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ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2018年 10月 12日

ヌルハチの都を旅する

東北地方を舞台に清朝を興した満洲族。瀋陽故宮は建国の礎を築いた太祖ヌルハチが建造し、代々皇帝が建て増していった王宮だ。北京の故宮に比べると規模は小さいものの、敷地内には20あまりの庭園と9つの宮殿があり、2004年に世界遺産に登録されている。

だが、彼が築いた都はここだけではない。清朝の前身となる後金建国を宣言したヘトゥアラ城(图阿拉城)を併せて訪ねてみたい。これまでの中華王朝とは異なる清朝のユニークさを知る手がかりになるだろう。(写真/佐藤憲一、中村正人)

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瀋陽故宮で最も古く建てられた大政殿は帳殿式という独特な建築様式である

3つの異なる区画が物語る
清朝の雛形としての瀋陽故宮


中国東北地方の中心都市、遼寧省瀋陽市とその周辺には清朝の歴史に関わる多数の遺構が残っている。その代表は初代皇帝ヌルハチ(1559-1626)が1625年に建造を開始した瀋陽故宮である。

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中路にある崇政殿はホンタイジが大清国皇帝として君臨した象徴的空間だ


敷地内は「東路」「中路」「西路」の3つの区画に分けられる。東路はヌルハチが最初に築城し、中路は彼の死後、意志を受け継ぎ大清国を建国した2代皇帝ホンタイジが執務した場所、西路はその後、乾隆帝の時代に建て増された一画で、それぞれの時代によって建造物の構造や役割が異なっている。瀋陽故宮は「一朝発祥の地、二代帝王の城」と呼ばれるが、それらの違いを時代と照らし合わせて比べてみると面白い。

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↑2004年にユネスコの世界文化遺産に登録された

宮内には皇帝の衣装を身につけた子供が出迎える

瀋陽故宮で最も古い東路の主な建物は大政殿と十王亭だ。大政殿は清朝初期の皇帝が式典を執り行った東路の正殿で、モンゴル族の移動式テントであるゲルに似た八角形をしている。一方、正面のふたつの柱には皇帝の象徴である黄金の龍が絡み付いている。建築様式は満州族、蒙古族、漢族の様式が融合しているのが特徴だ。

十王亭は、大政殿の南に漢字の八の字を描くように左右五棟ずつ並べられたパビリオン状の建築で、ヌルハチが編成した満洲族独自の社会・軍事集団である八旗の王のために建てられた。大政殿に皇帝が立ち、眼下に八旗を閲兵するためのしつらえになっている。

中路の鳳凰楼は三層の楼閣で、当時の瀋陽ではいちばん高い建物だった


中路には崇政殿や清寧宮、鳳凰楼がある。崇政殿はホンタイジの座所で、大政殿同様、天蓋付きの玉座がしつらえられた絢爛豪華な空間だ。清寧宮は皇帝と皇后、側室の寝室などが並ぶ生活の場である。ヌルハチの時代とは違い、皇帝の執務する宮殿らしくなっている。

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乾隆帝の時代に建てられた文溯閣は4万冊もの蔵書を入れるための図書館だった


西路は歴代皇帝が満洲族の故地を東巡し、ヌルハチやホンタイジの陵墓を詣でる際、離宮として使われるようになった後、建て増されていった一画だ。そこには乾隆帝の勅命により編纂された中国最大の漢籍叢書『四庫全書』が収められていた文溯閣があり、中華皇帝の離宮としての文化的な役割が担わされている。現在は清朝の宮廷の歴史や生活を伝える資料としての文物や書、絵画、磁器などが展示される。

これらを通じてみえてくるのは、瀋陽故宮の時代による役割の変遷である。それは中華世界から遠く離れた北方民族にすぎなかったヌルハチの時代の部族国家的な枠組みに、中国式の思考や制度を接木して新たな「満洲族」国家として成長していく過程であり、瀋陽故宮の姿はその後誕生する清朝というユニークな王朝の雛形ともいえる。壮大な完成系である北京の故宮とは違い、王朝形成期のプロセスが刻まれていることが瀋陽故宮の見どころといえるだろう。

