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2016年 04月 26日

横浜中華街の魅力が半減!? ここはもうニューカマーの街なんですね

先週、取材で横浜に行き、仕事の後、元町と中華街を久しぶりに歩きました。平日のせいか、元町の閑散とした雰囲気に比べ、中華街は中国語を話す観光客が多く見られました。
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19世紀後半に生まれたこの街には、中国の洛陽にある三国志の英雄の関羽を祀る関帝廟があります。
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横浜 関帝廟
http://www.yokohama-kanteibyo.com/

この写真は洛陽にある本家の関帝廟です。昨年10月に現地で撮ったものです。
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ただし、横浜中華街はすっかり変わってしまった印象です。正直言って、魅力が半減してしまったといわざるを得ません。
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かつての魅惑的な広東料理店は激減し、1990年代以降に増えたニューカマーの中国東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)出身者によって、都内の中華料理店と変わらない派手な写真入りメニューの看板ばかりが並ぶ金太郎飴のような食街になっていました。横浜中華街でなければ食べられないような特色あるメニューは一部の店を除き、残っていないようです。
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おそらくこの地で何代も続いてきた老華僑の跡を継ぐ世代が日本化していなくなり、代わりに彼らニューカマーがこの地に移り住み、営業し始めたからでしょう。やたらと占いとマッサージの店が増えているのも、興ざめです。

実は、同じことは全国で起きています。1950~60年代に地方から都会に出てきて調理学校や中華レストランで学び、70年代に独立開業した街場の中華料理屋さんの多くが、跡継ぎもなく、一斉に閉店していくなか、ニューカマーの中国人が店ごと買い取り、新華僑特有の「中国家常(家庭)料理」店に看板ごと架け替えていくという事態がこの10年くらいで一気に進んでいるからです。

通りではあちこちで中国語がよく聞かれました。週末こそ日本人客もそこそこ来ますが、バスでこの地に乗りつける中国人観光客が多いからです。わざわざ外国に来て、中華街を訪ねるという観光行動それ自体は、ちょっと興味深い現象だとは思いますが、実際、このように変質してしまった街は彼らにとって面白いものなのでしょうか。
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3月に上海の書店で『世界 唐人街(世界のチャイナタウン)』(広東人民出版社)という本を見つけました。世界各地の中華街の歴史と現状を紹介する内容ですが、なぜか旅行コーナーの棚に置かれていました。どうやら中国人の海外旅行の参考書とされているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。
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ネットに同書の宣伝文が載っていました。

《世界唐人街》图书首发:一条唐人街就是一部华人奋斗史
http://www.oushinet.com/news/qs/qsnews/20151201/213956.html

ここでは、同書の出版記念パーティーが広州華僑博物館で開催されたこと。また同書が「世界5大陸、41カ国、67の」中華街を紹介することで、中国人の海外旅行のみならず、留学やビジネス、投資にとって貴重な情報を提供していると解説しています。

内容をざっと見てみましょうか。

まず「前言」で、今日の中国人にとっての「唐人街(中華街)」の位置付けについて以下の6つのポイントを挙げています。

①在外華人の出国の第一ステージ
②在外華人と中国本土人の連帯の絆
③華人文化の全世界的橋梁
④在外華人の愛国主義温床
⑤外国人のための中国文化理解の窓口
⑥在外華人の社会、経済、文化の中心

ちょっと気になる文言(「④在外華人の愛国主義温床」)も含まれていますが、同書は海外に点在する中華街をポジティブな存在として捉え直そうとしていることがわかります。華人の経済的、社会的、文化的な活動が海外で展開していくための拠点として位置付けようとしているのです。

しかし、それにはちょっと違和感があります。もともと中華街とは、早い時期では14、15世紀頃、中国本土の政変や自然災害などから国を逃れた人たちがたどりついた先に形成されたものでした。また、19世紀のアヘン戦争以降は、労働者として太平洋を渡り、北米や日本へ渡ってきた人たちがつくったコミュニティでもあります。それは、在外華人のネガティブな歴史そのもののはずです。

おそらく、彼らはこう思っているのでしょう。いまはもうそんな時代ではない。新時代の中華街とは、興隆する今日の中国人の海外発展のためにあるのだと。

同書には、他にも気になるところがあります。

たとえば、日本の中華街として横浜、神戸、長崎だけでなく、「東京中華街」が挙げられていることです。

いつのまに東京に中華街が? そう思うかもしれませんが、「东京唐人街:中国人的“银座”(東京の中華街:中国人の銀座)」と題されたページがあり、1980年代以降、多くの中国本土の学生が日本に留学し、その後日本で就職したこと。池袋駅北口の周辺に多くの中国人経営の料理店があることなどが書かれています。

実は、同じことはカナダやオーストラリアにもいえて、バンクーバーやトロント、シドニー、メルボルン、ブリスベン、アデレードなどの中華街も紹介されています。これらの中華街は、一部を除き、東京同様、1980年代以降の新華僑がつくったものです。

こうして中国人観光客の訪問先のひとつとして、それぞれ訪れた国の中華街が選ばれるのです。書店の旅行コーナーに『世界 唐人街(世界のチャイナタウン)』のような本が置かれていたのもそういうわけです。
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久方ぶりに横浜の中華街を訪ねて、釈然としないような思いにとらわれながら歩いていたのですが、横浜市立港中学校のそばに、子供たちの描いた龍の墨絵が展示されているのを見かけました。

よく見ると、絵の脇に書かれた名前の多くが簡体字表記だったので、少しびっくりしました。ニューカマーの子たちがこの地に多数実在することがあらためて実感されたからです。
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ネットでみると、すでに2010年にこんな記事が書かれていました。今回実感した中華街の変化はずいぶん前から起きていたことだったのです。

