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2015年 01月 17日

大連満鉄旧跡陳列館では満鉄総裁室を公開しています

日露戦争後、日本が満洲(現・中国東北地方)で運営した半官半民の国策会社「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」の設立は1906年11月26日。翌07年東京から大連に本社を移転しましたが、その100周年という節目にあたる2007年9月、旧満鉄本社屋(現・瀋陽鉄道局大連鉄道事務所)内にいまも残る旧満鉄総裁室と会議室の復元と開放が実施され、「大連満鉄旧跡陳列館」として見学可能になりました。
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満鉄の初代総裁は台湾の民政長官として殖産興業による経済政策が評価されたことで起用された後藤新平です。後藤が使った総裁室は建物の2階にあり、46㎡ほどの広さ。当時の机やイス、歴代総裁の写真パネルなどがぽつんと置かれているきりですが、関係者によると、写真資料をもとに元どおりに配置したそうです。歴代の総裁の顔写真も展示されています。
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大連の古い絵はがきの中にあった総裁室の写真です。当時こういう場所を公開したとは思えないのですが、日本の国旗が背後に見えるので、いつ撮られたものか不明です。
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隣の展示ホールは天井の高い164㎡もの空間で、満鉄史を紹介する写真パネルや当時使われた「満鉄」ロゴ入りの食器や徽章、マンホールなどが置かれています。
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もともとこの本社屋は日露戦争直前のロシア統治時代に学校として建てられた建物を満鉄が修築し、1908年に完成させたものです。展示室は学校の礼拝堂だったもので、満鉄時代は会議室として使われていたようです。

満鉄の金庫室も参観可能です。
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満鉄本社は終戦後、大連市の鉄道局事務所として使われてきました。これが「大連満鉄旧跡陳列館」の入口で、この重厚な建物の西翼の一部を改装したものです。
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玄関を入ると、当時を思い起こさせる華麗なロビーがあります。
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展示は2階で、この看板が掲げられています。
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ちなみにこれは現在も残してある満鉄ロゴ入りマンホールです。
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もともと満鉄の旧総裁室や関連資料は非公開とされていました。陳列館の復元と開放に向けて尽力したのは、日本人客の受入を行っている地元の旅行会社です。これまで日本から多くの人が訪れています。その中には、村山元総理の名もあるそうです。

さて、中国側が復元した満鉄本社と関連陳列物を見る価値がどこまであるのか疑問に思う方もいるかもしれません。ぼくはこの種の施設を参観する際、歴史の実証性ではなく、彼らがどのように歴史を描いているのか。そこに注目することにしています。

満鉄の歴史的存在からみれば驚くほど、いやはっきり言って話にならないほどささやかな展示品についてはひとまずおいて、彼らのこしらえた展示パネルをざっと見てみることにしましょう。題して「満鉄歴史画像展」です。
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全体は4部構成になっています。第1部は「満鉄の創立と任務」です。展示では、日清戦争、その後の三国干渉によるロシアの租借化、日露戦争を経て満鉄設立に至る歴史をおさらいします。
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第2部は「満鉄の経営と拡張」です。満鉄による鉄路と港湾の構築、ホテルや医療機関、公園や温泉など日本人のためのレジャー施設の開発、満鉄調査部の設立と各種研究機関や図書館、新聞の発行などを解説しています。ここだけ見ていると、大連と満鉄沿線が名実ともに近代空間へと変貌していくさまがよくわかります。
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もっとも、「教育機関の発展と中国人に対する奴隷化教育の推進」といったパネルも差し込まれています。
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第3部は「満鉄の略奪と搾取」です。ここでは東北地方の大豆や木材などの資源を搾取し、中国人労働者を酷使する満鉄が描かれます。
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第4部は「満鉄の衰退と末日」です。そこでは中国人による抗日闘争によって日本が敗戦し、大連が開放されるさまが描かれます。
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すべてのパネルを紹介したわけではありませんが、満鉄の歴史を概ね公平に解説した展示パネルではないかと思いました。他の中国の都市の歴史展示で見られるように日本を悪の権化としてのみ描くのでなく、大連の近代の発展が満鉄によって推進していったことはそれなりにわかるように解説されているからです。彼らの立場に立てば、満鉄は「略奪と搾取」をしたのであって、主人公は中国であったと自らの近代史を語るのは当然のことでしょう。

この展示で面白いのは、満鉄の各路線の当時の駅舎や各種機関車などの写真もあることです。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-17 16:22 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 28日

日本人と鏡泊湖のいにしえの縁と忘却と

鏡泊湖を訪ねた帰り際、公園内の土産物店に入ったところ、こんなポスターが貼られていました。どうやらこの湖で捕れる鯉や鮒は有名なようです。

中国「五線」級地方都市のレジャーはこんな感じ?(黒龍江省鏡泊湖)
http://inbound.exblog.jp/23936094/
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実は、満洲国時代、鏡泊湖が鮒の産地であることは知られていました。当時発行されていたグラビア誌「満洲グラフ」1939(昭和14)年8月号の「水幽邃の別天地 鏡泊湖」という特集では、こう書かれています。

「東満牡丹江省西南の一劃、寧安縣を南北に細長くくぎった琵琶湖の半分程の湖がある。床しいその名は鏡泊湖。(中略)この鏡泊湖一帯の地に、粛慎と呼ばれる民族が勢力をふるっていたが、やがてその衰微と共に、高句麗の建国を見、間もなく北満一帯を風塵してしまった。湖畔の南湖頭には高句麗城址と云われる遺跡が、今尚風に吹かれて曾つての姿をのこしている。高句麗に代って、渤海国が興ってからは、首都を湖の東北東京城に定めた。この時代には、湖水の鳥貝からとれた真珠や、鮒などが貢物として重用されたと云われるから、恐らく當時の鏡泊湖には遊客の往来も繁く、幾多の船舶が湖上を輻輳したことであろう」

当時の日本人は鏡泊湖を古代史の舞台として眺めていたようです。なにしろ奈良・平安時代の日本と交易をしていた渤海の支配する地域だったからです。満洲国建国に際し、日本とこの地の歴史的関係を引き寄せて語ることにはそれなりの意味、つまり統治の正当化があったと思われます。

さらに、「満洲グラフ」1941(昭和16)年1月号では、再度鏡泊湖特集を企画していて、こんなことが書かれています。

「鏡泊湖は国立公園の有力候補である。湖面をゆけば原始林に蔽われた翠密の屏風美しい島、満洲ラインの名にそむかぬ絶妙な景観の變化、百花繚乱の山野、数千羽の鵜が、群棲する奇峰、碧空に舞ふ丹頂鶴や五位鷲、瀑布、尺餘の魚類の漁獲、鏡泊湖水力電気發電所、鏡泊学園村、秋田魚農開拓民等々、観光に産業に満洲の誇るべき一つである」

満洲国建国から約10年。北満開拓は当時最も注目された事業のひとつであり、その地を広く国民に知らしめる必要から「満洲グラフ」はこの特集を組んだものと考えられます。単なる風光明媚の地としてだけでなく、豊かな水利を活用した水力発電開発や北満開拓のための人材育成機関として1933年に開校された鏡泊学園(資料によると匪賊の襲撃や財政難で35年には解散したものの、有志がこの地に残って活動を続けていたようです)など、当時の日本人は鏡泊湖のことをそこそこ知っていたのです。国立公園の候補だったというのですから。

でも、もうそんなことは誰もがすっかり忘却してしまいました。

中国のローカルな行楽地としての鏡泊湖の現在の姿を、こうした日本人とのいにしえの縁と忘却という現実をふまえて眺めていると、まあこれはこれでとにかく平和でのどかなことはいいことだ。そう思うほかありません。
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土産物店では、なぜかロシアのマトリョーシカも売っていました。なにしろここは黒龍江省。ロシアに接している土地ですから。メイド・イン・チャイナなんですけどね。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-28 12:23 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 25日

