ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

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2013年 06月 08日

大連の女学校の最後の同窓会が開かれたそうです【昭和のフォルム 大連◆校舎②】

2013年6月1日の朝日新聞に「大連弥生高女、最後の同窓会」という記事が載っていました。
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「中国東北部の大連で1919(大正8)年に創立され、戦後すぐに閉鎖された大連弥生高等女学校。日本に引き揚げてからも60年以上続いていた同窓会が解散することになった。3千人いた会員は約10分の1に減り、平均年齢は88歳。青春を分かち合った女学生たちの最後の集いが4日、都内で開かれる」

実は、大連弥生高等女学校の校舎は、もう大連には残っていません。それでも、大連世界旅行社の桶本悟さんの調査によると、以下の3つの女学校の校舎はまだ現存しています。

冒頭の写真が、昭和高等女学校(1923年開校、日本時代は桔梗町)です。現在は、雑居ビルとして使われていますが、実に装飾的な建物です。
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校舎のファサードはにぎやかで、シルエットもかわいらしいですし、細部のデザインも遊び心に富んでいます。当時流行った丸窓をはじめ、機能よりもリズム感を重視したと思われる窓の並びが人の目を楽しませてくれます。
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当時の写真も残っています。
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羽衣高等女学校(1927年開校、日本時代は伏見町)は現在、大連理工大学の一部として使われています。
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当時の写真と比べると、玄関部分など、改築が施されているようです。
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大同女子技芸学院(日本時代は紀伊町)は旧満鉄本社の向かいにありました。ただし、校舎の建物はかなり老朽化しており、現在は倉庫として使用されていますが、再開発の対象となるのは時間の問題と思われます。
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この建物は、当時満蒙文化会館としても使われていたようです。
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ところで、前述の朝日の記事によると、大連弥生高等女学校OGの同窓会は、6月4日東京の神宮外苑にある明治記念館で開かれたそうです。

記事の中では、学校が閉鎖された昭和21年、最後の卒業生となったひとりのOGは、日中国交回復後、2度ほど大連を訪ねたものの、高層ビルが立ち並ぶ光景を見ながら「私の来るところじゃないのかな」と思い、当時の大連の記憶は心にしまうことにしたそうです。

現在の大連の姿を、郷愁を通して見ようとすれば、そういう心情になるもの無理はないと思います。

大連で“昭和”のフォルムを探しに歩くなんてことは、あとの時代に生まれてきた郷愁とは無縁の世代だからこそ、楽しめるものなのかもしれません。前回、「これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう」と書きましたが、当時を生きた人たちの心中は、そんなに無邪気な話ばかりじゃなかったろうとあらためて思った次第です。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-08 15:48 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 06日

これが母校だったら、懐かしさもひとしおだろう【昭和のフォルム 大連◆校舎①】

“昭和”のフォルムの宝庫といえる中国東北三省。なかでも品のいい建物がいくつも残っているのが大連です。
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ぼくが大連を初めて訪ねたのは1986年の夏です。当時の大連の街並みは、新中国の建国後に明け暮れた政治闘争の時代を経てとてつもなく疲弊し、かつて豊かだったはずの色彩も消え、埃を被っていましたが、海風の肌に優しい港町だと思ったものです。ここだけには、他の中国の都市にはない清涼感がありました。

その後、中国経済の発展とともに大連にも高層ビルが林立し、どこにでもあるような、落ち着きのない街並みに変わってしまうのですが、2010年代のいまでも街を歩いてみると、そこかしこに“昭和”のフォルムが見つかります。

特に当時の旧制中学の校舎は、モダンでスタイリッシュです。

大連を代表する旧制中学が大連第一中学校。1918年開校で、日本時代は博文町にありました。現在、大連理工大学の校舎の一部として使われています。
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近くで見ると、雑に塗り分けられたペイントによって年代の重みが消されてしまっているのが興ざめという気もしますが、シルエットは悪くありません。
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校舎の裏を覗いてみたら、蔦がレンガの壁を覆い、年代を感じさせます。むしろ手つかずにされていた空間のほうがグッとくるものです。
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大連市重要保護建築に指定されています。
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周辺を高層ビルに取り囲まれているのが現在の姿です。
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日本時代の写真はこれです。
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大連第二中学校は1924年開校。日本時代は水仙町にありました。現在の建物は1996年に改築され、当時の面影はないので残念です。現在は春天大厦という商業ビルです。
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以上は官立学校ですが、公立の大連市立大連中学校(1934年開校、日本時代は下藤町)は、外観のデザインが斬新です。現在、大連軍人倶楽部として使われています。
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建物の中にこっそり入ってみると、いかにも“昭和”の雰囲気。うっとりしてしまいます。当時の写真も、断然イカしています。
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20世紀後半の日本に建てられた我らの時代の校舎はいかにも画一的。新設校の校舎なんてもういけません。それに比べ、この時代に建てられた校舎には味わい深さがある。これが自分の母校だったら、懐かしさもひとしおだろうと思ってしまいます。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-06 13:29 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 06日