横浜市で増え続ける中国人転校生(中国網2010-06-18)
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-06/18/content_20290928.htm

記事では、ニューカマーの中国人の子供たちの進学や進路の問題が指摘されていました。確かに、自分の名前を簡体字でしか書けないようだと、いろいろ支障がありそうです。

「全日制高校合格を望めない生徒は、定時制を選ばざるを得ない。定員割れしていれば誰でも入学できるからだが、中途退学する率も高い。慣れない日本語への挫折、昼間高校に通う友だちとのすれ違い、アルバイト生活から来る疲れ、こうした原因がよく聞かれる。学校を辞めた子どもたちが職を求める先は、やはり中華街だ」(同記事より)。

ニューカマーの街となった横浜中華街。中国からこの地を訪れる観光客は、その現実を知るとき、何を思うのでしょう?
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by sanyo-kansatu | 2016-04-26 17:10 | “参与観察”日誌 | Comments(0)
2015年 01月 18日

「怖いほどの韓国の中国への接近」の最前線、済州島の投資移民

今朝の朝日新聞に、韓国済州島への中国の投資移民に関する以下の記事が掲載されていました。

(波聞風問)中韓急接近 済州島が映す異なる視座(朝日新聞2015.1.18)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11557071.html

「韓国の「ハワイ」とも呼ばれる済州島(チェジュド)。世界自然遺産の韓国最高峰、漢拏山(ハルラサン)のふもとに、高級チャイナタウンが姿を現しつつある。

「熱烈歓迎参観」。ハングルではなく、赤い漢字がおどる。中国の不動産大手「緑地集団」が手がけるマンション「漢拏山小鎮」。1戸約200平方メートルが、約9億ウォン(約9800万円)する。

「お客は中国人です」。ショールームの中国人社員は、明言する。微小粒子状物質PM2・5の数値を北京や上海と比べた広告で、環境の良さも強調している。2013年から400戸を売り出し、8戸を残すのみという。

島に住む翻訳家の男性(40)はこぼす。「高台の高級マンションから、中国人に見おろされている気分だ」。娯楽施設など周辺であいつぐ開発計画をめぐって、環境破壊を懸念する声もあがる。

韓国紙中央日報によれば、中国人が所有する済州島の土地面積は、14年6月までの4年半で約300倍に。外国人全体の43%を占め、国別では米日を抜いて首位。5億ウォン以上投資すれば永住権につながる居住権を得られる制度も、中国人をひきつける。ホテルや店舗への投資もさかんだ。

観光が重要な収入源の島で、外国人客の9割近くが中国人。中国語が飛び交う免税店のそばで、「罰金」を示す看板に目がとまった。

信号無視は2万ウォン、たんをはいたら3万ウォン、あたりかまわず大小便をしたら5万ウォン――。中国語と英語、ハングルで記されている。近くの店員は「中国人観光客を意識したものです。マナーが良くない人もいる。でも大事なお客様ですからね」。

中国経済が急減速したり、関係悪化で中国政府が観光や投資を抑えたりしたら、島はどうなるのか。人口約60万人の済州島は、複雑な思いを抱きながらも中国依存を強める韓国の「最前線」にみえる。

訪韓外国人の4割強が中国人で、14年も前年比4割増の勢い。中国からの直接投資(申告ベース)も2・5倍に膨らんだ。成長を輸出に委ねるなか、中国との貿易額は日米との合計を上回る。金融面でも、外貨預金に占める人民元の割合は11年の1%弱から3割に急増し、いまやドルに次ぐ存在である。

経済に歴史認識……。日本からみると怖いほどの韓国の中国への接近ぶりを、木村幹・神戸大学教授(朝鮮半島研究)は「現政権の志向ではなく、構造的なもの」と指摘する。安全保障面でも、韓国は米中関係を「共存」と認識しており、「対立」を軸に考える日本とは外交の前提となる国際環境が異なる、と。

視座を変えて相手が見ている風景を想像してみる。正否ではない。そこに、対話の糸口があるかもしれない」

昨年5月、上海浦東空港の出国ロビーで、この記事の指摘する「高級チャイナタウン」の宣伝ブースを見かけていたので、なるほどそういうことになっていたのかと思いました。これが「漢拏山小鎮」のイメージ地図です。
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いまや中国全国の不動産ショールームならどこでも見かけるジオラマも展示されていました。
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販売を手がけるのは、中国第2の不動産会社「緑地集団」です。
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緑地集団について(百度)
http://baike.baidu.com/view/2291611.htm
緑地集団は、2014年の「フォーチュングローバル500」で268位にランキングしている不動産企業。14年の不動産販売面積は、前年比で30%拡大。14年の販売収入総額は2408億元(約4兆6664億円)となる見込み。

最近の中国では海外旅行と投資移民の話が不可分の関係で語られていることは、以前本ブログでも指摘したことがありますが、ニューヨークやオーストラリアの不動産物件の買収話だけではなく、身近な投資先として済州島がここ数年注目されていたのです。

中国の海外不動産投資ブームをいかにビジネスチャンスとするべきか(COTTM2013報告 その5)
http://inbound.exblog.jp/20520343/

これは投資移民のためのサイトの済州島のページです。

济州岛汉拿山小镇 - 韩国投资移民
http://www.jejuvip.com/forum-39-1.html
物件の紹介だけでなく、韓国では50万ドルの投資が必要なことなど、移民のノウハウを解説しています。いまの中国人の投資移民熱には、「いつでも逃げられる海外の拠点を用意しておきたい」という彼らの正直な願望が背景にあると思います。

それにしても、済州島を訪れる「外国人客の9割近くが中国人」という状況にはビックリですが、韓国政府の施策でこの島に限って中国パスポートでもノービザなのですから、当然かもしれません。先日東京を訪れていた中国瀋陽の旅行会社の友人も、最近の中国人の韓国旅行先はソウルか済州島のどちらかで、後者の人気が高いと話していました。ツアー料金が驚くほど安く、ノービザなのがいちばんの理由といいます。

