2017年 10月 06日
ポロナイスクから夜行列車に乗って、朝5時半過ぎにドリンスクに到着。そのまま乗っていれば、1時間後にユジノサハリンスクに着くのに、わざわざこの駅で降りたのは、前日に引き続き、旧王子製紙工場跡を訪ねるためでした。 駅を降りると、ホテルが1軒ありましたが、鍵がかかって中に入れないし、カフェも開いていない。タクシーもいません。一瞬、途方に暮れましたが、少し歩くと、食材店があり、ドリンクとハンバーガーを買うことができたので、スーツケースに座って食べていると、1台のタクシーが現れました。 「завод(工場)」「фотография(写真)」と声をかけると、ニッコリして乗れといいます。駅からわずか車で5分の場所に旧落合王子製紙工場跡がありました。 工場跡は野良犬のすみかとなっていて、タクシーが構内に入ると、一斉に何十匹もの犬たちが吠えたてました。 とはいえ、犬たちも吠えるだけで、近づいては来ないようだったので、さっそく探索を始めました。 旧落合王子製紙工場の始まりは、大正6年(1917年)に日本化学紙料が日本初のクラフト専門工場として操業したことで、昭和8年(1933年)王子製紙が吸収合併しました。終戦後はソ連の国営企業として1995年まで操業していました。操業停止後は、ドリンスク市内へ温水と暖房を供給する施設として使われています。 探索中、温水施設の管理人のおじさんが現れました。どう見ても不審きわまりない外国人を見ても、いっこうに驚くそぶりもなく、穏やかな笑顔で迎えてくれました。これまで同じように撮影をしに来た日本人がいたせいでしょう。 おじさんについて温水供給施設の中を見せてもらいました。 片言の英語を解するタクシードライバーを通じて「いつまで操業していたのか」といった主旨の質問をしたところ、管理人のおじさんは「こうなったのはゴルバチョフの頃だ」と当時のリーダーの名を口にしました。 ロシア語で「再構築(改革)」を意味するペレストロイカは、社会主義的な運営を続けていたサハリンの製紙工場を操業不能にしました。それはこの島の人たちの暮らしに打撃を与えたはずです。 林芙美子は昭和9年(1934年)に樺太を訪ね、王子製紙が各地に建てた製紙工場のせいで「樺太には樹木がない」と嘆きました。「或人は、樺太島ではなくて、王子島だと云ったほうが早いと云っていました。どの駅へ着いても、木材が山のようです」(「樺太への旅」)とまで書いています。 「樺太には樹木がない」と書いた林芙美子と旧敷香王子製紙工場廃墟 http://inbound.exblog.jp/27257929/ しかし、当時9つあった工場はそのままソ連に引き継がれました。それから操業停止に至る約50年間、これらの製紙工場のために、樹木の伐採がどれだけ続けられたのか、それは知る由もありません。物事には、そして歴史認識もそうですが、常に別の側面があるといえます。 工場の周囲には、カラフトフキの大きな葉が瓦礫を覆うように増殖していました。
by sanyo-kansatu
| 2017-10-06 16:03
| 日本に一番近いヨーロッパの話
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