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ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2012年 01月 07日

戦前期のガイドブックは現在、どれだけ“使える” か

数年前、日本大学文理学部が開催した「写された満洲〜デジタルアーカイブから甦るハルビン都市空間〜」(2009年10月)という展覧会を観に行ったとき、主催者である松重充浩先生(日本大学文理学部教授)と偶然お会いしたことが縁で、近現代東北アジア地域史研究会のニュースレター23号(2011年12月17日発行)に上記のタイトルで以下の文章を寄稿させていただきました。アカデミズムの世界とは縁がないものの、中国東北地方に関心を持つぼくにとって知見を広めるいい機会となりました。以下、寄稿した文章を掲載します。
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近現代東北アジア地域史研究会のニュースレター23号(2011年12月17日発行)



戦前期のガイドブックは現在、どれだけ“使える” か

『地球の歩き方』(ダイヤモンド・ビッグ社刊)は、2009 年に創刊30 周年を迎えた海外旅行ガイドブックシリーズです。現在、海外の国・地域の約200 タイトルが刊行され、そのうち中国は中国編、上海編、北京編、東北編、華南編、成都編、シルクロード編、チベット編、香港編、マカオ編の10 タイトルに分冊されています。

そのなかの1 タイトル、『大連・瀋陽・ハルビン-中国東北地方の自然と文化』(以下、『東北編』)の制作をぼくは担当しています。前任者の健康上の理由で6年ほど前に引き継ぎました。中国東北地方には個人的な縁もあったので、隔年ごとの改訂作業を定点観測的な現地視察も兼ねて行っています。本稿では、この地域の旅行案内書が現在、どのように作られているか、ご紹介したいと思います。
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『地球の歩き方 大連・瀋陽・ハルビン~中国東北地方の自然と文化 2010-11年版)』(ダイヤモンド・ビッグ社刊)2010年6月刊行

1.日本で唯一の中国東北地方のガイドブック

旅行案内書ゆえの制約もありますが、『東北編』では、個人的な関心領域を比較的自由にテーマとして扱うことができています。『東北編』が日本で唯一の中国東北地方のガイドブックであるため、上海や北京などの人気エリアのように他の出版社から多数の類書が刊行されていない。おかげで、一般消費者のニーズを意識したシェア争いに巻き込まれないですんでいるというのが(ここだけの話ですが)理由です。

それは単純に考えれば、訪中日本人の渡航先のマーケティングの結果(他地域に比べ東北地方への渡航者は少ない)といえますが、この地域には今日の日本の旅行者にとって一般ウケする観光素材が少ないことも、他社が類書を刊行するのをためらう理由でしょう。現在の渡航者の大半は、大連や瀋陽へのビジネス出張者や駐在員とその家族で、ツアー客は圧倒的に少ないのです。一部に鉄道ファンや北朝鮮マニアといった人たちも出没しているようですが、中国旅行の2大テーマとされるグルメや歴史(ただし、三国志など古代史への関心が大半)の舞台としての魅力が乏しいことが致命的かと思われます。

もっとも、1980 年代から90 年代の半ばくらいまで、中国東北地方は旧満洲に縁のある世代の「望郷」ツアーのメッカだったことは知られています。ぼくも以前、現地でこの世代の方々に何度かお会いしたことがあります。もう20 年以上前のことですが、長春のホテルのロビーで大阪から来たツアーの皆さんと知り合い、市内観光に同行させてもらいました。実は、ぼくの祖父母や母はかつて長春に住んでいました。その当時の住まいを古地図を頼りに探すのを、知り合ったツアー客の方に手伝ってもらったことを思い出します。

2.「望郷」ツアーの最後の記録

2011 年6 月、岩波ホールでドキュメンタリー映像作家の羽田澄子さんの制作した『遥かなるふるさと 旅順・大連』(以下『ふるさと』)が上映されました。

『ふるさと』は、1926 年(昭和元年)大連生まれの羽田さんが多感な年代を過ごした旅順、大連を訪ねるツアーの記録です。館内は旧満洲に縁のある世代であふれていました。それは久々に見た「望郷」ツアーの世界でした。実際、周囲の会話から、「望郷」ツアーに参加したことのある人たちがその場に多くいることがうかがえました。