「新鴨緑江大橋が半分くらいできた」と地元の人に聞きました

鳴り物入りで建設の始まった新鴨緑江大橋。中国遼寧省の丹東新区と北朝鮮の新義州をつなぐ全長約2kmの斜張橋です。
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昨日(2013.6.5)、丹東に住む友人から「新鴨緑江大橋が半分くらいできました」と現地で撮影された写真付きのメールが届きました。約1年前の2012年7月に現地を訪ねたときにはほとんど存在していなかった斜張橋を支える2つの塔と橋桁の一部が出来上がりつつあります。

中朝経済を結ぶ大動脈となることを期待して2010年2月25日、両国の間で建設協定が結ばれました。工事現場の掲示板によると、建設投資22億元、約3年の工期で完成される計画で工事は2011年5月に始まっています。
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以下、この2年間の工事の進捗を写真で見てみましょう。

2011年7月1日
橋桁をつくるための土台が半分くらい出来ています。
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橋のたもとには工事を眺める地元の人たちがいました。
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2012年7月4日
斜張橋を支える塔の建設が始まったようでした。
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2013年6月5日
塔はだいぶ出来上がりましたが、橋桁はまだ一部しか出来ていません。
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工事現場に掲示された新鴨緑江大橋の完成図のイラストを見ると、スマートなシルエットが魅力です。
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地図によると、大連や瀋陽方面からの高速道路と接続される予定です。
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写真を送ってくれた友人によると、この新鴨緑江大橋は、表向き両岸から工事を進めているとはいえ、投資も建設もその大半は中国にお任せ。そのくせ北朝鮮側は、開通後には通行料を取ると言い出して、そりゃないだろと、中朝間でもめているとか。いかにも両国の関係を象徴しているようで、面白いですね。

もっとも、中朝経済の発展格差の大きさからすれば、中国側は必ずしも工事を急ぐ必要を感じないのかもしれません。また、中国の地方経済が抱える不良債権問題が工期に影響してくる可能性も今後はあるかもしれません。

いずれにせよ、橋が完成したあかつきには、吉林省琿春の圏河橋(中朝第2の国境、圏河・元汀里で見たもの【中朝国境シリーズ その1】)と同じように、中国側からの交通量が一方的に増えることが予想されます。経済的には常に受け身に回らざるを得ない北朝鮮はいろんな手を使って交通量を調整することも考えられます。新鴨緑江大橋開通というインパクトが、この地域にどんな変化をもたらすことになるのか。それが見えてくるのはもうしばらく先のことですが、今後も注視していきたいと思います。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-06 08:51 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 06月 03日

丹東で“昭和”のフォルムを探して

中国東北三省を訪ねると、つい“昭和”のフォルムを探したくなります。
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昭和の時代に造られた建築物のやわらかいフォルムが単純に好きなのです。日本の地方都市にもあの時代の建物がときどき残っていて、それを見つけると、つい写真に撮っておきたくなる。それと基本同じです。

そういう“昭和”のフォルムが、20世紀前半に日本の大陸進出の結果、とりわけ中国東北三省に多く残されているという事実は、戦後の高度経済成長期に生まれた自分のような日本人にとって、奇妙な感覚があります。日本では幼少期までわずかに街に残っていた好ましいフォルムが一斉に消えてなくなっていく過程を目の当たりにしながら成長してきたところ、大人になって中国を訪ねてみたら、それがたくさん残っていることを知ったからです。それは小躍りしたくなるのを抑えられないような心持でした。ちょうど1980年代の半ば頃のことです。

しかし、いまや中国も高度経済成長のまっただ中にあります。かつての日本と同じように、あの魅力的なフォルムが次々に壊されていく様を、ぼくもこの20数年間見つめてきました。結局、同じことが起こるのだなと残念に思いながら。

