ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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タグ:中国 ( 445 ) タグの人気記事


2012年 04月 16日

花見のピークにバスも過去最多(ツアーバス路駐台数調査 2012年4月)

4月に入ると、東京もいよいよ桜シーズンの到来です。確かにバスは戻ってきました。調査以来、最大のバス数が新宿5丁目に現れています。明らかに今年の春節(1月下旬)に比べても、バスの台数は増えていると思われます。さて、この勢いはどこまで続くのか……。

※このカテゴリでは、2011年11月から始めた明治通り新宿5丁目付近における中国インバウンドバスの路駐台数(≒中国客の動向)を記録しています。

1日(日) 北京出張のため未確認(~4日)
2日(月) 未確認
3日(火) 未確認 ※この日帰国の予定が、爆弾低気圧のためフライト欠航。翌日帰国となりました。
4日(水) 未確認
5日(木)17:40 3台 ※新宿5丁目交差点付近には、アニエスbの買い物袋を抱えた中国人女性客をはじめ観光客がチラホラ。この頃から中国人に限らず、外国人観光客の姿が新宿界隈で目につくようになりました。
6日(金)17:40 2台 
7日(土) 未確認
8日(日) 未確認
9日(月)14:00 1台
17:30 3台
10日(火)18:10 5台 ※この週末花見のピークを迎えただけに、この週は過去最多のバスの停車状況が見られました。 
11日(水)19:20 7台 ※これは過去最大です。これ以上停車スペースもないため、周辺を回遊しているインバウンドバスも見られたほどです。
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12日(木) 未確認
13日(金)19:20 2台
14日(土) 未確認
15日(日) 未確認
16日(月) 未確認
17日(火)16:40 2台
       20:30 1台
18日(水)18:30 5台
19日(木)18:10 4台(うち1台に声をかけると広東客)
20日(金)12:30 3台
       18:30 2台
21日(土) 未確認
22日(日) 未確認
23日(月) 未確認
24日(火) 12:00 1台
        19:10 1台
25日(水) 未確認
26日(木) 12:20 1台
       18:00 1台
27日(金) 17:30 1台
        19:40 2台
28日(土) 未確認
29日(日) 未確認
30日(月) 未確認
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by sanyo-kansatu | 2012-04-16 18:55 | 定点観測ツアーバス調査 | Comments(0)
2012年 03月 22日

あいかわらずバスは来ず(ツアーバス路駐台数調査 2012年3月)

3月に入っても、まだ寒い日が続いています。あいかわらず、バスはほとんど現れません。今年の桜シーズンにはツアーバスは戻ってくるのでしょうか……。

※このカテゴリでは、2011年11月から始めた明治通り新宿5丁目付近における中国インバウンドバスの路駐台数(≒中国客の動向)を記録しています。

1日(木) 未確認
2日(金)18:00 1台(マイクロバス)
※ただし、このバスの車体には「(株)華僑商事」と書かれていました。つまり、ツアー会社のバスではなく、在日華人の商事会社が副業で観光に利用しているようです。
 
3日(土) 未確認
4日(日) 未確認
5日(月)18:30 1台(マイクロバス)
6日(火)19:00 1台 ※久しぶりに大型バス
7日(水)18:30 0台
8日(木)18:20 2台
9日(金)19:00 1台
10日(土) 未確認 
11日(日) 未確認
12日(月)18:30 0台
13日(火)18:20 1台(マイクロバス)
14日(水)12:30 1台
     17:10 1台
15日(木) 未確認 
16日(金) 未確認
17日(土) 未確認
18日(日) 未確認
19日(月)18:20 0台
20日(火) 未確認
21日(水)19:50 1台
※この日も久しぶりに大型バスです。運転手さんがローソンの前でツアー客を出迎えていたので、声をかけてみました。「どこから来たお客さんですか?」「天津だよ」「これから桜の季節はどうですか?」「今年はいっぱい来そうだよ」とのこと。どうやら今年の桜シーズンのインバウンド客は期待していいらしいです。

22日(木)19:50 2台
23日(金)20:00 2台(うち1台はマイクロバス)
24日(土)19:50 1台
25日(日) 未確認
26日(月)18:40 0台
27日(火) 以後、北京出張のため未確認(~4月4日)
28日(水)
29日(木)
30日(金)
31日(土)
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by sanyo-kansatu | 2012-03-22 21:36 | 定点観測ツアーバス調査 | Comments(0)
2012年 02月 17日

すっかり姿を消す(ツアーバス路駐台数調査 2012年2月)

2月に入ると、バスはすっかり姿を消しました。昨年の春節は2月でしたから、この時期毎日のように多くのバスが現れたものでしたが……。

※このカテゴリでは、2011年11月から始めた明治通り新宿5丁目付近における中国インバウンドバスの路駐台数(≒中国客の動向)を記録しています。

1日(水) 未確認
2日(木)18:20 2台 
3日(金) 未確認
4日(土)15:30 2台(乗客のことばから広東系と判明)
5日(日) 未確認
6日(月) 未確認
7日(火) 未確認
8日(水) 未確認
9日(木)18:20 0台
10日(金)18:30 0台 
11日(土) 未確認
12日(日) 未確認
13日(月)18:20 1台(マイクロバス)
14日(火)17:30 0台
15日(水)19:00 0台 
16日(木)17:50 2台(うち1台はマイクロバス) 
17日(金)18:50 0台
18日(土) 未確認
19日(日) 未確認
20日(月)18:20 0台
21日(火)18:50 1台(マイクロバス)
22日(水)18:40 0台
*この日の夜、新大久保方面に行く用があり、職安通りを歩いていると、コリアンタウン沿いに大型観光バスが多数停車していたので、もしや…と思ったら、日本のツアーバスでした。ドン・キホーテの近辺に集中して停車しており、韓国料理を食べて、韓流みやげと食材を買い込み、バスに戻っていくのは、年配の日本のおばさんたちでした。

23日(木)18:10 0台
24日(金)12:30 1台
     18:00 0台
25日(土) 未確認
26日(日)19:50 1台(ミニバス)
27日(月)18:10 0台
28日(火)18:30 0台
29日(水)19:40 1台

*今年の春節が1月下旬だったことで、2月に入るとバスは激減した。3月はどうだろう?
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by sanyo-kansatu | 2012-02-17 19:36 | 定点観測ツアーバス調査 | Comments(0)
2012年 01月 19日

春節つかのまのバスラッシュ(ツアーバス路駐台数調査 2012年1月)

新年を迎えました。今年の春節は1月23日です。はたしてバスは新宿に戻ってくるのでしょうか?

※このカテゴリでは、2011年11月から始めた明治通り新宿5丁目付近における中国インバウンドバスの路駐台数(≒中国客の動向)を記録しています。

1日(日) 未確認
2日(月) 未確認
3日(火) 未確認
4日(水)18;00 0台
5日(木)17;20 0台
6日(金)19:00 1台
7日(土) 未確認
8日(日) 未確認
9日(月) 未確認
10日(火) 未確認
11日(水)18:30 1台
12日(木)18:00 0台
13日(金)18:20 1台
14日(土) 未確認
15日(日) 未確認
16日(月) 未確認
17日(火)18:40 2台(うち1台は広東から)
18日(水)18:00 4台(うち2台は広東から。春節が近づき、バスの数も少し増えてきた?)
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19日(木)18:10 4台(うち1台はCITSのツアーバス)
20日(金)18:40 0台
21日(土) 未確認
22日(日) 未確認
23日(月)18:30 3台 ※春節です。
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24日(火)正午頃 中国人団体グループ(普通話)歌舞伎町散策姿見かける
     19:10 3台(うち1台は「周遊貴賓(デラックス)」ツアー)
25日(水)18:00 4台
26日(木)13:20 3台
     18:10 3台
27日(金)13:30 3台
b0235153_13592311.jpg※最近の中国の消費者は賢くなり、金遣いは年々渋ちん傾向にあるので、以前ほど“爆買い”は見られないかもしれませんが、食事は1日3回とります。お昼頃と17時過ぎの1日2度、左記の新宿5丁目インバウンドバス停車スポットにある中国団体ツアー客専用中華料理店「林園」(バイキング料理専門。在日中国人経営。一般客利用不可)の前には、バスが立ち寄る姿が見られます。
「林園」
03-5369-8228(新宿5丁目 明治通り沿い)
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28日(土) 未確認
29日(日) 未確認
30日(月)18:30 1台
31日(火) 未確認

