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2015年 01月 14日

北朝鮮側から眺める中朝ロ3か国国境

2014年7月、中国・北朝鮮・ロシアの3か国が国境を接する吉林省琿春市の防川地区を訪ねようとしたところ、外国人の入域は禁じられていることがわかりました。15年1月現在もそれは変わっていないようです。

【追記】
2015年夏以降、解禁されたようです。国境事情は日々刻々変わるものです。

これまでぼくはこの地を2回訪ねたことがあり、本ブログでも以下のように報告しています。

中朝ロ3か国の国境が見渡せる防川展望台(中国吉林省)
http://inbound.exblog.jp/20449425/

これは琿春市の旅行会社がつくっているパンフレットの表紙です。中国の古代の城壁に囲まれた塔のような建築物が写っています。これは何なのか。あとで説明します。
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さて、防川国境を訪ねることができなかった背景に、中国政府がこのところ朝鮮国境付近への外国人の立ち寄りに敏感になっていることがあるようです。昨年8月の朝日新聞の記事でも、現地記者からの以下の報告がありました。

中国、脱北者の連行容認 北朝鮮当局、拘束し帰国(朝日新聞2014.8.15)

中国東北部の北朝鮮との国境地帯で、中国の地元当局が北朝鮮の治安当局者による脱北者の拘束や連行を容認している実態があることがわかった。脱北者の北朝鮮への送還をめぐる国際社会の批判を受け、中国側が拘束してきた従来の方法から転換したという。

複数の中国当局関係者によると、北朝鮮国家安全保衛部などの当局者は、独自に集めた脱北者の潜伏情報をもとに、中国への入国を申請。中国側から、中国領内で使う車両の提供を受け、対象の脱北者を拘束後、連行して一緒に帰国する。中国での滞在期間は通常、1日から数日という。

中国は北朝鮮と刑事事件に関する捜査協力条約を結んでいるが、双方とも自国領内での捜査・逮捕までは認めていない。しかし、中国東北部の政府関係者は「送還された脱北者が処刑されているとして中国が国際的な批判を受け、数年前から中国の治安当局は出動しなくなった」と話した。

中国での北朝鮮当局者の活動をめぐっては、遼寧省瀋陽の韓国総領事館が今年3月下旬、「中朝国境で北朝鮮による拉致事件が起きている」という注意喚起を韓国人向けに行った。韓国政府関係者も、「中朝の治安部門でなんらかの協定があるのではないか」とみている。

中国に逃げこんだ複数の脱北者によると、3月下旬、中朝国境近くの旅館に身を隠していた脱北者数人が突如、行方不明になる事件が起きた。北朝鮮当局者が、一度捕まえた脱北者を密告者として教育し、新たな脱北者の拘束に利用しているという。脱北者の失踪は、毎月のようにあるという。国境警備を担う中国軍関係者によると、今年に入り、中国に逃げる脱北者は増加傾向にある。

脱北者をめぐっては、国連の北朝鮮人権調査委員会が今年2月、最終報告書で中国など周辺国に保護を勧告。国連の人権理事会も3月、北朝鮮への非難決議を採択し、安全保障理事会に指導者の責任追及や制裁措置を検討するよう求めた。

一方、中国政府は3月の非難決議に反対。報告書の指摘についても、「中国は一貫して国内法、国際法、人道主義に基づき、対処している」(外務省)と反論している。


中国領内での北朝鮮当局者による脱北者の拘束、連行の容認。中朝国境地域では、あいかわらず「法治」もへったくれもない、乱暴なことが起きているようです。こうしたことに外国人が巻き込まれてしまうことは中国側も望んでいない。そのため、以前は訪問を歓迎していたのに、立ち寄りを禁じる国境地区も一部出てきたという話なのでしょうが、だからといって防川のような場所が禁じられる理由はよくわかりません。

仕方ありません。だったら、防川国境を中国側からではなく、対岸の北朝鮮側から眺めてみよう。それが実現したのが、それから1週間後のことです。

その日、ぼくは北朝鮮の羅先特別市のホテルから車で中朝ロ3カ国国境に近い豆満江駅に向かっていました。道中は豆満江(中国名:図們江)下流域の湿原と水田が広がる緑豊かな風景が続きました。先ごろ完成したロシアとの鉄道路線は東に向かって延びていました。線路の脇に立つコンクリートの電柱も真新しい。いま羅先にあるインフラの大半は老朽化が進んでいますが、ロシアが使う羅津港の第3埠頭とこの鉄道路線は輝いて見えます。
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鉄道路線と並行して走る道路沿いには、こんな標語も見られました。
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「意義深い今年を穀物増産で輝かせよう!
宇宙を征服したその精神、その気迫で経済強国建設の転換的局面を開いていこう!」