現存するヤマトホテルのすべて

中国東北地方には、20世紀初頭に始まった日本統治時代に建設されたクラシックホテルが多数現存しています。その代表格が満鉄ホテルチェーンです。
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最初に開業したのが、1907(明治40)年の大連ヤマトホテルです。大連市中心部に位置する中山広場の南側正面にいまも独特の存在感を見せる石造5階建てのルネサンス式建築のホテルですが、実は大連ヤマトホテルとしては3代目で、清水組(現清水建設)が竣工し、14年に開業したものです。
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初代はロシアが造った東清鉄道の建物を借用したものでした。
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2代目は、09年に旧ロシア市役所を別館として開業したもので、日本統治時代は満蒙資源館として、また新中国時代は長く大連市自然博物館として使われていた建物です。ロシア人街のいちばん奥正面に現存していますが、現在は廃墟同然の姿をさらしています。
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実は、09年に満洲を訪れた夏目漱石はここに宿泊しています。その記録は『満韓ところどころ』という彼の直截かつ辛辣な大陸紀行に残されています。

大連にはこれ以外に3つのヤマトホテルがありました。ひとつは、大連郊外の海浜景勝地に10年に開業した大連星が浦ヤマトホテルです。当時の日本ではまだ海水浴というレジャーが鎌倉などの外国人居留地を除き一般化していなかったことを思うと、いかに先進的な存在であったかわかります。
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いまは亡き祖母が大連で洋品店を営んでいた叔父を訪ねたときに、星が浦海岸で遊んだ話をうれしそうにしてくれたことがあります。時代は1940年頃のことですから、すでに周辺はこの絵はがきの写真のように、今日の日本ではもう見られない戦前期特有の優雅で落ち着いた海浜リゾート地だったことでしょう。
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一方、これが現在の星が浦(現・星海)海岸です。残念ながら、星が浦ヤマトホテルは現存していません。
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もうひとつが、旅順ヤマトホテルで08年に開業しています。ここには前述の夏目漱石も泊まっていますし、のちに川島芳子が結婚式を挙げています。
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これが現在の姿で、軍の招待所(「81067部隊招待所」)として使われています。

[追記]
2015年2月上旬に旅順を訪ねた知り合いの話によると、同招待所はすでに閉業しており、いずれ取り壊しされるという貼り紙が書かれていたそうです。残念ですね。(2015.2.21)
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あまり知られていない3つ目が、18年に開業した旅順黄金台ヤマトホテルです。旅順東南部の黄金山と呼ばれる景勝地に位置しているのですが、現在は軍区の中で一般人は立ち入り禁止のため、その地を訪れることは基本的にできません。
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2010年、いまは亡き友人の桶本悟氏が、当局の許可を取っていまは廃墟となっている同ホテルの跡地を訪ねています。これがそのときの写真ですが、荒れ放題で放置されていたものの、「大和旅館」のプレートが残っていたそうです。

さて、場所をかえて瀋陽の奉天ヤマトホテルです。当初、東京駅を模した赤レンガ造りの奉天駅(現瀋陽駅)の一部をステーションホテルとして10年に開業させたものでした。
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現在も大広場(現・中山広場)に堂々たる威容で立っているのが、29(昭和4)年に再開業した現・遼寧賓館です。
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08年開業の長春ヤマトホテル(満州国建国後は新京ヤマトホテルに改称)は、当時最先端のセセッション(アールヌーボー)様式の設計スタイルを採用していました。
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現在は、大部分が改修されてしまいましたが、春誼賓館として長春駅前で営業を続けています。
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ハルビンヤマトホテルも現存しています。このホテルの出自は東清鉄道の施設ですが、時代と共に所有者が移り、満洲国時代は「ハルビン大和旅館」でした。現在は、龍門大廈と呼ばれています。
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当時ヤマトホテルは、満州国各地にあったのですが、現在ではそのほとんどが再開発によって消失してしまいました。現存しているのは、大連・瀋陽・長春・ハルビンという中国東北地方の四大主要都市に建てられた都市のランドマークとして貴重な記念碑的作品だけだと思っていました。

ところが、唯一それ以外に現存しているヤマトホテルがあることを知ったのは、2012年北朝鮮の羅先を訪ねたときのことでした。羅津ヤマトホテルです。なぜこの地にヤマトホテルがあったかというと、当時「北鮮」と呼ばれた鏡咸北道は、満鉄の管轄内にあったためだと思われます。これまで紹介したものに比べると、歴史的重厚感には欠けますが、ロビーや客室、食堂の雰囲気はそれなりにヤマトホテルらしさを残していました。
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これら満鉄が経営したヤマトホテルは、日本の内地のシティホテルと比べても遜色がないばかりか、当時の最新式の設備を誇っていました。近年の中国の経済発展による新しい都市施設の増殖の中で、老朽化が目につくのは致し方がないことですが、20世紀初頭のモダニズム空間の魅力は異彩を放つことはあっても、色褪せることはありません。これから先も大事に使い続けてほしいものです。

今回紹介したそれぞれのホテルの内部の撮影はすべて行っています。後日あらためて。

大連ヤマトホテルの現在
http://inbound.exblog.jp/20581894/
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by sanyo-kansatu | 2014-12-25 11:55 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 23日

ショック!? あの『ラストエンペラー』に出てくる大連港の名所がなくなってしまった

今年7月、大連を訪ねたとき、いちばんびっくりしたのは、大連港埠頭待合所の表玄関が姿を消していたことでした。
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これが「満鉄グラフ」(1935年10月号)の大連・ハルビン開通記念特集のグラビアに登場する埠頭ビルです。

同特集によると、この年の9月1日から大連・ハルビン間(941.6km)が「超特急アジア」によって結ばれたとこう書かれています。

「九月一日の午前九時、大連・ハルビンの両驛から發車した満鐵の流線型国際超特急アジアは、その夜十時三十分、一分一秒の誤差もなく、青磁グリーンに塗られた颯爽たる雄姿を両驛のフォームに現はしたのである」

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そして、こちらが現在の姿です。ぼくは思わず「あっ」と声を出し、その場で溜息をもらしてしまいました。

なにしろここは、戦前期を象徴する大連の顔としての歴史的な場であることはもちろんですし、ぼくにとっても、公開当時夢中になった映画「ラストエンペラー」(1987)で、溥儀と家庭教師レジナルド・ジョンストンの別れのシーンにも使われた有名なスポットだったからです。

映画「ラストエンペラー」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg

簡単に大連港の歴史を振り返ってみましょう。

大連港は1898年、ロシア帝国が清から租借後、東清鉄道を大連まで延伸し、1902年に開港したものです。その後、日露戦争に勝利した日本が05年に租借地(関東州)としました。その年、大阪商船による日満連絡船(大阪・大連航路)が開設しています。
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待合所(正確には「大連港第2埠頭船客待合所」)が竣工されたのは24年。当時は1階に鉄道のプラットフォームが接続されており、鉄道に乗り換えることができたようです。また路面電車も通っており、市内に向かうことができました。
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ぼくも何度かこの待合所に入ったことがありますが、5000人の収容能力があったという長い通路に立つと、大陸の玄関口としての歴史の舞台を想起させるスケール感を強く感じました。