※春節は終わりました。これでつかの間のバスラッシュもひと段落か。昨年に比べると、明らかに中国客来襲の勢いが強くは感じられなかった、というのが新宿5丁目的観点からみた今年の春節の印象です。激安ツアーで中国本土客のパイを増やすというビジネスモデルはさすがにもう頭打ちではないかと思われます。発想を転換して新しい状況に向き合う必要がありそうです。
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by sanyo-kansatu | 2012-01-19 13:22 | 定点観測ツアーバス調査 | Comments(0)
2012年 01月 13日

中国とマンガに関する3つの疑問を解く(中間報告バージョン)

2012年1月13日、やまとごころ.jpの勉強会で、中国のアニメファンに関するちょっとした報告をしました。11年秋に北京で開催された第12回国際マンガサミットの模様を取材したのですが、これはそのときのまとめのような内容です。
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中国とマンガに関する3つの疑問を解く(中間報告バージョン)
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by sanyo-kansatu | 2012-01-13 15:51 | アニメと「80后」の微妙な関係 | Comments(0)
2012年 01月 07日

戦前期のガイドブックは現在、どれだけ“使える” か

数年前、日本大学文理学部が開催した「写された満洲〜デジタルアーカイブから甦るハルビン都市空間〜」(2009年10月)という展覧会を観に行ったとき、主催者である松重充浩先生(日本大学文理学部教授)と偶然お会いしたことが縁で、近現代東北アジア地域史研究会のニュースレター23号(2011年12月17日発行)に上記のタイトルで以下の文章を寄稿させていただきました。アカデミズムの世界とは縁がないものの、中国東北地方に関心を持つぼくにとって知見を広めるいい機会となりました。以下、寄稿した文章を掲載します。
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近現代東北アジア地域史研究会のニュースレター23号(2011年12月17日発行)



戦前期のガイドブックは現在、どれだけ“使える” か

『地球の歩き方』(ダイヤモンド・ビッグ社刊)は、2009 年に創刊30 周年を迎えた海外旅行ガイドブックシリーズです。現在、海外の国・地域の約200 タイトルが刊行され、そのうち中国は中国編、上海編、北京編、東北編、華南編、成都編、シルクロード編、チベット編、香港編、マカオ編の10 タイトルに分冊されています。

そのなかの1 タイトル、『大連・瀋陽・ハルビン-中国東北地方の自然と文化』(以下、『東北編』)の制作をぼくは担当しています。前任者の健康上の理由で6年ほど前に引き継ぎました。中国東北地方には個人的な縁もあったので、隔年ごとの改訂作業を定点観測的な現地視察も兼ねて行っています。本稿では、この地域の旅行案内書が現在、どのように作られているか、ご紹介したいと思います。
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『地球の歩き方 大連・瀋陽・ハルビン~中国東北地方の自然と文化 2010-11年版)』(ダイヤモンド・ビッグ社刊)2010年6月刊行

1.日本で唯一の中国東北地方のガイドブック

旅行案内書ゆえの制約もありますが、『東北編』では、個人的な関心領域を比較的自由にテーマとして扱うことができています。『東北編』が日本で唯一の中国東北地方のガイドブックであるため、上海や北京などの人気エリアのように他の出版社から多数の類書が刊行されていない。おかげで、一般消費者のニーズを意識したシェア争いに巻き込まれないですんでいるというのが(ここだけの話ですが)理由です。

それは単純に考えれば、訪中日本人の渡航先のマーケティングの結果(他地域に比べ東北地方への渡航者は少ない)といえますが、この地域には今日の日本の旅行者にとって一般ウケする観光素材が少ないことも、他社が類書を刊行するのをためらう理由でしょう。現在の渡航者の大半は、大連や瀋陽へのビジネス出張者や駐在員とその家族で、ツアー客は圧倒的に少ないのです。一部に鉄道ファンや北朝鮮マニアといった人たちも出没しているようですが、中国旅行の2大テーマとされるグルメや歴史(ただし、三国志など古代史への関心が大半)の舞台としての魅力が乏しいことが致命的かと思われます。

もっとも、1980 年代から90 年代の半ばくらいまで、中国東北地方は旧満洲に縁のある世代の「望郷」ツアーのメッカだったことは知られています。ぼくも以前、現地でこの世代の方々に何度かお会いしたことがあります。もう20 年以上前のことですが、長春のホテルのロビーで大阪から来たツアーの皆さんと知り合い、市内観光に同行させてもらいました。実は、ぼくの祖父母や母はかつて長春に住んでいました。その当時の住まいを古地図を頼りに探すのを、知り合ったツアー客の方に手伝ってもらったことを思い出します。

2.「望郷」ツアーの最後の記録

2011 年6 月、岩波ホールでドキュメンタリー映像作家の羽田澄子さんの制作した『遥かなるふるさと 旅順・大連』(以下『ふるさと』)が上映されました。

『ふるさと』は、1926 年(昭和元年)大連生まれの羽田さんが多感な年代を過ごした旅順、大連を訪ねるツアーの記録です。館内は旧満洲に縁のある世代であふれていました。それは久々に見た「望郷」ツアーの世界でした。実際、周囲の会話から、「望郷」ツアーに参加したことのある人たちがその場に多くいることがうかがえました。

この作品が撮られるきっかけは、2010 年に日露戦争の激戦地でとして知られる軍港の町、旅順が正式に外国人に対外開放されたことです。

羽田さんは「日中児童の友好交流後援会」が企画するツアーに参加し、同年6 月13 日に成田空港を発ちました。大連空港からバスで旅順に向かい、日露戦争後、東郷平八郎連合艦隊司令長官らが建てた表忠塔(現白玉山塔)に登り、旅順港を一望。東鶏冠山堡塁(ロシア軍トーチカ跡)や水師営会見所(乃木希典将軍とステッセル中将の会見場)、二〇三高地などをめぐります。その後、羽田さんと数名の友人はツアーを離れ、自由行動で新市街にある旧宅を訪ねます。そこには旅順の一庶民が暮らしており、家に上がらせてもらうと、当時とすっかり間取りの変わった部屋を行き交いながら、「ここは父の書斎」「ここは子供部屋」と羽田さんは声をあげます。そして、住人と一緒に記念写真を撮るのでした。

この作品を撮ろうと思った理由について「旅順での生活が私の家族にとって、最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だった」と彼女はパンフレットの中で書いています。

終戦時が20 歳で、現在80 代半ばを迎えられた羽田さんとその友人たちは、旧満洲に想いをはせる最後の世代といっていいかもしれません。その再訪の記録を撮り終えたいま、高齢を迎えた彼らがこの先大挙してこの地を訪ねることはなさそうです。

3.2010-11 年版の主要テーマは旅順開放

ちょうどその2 週間前の5 月下旬、我が『東北編(地球の歩き方 大連編2010-11年版)』取材班は一足先に旅順を訪れていました。今回の取材のテーマは、開放されたばかりの旅順の最新レポートです。ただでさえ観光素材の乏しい東北地方において、旅順開放はニュースでした。遼寧省が舞台となるNHK ドラマ『坂の上の雲』放映も追い風です。現地入りした我々取材班の旅順入城は、ロシア式木造建築が美しい旅順駅からにしようと、わざわざ1 日2 往復しかない鉄道で早朝、旅順に向かいました。