この作品が撮られるきっかけは、2010 年に日露戦争の激戦地でとして知られる軍港の町、旅順が正式に外国人に対外開放されたことです。

羽田さんは「日中児童の友好交流後援会」が企画するツアーに参加し、同年6 月13 日に成田空港を発ちました。大連空港からバスで旅順に向かい、日露戦争後、東郷平八郎連合艦隊司令長官らが建てた表忠塔(現白玉山塔)に登り、旅順港を一望。東鶏冠山堡塁(ロシア軍トーチカ跡)や水師営会見所(乃木希典将軍とステッセル中将の会見場)、二〇三高地などをめぐります。その後、羽田さんと数名の友人はツアーを離れ、自由行動で新市街にある旧宅を訪ねます。そこには旅順の一庶民が暮らしており、家に上がらせてもらうと、当時とすっかり間取りの変わった部屋を行き交いながら、「ここは父の書斎」「ここは子供部屋」と羽田さんは声をあげます。そして、住人と一緒に記念写真を撮るのでした。

この作品を撮ろうと思った理由について「旅順での生活が私の家族にとって、最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だった」と彼女はパンフレットの中で書いています。

終戦時が20 歳で、現在80 代半ばを迎えられた羽田さんとその友人たちは、旧満洲に想いをはせる最後の世代といっていいかもしれません。その再訪の記録を撮り終えたいま、高齢を迎えた彼らがこの先大挙してこの地を訪ねることはなさそうです。

3.2010-11 年版の主要テーマは旅順開放

ちょうどその2 週間前の5 月下旬、我が『東北編(地球の歩き方 大連編2010-11年版)』取材班は一足先に旅順を訪れていました。今回の取材のテーマは、開放されたばかりの旅順の最新レポートです。ただでさえ観光素材の乏しい東北地方において、旅順開放はニュースでした。遼寧省が舞台となるNHK ドラマ『坂の上の雲』放映も追い風です。現地入りした我々取材班の旅順入城は、ロシア式木造建築が美しい旅順駅からにしようと、わざわざ1 日2 往復しかない鉄道で早朝、旅順に向かいました。

今回ぼくは、以下の3つのグラビア取材を計画していました(以下、企画書より抜粋)。
① 祝!開放 旅順最新案内
大連から鉄道で旅順入城。二〇三高地や水師営会見所、旅順博物館など、これまでツアーでも訪ねることのできたスポットに加え、新たに開放された日露監獄旧跡、旧関東軍司令部、関東法院旧跡などの歴史スポットや、旅順湾を一望できる白玉山塔、日本時代の面影の残る旧市街の風景などを紹介します。

② ローカル鉄道で行く『坂の上の雲』名場面を訪ねる旅
日露戦争から100 余年、現在その地はどんな姿をしているのか。NHK ドラマ『坂の上の雲』の舞台となる中国東北南部の戦跡をローカル鉄道で訪ねます。取り上げるのは、金州(日清戦争時、従軍記者として現地入りした正岡子規の句碑。乃木希典将軍の碑跡)、遼陽(秋山好古の騎兵隊の活躍で有名)、丹東(ロシア軍との最初の陸戦の地)など。都市間移動のノウハウやローカル鉄道の旅の楽しみ方も紹介します。

③ 温泉エッセイスト山崎まゆみの満洲三大温泉めぐり
温泉エッセイスト、YOKOSO JAPAN! 大使として活躍する山崎まゆみさんを起用して、かつて満洲三大温泉(湯崗子温泉、熊岳城温泉、五龍背温泉)と呼ばれた温泉地を訪ねます。ご本人はグラビアに登場いただくつもりです。中国でも近年温浴施設が多数できていますが、日本とゆかりのある古い温泉地で彼女が何を感じるか、レポートしてもらいます。

4.頼りにしたのは戦前期のガイドブック

これらの取材を実現するために、ぼくが頼りにしたのは戦前期のガイドブックでした。

まず、「① 祝!開放 旅順最新案内」では、JTB の前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローの制作した『旅程と費用概算』(1934(昭和9)年版)や、後に社名を変更した東亜旅行社の刊行した『満洲』(1943(昭和18)年)を参考にしました。特に後者は鉄道省が推進した「大陸視察旅行」のためのコンパクトな旅行案内書で、現役の編集者であるぼくの目から見ても、当地の歴史や社会、文化、習俗に精通した簡潔明瞭な文体、多民族集住地域の魅力を伝える口絵など、実用的で洗練された完成度の高さに感心させられます。

当時満洲旅行の最大のハイライトのひとつが、定期巡礼バスを利用した旅順戦蹟めぐりでした。同書には、巡礼バスの立ち寄り先として二〇三高地や表忠塔などの「聖地」が多数紹介されています。今回の取材でも、その解説がほとんどそのまま役立ちました。テキストの歴史解釈の評価をひとまずおくとしても、半世紀を超えて対外的に封印されていた旅順は、当時とほとんど変わらない姿を残していたからです。
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『満洲』(東亜旅行社刊)1943(昭和18)年刊行