戦前期の大連のランドマークだった半円形の玄関口は26年に竣工されたもので、実は1970年代に、この写真のような味気のないビルに改装されていました。ですから、もともと魅力は半減していたといえるのですが、首から顔を切り落とされてしまったようないまの無残な姿からは、もうここが大連港にとって重要な場所ではないことをはっきり宣告されたようで、残念に思わずはいられませんでした。
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待合所の向かいの重厚な建築物は、旧満鉄大連埠頭事務所ビル。26年竣工です。こちらはまだ残っていますが、かつての大連の象徴的な空間が、丸ごとぬけ殻のように、さらにいえば無用の長物でもあるかのように茫漠と広がっている光景にも唖然とするほかないのです。
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よく見ると、路面電車の線路跡が残っていました。
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2012年7月にここを訪ねたときには何も変化はなかったことを記憶しているので、それ以後再開発されてしまったのだと思い、大連の知人に確認したところ、13年3月から改修工事が始まり、7月には現在の姿になったそうです。

ところで、大連港はこれからどのように再開発されていくのでしょうか。

現在、大連港の旅客船航路は、天津や煙台、威海など山東半島各地や大連の沖合に浮かぶ長海県の島々、そして韓国の仁川港へのフェリー航路などがあります。

これはいまに始まった話ではありませんが、大連港は旅客輸送よりも圧倒的に物流の拠点としての位置付けが大きいわけです。つまり、大連経済開発区に近い新港(旅客船の利用する旧港の北側に位置しています)の重要性のほうがはるかに上なのです。
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この写真は大連市の中心部の高層ビルから撮ったもので、左上に見える埠頭が新港です。

結果的に、この旧港の跡地は観光地として再開発されることになるようです。すでに兆しは見えます。たとえば、旧埠頭待合所の並びに誕生した「15庫」と呼ばれるファッションビルです。日本統治時代の大連港の倉庫群を改装した、いわば横浜赤レンガ倉庫の大連版です。
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4階建てのビルの中には、こじゃれたショップやカフェ、レストランが入店しています。
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港側に面したテラスには大連港を一望にできるカフェが並んでいます。
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夜も悪くありません。周辺の高層ビルの明かりも港に映えてきれいです。そういえば、薄熙来の大連市長時代、「大連は北方の香港」と称されていたことを思い出しました。当時はぴんときませんでしたが、この都市の為政者たちはまんざらそれがただの夢とは思っていないのかもしれません。
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入店しているショップも大連としては斬新で、北京によくある個性的な書籍や雑誌のみをセレクトしたブックショップ「回声書店」は面白いので、訪ねてみるといいでしょう。書棚に並ぶ本の種類が新華書店とはずいぶん違います。

15庫
大連市中山区港湾広場港湾街1号
http://www.weibo.com/15cool

さらに、大連港の南側にはヒルトンやコンラッドといった外資系のファイブスターホテルができていますし(ともに12年開業)、13年の夏季ダボス会議の会場として使われた国際会議センターは、この写真のように、いまの(いや、少し前の?)中国を象徴するようなスペクタクルなデザイン建築となっています。
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現在、この地区は東港(旧港)と呼ばれています。はたして大連港はどんな姿に変貌していくのか。

ぼくが初めてこの地を訪れた1980年代に感じた、まるで北欧の港町のような清涼感はすでに失われてしまっているいま、何か前向きな期待感というのは失礼な話、ないのですが、このまちに住む多くの知人や友人たちのことを思い浮かべるとき、中国のどのまちとも違う繊細さや穏健さを身につけている彼らが(それはたぶんこの都市の環境が育んだものだと思う)、中央政府的な野心から少し距離を置いて、別の道を選んでほしいと思ったものです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-23 13:28 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 11月 29日

大連現代博物館の近代史の展示は台湾に似ている!

今年7月下旬、大連を訪ねて足を運んだいくつかの場所の中でとても興味深かったのが、大連現代博物館でした。
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大連現代博物館は2002年、いわゆる「愛国主義教育基地」としてオープンした博物館です。当初は改革開放以降の大連市の発展を紹介するプロパガンダ施設としかいえない代物でしたが、07年市政府はリニューアルを決定。13年4月に再オープンされました。その目玉常設展が「近代大連」です。ここではアヘン戦争の1840年から1949年の新中国建国に至る大連の歴史を扱っています。
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もともと小さな漁村にすぎなかった大連の誕生は、19世紀後半にロシア帝国がこの地に進出し、自由港とするべく港湾施設を建設したことに始まります。
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その後、日露戦争(1905)の勝利によって大連建設の主導権が日本に移ります。
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その遺構である「関東都護府」などの石碑も展示されます。
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大連港の建設や満鉄の設立、市街地の発展、路面電車の敷設など、見事に発展していく大連の近代史を豊富な写真や遺品で紹介していきます。
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この展示はいくつかのコーナーに分かれていて、中国ではお約束ともいうべき「人民反抗闘争」のコーナーもあります。
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しかし、何より驚いたのは、もうひとつのコーナーです。1840年~1945年の日本統治期を含めたその期間を「多元文化的交流与融合」の時代と位置づけ、当時の街の様子や人々の日常の暮らしを紹介していることでした。以前、旅順にある歴史博物館をすべて訪ねましたが、そこでの展示は、日本帝国主義の侵略と人民の抵抗だけの内容でした。それに対し、「多文化的交流と融合」の時代とは……。今日の中国では稀有ともいうべき斬新なコンセプトといえます。
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面白いのは、日本統治期に「浪速町」(現在の中山広場から旧ロシア人街に通じる通り)と呼ばれた繁華街のジオラマや、現在では跡形もない大連神社の太鼓(どこに保存されていたのでしょう?)の実物など、当時の市民生活の実像を紹介する展示がいくつもあったことです。
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そこには、中国の他の都市では決して見られない、戦前の日本と関わる史実を「歴史」として公平に扱おうとする姿勢があるのです。日本の記憶をすべて否定の対象とするのではなく、「多文化」の融合した時代の象徴として展示すること。そこには日本統治期を相対化しようとする視点があります。以前訪ねた台湾の歴史博物館の展示に似た印象を持ちました。

しかし、それはふつうに考えてみれば当然のことだ思います。なにしろ大連で都市建設が着手されたのは19世紀末のこと。自らの歴史を史実に沿って語ろうとすると約100年という短いスケールの中で日本の記憶を除き去ることができないのは無理もありません。それは上海の歴史博物館が西洋列強の租界を自らの歴史として取り込んでいるのと同様だからです。日本が占めた時間の意味をことさら誇張するつもりはありませんが、逆に政治的な意図があったため、これまで中国の歴史展示はそれを無視してきたといえます。

大連現代博物館の「近代大連」は、日本による侵略一色に塗りたてられていた中国東北地区の歴史展示を、固有の地域史として市民の実感に即して描き直そうとする野心的な試みではないかと思います。

しかし、ここは2010年代の中国。習近平体制以降、過去へと時代が逆行するような時勢の中で、このままずっとこの展示が許されるのだろうか。正直なところ、心配になったほどです。

ですから、あまり騒ぎ立てたりすると中国当局が反応してはまずいので、皆さんそっと足を運んでいただきたいと思います。実は、ぼくはこの博物館の館長と面識があるのですが、名前も伏せておこうと思います。その方に迷惑がかかると申し訳ないからです。中国とはどうしようもなく、そういう国だからです。

大連現代博物館の意欲的な取り組みは、近代史の展示だけではないようです。ちょうど訪れたとき、別の展示室で中部アフリカの民族文化の企画展も開催していました。アフリカへの莫大な投資を進める今日の中国が、市民に対して異文化理解を深めることを目的とした企画という意味であれば、これも興味深いといえます。
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さらにいうと、日本のアニメ文化の企画展なんてのもあったようです。
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大連現代博物館
沙河口区会展路10号
http://modernmuseum.dl.gov.cn
星海広場の北端にあります。
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by sanyo-kansatu | 2014-11-29 15:15 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 06月 01日