だから、せめて中国で自分の好きなフォルムを見つけたら、写真に押さえておこう。これは一種の反射神経みたいなものです。

以下は2012年7月に中国遼寧省丹東を訪ねたとき、朝早く起きて駅前の宿泊ホテルの近所を1時間ばかり散策したときに撮ったものです。撮影は、ぼくの相棒、佐藤憲一カメラマンです。
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最初は、かつて安東大和小学校だった建物です。現在は遼東賓館というホテルです。丹東駅の北側の九緯路にあります。戦前の学校の校舎というのは、現代のものに比べて風格がありますね。教室だった部屋が客室に使われていると思うと、面白いです。
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昔の大和小学校の絵葉書も残っています。
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遼東賓館の前の九緯路は、街路樹が見事に育ち、涼しげです。吉林省延辺朝鮮族自治州の龍井もそうでしたが、東北三省の省都の中心部にはもうほとんどなくなってしまった街路樹が、地方都市に行くと、こうして今も残っていて、見るとホッとします。
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次は、安東郵便局で、現在は丹東郵政局と呼ばれています。七経街(当時は大和橋通)にあります。
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がっしりとした堅牢な建築で、絵葉書が撮られた頃に比べると、かなり増築しているようです。瀋陽駅前にも同じような当時の郵便局が残っています。
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冒頭の写真は、安東高等女学校です。現在は、丹東第六中学校で、錦山大街にあります。建築スタイルは、大連に残っている同時代の学校にもよく似ています。もっといえば、東京の都心に残っている昭和初期に建てられた小学校(廃坑寸前の学校も多いようです)のいくつかとも似ています。同時代の建築であるため、当然のことなのでしょうけれど。
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丹東の日本時代の建築については、大連世界旅行社の桶本悟さんが実地調査を続けておられ、いつもぼくは情報提供してもらっています。同社のHPにも、詳しく紹介されているので、ご参照ください。

大連世界旅行社
http://www.t-railway.com/

また、地元丹東の人らしき方が日本時代の絵葉書を集めてネットに公開していました。歴史といえば、「政治」と結びつけて語ることしかできない輩も中国には多いですが、理性的かつ素朴な好奇心から、学校で教えてくれた「歴史」とは異なる地元の昔の姿に関心を持つ人たちもいるのだろうと思います。

丹东人必顶:老安东图片
http://dx1.gogoqq.com/aspx/138705522/journalcontent/1319356440.aspx
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by sanyo-kansatu | 2013-06-03 20:10 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 03日

ターミナル構内に展示された駅舎の変遷の記憶(中国瀋丹線・丹東駅)

2009年に新改装された丹東駅(中国遼寧省瀋丹線)の広いターミナル構内に、約100年の歴史を持つ同駅の駅舎の写真が時系列で展示されています。丹東駅といえば、2010年5月初旬、いまは亡き北朝鮮の金成日総書記が特別列車で訪中した際、この駅でしばらく停車したことが、テレビで報道されたことがあります。
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1910年の丹東駅(当時は安東駅)

丹東駅が最初に建設されたのは、日露戦争中のことです。当時は安東と呼ばれた鴨緑江下流域の小鎮と瀋陽(奉天)を結ぶ軍用鉄道(のちの安奉線)は1904年12月3日に完成。翌05年正式に清国から日本の経営が認められています。
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1911年の駅建設風景

その後、1909年から11年にかけて安奉線は標準軌に改軌されます。

1911年10月、朝鮮総督府鉄道・京義線と鴨緑江大橋(現断橋)で接続され、釜山まで鉄道がつながることで、安東の国際駅としての重要性が高まります。
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1916年安東駅停車場
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1928年欧風様式の安東駅
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1930年代の安東駅
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1930年代と思われる安東駅プラットホーム(着物姿の女性客もいます)
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1932年安東駅夜景
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1941年安東駅
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1941年安東駅プラットホーム

1943年4月には、鴨緑江第二橋梁(現中朝友誼橋)が完成。さらなる発展が期待されたものの、満洲国崩壊でその後、時間が止まってしまいます。

1965年に安東市が丹東市に改名され、駅名も丹東駅に変更されています。改革開放を迎え、1989年にようやく駅舎の建て替えが行なわれます。そのときから、丹東駅は味気のない現代建築に変わってしまいました。
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2008年3月にはさらに大規模な改築が行われ、一時臨時駅舎で仮営業。
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2009年1月17日、現在の新駅舎の使用が始まります。
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新駅舎は国際駅にふさわしく空港のような巨大な構内と壮大なプラットホームが自慢です。税関などの施設も整っています。夕方6時発の北京行き夜行寝台列車は瀋陽経由。かつての安奉線(現瀋丹線)を通り、早朝北京に着くので、何度か利用したことがあります。
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あとは北朝鮮との旅客の往来を待つばかりなのでしょうが、丹東駅が国際駅としてのかつての輝きを取り戻すのはいつのことになるのでしょうか。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-03 13:33 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 06月 02日

中朝陸の国境では兵士も農民も目と鼻の先(遼寧省丹東市)

中国遼寧省丹東市から鴨緑江を下流に向かって車で30分ほどの場所に、川を隔てていない陸の国境があります。
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地図を見るとわかるように、鴨緑江の下流域には中州がたくさんあるのですが、そのうち鴨緑江の本流から見て北側の中国領に接したいくつかの中州がなぜか北朝鮮領であるため、陸の国境線が敷かれることになるのです。
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国境沿いには、丹東市街から東港国際港に至る道路が延びていますが、北朝鮮が核実験を実施した2006年秋以降、中国政府は一斉に鉄条網を建設しました。地元の中国人によると、それまでは両国の境はなく、のどかな田園風景そのもので、人民同士ごく自然に往来しながら暮らしていたそうです。