おそらく2012年12月の北朝鮮による「人工衛星」と称するミサイル発射(防衛省・自衛隊)について言及しているのでしょう。

湿原には水鳥たちも多く生息しています。
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さて、これがロシアとの国境駅となる豆満江駅です。外観は立派ですが、駅舎の中には人気はありません。運行状況が気になるところですが、現地ガイドがそれを知っているはずもなく、調べるとしたらロシア側に聞くしかないかもしれません。
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これが税関の建物だそうです。
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その向かいに集会場のような建物がありました。駅周辺にあるのは、これだけです。
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さて、ここで車は折り返すのかと思ったら、さらにロシア国境方面に向かって走り出しました。

しばらくすると、北方に中国の旅行会社のパンフレットに掲載された中国風の高い塔が見えました。その背後に展望台も見えます。そうです。それが防川国境展望台だったのです。
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数年前、防川を訪れたときにはこの塔はなかったので、ここ1、2年で建てられたものでしょう。それにしても、ずいぶん時代がかった建造物をこしらえたものです。三国志の時代でもあるまいし……。思うに、中国側からすれば、中朝両民族がこれまで混住してきた図們江流域も、いまや「中華」の支配する地域であることを明確にさせたい意図があるのではないでしょうか。中国風の塔は、その楔のようなものです。一方、朝鮮側からみれば、これまで極東ロシアまで含め、あいまいに広がっていた図們江流域における「中華」の国境(くにざかい)に対する強い意思を読み取るよう強いられる視覚的なシンボルとして映るかもしれません。

防川国境の右手に朝ロ友好橋が見えました。
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車はさらに東に向かってひた走りました。途中、干潟湖のそばに朝鮮風の建物が見えたので、何かと聞くと、宿泊施設だそうです。
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そして、ロシア国境に近い高台を上ると、やはり朝鮮風の建造物が建っていました。その建物の脇を抜け、さらに頂上まで上ると、立派な屋根で覆われた石碑と案内人の女性が待っていました。
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それは、「勝戦台」と呼ばれる16世紀の李舜臣将軍の戦績を讃える碑でした。石碑には以下のように書かれています。
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「保存遺跡第1480号 勝戦台碑

偉大なる領導者、金正日同志は次のように指摘された。
『歴史遺跡と遺物をきちんと管理し、長く保存するための対策を徹底して立てなければなりません』。
この碑は、16世紀に李舜臣将軍が女真族の侵入を撃退し、祖国の北端を守り抜いた闘争業績を後世に伝えるために1762年に建てた記念碑である。

碑文には、1587年に辺防の野蛮人たちが侵入した時、ここを守っていた李舜臣将軍が少ない兵力で敵を待ち伏せして叩き潰したので、後世の人たちがここを勝戦台と呼んだという内容が書かれている。

勝戦台碑は、外来侵略者たちを撃退し、国を守り、戦ったわが人民の闘争の歴史を伝える文化遺跡である」。

ということだそうです。北朝鮮が持ち出す歴史がどこまで史実に近いものなのか、常に疑問がつきまとうわけですが、これは中国側の塔と同様、北朝鮮側の国境(くにざかい)を守る意思を表明するシンボルということなのでしょう。

そこからは図們江(朝鮮名:豆満江)とその下流域に広がる水田や、その先に広がるロシア領がよく見渡せました。同じ流域である以上、自然条件はほとんど変わらないと思いますが、朝鮮側は水田が広がっているのに対し、ロシア側は未耕地となっているようです。
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それから車は、図們江沿いの道を走り、中国の国境ゲート・圏河口岸の対岸にある元汀里に向かいました。河沿いを走っていると、延吉の知人からの電話がかかってきました。国境近くであれば、中国携帯がふつうに使えるようです。
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図們の対岸の南陽から延びていたかつての「咸北線」の線路も見かけました。これは日本統治時代に敷かれた羅津駅に向かう鉄道と思われます。ただし、ロシアとの新しい鉄道路線に比べると、かなり老朽化していました。客車のような車両が駅に停まっているのも見ましたが、これも相当な代物でした。
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※「咸北線」については以下参照。