2014年に600万人を超えた訪韓中国人数は、今年も増加し、700万人を超えるといわれています。問題は、以前も指摘したように、地元では「中国客が増えても大歓迎とはいえない」事情があることでしょう。

中国客が増えても大歓迎といえないのは韓国、台湾でも同じらしい
http://inbound.exblog.jp/23872141/

記事の主張(韓国の視点から東アジア情勢をみることが対話の糸口にならないか)は、中国の韓国への投資移民の話を日韓関係に結び付けようとするところに少々無理を感じますが、こうした複合的な視点は常に必要なことだとは思います。

もっとも、いま済州島で起きていることは、専門家も指摘するように「現政権の志向ではなく、構造的なもの」でしょう。歴史的にみて、かつて起きていたことのひとつの再現なのだと思います。

気になるのは、記事でも指摘するように「中国経済が急減速したり、関係悪化で中国政府が観光や投資を抑えたりしたら、島はどうなるのか」。おそらくこれも、歴史的にみれば再現するかもしれません。その日にどう備えるのか。すなはち、済州島のチャイナタウンが中国全土に増殖する鬼城になる日にです。なぜなら、済州島で起きていることは、中国国内で起きていることにそっくりに見えてしまうからです。
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by sanyo-kansatu | 2015-01-18 12:45 | 気まぐれインバウンドNews | Comments(0)
2014年 01月 21日

文革時の蛮行をザンゲする元紅衛兵たち

脱臭無菌化された「文革系雑貨」があふれる一方、最近中国では文革当時の蛮行をザンゲする年老いた元紅衛兵たちが現れています。

先日もたまたま北京にいてキオスクで手にした新京報に以下の記事が掲載されていました。

新京報 2014年1月13日
宋任穷之女向文革中受伤害师生道歉 数度落泪(←これは同記事が転載されたものです)
http://news.sohu.com/20140113/n393382704.shtml
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このニュースについては、産経新聞が以下のように報じています。

文革の元紅衛兵、相次ぎ謝罪 背景に習政権の毛路線模倣への懸念
2014年1月14日
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140114/chn14011411420002-n1.htm

「1966年から76年に中国全土を席巻した文化大革命中に、教師や知識人らをつるし上げ、暴行を加えた紅衛兵による被害者への謝罪が昨年から急増している。中国メディアによると、著名な紅衛兵リーダーだった宋彬彬(そう・ひんひん)氏が12日、北京で文革を反省する会合を開き謝罪した。背景には、習近平政権が毛沢東を模倣した政治運動を展開していることを受け、文革再来への懸念が関係者の間で広がっている事情があるとみられる。

13日付の新京報などによると、宋彬彬氏ら元紅衛兵約20人は北京師範大学付属高校に集まり、文革中に紅衛兵の暴行を受けて死亡した同校の元副校長、卞仲耘(べん・ちゅううん)氏の銅像に黙●(=示へんに寿の旧字体)(もくとう)しざんげした。宋氏は涙ながらに「先生に永遠の追悼と謝罪を表したい」との内容の反省文を読み上げた。」

実は、昨年12月14日、専修大学で宋彬彬氏ら当時の紅衛兵による蛮行をテーマとしたドキュメンタリー映画『私が死んでも』(胡傑監督)が上映されています。同作品は、1966 年8 月に紅衛兵に殺害された、北京師範大学附属高校の党総書記で副校長だった卞仲耘の境遇を扱っており、彼女の夫へのインタビューと彼が当時撮った多数の写真を主たる素材としています。

この上映会は、昨年12月に開催された「中国インディペンデント映画祭2013」の関連企画として実施されたものです。

胡傑監督作品上映とトーク
日時 十二月十四日(土)
『私が死んでも』午後一時一五分~二時二五分
『林昭の魂を探して』二時三五分~四時三五分
胡傑監督トーク「中国現代史とドキュメンタリーの可能性」
会場 専修大学神田校舎一号館二〇二教室
主催①③ 専修大学土屋研究室 http://www.t3.rim.or.jp/~gorge/tsuchiya.html

『私が死んでも』は、文革当時に北京の女子高で起きた教師に対する恐るべき集団リンチ殺人の遺族とその周辺の人々の肉声でつづられた作品でした。なぜ当時の女子高生たちがこのような行為に及んだのか。いまの中国の都市に住む恵まれた階層の若者たちには理解を超えているかもしれません。

1か月ほど前にこの作品を観ていただけに、事件の首謀者たる当人がメディアに姿を現わし、ザンゲしたというニュースを知り、ぼくはかなり驚きました。胡傑監督によると、同作品は中国では一般公開はできませんが、知識人を中心にかなり広範囲にDVDとしてコピーされて広まっているそうです。今回の宋彬彬氏の行動も同作品の存在を抜きにしては語れません。

同作品の概要と胡傑監督のトークの内容については、後日紹介しようと思います。
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胡傑監督(2013年12月14日 専修大学にて)
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by sanyo-kansatu | 2014-01-21 10:07 | のんしゃらん中国論 | Comments(0)
2013年 12月 01日

ラオスの北部辺境で会った華人移民の境遇は?