今回ぼくは、以下の3つのグラビア取材を計画していました(以下、企画書より抜粋)。
① 祝!開放 旅順最新案内
大連から鉄道で旅順入城。二〇三高地や水師営会見所、旅順博物館など、これまでツアーでも訪ねることのできたスポットに加え、新たに開放された日露監獄旧跡、旧関東軍司令部、関東法院旧跡などの歴史スポットや、旅順湾を一望できる白玉山塔、日本時代の面影の残る旧市街の風景などを紹介します。

② ローカル鉄道で行く『坂の上の雲』名場面を訪ねる旅
日露戦争から100 余年、現在その地はどんな姿をしているのか。NHK ドラマ『坂の上の雲』の舞台となる中国東北南部の戦跡をローカル鉄道で訪ねます。取り上げるのは、金州(日清戦争時、従軍記者として現地入りした正岡子規の句碑。乃木希典将軍の碑跡)、遼陽(秋山好古の騎兵隊の活躍で有名)、丹東(ロシア軍との最初の陸戦の地)など。都市間移動のノウハウやローカル鉄道の旅の楽しみ方も紹介します。

③ 温泉エッセイスト山崎まゆみの満洲三大温泉めぐり
温泉エッセイスト、YOKOSO JAPAN! 大使として活躍する山崎まゆみさんを起用して、かつて満洲三大温泉(湯崗子温泉、熊岳城温泉、五龍背温泉)と呼ばれた温泉地を訪ねます。ご本人はグラビアに登場いただくつもりです。中国でも近年温浴施設が多数できていますが、日本とゆかりのある古い温泉地で彼女が何を感じるか、レポートしてもらいます。

4.頼りにしたのは戦前期のガイドブック

これらの取材を実現するために、ぼくが頼りにしたのは戦前期のガイドブックでした。

まず、「① 祝!開放 旅順最新案内」では、JTB の前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローの制作した『旅程と費用概算』(1934(昭和9)年版)や、後に社名を変更した東亜旅行社の刊行した『満洲』(1943(昭和18)年)を参考にしました。特に後者は鉄道省が推進した「大陸視察旅行」のためのコンパクトな旅行案内書で、現役の編集者であるぼくの目から見ても、当地の歴史や社会、文化、習俗に精通した簡潔明瞭な文体、多民族集住地域の魅力を伝える口絵など、実用的で洗練された完成度の高さに感心させられます。

当時満洲旅行の最大のハイライトのひとつが、定期巡礼バスを利用した旅順戦蹟めぐりでした。同書には、巡礼バスの立ち寄り先として二〇三高地や表忠塔などの「聖地」が多数紹介されています。今回の取材でも、その解説がほとんどそのまま役立ちました。テキストの歴史解釈の評価をひとまずおくとしても、半世紀を超えて対外的に封印されていた旅順は、当時とほとんど変わらない姿を残していたからです。
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『満洲』(東亜旅行社刊)1943(昭和18)年刊行


「② ローカル鉄道で行く『坂の上の雲』名場面を訪ねる旅」は、司馬遼太郎原作の同長編小説を題材にしています。いくつかの名シーンの舞台となる土地を鉄道で訪ね、現在の姿をグラビアで紹介しました。あらためて100年という時間の経過を感じましたが、当時を想起させる風景も多く残っていました。

これは何でもないワンシーンですが、大連から旅順に向かう鉄道沿線に、旅順攻略戦で戦死した日本兵の白い墓標が多数立てられているのを見て、兵士の士気がそがれることをおそれた児玉源太郎参謀長が撤去するように命じるくだりがあります(第四部「二〇三高地」)。『秘蔵日露陸戰写真帖 旅順攻防戦』(柏書房 2004)に収められた当時の写真を見るかぎり、戦時中その地は草木の生えていない荒野のような丘陵地帯。今日のなだらかな緑の多い農村風景とはまったく別の場所のようですが、鉄道だけは同じレールの上を走っている。そう思うと、100 年の年月も少しだけ身近に感じられたような気がするのでした。

5.紀行に見る温泉地の変遷

資料探しが最も面白かったのは、「③ 温泉エッセイスト山崎まゆみの満洲三大温泉めぐり」でした。戦前期に当地を訪ねた作家の紀行が参考になりました。

旧満洲の温泉をめぐる最初の話題提供者は、『満韓ところどころ』を書いた夏目漱石でしょうか。彼が訪ねたのは日露戦争後わずか4 年目(1909(明治42)年)で、満鉄沿線は開発途上でした。それでも、漱石は熊岳城温泉と湯崗子温泉を訪ねており、兵士の療養小屋に毛の生えた程度の温泉宿の様子を「すこぶる殺風景」と評しています。

時代は移って大正期に入ると、紀行作家として有名な田山花袋のベストセラー『温泉めぐり』や『満鮮の行楽』などの読み物の中に、満洲三大温泉と称された熊岳城温泉や湯崗子温泉、五龍背温泉の滞在記があります。花袋が訪ねた1920 年代になると、それぞれ洋風の温泉ホテルができていて、「私達はビイルを飲んだり、湯に浸かったりして、そこに午後二時までいた」(熊岳城温泉)「温泉場としては、内地では、とてもこれだけのものは何処にも求めることが出来なかった。日本風の室ではあったけれども、副室がついていて、半ばベランダのように椅子だの卓だのが並べてあるのも心地が好かった」「今までに嘗て見たことのない、箱根、塩原、伊香保、何処に行ったって、こうした設備の整ったところはないと思われる立派な浴槽」(湯崗子温泉)とあるように、この時期すでにモダンな行楽地として温泉開発が進んでいる様子がうかがえます。
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戦前期の熊岳城温泉の絵はがき。この温泉ホテルはもう存在しない。
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熊岳城温泉の戦前期の温泉施設は、数年前にすべて壊され、高級温泉リゾートホテルとして再開発されていた。写真はリゾート内に誇らしげに展示された建築模型。


昭和に入ると、与謝野寛・晶子夫妻が湯崗子温泉を訪ね、こう書いています。「鉄道の本線に沿って便利なために、在満の邦人が絶えず南北から来て浴遊し、ことに夏期には露西亜人や支那人の滞浴客もあって賑ふそうである」(『満蒙遊記』)。夫妻が訪れたのは1928(昭和3)年。戦前期の日本が国際観光(インバウンド)振興を企図し、鉄道省外局に観光局を設置した1930 年より一足先に湯崗子温泉は国際的な温泉リゾートになっていたのです。

では、当時これほど栄えていた満洲三大温泉は現在、どんな姿をしているのか――。

残念ながら、現在の姿を伝える資料は見つかりませんでした。インターネットで検索すると、温泉地は3つとも現存しており、宿泊施設もあることがわかりました。その情報を元に、大連や瀋陽の旅行会社や旅游局の関係者に問い合わせたところ、彼らはまったく事情を知りません。後でわかったことですが、東北地方で温泉開発が始まったのはここ数年で、同じ遼寧省内でも地元以外では開発状況はほとんど知られていなかったのです。

こうなればもう出たトコ勝負です。約70 年前に書かれたガイドブックの地図と記述を頼りに、三輪タクシーに乗り込み、温泉地のありかを探しました。おかげで、ラストエンペラー溥儀のために設えられた湯崗子温泉の絢爛豪華な個室風呂「龍池」を撮影するなど、興味深い発見がありました。詳しい内容は『東北編』をご参照いただければと思います。
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1932 年3 月8 日、対翠閣(現龍宮温泉)前で撮られた溥儀夫妻