1934(昭和9)年初秋、72歳ベテラン編集者の「北鮮の旅」
http://inbound.exblog.jp/20710254/

こうして半日かけての豆満江下流域のドライブの旅が終わりました。2年前に来たときは、雨で道路が使えず断念したことがあったので、ようやく実現できたという感じです。

ところで、中国はいま、やたらと巨大な国境ゲートを周辺国各地に建設しています。北東アジアでいえば、ロシアや北朝鮮、東南アジアではベトナム、ラオス、ミャンマーなどです。

たとえば――

【ロシア国境】綏芬河の新国境ゲート建設は進行中
http://inbound.exblog.jp/23962530/

【ラオス国境】ゴーストタウンと化していた中国・ラオス国境の町ボーテン
http://inbound.exblog.jp/22437603/

それらの多くは、国境を接する相手国に対する圧倒的な力の差を見せつけることが目的であるかのように、どこかこけおどし的な感じがしないではありません。今回見た中国風の塔もそうだったように。

実際、中国と国境を接する国々はどこでもそうですが、人口規模や経済力の面で違いが大きいため、せっせとこしらえた建造物も、視覚的な効果はともかく、人やモノの往来からみたコストパフォーマンスもそうですが、国境の実態とは釣り合っていないように見えるのも確かです。

皮肉な言い方をすれば、もろもろの熱狂の時代が終わったあと、昔はこんなにすごかったんだぞと、未来のための証明づくりにいそしんでいるように見えなくもありません。それが中国の歴史というものの正体なのかもしれない。そんな気がしないでもありません。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-14 10:36 | 朝鮮観光のしおり | Comments(0)
2015年 01月 04日

ソ満国境・対ソ戦の歴史を物語る東寧要塞

昨年7月、アジア最大規模の日本軍地下要塞といわれた東寧要塞を訪ねました。
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場所は、中国黒龍江省の綏芬河から約50km南に位置する東寧県のロシア国境近くにあります。

1934(昭和9)年6月に関東軍によって建設され、主要部分は37年に完成。45年8月9日のソ連軍の侵攻後、この地下要塞に配備された東寧要塞守備隊は敗戦から10日過ぎの26日まで戦い続け、玉砕することなくソ連軍の降伏勧告に応じて武装解除したことから、「第二次世界大戦最後の戦場」という碑が置かれています。
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現在、東寧要塞の一部にあたる勲山要塞の内部が公開されています。

これが勲山要塞の入り口です。
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入り口を入ると、レールと階段が敷かれた急勾配があります。ここは砲台で、砲撃が終わると砲車を中に引き上げるようになっていたそうです。
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炭鉱の坑道のような通路が続きます。
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「軍官宿舎」とあります。そこそこ広いスペースの部屋になっています。
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山の中をくり抜かれた地下要塞の中は、夏でも湿った冷気で長時間過ごすのは大変そうです。
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「作戦指揮室」とあります。
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こちらも相当広い部屋ですが、コンクリートの壁を湿った水がぬめりと覆っています。
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洗面所(トイレ?)でしょうか。
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内部には複数の砲台跡があります。
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これが現在、観覧できる地下要塞の地図です。もちろん、要塞はさらに張り巡らされていたはずですが、安全上などの理由で公開されていません。
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要塞の外はごつごつした岩山で、あちこちに砲台跡や通気口があります。
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当時、満洲国の東部国境地帯の東寧から北に向かって約300㎞の虎頭までの一帯は、対ソ戦に備えて構築された関東軍最大の要塞地帯でした。
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勲山要塞(東寧要塞の一部)
黒龍江省牡丹江市東寧県三岔口鎮南山村南
http://www.dnys.org.cn

この地下要塞を整備し、公開したのは、もちろん中国です。彼らから見た東寧要塞についてはまた後日。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-04 10:46 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

綏芬河の新国境ゲート建設は進行中

中国黒龍江省の綏芬河では、ロシアとの国境ゲートの周辺を「国門旅游区」として開発しています。

中国のイミグレーションを訪ねると、帰国の途につくロシア人たちがやって来ました。
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彼らは吸い込まれるように、出境オフィスの中に入っていきます。
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現在、ここでは新国境ゲートを建設中です。
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これが未来図ですが、規模の大きさは半端じゃありません。
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これが古い国境ゲートです。
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中国人観光客も来ていて、記念撮影しています。
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この「旅游区」の中では、2013年夏から中国国際口岸貿易博覧会が開催されています。
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この博覧会について
http://www.erina.or.jp/jp/Library/bn/pdf/bn99.pdf

ネットなどの情報によると、昨年8月も、ロシア各州や韓国、台湾などの名産品(食品や酒)、中国の自動車部品、住宅建材、日用品、衣類、機械などが出展されていたもようです。