ラオス北部のムアンシンは、少数民族の集落を訪ねるトレッキングの拠点として知られるツーリストの町です。オンシーズンの11月から3月にかけて、小さな山あいの町が外国人の姿でにぎわいます。
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ぼくが訪ねたのは8月ですから、ツーリストはほとんどいませんでした。ルアンナムターからバスで約2時間半。町はずれのバスターミナルからこの町のメイン通りまで歩くと、1階が食堂になっている木造のゲストハウスを見つけました。タイルー・ゲストハウスといいます。ムアンシンの地図の右下の物件が集中している通りにあります。
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チェックインをするとき、宿泊名簿に国籍を書くのですが、ざっと見ると、フランスやドイツ、スペイン、チェコ、ポーランドなどのヨーロッパ人が多く、アジア系では日本人や韓国人がいました。また中国人もひとりいて、27歳の男性でした。中国のバックパッカーもラオスに来ているのですね。
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部屋には大きなかやが吊ってありました。ブンブン音を立ててまわる扇風機が唯一の電化製品です。こういう昔ながらのゲストハウスに泊まるのは久しぶりです。夜も7時を回っていたので、1階の食堂に降りて食事をすることにしました。
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ここはツーリスト向けの食堂で、英語のメニューもあります。ふと見ると、テーブルにトンボがとまっています。
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ラオスの代表的な料理といわれるラープというひき肉の香草炒めともち米のライス(カオ・ニャオ)を注文しました。
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食堂にはフランス人の家族とルアンナムターからのバスで一緒だったドイツ人バックパッカーの女の子2人組がいました。彼らは別のゲストハウスに宿泊しているようですが、この時期ツーリスト向けの食堂はここしか営業していないようです。ドイツの子たちはヴェジタリアンには見えませんが、食堂のおばさんに「肉入りでない料理はどれ?」と尋ねています。おそらく今日この町に滞在している外国人が勢ぞろいしたものと思われます。

しばらくすると、雨が強く降ってきました。ドイツの子たちは食事をすませると、慌ててゲストハウスに帰っていきました。さらに雨は強まり、スコールのような激しさで、通りはくるぶしくらいまで雨水がたまり始めました。

フランス人家族は中年のご夫婦に高校生の娘ひとりでしたが、彼らは雨具を持ってこなかったようです。お困りの様子だったので、ぼくは見かねて声をかけました。「2階の部屋に傘を1本持っているので、お貸ししましょうか」。すると、驚いたように、家族はこちらを振り返りました。どうやらぼくは彼らの目にツーリストと映っていなかったようです。それほど現地に溶け込んでいたのでしょうか(笑)。ぼくはルアンナムターの雑貨屋で中国製の傘を1本購入していたのです。すぐに部屋に駆け上がり、お父さんに手渡しました。

ご夫婦はあまり英語が得意ではないようでしたので、高校生の娘が通訳となってくれました。お父さんはぼくの渡した傘をさし、豪雨の中を家族のために雨具を取りにいくことになりました。

お父さんの帰りを待つ間、母娘と少し話したのですが、彼らは約3週間のインドシナ旅行に来ているとのこと。明日はルアンナムターに戻り、アンコールワットのあるカンボジアのシェムリアップに向かうそうです。話を聞いていると、ほとんどバックパッカーの旅同然で、日程だけは大まかに決めていても、移動はぼくと同じように、ローカルバスに乗ったり、国内線のフライトを利用したりと、なかなかの珍道中のようです。でも、家族でそんな旅をしている彼らのことがちょっとうらやましいような気もしました。それに、よく高校生の娘が付いてきたものだなと思います。そんなことを母娘に話しているうちに、ようやくびしょぬれになってお父さんが帰ってきました。

帰ってくるなり、「ゲストハウスの周辺は膝まで雨が増水しているよ。早く帰ろう」とお父さんは言いました。「パパはヒーローね」。そう娘がいうと、お父さんは濡れたレインコートとTシャツを脱ぎ捨て、ボディービルダーのようにマッチョなポーズをとって母娘を笑わせています。それを娘が写真に撮っていました。この微笑ましいエピソードは、帰国した後も、この家族の旅の思い出として語られることになるのでしょうね。

さて、静かになった食堂でぼくはひとり、雨で外出もできないので、ラオスの地酒ラーオ・ラオを飲むことにしました。自家製の米焼酎です。だって、他にすることがないのですから。

食堂のおばさんは片言の英語で聞きます。「あなた、どこの人?」「日本人ですよ」。

すると、おばさんは言います。「日本人のあなた、スモークしたらダメよ(Japanese,NO Smoke!)。警察に捕まるよ」「……」。

かつてムアンシンはジャンキーのたまり場だったという話を思い出しました。なにしろここはインドシナ北辺の国境地帯で、大麻やケシの集散地でした。朝市でも以前は大麻がふつうに売られていたといいますし、ゲストハウスに長期滞在する外国人ツーリストの中には、ラリって警察に捕まったり、命を落としたりした人もいると聞きました。まったく地元の人にとっては、はた迷惑な輩です。もちろん、その中には日本人も含まれていたので、おばさんはぼくに忠告したくなったのでしょう。おばさんの言葉には「冗談で言ってるんじゃないよ」という強い語気が含まれていました。

なんともいたたまれなくなったので、部屋に戻ろうかと思ったら、さいわい雨が小降りになってきました。通りにいくつか雑貨屋などの明かりが見えたので、外をふらつくことにしました。
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少し歩くと、「中老賓館」という中国語の看板があります。どうやら華人宿のようです。中に入ると、そこは食堂でした。

ぼくの姿を見ると、店の主人らしき男が近づいてきました。まだ飲み足りない気分だったので、彼に言いました。ここからは中国語の世界です。

「你好,你有什么酒?」
「啤酒有」
「不要,那中国酒有吗?」
「有」

そして、出てきたのが、白酒でも黄酒でもなく、養命酒のような少し甘いお酒でした。ここは雲南省に近い場所ですから、強い酒を飲む習慣はなさそうです。
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薄暗い蛍光灯の下では、華人たちが麻雀に興じていました。その脇で、誰かの娘なのでしょう、ひとりの幼女がCCTVのアニメチャンネルらしき番組を観ています。中国モノに多い3D動画です。
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ムアンシンは外国人ツーリストの山岳トレッキングの拠点であると同時に、中華新開地でもあるのです。主人に聞くと、8年前に四川省から来たそうです。このような店を好んで外国人ツーリストが利用するようには思えませんが、シーズンになると数少ない食堂ですし、そこそこ利用されるのでしょうか。それにしても、こんなラオスの片田舎に移住してきたことが、この四川人の人生にとって好機をもたらしたといえるのか。余計なお世話ですが、微妙に思ってしまいます。

