ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2014年 05月 06日

沖縄県のインバウンドの“先進性”とは何か?

沖縄県が他の都道府県に比べ、いかにインバウンド力(訪日外客誘致力)において“先進性”が見られるか。いくつかの指標について考えてみました。

まず思いつくのは「外客の入込数・宿泊者数」や「消費額」といった量的な側面です。

たとえば、都道府県別の訪日外国人旅行市場を量的側面から比較する指標として、観光白書では、下記のようなデータを挙げ、動向をつかもうとしています。

①都道府県別の外国人延べ宿泊者数
②入国港(空港、港)別 外国人正規入国者数
③都道府県別の実観光入込客数・観光消費額

そのうち、①の最新統計は、以下の観光庁のサイトに載っています。

宿泊旅行統計調査(平成25年10月~12月、平成25年年間値(暫定値))
https://www.mlit.go.jp/common/001029997.pdf

このデータによると、2013年の「都道府県別の外国人延べ宿泊者数」のランキングは以下のとおりです。

1位 東京都 9,984,200
2位 大阪府 4,309,490
3位 北海道 3,050,300
4位 京都府 2,657,100
5位 千葉県 1,993,090
6位 沖縄県 1,363,120
7位 愛知県 1,148,700
8位 神奈川県 1,060,040
9位 福岡県 920,740
10位 静岡県 542,690

沖縄県は人口数や経済規模でみると国内では30位台に位置していますが、ここでは6位に入っています。大都市圏である東京都や大阪府、国際的にも観光地としてすでに定評のある京都府や北海道、成田空港やTDRのある千葉県に次ぐランキングであること。中部空港のある愛知県や福岡空港の福岡県、富士山のある静岡県より上位であることは、相対的にみて沖縄のインバウンド力が高いことを示していると思います。

また、過去3年間と比較した外国人延べ宿泊者数の伸び率(2013年)も、沖縄県は高い数字を示しています。たとえば、2012年度比でこそ、トップは長野県(82.9%増)で2位(74.5%増)でしたが、10年度比でみると196.2%増と断然トップです。つまり、過去3年間、沖縄はインバウンドに力を入れ、その結果が伸び率の上で最も反映されているといえます。

さらに興味深いのは、日本の利用客数の多い上位7空港(新千歳、羽田、成田、中部、関空、福岡、那覇)の国際線における外国人入国者数と日本人出国者の旅客数です。法務省の直近の統計によると、今年3月のデータは以下のとおりです。

       外国人入国者数 日本人出国者数 (2014年3月)
新千歳空港 40,800   13,738
羽田空港 121,128   244,456
成田空港 444,570   726,819
中部空港 54,198   139,873
関西空港253,763   317,624
福岡空港 74,301   81,677
那覇空港 41,382   6,919
総数    1,119,140   1,596,743

②入国港(空港、港)別 外国人正規入国者数(2014年3月)
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001118277

これを見ると、那覇空港の国際線外国人入国者数は6位です。特筆すべきは、利用者の85.7%が外国人(インバウンド客)という高い比率であることです。同じことは北海道にもいえますが、沖縄県の国際線誘致を促進している背景に、外国人入国者の増加があることがわかります。国内客の航空利用が伸び悩み、全国の大半の地方空港が赤字に苦しむなか、これほどうらやましい状況はないでしょう。

インバウンドの動向は「量」だけでなく、「質」も検討する必要があります。

たとえば、質的面からみると、こんな指標が考えられるでしょうか。

①コンテンツの強さ、多様さ
②国際的な認知度
③地元の観光産業の実力、経験値の高さ
④外客受け入れ態勢の充実度
⑤対外プロモーション手法の熟練度
⑥送客国・地域との交流の親密度(特に観光関係者同士の)

ここで一つひとつ上記のポイントを都道府県別に検討するのは難しいのでやめておきますが、本土復帰以来、「観光立県」として国内客を中心した観光誘致に力を入れてきた沖縄県のインバウンド振興に関する経験値の高さは他県と比べ一日の長があります。沖縄の観光関係者に聞くと、受け入れ態勢などまだ遅れていると正直に話すのが常ですが(実際、遅れている面も多々見られます)、それは他県の関係者に比べ、海外の競合地との比較において自らの弱点や相対的評価に対する理解が深いためでしょう。

実際のところ、沖縄県のコンペティター(競合地)は、東京や大阪ではなく、ハワイやグアム、バリやプーケットといった海外のビーチリゾートです。これらは沖縄県の東アジアにおける地勢的な位置付けや自然環境などによるものですが、それをどう活かしてインバウンドを発展させるか。その手法は当然、東京や大阪とは違ってきます。その独自のポジションに沖縄県の面白さがあります。

ところで、世界経済フォーラム(WEF)は、世界の観光分野の競争力を比較した報告書を毎年発行しています。2014年3月に発表された直近の報告書によれば、調査対象の140カ国・地域のうち、以下のとおり、トップはスイスですが、日本は14位となっています。

1位 スイス
2位 ドイツ
3位 オーストリア
4位 スペイン
5位 英国
6位 米国
7位 フランス
8位 カナダ
9位 スェーデン
10位 シンガポール
11位 オーストラリア
12位 ニュージーランド
13位 オランダ
14位 日本
15位 香港

The Travel & Tourism Competitiveness Index 2013 and 2011 comparison
http://www3.weforum.org/docs/TTCR/2013/TTCR_OverallRankings_2013.pdf

評価項目として3分野、14項目が挙げられますが、日本が比較的高い評価を得ているのは、「人的、文化的、自然の観光資源」(10位)で、「観光産業の規制体制」「観光産業の環境とインフラ」はともに24位。個別にみると、「陸上交通インフラ」(7位)や「情報通信インフラ」(7位)「文化資源」(11 位)などは評価が高いものの、「政策方針と規則」(36位)や「観光の優先度」(42位)「環境の持続性」(47位)「観光インフラ」(53位)などはいまいちで、とりわけ「観光との親和性」(77位)「観光業における価格競争力」(130位)はきわめて低く評価されていました。

A)T&T regulatory framework(観光産業の規制体制)
Policy rules and regulation(政策方針と規則)36位
Environmental sustainability(環境の持続性)47位
Safety and security(安全性)20位
Health and hygiene(健康と衛生)16位
Prioritization of Travel & Tourism(観光の優先度)42位

B) T&T business environment and infrastructure (観光産業の環境とインフラ)
Air transport infrastructure(航空インフラ)25位
Ground transport infrastructure(陸上交通インフラ)7位
Tourism infrastructure(観光インフラ)53位
ICT infrastructure(情報通信インフラ)7位
Price competitiveness in the T & T industry(観光産業における価格競争力)130位

C) T&T human, cultural, and natural resources(人的、文化的、自然の観光資源)
Human resources(人的資源)21位
Affinity for Travel & Tourism(観光との親和性)77位
Natural resources(自然資源)21位
Cultural resources(文化資源)11位
(※Climate Changeは指標外だが、要素のひとつではある)

The Travel & Tourism Competitiveness Report 2013(全文)
http://www3.weforum.org/docs/WEF_TT_Competitiveness_Report_2013.pdf

ここからうかがえるのは、日本の交通・通信インフラに見られる産業力や文化的な観光資源が高く評価されているのに対し、観光に対する政策面や社会の取り組みが評価されていないことでしょう。

「ものづくり大国」の旗印を掲げて経済成長した戦後の日本社会にとって、観光の「優先度」や「親和性」が低いのはある意味無理もないといえます。優先すべきものが他にあったからです。しかし、日本社会の観光力を高めていくことは、日本の「ものづくり」にとっても実は重要なことだと思います。今日「ものづくり」の担い手が新興国に移りつつあるなか、質の高い産業を国内に残しつつ、広く雇用を確保し、社会全体のバランスを見直すことは必要だからです。ヨーロッパ諸国の多くが観光政策に力を入れているのは、国家イメージのPRに観光ほど役立つものはなく、しかも雇用創出、とりわけ若年世代の雇用に大きく貢献するのが観光産業だと知っているからです。国際的にみて日本の観光は高いポテンシャルを有しながら、それをうまく活用できていないのは残念なことです。

インバウンド振興はグローバル化による外界の変化にいち早く気づくことから始まるという意味で、沖縄県が先んじていたのは、地勢的にも、歴史的にも、ある意味当然とはいえるのですが、そのノウハウから学べることは多いはずです。
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by sanyo-kansatu | 2014-05-06 22:23 | “参与観察”日誌 | Comments(0)
2014年 04月 26日

「Tokyo Grand Shopping Week」(表参道)の舞台裏

今年1月23日~2月5日、東京を代表するおしゃれストリートの原宿と表参道で外国人観光客を対象にした Tokyo Grand Shopping Week が開催されました。キデイランドなどの個店や表参道ヒルズやラフォーレ原宿、東急プラザなどの商業施設のテナントが参加し、バーゲンセールや店頭でのスクラッチ抽選キャンペーンなどが実施されました。イベントを主催した原宿表参道欅会の松井誠一理事長と事務局インバウンド担当の中島 圭一さんに話を聞きました。

やまとごころインタビュー
http://www.yamatogokoro.jp/inbound-interview/index04.html

―『Tokyo Grand Shopping Week』を振り返ってどうでしたか?

中島(敬称略。以下同)
「原宿表参道では、昨年同時期にも“Tokyo Fan Week”というイベントを開催していますが、今年はよりショッピングのイメージを重視して名称を変更しました。

バーゲンセールをキラーコンテンツと捉えて「日本で最も遅い」といわれるラフォーレ原宿のバーゲンセールに他の施設や個店が時期を合わせる形でキャンペーンをスタートし、終わりを中国の旧正月にあたる春節期間に設定しました。

『Tokyo Grand Shopping Week』のターゲットは、台湾、香港、中国、韓国および東南アジア諸国をメインとする20~40代の男女と日本在住の外国人です。キラーコンテンツは、183店舗が参加したバーゲンセール。そして、1000円以上お買い物、お食事をされたお客さまにスクラッチカードを渡し、当ったお客さまは臨時観光案内所で10000円分の表参道ヒルズのお買い物券や参加店舗から集めた景品と引換していただくキャンペーン。昨年は表参道ヒルズの1ヵ所でしたが、今年は東急プラザと2ヵ所で行いました。

昨年の反省からいくつもの改善を行いました。たとえば、昨年は開催期間が1か月で途中、中だるみしたことから、今年は2週間にしました。スクラッチカードは店頭で削ってもらい、当たりがその場でわかる方式にしました。

イベント告知も、「長距離(海外)」「中距離(国内)」「短距離(近接した地区)」の3つのチャネルのうち、近場から外国人客を呼び込むため「短距離」に力を入れ、渋谷区や新宿区、港区のホテルなどにチラシを徹底して配布しました。

今回もいくつかの課題が指摘されており、来期に向けてその改善ともに、年間を通した取り組みを行っていきたいと思っています」。

―原宿表参道でインバウンドの取り組みを始めたのはいつですか?