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戦前期の「龍池」と思われる写真

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龍宮温泉(湯崗子温泉)には、溥儀のために造られた豪華な浴室「龍池」が現存している。

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五龍背温泉では、1936 年に満鉄の建てた露天風呂と湯小屋が残っていた。

6.近代史から観光素材を発掘する

それにしても、戦前期に書かれたガイドブックや紀行がこれほど“使える”とは驚きでした。当時の時刻表やホテル・旅館の案内はともかく、今日忘れられた温泉の泉質や効能、周辺の行楽地の紹介まで、ガイドブックとしての基本要素はしっかり押さえてあり、実用に耐えうるものです。ガイドブックは時代の気分や消費者のニーズを映し出す鏡であり、消費社会の成熟度を測る指標といえます。旧満洲において、高度なガイドブックを必要とするようなモダン・ツーリズムの世界が現出していたことを物語っています。

『満洲』は、1920(大正9)年以降、毎年改訂された旅行案内書『旅程と費用概算』の地方別分冊版の1タイトルです。つまり、「九州編」や「中国・四国編」と同じ並びで「満洲編」が刊行されていました。昭和18 年版だけに、「開拓地」や「青年義勇隊」などの項目から当時の時代背景や国策の反映が色濃く見られますが、それが最期の版となったようです。その後、この地ではモダン・ツーリズムのにぎわいは封印されてしまいます。

学生だった1980 年代半ば頃、初めて中国東北地方を訪れたぼくの目に、その地はモダニズムが眠る場所として好ましく映りました。高層ビルなどいっさいない当時の大連はまるで北欧の港町のように思えたし、街ごと建築博物館のようなハルビンも他の中国の都市とは違って見えた。街全体は埃を被っていましたが、現代化される前の近代都市の原初の姿とはこういうものだったのか、という感慨をおぼえたのです。モダニズムは現代人にとっての郷愁です。それは国籍を超えたもので、困ったら原点に立ち還る場所。初めて見た風景を懐かしいと感じたのもそのためでしょう。その後、中国の他の地域と同様、この地も現代化の波に洗われてしまいましたが、中国東北地方の固有の面白さは、日本との関わりも含め、近現代史の連続性を通してみていくとき、際立ってくると思うようになりました。

いまぼくは『東北編』の制作を通して、モダン・ツーリズムの黎明期を切り拓いた由緒ある旅行案内書の歴史を引き継いでいるのだというひそかな自負があります。

ぼくが『東北編』で試みているのは、近現代史の中から埋もれた素材を発掘し、エンターテインメント化することです。たとえば、「旅順歴史MAP」は、近年国内旅行ガイドブックでよく見られる古地図を使った散策ガイドの手法の応用編です。その地に封印された歴史的な記憶を誌面に解き放ち、時空を超えて体感する知的な愉しみといえるでしょう。
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旅順歴史MAP(『地球の歩き方 大連編2010-11 年版』 p.20-21)。昭和11(1936)年に発行された「旅順戰蹟案内圖」を元に作成した旅順市内MAP。区画は当時とほぼ変わらず、重要な建築物の多くが使用されているため、現在でも十分散策地図として使える。

しかし、そんなもくろみも、所変われば一筋縄にはいかないのが現実です。

中国では「愛国主義歴史教育」施設(以下「愛国」施設)が待ち構えています。旅順では日露監獄旧址博物館(旧旅順刑務所)や関東軍司令部旧址博物館、日本関東法院旧址陳列館(旧旅順最高法院)などですが、その展示を見るかぎり、「(日露戦争は)中国東北を奪い取るための戦争」と論理は単純明快です。今日の中国では、特定の歴史旧跡をどう残すかは、時々の政治判断で変わりますが、「坂の上の雲」で明治を日本の近代の青春期として無邪気に捉える歴史観は一刀両断、とりつくしまもない日中のすれ違いに唖然とします。

ただし、実情はそれほど単純ではないのが面白いところです。たとえば、二〇三高地ではあろうことか「坂の上の雲」のプリントT シャツが堂々と売られていますし、「愛国」施設では中国側の歴史観を説く通訳たちが、日本人ツアー客をお土産屋に連れ込み、購入金額に応じたキックバックを受け取るという中国のツーリズム産業を支える基本システムがあからさまに繰り広げられています。2010 年2 月には、大連市旅順口区政府は大阪で日本からの投資と企業誘致を募る説明会を開いていますが、旅順の対外開放がこれほど遅れたのも、実利と面子をめぐって政府と軍の駆け引きが長引いていたことがうかがえます。

ぼくはもとより戦前期のガイドブックの価値観を全面的に肯定する考えはありません。それは今日の中国の「愛国」施設の展示に見られる歴史観についても同じです。むしろ気になるのは、両者の類似性をどう考えたらいいかという今日的な問題でしょう。

今年は中国共産党建党90 周年ですが、党のゆかりの地を訪ねるよう政府が推奨する「紅色観光」団の姿を旅順でもよく見かけました。この「紅色観光」と旅順戦蹟めぐりの関係をどう考えたらいいか。ともにモダン・ツーリズムとしての一面を持ちながら、共通するのは、特定の人物の英雄化と国家の歴史をそれに重ねるプロパガンダです。なぜそんなものが必要とされるのか。時代は繰り返されるということなのか。

もっとも、類似性は別のかたちでも現れるようです。1923(大正12)年に旅順戦蹟めぐりをした田山花袋は「どんなに悲惨な事件でも、跡になってしまっては-自然と同化してしまっては、興味を惹かなくなるのは止むを得ない」(『満鮮の行楽』)と書いています。昭和18 年当時の日本人は花袋の軽口を叱りつけたかもしれませんが、大正期の日本人の感覚はこれに近かったでしょう。一方、職場の同僚に無理やり「紅色観光」に連れて来られた風の中国の若いカップルの顔つきや、記念撮影に興じる修学旅行生たちの様子を観察するかぎり、「愛国」を演出する側と観る側の認識ギャップがうかがえて興味深いものです。

日中関係をめぐる封印が次々と解かれていく時代のなか、お互いの歴史観の違いを認めつつ、他者の視点を取り入れ、今日の自己のありようをいかに相対化できるかが日中双方に必要とされる態度だと、旅順に来てあらためて思った次第です。

さて、2012 年は『東北編』の改訂の年、来夏には東北地方を訪ねる予定です。次回の取材は「延辺朝鮮族自治州の町々とウラジオストクを結ぶバスの旅」を計画中です。図們江下流域における中朝の共同開発の動きが報じられるなか、ロシアも含めた地域的分断の歴史にどんな変化が見られるのか――。もしこの地域の歴史と現況に精通している方がいたら、出発前にぜひ情報提供をお願いするところです。

■資料:満洲三大温泉を扱う資料一覧 (2010 年4 月現在)

○作家による紀行(【 】内は滞在時期)
・夏目漱石『満韓ところどころ』1909(明治42)年10月朝日新聞初出【1909年9~10月】
・田山花袋『温泉めぐり』1918(大正7)年
 ※『温泉めぐり』は、大正7年の初版発行以来、わずか4年余で23版を重ねるベストセラーに。昭和初期の改訂増補版を経てロングセラーとなる。
・田山花袋『満鮮の行楽』大阪屋号書店、1924(大正13)年11月【1923年4~6月】
・田山花袋ほか『温泉周遊』金星堂、1928(昭和3)年7月
・与謝野寛・晶子『満蒙遊記』大阪屋号書店、1930(昭和5)年5月【1928年5~6月】