85年前にすでに話題となっていた巨大クルーズ客船「コロムバス」号

近年、海外から寄港するクルーズ客船を誘致する動きが全国で広がっていますが、実は昭和の初めごろの日本でも同じことが起きていました。

外客誘致の専門誌「ツーリスト」1930(昭和5)年3月号には、ニューヨーク発の巨大クルーズ客船の来航のニュースが紹介されています。
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「巨船コロムバス」

「大き過ぎて横濱桟橋への繋累が問題となり各方面の心配の種となったコロムバス号がいよいよレーモンド・ホイットコム社主催の観光団を満載して来月二日神戸、四日横浜へ入港する。この汽船は北独逸ロイドに属し、『ヨーロッパ』、『ブレーメン』に次ぐ巨船で、總噸數三萬二千五百噸、長さ七百七十五尺、幅八十五尺で。我國第一の汽船浅間丸に較べ噸數に於いて一萬五千噸、長さに於いて百九十一尺大きい。定員は一、二等各四百名、ツーリスト・キャビン二百名、三等六百五十名計千六百五十名で、外に乗務員七百三十名、總計二千三百八十名となる。

同船は一月廿一日紐育出帆、歐州から地中海かけての主要都市及マニラ、香港、臺灣、支那、朝鮮等を歴訪し内地では四月一日宮島が最初の寄港地となっている。宮島では一行歓迎の為燈篭流しを行ふ豫定である」

いまから約85年前の話です。面白いのは、当時もクルーズ客船が大きすぎるため、横浜港の寄港が危ぶまれたという話です。今年3月、英国のクルーズ船「クイーン・エリザベス号」が横浜港に初寄港する際、高さ55mの横浜ベイブリッジを干潮時にぎりぎりの高さで入港したというニュースが伝えられましたが、当時はベイブリッジこそないものの、日本の桟橋の規格が海外の大型クルーズ客船仕様になっていないため、大変だったという話は、いまもって変わらないことがわかります。

日本各地の港湾の桟橋の規格が小さすぎるため、先ごろの世界の大型クルーズ客船のトレンドに合っていないことから、クルーズ市場において大きくアジアの港湾都市に差を付けられていることはよく指摘されます。

また乗客数1650名、乗務員730名の総計2380名が一度に上陸するという規模は、今日のクルーズ客船とほとんど変わりません。これだけの数の欧米客が一斉に上陸するのは、当時の日本人にとっては、かなりインパクトのある光景だったに違いありません。当時日本を代表する港湾都市であった横浜や神戸はともかく、最初の寄港地となった宮島では、その日どんな光景が見られたのか、想像するだけでも楽しくなります。海の中に屹立する宮島の厳島神社の鳥居は、外国客にとってとても神秘的な光景に映るのでしょうね。いまはそれほどでもないようですが、当時のツーリスト誌を読んでいると、欧米客の厳島神社の人気の高さがうかがわれます。コロムバス号の3番目の寄港地として宮島が選ばれたのは、理由があったと思います。

※戦前期、外国客はどこから入国したか? http://inbound.exblog.jp/22097926/

最後の「宮島では一行歓迎の為燈篭流しを行ふ豫定である」という一文も、日本人の考えるおもてなしというのは、いまも昔も変わらないものだと微笑ましく思えてきます。

※【後編】台湾発クルーズ客船、那覇寄港の1日ドキュメント http://inbound.exblog.jp/20365044/
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by sanyo-kansatu | 2014-06-01 11:19 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 29日

28回 100年前の外客誘致はどうだった? 戦前期からいまに至るインバウンドの歴史の話

訪日外国人数1000万人達成や東京オリンピック開催の決定で、今年に入ってますますインバウンド振興の機運が盛り上がっています。ところで、日本の外客誘致は、いまから100年前に始まっていたことをご存知でしょうか。

思いがけない話かもしれませんが、日本の外客誘致には戦前期から継続的に取り組まれてきた歴史があります。今回はその歴史を通して、ニッポンのインバウンドの理解を深めてみたいと思います。
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いまでこそ「インバウンド」ということばや「訪日外国人の旺盛な消費への期待」から外客誘致の必要性に対する理解が広まってきましたが、歴史を振り返ると、日本の外客誘致はいまから100年前に始まっています。

それは、1912(明治45)年3月に当時の鉄道院によって設立されたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTBの前身)の活動によってスタートしました。今日の「観光立国」政策や外客誘致のためのプロモーション活動も、すでに戦前期にひな型があったのです。

JTB100年のあゆみ
http://www.jtbcorp.jp/jp/100th/history/

100年前の訪日外国人数は約2万人


設立当時のジャパン・ツーリスト・ビューローは、今日の日本を代表する旅行会社JTBとは実態がかなり異なるもので、むしろ現在の日本政府観光局(JNTO)に近い存在でした。

では、戦前期の外客誘致とはどんなものだったのでしょうか。

それを知るうえで格好の資料となるのが、ジャパン・ツーリスト・ビューローが発行した「ツーリスト」(1913年6月創刊)です。同誌は外客誘致の促進を目的に創刊された隔月刊の機関誌で、1943年まで発行されていました。

ところで、100年前の訪日外国人数はどのくらいの規模だったのでしょうか。同誌創刊号の「発刊之辭」ではこう述べられています。

「漫遊外客の来遊するもの年々二萬人内外を有し、其費す金額も一年大略一千三百萬圓を下らずと云ふに至りては、是を国家経済上より見るも亦決して軽々に看過すべからざる事實たらずんばあらず」。

1912(明治45)年当時の訪日外国人数は約2万人、外客による消費額は約1300万円でした。つまり、2013年に訪日外国人数が1000万人を超えたということは、この100年で市場が約500倍に拡大したことになります。

もちろん、当時といまではさまざまな面で大きく事情が違っていました。たとえば、当時の外客は基本的に客船で来日しています。戦前の資料をみると、1940年代(昭和10年代後半)になってようやく航空機による訪日外客が現れていますが、「500倍」という数的拡大は、いうまでもなく、本格的な航空機時代を迎えた戦後の輸送量の飛躍的増加があってこその話です。
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※100年前の訪日外国人の状況については、中村の個人blog「100年前(1913年)の訪日外客数は2万人、消費額は1300万円」を参照。

アジア客より欧米客が圧倒的に多かった

旅客機の利用が現在ほど一般的ではなかった戦前期において、訪日外客は国際客船の寄港する港から入国していました。
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現在、横浜港に停泊する氷川丸(1930年竣工。北太平洋航路で運航した客船)

ツーリスト6号(1914年4月)の「大正2(1913)年中本邦渡来外人統計表」によると、当時の入国地としての以下の14の港が記されています。

横浜、神戸、大阪、長崎、函館、門司、下関、敦賀、小樽、七尾、青森、唐津、厳原(対馬)、室蘭。

統計表には、それぞれの港ごとに国籍別の入国者数が記載されています。入国者数のトップは横浜で、次いで神戸、長崎、下関、敦賀、門司、函館の順になっています。100年前の日本の玄関口は、成田や羽田ではなく、横浜や神戸でした。

さらに、この統計表によると、1913(大正2)年の訪日外客数は21886人。国籍別にみると、トップが支那(この時期は辛亥革命直後で「中国」という国家は存在しているとはいいがたい状況であったため、当時の中国大陸を指す一般的な呼称として「支那」が使われています)で7786人、次いで米国5077人、英国4123人、ロシア2755人、ドイツ1184人の順になっています。これら中米英露独のトップ5の占める数は圧倒的に高く、他の国々とは比較にならないほどでした。ちなみに、上位5か国の順位は、1926(大正15)年まで変わっていません。

