「繊細な色彩感覚でバランスを取りながら構図を切り撮るパヴェル・ネムティンの硬質でシャープなスタイルは、断片の美学を定義します。青いビニール袋に入った赤いトマトを手にした白いズボンの通行人や、犬を抱いたニットのサマーキャップを被った女性は、アントン・チェーホフが1890年に訪れたウラジオストクの話を物語っています」
後半部分の若干、意味不明な解説はひとまず置いて、若手の写真家パヴェル・ネムティンの作品群を見ていきましょう。
まず派手なサマードレスを着た女性を斜め後ろから不意打ちのように接写しています。脇から子供たちが通りを歩く様子がうかがえます。
そして、「犬を抱いたニットのサマーキャップを被った女性」です。スポーツ湾の前にいるようです。
Павел Немтин
Из серии для проекта @everyday.russianfederation 2014
パヴェル・ネムティン
プロジェクト「@everyday.russianfederation」のシリーズから 2014年
黒い水着姿の中年女性が海辺のベンチに腰掛けています。彼女の目線の方向に、黄色いヒヨコの遊具が見えます。両者にはなんの関連もなさそうですが、同じ構図の中に入れ込むことで、まるでユーモラスな光景であるかのように感じます。
解体業者のトラックの荷台とその一部を切り撮っています。黄色と白の横断歩道の上にあることで、普段なら注意深く眺めたりはしないだろうガラクタの荷台をまじまじと見てしまうのはなぜでしょう。
同じ黄色と白の横断舗装を渡る若い男女の足元を撮ったカット。靴の向きからふたりは行き交う瞬間であることがわかります。
そして、これも同じ黄色と白の横断歩道を渡るおばあさん。頭の上半分と足元は構図からはずされ、ロシアでたまに見かける年配の女性のサイコロのような(失礼!)体型が強調されてしまっています。ちょっと意地悪なカットですね。
サッカースタジアムを観客席から眺めた光景ですが、わずか一部の黄色の座席と人工芝のようなグリーンのコート、その周囲を囲むオレンジ色の陸上用トラック。スタジアム自体が老朽化しているせいか、薄汚れたグレーの観客席に囲まれたトラックやコートが実物より相当きれいに見える気がします。
黒い冬のニットキャップをかぶったおじいさんの横顔。珍しく顔と表情が見えます。背後は海でしょうか。
ペイズリー柄のスカーフをかけたスーツ姿の人物の肩とその一部の接写。
空色のフードスウェットを着たブロンドのおばあさんを頭上横から撮った接写。ブルーのイヤリングが印象的。
そして「青いビニール袋に入った赤いトマトを手にした白いズボンの通行人」です。
車のボンネットに映ったビルと向かいにはその実物。偶然に映り込んだと思われるトラックの荷台に乗ったオレンジ色の建材。
金角湾大橋と思われる橋脚にスマホのカメラを向ける男。この場所で、彼はいったい何を撮ろうとしているのでしょうか。
日本の中古車(もしかして、消防車?)の助手席を接写。全体の四分の一くらいのスペースを取る真っ赤なボディーには「田市」とのみ日本語が書かれていますが、ロシア人にとっては、意味不明な記号としか見えないのではないでしょうか。
海辺通りの清掃人の女性の真っ赤な手袋が印象的か。
上半身裸の少年の後姿と彼の座る柵の下の白のペイントと下の壁のブルーのコントラスト?
雪の日の港に停泊する船の丸い舷窓?