○ガイドブック
・大日本雄弁会講談社編『日本温泉案内 西部編』大日本雄弁会講談社 1930(昭和5)年
・旅行研究会編『全日本旅行辞典』旅行研究会 1932(昭和7)年
・ジャパンツーリスト・ビユーロー編『旅程と費用概算(昭和9年度版)』博文館、1934(昭和9)年
・『温泉案内』鉄道省 1940(昭和15)年版 ※大正時代から刊行され続けている
・興亜研究会編『大陸旅行案内』大東出版社、1940(昭和15)年 
・東亜旅行社編『満洲』東亜旅行社、1943(昭和18)年

○戦後の書籍、研究書
・北小路健『望郷 満洲』国書刊行会、1979年 ※当時の三大温泉の写真あり
・八岩まどか『温泉と日本人 増補版』青弓社、2002年 
・関戸明子『近代ツーリズムと温泉』ナカニシヤ出版、2007年 ※戦前の温泉ツーリズム研究
・川村湊『温泉文学論』新潮社、2007年 ※溥儀の湯の龍宮温泉に著者が訪問した記述あり。

(なかむら まさと:編集者)
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by sanyo-kansatu | 2012-01-07 14:46 | 北東アジア未来形:満洲の今 | Comments(0)
2011年 12月 31日

中国インディペンデント映画の誕生と現在(中国インディペンデント映画祭2011 その5)

12月7日には、中国インディペンデント映画祭の関連イベントとして「日吉電影節2011」(主催は慶應義塾大学)がありました。この期間中のイベントは何でも見てやろうという気でいたので、久しぶりに慶應の日吉キャンパスに足を運びました。

プログラムは、第一部が中国の若手監督(1980年代生まれが中心)の短編映画の上映で、第二部が北京電影学院教授の章明監督と俳優の王宏偉さん、中国インディペンデント映画祭代表の中山大樹さんの座談会でした。

映画上映についてはあとで触れるとして、この日ぼくにとって収穫だったのは、章明監督による中国インディペンデント映画の誕生の背景と現在の動向に関するスピーチを聞けたことでした。以下、簡単に章明監督の話を紹介します。
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章明監督


「中国インディペンデント映画(いわゆる自主制作映画)が誕生したのは1990年代です。背景には改革開放以降の中国の経済発展と、デジタルビデオカメラのコンパクト化をはじめとした撮影技術の進歩があります。中国ではそれまで映画製作は国家が資金を出す代わりに国家の要求するものしかつくることができませんでした。これが変わったのが天安門事件後です。鄧小平は民主化を抑えるかわりに、経済面の開放を加速化させましたが、その影響は映画製作の現場にも現れました。民間資本による映画製作が可能となったのです。

これは映画製作者にとって、ひとつの門が開いたことを意味しました。国家の要求するものとは異なる作品をつくることができるようになったからです。

私たち映画製作者たちは、当然のことですが、これまでとは違ったものを撮りたいと考えました。内容においては、すべてが政治がらみだったものからそうではないものに、登場人物においては、これまで映画に出てくることのなかった、たとえば泥棒といった世間の片隅に生きている人物を扱うことで、社会の真実をリアルに描きたいと思いました。

もっとも、1990年代はテレビドラマが人気で、街にはハリウッドや香港映画のビデオ上映館が大流行でしたから、映画は衰退していく時期でした。中国映画市場が活況を呈してきたのはここ数年のことで、いまでは天安門事件後に生まれた世代が映画館に足を運ぶ時代になりました。映画館の数も増えています。ただ作品の種類は少なく、そのほとんどはハリウッドか中国政府の後押しした歴史大作です。我々のつくっているような低予算のインディペンデント映画が映画館にかかることはありません。

なぜなら、中国では映画館で上映するためには、当局の検閲を受けなければならないからです。またたとえ検閲を受けたとしても、興行収入を得る見込みのない作品を上映する映画館はないからです。

私の新作『花嫁』(2009年)にしても、中国ではいまだ5~10回しか上映されていません。最初に上映されたのが北京の798芸術区にあるイベリア芸術センターで開かれたインディペンデント映画祭で、その後の南京や重慶の映画祭や大学のキャンパスでしかありません。中国には、海外のようなアートシアターは少なく、自主的に上映することしかできないからです。おそらく私のこの作品の観客は1000人に満たないでしょう。

それでも、中国のポータルサイトのひとつ「捜狐」のように、インディペンデント映画専門のサイトをつくろうとする動きもあります。ある若手の映画作家が、性転換したダンサーを主人公としたドキュメンタリー映画をネットにのせ、2000万アクセスを得たという成功例もあります。ただこうしためぐり合わせは誰にでもあるものではありません」。

その後の質疑応答で、章明監督(1961年四川省生まれ)は映画監督を志した経緯について次のように語りました。

「私は小学生の頃、長江のほとりの農村(四川省巫山)で過ごしました。校舎は古い廟で、教室の四角い窓から長江と行き交う船が見えました。それは映画のスクリーンのように美しかった。中学時代は演劇をやり、高校時代に映画雑誌を初めて読み、映画の脚本の存在を知りました。大学時代は美術大学で油絵を専攻しました。

大学卒業直前の1980年頃、栗原小巻主演の『愛と死』(1971年松竹)を観ました。そのとき、初めてスローモーション映像というものを知ったんです。その後、映画制作を志し、北京電影学院に入学しました」。

(章明監督は、91年に北京電影学院監督科の修士課程終了。北京電影学院教員となり、テレビドラマや広告制作に携わる。初監督作品『巫山雲雨(沈む街)』(1996年)がトリノや釜山の映画祭で最優秀作品に選ばれる)

監督の作風や映画撮影に対する考え方を問う質問に対して、彼はこう答えています。

「私の作品の特徴は、登場人物に語らせるというスタイルであることです。『花嫁』の場合も、地方の小都市に住む人々の生活やモノの見方、態度を描いています。彼らこそ中国の一般大衆です。中国の人々の大部分は大都市ではなく地方の小さな町に住んでいるのです」

実際、外国人である我々は北京や上海といった大都市に住む人たちこそ、そこそこ知っているとはいえ、地方の小都市に住む人たちのことはまるで知りません。彼らがどんな環境で暮らし、何を考えながら日々を送っているのか。監督の作品はそれを知る手がかりを与えてくれます(『花嫁』については後日紹介します)。

また監督の話から、中国インディペンデント映画が扱う題材やテーマが、かつてのように国家が要求する歴史の英雄を描くのではなく(いまでもその傾向が強いですけど)、中国の一般大衆の生活や日常を扱うことに熱心なのは、それ相応の背景や動機があったことがわかりました。

さて、順序が逆になりましたが、第一部に戻ります。中国の若手監督による短編映画の上映です。2009年の重慶インディペンデント映画祭の出品作から選ばれたそうです。以下、作品の簡単な紹介とひとことコメント。

①『阿Q魚伝(Q鱼的下午)』(2005年 林哲楽監督)
金魚鉢の中にいる金魚たちを擬人化してモノローグさせるというユーモア小編です。中国のネット上でよく見かける手法ですが、ぼくにはとても古めかしく感じました。1960年代や70年代の実験映画でこういうのはよくあったんじゃないかと。言っちゃ悪いけど、いまの中国の若い世代が新しげなこと、気の利いたことをやろうとすると、とたんに古めかしく見えてしまうことはよくあると思います。近年大量に生産されている中国産のアニメや漫画を見ていると、その思いを強くします。

②『キャンディ(糖果)』(2007年 趙楽監督)
中国の農村を舞台にしたメルヘンです。ひとりの男の子がいたずら半分に自分の食べたキャンディの包み紙に石鹸を包むと、その包み紙が姉から感謝の印として級友の男の子へ、そして先生へと渡り、最後に自分の手元に戻ってくるという話です。今回の映画祭では、大人の世代の監督たちが中国の農村の異界ぶりをリアルに描き出しているのに対し、「80后」世代の監督は、同じ舞台をキャンディの甘い包み紙でくるんでしまいました。その評価はともかく、この違いをどう理解すればいいのか。ちょっと面白いテーマだと思います。