今日と比べると国籍別比率の観点で大きく違うのは、アジア系旅客よりも欧米系旅客が多かったこと、なかでもロシア人の比率の高さが注目されます。

※当時の訪日外国人の国籍別数の詳細については、中村の個人blog「戦前期、外国人はどこから入国したのか?」を参照。

当時も日本のキラーコンテンツは温泉だった

では、100年前の訪日外客は日本のどこを訪ね、滞在を楽しんでいたのでしょうか。

ツーリスト3号(1913年10月)では、この年の7、8月「避暑地、温泉及び都会等に滞在せる外人旅客数」を国籍別に調査しています。同調査に挙げられた滞在地は以下のとおりです。

東京、横浜、鎌倉、熱海、伊東、修善寺、京都、神戸、宝塚、有馬、宮島、道後、別府、長崎、小浜、温泉(雲仙)、伊香保、草津、日光、中宮祠(中禅寺湖)、湯本(箱根)、鹽原(塩原)、松島、大沼公園、登別温泉

なかでも外客滞在数のトップは、日光で6256人。次いで鎌倉3368人、京都3008人、東京1738人、中宮祠1593人、横浜1127人、湯本1067人、小浜1039人、神戸878人、雲仙765人と続きます。
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1878(明治11)年創業の富士屋ホテル(箱根・宮ノ下)は日本人経営による初めての本格的外客向けホテル

当時の日本では、国内全域を短時間で移動できるような鉄道網や自動車道は発達していなかったので、滞在型の旅行形態が一般的でした。現在の東京・大阪5泊6日コースのような周遊旅行はありえませんでした。そのため、多くの外客は東京や京都といった大都市以外は、国内各地の温泉地や避暑地、また鎌倉や日光、宮島など主要な観光地の周辺に生まれつつあった外国人経営の洋式ホテルや日本式の温泉旅館に滞在していたようです。当時から日本のキラーコンテンツは温泉だったことがわかります。
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昭和7年の雲仙での滞在欧米客のパーティ風景

ここでちょっと興味深いのは、トップ10の中に長崎県の雲仙温泉が入っていることです。これは前述した横浜、神戸に次ぐ3番目の入国地が長崎だったことと関係しています。中国大陸と日本をつなぐ長崎・上海航路で訪日した上海租界在住の欧米人(なかでもロシア人の比率が高かったようです)が避暑のため、長崎に渡り、雲仙温泉に滞在したからです。いまではちょっと想像つかない話ですが、当時雲仙には多くの欧米客が滞在していた記録が残されています。

※当時の訪日外客の滞在事情については、中村の個人blog 「100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか?」を参照。

インバウンドのイロハは西欧から学んだ

もっとも、1912(明治45)年当時の日本には、海外から訪れる外国人客を受け入れるためのインフラが、ハード、ソフトの両面でほとんど整備されていませんでした。

そのため、「ツーリスト」誌においても、外客誘致のためには何が必要かを啓蒙するため、海外事情の紹介に努めています。

それらの海外レポートの多くを執筆しているのは、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事の生野圑六です。生野は鉄道院の役人で、のちに京浜電気鉄道社長になる人物ですが、ヨーロッパ諸国を中心に海外を視察し、各国の外客誘致の現状について報告しています。彼は日本のインバウンド黎明期に最も積極的に啓蒙活動に取り組んだ論客です。

生野がシベリア鉄道経由でヨーロッパ視察に出かけたのは、1912年6月末から9月末にかけてです。ベルリンで開催された国際旅客交通会議に出席するためでした。

「欧州各国に於ける外客誘致に関する施設」(ツーリスト創刊号(1913年6月))という報告の中で、彼はヨーロッパで見聞した多くのことに驚き、感心しています。以下、ポイントを整理してみます。

①当時のスイスではすでに外客受入態勢が完備していたこと

「瑞西は何度参りましても實に心地善い處であります。外客に対する遊覧設備の完備せること、案内上の用意の行届いていること、廣告印刷物等の豊富なること、山水風光明媚なると共に、隅々まで清潔なること、停車場などに長さ数間の大写真などが掲げてあること、ホテルの空室の有無を停車場内に掲示する設備などもあること」。

「外客に対する遊覧設備の完備」もそうですが、彼は何より外客の「案内上の用意の行届いていること」に感心しています。

②ヨーロッパでは国境を越えたドライブ旅行が始まっていたこと

「近時欧米に於ける自動車の発達は非常なもので、従て自動車で自国内のみならず、外国に旅行に出掛ける者は甚だ多いのであります。此道路の如きもツーリストを招致するのが目的であります。鉄道会社も夏期は乗合自動車を運転して、一定の賃金を以て旅客の需に応じております。吾国に於いても将来或地方には、自動車道路を設けることなども一の問題であろうと思ひます」。

これはフランスのエビアンからニースまでモンブラン山脈を横断する約700㎞の自動車専用道路を視察したことに対する感想ですが、日本では戦後を待たなくてはならなかった本格的なモータリゼーションによる観光市場の促進が、ヨーロッパではすでに戦前期から始まっていたことがわかります。

③パリには観光客を惹きつけるさまざまなインフラが充実していたこと

「巴里には其近郊に風光明媚なる處や、名所旧蹟が沢山ありますが、外客を惹付けるには寧ろ人工的設備、或は人為的方法が興つて力あることと思ひます。即美術博物館の完備せる、公園の大規模なる、市内交通機関の便利なる、市街の美観を保つが為に用意周到なる、皆之であります。暇令ば、公設建造物、廣場、凱旋門、スタチュー、橋梁等一として美術的ならざるはなく、電柱などは一本もなく、電車も高架式は許されて居ません。ホテルの設備は完全にして、而も比較的低廉である。劇場には国立竝に準国立とも称すべきものも四ヶ所を始め、多数あり、名優少なからず、他の諸国に於いては夏時は大劇場は休業する例なるに、巴里は無休で、料理や葡萄酒は廉価にして、而も美味である。尚巴里人はコスモポリタンで、外国人を外国人扱ひせず、吾々の如き異人種でも、白人同様に扱ふ等、其他外国人の為に特に利便を計っていることは、列挙すれば沢山あることと思ひます。之等のことは必ずしも吾国に於いて総て模倣すべきでもないが、又中には大に学ぶべきことがあると思ひます」。

ほとんど手放しの称賛ぶりですが、これが100年前の日本人の正直な実感だったと思われます。

④ヨーロッパでは新聞広告による外客誘致が広く行われていたこと

「(ヨーロッパ各地で発行される英国のデーリーメール新聞は)英米人の大陸旅行者に中々よく読まるるのでありますが、此新聞社は倫敦竝に巴里の中心に、立派なる案内所を持っておりまして、欧州のみならず世界各国の鉄道、汽船、ツーリスト・ビューロー、ホテル等は固より、静養地、遊覧地、シーズン、遊覧設備、自動車旅行、飛行、学校、貸家、貸別荘等に関する報告を與ふること」。

この視察を通して生野が得た最大の収穫は、外客誘致のために宣伝媒体(メディア)がいかに効果的であるかを知ったことでした。今日の日本では当たり前になっている海外に対する訪日プロモーションは、100年前に学んだものだったのです。

生野は帰国後、「ツーリスト」誌において繰り返し外客誘致のための広報機関の運営や宣伝方法、案内所の設立、ツーリスト業者の組織のあり方などを提言しています。それらの報告は、この時期ニッポンのインバウンドが、西欧をモデルに一から形成されていった過程が生々しく伝わってくる内容となっています。

※生野圑六の海外レポートについては、中村の個人blog「100年前、日本は欧州から外客誘致のイロハをこうして学んだ」、「大正期にスイスから学んだ観光宣伝のさまざまな手法」を参照。