店員の女の子ふたりが、そばで店内の掃除をしていたので、「きみたちは、中国のどこから来たの? 雲南省?」と聞くと、ぼそりと「老挝汉族(ラオ漢族)」と答えました。
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これは中国系ラオス人(ラオス国籍の中国人)という意味なのか、それとも中国籍の少数民族としてのラオ族なのか、ぼくには専門的な知識がないため、よくわかりませんでしたが、この国境地帯でそのどちらかを問うことは、それほど意味がないのかもしれません。

翌朝、この通りを歩くと、華人の家屋がずいぶんたくさんあることに気づきました。中国ナンバーの車が前に止めてあるのでわかります。地元の人たちは、もともと高床式の木造住居に住んでいるからです。
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こんな片田舎でも、ラオスでは華人に経済を握られてしまうというのは、こういうことをいうのですね。
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by sanyo-kansatu | 2013-12-01 09:59 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 11月 24日

ちょっと悲しい少数民族のおばさんの日常着(ラオス北部ムアンシンの朝市)

ラオス北部のルアンナムターからバスで2時間ほど山奥に向かうと、少数民族の集落へのトレッキングで知られるムアンシンという町があります。中国国境のあるパーントーン(パンハイ/班海)から10数㎞という場所にあります。
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ムアンシンは朝市が有名です。周辺の山村から少数民族たちが自分の採った山菜や野菜を売りに来るからです。
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場所は町はずれのバスターミナルの向かいにあります。屋根の下はおそらく地元の人たちの売り場で、周辺の山村から来た少数民族たちは、屋根のない道端に布を広げ、売り物を並べます。
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ヒキガエルも網の中にいます。
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ラオ・ラーオという自家製の米焼酎もペットボトルで売っています。

こうしてみると、ビエンチャンの朝市がずいぶん都会のように思えてきます。屋根の中に入ってみましょう。

肉売り場です。牛の頭が置いてあったりします。魚もあります。
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妊婦のお母さんが鴨の売買をしています。気の強い女の人のようで、もっと高く買ってよと売り手のおばさんが懇願しても、頑として聞き入れませんでした。
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揚げ菓子屋もあります。ほくほくでおいしかったです。
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もちろん、この市場にも屋台があります。ひき肉入りの麺でした。平たい米の麺でベトナムのフォーに似ています。人によっては衛生状態を気にするかもしれませんが、淡い鶏ダシのスープに香辛料が利いてうまいです。
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大きな鍋が湯気をたてています。この女の子はフォー屋の娘です。
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少数民族とおぼしき女性もたくさんいました。でも、彼女らは民族衣装を身につけてはいません。独特に結った髪型で、巻きスカートのおばさんもいましたが、たいていは中国製と思われる柄物のスカーフを頭に巻き、長靴を履いていたりします。
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おばあちゃん3人組がフォーを食べています。
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それにしても、ラオスの最辺境に位置するこの土地の人たちですら、手の込んだ刺繍を織り込んだ色鮮やかな民族衣装をふだん身に付ける機会はほとんどないようです。あるとしても、ツーリスト向けの一種の見世物になっていることが考えられます。

中国製の安価な衣料品が大量に入ってきており、それを日常的には代用してしまうのでしょう。これは、ここに限らず、アジア各地の少数民族エリアでよく見られる光景となっています。ちょっと悲しい気がしますが、無理もないことでしょう。

市場内には、両替商もいます。タイバーツや人民元との両替が可能なようです。
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もっとも、市場の入り口に、「ここではラオス通貨(キップ)を使うように」と地元政府の告知が書かれた大きな看板があります。
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その内容がわかったのは、漢字の看板もあったからです。これを見ても、ここが国境の町であることを実感します。実際、この市場では中国語がふつうに通じました。
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by sanyo-kansatu | 2013-11-24 23:19 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 11月 24日

ビエンチャンのチャイナタウンは2001年頃と比べてどう変わった?

ビエンチャンはレンタル自転車を借りて走り回るのにちょうどいい大きさの都市です。

1980年代であれば、北京や上海でも、ぼくはレンタル自転車であちこち訪ねまわっていたことを思い出します。いまはとても無理ですね。車の量が多すぎますし、都市化は郊外まで飛躍的に拡がり、都市交通機関が発達してしまいましたから。何より大気汚染がひどすぎて、サイクリングなんてやってる場合じゃないかもしれません(北京の胡同などでは外国人ツーリストがサイクリングしている姿をたまに見るけど、身体に悪そうです)。
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さて、ビエンチャンを自転車で散策すると、市内中心部でこそ仏領時代のコロニアル建築が残っていて目に楽しいのですが、ちょっと郊外に出ると、中国語の看板がよく目につきます。

東南アジアの各都市と同様、ビエンチャンにもチャイナタウンがあるのでしょうか。

それを知るうえで、筑波大学の山下清海教授の以下の調査報告が参考になります。山下教授は世界のチャイナタウンの研究者で、『池袋チャイナタウン』(洋泉社)という著書もあります。

ラオスの華人社会とチャイナタウン―ビエンチャンを中心に(山下清海教授 2006年)
http://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~yamakiyo/Laos-Chinese.pdf