③『息子とゴキブリ(儿子与蟑螂)』(2007年 欧陽傑監督)
時代の変化についていけない小説家の父と息子の葛藤を描く話。やはりかつての実験映画のようですが、ストーリーの展開や人物の内面がうまく伝わってきません。章明監督も「物語の処理がうまくできていない」とコメント。それでも「重慶のじめじめした重苦しい空気は伝わってくる」とのこと。なんともコメントしにくい作品ですが、息子の自殺後、カメラが映し出す夜の車道の街灯のうすぼんやりした映像が、1970年代の日本の映画やドラマのシーンに似ていたことが印象的でした。

④『北京へようこそ(北京欢迎你)』(2008年 盧茜監督)
コンセプトがわかりやすく完成度の高い作品です。当時ネット上で評判になった記憶があります。2008年、オリンピック開催に沸く北京市政府が『北京へようこそ(北京欢迎你)』(ジャッキー・チェンら中国の芸能人によるキャンペーンソングの曲名)と表向き外来者を歓迎しているように見えて、その実外地人(地方から北京に来た中国人)に対する滞在許可のチェックを厳しくしたことを大いに皮肉る内容です。

ストーリーは、あるマンションの管理人のおばさんが、政府から住人の戸籍管理を徹底するよう通達を受け、マンション内の住人を訪ねて回るというもの。ひとり住まいの老人介護をする四川省出身の小時工(家政婦)や共同住まいの売春婦たち(風呂場に隠れていたもうひとりの女は妹だというが、客と思われる男がのこのこ出てきてしまう)、雲南省出身の偽ブランド品販売業者の夫婦(おばさんは南国フルーツのドリアンをすすめられるが、臭いのきつさに遠慮する)、北京市出身だが農村戸籍であるがゆえに管理の対象となることに憤慨する青年、半地下室をスタジオ代わりに使う上海や湖南出身の外地人ロックバンドの若者たちなど、いまの北京を象徴する多様なキャラクターが登場します(ちなみに、半地下室とは1980~90年代に中国で建てられた団地やマンションの地下にある元核シェルターのことで、いまではそのスペースを間仕切りして、地方からの出稼ぎ労働者や大学卒業後も北京に残った若者たちがアパート代わりに住んでいます)。

まるで都市社会調査の現場に立ち会うようなストーリー立てにぼくはわくわくしましたし、作品の最後に住人の映像と例のジャッキーたちの歌『北京へようこそ(北京欢迎你)』を重ねる手法は絶妙というほかありません。ここまでわかっている人間が中国にもいることを知ると(そういう言い方はそもそも不遜だとは思いますが)、とても頼もしい気がしてきます。もっとも、中国においては、スマートで切れ味がよすぎる社会批評は、かえって当局にはかすり傷にすら感じないという現実もある気がします。

「日吉電影節2011」では、前半の「80后」世代の作品上映と、後半の大人世代にあたる章明監督らのスピーチとの間のつながりがしっくりきませんでしたが、いろんな発見はありました。きっと大学生向けのイベントということで、世代の近い若手監督の作品を選んだという教育的配慮があったのでしょうね。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-31 21:46 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 12月 30日

中国版ミニ角栄のなれの果て(中国インディペンデント映画祭2011 その4)

ここ連日、ポレポレ東中野に通っています。中国インディペンデント映画は、お世辞抜きで面白いと言わざるをえません。外国人であるぼくが生半可な気持ちで取材をしようと試みても、ここまではとても入り込めないという臨界点が中国にはあるものですが、その先に広がる茫漠としたこの国ならではの奥深い世界をリアリティたっぷりに見せてくれます。もうお腹いっぱいですから勘弁してください、というくらい徹底的に。

1日4本立ての上映スケジュールが組まれていますが、1日1本観ればもう十分すぎるぐらい内容が重いので、ぼくにはハシゴは無理です。せめて上映後1日かけて、その作品が撮られた背景や登場人物の言動の意味について自分なりに整理しておかないと、わけがわからなくなってしまうからです。

12月6日に観たのは、新聞記者出身の周浩監督の『書記』(2009年)でした。
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話の結末を明かしてしまうのはルール違反ですが、ノンフィクションであることと、DVD化でもされない限り、誰もがそう簡単に観ることのできない独立系であることをふまえ、最初に言ってしまうと、この作品は、退任15ヵ月後、収賄の罪で懲役7年の刑に処された河南省固始県の郭永昌共産党書記(2007年当時)の在任中最後の3ヵ月の日々を追ったドキュメンタリーです。

中国の地方行政は33の省と直轄市、自治区に分かれ、それらは約1500の県で構成されています。日本では地方行政のトップは県知事ですが、中国では政府と共産党による二重権力構造が常態化していて、実際には県長(日本の知事にあたる)よりも共産党書記の権限が上のようです。2012年秋の党大会で国家主席に就任するとされる習近平が浙江省の書記であったことに比べると相当格が落ちるとはいえ、この作品の主人公が地方行政の事実上トップであることを思えば、元記者によくここまで密着して撮らせることを許したものだという驚きがあります。

河南省固始県といえば、地図でみればわかりますが、中国内陸部の典型的な地方都市です。この作品が撮られた2007年は、上海の不動産価格の高騰がピークになるだろうと外資系投資関係者らの間で言われていた頃です。その狂おしいまでの熱気は一足遅れて地方都市にも波及していました。その渦中に行政トップの要職に座る郭書記の仕事は大きくふたつ。どうやって外資を呼び込み、地元経済の成長を図るか。同時に発展に伴う格差の拡大をはじめとした社会のひずみを解消するか。とはいえ、全国の地方都市が自分たちも上海のように発展したいと一心に不動産開発に明け暮れていた時代ですから、後者の仕事はなおざりになりがちです。

さて、この作品で興味深いのは、地方行政の中南海ともいうべき郭書記の執務室の映像をカメラが収めていることです。一部、映像が真っ暗になり、音声だけになるシーンもありますが(おそらく郭書記以外の他の関係者に禍をもたらす可能性のある人物が映っていたに違いありません)、多くは書記に頼みごとや陳情に来る訪問者たちとのやりとりです。退任を間近に控えた郭書記は慈悲深く寛大な指導者の役割を演じているがごとく、細々とした訪問者が抱える問題の解決を約束してみせます。地上げによる立ち退き費用の支払いを渋る公的機関と結託したデベロッパーとの契約書類に自筆のサインを書き込み、関係各所に指示を出しておくから大丈夫、と優しく語りかける彼は、テレビで見る温家宝首相の姿と重なって見えます。でも、県政府ビルの周辺には、決して招き入れられることのない陳情者たちが大挙して取り巻いているシーンも映されています。

104分間の映像の大半を占めるのが、酒宴の風景です。お抱え運転手に「毎日が午前様」と揶揄されながら、この地を訪ねる国内外の投資関係者や不動産事業者らと日夜酒杯を重ねる郭書記はカラオケ大好きの乾杯大将です。酒宴の背後には地元の若い女歌手やダンサーがいて、その地方色たっぷりの場末感が今日の中国らしさを存分に味わせてくれます。