外客誘致の目的はいまも昔も変わらない

100年前の日本は、日露戦争に勝利し、世界デビューを果たしたばかりでした。しかし、国民経済は西欧諸国に比べるとまだ貧しく、彼らから学ぶべきことが山のようにありました。

そもそも当時の外客誘致の目的は何だったのでしょうか。

ツーリスト創刊号(1913年6月刊)の巻頭には、「ジャパン、ツーリスト、ビューロー設立趣旨」なる以下の文章(一部抜粋)が寄せられています。

「日本郵船会社、南満州鉄道会社、東洋汽船会社、帝国ホテル及我鉄道院の有志聯合の上『ツーリスト、ビューロー』を設立せんことを期し、諸君の御会合を請ひたるに、斯く多数其趣旨を賛成して、御参集を辱ふしたるは、我々発起人一同の感謝とするところである。抑も漫遊外客は、我日本の現状に照らし、各種の方面より大いにこれを勧誘奨励すべきは、今更贅言を要せない次第である、外債の金利支払及出入貿易の近況に対し、正貨出入の均衡を得せしめんが為め、外人の内地消費を多からしむるに努め、又内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め、国家経済上の見地より、外国漫遊旅客の発達を促すは、刻下焦眉の急たること申す迄もなく、更に一方により考ふれば、東西交通の利便開け、東西両洋の接触日に頻繁を加ふるの際、我国情を洽く海外に紹介し、遠来の外客を好遇して国交の円満を期すべきは、国民外交上忽にすべからざる要点である」。

ここでは、当時の外客誘致を提唱する基本的な考え方として、以下の3つの目的を挙げています。

①「外人の内地消費」
②「内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め」
③「遠来の外客を好遇して国交の円満を期す」

①「外人の内地消費」とは、文字通り「訪日外国人の消費による経済効果」のことです。まだ貧しかった当時の日本にとって、国際客船に乗って訪日する富裕な欧米客の消費力に対する期待は今日以上に高かったことでしょう。

興味深いのは、②「内地の生産品を廣く外人の耳目に触れしめて、我輸出貿易を発達せんが為め」です。これは、そもそも外客誘致の目的は、日本滞在中多くの外客に国内産品を消費してもらうためだけではなく、その良さを広く知ってもらうことにあるという輸出立国的な認識です。インバウンド促進の目的をツーリズム産業内の市場拡大や地域振興とみなすだけでなく、それを輸出産業につなげてこそ意味があるという論点は、すでに戦前期からあったことがわかります。むしろ、「訪日外国人の旺盛な消費への期待」ばかりが語られがちな今日よりも、当時のほうが物事の本質が明確に意識されていたようにも思います。

③「遠来の外客を好遇して国交の円満を期す」は、外客誘致の目的は国際親善にあるという認識です。

「ツーリスト」誌上では、その後、外客誘致に対する「経済効果」論争が繰り広げられます。外客による消費を重視する立場と、国際親善こそ重要で経済効果は二義的なものだという主張に分かれるのです。後者の主張が生まれた背景には、1914年に始まった第一次世界大戦で戦場となったヨーロッパ諸国からの訪日旅行者が減ったことや、その後の長い日中対立がありました。

たとえば、ツーリスト10号(1914年12月)では、「(第一次世界大戦で)欧州方面に失ひたるものを米国方面に補ひ」(「時局と外客誘致策」)というようなヨーロッパに代わる外客誘致先としての米国への取り込みを促す論考。またツーリスト26号(1917年7月)では、「日支两国民間に繙れる空気を一新し、彼の眠れる友情を覚醒し以て日支親善の楔子(くさび)たらん事を期す」(「日支親善の楔子(支那人誘致の新計畫)」と、悪化する当時の日中関係を中国人の訪日誘致によって相互理解を深め、改善しようと提言しています。国際情勢がいかに外客誘致に影響していたかがわかる話ですが、今日においてもそれが同様であることは、ここ数年の近隣諸国との関係悪化で私たちもあらためて理解したばかりです。

こうしてみると、戦前期の外客誘致の目的や課題は、今日となんら変わらないものであることがわかります。現在の日本政府観光局や観光庁が主導する官民挙げたインバウンドの取り組みは、すでに100年前に企画され、実施されてきた事業だったのです。
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1935(昭和10)年に開業した雲仙観光ホテル

その後、昭和に入り、ニッポンのインバウンドは進展を見せます。国策として全国各地に外客のためのホテル建設が積極的に進められました。日本の名立たるクラシックホテルの多くはこの時期建てられたものです

しかし、時局は戦時体制に向かい、結局のところ、外客誘致どころではなく、敗戦を迎えます。それでも、戦後の混乱期を抜けると、再び外客誘致が始まります。その契機となったのが、1964年の東京オリンピックでした。

そして、いま私たちは2020年開催予定の東京オリンピックをひとつの目標として見据え、インバウンド促進を進めています。こうして歴史を振り返ると、日本はすでに外客誘致に関してそれなりの経験を積み重ねてきたことを知ると同時に、いいことも悪いことも含め、これから先も似通った経験をしていくことになるのだろう、という気がします。

それだけに、過去の歴史には、今日から見ても学べる多くの知見があります。今後は、ツーリスト創刊号で提唱された外客誘致の目的のうち、②や③の視点がより重要になってくると思います。すなはち、外客の消費を期待するだけでなく、それを日本のものづくりと直結させていく動きを促進させる必要。さらに、近隣諸国との関係も含め、訪日旅行プロモーションをいかに国際親善につなげていくかという点でしょう。

大正期に一から始まった日本の外客誘致の取り組みを知り、先人の思いや心意気を思うと、その尽力を断絶することなく、きちんと受け継いでいく必要がある。そんな殊勝な気持ちになったものです。

※やまとごころ.jp 28回 100年前の外客誘致はどうだった? 戦前期からいまに至るインバウンドの歴史の話

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by sanyo-kansatu | 2014-03-29 12:33 | やまとごころ.jp コラム | Comments(0)
2014年 03月 15日

ご当地みやげを改造せよ(1919年の提言)

ツーリスト28号(1917年11月)において、国内観光地に外客や国内遊覧客の便宜を図るためのさまざまな設備をつくることを提案したジャパンツーリストビューロー幹事の生野圑六は、2年後、次なる提案をしています。

それは、ご当地みやげを改造せよ、です。

「遊覧地土産品の改造を促す」(ツーリスト40号(1919年11月))の中で、彼はまず伊香保温泉を訪ねた折、遊覧客向けの設備が著しく改善されたことを「愉快」に感じたと述べたうえで、こんなことを書いています。

「一般遊覧地に對し上記六ケ条(ニッポンの観光地は外客の存在を意識して大正期に近代化された)の外更に所謂土産品の改造を促したいのである」

どういうことでしょう。

「今日相当名ある遊覧地を旅行して最も煩く眼に觸れる一は土産品である。曰く『温泉みやげ』『海水浴みやげ』其他神社佛閣に因める、さくら、もみぢもゆかりのあるもの等殆ど幾千種を以て數へらるるのであるが、假令土産品、名物の名は共通であっても此種のものが果たして土地特有の特色を出して居るか否乎は甚だ疑はしいのである。忌憚なく謂はしむれば今日の所謂土産品は其名の共通なる如く其實物も共通であって甲地のものも乙地のものも更に異れる點がない、例へば『松島みやげ』と称する貝細工と『江の島名物』の貝細工とを比較し、又箱根特産と銘打たる木細工と熱海名産の木細工とを比較する時吾人は容易に各自異れりとする其特色を見出し兼ぬるのである」