ところが、いまでは道路の南側に広がる北朝鮮の田園風景は鉄条網越しに眺めることになります。

地元の知り合いの運転する車で、この国境沿いのコースを何度かドライブしたことがあります。道路のほんのすぐ脇に鉄条網はありますが、その目と鼻の先は北朝鮮の農地です。
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しばらく走ると、北朝鮮の民家もすぐそばに見えます。田植えをする農民たちもいます。
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木陰に北朝鮮の国境兵士と思われる軍服姿の若い男たちもいました。彼らはべつにここで何をするわけでもなく、無聊をかこつという姿にしか見えません。
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ここにも北朝鮮側にモノを投げたり、交換したりするな。また撮影は禁止だと書かれた看板があります。そのせいか、たまに軍の車がこの道を往来していて、そのつど車の走るスピードを少し速めたり、カメラマンは望遠レンズを車の窓の下に隠したりしなければなりません。
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2011年6月、北朝鮮政府はこの陸の国境沿いにある自国領の黄金坪と威化島という中州を「経済地帯」に指定。中朝両国はこの地を共同開発し、工業団地を建設するための着工式を行ったことが、日本のメディアでも盛んに報道されたことがあります。確か、わざわざテレビ局までこの地の映像を流していました。
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ところが、その後いつになっても、建設は始まりません。現在もなお、のどかな田園風景には不似合いなほど仰々しい黄金坪の入り口の扉は閉じられたままです。
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着工式が行われた広場も、「中朝睦邻友好共促经济繁荣」と書かれた大看板が置かれただけで、人の姿はありません。このところの中朝関係の悪化もあるでしょうが、そもそもインフラ整備から投資まで、すべてをオンブにダッコの北朝鮮に対して、さすがの中国側もうかつに手は出せないという感じではないでしょうか。
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黄金坪の向かいの中国側には、最新式の体育館が建設されていました。こちらは「丹東新区」と呼ばれる開発区で、いずれ丹東の都市機能をこちらに移転すべく、現在大規模な開発が進んでいます。なんとも皮肉な光景といえます。
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※掲載した写真は、2008年5月~12年7月にかけて、ほぼ毎年この地を訪れて定点観測した中から選んでいます。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-02 16:01 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 06月 02日

万里の長城の東端とされる虎山長城から見渡す北朝鮮の畑

中国遼寧省丹東市から鴨緑江の上流に向かって約20㎞の場所に、万里の長城の最東端とされる虎山長城があります。
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中国側の主張によると、明の治世の1469年、後金の侵入を防ぐために建造されたものだそうです。1980年代後半、この地で長城の遺跡が発見されたということで、それまで河北省の山海関までとされた長城が東に延長されることになりました。ただし、大連市北郊外の大黒山に残る遺跡と同様、前漢の時代に高句麗が築いた遺構との説もあります。
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1992年以降、北京郊外にある本家の万里の長城をまねて、散策しやすいよう新たに築城されてしまった結果、歴史の真相は塗り消されてしまいました。いまでは、中国のどこにでもある石畳のテーマパークといった感じです。相変わらず、やることが雑ですね。
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むしろ、ここを訪ねて面白いのは、長城から南側に抜け、北朝鮮との国境となる鴨緑江沿いの「一歩跨」という名の展望台でしょうか。
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確かに、そこからすぐ目の前のわずか数メートルの小川を隔てた先は北朝鮮の畑で、農民の姿もよく見えるからです。ここでは、川の手前ではなく、向こう岸に鉄条網が敷かれています。目の前の北朝鮮領は鴨緑江の中州にあるためです。鴨緑江の本流は、畑の向こうを流れているのです。
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これは、中朝国境でよく見かける看板ですが、北朝鮮側にモノを投げたり、物品を交換したりしてはならない、と書かれています。
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さらに、ここにもお約束のように、遊覧ボートの乗り場があります。掲示板の地図を見ると、ここから中朝国境となる狭い小川を通って、長城の終点である長城歴史博物館の場所まで下るようです。実際、その間北朝鮮の畑以外、見るべきものはほとんどないため、乗客の姿は見られません。
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ところで、虎山長城付近は日露戦争時、日本帝国陸軍第一軍が渡河し、ロシア軍と交戦した場所でもあります。1904年4月20日前後のことです。
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占領後に建てられた碑はいまも残っています。丹東市政府による日露戦争の戦跡の碑もあります。大正時代に日本人が造った碑も残っています。
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この地に最初に城壁を築いたのが誰であれ、高句麗の時代から20世紀に至るまで、鴨緑江を渡河するのに、この地が適した場所であったことがうかがえます。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-02 14:19 | ボーダーツーリズム(国境観光) | Comments(0)
2013年 06月 02日

廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮(遼寧省丹東市・溥儀東行宮)

中国遼寧省丹東市の郊外に、満洲国皇帝溥儀の離宮が今も残っています。
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離宮の名は「溥儀東行宮」。記録によると、1943年5月上旬に溥儀が巡狩(古代中国で、天子が諸国を巡視したこと)でこの地に訪れた際、宿泊した小型宮殿様式の別荘です。
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正面玄関付近は鬱蒼とした松に覆われ、時の経過を感じさせます。玄関前の2本の柱には、見事な龍がとぐろを巻いています。龍の爪の数は、瀋陽の故宮と同様、きっちり5本あります。
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いまでは老朽化にまかせるままの無残な姿をさらしていますが、かつては精緻な彫りと色鮮やかな図柄が映えたであろう正面玄関の屋根飾りや、天井の青地に描かれた龍と鳳凰の絵を見ていると、ちょっともの悲しい気分にさせられます。
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ざっと外観を見て回りましょう。
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まず正面に向かって左手から。こちらは平屋建てで、厨房や使用人らのスペースのようです。退色してしまっていますが、出入り口脇の壁に施された中国美人図が印象的です。
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右手は、基本2階建てですが、正面後方に一部4階建ての棟があります。どの窓にも、いまどき珍しい凝った窓枠がはめられていますが、ガラスは壊れたままです。壁の鳳凰も剥げ落ちています。
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右手から裏に回ってみましょう。
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背後からの眺めは廃墟然とした気配がさらに濃厚です。4階建ての棟のひとつの窓はすっかり取り外されたままになっていますし、かつて食料や燃料をここから納入したであろう厨房の棟の地下室の扉も木の枠でふさがれています。
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壊れた窓から中をちょっと覗いてみました。調度品ひとつ残っていない部屋でした。浴室もありましたが、小さいサイズなので、皇帝が使ったものではなさそうです。
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玄関脇に「定礎 皇紀二六百年八月」と書かれた石版が残されています。溥儀東行宮は、1940年(昭和15年)8月に建設が始まり、43年に完成しています。
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皇紀2600年と呼ばれたその年、日本国内ではさまざまな記念行事が行われ、満洲国首都・新京特別市の帝宮内に建国神廟が創建されています。同じ年の6月、溥儀は慶賀のため日本を訪れています。

前述したように、溥儀が東行宮を訪ねたのは、1943年のことです。すでにその頃、太平洋戦線における日本軍の形勢は悪化していただけに、彼がどんな心境でこの離宮に滞在していたかを想像すると、気が滅入ってきます。
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これが廃墟として今も残るラストエンペラーの離宮の現在の姿です。そこには、かつての栄華を想起させる断片が無造作に放置されたままいくつも残されていて、いくぶんの痛ましさをおぼえますが、あらゆる記憶は時代とともに忘れ去られてしまうのだというある種さばさばした条理に思い至ります。

現在、この廃墟のいわれを示すものは、丹東市政府が2005年になってようやく市級重要文物保護単位として認めたことを伝える粗末な石碑だけです。
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この建物の現在の所有者は地元の空軍だそうです。以前一度、娯楽施設に改装してひと儲けしようという話もあったそうですが、中途半端に建物の色を塗り替えてみただけで、投げ出してしまっています。この建物の持つ歴史的な由来の扱いを、現在の共産党政権の歴史観の枠でしか計れない地方軍人がうまく処理して再活用するには難しすぎたのか、そのままに至っているようです。

いまでは、近所の保育園の子供たちとその世話をしている老人たちの憩いの場となっています。「ラストエンペラーの離宮の廃墟」とだけ聞けば、さぞ溥儀の怨念が残っていて、幽霊屋敷にでもなっているのではないか、なんて思う人もいるかもしれませんが、そういう話はまったくないようです。
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場所は、丹東市内から最近リニューアルして立派になった丹東浪頭空港の少し西側の高台の上にあります。
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by sanyo-kansatu | 2013-06-02 11:52 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 05月 31日

中朝国境のまち、丹東は今ハマグリBBQの季節まっただ中!