とりわけ郭書記のハッスルぶりが見られるのが、海外の投資関係者との宴会です。台湾関係者とは肩を組み、デュエットでカラオケを熱唱、同じ“中華民族”としての一体感に酔いしれてみせます。一方、欧米人企業家相手には中国式のカラオケ接待ではなく、個室を借り切った誕生日パーティを準備させるなど、両者の好みを使い分ける気配りを忘れません。が、用意させた誕生日ケーキのクリームを欧米人の顔に塗りたくり、おどけてみせるといった、ついついお里が知れてしまうシーンも出てきます。おそらく彼の胸の内には、中国人も欧米人相手にここまで対等に振舞えるようになったんだぞという自負があったであろうことがうかがえます。

ぼくは以前、仕事の関係で延辺朝鮮自治州のトップに近い役人に面会したことがあります。酒宴にも招かれたのですが、彼は外国人であるぼくに、自らの権限を誇示することに熱心でした。ぼくはそのとき、延辺にある複数の北朝鮮との国境ゲートを視察して回りたかったので、その話をすると、後日、外国人の立ち入りが禁止されている中朝国境のある橋を彼の電話1本で現場の役人に命令を下し、渡らせてくれたりするわけです。

思うに、彼らのような地方役人がなぜ自分の権限を誇示したがるかというと、自分の権限が及ぶ範囲と限界を知っているからでしょう。彼らは、中央政府にたてつくことはできなくても、この地では俺がなんでも決められるということを、とりわけ外国人相手に言いたくなるようです。

しかし、高級カラオケクラブの個室で側近にレミーマルタンを開けさせながら、県内の消費税率をトップダウンで決めてしまうなんて政治手法に道義などあろうはずはありません。「県の書記なんてのは、大旦那みたいなもんさ。歳入3億元なのに、なぜ10億元の歳出が可能か。それは俺が省幹部に顔が利くからだ」。退任間近になると、彼はますます大胆になってこんなことを言い出す始末です。

このシーンを観ながら、ぼくはつぶやいていました。これも2010年までの話だろうさ。11年から先はこうもいくまい。地方財政は破綻の危機だというし、マンション建てれば金が生まれるなんて時代ではもうないのだから。さあ、中国もこれからが大変だ……。

ですから、エンディングの字幕で郭書記の懲役刑が告げられるのを観ながら、溜飲が下がったのは確かでしたが、どこか後味の悪さが残ります。要するに、彼は中国版ミニ角栄。退任挨拶で涙を流したりする情にもろい人物で、時代に乗ったお調子者にすぎない。その小物ぶりに、同情の余地があるようにも思えてくるからです。なぜって、本物のワルなら捕まったりはしないでしょうから。

いまとなっては、実名まで明かされてしまったこの人物、中国で最も面子のない男、カッコ悪いにもほどがある。一見頭がよくて抜け目がないようで、その実スキだらけという中国人ってよくいます。脇が甘すぎたのか、稀代のお人よしだったということか。おそらく彼は自分がこれだけ県を発展させたのだから、任期内の功績は後代に残す価値があり、その記録を撮らせるのも悪くない、くらいの認識だったに違いありません。確かに、2000年代の中国はそんな時代だったと思います。

この人物、世代的には文革時代には紅衛兵でもあった50代でしょう。青年時代には資本主義者を打倒すべく大暴れした人間が大人になり、権力を手に入れたとたん、接待漬け、酒宴三昧の日々を送ってついには監獄行きという結末は、中国の官僚制度の救いようのなさを呆れるほどわかりやすく見せてくれたといえます。ぜひとも中国の国営テレビで全国放映すべき貴重な映像だと思いますが、無理でしょうね。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-30 22:09 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 12月 26日

農村の老人たちの夜這いの物語(中国インディペンデント映画祭2011 その3)

12月5日は、『独身男(光棍儿)』を観ました。数日前、中国の農村の若者の物語(『二冬』)を観て、できることなら農村の性の世界も見せてほしいと書いたばかりですが、この作品ではそれがてんこもりで描かれていてちょっとびっくりしました。

You Tube『独身男(光棍儿)』

舞台は北京市の外縁に張りつくように広がる河北省のどこまでも乾いた大地に点在している山あいの村。初めての大学合格者が出たと村民総出でお祝いするほど、都市文明から隔絶された陸の孤島です。

(話の筋には関係ありませんが、こんな奥地に住みながら、一浪の末合格したこの村の若者はインターネットを使いこなしています。またこうした農村出身の若者が都市部の大学を卒業しても、特権階級の子弟でもない限り、蟻族になるほかないこともなんとなく見えてしまう。それがいまの中国です。

※ちなみに蟻族とは、2000年代半ば頃より中国で急増している大卒でありながら都市生活に見合った収入が得られないため、都市近郊のスラム地区にルームシェアしながら居住する地方出身者のこと。「80后」世代が多い(『蟻族-高学歴ワーキングプアたちの群れ』(2010年 勉誠出版))
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さて、物語は若い頃(文革の時代という設定)、恋人との結婚を反対された羊飼いの楊が主人公で、彼は50代の今でも村長の妻となった彼女と密通を続けています。そこには不倫という罪の匂いはなく、村祭りの夜、彼女のほうから楊の住む村はずれの小屋へ夜這いにやって来るというあっけらかんとしたものです。情事のシーンは直接撮られることなく、真っ暗闇の映像に白い字幕でふたりの会話だけが映されるという奥ゆかしい表現なのですが(これは他の中国インディペンデント作品『花嫁』でも同じでした)、驚いたことに、その村長の妻は楊だけではなく、同じ夜、村の独身男たちの家を何軒もハシゴしていくのです。

独身男といっても、冒頭で明かされるように、楊ですら最も若く、60~70代の老人たちです。若い頃、さまざまな事情があって結婚できずに老年を迎えた男たちですが、出張がちの夫の外出時を見計らって、彼女は男たちの家を訪ね歩き、ひとときの性を楽しみ、いくばくかの小遣いをせしめて帰るのです。その金は息子の大学進学のために使われることは一同承知しています。

外界から閉ざされた辺境の地での、一同納得済みで維持される性とわずかな金銭の交換を通じた複数の男とひとりの女の関係。まるで文化人類学のフィールド調査の対象を見ているようでもありますが、中国の農村では老人たちの性の供宴がこんな形で行なわれていたのか(もちろん、これはフィクションです)と正直呆れつつ、どこか納得させられてしまいました。

彼らの関係性のバランスが崩れるのは、楊が四川省出身の嫁を買ったことから始まります。中国の農村では人身売買が日常的に行なわれているとは聞いていましたが、6000元(約7万5000円)ほどの金と引き換えに現れた色白の若い女が、はるか彼方の四川の山奥で人さらいに遭い、拉致されてこの地に連れて来られた哀れな身の上であることは村人みんなが承知しています。それでも、誰も楊を非難したり見下すどころか、村の男たちはうらやましがるばかりです。これでは人権という観念がこの国では通じないのも無理はありません。このあたりの展開はいかにも今日の中国的で、よくできています。

面白くないのは村長の妻です。その6000元は口約束とはいえ、息子の大学進学資金に用立ててやろうと身寄りのない楊が以前話していた金だったからですし、何より楊が若い女に執心している姿を見るのは口惜しい……。ところが、女は楊のもとから逃亡を企てるのです。金で買ったとはいえ、年の差には抗えません。落胆する楊を尻目に、村の若い男が彼女を見初めて自分の嫁にしたいと言い出します。そのためには、楊に女を諦めさせ、代わりに彼が6000元を用立てなければならない。ひとりの女の売買をめぐって村中で金の工面の話をしている光景の異常さもそうですが、一人っ子時代の親に対する息子の甘ったれぶりには呆れてモノが言いようのない始末です。息子は老いた父親に迫るのです。「なぜ息子のために金を用意できないんだ。オレはあの女を嫁にしたいんだ」と。

結局、四川の女はその若い男すら置いて村を後にしてしまうのですが、我に返った楊は手元に戻った6000元をあっけなく村長の妻に渡します。こうして村の独身男たちと女の奇妙な関係はひとまず元に戻っていくのでした。