会場となった巨大なビルは、ふだんはロシア産品などの販売展示場になっていました。
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やたらと広いスペースに、イクラの瓶詰とかズワイガニの缶詰とかがちょこんと置かれています。
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ロシアのチョコレートも。
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中国客が買い物しています。
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マトリョーシカも売っていました。本来ロシア土産のはずですが、黒龍江省ではハルビンをはじめ、けっこういろんな場所で売っています。
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よく見ると、「中国産」でした。

おそらくロシア人ツーリストの来訪をあてこんで投資されたものと思われますが、ここにはホリディ・インがあります。ただし、館内は閑散としていました。おそらく大半のロシア人たちは、市内のもっとリーズナブルなホテルを利用しているのだと思います。
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はたしてこの中ロ国境は今後も発展していくのでしょうか。

綏芬河の街中にあふれるロシア人と中国商人たちが繰り広げる活気は確かに興味深いことです。

一方、今日の中国とロシア、とりわけ極東における両国の人口規模や経済力の違いを考えると、北朝鮮との関係ほど悲観的ではないものの、どこまで輝かしい未来が待っているかについては複雑な思いがないではありません。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 18:01 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

綏芬河の土曜の夜は、ロシア人も中国人も踊る、の巻

昨年7月、綏芬河を訪ねたとき、毎日通いつめたレストランがあります。まちいちばんのロシア料理店「マクシムレストラン(馬克西姆餐庁)」です。

このレストランの3階のバーはちょっとしたクラブスペースになっていて、土曜の夜の10時過ぎに足を運んでみたら、ロシア人と中国人が仲良く踊っていました。手前にいるワイングラスを手に咥え煙草のロシア人のお姉さんはなかなかカッコ良かったです。
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いまどき中国のどこの地方都市でもこの手の場所はあるものですが、ロシア人がこんなにあふれているのは珍しいでしょう。客の7割がロシア人、3割が中国人という感じでしょうか。電光掲示板にはロシア語と中国語が交互に流れてゆきます。
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音楽的にはわりとありふれた洋楽中心ですが、たまに聴き慣れないロシアンポップスがかかると、ロシアの女の子たちも俄然盛り上がり、いい感じになります。
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この鳥かごに入ったロシア人ダンサーは、このまちに出稼ぎに来ているのでしょうか。

ここでは、毎晩クラブ形式でさまざまなイベントを開催しているのだそうです。特に週末の夜はクラブDJが仕切るダンススペースと化すので、人気があるのだとか。

綏芬河、週末のマクシムバーにて(動画)
http://youtu.be/_1zxaTjS8oA
http://youtu.be/mp6aLr4k5ww
http://youtu.be/ENUZxRWt9Y0
http://youtu.be/PlT83_VSkWc

ちなみに、1、2階のレストランはロシア料理中心のメニューでしたが、午後はコーヒーとケーキでのんびり過ごすこともできます。
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中国の地方都市を長く旅していると、こういう一息つける場所はそんなにないので、助かりました。客の大半はもちろんロシア人です。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 17:24 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

綏芬河にはロシア人ツーリストがいっぱい

これまで昨年7月に訪ねた綏芬河駅の様子歴史的町並みを紹介してきましたが、いよいよ現在のまちの姿を見ていこうと思います。

舞台は、市の中心に位置する旗鎮広場の東側に広がる「中ロ商業貿易街地区」周辺です。

この一角には、ロシア人ツーリスト相手の商店やレストラン、マッサージ店などが並び、ロシア語の看板で埋め尽くされています。ロシア人仕様の衣料や生活雑貨、食品などを扱う商店があります。
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中国国内でこれほどロシア語のあふれるまちはないのではないでしょうか。広告ポスターもたいていロシア人がモデルです。
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これがこの地区の昼間の様子です。ロシア人だらけです。
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2012年夏にロシア極東を訪ねたとき、ウラジオストクの若い女性がこう話してくれたことを思い出しました。「ウラジオストクに住むロシア人の多くは、半年とか1年ごとに給料を貯めて、中国に買い物に行くんです。ロシアはモノが少ないし、高いから。私はこの前綏芬河で毛皮のコートを買いました」。確かに、綏芬河にいるロシア人は男性より女性の比率が圧倒的に高いように見えるのも、買い物がいちばん目的で来ているからでしょう。日本の女性が韓国旅行に行くのと似ているのではないでしょうか。彼女らにとって半年、1年ぶりのハレの場なのです。実際、みんなとても楽しそうです。
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このまちには地下街があり、商店の販売員は誰もがロシア語を話します。
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商品の値札はルーブル表記です。
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ショッピングモールもあります。
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ロシアレストランも何軒かあり、家族やカップルで食事を楽しむ人たちの姿が見られます。彼らは中国料理も好んで食べるので、たいていのレストランのメニューには西洋料理と中国料理がミックスされています。
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「マクシムレストラン(馬克西姆餐庁)」の広告(動画)
http://youtu.be/HcKxBXx1kvo