中朝両国をつなぐ最も重要な国境ゲートである遼寧省の丹東。最近、ときどき日本のメディアでも登場するようになったのですが、場所柄ゆえとはいえ、中朝間で緊張が高まるような事件(?)が起きたとき、テレビカメラを抱えた日本の報道陣が押しかけて、さもたいそうなことが起きているがごとく、報道番組で紹介されることが多いまちです。
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まあそれは北朝鮮がこれだけ騒動を引き起こしている以上、ある程度仕方がないと思うのですが、ふだんはわりと静かで過ごしやすいまちです。

かつて安東と呼ばれたこのまちでは、5月が終わろうとしている初夏のこの時期、鴨緑江下流で採れたハマグリほか貝類の網焼きBBQ屋台が街中あちこちに出没します。近年、中国の大都市では屋台の営業が軒並み禁じられて姿を消すなか、それは解放感あふれるほのぼのとした風物詩といえるでしょう。

ぼくもこの季節、丹東に何度か行ったことがあるので、BBQ屋台は経験済みです。昔韓国によくあったポジャンマチャ(韓国風屋台)の感じに似ています。
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丹東市内には、海鮮BBQの店がいくつもあります。なかでも「金龍涮烤大全」という店は、丹東に行くと必ず訪ねる店のひとつです。丹東駅前と鴨緑江沿いにあります。
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店に入ると、まず水槽の中の各種貝類や魚介、肉などを選びます。屋台と違って、現代風の網焼きスタイルですが、炭火を使っています。地ビールの鴨緑江ビールは、北京や上海あたりでよく飲まれる燕京ビールや青島ビール、サントリービールと違って、そこそこコクがあるので悪くありません。

ところで、BBQにされるハマグリやアサリはいったいどこで採れるのでしょうか。地元の知り合いに聞くと、「鴨緑江の下流のほうですよ」とのこと。ぼくはその知り合いの運転する車で一度、鴨緑江の下流方面を訪ねたことがあります。2011年5月のことでした。
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ちょうど昼下がりの干潮の時刻らしく、中朝国境を隔てる鴨緑江下流域一帯から水の流れが消え、国境を歩いて渡れるんじゃないかというほど泥地で満たされるという不思議な光景が出現しました。

そこで車を停め、河沿いに近付づくと、潮干狩りに興じる地元の女性の姿が見えます。ジャージ姿で泥だらけになって、けっこう楽しそうです。
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カメラの望遠を使ってはるか対岸の北朝鮮側に目を凝らすと、案の定、こちらでも潮干狩りをしている姿が見えました。それにしても、あえて“潮干狩り”だなんていってみたものの、鴨緑江の場合はちょっとスケールが大きすぎますね。
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しばらく車で進むと、ハマグリやアサリをその場で買いつけると思われる業者のバイク軍団に出会いました。みなさん、バイクの後ろに発砲スチロールの箱を積んでいます。自転車で乗り付けるおばさんもいました。ここで水揚げされたハマグリたちが、丹東市内のBBQ店やら食堂やらで食べられることになるのでしょう。
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中国の国土は果てしなく広いですが、主な大河の最下流は激しく汚染物質がたまっていそうで、仮に干潟があってもそこで採れる貝類を口にする勇気はありません。鴨緑江には、これまで見てきたとおり、一部北朝鮮側の旧式の工場があるくらいです。そうしたことから、丹東はおそらく中国最大の貝類の産地といえるでしょう。上海のそこそこ有名なイタリアンレストランチェーンでも、ボンゴレに使うアサリは丹東産だと以前、取材先で聞いたことがあります。

このアサリが中国産か北朝鮮産かをめぐって、日本のスーパー業界でひと騒動起きたことがありました。北朝鮮への経済制裁に抵触するからだというのですが、この地を訪ねてみれば、中朝どっちで“潮干狩り”したところで、それにどれほどの意味があるのか。はっきり言ってしまえば、その大半は北朝鮮の鴨緑江沿いの貧しい村人や漁民たちが“潮干狩り”して、中国側に売りつけたであろうことは間違いないでしょう。

【追記】
この文章を書いたのは5月下旬のことですが、それ以後、鴨緑江の水質が中国側で問題化され始めました。

朝日新聞2013年7月11日朝刊に以下の記事があります。

「北朝鮮の核実験
中国首相が不快感

韓国の朴槿恵大統領は10日、6月の訪中時の会談で、中国の李克強首相が『北朝鮮の核実験後、(中朝国境の)鴨緑江の水質検査結果が悪くなった』と述べ、北朝鮮に不快感を示していたことを明らかにした。李氏が放射能物質の検出を示唆していた可能性もある。朴氏によると、李氏や習近平国家主席はともに、北朝鮮について『核は絶対だめだ』と強い口調で語っていたという」

地元中国遼寧省や吉林省の住人も北朝鮮の核実験で水質を懸念していると、今回もまた韓国の瀋陽領事が中国に代わってコメントしている記事も配信されているようです。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2013/07/14/0300000000AJP20130714000300882.HTML(聯合ニュ―ス)