中島
「インバウンド推進のための3か年計画がスタートしたのは、2010(平成22)年からです。

最初に手がけたのは、他の商業地区に比べ遅れていた銀聯カード端末の導入でした。その後、チャイナリスクが起こり、中国一辺倒ではダメだということを痛感しました。

いつも考えるのは、PRと受け入れのバランスです。欅会ではまず春節キャンペーンを打つ前に決済環境などの最低限の受け入れ整備を優先しました。外国のお客様がお買い物にストレスを感じる状況を残したまま、PRを行うのを避けたかったからです。

その次に初めてキャンペーンに軸足を移しました。表参道は、基本的にFIT(個人客)が似合う街です。
個人客を取り込むには日ごろ接している現場の人間に裁量権を与えることが重要だと考えています。
このエリアではそれが実現できています。毎月2回現場の販促担当者らを集めて会議を開くのですが、この街の人たちは一体になりやすいのがうれしいことです」。

―一体になりやすいというのは、表参道の土地柄にも関係があるのでしょうか?

松井(敬称略。以下同)
「表参道には2つの原点があります。戦後の歴史からお話しますと、ここも2回戦災に遭っていて、焼け野原から始まっています。代々木の陸軍練兵場が米空軍将校やGHQ官僚の家族用宿舎などからなるワシントンハイツとなり、西洋文化と彼らのライフスタイルに直接触れられる街になりました。それがひとつの原点です。

一般に原宿や表参道は、ストリートファッションの街。誰もが思い思いのファッションを表現し、新しいアイデアやインスピレーションが生まれる日本のアパレルを代表する街だと思われています。

転機は東京オリンピックでした。その頃から、ワシントンハイツに丹下健三や浅井慎平といった著名な建築家やカメラマン、デザイナーたちが事務所を構えたように、いろんな才能が集まってきました。実は緑が多くて、家賃が安かったからです。

ところが、外国の方に聞くと、表参道は日本的なものを感じるから好きだというのです。それは、もうひとつの原点である明治神宮の参道であることと関係あるかもしれません。この街の人たちは、表参道が他の商業地と同じ感覚では困ると考えています。だから、欅会の前身である「原宿シャンゼリゼ会」が発足した1973年当時から「キープ・クリーン/キープ・グリーン」というスローガンを掲げ、商業振興と地域環境の両面で活動を続けてきました。

もともと表参道の欅並木は大正10年に植えられたものですが、戦災でなくなった後、昭和26年に地元で造園業を営む方が再植林させたのです。この街の人たちの欅に対する思い入れがいかに強かったかを物語っています。

1970年代後半、原宿は若者の街として脚光を浴びます。ラフォーレ原宿のオープンは1978年。商業ビル化の始まりです。そして90年代前半のバブル崩壊。このあたりの地価も一気に5分の1になり、更地が増えたのもこの時期でした。2000年暮れにオープンしたベネトンを皮切りに、海外の高級アパレルブランドがこぞって出店してきました。ついにここも外資に乗っ取られるのか? でも、結果的にはそうなりませんでした。彼らの多くがビル一棟取得し、日本本社機能を持たせて街と共存しようとしました。彼らの原宿・表参道が持つ価値に対する評価は変わらなかったからです」。

―評価が変わらなかったのはなぜだったのでしょうか?

松井
「街に独自の文化があったからです。モノがあるから人が集まるのではありません。お客さま向けの商品をいくら提供しても、旅の満足は満たされない。もともと表参道に在住外国人が多かったのも、そのためでしょう。

この頃から私たちも原点回帰を考えるようになりました。自分たちのオリジナルは何かということです。それは、欅並木だと。こうして2000年、歴史的に明治神宮の表参道であること、そのシンボルが欅であることから『原宿表参道欅会』と名称を変更したのです」。

中島
「そこから、原宿表参道が目指すインバウンドの方向性が決まりました。

『街歩きが楽しい街(歩いて自分の目で見て触れる観光)』『一人ひとりの個人レベルで楽しめる街の魅力発信』『人間的な交流やホスピタリティが生まれる街』『国内客と海外客の観光施策を変えない』『即効性の集客を競うのではなく、リピーターにつながる街のファンづくり』というものです。

今回の『Tokyo Grand Shopping Week』でも、原宿・表参道の路地裏歩きガイドツアーを実施しました。外国人客にチープだけどクリエイティブなものが見つかることが、この街の魅力だと知ってほしかったのです。それがこの街のDNAだからです」。
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商店街振興組合原宿表参道欅会
東京都渋谷区宮前6-9-1 冨永ビル地下1階2号室
http://omotesando.or.jp/jp

<編集後記>
近年、各地の商店街が外客誘致に向けた取り組みを始めているなか、日本で最も有名なストリートのひとつである表参道がインバウンドに取り組んでいると聞いて、ぜひお話をうかがってみたいと思っていました。

松井理事長はこんなことをお話になっていました。
「もともと在住外国人も多いので、10年前はわざわざ海外から外国客を誘致しようなんて誰も考えていませんでした。2004年頃から都の働きかけで、いくつかの国際観光に関する会合に出席しましたが、外客誘致のために先行投資をすることは誰も望んでいなかったことから、議論は堂々めぐりの時期が続きました」。

一方、中島さんは言います。「なぜインバウンドなのか。将来は人口減、商店街のライバルは楽天という時代に、いかに街で買ってもらえるか。これは全国の商店街の共通の課題となっているはずです」。

表参道にはまちづくり協議会の地道な活動があり、ファッションビルが次々と建てられても、住民が郊外に移らず、コミュニティが維持されるような施策に取り組んできたそうです。これは百貨店や大型量販店だけが連携してキャンペーンを行った新宿との違いでしょうか。

さすがは時代を先駆けて「キープ・クリーン/キープ・グリーン」を実践してきた表参道ともいえますが、全国どこでもこんなにスマートな外客誘致を進めることができるとは思えません。結局のところ、どれが正しいではなく、それぞれの街の土地柄に見合った手法を見つけていくことが大切なのだと思いました。
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by sanyo-kansatu | 2014-04-26 10:32 | “参与観察”日誌 | Comments(0)
2014年 03月 29日

28回 100年前の外客誘致はどうだった? 戦前期からいまに至るインバウンドの歴史の話

訪日外国人数1000万人達成や東京オリンピック開催の決定で、今年に入ってますますインバウンド振興の機運が盛り上がっています。ところで、日本の外客誘致は、いまから100年前に始まっていたことをご存知でしょうか。

思いがけない話かもしれませんが、日本の外客誘致には戦前期から継続的に取り組まれてきた歴史があります。今回はその歴史を通して、ニッポンのインバウンドの理解を深めてみたいと思います。
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いまでこそ「インバウンド」ということばや「訪日外国人の旺盛な消費への期待」から外客誘致の必要性に対する理解が広まってきましたが、歴史を振り返ると、日本の外客誘致はいまから100年前に始まっています。

それは、1912(明治45)年3月に当時の鉄道院によって設立されたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTBの前身)の活動によってスタートしました。今日の「観光立国」政策や外客誘致のためのプロモーション活動も、すでに戦前期にひな型があったのです。

JTB100年のあゆみ
http://www.jtbcorp.jp/jp/100th/history/

100年前の訪日外国人数は約2万人


設立当時のジャパン・ツーリスト・ビューローは、今日の日本を代表する旅行会社JTBとは実態がかなり異なるもので、むしろ現在の日本政府観光局(JNTO)に近い存在でした。

では、戦前期の外客誘致とはどんなものだったのでしょうか。

それを知るうえで格好の資料となるのが、ジャパン・ツーリスト・ビューローが発行した「ツーリスト」(1913年6月創刊)です。同誌は外客誘致の促進を目的に創刊された隔月刊の機関誌で、1943年まで発行されていました。

ところで、100年前の訪日外国人数はどのくらいの規模だったのでしょうか。同誌創刊号の「発刊之辭」ではこう述べられています。

「漫遊外客の来遊するもの年々二萬人内外を有し、其費す金額も一年大略一千三百萬圓を下らずと云ふに至りては、是を国家経済上より見るも亦決して軽々に看過すべからざる事實たらずんばあらず」。

1912(明治45)年当時の訪日外国人数は約2万人、外客による消費額は約1300万円でした。つまり、2013年に訪日外国人数が1000万人を超えたということは、この100年で市場が約500倍に拡大したことになります。

もちろん、当時といまではさまざまな面で大きく事情が違っていました。たとえば、当時の外客は基本的に客船で来日しています。戦前の資料をみると、1940年代(昭和10年代後半)になってようやく航空機による訪日外客が現れていますが、「500倍」という数的拡大は、いうまでもなく、本格的な航空機時代を迎えた戦後の輸送量の飛躍的増加があってこその話です。
.
※100年前の訪日外国人の状況については、中村の個人blog「100年前(1913年)の訪日外客数は2万人、消費額は1300万円」を参照。

アジア客より欧米客が圧倒的に多かった

旅客機の利用が現在ほど一般的ではなかった戦前期において、訪日外客は国際客船の寄港する港から入国していました。
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現在、横浜港に停泊する氷川丸(1930年竣工。北太平洋航路で運航した客船)

ツーリスト6号(1914年4月)の「大正2(1913)年中本邦渡来外人統計表」によると、当時の入国地としての以下の14の港が記されています。

横浜、神戸、大阪、長崎、函館、門司、下関、敦賀、小樽、七尾、青森、唐津、厳原(対馬)、室蘭。

統計表には、それぞれの港ごとに国籍別の入国者数が記載されています。入国者数のトップは横浜で、次いで神戸、長崎、下関、敦賀、門司、函館の順になっています。100年前の日本の玄関口は、成田や羽田ではなく、横浜や神戸でした。

さらに、この統計表によると、1913(大正2)年の訪日外客数は21886人。国籍別にみると、トップが支那(この時期は辛亥革命直後で「中国」という国家は存在しているとはいいがたい状況であったため、当時の中国大陸を指す一般的な呼称として「支那」が使われています)で7786人、次いで米国5077人、英国4123人、ロシア2755人、ドイツ1184人の順になっています。これら中米英露独のトップ5の占める数は圧倒的に高く、他の国々とは比較にならないほどでした。ちなみに、上位5か国の順位は、1926(大正15)年まで変わっていません。

今日と比べると国籍別比率の観点で大きく違うのは、アジア系旅客よりも欧米系旅客が多かったこと、なかでもロシア人の比率の高さが注目されます。

※当時の訪日外国人の国籍別数の詳細については、中村の個人blog「戦前期、外国人はどこから入国したのか?」を参照。

当時も日本のキラーコンテンツは温泉だった

では、100年前の訪日外客は日本のどこを訪ね、滞在を楽しんでいたのでしょうか。

ツーリスト3号(1913年10月)では、この年の7、8月「避暑地、温泉及び都会等に滞在せる外人旅客数」を国籍別に調査しています。同調査に挙げられた滞在地は以下のとおりです。

東京、横浜、鎌倉、熱海、伊東、修善寺、京都、神戸、宝塚、有馬、宮島、道後、別府、長崎、小浜、温泉(雲仙)、伊香保、草津、日光、中宮祠(中禅寺湖)、湯本(箱根)、鹽原(塩原)、松島、大沼公園、登別温泉