痛いところを突いていますね。でも、これは今日においても見られる現象ではないでしょうか。

生野は言います。

「土産品としては其種類の如何を問はず絛件として多少に関はらず必ず地方的趣味地方的特色を基礎として加味したものであって欲しい。例へば木曽の名物ならば本曾特有の或物を得て之に歴史的、傳統的な意義を含ませ、其郷土的色彩を加工の上に施したならば、単に一箇の木曽みやげとして見る以外之に由り其郷土人士の趣味性、風俗などより種々なる思想の上のことまで味ひ得られるであらう」

まったくおっしゃるとおりですね。

「一方又みやげ品は地方遊覧地の繁栄を期する上にも可なり重要な財源の一に數ふる事が出来る。従って各遊覧地が工夫を凝らし特色を発揮し、其需要を活発ならしむるに努めれば単に旅客の注意を喚起し趣味を満足せしむるに止らず、或る意味に於ては遊覧地住民に對する副業奨励ともなり遊覧地旅客相互に稗益するところ蓋し鮮少ならざる可しと信ぜられる」

高速道路沿いのサービスエリアがアジア客に人気といいます。そこで販売されるさまざまなご当地みやげを買うこと自体がお楽しみの時間になっているのだそうです。ですから、ツアーバスの関係者も、単なるトイレ休憩の場所ではなく、じっくり時間を取るそうです。

日本人の目からみると、ご当地みやげと称されるものの中には、かつて生野が指摘したようなマユツバっぽい品々も紛れているように思いますが、少なくとも海外の観光客にとって観光アトラクションのひとつになっているというのは、面白い話です。生野は、この光景を見て何を思うのでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-15 11:16 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 15日

ニッポンの観光地は外客の存在を意識して大正期に近代化された

外国人観光客の増加は、国内の観光地にいろんな影響を与えます。その端緒となったのが、1912年のジャパンツーリストビューローの設立を機に、国として外客誘致を始めたことにありますが、それから5年後。国内外の旅客が著しく増加したことが、「遊覧地に對する提案」(ツーリスト28号(1917年11月))という論考の中で述べられています。

ビューローきっての論客、生野圑六はこんな風に書いています。

「斯く旅客増加の原因は勿論交通機関の発達、商工業の隆盛、国民経済の好況其他種々なる理由に基く事でもあらうが、近来我が國民間に健全なる旅行趣味が著しく普及され来たつた事も其主なる理由の一として挙げなければならぬ。殊に今年の夏の如き登山旺盛熱を極め、富士、日本アルプス、木曽御嶽等の登襻者激増し、之が為め中央線の各列車は登山期中殆ど連日白衣の登山者を以て満たされてあつた。而して如上の旅客を呑吐する新宿飯田町两驛に於ける七八月中乗客は九十二萬五千餘名にも達し、昨年の同期に比し實に十六萬八千名の増加であつた」

この記述から、大正期に入ると、近代交通を利用した登山などのレジャーの大衆化が日本で始まったことがうかがえます。当時の登山者はお遍路みたいに白装束だったのですね。こうしたレジャーブームは内地だけ話ではありませんでした。どういうことでしょう。

「従って是等旅客を吸収する地方遊覧地温泉等に於てもこの夏は未曽有の好景気を示し、相当信用ある旅館の如き悉く満員にして一、二週間前豫約し置くにあらざれば到底其客室も得難き有様であつた。単に其は我が内地ばかりではなく満洲に於ても青島に於ても同様であった。外人避暑客も亦日光箱根鎌倉輕井澤温泉(うんぜん)等に避暑せる以外北海道に或は山陰北陸に涼を趁ふて赴けるもの不尠、我が國に於ける主要遊覧地に就き調査せる所に由れば其夏期滞在外人數は昨年に比し今年は約三割の増加であった」

この時期、日本の周縁に「外地」という植民地空間が広がりつつあり、多くの日本人が海外に足を運び始めました。一方、外国人も全国各地の観光地に繰り出していました。おそらく日本の歴史上、これほど多くの人々が一斉にレジャーに出かけるという光景は初めてのことだったに違いありません。

ところが、こうした盛況にもかかわらず、生野はこう言っています。

「我が國民間に旅行趣味の普及され来つた事、實に斯くの如くであるが、一方是等旅客を歓迎収容す可き遊覧地は現在果たして之に對應する丈の進歩発達をなしたであろうか、はた又設備施設を有するであろうか」

そして、「遊覧地に對する提案」として以下の6つを挙げるのです。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事
ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事
ハ)簡易図書館を設くる事
ニ)物産陳列館を設くる事
ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと
ヘ)戦利品陳列に對する注意

以下、簡単に説明しましょう。

イ)半公半私の案内所又は適当旅客斡旋機関を設くる事

「各遊覧地に案内所を設くる事は先づ第一に必要である。欧米の各遊覧地には大抵案内所があつて該遊覧地竝附近の見物散歩に関するインフォメーションを與ふるは勿論、旅館貸家貸室の斡旋をなし、遊覧地の地図や案内書などを無代で配布している。我が國でも已に道後温泉大原海水浴場其他二三のところでは温泉事務所や旅館組合で夫夫斡旋しているやうであるが、是非之は一般遊覧地にも普及さしたい」

まずは観光案内所の設置。これが外客受入の第一歩というわけです。現在どんな小さな町にもある案内所は、この時期に広まっていったのですね。

ロ)簡単にして且実用向の案内記を作る事

「遊覧客誘致上案内記の必要且有効な事は本誌に於ても屡々繰り返し唱道している次第であるが、猶未だ充分とは謂はれぬ。尤も長崎県温泉(うんぜん)の如き懸賞を以て英文露文案内を発行し、別府箱根の如きも町やホテルで英文案内を発行して遠く海外に迄配布しているが、相当名ある遊覧地で未だ案内記を持たぬ所が澤山ある」

国内の一部先進的な観光地では、すでに英文の観光案内書が用意されていました。生野はその内容についてこんなことを書いています。

「案内記の発行といっても多額の費用を投ずる必要は毫もない。半紙一枚乃至二枚大の洋紙に表面に簡単なスケッチマップでも印刷し裏面に交通状態遊覧箇所旅館車馬料金其他を掲載して置けば事たることである。温泉ならば其泉質温度効能入浴上の心得などを記す可きは謂ふまでもない」

内容は簡単でよいが、旅行者にとって必要な情報に絞り込むべし、とのこと。また配布場所や費用の捻出法など細かい提案をしています。

「而して是等は各旅館又は前述の案内所に供へ置き宿泊者に之を與ふる以外、各主要地の旅館或は停車場に配布して旅客誘致の具と為さば一層効果ある事と信ずる。其費用に関しては旅館組合の出資或は町村費を以て作製する事」

さらに、外客誘致のための具体的な提案もあります。

「差当り東洋在住外人竝露人浴客誘致の為め英露文案内記を発行し関係各方面に配布するなど最も時宜に適した遣り方であらう。若し出来得るならば箱根温泉(うんぜん)別府有馬伊香保等少くも外人浴客を収容し得る設備を有する温泉場が共同して相当出資の上、外国文温泉案内乃至ポスターを発行し、更に進んで海外の新聞雑誌へ浴客歓迎の聯合廣告を出す様な方法を取る迄に奮発して貰ひたい」

ハ)簡易図書館を設くる事

「簡易図書館乃至巡回文庫の設置は遊覧客の為めにもなれば又其町村の為めにもなる」「場所は特殊の建物を有せざる遊覧地に於ては学校の一隅乃至物産陳列館の一部或は倶楽部の一部を利用するも可」

スイスでの視察を通し、欧米のリゾート客たちがホテルのカフェなどで読書する姿を見ていたであろう生野は、観光地に簡易図書館が必要であることを提案しています。そこにどんな本を置けばいいかについてもこう言っています。