「② ローカル鉄道で行く『坂の上の雲』名場面を訪ねる旅」は、司馬遼太郎原作の同長編小説を題材にしています。いくつかの名シーンの舞台となる土地を鉄道で訪ね、現在の姿をグラビアで紹介しました。あらためて100年という時間の経過を感じましたが、当時を想起させる風景も多く残っていました。

これは何でもないワンシーンですが、大連から旅順に向かう鉄道沿線に、旅順攻略戦で戦死した日本兵の白い墓標が多数立てられているのを見て、兵士の士気がそがれることをおそれた児玉源太郎参謀長が撤去するように命じるくだりがあります(第四部「二〇三高地」)。『秘蔵日露陸戰写真帖 旅順攻防戦』(柏書房 2004)に収められた当時の写真を見るかぎり、戦時中その地は草木の生えていない荒野のような丘陵地帯。今日のなだらかな緑の多い農村風景とはまったく別の場所のようですが、鉄道だけは同じレールの上を走っている。そう思うと、100 年の年月も少しだけ身近に感じられたような気がするのでした。

5.紀行に見る温泉地の変遷

資料探しが最も面白かったのは、「③ 温泉エッセイスト山崎まゆみの満洲三大温泉めぐり」でした。戦前期に当地を訪ねた作家の紀行が参考になりました。

旧満洲の温泉をめぐる最初の話題提供者は、『満韓ところどころ』を書いた夏目漱石でしょうか。彼が訪ねたのは日露戦争後わずか4 年目(1909(明治42)年)で、満鉄沿線は開発途上でした。それでも、漱石は熊岳城温泉と湯崗子温泉を訪ねており、兵士の療養小屋に毛の生えた程度の温泉宿の様子を「すこぶる殺風景」と評しています。

時代は移って大正期に入ると、紀行作家として有名な田山花袋のベストセラー『温泉めぐり』や『満鮮の行楽』などの読み物の中に、満洲三大温泉と称された熊岳城温泉や湯崗子温泉、五龍背温泉の滞在記があります。花袋が訪ねた1920 年代になると、それぞれ洋風の温泉ホテルができていて、「私達はビイルを飲んだり、湯に浸かったりして、そこに午後二時までいた」(熊岳城温泉)「温泉場としては、内地では、とてもこれだけのものは何処にも求めることが出来なかった。日本風の室ではあったけれども、副室がついていて、半ばベランダのように椅子だの卓だのが並べてあるのも心地が好かった」「今までに嘗て見たことのない、箱根、塩原、伊香保、何処に行ったって、こうした設備の整ったところはないと思われる立派な浴槽」(湯崗子温泉)とあるように、この時期すでにモダンな行楽地として温泉開発が進んでいる様子がうかがえます。
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戦前期の熊岳城温泉の絵はがき。この温泉ホテルはもう存在しない。
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熊岳城温泉の戦前期の温泉施設は、数年前にすべて壊され、高級温泉リゾートホテルとして再開発されていた。写真はリゾート内に誇らしげに展示された建築模型。


昭和に入ると、与謝野寛・晶子夫妻が湯崗子温泉を訪ね、こう書いています。「鉄道の本線に沿って便利なために、在満の邦人が絶えず南北から来て浴遊し、ことに夏期には露西亜人や支那人の滞浴客もあって賑ふそうである」(『満蒙遊記』)。夫妻が訪れたのは1928(昭和3)年。戦前期の日本が国際観光(インバウンド)振興を企図し、鉄道省外局に観光局を設置した1930 年より一足先に湯崗子温泉は国際的な温泉リゾートになっていたのです。

では、当時これほど栄えていた満洲三大温泉は現在、どんな姿をしているのか――。

残念ながら、現在の姿を伝える資料は見つかりませんでした。インターネットで検索すると、温泉地は3つとも現存しており、宿泊施設もあることがわかりました。その情報を元に、大連や瀋陽の旅行会社や旅游局の関係者に問い合わせたところ、彼らはまったく事情を知りません。後でわかったことですが、東北地方で温泉開発が始まったのはここ数年で、同じ遼寧省内でも地元以外では開発状況はほとんど知られていなかったのです。