なかでも外客滞在数のトップは、日光で6256人。次いで鎌倉3368人、京都3008人、東京1738人、中宮祠1593人、横浜1127人、湯本1067人、小浜1039人、神戸878人、雲仙765人と続きます。
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1878(明治11)年創業の富士屋ホテル(箱根・宮ノ下)は日本人経営による初めての本格的外客向けホテル

当時の日本では、国内全域を短時間で移動できるような鉄道網や自動車道は発達していなかったので、滞在型の旅行形態が一般的でした。現在の東京・大阪5泊6日コースのような周遊旅行はありえませんでした。そのため、多くの外客は東京や京都といった大都市以外は、国内各地の温泉地や避暑地、また鎌倉や日光、宮島など主要な観光地の周辺に生まれつつあった外国人経営の洋式ホテルや日本式の温泉旅館に滞在していたようです。当時から日本のキラーコンテンツは温泉だったことがわかります。
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昭和7年の雲仙での滞在欧米客のパーティ風景

ここでちょっと興味深いのは、トップ10の中に長崎県の雲仙温泉が入っていることです。これは前述した横浜、神戸に次ぐ3番目の入国地が長崎だったことと関係しています。中国大陸と日本をつなぐ長崎・上海航路で訪日した上海租界在住の欧米人(なかでもロシア人の比率が高かったようです)が避暑のため、長崎に渡り、雲仙温泉に滞在したからです。いまではちょっと想像つかない話ですが、当時雲仙には多くの欧米客が滞在していた記録が残されています。

※当時の訪日外客の滞在事情については、中村の個人blog 「100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか?」を参照。

インバウンドのイロハは西欧から学んだ

もっとも、1912(明治45)年当時の日本には、海外から訪れる外国人客を受け入れるためのインフラが、ハード、ソフトの両面でほとんど整備されていませんでした。

そのため、「ツーリスト」誌においても、外客誘致のためには何が必要かを啓蒙するため、海外事情の紹介に努めています。

それらの海外レポートの多くを執筆しているのは、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事の生野圑六です。生野は鉄道院の役人で、のちに京浜電気鉄道社長になる人物ですが、ヨーロッパ諸国を中心に海外を視察し、各国の外客誘致の現状について報告しています。彼は日本のインバウンド黎明期に最も積極的に啓蒙活動に取り組んだ論客です。

生野がシベリア鉄道経由でヨーロッパ視察に出かけたのは、1912年6月末から9月末にかけてです。ベルリンで開催された国際旅客交通会議に出席するためでした。

「欧州各国に於ける外客誘致に関する施設」(ツーリスト創刊号(1913年6月))という報告の中で、彼はヨーロッパで見聞した多くのことに驚き、感心しています。以下、ポイントを整理してみます。

①当時のスイスではすでに外客受入態勢が完備していたこと

「瑞西は何度参りましても實に心地善い處であります。外客に対する遊覧設備の完備せること、案内上の用意の行届いていること、廣告印刷物等の豊富なること、山水風光明媚なると共に、隅々まで清潔なること、停車場などに長さ数間の大写真などが掲げてあること、ホテルの空室の有無を停車場内に掲示する設備などもあること」。

「外客に対する遊覧設備の完備」もそうですが、彼は何より外客の「案内上の用意の行届いていること」に感心しています。

②ヨーロッパでは国境を越えたドライブ旅行が始まっていたこと

「近時欧米に於ける自動車の発達は非常なもので、従て自動車で自国内のみならず、外国に旅行に出掛ける者は甚だ多いのであります。此道路の如きもツーリストを招致するのが目的であります。鉄道会社も夏期は乗合自動車を運転して、一定の賃金を以て旅客の需に応じております。吾国に於いても将来或地方には、自動車道路を設けることなども一の問題であろうと思ひます」。

これはフランスのエビアンからニースまでモンブラン山脈を横断する約700㎞の自動車専用道路を視察したことに対する感想ですが、日本では戦後を待たなくてはならなかった本格的なモータリゼーションによる観光市場の促進が、ヨーロッパではすでに戦前期から始まっていたことがわかります。

③パリには観光客を惹きつけるさまざまなインフラが充実していたこと

「巴里には其近郊に風光明媚なる處や、名所旧蹟が沢山ありますが、外客を惹付けるには寧ろ人工的設備、或は人為的方法が興つて力あることと思ひます。即美術博物館の完備せる、公園の大規模なる、市内交通機関の便利なる、市街の美観を保つが為に用意周到なる、皆之であります。暇令ば、公設建造物、廣場、凱旋門、スタチュー、橋梁等一として美術的ならざるはなく、電柱などは一本もなく、電車も高架式は許されて居ません。ホテルの設備は完全にして、而も比較的低廉である。劇場には国立竝に準国立とも称すべきものも四ヶ所を始め、多数あり、名優少なからず、他の諸国に於いては夏時は大劇場は休業する例なるに、巴里は無休で、料理や葡萄酒は廉価にして、而も美味である。尚巴里人はコスモポリタンで、外国人を外国人扱ひせず、吾々の如き異人種でも、白人同様に扱ふ等、其他外国人の為に特に利便を計っていることは、列挙すれば沢山あることと思ひます。之等のことは必ずしも吾国に於いて総て模倣すべきでもないが、又中には大に学ぶべきことがあると思ひます」。

ほとんど手放しの称賛ぶりですが、これが100年前の日本人の正直な実感だったと思われます。

④ヨーロッパでは新聞広告による外客誘致が広く行われていたこと

「(ヨーロッパ各地で発行される英国のデーリーメール新聞は)英米人の大陸旅行者に中々よく読まるるのでありますが、此新聞社は倫敦竝に巴里の中心に、立派なる案内所を持っておりまして、欧州のみならず世界各国の鉄道、汽船、ツーリスト・ビューロー、ホテル等は固より、静養地、遊覧地、シーズン、遊覧設備、自動車旅行、飛行、学校、貸家、貸別荘等に関する報告を與ふること」。

この視察を通して生野が得た最大の収穫は、外客誘致のために宣伝媒体(メディア)がいかに効果的であるかを知ったことでした。今日の日本では当たり前になっている海外に対する訪日プロモーションは、100年前に学んだものだったのです。

生野は帰国後、「ツーリスト」誌において繰り返し外客誘致のための広報機関の運営や宣伝方法、案内所の設立、ツーリスト業者の組織のあり方などを提言しています。それらの報告は、この時期ニッポンのインバウンドが、西欧をモデルに一から形成されていった過程が生々しく伝わってくる内容となっています。

※生野圑六の海外レポートについては、中村の個人blog「100年前、日本は欧州から外客誘致のイロハをこうして学んだ」、「大正期にスイスから学んだ観光宣伝のさまざまな手法」を参照。

外客誘致の目的はいまも昔も変わらない

100年前の日本は、日露戦争に勝利し、世界デビューを果たしたばかりでした。しかし、国民経済は西欧諸国に比べるとまだ貧しく、彼らから学ぶべきことが山のようにありました。

そもそも当時の外客誘致の目的は何だったのでしょうか。

ツーリスト創刊号(1913年6月刊)の巻頭には、「ジャパン、ツーリスト、ビューロー設立趣旨」なる以下の文章(一部抜粋)が寄せられています。

「日本郵船会社、南満州鉄道会社、東洋汽船会社、帝国ホテル及我鉄道院の有志聯合の上『ツーリスト、ビューロー』を設立せんことを期し、諸君の御会合を請ひたるに、斯く多数其趣旨を賛成して、御参集を辱ふしたるは、我々発起人一同の感謝とするところである。抑も漫遊外客は、我日本の現状に照らし、各種の方面より大いにこれを勧誘奨励すべきは、今更贅言を要せない次第である、外債の金利支払及出入貿易の近況に対し、正貨出入の均衡を得せしめんが為め、外人の内地消費を多からしむるに努め、又内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め、国家経済上の見地より、外国漫遊旅客の発達を促すは、刻下焦眉の急たること申す迄もなく、更に一方により考ふれば、東西交通の利便開け、東西両洋の接触日に頻繁を加ふるの際、我国情を洽く海外に紹介し、遠来の外客を好遇して国交の円満を期すべきは、国民外交上忽にすべからざる要点である」。

ここでは、当時の外客誘致を提唱する基本的な考え方として、以下の3つの目的を挙げています。

①「外人の内地消費」
②「内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め」
③「遠来の外客を好遇して国交の円満を期す」

①「外人の内地消費」とは、文字通り「訪日外国人の消費による経済効果」のことです。まだ貧しかった当時の日本にとって、国際客船に乗って訪日する富裕な欧米客の消費力に対する期待は今日以上に高かったことでしょう。

興味深いのは、②「内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め」です。これは、そもそも外客誘致の目的は、日本滞在中多くの外客に国内産品を消費してもらうためだけではなく、その良さを広く知ってもらうことにあるという輸出立国的な認識です。インバウンド促進の目的をツーリズム産業内の市場拡大や地域振興とみなすだけでなく、それを輸出産業につなげてこそ意味があるという論点は、すでに戦前期からあったことがわかります。むしろ、「訪日外国人の旺盛な消費への期待」ばかりが語られがちな今日よりも、当時のほうが物事の本質が明確に意識されていたようにも思います。

③「遠来の外客を好遇して国交の円満を期す」は、外客誘致の目的は国際親善にあるという認識です。

「ツーリスト」誌上では、その後、外客誘致に対する「経済効果」論争が繰り広げられます。外客による消費を重視する立場と、国際親善こそ重要で経済効果は二義的なものだという主張に分かれるのです。後者の主張が生まれた背景には、1914年に始まった第一次世界大戦で戦場となったヨーロッパ諸国からの訪日旅行者が減ったことや、その後の長い日中対立がありました。

たとえば、ツーリスト10号(1914年12月)では、「(第一次世界大戦で)欧州方面に失ひたるものを米国方面に補ひ」(「時局と外客誘致策」)というようなヨーロッパに代わる外客誘致先としての米国への取り込みを促す論考。またツーリスト26号(1917年7月)では、「日支两国民間に繙れる空気を一新し、彼の眠れる友情を覚醒し以て日支親善の楔子(くさび)たらん事を期す」(「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」と、悪化する当時の日中関係を中国人の訪日誘致によって相互理解を深め、改善しようと提言しています。国際情勢がいかに外客誘致に影響していたかがわかる話ですが、今日においてもそれが同様であることは、ここ数年の近隣諸国との関係悪化で私たちもあらためて理解したばかりです。

こうしてみると、戦前期の外客誘致の目的や課題は、今日となんら変わらないものであることがわかります。現在の日本政府観光局や観光庁が主導する官民挙げたインバウンドの取り組みは、すでに100年前に企画され、実施されてきた事業だったのです。
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1935(昭和10)年に開業した雲仙観光ホテル

その後、昭和に入り、ニッポンのインバウンドは進展を見せます。国策として全国各地に外客のためのホテル建設が積極的に進められました。日本の名立たるクラシックホテルの多くはこの時期建てられたものです

しかし、時局は戦時体制に向かい、結局のところ、外客誘致どころではなく、敗戦を迎えます。それでも、戦後の混乱期を抜けると、再び外客誘致が始まります。その契機となったのが、1964年の東京オリンピックでした。