この作品を撮った郝杰監督は、河北省出身の1981年生まれ。なんでもこの物語は、すべて彼の地元の顧家溝村で実際に起こった話に基づいているそうで、劇中の人物は本人や彼の家族や親戚が演じているとか。夜這いの関係者がいるその村で撮影を行うというような無茶ぶりは、都会育ちの「80后」世代にはとうていできないやり方でしょう。

映画を観始めてから最初の30分くらいは、中国のとんでもないド田舎で繰り広げられる老人たちの夜這いの話とは、なんてたちの悪い露悪趣味だろうと思いましたが、観ているうちにだんだん認識が改められていきました。監督本人も「独身男のセクシーさに気づいたとき、我々は敬意をもって彼らの生命の軌跡にストップモーションをかける。その価値は永遠だ」とパンフレットの中で語っています。彼らがセクシーかどうかはともかく、この監督の人間の見つめ方はどこか魯迅的なところがあるようにも思えてきました。

もっとも、この若い監督が老人の性の問題をどこまで切実に理解して描いているのか。その生身の感触を知るはずがないからこそ、こんなにカラッと妙味たっぷりに表現できたのだと思いますが、そもそも「80后」の彼が、なぜこの題材を選んだのか。一人っ子政策の徹底と男尊女卑の社会風潮から男女比率の均衡が急激に崩れた結果、適齢期の男子が3000万人もあぶれてしまうという今日の中国社会、今後もさらなる超少子高齢化の未来が待ち受ける自らの老後の時代を見通してというわけでもないのでしょうけれど。

日本でいえば、老人ホームの色恋話がこれに近いのかもしれませんが、中国の農村出身の映像作家が描くこの特異な物語は、ずいぶん遠い世界の出来事だと思わざるをえません。老人の性を日本で描くとしたら、もっと違った表現になるのではと思うからです(そうでもないのかな。ぼくにはまだその境地がわからないので、なんともいえませんけど)。

中国の農村というある種の異界を、その地で生まれ育った若い世代がどう認識しているのか。こうした作品を観なければ、我々には思いもつかないものです。この作品の海外での評価が高いというのも、うなずけるところがあります。

今日中国において徹底的に貶められている農村社会に対する見方がちょっぴり変えられた作品でした。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-26 18:00 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)
2011年 12月 26日

北京郊外村のシュールな異界(中国インディペンデント映画祭2011 その2)

12月4日は、徐童監督の『占い師(算命)』(2010年)を観ました。前回(『冬に生まれて(二冬)』は農村が舞台でしたが、今回は北京近郊の移民労働者の住む街(郊外村)で撮られたドキュメンタリー作品です。

Youku『占い師(算命)』

足に障害のある50代の貧しい占い師と知的障害者の妻が主人公。登場人物は自分の身の上を占ってもらうため彼を訪ねてくる売春婦や元炭鉱夫たち。社会の底辺を生きるキャラクターが勢揃いです。
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フィクションではないため、そんなに観客に都合よくドラマが展開するはずもなく、それぞれの登場人物ごとに章を分け、監督はカメラを執拗に回していく構成です。最初はかなりトウのたった30代の売春婦の話です。彼女は占い師から男運の悪さを指摘されながら、カメラの前で若い頃の思い出を語り、今日の落ちぶれた姿を嘆き、ときにあられもなく泣きじゃくるのですが、ある日しつこい男客を店の前で殴り倒し、警察に拘留されてしまいます。その後、売春取締りで店をつぶされるという災難続きで、ついに行方知れずとなってしまいます。

次の章では、占い師は妻の故郷に夫婦ふたりで里帰りします。実家では彼女の兄弟たちに歓待されるものの、知的障害を負った彼女が人生の大半を過ごした場所が家畜小屋だったことを観客は知らされます。家族は彼女を決して家屋には住まわせなかったというのです。食事も残飯同然でした。

占い師はそれを承知で嫁にもらうことに決めたそうです。カメラがかつて彼女が寝起きしていた小屋を映すと、一頭のヤギがぬっと現われ、憎らしげにこちらをにらんでいました。

最後の章で、ふたりは縁日に占いの店を出します。粗末な机をひとつ置いただけの露店の占い師の隣には、妻がイスに腰掛け、物乞いをしています。障害者であることが記された肩掛けをした彼女は、日がな夫とともに客が来るのを待っています。普段は哀れな老婆にしか見えない彼女が童女のようにふりまく純真な笑顔に、観客は思わず見とれてしまいます。結局、冷やかし客がほとんどで、たいした売上がないまま看板をたたみ、ふたりが引き上げていくシーンで映像は終わります。

障害を負った男が知的障害のある女を妻にするという設定は、映画『歌舞伎町の案内人』で知られる上海出身の張加貝監督が2007年に撮った『さくらんぼ 母ときた道(桜桃)』でも採用されていたように、中国ではわりと普通の感覚のようです。障害者同士の婚姻は、自分に見合った相手を伴侶とするもんだという、人としての常識の範疇に属するという理解でしょうか。この国では「人としてみな等しく」といった障害者福祉の観念が大半の国民に及んでいない以上、無理もない話かもしれませんが、逆にいえば、身障者であっても結婚を諦めることはないという意味で、ポジティブな生き方ができるともいえるでしょう。

それにしても、北京中心部からそれほど離れていない場所に、こんなシュールとでも呼ぶほかない生活が普通にあることに、あらためて中国のリアルを思い知らされます。

中国では社会福祉に頼ることはできないという現実だけでなく、公安による無慈悲な処遇(中国では占いは非合法。ゆえにガサ入れも入る)も受け入れなければならない。一般に中国政府や中国を研究する人たちは、はっきり言いたがらないように見えますが、郊外村はアジアの大都市ならたいていどこにでもあるスラムと呼んでいい場所だと思います。

前回観た中国の農村と比べると、大都市周辺に広がる郊外村の生活は、高層ビル街が身近な場所に見えているぶん、いっそうみじめさを感じてしまいます。しかし、それはぼくが日本人だからそう感じるのであって、中国の人たちからすれば、特別なことではないのかもしれません。いまの中国、高層ビル街ではなく、郊外村で生きる人たちのほうが多数派であることも事実でしょう。

何より『占い師(算命)』を観ながら驚くのは、撮影者と被写体の近さです。これは戦前期、南満洲鉄道株式会社によって建設され、新中国後、共産党に引き継がれた瀋陽の重工業地帯の労働者たちの日常を撮り続け、中国社会主義の終末の光景を記録した記念碑的作品『鉄西区』(2003年 王兵監督)と同様、中国のドキュメンタリーの手法上の大きな特徴といえそうです。

なぜこの人たちは他者に撮られることをここまで許したのか? 

それが可能であったのは、第一に彼らが底辺の人間だったからといえるのでしょうが、たとえ境遇は恵まれていなくても、彼らは自分が取るに足りない人間というようにはどうやら思っていない。どこまで当人が言語化できているかはともかく、自らが誇り高き中華民族の老百姓の代表なんだという自負があるように見えます。そこがとても中国人らしい。それは自分の人生すら壮大な歴史の一部なのだと納得することで自らの境遇を受け入れていく諦念と裏腹の自己認識とでもいえばいいのか。

このドキュメンタリー作品の題材は、あまりに地味で、どうしようもなく救いようのない中国の現実をさらしていますが、その映像につきあうことで初めて見えてくることがあります。いまの日本人にとってはおよそ遠い世界の出来事だけに、今日の中国がなぜかくあるのか、その秘密が開陳されているようにも思います。
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by sanyo-kansatu | 2011-12-26 17:52 | リアルチャイナ:中国独立電影 | Comments(0)