同じく雪の日の海と夕焼け(朝焼け?)。
ウラジオストク港に寄港したクルーズ客船と設置された救命ボートの下のデッキに並ぶ乗客たち。今日の大型クルーズ客船は巨大なリゾートホテルが海に浮かんでいるようなものですが、その一部を切り撮るとこんな風に見えます。よく見ると、客室のバルコニーにも乗客が立っています。
フェリーに乗り込む黄色の帽子とシャツを着たおばさんの後姿。
海辺に立つ赤と白のワンピースを着た女の子は中国製の携帯扇風機で顔を隠しています。
今回初めて正面からの顔と表情がわかるカット。プルーンやベリー売りのおじさんのようですが、あごひげと袖なしランニングシャツの白さが印象的です。
Из личной серии для художественного проекта
@avtomagicheski2015/2016
アートプロジェクト「@avtomagicheski」のための個人的なシリーズから 2015/2016年
さて、これら日常の一瞬に断片として切り撮った作品は、スマホで撮られているようです。パヴェル・ネムティンは1987年、ウスリースクの北方、ハンカ湖のほとりのホロル村で生まれています。
ロシアビヨンドという日本語のロシア情報サイトに、ネムティンのインタビューが掲載されていました。
それによると、彼は20歳の頃、キャノンの一眼レフで撮影を開始したものの、いまではもっぱらスマホで撮影しているといいます。その方が「特別な準備をせずに済むので一瞬のシャッターチャンスを逃すことはない」というのです。
このインタビュー記事は、本コラムが扱う「FAR FOCUS. PHOTOGRAPHERS OF VLADIVOSTOK(極東フォーカス、ウラジオストクの写真家たち)」の展示に関するものですが、この企画を立ち上げた学芸員のアンナ・ペトロワさんは「実際には携帯で良い写真を撮るためには、自分のパレットやアングルを考えなくてはならず、その技術はより複雑になっていると指摘する。しかし、パーヴェルはそれをうまく使いこなして、複数のインスタグラムのアカウントに投稿している。しかもそれぞれのアカウントで異なったスタイルの写真を紹介している。彼は常に物事の細やかな描写に焦点を当てている」と評価しています。
ロシア極東の魔法のようなかけらの数々(ロシア・ビヨンド2020年3月10日)
https://jp.rbth.com/arts/83364-roshia-kyokutou-mahou-no-kakera
ネムティンは「@avtomagicheski」というインスタグラムを立ち上げており、今回紹介したものも含む、多数の作品をみることができます。これまでの流儀に従って、それぞれの写真についてあえて説明を付けてしまいましたが、このインスタグラムのアカウントをみると、それ自体にそれほど意味はなさそうです。しかし、日常の中であれっと感じた一瞬の光景をスマホで即座に、大胆に切り撮った無数の断片の中に「美学」があることを強く実感します。
@avtomagicheski
https://www.instagram.com/avtomagicheski/?hl=ja
ところで、冒頭の写真展の解説に書かれた「青いビニール袋に入った赤いトマトを手にした白いズボンの通行人や、犬を抱いたニットのサマーキャップを被った女性」と「アントン・チェーホフが1890年に訪れたウラジオストク」の関係についてですが、ネットで調べているうちに、以下のようなことがわかりました。
ロシアを代表する作家のチェーホフは、1890年にサハリンの流刑者たちの実情を知るため現地を訪ねる長い旅をしています。その記録は「サハリン島」(1895)として残されていますが、約3カ月間のサハリン滞在ののち、ウラジオストクに立ち寄っています。10月15~19日のわずか5日間のことです。
彼はウラジオストク滞在中の話を「サハリン島」には書いていませんが、友人宛ての手紙の中で「10月のウラジオストクでは天気が温かくて気持ち良く、港では本物の鯨が泳いで尻尾で水面を叩いており、すばらしい印象を受けた」と書いているようです。もっとも、彼がサハリンに向かう道中を記録した「シベリヤの旅」には、シベリヤや極東に対する否定的な見解も多く、そもそもチェーホフほどの作家がウラジオストクを訪れたことを地元の新聞が記事にしていないのはなぜか、といった話もあるそうです。
それはともかく、今日のウラジオストクの人たちにとってチェーホフの訪問は記念すべきこととして受け止められているようです。
こうしたことから2018年7月2日、スポーツ湾を見渡す高台に建つアジムトホテルの近くの公園にチェーホフのブロンズ記念碑が建立されました。
チェーホフのブロンズ記念碑の建立について
https://www.newsvl.ru/vlad/2018/07/02/171557/
これを知って、すぐに思い出したのが、チェーホフの短編「犬を連れた奥さん」でした。この小品はクリミア半島南端の黒海に面したリゾート地ヤルタを舞台にした、妻子ある男と若い人妻の不倫の物語です。この物語の中には、ふたりの逢瀬の場所としてフェリー船が寄港する港の光景も出てきます。
でも、だからといって「犬を抱いたニットのサマーキャップを被った女性」や「フェリーに乗り込む黄色の帽子とシャツを着たおばさん」と結びつけるのはどういうものでしょう? いや、もちろんまじめに言っているのではありませんが、ウラジオストクという海辺の町にアントン・チェーホフが130年前に訪れたという事実も含め、なんだか心地よい脱力感に浸るとともに、一杯食わされてしまったようで苦笑してしまいました。