ここはまさに「中ロ友好」を絵に描いたようなまちといえます。政府の公用車には、プーチン大統領と習近平主席が握手するポスターも貼られて、それをアピールしています。
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夜はロシア語のネオンが色鮮やかに輝いています。
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これが中ロ国境のまちのいまの姿です。

もっと綏芬河の夜を知りたければ、以下を参照ください。

綏芬河の土曜の夜は、ロシア人も中国人も踊る、の巻
http://inbound.exblog.jp/23962403/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 12:54 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 03日

「典型的な露西亜式」綏芬河の歴史的街並みを歩く

戦前期のグラビア誌「満洲グラフ」は、1935年当時の綏芬河について以下のように記述しています。

「人口約一万、大部分は露人と滿人で、鮮人がこれに次ぎ、日本人も六百人位住んでいる。町は山の斜面に建てられ、その中央には全市をしろしめすかのようにロシア正教寺院の尖塔が聳え、如何にも典型的な露西亜式の『山の町』を成している」(「満洲グラフ」1935(昭和10)年5月号)

昨年7月、綏芬河を訪ねました。80年前に「典型的な露西亜式の『山の町』」といわれた歴史的な街並みを歩いてみました。

まず綏芬河駅から。1898年に開業した東清鉄道の駅です。
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これが乗車口です。この駅にはロシア側の国境のまち、グロデコヴォ行きの列車が1日2本出ています。
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駅舎内です。
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鉄道をまたぐ橋の上から、ロシアからの木材を満載した貨物列車が見えます。
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これは東清鉄道の技術者のための宿舎で、現在は「鉄路大白楼」(1903年竣工)と呼ばれています。満鉄職員の宿舎だったこともあります。現在は市が来賓を接待する場として使われているようですが、観覧はできません。
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その隣にも当時の鉄道関係と思われる建物があります。駅の周辺にはこうした建物がいくつか残っています。
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駅からまっすぐ坂を上った先に東方正教会(1913年)が建っています。
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いまでも礼拝は行われているようですが、ロシア正教ではなさそうです。内装は当時の面影はありません。
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これは当時のロシアとソ連の領事館(1910年)です。新中国になると接収され、共産党の機関や郵便局などに使われました。
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現在は文化施設として再利用される予定のようです。
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この大きな建物はロシア人学校です。日本時代は軍の施設だったようですが、現在は幼稚園のようでした。子供たちの歌声やピアノの音色が聞こえました。
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これは1916年に建てられたホテルでしたが、24年に共産党の幹部がここで会合をしたことから「綏芬河革命紀念地」と書かれています。現在は針灸と按摩の病院のようです。
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これは旧日本領事館です。建物自体はロシア人商人が1914年に建てたもので、22年に日本政府が購入して領事館にしました。文化革命時には排外的な暴徒によって美しい装飾が破壊されるなど被害があったものの、92年に修復されました。
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3階と4階の間に施された人の顔の装飾が珍しいことから、「人頭楼」と呼ばれています。もっともこれを見る限り、ずいぶん雑な修復ぶりですね。現在は、語学教室など、いくつかのオフィスが入居する雑居ビルとなっています。
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まちの中心に位置する広場は「旗鎮広場」と呼ばれています。
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頭上から広場を眺めると、ヨーロッパのような街並みに見えます。この辺境の地でもマンション建設が進んでいることがわかります。
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このまちでは、通りやバス停の表示にはロシア語が併記されています。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-03 11:17 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2015年 01月 02日

朝9時半、綏芬河駅にロシア人が大挙して現れる、の巻

「露語で『国境に沿ふ町』を意味するポグラニーチナヤは、單に北鐡東部線(現名綏芬河線)の終点であると言ふばかりではなく、國境驛として特異な風格を持っている。
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人口約一万、大部分は露人と滿人で、鮮人がこれに次ぎ、日本人も六百人位住んでいる。町は山の斜面に建てられ、その中央には全市をしろしめすかのようにロシア正教寺院の尖塔が聳え、如何にも典型的な露西亜式の『山の町』を成している。