そして、いま私たちは2020年開催予定の東京オリンピックをひとつの目標として見据え、インバウンド促進を進めています。こうして歴史を振り返ると、日本はすでに外客誘致に関してそれなりの経験を積み重ねてきたことを知ると同時に、いいことも悪いことも含め、これから先も似通った経験をしていくことになるのだろう、という気がします。

それだけに、過去の歴史には、今日から見ても学べる多くの知見があります。今後は、ツーリスト創刊号で提唱された外客誘致の目的のうち、②や③の視点がより重要になってくると思います。すなはち、外客の消費を期待するだけでなく、それを日本のものづくりと直結させていく動きを促進させる必要。さらに、近隣諸国との関係も含め、訪日旅行プロモーションをいかに国際親善につなげていくかという点でしょう。

大正期に一から始まった日本の外客誘致の取り組みを知り、先人の思いや心意気を思うと、その尽力を断絶することなく、きちんと受け継いでいく必要がある。そんな殊勝な気持ちになったものです。

※やまとごころ.jp 28回 100年前の外客誘致はどうだった? 戦前期からいまに至るインバウンドの歴史の話

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by sanyo-kansatu | 2014-03-29 12:33 | やまとごころ.jp コラム | Comments(0)
2014年 03月 28日

第1回「ジャパン・ショッピング・フェスティバル(JSF)」報告会にて

2013年12月1日~2014年2月28日にかけて、東京、大阪、福岡の約200を超える小売施設が参加した「ジャパン・ショッピング・フェスティバル(JSF)」が開催されました。主催は、一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会 Japan Shopping Tourism Organization(略称JSTO)と観光庁。JSTOはショッピングを通して日本の魅力を海外にPRするため、2013年9月に設立された組織です。今回は、2013-14年冬に実施された第1回JSFの報告会で語られた関係者の取り組みを紹介します。

日時 3月12日(水)15:00~17:00
会場 JAビル(大手町)
主催 一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)

●プログラム1:2013-14冬 ジャパン・ショッピング・フェスティバル(JSF)報告
新津研一JSTO専務理事(株式会社USPジャパン代表取締役社長)

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第1回JSFでは、海外PRのための公式サイト「GoJSF-Japan Shopping Festival」を昨年10月25日開設しました。今回JSFに参加したのは、東京、大阪、福岡の230施設。ショッピングセンターや量販店、専門店、百貨店、ディスカウントストア、アウトレットモールなど、業態はさまざまです。同サイトは4言語(英語、中国語(繁体字、簡体字)、韓国語)対応で、参加店舗の情報がインデックスされ、各店から限定品情報やイベント情報、セール情報が発信されました。
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GoJSF-Japan Shopping Festival
http://www.gojsf.com/

さらに、公式Facebook や協力企業を通じた海外PRも展開しました。Facebookの国別「いいね!」数では、7万人のアクセスの半数以上をタイが占めるという興味深い結果も出ました。とはいえ、ようやく海外PRのためのプラットフォームができたというのが実情で、JSFが海外で十分認知されたという状況には至っていません。

国内では、各地の参加施設が告知ポスターやフライヤーを使ってPRしました。ただし、日本旅行やデジタルカメラが当たる抽選キャンペーン「ジャパンプライズ」の応募者数が予想を下回ったなど、いくつかの課題も指摘されました。

●プログラム2
各商業施設の取り組み事例


春節の販売強化策
京王百貨店 代田怜子氏


京王百貨店では、今年の春節(1月24日~2月13日)の免税売上実績は対前年の約2倍となりました。国別でみると、1位は台湾、2位が中国ですが、ここ数ヵ月、中国のシェアが伸びています。

同店では、春節期間中、外国人向けの5%割引クーポンやお買上プレゼントを告知した「ウェルカムボード」の設置は店内誘導につながり割引クーポンによる売上は対前年8.5倍と大きな効果をもたらしました。さらに「春節福袋」を企画しましたが、事前告知不足や内容の見直しが改善点として挙げられるものの、福袋を紹介するペラの配布による掲載店舗への誘導は成果を挙げました。

東京メトロ1日乗車券の販売と割引キャンペーン
ビックカメラ 田熊力也氏


ビックカメラでは、春節期間中、免税売上が全売上の2桁の比率になりました。同店では、新しい取り組みとして英語、中国語(繁体字、簡体字)、韓国語、タイ語、インドネシア語の多言語Facebookで商品情報を配信。カメラ好き社員の多い同社ならではの販促品として、社員が撮影したオリジナル写真のポストカードを外国客に渡したり、東京メトロと連携して1日乗車券を販売したうえ、乗車券を店頭で提示することで8%割引のキャンペーンを実施するなど、ユニークな販促を展開しました。
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海外店を活用した取り組み
三越伊勢丹ホールディングス 堀井大輔氏


三越伊勢丹ホールディングスでは、海外、国内、社内の3つの取り組みを実施しています。

同グループは海外5カ国、27店舗を展開していることから、現地で発行しているカード会員に対する訪日旅行時の優待サービスとしてクーポン券を発行しました。また国内では、新宿エリアでの他の商業施設と連携した共同キャンペーンを行いました。同じ志を持った異業種の方と話し合いの場を持てたことが収穫でした。
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社内の取り組みとしては、店舗での外客受入の強化策として、対応言語別のバッジを胸に付け、外国語のサポート体制を構築しました。春節前に社内WEBで外客受入のための勉強会をしたことが、現場のスタッフのモチベーションアップにつながりました。
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Tokyo Grand Shopping Week
原宿表参道欅会 中島圭一氏

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原宿表参道欅会では、春節期間中(1月23日~2月5日)、Tokyo Grand Shopping Weekを開催しました。昨年同時期にも、Tokyo Fan Weekを開催していますが、今年のイベントはよりショッピングのイメージを重視して名称を変更したものです。

表参道ヒルズ、ラフォーレ原宿、東急プラザなど、表参道原宿の施設テナントやキデイランドなどの個店約240店舗が参加し、バーゲンセールやお土産企画、レストラン・ウィークなどのコンテンツを実施しました。また期間中、1000円以上お買い求めの外国客に店頭でのスクラッチ抽選キャンペーンを企画しました。

同会では、3~4年前からインバウンドに対する取り組みを始めています。多くの商業施設を取りまとめるため、毎月2回会議を開き、現場担当者らによる意見交換を行っていることが、今回のイベントの大きな推進力となっています。

●プログラム3:2014年夏キャンペーンに向けて
新津研一JSTO専務理事(株式会社USPジャパン代表取締役社長)


今年7月1日~8月31日にかけて夏のキャンペーンを実施します。

この冬のキャンペーンの課題をふまえ、運営方法を見直し、プロモーションの魅力度アップのために、海外PRの発信スケジュールを早期提示することに努めます。我々にとっての課題として何より挙げられるのが、日本には海外向けのショッピングのポータルサイトがない、ということに尽きます。このサイトをポータルに育てていく必要があります。

さらに次回は、これまで参加していなかった北海道や中京エリアの小売店、一部のドラッグストア、専門店などの参加者を拡大していきます。

一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)
東京都港区西新橋3-6-2 西新橋企画ビルディング3階
http://www.jsto.or.jp

<取材後記>
報告会の冒頭で、新津研一JSTO専務理事は「日本の魅力はショッピングに集約されている。ショッピングこそ、日本旅行の楽しいコンテンツである。ところが、海外ではそれが十分認知されていない。JSFは、日本の魅力を海外に広くPRするために、オールジャパンで取り組んでいく取り組みだ」といいます。

昨年秋、一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)が設立するというニュースを耳にしたとき、最初に思ったのは、このプロジェクトにモデルはあるのだろうか? ということでした。

たとえば、かつてバーゲンシーズンには日本人も大挙して押しかけた香港。なぜ多くの日本人は香港に買い物に出かけたのか? 確かに、香港政府観光局のプロモーションは当時から洗練されていましたが、それ以上に雑誌メディアなどが豊富な現地情報を提供していて、お目当ての商品を最初から目がけて香港に足を運ぶ人が多かったように思います。おいしい香港料理が食べられることもお楽しみとして。

こうしてみると、海外の旅行者というのは、限りなくピンポイント情報を求めているのでは……。要するに、バーゲン情報の具体的な中身。そんな身も蓋もないことを思わないではありません。

もっとも、関係者の語るように、いまはまだこのプロジェクトはスタートラインに立ったばかり。今年の春節は、大幅回復した中国本土客によって一部の小売店や百貨店に売上増をもたらしたのは事実です。ただし、それは多くの場合、関係者らの長い試行錯誤や努力の積み重ねがあったということは、今回の事例報告でよくわかりました。

今回の報告会では、現場で外客による売上効果を手応えとして実感している小売関係者の生の声を聞けたことに意味がありました。本来ライバルである方たちが、お互いの経験や知見を惜しみなく公開する場がこうして設けられたことにこそ、JSTO設立のひとつの意義があると思いました。

※九州在住の帆足千恵さんがやまとごころ.jpでJSFの九州での様子を報告しています。
訪日旅行者1000万人時代にショッピングツーリズムの果たす役割は何か?
http://www.yamatogokoro.jp/column/2014/column_147.html
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by sanyo-kansatu | 2014-03-28 08:52 | 東京インバウンド・スポット | Comments(0)
2014年 03月 15日

ニッポンの観光地は外客の存在を意識して大正期に近代化された

外国人観光客の増加は、国内の観光地にいろんな影響を与えます。その端緒となったのが、1912年のジャパンツーリストビューローの設立を機に、国として外客誘致を始めたことにありますが、それから5年後。国内外の旅客が著しく増加したことが、「遊覧地に對する提案」(ツーリスト28号(1917年11月))という論考の中で述べられています。

ビューローきっての論客、生野圑六はこんな風に書いています。

「斯く旅客増加の原因は勿論交通機関の発達、商工業の隆盛、国民経済の好況其他種々なる理由に基く事でもあらうが、近来我が國民間に健全なる旅行趣味が著しく普及され来たつた事も其主なる理由の一として挙げなければならぬ。殊に今年の夏の如き登山旺盛熱を極め、富士、日本アルプス、木曽御嶽等の登襻者激増し、之が為め中央線の各列車は登山期中殆ど連日白衣の登山者を以て満たされてあつた。而して如上の旅客を呑吐する新宿飯田町两驛に於ける七八月中乗客は九十二萬五千餘名にも達し、昨年の同期に比し實に十六萬八千名の増加であつた」

この記述から、大正期に入ると、近代交通を利用した登山などのレジャーの大衆化が日本で始まったことがうかがえます。当時の登山者はお遍路みたいに白装束だったのですね。こうしたレジャーブームは内地だけ話ではありませんでした。どういうことでしょう。

「従って是等旅客を吸収する地方遊覧地温泉等に於てもこの夏は未曽有の好景気を示し、相当信用ある旅館の如き悉く満員にして一、二週間前豫約し置くにあらざれば到底其客室も得難き有様であつた。単に其は我が内地ばかりではなく満洲に於ても青島に於ても同様であった。外人避暑客も亦日光箱根鎌倉輕井澤温泉(うんぜん)等に避暑せる以外北海道に或は山陰北陸に涼を趁ふて赴けるもの不尠、我が國に於ける主要遊覧地に就き調査せる所に由れば其夏期滞在外人數は昨年に比し今年は約三割の増加であった」