その論文によると、ビエンチャンには2つの異なるチャイナタウンがあるようです。世界各地のチャイナタウンはどこでも「都市中心部に古くから存続してきたチャイナタウン(オールドチャイナタウン)と,それとは別に近年になって新しく形成されたチャイナタウン(ニューチャイナタウン)との2つのタイプ」に分けられるそうです。

前者(オールドチャイナタウン)が、チャオアヌ通り周辺です。通り沿いは、東南アジアのチャイナタウン特有の景観であるショップハウスが連なり、ビエンチャンの華人社会の最高組織であるとされる中華理事会や広東酒家などの広東料理店があります。
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チャオアヌ通りからメコン河沿いをファーグム通りに沿って東に進むと、福徳正神をまつる福徳祠があります。
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後者(ニューチャイナタウン)は市街地西部のノンドゥアン地区にあります。

「中国新移民が増加する中で,上述のオールドチャイナタウンとは別に,ニューチャイナタウンが形成された).ビエンチャンのニューチャイナタウンは,市街地西部のノンドゥアン(Nongduang)地区にあり,タラート・レーン(Talat Laeng,英語ではEvening Market)と呼ばれる.タラート・チーンの近くには,中国製のオートバイ,機械,金物,工具,部品などを販売する華人経営の金属関係の店舗が集中しており,華人は「塔拉亮(タラート)五金市場」と呼んでいる」(山下論文)
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実際、タラート・レーンを訪ねると、機械や工具などの店が並んでいました。

ビエンチャン市内には、中国の投資による建築物もいくつかあります。たとえば、国立博物館の真向かいに建てられた国立文化会館がそうだそうです。
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山下論文によると、もともとラオスは華人人口がそれほど多い国ではなかったようです。しかし、フランスからの独立後、1950年代後半になると、ラオスの商業の8割を華人に握られることになります。これは驚くべき数字といえます。当然ラオス政府は外国人の就業について制限を設けましたが、それでも華人は、ラオスに帰化するなどして経済活動をつづけました。

それが大きく変わるのが、1975年の社会主義革命の前後です。以下、その後の今日に至る経緯です。山下論文からの抜粋です。

「1975年の社会主義化の後,ラオス政府は,華人排斥の政策をとり,華人社会に大きな打撃を与えた.1976年には,華人の商店,工場を閉鎖した.1978年には,華人の財産の没収を開始し,華人団体の活動を停止させ,ビエンチャンの寮都公学を除くラオス国内すべての華文学校を休校させ,さらに社会主義化後,国内唯一の中国語新聞であった「老華日報」を停刊させた(《華僑華人百科全書・歴史巻》編輯委員会編,2002,pp.234-238)」

「1978年後半から,ラオスと中国の関係は冷却へ向かい,1980年,両国は外交関係を断絶した.しかし,1980年代後半,ラオスと友好的な関係にあるベトナムと,中国との関係が好転したのに伴い,ラオスと中国の関係も改善の方向に向かっていった.1988年,両国は国交を回復」

「1986 年,「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策に基づく市場原理の導入などを柱とする経済開放・刷新路線が提唱され,市場経済化による経済成長が国家課題として掲げられた(天川・山田編,2005).新経済政策の実施後,華人企業は復興した.タイの華人資本や香港・台湾などの企業のラオスへの投資が増加した.また,社会主義後,海外に逃れていた華人の中には,ラオスへ帰国して,新たに創業する者もみられるようになった.中国の雲南省とラオスを結ぶ険しい山道の整備が行われ,メコン川を通行する船の往来も活発化した.これにより,改革開放政策が軌道に乗った中国から新来の華人(中国新移民)も増え,特に国境を接する雲南省出身者が急増し,1990年代半ばには,それまでの潮州人に代わり,雲南人がラオス最大の方言集団になった(《華僑華人百科全書・経済巻》編輯委員会編,2000,pp.243-244)」

ところで、山下教授の調査は2001年3月に行われたものです。それからすでに12年以上も月日が経っています。当時と比べてどう変わっているのでしょうか。

チャオアヌ通り周辺には、おしゃれなホテルやゲストハウスが並び、チャイナタウンの風情はほとんど失われているように思います。またタラート・レーンもさびれた印象です。
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こうしてみると、かつてオールドチャイナタウンのあった市中心部は、外国人ツーリスト向けの宿泊施設やレストラン、ショップに変わり、華人の経済圏は郊外に広がっているように見えます。

もっとも、これらのツーリスト向け施設のオーナーは、たいていの場合、東南アジア各地から来た在外華人ではないかと思われます。中国本土の華人に比べ、彼らはセンスがいいですし、英語も話すでしょうから、外国人相手のビジネスは秀でているのです。

ともあれ、華人に経済を握られてしまう構図は、1950年代後半に似てきたのかもしれません。

では、いったいこの10数年でビエンチャンに移民してきた中国本土からのニュ―華人たちはどうなったのでしょうか。

実は、山下論文にひとりの遼寧省出身の中華料理店経営者の話が出てきます。

「ビエンチャン市内では,中国新移民が開業した中国料理店や商店が各所でみられる.市内では珍しい餃子専門店を経営する華人(58歳)から聞き取り調査を行った(写真13).彼は中国東北地方の遼寧省瀋陽近くの出身で,ラオスに来て1年ほどしかたっていないため,ラオス語はなかなか覚えられないという.妻は北京出身.経営状態はまずまずである.ビエンチャンに来たきっかけは,先にラオスに来た彼の弟が,中国とラオスの関係が好転したので,これから中国料理店の経営は有望であると勧められたからである.ビエンチャン在留の餃子好きの日本人に人気があり,経営状態はよいという.日本語,英語,中国語のメニューを備えている.他の華人商店と同様に,店内の奥の床には,「土地爺」(土地神,土地公)をまつっていた」
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その彼の経営する遼寧餃子店がメコン河沿いのファーグム通りにありました。当時の写真に比べ、そこそこ立派な店構えになっていました。