日、蘇の領事館はじめ、両國の税關、滿洲國國境警備隊もあり、滿洲里との間に一週三回往復する北鐡國際列車が着發する日には、蘇聯邦の方から鳥鐡(ウスリー鐡道)の列車も連絡のために本驛に進入して来る。

北鐡の接収によって、ポグラニーチナヤの驛名は永久に解消され、滿洲名の綏芬河だけが残る事になった」(「満洲グラフ」1935(昭和10)年5月号)

昨年7月、中ロ国境にある黒龍江省の綏芬河を訪ねました。

朝9時半、綏芬河(旧ポグラニーチナヤ)駅の降車出口にロシア人が大挙して降りてきました。
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大人から子供までいますが、やはりロシアの若い女の子たちの快活な姿は、中国の辺境のまちを華やかにしてくれます。
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皆さん、大きなバッグやスーツケースを手にしています。彼らは中国のお隣の極東ロシアからやって来たツーリストです。
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彼女らの頭の中は、さぞや滞在中の買い物や食事のスケジュールのことでいっぱいでしょう。
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しばらくすると、皆さん駅前で待っていたバスに分乗して市内のホテルに消え去りました。
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2014年7月中旬午前9時半、綏芬河駅にて(動画)
http://youtu.be/7H7ciL_w3vg
http://youtu.be/K5dvycowSIc

綏芬河の都市建設は、20世紀初頭の東清鉄道の敷設に始まります。ロシアはハルビンからポグラニーチナヤ(綏芬河)までの鉄道建設を着手しましたが、その後、日露戦争や満洲国成立を経て日本の管理下に編入されていきます。前述のグラビア記事は、まさにその直後に書かれたものです。

そして、これがそれから80年後の中ロ国境のまち、綏芬河の姿なのです。

万年モノ不足で悩まされている極東沿海地域に住むロシア人たちが中国東北地方に大挙して現れるようになったのは、1990年代の後半くらいからのことです。

背景には中ロの経済逆転があります。その事実に気づいたロシア人エリートたちは当時、相当ショックを受けたそうですが、一般のロシア市民にしてみれば、国境を越えた先に、こんなに安くてモノが豊富な場所があれば、迷わず足を運ぶことになるのは当然だったでしょう。

こうして綏芬河は、ただの中国の辺境の地からロシア人ツーリスト仕様のにぎやかなまちになりました。もともとロシアが建設したまちに“出戻り”を始めたロシア人たちと商機を求めてこの地に集まってきた中国人がこのまちの主人公なのです。

昨夏見た綏芬河のまちの様子については、次回ご報告します。

「典型的な露西亜式」綏芬河の歴史的街並みを歩く
http://inbound.exblog.jp/23961267/

※実はあとで綏芬河駅の時刻表を確認したところ、9時半に到着する列車は大連発ハルビン経由であることが判明しました。つまり、この写真に写っているロシア人ツーリストは、大連またはハルビンなどをめぐるツアーに参加し、ロシア帰国前の最後の目的地として綏芬河に到着したものと考えられます。実際、大連は金石灘のような海水浴場もあり、ロシア人に人気だという話もウラジオストクで聞きました。綏芬河からだと国際バスでロシアに戻ることも簡単なので、ここで降車するのでしょう。いずれにせよ、皆さん買い物するならやっぱり綏芬河なのです。その様子は以下を参照ください。

綏芬河にはロシア人ツーリストがいっぱい
http://inbound.exblog.jp/23961594/
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by sanyo-kansatu | 2015-01-02 23:55 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2014年 12月 25日

大連の中山広場の歴史と地下鉄開通の報

大連の中山広場は、ロシアがこの地を租借した20世紀初頭、最初につくった直径213mの美しいサークル型の広場で、「ニコラヤフ広場」と呼ばれていました。
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このサークルを中心に放射状に通りが延びるという、19世紀のパリの都市計画を意識した最先端の都市構造が大連に生まれたのは、日本というよりロシアの植民者たちの企図したものではありましたが、その後、日本の手により広場の周辺には10棟の特徴ある欧風建築が建ち並びました。日本統治時代は「大広場」と呼ばれていました。

実際、アジア広しといえども、このように広場と通りが連結し、都市全体が広がっていくようなスケール感を持ったまちづくりは(身近なところでは、田園調布がそうかもしれませんが)大連くらいしか思いつきません。

これが戦前期の大広場の写真です。
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周辺には、大連ヤマトホテルや横浜正金銀行、大連市警察署、大連市庁舎などの重要建築が建てられ、そのほとんどが現存しています。
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中山広場はなんといっても、頭上から眺めたときの美しさが印象的です。