こうなればもう出たトコ勝負です。約70 年前に書かれたガイドブックの地図と記述を頼りに、三輪タクシーに乗り込み、温泉地のありかを探しました。おかげで、ラストエンペラー溥儀のために設えられた湯崗子温泉の絢爛豪華な個室風呂「龍池」を撮影するなど、興味深い発見がありました。詳しい内容は『東北編』をご参照いただければと思います。
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1932 年3 月8 日、対翠閣(現龍宮温泉)前で撮られた溥儀夫妻

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戦前期の「龍池」と思われる写真

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龍宮温泉(湯崗子温泉)には、溥儀のために造られた豪華な浴室「龍池」が現存している。

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五龍背温泉では、1936 年に満鉄の建てた露天風呂と湯小屋が残っていた。

6.近代史から観光素材を発掘する

それにしても、戦前期に書かれたガイドブックや紀行がこれほど“使える”とは驚きでした。当時の時刻表やホテル・旅館の案内はともかく、今日忘れられた温泉の泉質や効能、周辺の行楽地の紹介まで、ガイドブックとしての基本要素はしっかり押さえてあり、実用に耐えうるものです。ガイドブックは時代の気分や消費者のニーズを映し出す鏡であり、消費社会の成熟度を測る指標といえます。旧満洲において、高度なガイドブックを必要とするようなモダン・ツーリズムの世界が現出していたことを物語っています。

『満洲』は、1920(大正9)年以降、毎年改訂された旅行案内書『旅程と費用概算』の地方別分冊版の1タイトルです。つまり、「九州編」や「中国・四国編」と同じ並びで「満洲編」が刊行されていました。昭和18 年版だけに、「開拓地」や「青年義勇隊」などの項目から当時の時代背景や国策の反映が色濃く見られますが、それが最期の版となったようです。その後、この地ではモダン・ツーリズムのにぎわいは封印されてしまいます。

学生だった1980 年代半ば頃、初めて中国東北地方を訪れたぼくの目に、その地はモダニズムが眠る場所として好ましく映りました。高層ビルなどいっさいない当時の大連はまるで北欧の港町のように思えたし、街ごと建築博物館のようなハルビンも他の中国の都市とは違って見えた。街全体は埃を被っていましたが、現代化される前の近代都市の原初の姿とはこういうものだったのか、という感慨をおぼえたのです。モダニズムは現代人にとっての郷愁です。それは国籍を超えたもので、困ったら原点に立ち還る場所。初めて見た風景を懐かしいと感じたのもそのためでしょう。その後、中国の他の地域と同様、この地も現代化の波に洗われてしまいましたが、中国東北地方の固有の面白さは、日本との関わりも含め、近現代史の連続性を通してみていくとき、際立ってくると思うようになりました。

いまぼくは『東北編』の制作を通して、モダン・ツーリズムの黎明期を切り拓いた由緒ある旅行案内書の歴史を引き継いでいるのだというひそかな自負があります。

ぼくが『東北編』で試みているのは、近現代史の中から埋もれた素材を発掘し、エンターテインメント化することです。たとえば、「旅順歴史MAP」は、近年国内旅行ガイドブックでよく見られる古地図を使った散策ガイドの手法の応用編です。その地に封印された歴史的な記憶を誌面に解き放ち、時空を超えて体感する知的な愉しみといえるでしょう。
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旅順歴史MAP(『地球の歩き方 大連編2010-11 年版』 p.20-21)。昭和11(1936)年に発行された「旅順戰蹟案内圖」を元に作成した旅順市内MAP。区画は当時とほぼ変わらず、重要な建築物の多くが使用されているため、現在でも十分散策地図として使える。

しかし、そんなもくろみも、所変われば一筋縄にはいかないのが現実です。

中国では「愛国主義歴史教育」施設(以下「愛国」施設)が待ち構えています。旅順では日露監獄旧址博物館(旧旅順刑務所)や関東軍司令部旧址博物館、日本関東法院旧址陳列館(旧旅順最高法院)などですが、その展示を見るかぎり、「(日露戦争は)中国東北を奪い取るための戦争」と論理は単純明快です。今日の中国では、特定の歴史旧跡をどう残すかは、時々の政治判断で変わりますが、「坂の上の雲」で明治を日本の近代の青春期として無邪気に捉える歴史観は一刀両断、とりつくしまもない日中のすれ違いに唖然とします。

ただし、実情はそれほど単純ではないのが面白いところです。たとえば、二〇三高地ではあろうことか「坂の上の雲」のプリントT シャツが堂々と売られていますし、「愛国」施設では中国側の歴史観を説く通訳たちが、日本人ツアー客をお土産屋に連れ込み、購入金額に応じたキックバックを受け取るという中国のツーリズム産業を支える基本システムがあからさまに繰り広げられています。2010 年2 月には、大連市旅順口区政府は大阪で日本からの投資と企業誘致を募る説明会を開いていますが、旅順の対外開放がこれほど遅れたのも、実利と面子をめぐって政府と軍の駆け引きが長引いていたことがうかがえます。