中国本土で起きたこの10数年のめちゃくちゃ大きな変化に比べると、ラオスに移住してきたこの華人の境遇の変化は、実にラオスらしいというべきか、ずいぶんささやかなものだったといえるかもしれません。
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by sanyo-kansatu | 2013-11-24 16:57 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(1)
2013年 11月 24日

ビエンチャンの中国系ショッピングモールに行ってみた

ビエンチャンの朝市でフランスパンのサンドイッチを食べたあと、自転車で郊外にある中国系ショッピングモールを訪ねてみました。
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そこは「ラオス三江国際ショッピングモール(老挝三江国际商贸城)」といいます。ビエンチャン中心部から西に少し離れた場所にあります。2007年に中国の投資できた日常生活品を扱う商店が多数集まるローカル向けの施設です。中国でいうと、庶民向けの商品を大量に扱う北京の東郊市場に近い世界です。東南アジアの主要都市にあるような現代的なショッピングモールではなく、とても旧式な施設ですが、ラオスではおそらく最大規模だと考えられます。
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ラオス三江国際ショッピングモール(老挝三江国际商贸城)
http://www.laowosj.com/
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では施設の中を歩いてみましょう。案内図をみると、100店舗以上の店があるようです。
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まず冷蔵庫や洗濯機、浄水器といった家電のコーナーです。基本的に中国製品です。オーディオ製品などもありました。いまのラオスの人たちがほしいと思っているものは、これらでしょう。
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文具や楽器、玩具、衣料などの店もあります。まさに中国の安価な日常品が世界市場に送り込まれている光景そのものです。
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バッグやスーツケース、寝具などのゼイタク品も扱っています。
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ATMも置かれています。もちろん、中国の銀聯カードが使えます。
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求人募集は中国語オンリーです。ローカルの雇用は考えていないのでしょうか。
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モールの隣に、三江大酒店というホテルや娯楽施設(三江会所)が建っています。ただし、そんなに宿泊客がいるように思えません。
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建設機械や携帯電話を扱う商店、両替商もあります。
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さらには、華人労働者用と思われる簡易宿泊施設すらあります。つまり、ここはラオスでありながら、まったくの中華世界なのです。
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ここがラオスであることに気づかされるのは、ラオス人らしい客を見かけたことと、マラリア予防のために地元の衛生局が貼ったと思われる注意書きくらいでした。

訪ねたのは土曜日の午前中でしたが、客の姿はほとんど見られませんでした。こんなことで大丈夫なのでしょうか。

評論家の宮家邦彦さんが、今年5月、この地を訪ねていることをネットで知りました。記事のタイトルは「中国に飲み込まれるラオス経済」です。

中国に飲み込まれるラオス経済 (JB Press)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37900

実際、「ラオスは中国の属国だ」という認識は、現地通の人たちの間では常識のようです。なにしろ両国はあらゆる点で規模が違い過ぎるので、経済交流が対等に進むなんて土台無理な話ではあるからです。

しかし、こうしてラオス三江国際ショッピングモールの閑散とした光景を見る限り、はたして中国の投資がうまくいっているのかよくわかりません。これは中国国内でもよく見られる光景ですが、立派な施設をつくってはみたものの、ゴースト化している施設はあまた存在するからです。

もっとも、ラオス経済の発展段階からすると、中国商品のショーケースおよび販売拠点としての意味があるのかもしれません。ラオス側も、投資してくれる相手にそう文句ばかり言うわけにはいかないのでしょう(そこがラオスと北朝鮮の違いでしょうか)。

ネットによると、ラオス三江国際ショッピングモールを投資したのは、浙江省台州市出身の丁国江という人物のようです。

老挝三江有限公司董事长、丁国江
http://www.zgxc.org.cn/html/xiangcunmingqi/lingjunrenwu/20130312/1347445.html

中国雲南省政府がラオスでの国境貿易を活性化しようと考えたのが1996年。丁国江は1999年10月、ビエンチャンに最初のショッピングセンターを開業します。現在のタラート・チーンショッピングセンターです。もともとタラート・レーン(中国市場)と呼ばれていた地区にあるのですが、火事で燃えた跡地に建てられたものだそうです。その後、彼は1800万ドル投資して、2007年8月にラオス三江国際ショッピングモールを開業します。

ところで、中国ではラオスの不動産都市開発について、ずいぶん立派な構想があるようです。

ラオス国際発展有限会社
http://www.wtclao.com/home/

それによると、ビエンチャンを以下のようなゾーンに分け、開発を進めていくんだそうです。
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でもこれ、誰が決めたのでしょうか? 中身になんら斬新さもないくせに、もっともらしい青写真と大風呂敷の構想をぶち上げたものの、どれもが難航しているのは、中国各地で起きている開発区の実態です。それと同じことをよその国でもやろうとしているのだとしたら……。

実は、中国国境近くでも似たような光景を見たので、それは別の機会で報告しましょう。
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by sanyo-kansatu | 2013-11-24 15:20 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 11月 16日

池袋にできた「文革レストラン」に行ってきました

池袋にできた話題の店、「東方紅」に行ってきました。
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10月26日にオープンしたばかりの、いわゆる「文革レストラン」です。1960~70年代の文化大革命時代の文化的意匠で内装を統一したレストランで、そんな店が日本でオープンしたことがちょっとした話題を呼んでいるのです。老板(オーナー)は中国黒龍江省ハルピン出身。場所は西池袋の繁華街にある「ロサ会館」の西側のビルの8階です。
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エレベータの扉が開くと、まず目に入ってくるのが、冒頭の毛沢東の大きなポスターです。