特に夕暮れ時の中山広場は、息を呑むような光景です。この写真は2006年9月に撮影したものです。撮影場所は、現在の中国銀行大連支店(旧横浜正金銀行)の裏手にある高層ビルの屋上階にあったバーの展望台でした(最初の1枚も同じ場所から少し明るい時間帯に撮ったもの)。
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ところが、08年に訪ねたときには、このバーは営業をやめていました。それが直接の理由かどうかわかりませんが、この頃から徐々に大連でも地下鉄工事が始まり、中山広場の周辺はフェンスで覆われ、隠されてしまったからです。

大連の地下鉄工事は、予想以上に難航し、時間がかかったようです。

それでも、今年7月に訪れたときには、再び中山広場は姿を見せてくれました。地下鉄工事の完了にともない、元通りの広場に戻っていたのです。

そこでぼくは、再び中山広場を頭上から撮影できる絶景スポットを探すことにしました。

現地の旅行会社の皆さんに聞いたところ、ふたつの高層ホテルが候補に上がりました。

ひとつがインターコンチネンタルホテル大連です。

場所は中山広場より大連駅に近い友好広場に面しています。さっそく、同ホテルの関係者を訪ね、中山広場が見える客室に通してもらいました。

これがその写真です。2006年の撮影場所とはほぼ反対側からなので、大連港まで延びる人民路や大連湾まで見渡せます。人民路沿いには高層ビルがいくつも並んでいます。
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これがインターコンチネンタルホテル大連の外観です。
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同ホテルが提供してくれた夜景の写真です。おそらく大連で最も美しい夜景の見られるホテルといってもいいでしょう。
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もうひとつが2013年12月にオープンしたアロフト大連です。場所は、中山広場から延びる魯迅路に面しており、インターコンチネンタルとは逆向きから広場を見ることができます。ヤマトホテルの裏から眺める中山広場というのも、面白いです。
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アロフト大連は、スターウッドグループのヤングエグゼクティブ向けのファッショナブルなブランドで、今回一泊したのですが、大連一スタイリッシュなホテルといえそうです。
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フロントからロビーの待合室、各フロアの廊下、そして当然客室も、都会的なセンスであふれています。どちらも外資系の高層ホテルですが、この手のホテルが大連にもお目見えする時代になったのですね。

さて、ロシアによる美しい都市計画の名残を感じさせる中山広場ですが、その後都市建設のあとを継いだ当時の日本人は何を考えていたのでしょうか。明治以降、西洋から学んだあらゆる思想や技量をすべてこの地に注ぎ込もうと懸命になっていたに違いありません。

もっとも、日本もロシアもヨーロッパから採り入れた最先端をこの地に再現しようとしたという意味で、どこか背伸びしたところは似ていたのではないか、という気もします。

来年には大連で地下鉄が開通するそうです。
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1号線は高速鉄道が発着する大連北駅から星海広場あたりまで。2号線は大連港(東港)から中山広場、人民広場、大連空港を通り、大連北駅につなぐ路線のようです。



※2015年5月22日についに地下鉄が開通しました。運行している路線はまだ一部ですが、空港から市内へは行けます。

大連の地下鉄開通で市内のホテルに楽々直行できるようになりました
http://inbound.exblog.jp/24550588/
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by sanyo-kansatu | 2014-12-25 14:22 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2014年 12月 03日

ハルビンで“出戻り”ロシアの味覚に出合う

中国黒龍江省の省都ハルビンは、19世紀末にシベリア鉄道の要衝として建設された都市です。いまでは人口600万人という大都市ですが、100数年前は小さな村でしかありませんでした。

20世紀初頭、8000㎞も離れた欧州からこの地に現れたのは、ロシアの将校や軍人、シベリア鉄道の技師、百貨店の経営者、木材を扱うユダヤ商人などさまざまな人種でした。その結果、ハルビンは「極東のパリ」とも呼ばれる多国籍都市になりました。

新中国建国後、この地に暮らしていたロシア人や外国人たちは徐々に姿を消します。ぼくが初めてハルビンを訪れた1980年代半ば頃には、そんな華麗な略歴がウソのような、暗くよどんだ埃まみれの北方の田舎都市へと変わり果てていました。