ぼくはもとより戦前期のガイドブックの価値観を全面的に肯定する考えはありません。それは今日の中国の「愛国」施設の展示に見られる歴史観についても同じです。むしろ気になるのは、両者の類似性をどう考えたらいいかという今日的な問題でしょう。

今年は中国共産党建党90 周年ですが、党のゆかりの地を訪ねるよう政府が推奨する「紅色観光」団の姿を旅順でもよく見かけました。この「紅色観光」と旅順戦蹟めぐりの関係をどう考えたらいいか。ともにモダン・ツーリズムとしての一面を持ちながら、共通するのは、特定の人物の英雄化と国家の歴史をそれに重ねるプロパガンダです。なぜそんなものが必要とされるのか。時代は繰り返されるということなのか。

もっとも、類似性は別のかたちでも現れるようです。1923(大正12)年に旅順戦蹟めぐりをした田山花袋は「どんなに悲惨な事件でも、跡になってしまっては-自然と同化してしまっては、興味を惹かなくなるのは止むを得ない」(『満鮮の行楽』)と書いています。昭和18 年当時の日本人は花袋の軽口を叱りつけたかもしれませんが、大正期の日本人の感覚はこれに近かったでしょう。一方、職場の同僚に無理やり「紅色観光」に連れて来られた風の中国の若いカップルの顔つきや、記念撮影に興じる修学旅行生たちの様子を観察するかぎり、「愛国」を演出する側と観る側の認識ギャップがうかがえて興味深いものです。

日中関係をめぐる封印が次々と解かれていく時代のなか、お互いの歴史観の違いを認めつつ、他者の視点を取り入れ、今日の自己のありようをいかに相対化できるかが日中双方に必要とされる態度だと、旅順に来てあらためて思った次第です。

さて、2012 年は『東北編』の改訂の年、来夏には東北地方を訪ねる予定です。次回の取材は「延辺朝鮮族自治州の町々とウラジオストクを結ぶバスの旅」を計画中です。図們江下流域における中朝の共同開発の動きが報じられるなか、ロシアも含めた地域的分断の歴史にどんな変化が見られるのか――。もしこの地域の歴史と現況に精通している方がいたら、出発前にぜひ情報提供をお願いするところです。

■資料:満洲三大温泉を扱う資料一覧 (2010 年4 月現在)

○作家による紀行(【 】内は滞在時期)
・夏目漱石『満韓ところどころ』1909(明治42)年10月朝日新聞初出【1909年9~10月】
・田山花袋『温泉めぐり』1918(大正7)年
 ※『温泉めぐり』は、大正7年の初版発行以来、わずか4年余で23版を重ねるベストセラーに。昭和初期の改訂増補版を経てロングセラーとなる。
・田山花袋『満鮮の行楽』大阪屋号書店、1924(大正13)年11月【1923年4~6月】
・田山花袋ほか『温泉周遊』金星堂、1928(昭和3)年7月
・与謝野寛・晶子『満蒙遊記』大阪屋号書店、1930(昭和5)年5月【1928年5~6月】

○ガイドブック
・大日本雄弁会講談社編『日本温泉案内 西部編』大日本雄弁会講談社 1930(昭和5)年
・旅行研究会編『全日本旅行辞典』旅行研究会 1932(昭和7)年
・ジャパンツーリスト・ビユーロー編『旅程と費用概算(昭和9年度版)』博文館、1934(昭和9)年
・『温泉案内』鉄道省 1940(昭和15)年版 ※大正時代から刊行され続けている
・興亜研究会編『大陸旅行案内』大東出版社、1940(昭和15)年 
・東亜旅行社編『満洲』東亜旅行社、1943(昭和18)年

○戦後の書籍、研究書
・北小路健『望郷 満洲』国書刊行会、1979年 ※当時の三大温泉の写真あり
・八岩まどか『温泉と日本人 増補版』青弓社、2002年 
・関戸明子『近代ツーリズムと温泉』ナカニシヤ出版、2007年 ※戦前の温泉ツーリズム研究
・川村湊『温泉文学論』新潮社、2007年 ※溥儀の湯の龍宮温泉に著者が訪問した記述あり。

(なかむら まさと:編集者)

by sanyo-kansatu | 2012-01-07 14:46 | 日本人が知らない21世紀の満洲


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