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↑故宮の周辺に護国のために東西南北4ヵ所にチベット寺院と仏塔が建てられた。写真は西塔。現在は朝鮮族などが多く住むコリア街になっている

ヌルハチが後金を建国した地
ヘトゥアラ(赫図阿拉)村のいま

瀋陽に都を移し、現在の故宮を建てるまでの間、ヌルハチはいくつもの王城を遷都した。

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当時ヌルハチは、ジュンシェン族(女真族)を統一する過程にあった。彼らはかつて中国の北半分を支配した金王朝(1115~1234)を打ち立てた民族の末裔だが、チンギスハン率いるモンゴルによって滅ぼされた後、現在の黒龍江省を中心とした森の中に散りじりになっていた。もともと彼らは半猟半農の民で、明が興ると、朝貢関係を結び、動物の毛皮や朝鮮人参を献上することで利益を得ていた。

そんなのどかな時代を大きく変えたのが、軍事的天才と傑出した政治指導力を持つヌルハチだった。彼は16世紀後半、わずかな期間で同族を統一した。そのとき建造した都がヘトゥアラ(赫図阿拉)だった。瀋陽から東へ140キロほど離れた現在の撫順市新賓満族自治県永陵鎮を東西に流れる蘇子河沿いのなだらかな高台にあった。ヌルハチはこの都で1616年、臣下に推載されて後金の国号を定めたのである。

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↑ヌルハチの父や兄弟、祖父など一族の陵墓である永陵。ヘトゥアラ城に近く、福陵、昭陵とともに清の関外三陵のひとつで世界遺産に登録されている

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↑ヌルハチ一族の功績を称えた石碑の納められた四祖碑亭にはすべて亀趺がある


ヌルハチゆかりの地、ヘトゥアラ城を訪ねた。瀋陽駅から「新賓」行きバスに乗って約2時間半後、永陵に着く。そこから路線バス1路に乗ると、蘇子河が見えてくる。橋を渡ると、城門に向かう道に「清王朝発祥地」という垂れ幕が掲げられている。

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↑蘇子河の橋には幾本もの八旗がたなびいていた


現在のヘトゥアラ城は、ほぼすべてが復元された満洲族民俗村とでもいうべきテーマパークだった。東門をくぐると、内城の右手に「ヌルハチ生誕の地」を書かれた満洲族の民家が建てられ、彼らの生活風俗が展示されている。

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赫図阿拉城の地図
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↑「ヌルハチ発祥の地」は満族民俗村にしか見えない

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↑満洲族が赤ん坊を育てる際に使う揺り籠が展示されている


そこから西に歩くと、ヌルハチの王宮だった汗宮大衙門と祭事を行うための汗王殿が建つ広場があった。ヌルハチが即位した場所である。ただし、これらは400年もの長い年月と文化大革命で人為的に破壊された時代を経て、2000年代に復元したものだ。

その意味では、現在、ヌルハチの時代の名残りを探すのは難しい。だが、1990年代に始まった日中の共同研究の成果をまとめた研究書『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』(三宅理一著 ランダムハウス講談社 2009)によると、調査当時のヘトゥアラでは城門など遺構の一部が残り、周辺には古い家並みが残っていて、満洲族の農民たちが細々と暮らしていたという。また伝統的な中国の都城とは異なり、高低差を利用した山城の形式を残していることを報告している。

ヌルハチはその後、戦略的・軍事的な理由でジャイフィヤン、サルフ、遼陽、東京城と数年ごとの遷都を敢行し、ついには明の大軍を迎え撃つべく瀋陽に移ることになるのだが、都の形態も山城からスケールある中華的な都城へと変貌していくのである。

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ヘトゥアラ城のすぐそばに赫図阿拉村新村があったが、古い家屋は改修されていた
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↑満洲族の住む村で、漢字と満州語は併記されている
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↑村の食堂で食べた農家料理はおいしかった


参考図書 『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』(三宅理一著 ランダムハウス講談社 2009)『清朝とは何か』(別冊「環」⑯ 藤原書店)



by sanyo-kansatu | 2018-10-12 11:26 | 現代満洲記録プロジェクト


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