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ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2020年 04月 25日

大連にはパリみたいな素敵な広場がある

黄海に突き出た遼東半島の先端に位置する大連(遼寧省)はフォトジェニックな港町だ。19世紀半ばにパリで着手された都市改造の顔である円形広場と放射状に延びたアベニューによる区画整理を極東アジアの地に持ち込んだのは、1898年に大連を租借地としたロシアである。現在、そこは中山広場と呼ばれている。頭上から眺める広場の美しさを堪能したい。(写真/佐藤憲一)
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↑夕暮れ時の中山広場は、息を呑むような絶景だ。この写真は2006年9月に撮影したもの。撮影場所は、現在の中国銀行大連支店(旧横浜正金銀行)の裏手にある高層ビルの屋上階にあったバーの展望台から。

中山広場の周囲に並ぶ壮麗なる歴史的建築物の来歴

ぼくが初めて大連を訪ねたのは1980年代半ばだが、その頃、日本統治時代の町並みはほぼ残っていた。文革などの混乱期を経て、すっかりくたびれ果てた風情ではあったけれど、当時の大連は北欧のすがすがしい港町のようで、中山広場に立つと潮風を肌に感じた。町を歩くことそれ自体が楽しみだったことを思い出す。

中山広場は、ロシアがこの地を租借した19世紀末以降、造成された直径213mの美しい円形広場で、当時の皇帝の名前にちなんで「ニコライエフスカヤ広場」と呼ばれた。

ロシアの植民者たちが大連に持ち込んだのは、19世紀半ばに着手されたパリの都市改造、すなわちエトワール凱旋門から並木を配した街路(アベニュー)を放射状に延ばすという設計手法だった。そして、日露戦争(1904~05) 後、日本に引き継がれ、広場の周囲に10棟の特徴ある西洋建築が建てられた。大連ヤマトホテルや横浜正金銀行、大連市警察署、大連市庁舎などで、そのほとんどが現存している。
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↑1909年、広場で2番目に建てられたレンガ造りのバロック様式のドームが特徴的な旧横浜正金銀行
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↑1908年に建てられた旧大連民政署(のちに警察署)。広場で最初の建築物。ドイツ風のゴシック様式の尖塔が目印 
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↑旧大連市庁舎。1919年竣工の鉄筋コンクリート3階建て。正面入口には鳥居風の意匠が施されている 
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↑旧大連ヤマトホテルは1914年に竣工した近世ルネサンス様式4階建ての威風堂々たる建築

日本統治時代は「大広場」と呼ばれていた。この写真がそうである。いまから100年前の大連は、いかにフォトジェニックな町並みが広がっていたかわかる。このような西洋近代的な空間は、日本国内には存在しなかっただけではない。アジア広しといえども、広場と街路が連結し、都市全体が広がっていくようなスケール感とパースペクティブを持ったドラマチックなまちづくりが実現されたのは大連くらいだろう。
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↑旧大連ヤマトホテルの正面2階の窓から撮ったと思われる大広場。放射状に延びる10本の街路には並木が配されている 

当時の人たちが知ることのできなかった中山広場の美しさもあることに気づいたのは、2000年代になってからだ。それは、上空から眺めた広場の絶景である。この写真は、佐藤憲一氏が2006年に撮影したものだ。ところが、2000年代の後半に大連市内で地下鉄工事が始まり、中山広場の周辺はフェンスで覆われ、隠されてしまった。2015年夏、地下鉄はようやく開通し、中山広場の地下は駅になった。再び中山広場は姿を見せた。
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↑上空から眺める昼間の中山広場も美しい。左上が旧大連ヤマトホテル、上の茶色の建物が旧大連警察署だ

以前撮影した旧横浜正金銀行(現中国銀行大連支店)の後方に建つ高層ビルの展望台は営業していなかったので、中山広場を上空から撮影できる場所をあらたに探すことにした。

地元の友人に調べてもらったところ、広場に近いふたつの高層ホテルが候補に上がった。ひとつがインターコンチネンタルホテル大連だ。場所は中山広場より西側で大連駅にも近い友好広場に面している。同ホテルを訪ね、中山広場が見える客室に通してもらった。広場の向こうに大連港まで延びる人民路や大連湾まで見渡せた。人民路沿いには、日本統治時代にも、1980年代にもなかった無数の高層ビルが並んでいた。