この時期、日本の周縁に「外地」という植民地空間が広がりつつあり、多くの日本人が海外に足を運び始めました。一方、外国人も全国各地の観光地に繰り出していました。おそらく日本の歴史上、これほど多くの人々が一斉にレジャーに出かけるという光景は初めてのことだったに違いありません。

ところが、こうした盛況にもかかわらず、生野はこう言っています。

「我が國民間に旅行趣味の普及され来つた事、實に斯くの如くであるが、一方是等旅客を歓迎収容す可き遊覧地は現在果たして之に對應する丈の進歩発達をなしたであろうか、はた又設備施設を有するであろうか」

そして、「遊覧地に對する提案」として以下の6つを挙げるのです。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事
ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事
ハ)簡易図書館を設くる事
ニ)物産陳列館を設くる事
ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと
ヘ)戦利品陳列に對する注意

以下、簡単に説明しましょう。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事

「各遊覧地に案内所を設くる事は先づ第一に必要である。欧米の各遊覧地には大抵案内所があつて該遊覧地竝附近の見物散歩に関するインフォメーションを與ふるは勿論、旅館貸家貸室の斡旋をなし、遊覧地の地図や案内書などを無代で配布している。我が國でも已に道後温泉大原海水浴場其他二三のところでは温泉事務所や旅館組合で夫夫斡旋しているやうであるが、是非之は一般遊覧地にも普及さしたい」

まずは観光案内所の設置。これが外客受入の第一歩というわけです。現在どんな小さな町にもある案内所は、この時期に広まっていったのですね。

ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事

「遊覧客誘致上案内記の必要且有効な事は本誌に於ても屡々繰り返し唱道している次第であるが、猶未だ充分とは謂はれぬ。尤も長崎県温泉(うんぜん)の如き懸賞を以て英文露文案内を発行し、別府箱根の如きも町やホテルで英文案内を発行して遠く海外に迄配布しているが、相当名ある遊覧地で未だ案内記を持たぬ所が澤山ある」

国内の一部先進的な観光地では、すでに英文の観光案内書が用意されていました。生野はその内容についてこんなことを書いています。

「案内記の発行といっても多額の費用を投ずる必要は毫もない。半紙一枚乃至二枚大の洋紙に表面に簡単なスケッチマップでも印刷し裏面に交通状態遊覧箇所旅館車馬料金其他を掲載して置けば事たることである。温泉ならば其泉質温度効能入浴上の心得などを記す可きは謂ふまでもない」

内容は簡単でよいが、旅行者にとって必要な情報に絞り込むべし、とのこと。また配布場所や費用の捻出法など細かい提案をしています。

「而して是等は各旅館又は前述の案内所に供へ置き宿泊者に之を與ふる以外、各主要地の旅館或は停車場に配布して旅客誘致の具と為さば一層効果ある事と信ずる。其費用に関しては旅館組合の出資或は町村費を以て作製する事」

さらに、外客誘致のための具体的な提案もあります。

「差当り東洋在住外人竝露人浴客誘致の為め英露文案内記を発行し関係各方面に配布するなど最も時宜に適した遣り方であらう。若し出来得るならば箱根温泉(うんぜん)別府有馬伊香保等少くも外人浴客を収容し得る設備を有する温泉場が共同して相当出資の上、外国文温泉案内乃至ポスターを発行し、更に進んで海外の新聞雑誌へ浴客歓迎の聯合廣告を出す様な方法を取る迄に奮発して貰ひたい」

ハ)簡易図書館を設くる事

「簡易図書館乃至巡回文庫の設置は遊覧客の為めにもなれば又其町村の為めにもなる」「場所は特殊の建物を有せざる遊覧地に於ては学校の一隅乃至物産陳列館の一部或は倶楽部の一部を利用するも可」

スイスでの視察を通し、欧米のリゾート客たちがホテルのカフェなどで読書する姿を見ていたであろう生野は、観光地に簡易図書館が必要であることを提案しています。そこにどんな本を置けばいいかについてもこう言っています。

「而して緃覧せしむ可き書冊は一般娯楽的のものも必要であるが、主として其土地の地理歴史に関したもの、竝に寫眞帖絵葉書地図等附近遊覧の参考となるものを網羅したい。出来るならば参考室を置き其土地の素封家に依頼し所蔵美術品の出品を乞ふとか或は其土地特有の動植物鉱石類の標本、漁具農具等を陳列するとか温泉地ならば其鉱泉の分析表其他各種統計表を掲出し一見して其土地の状況を知り得る様であれば甚だ興味あり且有益であらうと信じる。出品物にはローマ字若しくは英語を以て簡単な説明を附し外人でも利用し得る様にする事」

ニ)物産陳列館を設くる事

図書館に加え、「其土地竝附近の特産物を陳列して一般遊覧客の観覧に供する」物産陳列館も設けるべきだとの提案です。その理由はこうです。

「これがあれば客が散歩の序でに見物し、一瞥して其土地の商況を知る事も出来、又容易に土産物の調達も出来る。一方から見れば又之に由て多少地方商業の改良発達を促す事が出来やふと思ふ。又此処に各商店の廣告を美術的に綜合して掲示し置く事なども有利な廣告法であらう。但しこの陳列所の出品物には必ず算用数字で正札を附け置く事」

ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと

「遊覧地に於ける旅客の足止め策として遊覧的設備娯楽機関の必要なるは謂ふ迄もない事である。海外の遊覧地に於ては有名な山岳には登山鉄道架空索道の設備があり又湖上には遊覧船を浮かべ、大抵の所にはゴルフ、テニス、ベースボール、クリケット等運動遊戯に関する設備があって長期滞在客と雖毫も倦む事がない」

今日当たり前に存在する観光地の娯楽設備やスポーツ施設などの設置もこの時期に企画されたことがわかります。

ヘ)戦利品陳列に對する注意

最後の提案は、いかにも100年前の日本人の精神状況を物語っているといえるものです。生野はこう書いています。

「我が國は日清日露の二大戦役を経、近くは青島戦に大勝を得た結果、戦利品豊富にして国内至る所に行亘り少しく著名なる神社公園其他公開の場所に於て殆ど其陳列を見ざるなしといふ有様である。是れは我が先輩の武勇を顕彰し、國民に尚武的精神を涵養せしむる上に甚だ有益な事ではあるが、公園遊覧地等に於てはこれあるが為めに屡々其の風致を害し感興を殺ぎ、殊に外人観光客に不快を感ぜしむる事決して尠なくない」

中国遼寧省の旅順への訪問が外国人に開放された2010年、ぼくはその地を取材で訪れたことがあります。日露戦争の激戦区だった旅順は、すでに中国の町となっていましたが、戦前期の旅順に関する資料や地図などを読むと、当時の旅順のあちこちに、乃木将軍に関連する記念碑やさまざまな「戦利品陳列」物が並べられていたことを知りました。同じことは、日本国内でも起きていたのです。たとえばこうです。

「例へば陸中中尊寺の寶庫には古色掬す可き宋代の名畫がアノ有名な一時金輪佛や舎利寶塔と共に澤山陳列されてある。然るに其名畫の下に日露戦役戦利品たる不格好な錆び果てた小銃其他の戦利品が置かれてある為め兎角の名畫も引立たず観覧者の興趣を殺ぐ事甚しい。又鎌倉八幡宮境内の老梅の下に日露戦役記念たる巨砲が据付けられてあるが、アレなども確かに境内の風致を減殺しているものである。嘗て露国の観光団が来朝した時、某陳列館を見物し、偶ま日露戦役記念品を陳列しある一室に至るや、何れも申合わした如く頭痛と称し早々にして立ち去ったといふ話もある」

生野はこの状況に対して、以下のように述べています。

「斯くの如きは彼等に徒に敵愾心を起こさしむるもので国際的倩誼よりするも恰もミリタリズムを標榜するが如くで甚だ穏かならぬ事であると思ふ。殊に最近露国人竝支那人旅客の増加せる折柄一層本問題に對し注意を佛ふ事が肝要である。余の理想を謂へば公園遊覧地等の如き場所より是等戦利品を撤去し第二の國民を養成する学校内の一部に陳列するか或は特に神社の一部の如き場所にでも纏めて陳列する様にしたい」

生野の提案は、当時の日本人がほとんど気づいていなかった外客の目線を意識した具体的な内容でした。今日その多くの提案は実現していますが、我々が学ぶべきは彼の外客に対する細やかなまなざしというべきでしょう。

ニッポンの観光地は、こうして外客の存在を意識して大正期に近代化されていったのです。もし生野が今日生きていたら、我々にもたくさんの注文がつけられるかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-15 11:02 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 13日

今日同様、戦前期も中国の反日プロパガンダへの対応が課題だった

戦前期の日本の外客誘致において克服すべき課題は山のようにありました。何より外国人を快く受け入れ、もてなすためのインフラは、ハード、ソフトともに十分に整備されていませんでした。それに加えて、当時のインバウンド推進論者にとって大きな懸念となっていたのが、「米國及び支那に於ける排日の気勢」でした。

その懸念は、早くも第一次世界大戦が終了する1910年代後半には強く意識されていました。ツーリスト40号(1919年11月)の「時事雑感」の中で生野圑六はこう書き出しています。

「米國及び支那に於ける排日の気勢は数年来毫も緩和されぬやうであるが、外人新聞などの報道に由ると是等排日運動の主唱者は大部分嘗て我が國に留学若しくは来遊した人達であるとの事である。勿論是には種々理由もあることであらうが、要するに何れも我が國滞在中あまり温かならざる待遇を受け、充分我が國情を諒解するに至らなかった人達であることだけは容易に想像せられる。由来日支親善、日米親厚なる語は久しき以前より已に幾回となく繰返されているのであるが、其の聲の徒らに大なるのみで其実績は一向挙らぬやうに感ぜられる」。

あらためて日中関係の難しさと根の深さを感じざるを得ません。気になるのは、当時の「排日の気勢」が中国だけでなく、アメリカにも起きていたことでしょう。当時のアメリカにはアジア系移民を排斥するムードがあり、それが1924年のいわゆる「排日移民法」の制定につながっていきます。こうしたアメリカの姿勢は当時の日本人に大きな衝撃を与えたといわれます。

同時代人であった生野は、米中両国において「排日の気勢」が生まれた背景として外客誘致を進める立場から2つの理由を挙げています。

ひとつは「我が國に於ける来遊米国人や支那人に対する待遇依然として発達せず」という外客に対する受入態勢の問題。2点目が「我が國には目下列強が盛んに利用しつつあるが如き有力なる対外的プロパガンダの機関を有せざる結果事毎に誤解猜疑を招く事多く、今回の講和会議等に於いても相手国に我が國情を充分判って居らぬところ」だというのです。

特に後者の例として、「英国の小学教科書に日本の貴婦人として煙管片手に立膝したる婦人が麗々しく掲げられ、米国の小学教科書にも日本人の代表として徳川時代の最も下劣なるものを挙げている」と指摘し、「蓋し外人の我が國情に通ぜざるは我々の想像以上」と書いています。さらに1919年3月、日本併合下の朝鮮半島で起きた三一運動時におけるアメリカの「現時の十字磔」という虚偽報道についてこう書いています。