「而して緃覧せしむ可き書冊は一般娯楽的のものも必要であるが、主として其土地の地理歴史に関したもの、竝に寫眞帖絵葉書地図等附近遊覧の参考となるものを網羅したい。出来るならば参考室を置き其土地の素封家に依頼し所蔵美術品の出品を乞ふとか或は其土地特有の動植物鉱石類の標本、漁具農具等を陳列するとか温泉地ならば其鉱泉の分析表其他各種統計表を掲出し一見して其土地の状況を知り得る様であれば甚だ興味あり且有益であらうと信じる。出品物にはローマ字若しくは英語を以て簡単な説明を附し外人でも利用し得る様にする事」

ニ)物産陳列館を設くる事

図書館に加え、「其土地竝附近の特産物を陳列して一般遊覧客の観覧に供する」物産陳列館も設けるべきだとの提案です。その理由はこうです。

「これがあれば客が散歩の序でに見物し、一瞥して其土地の商況を知る事も出来、又容易に土産物の調達も出来る。一方から見れば又之に由て多少地方商業の改良発達を促す事が出来やふと思ふ。又此処に各商店の廣告を美術的に綜合して掲示し置く事なども有利な廣告法であらう。但しこの陳列所の出品物には必ず算用数字で正札を附け置く事」

ホ)運動娯楽に関する施設を為すこと

「遊覧地に於ける旅客の足止め策として遊覧的設備娯楽機関の必要なるは謂ふ迄もない事である。海外の遊覧地に於ては有名な山岳には登山鉄道架空索道の設備があり又湖上には遊覧船を浮かべ、大抵の所にはゴルフ、テニス、ベースボール、クリケット等運動遊戯に関する設備があって長期滞在客と雖毫も倦む事がない」

今日当たり前に存在する観光地の娯楽設備やスポーツ施設などの設置もこの時期に企画されたことがわかります。

ヘ)戦利品陳列に對する注意

最後の提案は、いかにも100年前の日本人の精神状況を物語っているといえるものです。生野はこう書いています。

「我が國は日清日露の二大戦役を経、近くは青島戦に大勝を得た結果、戦利品豊富にして国内至る所に行亘り少しく著名なる神社公園其他公開の場所に於て殆ど其陳列を見ざるなしといふ有様である。是れは我が先輩の武勇を顕彰し、國民に尚武的精神を涵養せしむる上に甚だ有益な事ではあるが、公園遊覧地等に於てはこれあるが為めに屡々其の風致を害し感興を殺ぎ、殊に外人観光客に不快を感ぜしむる事決して尠なくない」

中国遼寧省の旅順への訪問が外国人に開放された2010年、ぼくはその地を取材で訪れたことがあります。日露戦争の激戦区だった旅順は、すでに中国の町となっていましたが、戦前期の旅順に関する資料や地図などを読むと、当時の旅順のあちこちに、乃木将軍に関連する記念碑やさまざまな「戦利品陳列」物が並べられていたことを知りました。同じことは、日本国内でも起きていたのです。たとえばこうです。

「例へば陸中中尊寺の寶庫には古色掬す可き宋代の名畫がアノ有名な一時金輪佛や舎利寶塔と共に澤山陳列されてある。然るに其名畫の下に日露戦役戦利品たる不格好な錆び果てた小銃其他の戦利品が置かれてある為め兎角の名畫も引立たず観覧者の興趣を殺ぐ事甚しい。又鎌倉八幡宮境内の老梅の下に日露戦役記念たる巨砲が据付けられてあるが、アレなども確かに境内の風致を減殺しているものである。嘗て露国の観光団が来朝した時、某陳列館を見物し、偶ま日露戦役記念品を陳列しある一室に至るや、何れも申合わした如く頭痛と称し早々にして立ち去ったといふ話もある」

生野はこの状況に対して、以下のように述べています。

「斯くの如きは彼等に徒に敵愾心を起こさしむるもので国際的倩誼よりするも恰もミリタリズムを標榜するが如くで甚だ穏かならぬ事であると思ふ。殊に最近露国人竝支那人旅客の増加せる折柄一層本問題に對し注意を佛ふ事が肝要である。余の理想を謂へば公園遊覧地等の如き場所より是等戦利品を撤去し第二の國民を養成する学校内の一部に陳列するか或は特に神社の一部の如き場所にでも纏めて陳列する様にしたい」

生野の提案は、当時の日本人がほとんど気づいていなかった外客の目線を意識した具体的な内容でした。今日その多くの提案は実現していますが、我々が学ぶべきは彼の外客に対する細やかなまなざしというべきでしょう。

ニッポンの観光地は、こうして外客の存在を意識して大正期に近代化されていったのです。もし生野が今日生きていたら、我々にもたくさんの注文がつけられるかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-15 11:02 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)
2014年 03月 14日

1933(昭和8)年の「アメリカ人は日本で何を見たいか」番付表

日本政府観光局(JNTO)の前身にあたる国際観光協会は1931(昭和6)年に発足しています。同協会が1930年代にアメリカで実施したユニークな事業について、ツーリスト155号(1933年8月)は紹介しています。

それは、米国の雑誌「アメリカン・ボーイ・マガジン」誌上において実施した「日本……なぜ僕は日本へ行きたいか」という題名での懸賞論文募集でした。

ツーリスト誌では、同募集に寄せられた1775通の中から、彼らの訪日旅行の関心事として論文に出てきた地名や風物、文化などを件数別に整理し、以下のような番付表にまとめています。
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まず西から。大関は富士山、関脇が桜、小結が川(瀑布)、前頭は花卉、稲田、国民精神、山嶽、風習、キモノ、スポーツ、農山漁村、建国歴史、宗教、温泉、樹木、自然美、日本語、著名の士。伝説、祭礼、鳥獣魚、サムライ、海、労働者、箱園、藝妓、演劇、日本文学、音楽、火山、地震、金魚、娘。

東は大関が神社仏閣、関脇が近代都市、小結が日本建築、前頭は美術、古都、人力車、生絲、塔、日本料理、近代産業、下駄、土産物、諸制度、茶、陶器、漆器、宮城、象牙、鳥居、銀座、提灯、玩具、満州問題、真珠、買物蒐集、茶店、三十三間堂、橋、刺繍、茶の湯、鵜飼、駕籠、凧。

さらに、行事は大仏と日光、宮島。世話人が日米親善と交通機関、近代文化とあります。当時のツーリスト誌の編集者はしゃれっ気を出そうと番付表にすることを思いついたのでしょうが、その効果が出ているかというと、う~ん。

番付表に出てくるアイテムはあまりにランダムすぎて、ワケがわからないものもありますが、当時のアメリカの青年たちが日本について知っているさまざまなイメージの断片が並べられていて、なんだか面白いものです。思うに、これらのイメージは実のところ、現代のアメリカ人の日本観という意味でも、そんなに中身は変わっていないのではないか(もちろん、ここにはない現代的な事象は加わるでしょうけれど)と思ったりします。

それを嘆かわしいなどと思う必要はないでしょう。所詮外国人の日本理解とはそういうものだという認識が必要ではないか。だって自分だって一度も訪ねたことのない国についてイメージを挙げろといわれれば、似たようなものでしょう。最近、よく街角で見かけるようになった外国人観光客の姿を見ながらそう思います。誰を責めるような話ではないのです。

何が言いたいかというと、こうした断片的な日本理解を前提とした外客向けのわかりやすく面白い情報発信が求められているということです。彼らに一から説明することの難しさを我々はもっと知る必要があると思います。
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by sanyo-kansatu | 2014-03-14 17:59 | 歴史から学ぶインバウンド | Comments(0)