もうひとつが2013年12月に開業したアロフト大連だ。場所は、中山広場から延びる魯迅路に面し、目の前に建つ複数のビルの合間からインターコンチネンタルとは逆向きの広場を見ることができる。

ロシアによるモダンな都市計画の名残を感じさせる中山広場だが、そのあとを継いだ当時の日本の植民者たちは何を考えていたのだろうか。文明国たらんとして、明治以降、西洋から学んだあらゆる思想や技量をすべてこの地に注ぎ込もうと懸命だったに違いない。

もっとも、今日大連は高層建築が林立するメガロポリスに変貌し、中山広場から放射状に延びるパースペクティブも失われてしまった。これは中国の大都市に共通するストーリーにすぎないかもしれないが、かつての大連の可憐な姿を知る人間には、ちょっぴり複雑な感慨が残るのである。

大連の近代と町並み形成の歴史を学べる満鉄旧跡陳列館

大連の美しい町並みをつくったのは、日露戦争後、日本が運営した半官半民の国策会社「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」だった。設立は1906年11月26日。翌07年、東京から大連に本社を移転したが、その100周年という節目にあたる2007年9月、旧満鉄本社屋内にいまも残る旧満鉄総裁室と会議室の復元と開放が実施され、「大連満鉄旧跡陳列館」として見学可能になった。
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↑大連満鉄旧跡陳列館の正面入口。当時の満鉄本社の重厚な建物の西翼の一部を改装したもの

満鉄本社は終戦後、大連市の鉄道局事務所として使われてきた。それまで満鉄の旧総裁室や関連資料は非公開とされていた。陳列館の復元と開放に向けて尽力したのは、日本人観光客の手配を行っている地元の旅行会社である。

満鉄の初代総裁は台湾の民政長官として殖産興業による経済政策が評価されたことで起用された後藤新平だ。後藤が使った総裁室は建物の2階にあり、46㎡ほどの広さ。当時の机やイス、歴代総裁の顔写真が並ぶパネルなどがぽつんと置かれているきりだが、関係者によると、写真資料を参考に元どおりに配置したという。
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↑復元された満鉄総裁室 

もともとこの本社屋は日露戦争前のロシア統治時代に中学校として建てられた建物で、満鉄がのちに修築し、1908年に完成させたものだ。展示室は学校の礼拝堂だったもので、満鉄時代は会議室として使われていたようだ。
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↑展示スペースは2階で、天井の高さや装飾から、かつてロシア正教の礼拝堂だったことがわかる

展示室は天井の高い164㎡の空間で、満鉄史を紹介する写真パネルや当時使われた「満鉄」ロゴ入りの食器や徽章、マンホールなどが置かれている。
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↑当時の満鉄絵はがきなども展示されている。実のところ、この陳列館の展示写真の大半は日本側の資料をもとにしている 

展示のテーマは「満鉄歴史画像展」と題されるもので、全体は4部構成になっている。第1部は「満鉄の創立と任務」。日清戦争、その後の三国干渉によるロシアの租借化、日露戦争を経て満鉄設立に至る歴史をおさらいする。第2部は「満鉄の経営と拡張」。満鉄による鉄路と港湾の構築、ホテルや医療機関、公園や温泉などレジャー施設の開発、満鉄調査部の設立と各種研究機関や図書館、新聞の発行などを解説している。大連と満鉄沿線が名実ともに近代空間へと変貌していくさまがよくわかる。

第3部は「満鉄の略奪と搾取」。ここでは東北地方の大豆や木材などの資源を搾取し、中国人労働者を酷使する満鉄が描かれる。第4部は「満鉄の衰退と末日」。中国人民による抗日闘争によって日本が敗戦し、大連が解放されるというストーリーで終わる。

中国の歴史展示をどうみるか、意見はさまざまだと思うけれど、大連の近代の発展が満鉄によって推進されていったことはよくわかる内容だといえる。もちろん、彼らの立場に立てば、満鉄は「略奪と搾取」をしたのであって、主人公は中国人民であり、自らの近代の物語を紡ごうとするのは当然のことだろう。それでも、中国の地方都市にはそれぞれ固有の歴史があり、大連には独自の成り立ちがあることを、少なくともこの地の知識ある人たちは気づいているように思う。
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↑玄関を入ると、当時を思い起こさせる華麗なロビーがある 

※見学は地元旅行会社などを通じて事前予約が無難。


by sanyo-kansatu | 2020-04-25 15:49 | 21世紀の満洲はいま


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