「これは当時我が國新聞紙にも傳へられたる如く今夏朝鮮に暴動の起こりたる折、米國の一宗教雑誌が韓国政府時代の軍隊が同國罪人を死刑に處ひつつある寫眞を掲げて之を『現時の十字磔』と題し日本軍隊が朝鮮の耶蘇教徒を死刑に處する圖なりと説明したのである。勿論邦人には一見して直ちに其日本兵にあらざるを識別し得るのであるが、不幸にして我が國の事情に疎き米人には其虚偽の事実なるを解し得ぬのである。爾後『日本軍隊の朝鮮人虐殺』として同写真は同國のあらゆる新聞雑誌に掲載せられ、しかも斯くの如き虚偽の事実が米国に於て排日気勢を煽る原因となりつつあるのである」。

なんだか近年のもろもろの騒動に似た話のようにも思えてきますね。

そして彼はこう主張します。

「実際、國と國との関係は畢竟するに國民と國民との関係に外ならぬ故、國家相互の親善を計らんと欲せば先づ其根本に遡って彼我國民の完全なる諒解を得る方法を講ずることが最も肝要にして又最も捷徑なるは謂ふまでもない」「玆に於て我が國情宣傳機関の必要が愈々痛切に感ぜられるのである」。

これらの記述を読んでいると、戦前期において反日プロパガンダへの対応がいかに大きな課題だったかわかってきます。それゆえ、海外の反日キャンペーンに国として対応する宣伝機関が必要だと生野は考えたのでした。

「然乍ら一方対日誤解より生ずる國家的損失の點より考ふれば之(生野のいう國情宣傳機関)に要する費用の如きは眞に微々たるものであるまいか。余は若し出来得るならば適当なる対外プロパガンダの機関の設立を見ざる限り各方面よりの後援と物質的援助を得て我がツーリストビューローの機関をして今後益々是等の方面にも活動せしめたいと思ふ。就中刻下の急務たる日米、日支の親善促進に就ては最善を盡して其の実現を期したい」。

そのためにできることとして、本来外客誘致のための広報機関であるジャパンツーリストビューローを日本の対外宣伝のために活用すべきである、というのが彼の発想でした。

生野の当時の認識は、今日においても通じるものだと思わざるを得ません。なぜなら、残念なことに、当時と同様、今日においても近隣諸国からの「反日キャンペーン」は後を絶たないからです。

生野は「来遊米国人や支那人」に対する受入態勢の改善についても、次のように述べています。

「又かの支那に於ける排日運動の如きも、其一因は世に傳へられる如く或は某國の煽動政策に由るかも知れぬが、我が國民自身亦自ら考慮し反省せねばならぬ點も尠くない。先日余は支那の一有力者より所謂『中日親善』に関する意見を聞いたが、同氏は『支那人が日本にありて最も不満足に感じていることは支那人を頭から軽蔑することである。それは日本人の無意識な行為かも知れぬが我々から見て非常に傲慢に感ぜられる。殊に留学生に対する差別的待遇に至っては一層反感を煽るものがある。例へば下宿屋にありても女中は不親切で主人は冷酷である。貸家を求めても支那人と見ると高値をふく、道を歩いては子供にまで馬鹿にされる、まるで只苦しめられる為に来たやうなものである。是等の問題は勿論今は些細なことかも知れぬが支那人は決して其軽蔑せられた事を忘れぬ國民である。将来に於ける影響は決して単純なものではないと思ふ』云々と語ったが、是等は大いに反省すべきことである」。

こうなってくると、受入態勢以前の心がまえの問題といえます。ただ当時、本当にそこまで中国人蔑視の風潮が日本社会に広まっていたかについては一概にいえない気もします。なぜなら中国文明に対する憧れや親しみは、当時の日本人の意識の中にも普通にあったと思うからです。ありうるのは、当時も在留外国人中最大数を占めた中国人の内訳は、3割が商人、2割が留学生。そして残りの半数は「他の在留外人に比し比較的賤業に従事し居るもの多きを以て或は邦人の蔑視を買ふに至るの傾向あり」(ツーリスト26号(1917年7月)で生野が書いた論考「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」)という背景があったのではないかと思われます。

ところが、当時もいまも、ビジネスマンや留学生などの高い階層に属する中国人というのはどうも「残りの半数」の存在抜きで自らの民族的優秀さを外国人に認めさせたいという気持ちが強いようです。その姿は反面、とても身勝手に映るものです。

要は日本側の国民レベルの無意識の応対も、受け取る側の認識によって印象は大きく変わるということではないでしょうか。というのも、日中関係が最も良好といわれた1990年代前半ですら、日本にいた一部の中国人留学生の中に同じようなこと(要は日本に対する不満です)を主張した人たちがいたことを思い出すからです。彼らは改革開放後に出国した「新華僑」と呼ばれた人たちで、ぼくと同世代でした。彼らは自ら抱えるエリート意識と日本での自分の境遇の落差を受け入れがたく感じているようでした。自分たちはもっと日本社会で評価されていいはずだ、という思いを募らせていたのです。ぼくには彼らがそれに足るものを持っていたかどうかわかりませんでしたから、中国人というのは難儀な人たちだなあと感じました。彼らは、その後アメリカに渡っていきました。そう、このタイプ、結局アメリカに向かうケースが多いんです(どうやら戦前もそうだったようです。生野は日本留学中に不満をため込んだ華人たちがアメリカに渡って「排日の気勢」を焚きつけていると指摘していますが、こういうことは現在も起きていないとはいえません)。

そのとき彼らの話を聞きながら思ったのは、20世紀初頭の「半植民地化」状態にあった中国と、生まれつき肥大化した彼らの民族的な自意識とのギャップから、その耐えがたい苛立ちの矛先が日本に向かいやすいという心理は、現代においても形を変えて起こりうるのだなという発見でした。それはとても残念で理不尽なことに思いましたけれど、いまこうして顕在化してきたわけです。

ツーリスト誌を読んでいると、100年前と今日の相似的な状況がいろいろ見えてきて、気が滅入りそうになります。しかし、かつて「排日の気勢」への対応をおろそかにしたことが、その後の時局の悪化につながったという歴史は知っておくべきだと思います。

日本を政敵とみなして声を荒げて非難する彼らの「紅衛兵」スタイルに真っ向から挑むのではなく、観光の語源とされる「観国之光,利用賓于王(国の光を観る。用て王に賓たるに利し)」に即して「国の光を観せる」ことでたおやかに対応していくことは、いまの時代にこそ求められているひとつのやり方だと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-13 16:23 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 11日

インバウンドには戦争の影響が避けられない非情な面もある(時局と外客誘致策)

「今次の欧州戦乱が我がツーリスト事業の上に、現在如何なる程度迄影響を及ぼしつつあるかは、未だ正確なる調査材料を得ざるを以て、竝に数字的方面より明言し得ざるを遺憾とするも、本年八月(其後の分は未だ材料を得ず)中の渡来外客数を昨年の同月と比較するに、実に七百八十余人の減少を見る、之を以てしても其打撃の決して僅少ならざるは明らかなる事なり」(「時局と外客誘致策」ツーリスト10号)

ツーリスト10号(1914年12月)では、1914年7月に始まった第一次世界大戦の影響で、ヨーロッパ客を中心に訪日外客が減少したことをジャパンツーリストビューロー幹事の生野圑六はこう報告しています。

「(当時の外客数は)支那人を別とし、常に其最大多数を占むるものは米人にして、英人之に次ぎ、露独仏の順位にあり」「支那人を覗き、交戦国民数は其約六割強を占む。而して是等交戦国民中大部分の渡来は少なくとも時局の終結迄は、全然期待し得ざるものと認めざる可らず。是我がツーリスト業者に取り決して僅少ならざる打撃と謂ふ可し」。

日本がようやく外客誘致に着手したわずか2年後に起きたのが、第一次世界大戦でした。先人たちは、いきなり出鼻をくじかれることになったのです。なにしろ当時の欧米外客のうち6割強が大戦の舞台となったヨーロッパ客だったからです。

いまでこそ、「ツーリスト産業は平和産業」などと深く考えることもなく言っていますが、100年前の日本人はいやおうなく戦争とインバウンドの非情な関係について現実的に考えざるを得なかったといえます。

それゆえ、「時局と外客誘致策」なる以下の提言が出てくるわけです。生野はこう書きます。

「然りと雖、年々米国より欧羅巴へ旅行する漫遊者の数は実に大なるものにして、假りに其十分の一を誘致し得たりとするも、優に我が國に渡来する外客総数に幾倍するものある可し」「これ我がツーリスト業者の乗ず可き機会にして、此際此方面に意を注ぎ、専ら是等(米国の)漫遊客を羅致するに力を致さば、欧州方面に失ひたるものを米国方面に補ひ、獨り現時の不景気を挽回し得るのみならず、将来益々多数の米客を誘致するの動機を作り、依て以て更に対米関係を円満ならしめ、外交上に、通商上に多少の効果を齎すに至らば尚一段の精巧なる可し」。

「刻下の急務は戦乱の為に失へる欧州方面のツーリストを米国方面より回収し、尚進むで所詮禍轉じて福と為すの策を講ずるにあり」。

要するに、米国客に対して、ヨーロッパに代わる旅行先として日本を売り込むべし、という提言です。なんだか火事場泥棒的という気がしないではありませんが、これが当時の「外客誘致策」の中身でした。

生野は具体的に米国向けの誘致策をこう説明しています。

「この機会を利用し、第一、我が國に対する米人の注意を喚起する事、第二、今回の戦乱は我が國に於いて生活上其他何等の変化を来さざりし事、第三、吾國の風景事物及ホテル其他の設備を広告紹介する事等に努めざる可らず」。

とはいえ、当時の日本の外客誘致の考え方が今日のそれと著しく違っていたとはいえません。今日おいても国際関係の緊張が外客誘致に大きな影響を与えることは、近年の近隣諸国との関係悪化から私たちも理解するようになったはずです。

第一次世界大戦時、日本は戦争の当事者ではなかったがゆえに、調子よくふるまうことができたにすぎず、その後の歴史は、日本が当事者となることで外客誘致どころではなくなることを物語っています。

ツーリスト誌は、その後も「時局と外客誘致策」について、そのときどきの情勢をふまえ、多くの提言をしています。それについては、今後紹介しようと思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-11 14:22 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 02月 23日

大正期にスイスから学んだ観光宣伝のさまざまな手法

前回、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事の生野圑六による1912年夏のヨーロッパ視察が、ニッポンのインバウンドにとって記念碑的な意味を持ったことを書きましたが、今回は彼のスイス視察の報告を紹介します。

ツーリスト2号(1913年8月)「欧州各国に於ける外客誘致に関する施設(続き)」では、当時から観光立国として知られたスイスについてこう高く評価しています。

「瑞西と云へば、三才の童子と雖もよく知って居る通り、景色が佳く、欧州の中心に位置して交通の便も善く、登山鉄道、遊覧船、其他各種の設備整ひ、『ホテル』は到る處に経営されて居るといふ有様で、人民は少なくとも二ヶ国の欧州語を語り、其質朴親切で、物価は比較的低廉で、夏時は清涼にして三丈の暑を忘るるに足り、冬期は寒冷ではありますが、近年『ウィンター、スポーツ』の設備をなして、客を呼んで居る。斯く総ての方面より視て、此国は遊覧地たるに適して居る」。