これじゃ丹東のハマグリBQQも安心して口にできないということでしょうか。やれやれ、大気汚染に水質汚濁に加え、核実験による放射能汚染とは、中国という国の安心・安全はどこにあるんでしょうか?(2013.7.14)
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by sanyo-kansatu | 2013-05-31 20:41 | 日本人が知らない21世紀の満洲 | Comments(0)
2013年 05月 30日

中国の海外不動産投資ブームをいかにビジネスチャンスとするべきか(COTTM2013報告 その5)

COTTM2013で開催されたフォーラムの最後のテーマは、「中国の旅行業界は海外不動産投資ブームをいかにビジネスチャンスとするか」というものでした。
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こういうストレートなテーマをビジネスフォーラムで討議するというのは、日本の旅行業界ではあまり考えられない気がします。個人投資家を集めた海外不動産投資セミナーを企画するのは異業種の領域だと信じられているからでしょう。日本の旅行業界人の多くは、消費者とともに一途に “旅のロマン”を追い求めることが業界としての使命なのだという自画像を好んでいるように見えます。

これは別に皮肉ではなく、実は中国の旅行業界の人たちも同じなのです。今回B2Bの商談会であるCOTTMの展示会場で見かけた中国の旅行業界人の顔だちを見ていると、これは直感的な言い方にすぎませんが、日本の旅行業界人と同じ人種だと思ったのです。そうそう、こういう顔だちの人、ファッションセンスの人、日本にもいるいる。たとえていえば、育ちがよくて、子供のころから両親に連れられ海外に出かける機会に恵まれ、留学もしたから英語もそこそこじゃべれるのだけど、バリバリビジネスをやる気もないので、つい知り合いのつてで海外の観光局で働くことになった……というようなタイプとでもいいましょうか。中国の対外開放の歴史は30年ですから、日本に比べると、その種のタイプが業界に集まる傾向はより強いといえるのかもしれません。ある意味、“中国人”離れしたタイプ、香港や東南アジアの華僑の資産家の子弟に近い感じといえばおわかりになるかもしれません。

もっとも、その種のタイプが多い業界といえども、ここは中国。“旅のロマン”だけを追いかけても生き延びてはいけない世界です。しかも、これまで述べてきたとおり、「新型旅客」の登場で、従来型のビジネスモデルでは立ち行かなくなりつつある。そんなこの国の業界人にとって“福音”となるのが、中国人の海外不動産投資家のニーズに業界としていかに貢献できるか、という話だというわけです。
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登壇したのは、司会進行のProf. Dr. Wolfgang Georg Arlt、CBN China Business Network(中国商務集団)総裁のDr.Adam Wu,Coo、そしてスペインのカナリア諸島で一戸建てヴィラなどの不動産販売を手がけるM&S Fred Olsen SAのCamilla von Guggenbergさんです。

CBN China Business Network(中国商務集団)
http://www.chinabn.org/

M&S Fred Olsen SA
http://fis.com/fis/companies/details.asp?l=e&filterby=companies&=&country_id=&page=1&company_id=11802

まず、おなじみProf. Dr. Wolfgang Georg Arlt(以下、教授)による趣旨説明から始まりました。なぜ中国の旅行業界は海外不動産投資ビジネスに関心を持つべきなのか、という話です。

教授はこんな話から始めます。先月(2012年3月)、ヨーロッパの主要な都市のいくつかの商工会議所で中国人観光客をテーマとしたワークショップが開かれたそうです。そこでは、いかに中国人観光客を呼び込み、ショッピングをしてもらうか。さらには、中国の投資家にどのようにプロモーションしていくべきか、といった内容が話し合われたといいます。それだけヨーロッパ諸国では、中国の観光客の来訪を歓待しているというメッセージが告げられます。

この話を聞きながら、ぼくは2008~10年頃の日本を思い出していました。その頃、日本ではいまのヨーロッパのような機運が盛り上がっていたからです。この約4年のタイムラグは、ヨーロッパ諸国が中国人団体観光ビザ(ADSビザ)の解禁を日本(2000年)に遅れること、2004年に実施したことを思うと、なるほどという感じもします。

次に、教授は中国の富裕層(high net worth individuals)の海外志向性について触れます。すなはち、1000万人民元以上の個人資産を持つ中国人富裕層の44%は、移住を考えていること。さらに85%が子弟の海外留学を計画している、と指摘します。
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そして、中国経済の成長は近年鈍化しているものの、海外旅行は依然拡大基調にあることが説明されます。なんだかバブルが崩壊した1990年代以降も、海外旅行市場が拡大し続けた日本と似ていますね。
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いよいよ本題です。中国の旅行業界は、なぜ海外不動産投資ブームをビジネスチャンスとみなすべきなのか。その理由は、ひとことでいえば、業界として顧客のニーズに応えるべきだから、というものです。わかりやすいですね。