店内には、文革時代のプロパガンダの標語やポスターがあちこちに貼られ、天井からトウガラシなどがいくつもぶら下げられています。これは確かに「文革レストラン」の定番ディスプレイといえます。
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メニューの表紙が「毛沢東語録」風というのも定番です。メニューを広げると、東北菜(中国の東北料理)が並び、彼の語録がデザイン化されて書き込まれています(メニュー写真のいちばん下にあるのが毛沢東の好物だったという紅焼肉)。
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とまあそんな趣向の店ですが、あくまで商業的な狙いだと思われます。少し前に中国で流行った「文革スタイル」の店を日本で出せば、もしかしたらウケるんじゃないか、といったあたりか。オーナーには思想的な背景などないでしょう。近年、首都圏には東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)から来た在日中国人が急増していますから、東北菜を出す店という意味では、市場に合わせているといえるかもしれません。

開店祝いで、ドリンクも半額でした。個人的にぼくの好きな家常豆腐を注文しました。ふつうにおいしかったです。
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店内には、留学生のグループらしき若者とおじさん3人組、おじさんと若い女姓のカップルがいて、すべて中国客でした。

例の中国のネット上に飛び交った紅衛兵の衣装にコスプレした女の子の服務員(中国語のウエイトレス)はいませんでしたが、ふたりのコスプレ服務員がいました。
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話を聞くと、ふたりはともに瀋陽出身。茶髪の紅衛兵というのもいまの子らしくて面白いです。ネットに出た子は大連出身で、今日は休みだそうです。ふたりはとても丁寧な接客で感心しました。しかも、手がすくと、空いたテーブルのメニューをきっちり揃えたり、休む間もなく働いています。

池袋の「文革レストラン」は、内装を除けば、都内によくあるごくふつうの中華料理店でした。雑な日本語を話すおばさんが店を切り盛りしているような古い在日華人の店ではありません。経営者はおそらくニューカマーで、いまの中国の都市部によくあるレストランと変わらないといっていいと思います。ただし、服務員は注文の受け答えくらいはできますが、日本語は少しあやしい。在日華人が経営する店というのは、いまどきそんなものです。

ところが、池袋の知り合いの中国人の経営するバーで「東方紅」の評判を聞いたら、「味はまずい。一回行ったらもう行かないと思う。来年はもうなくなっているんじゃないかな?」という厳しい評価でした。

中国人というのは、知り合いでなければ、同胞につれないですね。

「池袋 东方红」でネットを検索すると、中国側の反応がいろいろ出てきます。

日本东京华人聚集地开设“东方红”餐厅 2013年11月4日
http://news.xinhuanet.com/world/2013-11/04/c_125649535.htm
http://www.mnw.cn/photo/baitai/692081.html

中国ネット民「頭おかしい…」 池袋の“文化大革命レストラン”に批判集まる
http://newsphere.jp/entertainment/20131111-1/

中国ではわりと批判的なコメントが多いようです。もともと「文革レストラン」は、2000年代前半にまず北京や上海でオープンし、それから何年か遅れて特に東北三省にたくさんできました。ぼくは大連や長春にあった店に行ったことがあります。大連の店では、紅衛兵の衣装をつけた劇団員によるショーもあったんです。客層は、当時を知る中高年の世代でした。確かに、ひどい時代でしたが、それでも自分の青春を過ごした時代を懐かしむという気分はあるものです。いまではそのほとんどのお店が閉店してしまいました。要するに、一種のブームにすぎなかったのです。そんな10年前に中国で流行った店をいまごろ日本でやるのかよ、という感じ方もあるかもしれません。日本人よりむしろ、中国のネット世代のほうが違和感を感じているところが面白いです。

日本ではいまのところ、特に反響はないようです。「チャイナタウン」騒動のあった池袋だけに、いろいろ言いたがる人が出てくるのかもしれませんけど、大半の日本人にとって「文革レストラン」といわれても、ピンとこない話でしょうから。

東方紅
東京都豊島区西池袋1-38-3 b-toos池袋8F
tel 03-6907-1237
微信号:dongfanghong1618

※あとで、中国で少し前に流行った「文革レストラン」(「これが本場中国の「文革レストラン」です」)について紹介しようと思います。

【動画あり】中国文革レストラン(大連)のショーにて(歌と踊りと文革世代の観客たち 2008年5月)
中国文革レストラン(大連)のショーにて(日本兵を成敗するシーン 2008年5月)

2か月後、この店を再訪した話も書きました。そこでは店内の文化的意匠について、簡単に解説しました。「池袋の「文革レストラン」再訪。紅衛兵コスプレ美女に会う」http://inbound.exblog.jp/21710468/

さらに、この店の文化的意匠が2000年代の中国の風景といかに重なっているかについては「中国の文革系サブカル雑貨は日本の1970年風?」を参照のこと。

また、その一方で文革時の蛮行を懺悔する元紅衛兵たちが現れていることについても注目すべきでしょう。「文革時の蛮行をザンゲする元紅衛兵たち」 を参照のこと。

【追記】
実は、この店、その後(2015年夏ごろから)営業スタイルを変えて現在に至っています。要は、「文革レストラン」を廃業し、ふつうの中国東北地方料理店になっています。池袋北口周辺は以前、ミニ中華街的な様相を呈していた時期(2010年くらいまで)がありましたが、いまやその勢いは下火になり、この店の経営はもうひとつのようです。実際、客層の大半は在日中国人で、日本人が来てくれないのがオーナーの悩みだそうです。

今年(2016年)は、文革50周年ですが、2年半前にこのエントリーを書いた当時の様子は見られないことを、あらかじめお伝えしておきたいと思います。(2016 .5.20)
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by sanyo-kansatu | 2013-11-16 12:30 | のんしゃらん中国論 | Comments(0)