スイスには外客誘致のための以下の3つの観光宣伝の専門機関があると生野は指摘します。

①スイス政府鉄道
②ホテル協会
③デペロップメント・ソサエティ

以下、それぞれの機関の業務や活動について整理します。

①スイス政府鉄道

スイス政府鉄道には「パブリシティ・ビューロー」という独立した旅行奨励宣伝機関があり、「毎年約拾弐萬乃至五萬圓の費用を投じている」。

業務内容は、以下のとおり。

a.外国における出張代理所の監督(ベルリン、パリ、ロンドン、ニューヨークの4カ所。繁華街に人目を惹くスイスの絵画や写真、印刷物を陳列する。新聞、雑誌にスイスの旅行ニュースの配信を行う)

b.各種広告物の出版(各種スイス旅行宣伝雑誌の出版、旅行地図の製作。これらは英仏独伊語で2~3万部発行。外国出張所、汽船会社、鉄道会社、旅行関連業者などに配布)

c.外国新聞雑誌の広告(英独のでは日刊紙、グラビア雑誌など。「日刊新聞には時として瑞西に関するアーチクルを載せることもありますが、又時として小さいスイスの風景写真を載せて、其下に記事を載せることもあり、絵入雑誌には風景等の写真を頁大に挿入する」

d.海外向けスイスの気象報告

e.外国博覧会への参加

②ホテル協会

ホテル協会は、「パブリシティ・ビューロー」が発行する宣伝媒体や外国出張所に多大な寄付を行い、サポートしている。また各地にホテル組合があり、独自で機関雑誌を発行。バーゼルのホテル協会では、海外向けの宣伝活動を行う。毎年、ホテルリストを発行。各ホテルの客室数、料金、食事代、交通の利便、暖房設備などを記載した冊子10万部を発行し、海外に配布。ローザンヌのホテルスクールでは、ホテル業者の子弟に対して外国語や経理、料理、飲料、給仕、管理などを教授し、ホテル従業員を養成している。

③デペロップメント・ソサエティ


これは日本のツーリスト・ビューローのような会員組織で、会員としては全国の「州、市、銀行、交通業者、ホテル業者、商工業組合、其他雑貨、絹、時計、写真、美術品、菓子食料品等各種の商店等、殆ど其地の主なる団体個人を網羅」している。会費は「10フラン以上」で、各地の繁華街にインフォメーション・ビューロー(観光案内所)を設置し、「其處に二三の事務員が居て、旅行に関する各種の報道は勿論、其他のホテル、商店、素人下宿、商工業上のこと迄も、無料にて質問に応じ、店の窓には必ず人の目を惹くべき時々の写真印刷物等を飾り、室内には市内案内所、附近鉄道お汽船ホテルの案内記は申す迄も無く、国内各地の同業者の印刷物を無数に竝べてありまして、随意に與へるやうになっております。又場所によりて各国のダイレクトリー、新聞、雑誌、タイムテーブル等をも備へております」)

これを読む限り、当時からスイスでは外客誘致のために政府をはじめとしたツーリスト事業者たちがいかに協力して広報宣伝の推進と外客受入態勢の整備に努めていたかよくわかります。

こうしたインバウンドの最前線の姿を目撃した生野は大いに刺激を受けたことでしょう。その一方、スイスのホテル関係者の話として次のようなことも述べています。

「尚談話中にこの人は私に向て、漫遊外客を誘致するために広告其他各種の手段を採ることは必要ではあるが、来遊せる外客を満足して帰国せしむることは最大切である。(中略)ホテルは外客にとりて旅行中の吾家である。一日見聞の愉快を追想のも、旅の疲労を静に慰するのも、皆ホテル内のことである。さればホテルの待遇にして十分ならざる以上は、到底外客を満足せしむることは出来ぬ、最重大なる責任を有する者はホテルであると申しておりました。これは大に理由のあることと存じました」。

さらに、同報告の中には、スイスの周辺国との外客誘致の競争がきわめて激しいことも触れられています。ヨーロッパ各国との外客誘致競争に対抗するために、あるスイスの関係者は以下の取り組みを始めようとしていることを紹介しています。

「政府の一省中に外客奨励中央局の設立を以て焦眉の急務なりと述べ、更に其組織に言及し、最後に其事業として旅客交通に関して発布されたる法令規則の統一、新法令の発布をなし、外客交通上の保護を計ること、旅客交通が経済貿易上に及ぼす影響の研究、各種遊覧遊戯的設備の完成、遊戯的大会の開催、外国博覧会への参加、在外案内所の完成、国際的自動車旅行の研究、特に海外に於いて瑞西国内各種の機関が箇々別々の動作をなし、廣告紹介などを行ひつつあるものを統一し、更に有効なる手段を採ると同時に、冗費を除くこと等を述べております」。

ここには、今日の問題多き日本の外客誘致の現状からみても耳の痛い指摘がいくつもあります。たとえば、外客誘致のための法令(制度設計)の不備や、「海外に於いて瑞西国内各種の機関が箇々別々の動作をなし、廣告紹介などを行ひつつあるものを統一し、更に有効なる手段を採ると同時に、冗費を除くこと」などという指摘がそうです。

100年前のスイスでは、今日の日本がいまだに克服できていない(それ以前に、問題として広く認識されているかすらあやしい)数々の問題点が、すでに指摘されていたことにあらためて驚きます。その一方で、大正時代に一から外客誘致を学ぼうとした日本の先人の心意気を思うと、殊勝な気持ちになるものです。その尽力や知見を断絶することなく、きちんと受け継いでいく必要があると思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-02-23 16:56 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 02月 23日

100年前、日本は欧州から外客誘致のイロハをこうして学んだ

1912(明治45)年、日本はジャパン・ツーリスト・ビューローを創立し、国家として外客誘致を企図するのですが、当時の日本には西欧の国々から訪れる外国人を心地よく受け入れるためのインフラが、ハード、ソフトの両面でほとんど整備されていませんでした。

そのため、ツーリスト誌においても、外客誘致のために何が必要なのかについて啓蒙するため、西洋諸国をはじめ海外の事情の紹介に努めています。とりわけ創刊号から10号くらいにかけては毎回、外客誘致のための広報機関や宣伝方法、案内所の運営、ツーリスト業者の組合組織のあり方などが提言されています。

それらの海外レポートの多くを執筆しているのは、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事の生野圑六です。生野は鉄道省の役人で、のちに京浜電気鉄道社長になる人物ですが、1912年夏、ヨーロッパ諸国を視察し、各国の外客誘致の現状について報告しています。彼は日本のインバウンド黎明期に最も積極的に啓蒙活動に取り組んだ論客といえそうです。
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以下、ツーリスト創刊号(1913年6月)「欧州各国に於ける外客誘致に関する施設」という生野の報告を紹介します。これを読むと、今日日本では当たり前になっている外客誘致のための施設や諸施策の導入に向けた取り組みが100年前にようやく始まろうとしていたことがわかります。ニッポンのインバウンドはこの時期、ヨーロッパをモデルに一から形成されていったことが生々しく伝わってきます。

生田圑六がシベリア鉄道経由でヨーロッパ視察に出かけたのは、1912年6月末から9月末にかけてです。ベルリンで開催された国際旅客交通会議に出席するためでした。その目的について、彼はこう記しています。

「欧州に於ける一般鉄道の視察旁々、漫遊外客誘致待遇に関する機関、組織、方法の研究、玆に現場における実況を視察致しましたのでありますが、可也廣くと思ひまして、各国に旅行して、漫遊客の集合するところを出来る丈見物しました。七月上旬には、丁度ストックホルムにオリンピック、ゲームが開会されるので、世界各国の人々が集合して、混雑致すところを見るのには、何よりの好機会と思ひまして、其地に出掛けました」。

その年のオリンピックには日本人選手はわずか2名しか参加していなかったそうですが、オリンピック開催都市となったストックホルムについて彼はこう書いています。

「兎に角、数万人の外国人が入り込んでいるに関はらず、市内秩序整然としているのには感心しました。特にホテル、商店、其他外人が接するのは、待遇上大に注意を払っておりました。日本などではかかる場合、動もすれば目前の利益のみを事として、永遠の利害を打算せず、暴利を貪ると云ふやうなことがあるやうでありますが、之は大に注意しなければならぬことと思ひます」。

生野はそのときスウェーデンのツーリスト・ビューロー本部を訪問し、「スカンジナビア半島では、夏季には外客を誘致することに大に力めて居ることを承知」したといいます。また、コペンハーゲンのチボリパークを訪ね、そこには「各種の音楽、遊戯、カフェ、レストラン等が多数ありまして、夕刻より夜半まで、非常に賑はつて」いること、「概して欧米人は夕食後散歩するとか、音楽を聴くとか、芝居を見るとか云ふような習慣があるので、欧米の遊覧地、海水浴場、其他のリゾートには必ずさう云ふものがあり、又一方にはローンテニス、ゴルフ、其他遊戯、運動の設備」があり、「此點は今後日本でも相当に考慮を要することと思ひます」と述べています。帰国後、彼はツーリスト誌上において、外客誘致のため、日本に西洋的な遊覧地を開発するよう呼びかけますが、このときの見聞がベースになっているものと考えられます。

その後、彼はいったんベルリンに戻り、7月下旬から約1か月間をかけてウィーン、ブダペスト、インスブルック、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ポンペイ、そこで折り返してスイスに向かってしばらく滞在し、ニース、モンテカルロ、リオン、パリ、ロンドン、そして再びベルリンに戻り、シベリア鉄道で帰途についています。これはまさに20世紀初頭のヨーロッパに誕生しつつあったモダンツーリズムの最前線をくまなく訪ね歩いたという意味で、ニッポンのインバウンドの歴史にとって記念碑的な出来事といえるでしょう。

この視察で、生野は多くのことに「驚き」「感心」しています。以下、書き出してみます。

・当時のスイスはすでに外客受入態勢が完備していたこと。

「瑞西は何度参りましても實に心地善い處であります。外客に対する遊覧設備の完備せること、案内上の用意の行届いていること、廣告印刷物等の豊富なること、山水風光明媚なると共に、隅々まで清潔なること、停車場などに長さ数間の大写真などが掲げてあること、ホテルの空室の有無を停車場内に掲示する設備などもあること」。

・フランスのエビアンからニースまでモンブラン山脈付近を横断する約700㎞の自動車専用道路が作られていたこと。

「近時欧米に於ける自動車の発達は非常なもので、従て自動車で自国内のみならず、外国に旅行に出掛ける者は甚だ多いのであります。此道路の如きもツーリストを招致するのが目的であります。鉄道会社も夏期は乗合自動車を運転して、一定の賃金を以て旅客の需に応じております。吾国に於いても将来或地方には、自動車道路を設けることなども一の問題であろうと思ひます」。