教授は説明を続けます。

中国の個人投資家にとって、海外旅行は休暇や買い物を楽しむだけでなく、投資の機会と結びつけて考えられているのがふつうである。彼らは海外の高級な宿泊施設やサービスを体験するだけでなく、投資の機会を狙っている。なぜなら、中国の富裕層は、欧米と違ってすべて自らが起業した第一世代。海外の不動産投資情報についても、代理人に委託するよりも、自分の目で見極め考えるタイプが多い。それが中国の企業家の特性である。

彼らのサポートをするのが旅行業界の役割で、これはビジネスの好機といえる。中国の投資会社も、顧客のために海外の正確な投資情報を入手したいので、海外の事情に通じた旅行業界と協力したいと考えている。近年、中国でも投資家を集めた会員制クラブがいくつもできており、今後彼らを世界に案内する機会は増えるだろう。

実をいえば、中国の不動産投資ブームはいまに始まったものではありません。一般に「旅游地产(Tourism real estate)」と呼ばれ、1990年代にはすでに海南島や広東省などでリゾートホテル開発として進められていました。その動きが進化していくのが2000年代以降です。単なるホテルではなく、一戸建ての別荘やゴルフ場などがまずは国内各地に開発され、2007年のリーマンショック以降、海外に触手が伸びていったのです。

ですから、その動きに旅行業界も貢献するべくビジネスチャンスとしようという話は、ある意味、ごく自然な流れといえるのです。

さて、教授の講釈が終わると、座談会に移りました。登壇者のひとり、Camilla von Guggenbergさんは、欧米の観光客でにぎわうスペインのカナリア諸島でヴィラの投資を呼びかけるため、中国に来たといいます。一方、CBN China Business Network(中国商務集団)総裁のDr.Adam Wu,Cooは、いかにも1980年代早期の海外留学組といった感じの人物で、中国の旅行関係者に向かって投資ビジネスに関心を持つよう語りかけます。

これは日本でもそうですが、中国の大手旅行会社などは、これまで自ら投資して、国内に多数のホテル物件を開発し、運営してきました。しかし、ここで話題となっているのは、自らオーナーとなることではなく、富裕層の海外投資のサポート役となることが、新しいビジネスの可能性なのだということです。薄利多売で大量送客するだけの団体ツアービジネスでは、今後生き延びることは難しいため、富裕層を対象にビジネスを再構築しようという話ですから、それはそれで理にかなっているとは思います。さて、観衆の反応はどうだったでしょうか。

質疑応答の時間はたっぷり用意されていました。この種のイベントでは、中国の人たちは旺盛な好奇心と物怖じしない性格で、どんどん質問が出てくるというのが一般的な光景ですが、さすがに今回ばかりは挙手する人がなかなか出てきません。

そんな息苦しい雰囲気を気にしてか、ある女性が思い立って挙手しました。質問の内容は、Camilla von Guggenbergさんが紹介したヴィラ物件の広さと価格を問うものでした。いきなりカナリア諸島のヴィラに投資しませんか、と言われても、「それっておいくらくらいするものですか?」と聞くのがせいぜいというものでしょう。
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その質疑応答が無事すんで、その場もなんとなくホッとしていたところに、突然後ろの席のほうからひとりの男性が立ち上がりました。ちょっと聞き取りにくい英語でしたが、要するに、「カナリア諸島のヴィラにどれだけの投資価値があるのか。もっと詳しく説明しろ」という、かなり詰問調の質問でした。

おそらく彼は本気でその質問をしているのではなかったと思います。むしろ、そんな誰も知らない海の向こうの投資話をここですることに、どんな意味があるのか。もっと現実的で、業界のビジネスに直結する話をするべきではないか、というワークショップの主催者に対する異議申し立てのように感じました。その気持ち、わかりますよね。なぜなら、観衆としてここにいるのは、投資家の人たちではないからです。

こうして最後はちょっと気まずい雰囲気のまま、「詳しい物件の話は、あとで個人的にご質問ください」という教授のことばで締めくくられたという次第ですが、いかにもいまどきの中国らしい光景だと思いました。

中国で不動産投資を目的に海外に出かけようと考えている個人投資家はずいぶんいると考えられます。実際、彼らは日本にもやって来ています。

最近では、中国の投資家もただ海外の物件を購入し、資産価値を担保したうえで、家賃収入で儲けようという従来通りのタイプだけではなく、中国にはまだないさまざまな優良施設の運営ノウハウを取り入れ、自国で投資したいというニーズもあるようです。

彼らの存在をどう扱うかという話は、実のところ、我々にとっても新しいインバウンドビジネスの可能性のひとつとして、決して遠い話とは言えないのです。
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by sanyo-kansatu | 2013-05-30 11:44 | “参与観察”日誌 | Comments(0)