られていますし、「愛国」施設では中国側の歴史観を説く通訳たちが、日本人ツアー客をお土産屋に連れ込み、購入金額に応じたキックバックを受け取るという中国のツーリズム産業を支える基本システムがあからさまに繰り広げられています。2010 年2 月には、大連市旅順口区政府は大阪で日本からの投資と企業誘致を募る説明会を開いていますが、旅順の対外開放がこれほど遅れたのも、実利と面子をめぐって政府と軍の駆け引きが長引いていたことがうかがえます。

ぼくはもとより戦前期のガイドブックの価値観を全面的に肯定する考えはありません。それは今日の中国の「愛国」施設の展示に見られる歴史観についても同じです。むしろ気になるのは、両者の類似性をどう考えたらいいかという今日的な問題でしょう。

今年は中国共産党建党90 周年ですが、党のゆかりの地を訪ねるよう政府が推奨する「紅色観光」団の姿を旅順でもよく見かけました。この「紅色観光」と旅順戦蹟めぐりの関係をどう考えたらいいか。ともにモダン・ツーリズムとしての一面を持ちながら、共通するのは、特定の人物の英雄化と国家の歴史をそれに重ねるプロパガンダです。なぜそんなものが必要とされるのか。時代は繰り返されるということなのか。

もっとも、類似性は別のかたちでも現れるようです。1923(大正12)年に旅順戦蹟めぐりをした田山花袋は「どんなに悲惨な事件でも、跡になってしまっては-自然と同化してしまっては、興味を惹かなくなるのは止むを得ない」(『満鮮の行楽』)と書いています。昭和18 年当時の日本人は花袋の軽口を叱りつけたかもしれませんが、大正期の日本人の感覚はこれに近かったでしょう。一方、職場の同僚に無理やり「紅色観光」に連れて来られた風の中国の若いカップルの顔つきや、記念撮影に興じる修学旅行生たちの様子を観察するかぎり、「愛国」を演出する側と観る側の認識ギャップがうかがえて興味深いものです。

日中関係をめぐる封印が次々と解かれていく時代のなか、お互いの歴史観の違いを認めつつ、他者の視点を取り入れ、今日の自己のありようをいかに相対化できるかが日中双方に必要とされる態度だと、旅順に来てあらためて思った次第です。

さて、2012 年は『東北編』の改訂の年、来夏には東北地方を訪ねる予定です。次回の取材は「延辺朝鮮族自治州の町々とウラジオストクを結ぶバスの旅」を計画中です。図們江下流域における中朝の共同開発の動きが報じられるなか、ロシアも含めた地域的分断の歴史にどんな変化が見られるのか――。もしこの地域の歴史と現況に精通している方がいたら、出発前にぜひ情報提供をお願いするところです。

■資料:満洲三大温泉を扱う資料一覧 (2010 年4 月現在)

○作家による紀行(【 】内は滞在時期)
・夏目漱石『満韓ところどころ』1909(明治42)年10月朝日新聞初出【1909年9~10月】
・田山花袋『温泉めぐり』1918(大正7)年
 ※『温泉めぐり』は、大正7年の初版発行以来、わずか4年余で23版を重ねるベストセラーに。昭和初期の改訂増補版を経てロングセラーとなる。
・田山花袋『満鮮の行楽』大阪屋号書店、1924(大正13)年11月【1923年4~6月】
・田山花袋ほか『温泉周遊』金星堂、1928(昭和3)年7月
・与謝野寛・晶子『満蒙遊記』大阪屋号書店、1930(昭和5)年5月【1928年5~6月】

○ガイドブック
・大日本雄弁会講談社編『日本温泉案内 西部編』大日本雄弁会講談社 1930(昭和5)年
・旅行研究会編『全日本旅行辞典』旅行研究会 1932(昭和7)年
・ジャパンツーリスト・ビユーロー編『旅程と費用概算(昭和9年度版)』博文館、1934(昭和9)年
・『温泉案内』鉄道省 1940(昭和15)年版 ※大正時代から刊行され続けている
・興亜研究会編『大陸旅行案内』大東出版社、1940(昭和15)年 
・東亜旅行社編『満洲』東亜旅行社、1943(昭和18)年

○戦後の書籍、研究書
・北小路健『望郷 満洲』国書刊行会、1979年 ※当時の三大温泉の写真あり
・八岩まどか『温泉と日本人 増補版』青弓社、2002年 
・関戸明子『近代ツーリズムと温泉』ナカニシヤ出版、2007年 ※戦前の温泉ツーリズム研究
・川村湊『温泉文学論』新潮社、2007年 ※溥儀の湯の龍宮温泉に著者が訪問した記述あり。

(なかむら まさと:編集者)
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by sanyo-kansatu | 2012-01-07 14:46 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)