日本では戦後を待たなくてはならなかった本格的なモータリゼーションによる観光市場の促進が、ヨーロッパではすでに戦前期から始まっていたことがわかります。

・パリには観光客を惹きつけるハードのインフラが充実していたこと。

「巴里には其近郊に風光明媚なる處や、名所旧蹟が沢山ありますが、外客を惹付けるには寧ろ人工的設備、或は人為的方法が興つて力あることと思ひます。即美術博物館の完備せる、公園の大規模なる、市内交通機関の便利なる、市街の美観を保つが為に用意周到なる、皆之であります。暇令ば、公設建造物、廣場、凱旋門、スタチュー、橋梁等一として美術的ならざるはなく、電柱などは一本もなく、電車も高架式は許されて居ません。ホテルの設備は完全にして、而も比較的低廉である。劇場には国立竝に準国立とも称すべきものも四ヶ所を始め、多数あり、名優少なからず、他の諸国に於いては夏時は大劇場は休業する例なるに、巴里は無休で、料理や葡萄酒は廉価にして、而も美味である。尚巴里人はコスモポリタンで、外国人を外国人扱ひせず、吾々の如き異人種でも、白人同様に扱ふ等、其他外国人の為に特に利便を計っていることは、列挙すれば沢山あることと思ひます。之等のことは必ずしも吾国に於いて総て模倣すべきでもないが、又中には大に学ぶべきことがあると思ひます」。

ほとんど手放しの称賛ぶりですが、これが100年前の日本人の正直な実感だったと思われます。

・ヨーロッパでは新聞広告による外客誘致が広く行われていたこと。

「(ヨーロッパ各地で発行される英国のデーリーメール新聞は)英米人の大陸旅行者に中々よく読まるるのでありますが、此新聞社は倫敦竝に巴里の中心に、立派なる案内所を持っておりまして、欧州のみならず世界各国の鉄道、汽船、ツーリスト・ビューロー、ホテル等は固より、静養地、遊覧地、シーズン、遊覧設備、自動車旅行、飛行、学校、貸家、貸別荘等に関する報告を與ふること」。

外客誘致のために、宣伝媒体(メディア)がいかに効果的であるかを生野は知ったのでした。

生野はこうして外客誘致のためのハード面、ソフト面でのインフラ整備やメディア活用のイロハを学んで帰国するのですが、一点のみ、イタリアでの「不快な」体験を反面教師的にこう指摘しています。

「伊太利では一方に流石美術国のこととて、絵画と云はず、彫刻と云はず、建築と云はず、其立派にして豊富なることに驚きましたが、一方には軽微なること乍ら、随分不快なる念を與へられたことがありました。夫は下級鉄道員の吾々に対する態度、行為、或は寺院其他にて付き纏ふ案内者のうるさきこと、馬車の御者の不正直なること等でありましたが、夫に付けて思ひ浮んだのは、我日本の現在漫遊外人に対する関係であります。直接外人に接するものの中には、随分不正直、不親切なるものがあるやう耳にします。是等は日本に於いてツーリストが風景其他より折角得た美威を傷けることがありはせぬか、是に対して吾がツーリスト、ビューローとしても大に注意して、相当の方法を講じなければなりませぬ」。

当時日本ではこういうことが多々あったろうと思います。なにしろ、ときは激動の明治がようやく終わったばかりで、訪日外客数は年間わずか2万人。日露戦争になんとか勝利したものの、まだまだ日本は貧しく、生野の啓蒙する中身が実現できるまでには、相当な時間が必要と考えられていたはずです。

さらにいうと、彼が訪れたわずか2年後、あれほど先進的で華やかに見えたヨーロッパが第一次大戦の戦火に包まれたという事実は、国際観光の歴史を考えるうえで無視できないことです。生野は、のちに「時局と外客誘致策」その他の論説で、当時の国際情勢とインバウンドの関係についてさまざまな提言をしていますが、それはあとで紹介します。

※「歴史から学ぶインバウンド」参照。http://inbound.exblog.jp/i38

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by sanyo-kansatu | 2014-02-23 16:36 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2013年 12月 30日

HISのグローバル戦略の最前線がバンコクである理由

今年8月、タイのインターナショナル・トラベル・フェア(TITF2013)の視察の折、HISバンコク統括支店長の話を聞くことができました。今年、タイからの訪日客が増えた背景に、ビザ緩和や円高是正があったことは確かですが、民間企業の精力的な取り組みが大きく貢献していると思います。

なぜ同社のグローバル戦略の拠点はタイなのか。日本と同様、市内交通機関の中はスマホを手にした乗客であふれるバンコクで、あえて旅行店舗の出店を加速する意外な理由について。以下、今月中旬に刊行された産学社刊「産業と会社研究シリーズ トラベル・航空2015年版」に掲載したインタビュー記事を採録します。
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日本を取り巻くグローバルな観光マーケットが急成長するなか、日本の旅行業はどこに向かうべきか。ひとつのカギは「ツーウェイツーリズム」にある。それを地道に実践しているのがHISだ。

2013年8月中旬、タイの首都バンコクで開催されたタイ・インターナショナル・トラベル・フェア(TITF)の会場で、同社のグローバル戦略の現在について中村謙志バンコク統括支店長に話をうかがった。

この国では我々の知名度はない

中村さんがバンコクに赴任し、タイのローカル市場に取り組んで13年で4年目。その手始めが、国内外の旅行会社が集まる展示即売会のトラベルフェアへの出展だった。「この国では我々の知名度はない。HISといってもタイ人は誰も何の会社か知らない。ゼロからのスタートでした」という。
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初年度は小さなブースで、扱ったのは航空券とJRパスだけ。その後、本格的にツアーを造成し、ブースもだんだん大きくした。今回の展示即売の目玉商品は、就航したばかりのチャーター航空会社アジア アトランティック エアラインズ(AAA)を利用した大阪・東京ゴールデンルート。「4泊6日・29999バーツ(約9万3000円)という破格の料金で売り出したところ、1000名が完売でした」。
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旗艦店となるトラベルワンダーランドで年間通じて売れているのは、航空券+ホテル(+JRパス)。自由旅行の商品だ。一方ソンクラーン(タイの旧正月)の4月とスクールホリデー(夏休み)の10月の年2回のピークシーズンは、添乗員同行の団体ツアーが人気だ。

売れ筋は、東京、富士山、箱根の5日間、東京・大阪ゴールデンルート、大阪・京都5日間、北海道(道南)の順。最近、北海道でレンタカーを利用するタイの個人客も現れたという。「タイ人は普段から日本車に乗り、左側車線の国ですからね」。

バンコクの出店を加速する理由

ネット予約の普及などビジネス環境の変化で、日本では旅行店舗の整理縮小が進んでいるが、バンコクで出店を加速するのはなぜか。そこには意外な理由があった。

「ローカルを取り込む戦略の軸は店舗展開です。なぜなのか。広告効果が大きいからです。場所はスカイトレインの駅構内やショッピングセンターなど、消費者に目につきやすい場所限定です。実は、バンコクでは一等地に広告を出すのと家賃にかかるコストはたいして変わらない。であれば、店舗を出そう。ただし、常駐スタッフは1、2名の『KIOSK店舗』。それを量産することで、我々の存在を知ってもらう」。
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店舗ではHISの海外旅行商品のパンフレットを大量に用意している。タイでは、日本のようなセールスカウンターのある旅行店舗は少なく、パンフレットは流通していない。誰もがスマホを手にする時代でも、細かく旅行日程が書かれた紙のパンフレットはタイ人に好評だという。

一方、タイには旅行業法や約款が存在しない。キャンセルチャージも個々の旅行会社の裁量に任されている。「震災のような有事にガイドラインがないと困るが、HISは日本の会社だから信用できるといってくださるお客様が増えている。タイにはメイド・イン・ジャパンへの信認がある」と中村さんはいう。

ローカル客を取り込むためには、タイ人を理解することが不可欠だ。

「タイのお客様がどんな旅を望んでいるか、日本人の私はどんなに勉強してもわからない。だから、添乗にもよく同行します。お客様が何を喜んでいるのか、おいしいと思うのか、どの風景をバックで写真を撮りたいのか。勘が鈍るのはいちばんまずい」。

いくつかわかってきたことがある。「タイ人はタバコが嫌い。ほとんどの人が吸いません。ところが、日本のホテルはタバコ臭い。ですから、ホテルの手配は禁煙ルームが絶対条件です。タバコを吸えるレストランも選びません。タイのお客様は日本食好きで、滞在中すべて日本食でもいいのですが、気をつけないといけないのは生もの。タイで出回っているお寿司のネタは限られています。お店が気を利かしたつもりで珍しいネタを出しても、生ダコなどは気持ち悪がって決して食べようとしない。全員残すこともよくある。もし本当にタイのお客様を受け入れたいと思うなら、タイ人を理解して細かい気配りが必要です」

タイでは旅番組の影響が大きいこともわかった。「いい例が、いまタイ人が多く訪れている白川郷や高山、富良野のラベンダー、岩国の錦帯橋、瀬戸内のしまなみ街道、指宿温泉の砂蒸し風呂など」。「ある日、局地的な人気が起こる」だけに、訪日プロモーションはテレビを活用するのが効果的だという。

なぜタイが拠点として選ばれたのか

では、HISの海外戦略においてなぜバンコクが最前線の拠点として選ばれたのか。中村さんはこう即答する。「タイには大きなコンペティターがいないからです」。

重要拠点を選ぶ条件は、これから伸びる市場。しかも、インバウンドからアウトバウンドに旅行マーケットが移り変わる時期で、大手エージェントが不在の国。それがタイ、インドネシア、ベトナムだという。 

日本の旅行業界は一見国際的なイメージがありながら、実はドメスティックな体質が残っている。早くから海外で売上を生み出してきた製造業に比べ、海外営業所がありながら、売上に貢献してはいなかった。

「海外拠点をつくり、日本のお客様をきちんとご案内する。これが第一ステップ。でも、その役目だけで終わらせてはもったいない。企業のグローバル化はローカルに根付かなければ意味がない。それぞれの国でHISを発展させる。私はタイを任されていますが、インドネシアやベトナムに赴任した同僚もそう思っている。いまではHISジャカルタ支店で集客したインドネシア客をバンコク支店がインバウンド業務として受ける。またシンガポール支店とも、という日本をまったく介さないビジネスも始まっています」。

これはもはやツーウェイではない。マルチウェイツーリズムとでもいえばいいのか。いまHISバンコク支店で起きている仕事の現場を通じて、新しい旅行業の未来が見えてくる。


中村謙志(なかむら・けんじ)
1996年入社。いくつかの国内支店を勤めた後、「グローバル化戦略の一期生」として2009年、トラベルワンダーランド立ち上げのためにバンコク赴任。初めての海外駐在だった。支店長として現在にいたる。「目標は、タイでナンバーワンのトラベルエージェンシーになることです」。 

※産学社刊「産業と会社研究シリーズ トラベル・航空2015年版」p70~P73より抜粋http://sangakusha.jp/ISBN978-4-7825-3376-5.html
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by sanyo-kansatu | 2013-12-30 09:23 | “参与観察”日誌 | Comments(0)