ところが、2000年代以降の中国東北部の経済成長でロシア人ビジネスマンや旅行者、留学生などが再びハルビンに現れるようになりました。

いま、ハルビンでは“先祖返り”が起きているのです。

そんなハルビンに来たら、ぜひ味わってほしいのがロシア料理です。
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今年7月中旬、夕暮れ時を迎えた松花江のほとりにあるロシア料理店「カチューシャ」を訪ねました。
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店内は木のぬくもりを感じさせるシックな内装で、アットホームな雰囲気を味わいながら食事が楽しめます。
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人気メニューはカツレツやロールキャベツ、ボルシチなど。ワインやシャンパンはもちろんロシアモノですが、ウエイターのイケメン青年ワーリャさんもイルクーツク出身です。
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このちょっといかつい男性がオーナーの李宏南さんです。店の名「カチューシャ」は彼の奥さんの名前から採ったそうです。奥さんはハルビンのはるか北方、シベリアのヤクーツク出身のロシア人で、留学先のこの地で地元出身の李さんと知り合い結婚。本場のロシア料理を出したいという彼女の思いから、2006年家族経営の小さな店を始めたといいます。
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奥さんの故郷ヤクーツクはタイガの中で冷凍保存されていたマンモスが発掘されたことで有名です。実は、お産のため里帰りしていた彼女とはお会いできなかったのですが、ご主人に写真を見せてもらったところ、ロシア系ではなく、シベリアの北方民族の女性でした。
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ロシア料理店「カチューシャ」
ハルビン市道里区中央大街261-1号

もう一軒のロシア人経営のレストランが「アラウンド・ザ・ワールド(环球者西餐厅)」です。
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店内はハルビン在住の欧米人や地元客でにぎわっていました。おすすめ料理はロシア風餃子のペリメニやサーモンのソテーなど。ウォッカやロシアビールも味わえます。
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この店では毎晩19時からライブがあります。ステージに立つ彼女はロシア人歌手のKSENIAさん。
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この店のシェフはもちろん、3人のウエイトレスはすべてロシア人です。ウラジオストク出身のSVETAさん(右)とヤクツーク出身のMARINAさん(左)。MARINAさんはブリヤート系ロシア人で、元留学生だそうです。
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「20世紀初頭、ハルビンには多くのロシア人が住んでいた。だから、私たちにとってハルビンは親しみのある町なのよ」。同店のロシア人女性マネージャーは店を開いた理由をそう語ってくれました。彼女もウラジオストクから来たそうです。この店も2006年開業です。

同店ではロシア食材の販売も行っています。
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アラウンド・ザ・ワールド(环球者西餐厅)
ハルビン市開発区赣水路183号

半世紀を経てハルビンに姿を現し始めた彼らは、“出戻り”ロシア人といっていいでしょう。おかげで正真正銘のロシアの味覚に出合うことができるようになったのです。
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by sanyo-kansatu | 2014-12-03 17:50 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2013年 07月 07日

ロシア人墓地も眠る高台の高級住宅地【昭和のフォルム 大連◆文化台①】

大連はもともとロシア人が日本よりひと足早く先に来てつくったまちです。20世紀初頭の北東アジア情勢は今日とは違い、非情なまでの力の優劣が世界を支配していましたから、大連にも歴史の痕跡がいくつも残されています。
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大連を代表する景勝地として知られる老虎灘に市内から向かう解放路沿いの高台に位置するのが文化台です。そこにはロシア人墓地があり、現在も残っています。日露戦争前にあったと思われる要塞跡も、とってつけたように改修されて壁だけ残っています。中ロ関係を意識して政治的に再生された遺物に違いありませんが、日本時代にはここが高級住宅街だったことは確かのようです。
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当時の絵葉書をみると、まるで神戸や函館のように高台に一戸建ての邸宅がぎっしり並んでいたことがわかります。市街地に近い南山は満鉄や軍関係者の邸宅が多かったと思いますが、文化台は大連に渡って事業をなした民間人の家が多かったのではないでしょうか。以下の資料と写真は大連世界旅行社の桶本悟さんからお借りしたものです。
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一戸建て住宅街としての文化台の景観は、2000年代半ばくらいまでは大きく変わることはなかったようです。確かにほとんどの家屋は老朽化しており、高級住宅街としての面影はありませんが、中国ではなんといっても珍しい一戸建て家屋が集中する地区ではありました。
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文化台の南側には晴明台という同じく一戸建ての住宅地がありました。勝利橋の北側に残るロシア人家屋のような家がいくつも残っています。
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文化台の景観が大きく変わり始めたのが、2000年代後半に入ってからです。次回、現在の文化台の姿を紹介したいと思います。
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by sanyo-kansatu | 2013-07-07 23:14 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)