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ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2013年 03月 04日

「浦潮旧日本人街散策マップ」でウラジオストクの日本のゆかりの地を訪ねる

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2012年6月26日から28日まで、ぼくは極東ロシアのウラジオストクに滞在しました。そのとき、市内散策の頼りとしたのが、「浦潮旧日本人街散策マップ~日本にゆかりのあるウラジオストクの名所・旧跡巡り~」(2011年7月発行)でした。このマップは在ウラジオストク日本国総領事館とロシア国立沿海地方アルセーニエフ博物館が共同で制作したものです。モルグン・ゾーヤ先生が編集に関わっておられます。
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以下、このマップに掲載されている日本のゆかりの地(一部訪問できていない場所もあります)の現在の姿を紹介します。撮影は佐藤憲一さんです。文章はマップからの抜粋です。

①旧日本総領事館(沿海地方裁判所)
オケアンスキー大通り7番。ウラジオストクに初めて領事館機能をもつ日本貿易事務館が開設されたのは1876年。1914年に木造の建物がとり壊され、同じ場所に建築家・三橋四郎による石造りのギリシア式建築の建設が始まった。完成は1916年。
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②浦潮本願寺記念碑
アレウツカヤ通り57番。1986年、西本願寺はウラジオストクで初めての海外布教所を開く。1904年の日露戦争開戦でほとんどの日本人が帰国したため、いったん活動を休止するが、その後再開。最終的には37年閉鎖。現在は黒くなった土台の石が残されているだけ。浦潮本願寺は当時、故郷から遠く離れて生活する日本人にとって癒しの場であり、啓蒙と交流の場だった。最後の住職、戸泉賢龍の未亡人である戸泉米子の尽力とウラジオストク市民、極東国立大学東洋学院、西本願寺、スタニスラフ・デザインセンターなどの協力により2000年、寺院が立っていた場所に記念碑が建てられた。
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③旧日本人小学校
フォンタンナヤ通り21番。最初の日本人学校は浦潮本願寺の一室で1894年に開校されたが、1913年この建物を購入。1922年当時生徒数256人で運営された。1931年閉鎖。
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④旧松田銀行部
オケアンスキー大通り24番。1907年、長崎市の十八銀行支店として開設。ルーブルから円への換金、満洲大豆の輸出で利益を上げる。1916年、朝鮮銀行に段階的に吸収され、19年に朝鮮銀行浦潮斯徳支店となる。
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⑤旧朝鮮銀行
オケアンスキー大通り9/11。松田銀行部を吸収し、名前を変えた朝鮮銀行浦潮斯徳支店は22年10月まで日本の浦潮派遣軍との間で積極的に業務を行う。その後、日ソ漁業協定終結で同支店は日本の漁業者によるオホーツク海での操業のため業務を行い、1930年には朝鮮銀行全体の利益の10%を生むほどになる。ところが、同年ソ連政府によって閉鎖させられる。
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⑥旧堀江商店(極東国立工科大学)
アレウツカヤ通り39番。堀江直造は1892年に日用雑貨貨物輸出商としてウラジオストクに渡り、99年に経営者になる。日露戦争後、ウラジオストクに戻り、缶詰工場を操業。シベリア出兵時は日本軍に協力。『ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの』(東洋書店)の著者・堀江満智氏は堀江直造の孫。
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⑦旧横浜正金銀行(アルセーニエフ博物館)
スヴェトランスカヤ通り20番。1918年横浜正金銀行は北満州からの農産物を大連経由ではなく、東清鉄道とウスリー鉄道を使って輸出するために、ウラジオストクに支店を開設。しかし、22年シベリアからの日本軍撤退で、24年閉鎖。
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⑧旧「浦潮日報」編集部
オケアンスキー大通り13番。「浦潮日報」は1917年12月9日創刊の日本語新聞で、発行者は東京外語ロシア語科卒の和泉良之助。
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⑨ウラジオストク駅
ニジニポルトヴァヤ通り2番。最初の建物はシベリア鉄道がウラジオストクまで開通した1891年に建てられ、94年にニコライ皇太子が起工に立ち会い、94年に完成。この建物は1912年に竣工。ロシアの17世紀の建築様式で建てられた。モスクワまでの距離は9288km。1912年に敦賀・ウラジオストク航路が開かれ、ウラジオストク経由で日本からモスクワ、ヨーロッパへとつながった。当時最短2週間でヨーロッパ行きが可能になった。
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⑩ニコライ皇太子凱旋門
ピョートル大帝通り2番。1891年ニコライ皇太子が日本を回って、シベリア鉄道の起工式のためウラジオストクに立ち寄った際、建設された。ロシア革命でいったんとり壊されたが、2002年有志により再建される。
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⑪プーシキン劇場
プーシキン通り27番。1915年、芸術座の松井須磨子が出演。当時彼女が歌った「カチューシャの唄」は日本でも大ヒットした。
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⑫スポーツ湾とディモナ・スタジアム
ウラジオストク市街地にあるビーチで、短い極東ロシアの夏を満喫する市民が繰り出す。その隣のサッカースタジアムは、1940年代後半、日本人シベリア抑留者によって建設された。
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⑬ミリオンカ
ここのみ日本人とのゆかりはなく、かつての貧困地区で、中国人が多く住んでいた。写真は元売春窟のあった建物。
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⑭与謝野晶子碑
オケアンスキー大通り39番。1912年5月、与謝野晶子はウラジオストクを訪ねている。1994年、極東国立大学東洋学院の建物の前に記念碑が建てられた。
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⑮ウラジオストク駅と金角湾大橋
鉄道駅前広場の上からウラジオストク駅と金角湾大橋を望む。手前に見えるのはレーニンの銅像。
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by sanyo-kansatu | 2013-03-04 14:34 | 日本に一番近いヨーロッパの話


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